プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス
前234生、前183没。前205,194執政官、前199監察官。
第二次ポエニ戦争でハンニバルを破った英雄。アフリカ(カルタゴ)を征した者として「アフリカヌス」の称号を得た。養孫の小スキピオと区別して大スキピオ、大アフリカヌスとも呼ばれる。
戦後、政敵に無実の罪について弾劾され失脚、ローマを離れリテルヌムの地で死去。ローマに葬られることを拒んだ。
神的な魅力を持ち、彼の特別さを示す類の逸話は多い。
プブリウス・コルネリウス・スキピオ
アフリカヌスの長男。
病弱で子がなく、母方の従兄弟を養子とした。軍務に就くことができず、神官職のみを得たが、学識の深さを知られる。
ルキウス・コルネリウス・スキピオ
前175年法務官。
アフリカヌスの次男。
子を残さず、不行跡で知られる。父・叔父の下で従軍したシリア戦争では敵の捕虜となるが、アフリカヌスの子であることを知ったアンティオコス王により解放された。
コルネリア・マイヨル
アフリカヌスの長女。
スキピオ・ナシカ・コルクルムの妻、セラピオの母。同じ氏族の女性はみな同じ名であるため、便宜上マイヨル(大)、ミノル(小)を付して区別する。
コルネリア・ミノル
前190頃生、前100頃没。
アフリカヌスの次女。
センプロニウス・グラックスの妻、グラックス兄弟とセンプロニアの母。
夫との仲睦まじさを知られ、12人の子を儲けたが9人は夭折した。彼の死後は子供たちの養育に専念した賢夫人として讃えられる。息子たちの死後ローマを離れた。
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム
前144年没。前159監察官、前155執政官。元老院第一人者(前147以降)。
スキピオ・ナシカの子。
コルクルムは「心ある人」「明敏な人」という意味の尊称。第三次ポエニ戦争に際してはカトーと対立、不戦論を唱える。
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ
前132年没。前138執政官。最高神祇官。
ナシカ・コルクルムの息子。
貴族的な尊大さ、失言の逸話がある。ティベリウス・グラックスの改革に反対、グラックス派粛清の中心となった。復讐を避けるため元老院によって派遣されたペルガモンで客死。
グナエウス・コルネリウス・スキピオ・ヒスパヌス
前139法務官。
スキピオ・ヒスパルスの子。
法務官在任時、ローマからカルディア人とユダヤ人の占星術師を追放。夭折した弟ルキウスとともに墓碑が残る。
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス
前185/4生、前129没。前147,134執政官、前142監察官。
パウルス・マケドニクスの次男、プブリウス・スキピオの養子。
養祖父と区別して小スキピオと呼称される。第三次ポエニ戦争においてカルタゴを、ヌマンティア戦争においてヌマンティアを滅ぼし、それぞれにより称号を得る。ギリシア文化に造詣が深く、彼を中心とした教養人の交流は「スキピオ・サークル」と呼ばれる。
晩年には義弟ティベリウス・グラックスの改革に反対。彼の死は唐突なもので、憶測を呼んだ。
ルキウス・アエミリウス・パウルス
前216没。前219,216執政官。
最初の執政官職ののち告発を受け政界から身を引いていたが、情勢の要求により二度目の執政官職に就く。カンナエの戦いにおいて戦死した。
ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス
前229/28生、前160頃没。前182,168執政官、前164監察官。
第三次マケドニア戦争、ピュドナの戦いで勝利しペルセウス王を虜囚とした。その功績により「マケドニクス」の称号を得る。
貴族的であったが民衆に愛された人物であり、教育熱心なよき父親でもあった。最初の妻パピリアとのふたりの息子を養子に出し、後妻との息子ふたりを手元に残したが、夭折により亡くしている。
アエミリア
前163/162没。マケドニクスの姉妹、アフリカヌスの妻。
夫との間に息子ふたり、娘ふたりを儲けた。娘コルネリア同様、良妻賢母であったとして知られる。
不詳
マケドニクスが後妻との間に儲けた三男、四男。名前は伝わっていない(創作上は三男ルキウス、四男ガイウスとしている)。三男は父の凱旋式前に、四男は凱旋式後に病死した。
アエミリア・マイヨル
マケドニクスの娘。アエリウス・トゥベロの妻。
トゥベロ家は貧しかったが、夫となる人の清貧を徳の表れとして喜んだという逸話がある。彼女とテルティアは先妻・後妻どちらの子かはっきりしない。
アエミリア・テルティア
マケドニクスの娘。カトー・リキニアヌスの妻。
父マケドニクスの出征前、父に「子犬のペルセウスが死んだ」と泣きついて吉兆として喜ばれた、という逸話を持つ(もうひとり娘がいた可能性もある)。
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス
前145執政官。
マケドニクスの長男、ファビウス・クンクタトルの家系の養子。ヒスパニアでの対ウィリアトゥス戦争では実父に倣った戦術を採り善戦するなど、能力のある人物と思われる。
弟・小スキピオとは双方が養子となった後も親しくあり続けた。
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・アロブロギクス
前121執政官、前108監察官?
ファビウス・アエミリアヌスの息子。
叔父小スキピオの葬儀を従兄弟トゥベロとともに執り行った。
前121年のアロブロゲス族への勝利によりアロブロギクスの称号を持つ。ローマにはじめて凱旋門を建設した。
ティベリウス・センプロニウス・グラックス
前154頃没。前177,163執政官、前169監察官。
非常に有能な政治家・軍人であり、その人格の高潔さから深い尊敬を集めた。法務官として指揮したヒスパニアでの戦争を終戦へ導き、四半世紀の平和を創出。
コルネリアとの夫婦仲は良好。夫婦に凶兆が現れ、妻を死なせないために自らの死を受け入れたという逸話がある。
センプロニア
コルネリアとグラックスの娘、小スキピオの妻。
夫との間に子がなく、夫婦仲は冷え切っていたとされる。小スキピオの突然死について、彼女もその嫌疑を(風説の上ではあっても)かけられた。
ティベリウス・センプロニウス・グラックス
前163頃生、前133没。前133護民官。
コルネリアとグラックスの子。
当時危機的状況にあった中小農民の救済などのため農地改革に取り組むが、元老院の強い反発を受けた。護民官再選を望むもセラピオを中心とする元老院勢力に支持者とともに殺害される。
ガイウス・センプロニウス・グラックス
前153頃生、前121没。前123, 122護民官。
兄と同じく、また兄以上に広範な改革に取り組む。しかし、やはり元老院の反発にあって、反対勢力との武力衝突が起こり、元老院最高決議のもと自殺に追い込まれた。兄とともに弁論家としても評価される。
ガイウス・ラエリウス
前160以後没。前190執政官。
スキピオ・アフリカヌスの友人で、第二次ポエニ戦争における副官。
新人。もともとはローマ市民権を持たなかったともされる。第二次ポエニ戦争で活躍し、スキピオ家の後援を得て元老院に入った。
ガイウス・ラエリウス・サピエンス
前140執政官。
上記のラエリウスの子。
小スキピオの親友。「賢人(サピエンス)」とあだ名される。由来は教養の深さとも、執政官のとき農地法提出を計画するも反発を予想して取りやめた賢明さとも言われる。キケロが讃え、多くを伝えるように、小スキピオとは公私ともに離れることのない関係だった。
マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス
前234生、前149没。前195執政官、前184監察官。
新人であり、ウァレリウスの後援により政界に入った。スキピオ・アフリカヌス弾劾の中心人物。その強烈な性格、数多くの名言、見事な弁論で知られ、著作も多かったとされる(『農業論』が現存する)。「ケンソリウス」は監察官のとき非常に厳しい態度で職務にあたったことからついたあだ名。
老年になって後妻を娶って次男を儲けたが、その数年後に長男の葬儀をあげるという不幸に見舞われている。
マルクス・ポルキウス・カトー・リキニアヌス
前152頃没。前152法務官(150年度予定者?)。
カトーと最初の妻リキニアの子。異母弟サロニアヌスと区別してリキニアヌスと呼ばれる。
法学に教養があり、15巻の法律著作を著した。父の熱心な教育を受け、それに応えて成長するものの、病により早世している。
マケドニクスの娘との間に二子を残した。
クィントゥス・カエキリウス・メテルス・マケドニクス
前115没。前143執政官、前131監察官。
法務官の時、第四次マケドニア戦争での勝利により「マケドニクス」の称号を得る。六人の子を持ち、四人の息子全員が執政官となっていることや、壮麗な回廊を建設したことでも有名。独断的な性格で兵に対し厳しい態度を取ったが、多くの戦勝を挙げている。
小スキピオとは友人でありながらも政治的に対立したが、その死を深く悼んだ。
ルキウス・カエキリウス・メテルス・カルウス
前142執政官。
メテルス・マケドニクスの弟。
前140-139年の東方使節では小スキピオ、スプリウス・ムンミウスとともに派遣された。息子にダルマティクス、ヌミディクスがいる。
クィントゥス・カエキリウス・メテルス・バレアリクス
前123執政官、前120監察官。
メテルス・マケドニクスの長男。バレアレス諸島の海賊討伐により称号を得る。
彼と三人の弟は父マケドニクスの命で小スキピオの葬儀においてその棺を担いだ。
ルキウス・カエキリウス・メテルス・ディアデマトゥス
前98まで存命? 前117執政官、前115監察官。
メテルス・マケドニクスの次男。ディアデマトゥスは腫れ物のために常に鉢巻(ディアデーマ)をしていたことから。
マルクス・カエキリウス・メテルス
前115執政官。
メテルス・マケドニクスの三男。前111年、弟ガイウスと同日に凱旋式を挙行している。
ガイウス・カエキリウス・メテルス・カプラリウス
前113執政官、前102監察官。
メテルス・マケドニクスの四男。ヌマンティア戦争に従軍した際に小スキピオに皮肉を言われた逸話がある。
ポリュビオス
前208/200生、前118頃没。歴史家。著作が現代まで伝わっている。
ギリシア、メガロポリス出身。アカイア同盟の長官を務めた父を持ち、自身も騎兵長官を務めた。
第三次マケドニア戦争後、反ローマ的として告発を受け連行され、長くローマでの抑留を受ける。小スキピオと彼の家族の庇護を受け、人質としては破格の待遇を受けた。多くの著名人に取材し、小スキピオに同行して第三次ポエニ戦争・ヌマンティア戦争を目撃、多くの取材旅行も行った。
パナイティオス
前185頃生、前109没。ストア派哲学者、第七代学頭。
ロードス島出身。ポセイドニオスの師で、ストア派中興の祖とも言われる。ローマに来訪し小スキピオ、ラエリウスと親しく交流し、ローマ貴族に哲学を根付かせた。ポセイドンを祀る神殿の神官をしていたことがある。
プブリウス・テレンティウス・アフェル
前195/185生、前159没。喜劇作家。
アフリカ(カルタゴ?)出身の元奴隷で、主人であったテレンティウス・ルカヌスにより教育され解放される。
彼の喜劇六篇は現存し、上品な作風から貴族には愛好されたが民衆受けはあまりよくなかった。小スキピオやラエリウスと親しく、彼らの助言を受けている、彼らが本当の作者であるなどの(彼の受ける愛寵への嫉妬からくる)噂もあった。
クィントゥス・ムキウス・スカエウォラ・アウグル
前160頃生、前88頃没。前117執政官。
ラエリウスの長女の婿。少年だったキケロとアッティクスの法学の師。著名な同家の者たちと区別してスカエウォラ・アウグル(鳥卜官)とも呼ばれる。法律の大家。
ガイウス・ファンニウス
前122執政官。
ラエリウスの次女の婿。スカエウォラより年長。
パナイティオスにストア哲学を学び、歴史書を書いた。彼の著作はキケロなどに高く評価されている。執政官選挙の際ガイウス・グラックスの支援を受けたが、当選後はガイウスと対立した。
プブリウス・ルピリウス
前123没。前132執政官。
徴税請負人の家柄で、小スキピオの後援のもと政界入りした。ティベリウス・グラックスの死後その余党を処罰、またシチリアの奴隷反乱を鎮圧している。
プブリウス・ルティリウス・ルフス
前105執政官。
ヌマンティアに従軍するなど、若い頃に小スキピオの後援を受けた。大神祇官スカエウォラ(アウグルの従兄弟の子)の副官として属州アシアで改革に取り組んだ結果騎士階級の反撃を受け、不法取得返還訴訟で追放刑に処される。その後ローマに戻らず、スミルナでキケロと会った。自伝、歴史書を書く。
クィントゥス・アエリウス・トゥベロ
前118補欠執政官。
アエミリア・テルティアとトゥベロの子、小スキピオの甥。パナイティオスの教えを受け、ストア哲学の教養で知られる。その傾倒の結果、伯父小スキピオの葬儀に伴う宴を質素に行いすぎて顰蹙を買った。
スプリウス・ムンミウス
アカイクスの兄弟。
前140-139に東方使節に加わっているため元老院議員かもしれないが、はっきりした経歴は不明。兄弟とは違い教養があったのか、小スキピオとの交流を持った。
マニウス・マニリウス
前149執政官。
法律の大家として知られる。軍事の才能はなく、第三次ポエニ戦争での指揮では失策が続いた。
ルキウス・フリウス・フィルス
前136執政官。
ヌマンティア戦争を指揮した執政官のひとり。テレンティウスの庇護者でもあった。
ルキウス・ムンミウス・アカイクス
前146執政官、前142監察官。
新人。アカイア戦争での功績からアカイクスの称号を持つ。アカイア戦争でコリントスを破壊し、戦利品として多くの美術品をローマにもたらす。自身は教養人ではなく、美術品の扱いの悪さを批判された。同僚監察官である小スキピオとは方針の違いで対立した。
クィントゥス・ポンペイウス
前141執政官、前131監察官。
スキピオ家の支援を受けていたが、小スキピオとの約束を破ったため不和に。新人でありながら、その後監察官にまで登りつめた。ヌマンティア戦争での不正でメテルスなどに告発されている。
アッピウス・クラウディウス・プルケル
前130頃没。前143執政官、前136監察官、前136-元老院第一人者。
小スキピオの政敵として知られる。ティベリウス・グラックスと娘を結婚させ、改革を支援した。
卓越した地位を持ったと言えるが、元老院の反対にも関わらずウェスタ巫女であった娘の地位を利用し凱旋式を強行した逸話がある。