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鳥籠からの恋

 幼い頃の記憶には、常に大人たちが囁き合う不安が付き纏った。物心つくかどうかの頃に始まった、ローマとの戦争の趨勢について、頭上を行き交う会話の内容はその都度まったく異なることを言っていた。
 シキリア南岸の都市アクラガスがローマ軍の手に落ちたとき、彼らの目が海を越えてこちらへ向いたことに気がついていた者は多くなかった。未だ戦争はシキリアを巡るもので、カルタゴ人はシキリアでの勢力を維持するための戦争には慣れていたのだ。
 これまでと異なるのは、その相手である。それがどんな意味を持つことになるか。まさかこの戦争が終わらぬうちに我が子の成人を見届けることになるとは思いもしなかった両親は、変わらぬ日々が続くと信じて、これからどうなるのかと尋ねる幼子に心配はいらないのだとばかり言った。
 市外で暮らしていた市民たちが城壁の中へと雪崩れ込んだのは戦争の八年目、その数年前にはすでに海戦においてカルタゴがローマに敗れるという、ありうべからざることが起こっていた。
 家族が郊外の領地からカルタゴ市内の邸宅に移ったとき、遠くに煙が立ち昇るのがいくつも見えた。ローマ軍がアフリカの地を踏み進み、彼らの目には信じ難いほど豊かな田園や家々を略奪する煙だった。
 略奪を逃れた人々があっという間に食糧を食い尽くして市民たちが飢餓に喘ぐ中でも、貴族の邸宅には瑞々しい果実があり、食べきれないほどの皿が卓に並べられていた。主人たちの残飯を待つ奴隷は、あるいは自らは幸運だと誤解したかもしれない。
 閉ざされた門の外では貧しい者たちがその残飯を求めて這い蹲っている。二階の露台からはそれをわずかに覗き見ることができた。
 ここで晩餐を共にするため招かれた貴族の従者たちが、彼らを足蹴にして追い払う。その足にさえ縋り付こうとする痩せぎすの子供が怒鳴りつけられて振り上げられた棒から頭を庇っていた。
「坊や、こんなところにいたのかい」
 後ろから伸ばされた手に露台から部屋の中へと連れ戻されて、子供がどうなったのかは見えなくなった。
 邸宅の主人は、我が子が手すりの間から何を覗いていたのかを察して少し顔を顰めた。
「こちらから見えるのだから、おまえの姿も見えてしまうのだよ。父も母もあれらにおまえを見せたくはないのだ、分かるだろう?」
 柔らかな黒髪を撫でる手に頷くと、老年に入っていた父はすっかり相好を崩した。
 兄たちが成長した後に思いがけず生まれた末子を、父は美しい小鳥を愛でるように可愛がった。赤子の頃から長ずればどれほどと女たちに褒めそやされた子が、その女たちが惚けて黙り込んでしまう姿へと育っていくのをどこか案じているようでもあった。
「さあ、おいで。姉さんたちと夕食になさい」
 手を引かれて一階へ下りると、広間に先ほど門を潜った人々が入るのが聞こえてくる。元老院に一席を占める父の夕食はほとんど常に、誰かを招くか、誰かに招かれるかであり、戦争が起ころうとそれは変わらない。
 自分の手を握るのが父から子守り奴隷の手に変わった途端に、それを振り解いた。食堂へ促すのに知らぬ顔をして、厨房と行き来するのに奴隷が使う扉からそっと広間の様子を窺う。父母に迎えられてそれぞれの席へ落ち着いていく貴族たちの中に、見慣れない顔を見つけた。
 客人のひとりは、その額に場違いな厳しさを崩さずに座していた。バルカとあだ名される家門の当主は、他の人々と比べて地味と言っていいほど簡素な身なりで、父とは反りが合わないのに招待されればやって来るおかしな人だった。自分の笑顔に眉を動かなさい大人のことはよく覚えている。その彼の隣に控えるように座る若者、彼のことは見たことがない。
 深い紫色の瞳をしていた。整った容貌ではあったが面持ちは重苦しく、親しみを遠ざけようとしているようだった。卓に並べられていく美食や、それと調和する香の芳しさ、あるいは彼らの手足を清めるために傅く美しい女奴隷たちなど存在しないかのように、その目は邸宅の外へと向けられている。
「──おや、そこにいるのは」
 こちらを見てそう声を上げたのは、亡くなった祖父の友人だった。既に政治からも商いからも手を引いて、好々爺らしく振る舞うのを楽しんでいるといった人物で、蓄えた白い髭の奥で笑顔を浮かべている。
 そっとその場を離れ、伸ばされる老人の手に迎えられると、客人たちの目が一斉にその子供へ向かった。彼らの顔を順繰りに見、決して誰とも目を合わせないまま、笑みを作る。
 夫に伴われてきた女性たちが途端にため息をついて囁き合うのが、さわさわと囀るように広間に響いた。父もこちらを向いていたが、老人のそばならば心配はいらないだろうと思ったのだろう。すぐに連れ出されることはなかった。
「ハスドゥルバルや、息災だったかね」
 領地で過ごすことが多いから、彼と顔を合わせるのは久しぶりだった。怖い思いはしなかったかと尋ねられて、皮膚のひんやりと硬くなった老人の手に手を重ねる。
「煙を見ました。ローマ人も見えるかと思ったけれど……」
「ああ、そんなもの、おまえの見るものじゃない」
「でもおじいさま、僕だっていつかは彼らと戦うかもしれないのですもの」
 長く伸びた眉毛の下で、老人はつぶらな目をさらに丸くする。くつくつと笑って子供の日に焼けない滑らかな手を揺らした。
「まさか、まさか。誰が可愛いおまえを戦場になど立たせるものか。そうでなくとも、おまえが軍務に就ける頃には戦争は終わっていよう」
 この場にいるうちの何人が、武装して軍馬に跨る以上のこと、戦場で命を賭すということを経験しただろうか。カルタゴの将軍たちは百人会の監視を受け、常にその失策や背信を惨たらしい死によって償わされる。軍は市民兵よりも傭兵が主だって構成していた。男たちを徴用されているノマデスは、ローマ軍が上陸したのを好機と見て蜂起し、盛んに略奪を繰り返している。
 子供はそんなことを知らずに勇んでいると思っているのだろう。上機嫌な老人はすっかり宴の間じゅうそばに置く気になってしまっていて、宴席に加わるにはまだ幼い子供を自分の隣に座らせた。
 視線を感じて見てみると、隣の寝椅子にいるのはあの若者だった。目が合う寸前でそっぽを向かれてしまう。
 子供がその場にいるからか、最初大人たちの話題はそれぞれの家族のこと、息子夫婦がどうしているとか孫がいくつになったとか、神官を勤める娘のことであるとかに終始していた。この場には縁戚にあたる者たちも多く、婦人たちの方が男たちに詳しいところを教えてやる場面がしばしばだった。
 しかしその和やかな空気も、自然と城壁の外を意識しないではいられなくなっていく。どの家も家族を市内に呼び寄せ、内陸に農園を持つ者はともかく沿岸での略奪により損害を受けている者もあった。
 市内の神殿は神々に犠牲を捧げ祈り続けていたが、いずれの名を持つバアルも、メルカルトも、その顔を背けてしまったかのようだった。一方で大人たちはみな、恐れ以上に怒りにその顔を歪めている。アフリカへと軍勢を率いてきたローマの執政官が寄越してきた和約の条件があまりに傲慢だったからだ。
 呪いの言葉までも交わされる広間から、若者がそっと席を外した。小用を足しに行くふりをしてそれを追いかけると、庭園で誰かと話している。それが家中の者ではなかったので声の聞こえない距離で見守っていたが、紫の目がこちらに向いた。
 幾分か、広間にいた時よりは和らいだ気配に誘われて庭園へ出る。彼らが重ねて纏う長衣を揺らす風は、どこからか灰を乗せてきていた。
「何かあったのですか?」
「ギリシアから傭兵を乗せた船がもうじきに到着すると報せがあった」
 随分前に、傭兵の調達へと船出した者たちがあった。この報せがすぐに自分のところに届けられるよう手配していたのだという。
「傭兵たちはローマ人に勝てるんでしょうか」
「雇われた中に戦上手の傭兵がいるらしい。期待はできる」
「……そう、よかった」
 広間では音楽が奏でられて、その中にいる人々を都市の喧騒から遠ざけている。けれどこうして庭園に出てしまうと、どこからか怒声や、悲鳴が聞こえた。家に迎えてくれる知己や親戚を持たない、貧しい農民が路上に溢れて市内は騒然としているのだという。
「どうかしたのか」
 彼は今になって、子供がここにいることに疑問を抱いたらしかった。
「……あなたのお名前を、まだ知らないんです」
 若者がわずかに目を見開くので失礼だっただろうかと思ったけれど、彼はすまなかったといささか決まり悪げに言った。
「ハミルカルだ。今日は父とともにお招きいただいた」
「ハミルカルさま。僕はハスドゥルバルといいます」
「うん、知ってる」
 さっき呼ばれていたから。ハミルカルは、彼の父親がするようには訝しげな目で子供の笑顔を見なかった。彼からすればとつぜん機嫌を良くした子供に手を取られても、それを振り払いはしない。
 ところどころ皮膚の硬くなった、剣に親しんでいるのだろう手を広間とは反対の方へ引いた。
「ね、僕のお部屋に来てください」
「しかしもう戻らなくては」
「あそこじゃつまらないお話しかしていないんですもの、僕の相手をしてたって言えばみんな許してくださいますよ」
「……なるほど」
 つまらないとは思っていたのだろう。ハミルカルの手が、柔らかいばかりの手を握り返した。彼らの父親たちが気がつくまで、彼は子供のおしゃべりに付き合ってくれた。


 欠伸が出る。
 露台の手摺りに肘をついて、街路を行き交う者たちを見下ろしていた。こうし始めた時には真上にあった太陽が、わずかに傾いている。その移ろいが遅すぎる。
 あまりにも退屈で、東へ向かう人と西へ向かう人をそれぞれ数えたが、あまりに意味がなくてやめた。そんなことでもしていなくては時間が止まったかのようだ。父の言いつけがなければ出掛けて行って、友人と過ごすこともできただろうに。あるいはこっそり一人歩きをして、露店を出す商人の噂話を集めるのもいい。
 想像してみてから、はあ、と深刻さのないため息が出る。最近は一人歩きも難しくなってきた。一年のうちカルタゴ市内で暮らす日数が増えると、この顔は市民にまですっかり覚えられてしまった。
「……あ」
 不意に視界に入ってきた姿に、ハスドゥルバルは身を乗り出した。つま先立ちになって、東の方へ歩いていく姿を追う。それを家中の誰かが見れば悲鳴を上げただろう。
「──ハミルカルさま!」
 張り上げた声に、街路に立ち止まったハミルカルが真っ直ぐにこちらを見上げた。探すまでもないという動作で、その顔が呆れを浮かべるのにこちらは笑みを返す。そこにいてと手振りで示すと、さっさとしろと返ってきた。
 階段を駆け下り、ちょうどいいところにいた奴隷が手にしていた誰かの上着を引っ掴む。長衣の上に羽織ると洗濯したところの長兄の物だった。
 玄関広間まで出ると、外から入ってきたところの家令がぎょっとしたが、すかさず少年の前に立ち塞がった。
「ハスドゥルバル様? どちらに」
「分からない!」
「えっ、あの、いえ今日ばかりは旦那様がお出かけにならないようにと」
「出かけるかどうかもまだ分からないから!」
 言いながら玄関を飛び出すハスドゥルバルを、せめて一人では行かせるなと家令に命じられた従者がふたり追いかけて来た。意に介さず街路に出たハスドゥルバルが勢い余ってぶつかりそうになるのを、その手を取ってハミルカルが受け流した。
「気をつけろ」
 素っ気ない物言いの割に、体勢を崩さないように支えてくれる。本当に待てと言われたから待っていただけのハミルカルが歩き始めるのにハスドゥルバルは当然のようについていった。
 同行者の顔ぶれを見て彼らにも挨拶をしてから、ハミルカルの隣に並ぶ。
「どこかにお出かけですか?」
「いや、済んだからもう帰るだけだ」
「素敵! ね、私をお招きいただけませんか? もちろんとお返事しますから」
「来ても何もないぞ」
「あなたがいらっしゃるでしょ?」
 部屋でひとり過ごすのに比べたらうきうきするほど楽しい。ハミルカルは好きにするといいと言い、ハスドゥルバルの従者の一人にとりあえず行き先を家令に伝えてくるよう言いつけた。
 ハミルカルはもう喪服を着ていなかった。彼の父が突然、何の前触れもなく倒れたのは去年のこと、そのすぐ後に亡くなり、長い服喪も明けた。しかし彼はずっと難しい顔をしている。
 何しろ、ローマとの戦争はいまも続いていた。シキリアではカルタゴ軍がリリュバエウムをはじめとした拠点を死守しているが、戦いは泥沼の様相を呈し終わりが見えない。ハミルカルはまるでその膠着の責任が自分にあるかのように悩み、戦況を詳細まで知るべく絶えず人を使っていた。
 六年前、アフリカに上陸したローマ軍の撃破に大功のあった傭兵クサンティッポスは早々に帰国してしまったが、ハミルカルは陣中でスパルタ人の用兵をつぶさに観察し学んだのだ。彼はいまも余暇など存在しないかのように情報を集め、学び続けていた。
 貴族の邸宅の並ぶ地区、ハスドゥルバルの暮らす場所から少し離れた場所にバルカの屋敷はあった。彼と家族はレプティス近郊の所領とこことを行き来するが、今は揃って滞在していた。邸宅の奥からは赤子の泣き声が聞こえてくる。
「そうだ、お嬢様のお加減はいかがですか、風邪を召してらしたでしょう」
「もうすっかりいい。わざわざ見舞いを送ってきたらしいな、妻が礼を言っておけと」
「言われたのを忘れてらっしゃったの?」
「ああ」
 ハミルカルは三十手前だったが、比較的早くに結婚して既に四人の娘の親だった。
 彼の邸宅は、ハスドゥルバルからすると質素と言っていいほど飾り気がない。貴族なのだから当然広い敷地を有して多くの奴隷を使っているのだけれど、過度なところが一切ないせいだろう。何の拘りも見えないと言った方がいいか。
 ハスドゥルバルらを客間に通して、ハミルカルは一度書斎の方へ下がった。それを見送り、ハスドゥルバルは同じ長椅子に座った相手に小声で問いかけた。
「ヒミルコ殿、がっかりするようなことがあったんですか?」
「まあ……そこまでではないが」
 ヒミルコは言葉を濁したが、それなりにはあったのだろう。他の者たちも彼と同じような、気不味さと気の毒さが入り混じった顔をしている。
 この場にいるのは、ハスドゥルバルを除けばバルカの縁者ばかりだった。あんまり力強い味方とは言えないなと内心で思う。
 ハスドゥルバルも十七歳になって、父や長兄の秘書のようなことをするようになった。父は末子を神官にしようと思っていたらしいが、元老院や民会の様子を見聞きして貴族たちの複雑怪奇な勢力図を追いかけるのが楽しい。とても言うことを聞きそうにないと父も諦め始めている。
 ハミルカルの父親の急逝によって、元老院はひとつ空席を作った。前後して数人の元老が亡くなっており、その席を誰が埋めるかは、議員たちの投票によって決まる。その投票が近く行われるのだ。
 どこでもそうであるように、カルタゴの元老院も富裕な家系が定員のほとんどを占め続けている。その元老院のなかでも、百人会は貴族の牙城となっていた。元老院と同じく成員の誰かが死ぬまでそこに踏み込めず、名の通り百人の元老たちは古くから同じ家系の者たちを選んできた。
 投票は明白に彼らの影響を受ける。バルカは、軍事に秀でた家門であり、何人も将軍を輩出してきた。しかし家柄の持つ名望という点では、ハスドゥルバルの生まれた家の方がよほど優っていると言えた。
 それに、ハミルカルは老人たちに受けが良くない。同輩たちや、勢力の弱い貴族、あるいは彼の振る舞いを清々しく思う民衆には愛されているけれど、今回ばかりは彼らの力が及ばないのだ。百人会に象徴される寡頭派はハミルカルとその一派を嫌っている。
「どなたとお会いに?」
 挙げられた名に、ああそれは、とハスドゥルバルは嘆息した。
「あんまり嫌味ったらしいんでハミルカル殿はもう、話の途中から貝のようになって」
「私のことは可愛がってくださる親切な方ですよ」
「そりゃあハスドゥルバル殿は……こんな風にここにいても嫌われないものか?」
「心配してくださっています。ハミルカルさまのことも、まあ言いようによっては心配なさっているんだと思います。接し方を変えるべきでしょうね」
「どんなふうに」
 ふむとハスドゥルバルは年長の相手を見た。このヒミルコは、若い頃からハミルカルの高潔さや才能に惚れ込んで付き従う純粋な人物である。
「……ヒミルコ様!」
「うおっ」
 たじろいだヒミルコの膝に手を置いて、ハスドゥルバルは一度目を伏せた。それをまた上げたときには、物憂げな目は潤み、頬は切実な思いが抑えきれぬというように赤らんでいた。幼さが与えてきた柔らかさを脱ぎ落としかけている容貌に、縋るような色が浮かぶ。
 膝からそろそろと手を引き、自らの胸元にやる。
「は、ハスドゥルバルどの?」
「申し訳ございません、お礼を申し上げるのが先だというのに」
「え?」
「父の葬儀のとき、あなたさまが人目を憚らずに嘆いてくださったことは、どれほどわたくしの慰めとなったでしょう。父も、慰められたことでしょう」
 ようやく展開に追いついたヒミルコが口をぎゅっと引き結んだ。
「父は常にわたくしをそばに控えさせ、その影となるのと同じように自分を真似て学ぶのだと言ったものです。若輩のわたくしを頼りないと叱り続ける父でございました、口惜しいと、まだ教え終えていないと、今際にまで……」
 その眦から涙が一筋伝い落ちたので、その場の者は揃って息を呑んだ。
 ハスドゥルバルは滑るように長椅子から床に下りて、ヒミルコの手を両手でしっかりと握った。捧げ持ったその手を額に押し付ける。
「元老の皆さまを父と仰ぎ学べと申しました。どうか……どうか父を哀れと思ってくださるのなら、わたくしをお導きください…………どうですか?」
「ど、どう? これにそんなの無理だよって言って帰ってもらうの、難しいだろうなあと……思いました……」
 まあそれなら上出来だろう。椅子に座り直したときには、ハスドゥルバルの顔色は元に戻っていた。残っていた涙を払い、背後を振り返る。客間に入りかけたところで立ち止まっていたハミルカルは目が合うと小さく咳払いをして、輪に加わった。
「ハミルカルさまが同じようにしたら感動屋の老人なんかイチコロですよ」
「恐ろしい想像をさせるな」
「本当なのに……」
 同時に安売りしていいものではないので、その発想が頭を過るだけでも良しとすべきだろうか。
 おそらく芳しくない成果の反省とも慰労ともつかない席になっただろうものが、ハスドゥルバルのせいで完全に気が抜けていた。ハスドゥルバルはハミルカルの隣へと椅子を移り、卓に置かれた銀の器からいくつか葡萄の実を摘んだ。
 ひとつ口元に差し出すと、ハミルカルは彼を覗き込む灰色の瞳を見返した。大抵の人間がこの瞳を向けられると羞らいに襲われて目を背けてしまうことなど彼には関わりがない。
 小さく開いた唇に葡萄を押し込んで、それが咀嚼され飲み下されるまでを確認すると、ハスドゥルバルはつい今しがた見せた涙が嘘だとはっきり分かるほど愛らしく笑った。
「甘い?」
「ああ。出来がいいな」
「もっと食べさせてあげます、元気出してください」
 励ます相手に凭れかかってそんなことを言うハスドゥルバルに、ハミルカルも目を細めた。差し出されたふたつめを今度は取り上げて口に放り込む。
「甘いもので機嫌が取れると思われているのか、私は」
「みんな元気になりますよ?」
 元から静かだった部屋がさらに静かになり、次の葡萄を選んでいたハスドゥルバルが顔を上げると、先ほどと違った意味で細められた目に見つめられていた。
「甘いもので?」
「私が食べさせてあげると、です」
「……そういうのはやめろ」
「ふふふ」
「ハスドゥルバル、いつまでも人を弄んでいられると思い上がるな」
「あなたが弄ばれてくださったら考えようかな」
 見つめて、微笑んで、少し触れると、多くの人がハスドゥルバルを喜ばせたいと思う。幼いうちはそれが頭を撫でてくれる手やそれこそ甘いものとなって返ってきた。最近は、もっと価値のあるものが返ってくる。輝く宝飾品や季節外れの高価な花束、なんでもするという言葉、必ず力になるという約束。
 みっつめの葡萄は、また差し出した手から食べてくれた。その指先をそれなりに強く噛まれて、ハスドゥルバルはきょとんとしてから声を上げて笑った。


「外出禁止だそうだね」
 声をかけるより先にそう言われてハスドゥルバルが中庭に顔を出すと、ボミルカルは肩に止まっていた鳥を羽ばたかせたところだった。
「父がおかんむりで」
「言いつけを守らなかったんだろう? 困った子だよ、君は」
 あの日、結局夜遅くになってバルカ邸から戻ると、父はハスドゥルバルを部屋に放り込んでその扉の前に奴隷を立たせた。窓の外にも。家の者が外出する時に連れる護衛役のリビュア人たちは全く融通が効かず、部屋に三日間閉じ込められたのち、その範囲が邸宅の中に緩められ、それからさらに三日経っている。
 午前の柔らかな日差しを受けて、安らいだ気持ちがちっともしない。ボミルカルはそうではないらしく、日傘を差し掛ける奴隷を下がらせた。長椅子に腰掛け、隣を軽く叩く。
 王のお召しとあれば、従わぬわけにいかない。そんな態度で恭しく腰を下ろすと、柔和な貴人は面白がってくれた。まだ若く、ハミルカルよりいくつか年長に過ぎなかったが、彼がカルタゴの王だった。スフェスのように一年の任期で政治を主導するのとも、将軍のように大権を持って軍を率いるのとも違う存在であり、古く、それこそエリッサのように統治した君主とも違う。
 神官たちの頂にいると言ってもよいが、元老院に対し実際の影響力を持った。当然ながら名門の生まれで、ハスドゥルバルにとっては家系図を遡ると同じところに行き着く相手だ。
「今日は義姉上に会いに来てくださったの?」
「ああ。以前よりも顔色がよくなったね」
 義姉はここに嫁いでくる以前からバアル・ハモンに仕える神官であったが、この数ヶ月祭儀に参加することができないでいた。予定された産月よりずっと早く産気づいて、苦しんだ末に取り上げられた赤子は産声を上げなかった。いまは、タニトの膝下に迎え入れられているだろう。
 同じ館に暮らしているのに、ハスドゥルバルを見ると同じ瞳の色だったのだと泣き出すからしばらく会っていなかった。
「よくあることなのにと言っていたよ。多くの母親たちの供犠を、奉納を見守ったのにと」
「真面目な人ですからね……」
「君が閉じ込められているようだから様子を見てほしいとも」
「うーん……」
 この場合、大人しくするのが正解か、逃げ出してしまうのが正解か。どちらが義姉には面白いか、少し難しい。ハスドゥルバルは自分に特別な興味を持たない女性の心の機微が、実のところあまり分からなかった。
「ハミルカル殿のところには何をしに?」
 話題を変えてそう尋ねるボミルカルの考えていることも読めない。
「いま、ハミルカルさまはとても頑張っておられるところなんです。励ましたくって」
「気に入っているねえ、飽きもせず」
 むっとして唇を尖らせる少年に、ボミルカルは肩を揺らして笑った。父はいつのまにかハミルカルの周辺をうろつくようになった末子に困惑しているが、ボミルカルはそうではなかった。
「そんなに好きかい」
 だって、と言いかけて、ハスドゥルバルは口を噤んだ。
 彼は他とは違う。すべてはそれに尽きてしまう。ハミルカル・バルカは、ハスドゥルバルの知るどのカルタゴ人とも違った。彼の純粋な、時折痛ましいまでの祖国への忠誠、ひたむきな熱意は、少年の頃からローマとの戦争を目の当たりにし続けるなかで研ぎ澄まされているようだった。
 それが、潰えてしまわないかと。そう思うと胸が詰まるようで、同時にそれほどに惜しむ気持ちになることの意味を突きつけられる。いつからと問われると、分からない。
 ハミルカルが自分を見つめるハスドゥルバルに気がついて振り向いてくれるとき、そんな痛みはどこかに消えてしまうのだ。
「……ボミルカル兄さまにはそういう人がおられないから」
 彼はまだ結婚をしておらず、誰とでも適度な距離を保っていた。その人柄こそが人々に彼を選ばせたのだろうし、ハスドゥルバルの好きなところでもある。
「どうだろうね。ハスドゥルバルに教えてほしいくらいだ」
「どういう……?」
「言えることは、私はハミルカル殿に信を置いている。あの方が力を得られずに萎れていくところは見たくないな」
 それを聞くなり、ハスドゥルバルは目を輝かせた。
 カルタゴの元老院は、議論の俎上に上がった事柄について王との意見の一致が見られない場合に、決定を民会に委ねることとなっている。元老たちの抵抗を抑えて、民会の総意を固めることができていれば──想像するのは少し先のこと、新たな将軍が求められる日のことだった。
「ボミルカル兄さま、大好き」
 抱きついて、頬に口付ける。降り落ちる接吻の雨にしばらくされるがままだったボミルカルが、やんわりとハスドゥルバルを押し戻した。
「ハミルカル殿の前ではしないでおくれ」
 怖いから。
 ハスドゥルバルはくすくす笑い、奴隷が神官を中庭に案内しようとしているのを見つけた。迎えが来てしまったのだろう、ボミルカルもそれを見て立ち上がる。
 彼の手を取って、そっと囁きかけた。
「兄さま、ひとつお願いがあるんです。私におつかいをさせていただけませんか?」
「それは君のご両親やハミルカル殿に怒られるようなことかな」
「まだ分かりません。ね、お願いします」
 ボミルカルは少し考える間を置いたが、いいだろうと頷いた。怖いと言ったって、本当に彼を叱り飛ばせるような人間はいないのだ。


 柔らかく揺蕩う煙が高い天井に立ち昇り、天窓から流れ込む空気にほどけて散り散りになっていく。さほど広くない部屋を肺に沈むような甘い香りが満たしていた。部屋の中央に置かれた、金塊を薄く伸ばし織り上げたような呆れるほど繊細なつくりの深皿で、香木が焚かれている。
 大理石の柱と屋根の他は、館から庭に向けて開かれた空間だったが、いまは金糸の織り込まれた赤い天蓋がその三方を囲っていた。床に敷き詰められた絨毯はその下に綿を詰めているのか、どこを踏んでも足が深く沈み込む。
 ハスドゥルバルは積み上げたクッションに凭れ掛かり寝そべって、ここは赤子や幼児を遊ばせるのによさそうだなとばかり思っていた。以前この邸宅に招かれた時にはこんな場所はなかったはずだ。
 いくつかの寝椅子や卓の他には何も置かれていない、数人で憩うためだけの小さな部屋から、庭に迫り出すように付け加えられていた。このために壁を取り払ったのだろうか。その部屋の方から足音がして、足元の絨毯が沈んだ。
 断りなく触れた手が、ハスドゥルバルの癖のある髪を上げてその額を撫でる。顔を上げると、邸宅の主人が腰を屈めていた。
「眠ってしまったかと思ったよ」
「……待ちくたびれてしまったんです」
「それはすまなかったね」
 かさついた指先が輪郭をなぞるようにして、離れていく。音もなく奴隷が置いた盆には硝子の杯と水差し、注ぐと甘い香りがする。天窓からの光に翳してみるとうっすらと金色に輝いて見えた。
 口に含むと蜂蜜のような重みがあって煙の匂いと混じって胸焼けがするようだった。酒ではないようだけれど。
 奴隷は火の加減を見て、問題がなかったのだろう、また音もなく部屋を出ていった。この香木がボミルカルから仰せつかったおつかいだった。神殿で焚かれるのと同じもので、アフリカの奥地から切り出され運ばれてくる。時に奴隷数人まとめた額より高価になることがあり、貴族たちは自邸の祭壇でこれを捧げた。無論ここに祭壇はない。
「おじいさまがいらした頃とは、お屋敷の様子が違いますね」
 向かいに座った主人、アドヘルバルは、褒め言葉だと思ったらしい。
「ここは先月作ったばかりでね、入れたのは家族の他は君が初めてなのだよ」
「ふふ、嬉しい。特別扱いだなんて」
 指先で杯を弄びながら笑うと途端にやにさがる。
 昔から知っている子供を微笑ましく思う顔を、作れているつもりなのだろう。その目線は履き物を脱いだ素足と、裾から覗く脛の上を滑って、ただそれが通り道にあっただけだというように水差しに落ちた。
 これがあの優しかった好々爺の息子とは、この世には不条理が溢れている。立派な髭ばかりが父親そっくりだった。それでも父親が空けた席には息子をという、それだけのことで元老院に加わっている。
 バルカが抜けたから息子を入れてやろうという者と、この際だから締め出してしまおうという者があり、うっすらとあの若造は気に入らないという思いがある者はその間で揺れている。アドヘルバルはハミルカルを前にすると、何がしかの劣等感が刺激されるようだった。
 神殿や広場でハスドゥルバルが彼のそばにいるのを見つけると些細な用事で呼び寄せてきて、戻ろうとするのを邪魔する。ハミルカルはいつもそれを置き去りにどこかに行ってしまうから嫌だった。
 ハスドゥルバルの半ばほど残っている杯に水差しを傾け、アドヘルバルは元気そうだと呟く。
「顔を見ないので何があったのかと思っていた」
「父のおしおきで、謹慎していました」
「謹慎?」
「お前は家から出るとハミルカルさまのところに行くから、もういっそどこにも出るなと」
 その名を聞くなり不愉快そうに眉を寄せて、そんな話はよせと言いたげだった。それに気がつかないふり、無邪気で頭の回らないふりで、ハスドゥルバルはクッションから起き上がりアドヘルバルの方へ身を乗り出す。
「まるであの方が私におかしなことを教えているように言うんです。シキリアの状況を知るのにあの方よりも詳しい方はいらっしゃらないのに」
「本当に戦っているわけでも、ここでだって何ができるでもない若造だ。お父上が何を心配しておられるか分からないのかね」
「……私が、ハミルカルさまを助けて差し上げたいと思うのが父は嫌なのです」
 拗ねた顔はまるきり嘘ではなかった。父は生まれに相応しい振る舞いを求める。その振る舞いの中に、ハスドゥルバルが本当にしたいと願うことは含まれない。
「そんなことじゃないな」
「え?」
「ハスドゥルバル、奴を元老院に加えてほしいのだろう。ハミルカルがそうしたいと言ったからか? 力を貸してくれと頼まれたか」
「そうだったらどれだけいいでしょう」
 絨毯に座り込み、手にしたままだった杯の中身を一息に飲み干した。甘さに眉が寄るのを、そのまま苦しい内心の表れということにする。
 杯を置きアドヘルバルの膝に手を置いて、大柄な男を下から覗き込んだ。
「私に何か……できることがないか、分からなくて。誰かに教えていただきたいと思った時、おじいさまやアドヘルバル様のことを思い出しました。ボミルカル兄さまにお願いをして、ここに……」
「できることか」
 はい、とか細く答えた途端に、腕の力が抜ける。
 ハスドゥルバルは体をアドヘルバルの膝の上に投げ出す格好になった。おや、と思う。体を起こせない。頭を上げようにも首が動かなかった。
 抱き起こされ、その腕にぐったりとして体を任せることしかできなかった。意識ははっきりして、痺れも痛みもないのだが、四肢が鉛のように重い。そういえばアドヘルバルは何も口にしていなかった。
「お前に何ができるのか、ハミルカルは教えなかったようだな」
 何も言わずに自分を見上げている瞳が揺れるのを、ただ戸惑っていると思ったようだった。それが誰の手もついていない無垢さを意味すると。
 絨毯の上に組み敷かれて、覆い被さる男の影が天窓からの光を遮った。重ねた衣服の上から体をまさぐる手の、いくつも嵌められている指輪のことを思い出した。父親の遺品をつけた手で──変なものを飲ませなくとも、そうしろと言うなら従っただろうに。
 涙の粒が、切なく震えた睫毛から頬へと落ちる。潤んだ瞳をその睫毛の影に隠して、狭い視界の隅で男が生唾を飲み込むのを見た。
 どうしてこんなに上手にできちゃうんだろう。
 首筋に湿った息がかかり、性急に長衣の裾がたくし上げられる。露わになった脚を抱え上げ手のひらを這わせながら、アドヘルバルは優越感に浸った声を出した。
「今回ばかりはお前の望みを叶えてやるが、もう、あんな男を追いかけるのはよせ」
 いやそれは無理だが──アドヘルバルは何人の元老を動かせるだろうかと数えてみて、しばらく意のままになるくらいなら構わないかと思う。この戦時のどさくさで従軍し逃げてしまえばいい、ハスドゥルバルは軍に加わる気でいた。
 それにしてもこんなふうに泣いていると、なんだか本当に悲しい気がする。
「──旦那様!」
 悲鳴まじりの呼び声に、アドヘルバルは冷や水をかけられたように跳ね起きた。近づくなと言っただろうと叱りつけようとした主人に、それでも扉の向こうから召使が助けを求める。
「傭兵が」
「傭兵?」
「報酬の支払いを求めて、暴れております、このままでは屋敷が」
 その言葉を即座に裏付けるように、調度品か何かが砕け落ち、家財の薙ぎ倒されるような音がした。奴隷たちの悲鳴と、それを追い回すような怒声。アドヘルバルは音のする方向とハスドゥルバルとを見比べ、口惜しげに立ち上がる。
 扉が閉まるのと聞き届け、息を吐く。折よくと言うべきかどうか。商団の護衛に雇った傭兵への支払いを滞らせたといったところだろう。先代の頃よりも豪奢に飾り立てられた邸宅の皺寄せだろうか。何事かと問う声はやや遠いが、派手に物が壊れる音は続いていた。
「道中は弱り果てていたのにこうも元気が残っているとは」
 閉じていた目を開いた。聞き間違いようのない声だが、そんなとぼけた物言いは初めて聞く。どこかの扉が蹴り開かれ女の悲鳴が聞こえた。
「バルカ! これは何の真似だ!?」
「何のと言われても、あなたの屋敷はどこだと言うので案内してやっただけですが」
「あ、案内? 何をふざけた……」
「それにしてもあれほど怒り狂うとは、代理人がよほど過酷な振る舞いをしたのでしょうな。何しろ着の身着のままの風体で妻と娘の乗る輿の前に飛び出して来ましてね、娘があまりにも哀れだからなんとかしてやれと……ああ娘というのは長女で、なかなか情の深いところがありまして、あんなむさ苦しいものを見たことがないので気味悪がってもおかしくないところを助けてやれと言うのですよ。私も娘に乞われたのをどうにもできないのでは立場がないものだから。何はともあれ約束通りの報酬を受け取れさえすれば郷里に戻って家族にその金を渡してやれると言っているんだ、ここはひとつ……」
「分かった! 分かったから奴らを止めてくれ!」
「いやはや……丸腰ではどうにも……」
 これでは声が届きそうにもありませんねと、ハミルカルが出す弱った声がおかしい。
 暴れれば暴れるほど報酬をはずむと言われたのだろう、傭兵たちは壊せそうなものを片っ端から壊してまわっているらしい。逃げ惑う女たちの声や立ち向かってはいるのだろう男たちが叩きのめされる騒音を聞きながら、投げ出したままの腕がまだ持ち上がらないのを確かめる。
 指先くらいは動いた。ぼんやりと待っていると、扉が開き、絨毯を踏み込む音が近づいてくる。
「なんだここは」
 ハミルカルは煙たそうに袖であたりを払い、足下に落ちているものに顔を顰めた。そばに膝をついて裾を戻してから、ハスドゥルバルが口を利かないのでどういう状況か察したのだろう。ひどく怖い顔をして、怒っているのを隠しもしない。
 何か言いたげだったがいま言っても仕方がないと諦め、ハスドゥルバルを抱え上げ天蓋を払って庭に出る。ようやくまともに息ができた、と思うと目を開けていられなくなった。


 目を開くとまだ明るかった。そう思ったけれど、よくよく見ると部屋に差し込んでいるのは夕陽の色ではないなと寝返りを打ち、そこに認めた姿に自然と頬が緩む。
「ハミルカルさま」
 寝台の奥からの声に、窓際の椅子で書簡か何かを読んでいたハミルカルが顔を上げた。
「……朝ですか?」
「もう昼だ」
「……何飲ませたんでしょう、あの方……」
 ほとんど丸一日眠っていたことになる。
 起き上がろうとするのを制し、寝台に腰掛けたハミルカルの手が額に触れた。熱がないのを確かめ離れようとする手を捕まえ、頬を寄せる。それを見下ろすハミルカルはまだ怒った顔をしている。
「調子は」
「少しだるいですが、それだけです」
「それで?」
「それで……ハミルカルさまはどうしてあそこに?」
 手を引き抜かれてハスドゥルバルが抗議の声を上げると指で額を弾かれた。それなりに痛い。
 ボミルカルがおつかいについて話題に出し、確実に面倒な事態が起こると考え傭兵たちを探し出したと言うことらしい。ハミルカルからすればアドヘルバルのハスドゥルバルを見る目は異様だった。報酬の未払いは事実、ハスドゥルバルを連れ出したことをどうこう言える立場ではなく、アドヘルバルは何もなかったということにするだろう、と。
 それは、そうだろうが。票を失ったなとハスドゥルバルは少なからず落胆した。他のあてもあるけれど、あれがいちばん、簡単そうだったのに。
 ハスドゥルバルが膨れるのを、ハミルカルは理解し難いという顔をした。
「邪魔をされたとでも言いたいのか?」
 不快さの滲んだ声に、わずかに怒りの気配を嗅ぎ取って、ハスドゥルバルは顔を背けた彼の腕に触れた。
「最初からあれに身を任せようとでも? 誰がそんなことを頼んだ」
「ハミルカルさま」
「お前を売って票を得るなど御免だ」
 侮辱したことになるのだろうか。最初からそこまでするつもりではなかったけれど、期待を持たせて願いを叶えてもらったならば返礼が必要になっただろう。そうしたら、求められるものを差し出したはずだ。
 ここは、おそらく彼の屋敷の客室だった。ハスドゥルバルはいつも遅くなったとしても家に帰されるからここに泊まったことがない。ハミルカルはいつも、遊びに付き合うようにそばにいさせてはくれるけれど、引き留めてくれない。
 両手で肩を引きこちらを向かせようとしたが、まったく動かない。襟元を掴んでぐいぐい引っ張っても微動だにせず、その手を払い落とされる始末だった。
「ハミルカルさまが嫌がるとは思わなかったんです」
「自分のものを他人と分け合う趣味はない」
「いつから私があなたのものになったんですか?」
 純粋な問いだったが予想より深く刺さってしまったらしい、答えあぐね黙り込んでしまった。もう一度肩に触れる。振り向いたハミルカルがハスドゥルバルのそばに手をついて身を乗り出した。
 覆い被さる彼の影が落ちてくるのにはちっとも不気味と思わなかった。両手を伸ばし、その髪に指を通す。形のいい頭を撫でて、鼻梁をなぞり唇に触れると、その全てを褒めちぎる詩でも作りたい気分だった。紫の瞳に映っている自分がいちばん美しいと思うのも好きだ。
 額を合わせて囁く。
「あなたのものと言ってくださるなら、私を捕まえて、勝手なことをしないように躾けてくださらなきゃ。私はハミルカルさまのために何でもやってしまうんですよ」
 口づけるくらいしてくれるかと思ったのに、隣に横たわったハミルカルに胸に仕舞うように抱き寄せられた。
 自分のほうこそが弄ばれている、そう嘆くのは、彼らを見る人々が純粋な少年が弄ばれていると誤解していることに対してだった。父親への言い訳は自分でしろと言いかけ、ハスドゥルバルの顔を見て、それが真っ赤になっているのを見てハミルカルは固まっていた。
「抱きしめてくださったの、はじめてだから……」
 黙ってまた抱き寄せられて、広い背に手を回した。途方に暮れているような気配があったけれど、もうこれだけで死んでもいいと思うくらいの心地だった。

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