蕾は春を待つ
海はいつも、美しいばかりではなかった。
リテルヌムの別荘の庭園は壁で囲われて、その端には櫓が建てられていた。昼夜を問わずそこに立って別荘を守る者が置かれ、庭に出るといつも彼らの視線を感じた。こちらを注視するのではない広々とした視界に収まっている感覚は嫌なものではなく、彼らは私と目が合うと手を振ってくれた。
ひとりで壁の向こうに行ってはいけない。夜、庭に出てはいけない。たとえ別荘の中でも、明かりのないところに近づいてはいけない。
娘と女奴隷の何人かとで糸を紡ぐとき、必ず母はそう言いつけた。そのほとんどがその輪の中でいちばん幼く跳ねっ返りの娘に向けてのもの、それが分かっていて私は首を傾げた。
「何が出てくるの?」
母はこういうときに下手な嘘よりも真実を選ぶひとで、好奇心から夜になったら部屋を抜け出そうと企んでいた私に、共に糸を紡ぐ幼い奴隷を指し示した。その少女は黒い肌と長い手足をして、まだあまりラテン語が上手くなかった。
「この子はどこからどうやって来たと思う?」
「……アフリカから来たって言ってたけど」
「攫われて来たのよ。海辺で遊んでいたら船に放り込まれて、気がつくと鎖に繋がれてローマにいたの。ミノル、あなたも言いつけを守らなければ、エジプトやギリシアに連れて行かれてしまうでしょうね」
「でも、連れて帰ってくれるでしょ?」
「無理よ」
にべもない物言いに、私はただ頬を膨らませた。
糸を紡ぎ、機を織って、畑の世話をし、父や母に勉強を教わる。お昼寝をして、海辺に出て遊び、歌を歌い、小さな祭壇に祈り、夜の訪れと共に眠った。
私の眠る部屋には、乳母だけが隅の方で横になっていた。少し前までは姉と共に使っていた部屋をひとりで使うのは、兄たちが言うほど嬉しいことはではない。
姉がローマに戻り、別荘には父と母、それに私と、召使に奴隷たちだけが暮らしていた。姉をこの別荘から引き離す婚礼のあいだじゅう、ふとした拍子に涙が出て、思い出は涙の幕の向こうにある。
あの日は、普通の婚礼とは順序が違った。ナシカはリテルヌムまで姉を迎えに来てくれて、姉はそこで父と別れた。母と私とは彼女に付き添って一度ローマに戻ったけれど、父はここに残ったのだ。なんて頑固なんだろうと呆れもした。リテルヌムにいた頃の私には、父がそれほどローマを嫌う理由がまだ分からなかった。
長兄が主人となって守る屋敷での祝宴では不自然なほど父の名が出てこなかった。一族の者たちが揃い、父の友人たちも参列してくれたけれど、誰も花嫁の父がいないなんてと言わなかった。
生家から姉が連れ去られたあと、私と母はいっとき呆然として、騒々しい行列がナシカの屋敷に向かうのをただ聞いた。
「ふたりで帰らなきゃいけないの?」
兄たちはローマからよく訪ねてくれるけれど共に暮らしているとは言えなかった。ふたりで馬車に揺られてまたあの別荘に帰るのだと思うと、ローマの苛立たしいまでの喧騒でさえ惜しくなる。その腕から娘を捥ぎ取られたあとの母は私の手をぎゅっと握って、だって、と優しい声で言った。
「だって、お父様が待っているもの。一緒にいてあげなくちゃいけないのよ」
母と離れて暮らすなんて、考えられない。では父はと思うと、兄たちと離れて暮らすことができているのだから、平気かもしれない。私が生まれたとき父は遠い異国にいた。記憶の呼び起こせる限りいつもそばにいるのだけれど、だから平気かもしれない、と思う。
──波の音を聞きながらしばらく目を閉じていた。その日は不思議なほど寝つきが悪く、じっと瞼の裏を見ていても一向に意識が解けていかなかった。仕切り直そうと起き上がって寝台を下り、戸棚の下から二番目の棚を手で探る。そこには私の大切なものだけが並べてあり、母も乳母も触らないことになっていた。
しかし、いくら手を動かしても、目当ての感触がない。深い友情で結ばれた人形たち、貝殻で作ったネックレス、格好いい枝、母が刺繍をしてくれたリボン、順番に触れて、探し当てた麻布の袋を握るとその中にあるはずの硬さがなかった。確信したときには眠気など消え去っていた。
姉がくれた石がない。
それが宝石でないことくらい、もう私にも分かっていた。けれどリテルヌムに来た最初の日に姉がいちばん綺麗な石だからあげると言って渡してくれた、つるつると光る白い石は、母の持つどの宝石でも敵わないほどの価値がある。
昼に父と共に浜辺に出た。そのとき、似た石がないか探そうと思って袋に入れたあの石を持っていった。途中から砂遊びに夢中になって──あといくらか辛抱すれば日が昇り、乳母や奴隷を連れて探しに行けることはもちろん分かっていたが、波の音がやけに大きく響いていた。
波に攫われていったらどうしよう。どこで落としたかも分からないのに。
乳母は小さく鼾をかいていた。いちばん眠りの深い時間、屋敷は静かで、奴隷たちが朝の準備を始めるにもまだ猶予がある。
私は裸足のまま、そっと部屋を出た。中庭を抜け、冷たい草を踏んで庭園に足を踏み出しかけて、いまも焚かれている松明が目に入った。
星々の輝く空に月はなく、炎が何より明るく輝いていた。そっと、足音をさせないように、庭を囲む壁沿いに歩く。櫓の下にある出入り口は閉ざされているが、その戸は下の方に隙間があり、私の小さな体ならば潜り込むことができた。
夜の海はどこまでも真っ黒くひたすらに暗い。松明の灯りを避けながら、坂を下り足の沈み込む砂を踏み締めて、父と作った砂の城がただの山になっているあたりにしゃがみ込む。
這い蹲って両手で砂を掘り返していた私は、そばに誰かが立ったのにしばらく気が付かなかった。手が何も履いていない足に触れそうになり、顔を上げると、女が立っていた。知らない女だった。暗かったが、結わずに垂らした金髪の美しい女で、まだ若いと見えた。
「帰りましょう」
女はそう言ったが、屋敷にこんな奴隷はいない。近隣の住人のなかにもいなかったはずだ。私は一度会った人間の顔を忘れないという自信があった。
「お母様と一緒に帰りましょう」
悲しげな顔をして、こちらに手を伸ばしてくる。立ち上がって、砂の山を挟んで女を見上げた。青い目をしていた。壁の向こうを指差し、違うわ、と私は言った。
「私、違うわ。お母さまはあっちにいるの」
いま見つかれば大目玉どころではないだろうけれど──黙り込んだ女は、まじまじと私の顔を見つめ、首を振る。砂浜を見渡し、海を振り返って、風に乱れる髪の間からほとんど泣き声のような声を出した。
「わたしの子供たちはどこ?」
私は石のことを思った。いままさに波に飲み込まれているかもしれない石のことを。けれど長くは迷わなかった。
「探してあげる」
大目玉では済まず、何日も部屋に閉じ込められるだろうけれど、頼んであげようと思った。女は同じ場所に立って、壁の方へと促す私をぼうっと見つめていた。
もう一度呼びかけようとしたとき、炎が私たちを照らした。戸の開く音、弓の引き絞られる音、金属が鋭く擦れる音が一度に響く。
「コルネリア!」
タン、と想像よりずっと軽い音で女の顔に矢が突き刺さった。
あっと思ったけれど声は出なかった。
砂を蹴る音がして、腕を思い切り引かれた。砂浜に背中から投げ出された私は、天地のひっくり返った視界で白刃が光るのを見た。
ひとり、ふたり、そこにいるとさえ知らなかった者たちが、斬り払われたところを櫓から降る矢に射抜かれて倒れていく。三人目を打ち寄せる波の中に斬り伏せて、父が振り返る。櫓からこちらに向けられた松明が、真っ青に竦んだようなその顔を照らし出した。
立ち上がった私は、頭が働いていなかったのだろう。いちばん近いところの死体に一歩二歩と近づいた。そして覗き込んでみると、そこに横たわっているのは女などではなく、禿頭の男なのだった。眼孔と胸に突き刺さった何本もの矢が、その体から血を溢れさせ、砂が黒く染まっていく。
それをじっと見下ろしていた私の目を覆った手は父のものだった。その手は震えて、私を抱き寄せた父は息を切らしていた。立っていられないというようにふらついて、砂の上に両膝をつく。父の腕の中で私はあの女のことばかり気にしていた。
「お父さま」
トゥニカの袖を引っ張って呼んでも、父は答えなかった。答えられなかったのだろうが、私はしつこく繰り返した。
震える腕に抱き締められていたから、父の心臓が激しく鼓動を繰り返すのも分かった。それが落ち着き、息を整えることができたときには、櫓から降りてきた男たちが私たちを囲んでいた。次第に、壁の向こうが騒がしくなる。やや遠い岩場に小船があったと弓を携えた男が言った。
父は彼らに何も指図しなかったが、こんなときどうすべきかは予め決めてあったのだろう。父に手を引かれ、奴隷たちと入れ替わりに壁の中に入ったところで、彼は立ち止まった。
「お母様の言いつけを破ったね」
私は父に怒られたことがない。恐ろしい顔をするところを見たことがなかった。
父の凱旋式を知らない。軍装の父を、馬に跨る父を、生気に満ちた父を。剣を手にするところも、知らなかった。父の白い顔には彼のものではない血が散っていた。
表情のないその顔を怖く思わなかったのは、私が父とよく似た顔だからかもしれない。
「お姉さまの石がないの……」
見つけられなかったの。そう言った私に父は少し眉を寄せたが、そうかと頷いたときには微笑んでいた。
「石はあとで探そう。怖い思いをしたね」
「ううん、怖くない」
「そう?」
「ちっとも怖くない」
怖がってくれないと教訓にさえならないではないかと、たぶん父は困った。私が強がりを言っているのではないのが分かったのだろう。
「ミノルは僕に似てて困るな」
それは言いつけを破ったことのある人のぼやきで、父は娘を叱るのも諭すのも諦めてしまった。私たちを待つ人たちの影を庭園の向こうに見出し、そこでやっと私は自分のしたことが何であるか実感が湧いた。母は硬い面持ちをしていた。
彼女より先に乳母が庭へ走り出て、私のことを抱き上げた。おそらく母の怒りから庇おうとしてくれたのだろうけれど、ただ思わずそうしたのかもしれない。よかったと繰り返す女の腕の中から見た母は、私に視線を向けなかった。
柄を握りしめたまま強張っていた父の手から剣を受け取り、母はそれを控えていた侍女に渡した。
「浴室の準備をさせるわ」
それだけを言って、まだ震えている父の手と腕とを摩る。その腕は痩せて細く、私の体を膝に上げるのにさえ父は苦労させられていた。
私のことを抱き上げられもしないのに、父は剣を取ったのだ。
「ミノルの婚約を決めてきたよ」
それはまだローマにいた頃のこと、屋敷に帰るとともに父がそう言ったとき、私は部屋で姉とふたり遊んでいた。
声がはっきり聞こえたのは、その頃では珍しいくらい父が上機嫌だったからだろう。出迎えた母が何か返して、父がそれに答える、会話はだんだん近くなって、たぶん両親の寝室あたりでふたりは足を止めた。
「決めてきたとはどういうことです、私に相談もなく?」
母の険のある声に、コルネリアが顔を上げた。床に広げたおはじきを集める手を止め、座り込んだ姿勢のままじっと動かなくなる。
「まあ、お聞きよ。決めて来てしまった気持ちが分かるから」
「口惜しいこと。ミノルにはグラックスのような婿をと思っていたのに」
「ほら!」
「何なのその得意げな顔は……」
私は心配げに耳を澄ませるコルネリアの膝に頭を乗せた。父母の声を聞いてはいたが、おはじきを手にいくつか握って、がりがりと擦れ合う不愉快なような愉快なような感触を味わうのに忙しかった。
「グラックス……」
それが、父を喜ばせて、母を納得させた人物の名前だった。
呟いた姉が私の顔を覗き込んで、ちっとも同じ気持ちでいない様子に眉を下げる。
「結婚する人が決まったのよ、どうして気にならないの?」
三歳の妹に焦れったく問うても仕方がないと分かっていて、それでも姉は言わずにいられなかったのだろう。近頃、屋敷の中にいてさえなんだか様子がおかしいのが分かるほど、大人たちは緊張し、子供たちにもそれは伝わっていた。
叔父が酷い目に遭っているらしい、それを助けてくれた人がいるらしい。本当のところ、いじめられているのは叔父というより父で、だから最近父はあまり元気がない……すべては漏れ聞こえる話の継ぎ接ぎに過ぎなかった、まだ幼い娘たちに民会や元老院での出来事を詳しく話す者などいなかったのだから。
そんな中で決まる婚約は果たして良いものだろうか。
うーん、と私は大人の真似をして唸る。
「お姉さまはナシカのお兄さまが好きでしょ?」
ナシカはいつも礼儀正しく優しくて、堅苦しく思うときもあったけれど、何より姉が彼に恋しているようだったから、当時の私にさえ兄と思うのに何の引っかかりもなかった。九つの年の差は、姉が成長するにつれて目につかなくなっていくだろう。それに嫁ぐと言っても同じコルネリウス・スキピオ家、どこか知らない家に誰の助けもなく放り込まれるのではない。
その心配のなさが、かえって妹を思うコルネリアの気持ちを憂鬱にさせているとは、その頃の私は知らなかった。
「好きになれないかもしれないのよ」
「どうして?」
「どうしてって……グラックスっていう人がすごく年上だったり、顔が怖かったり、意地悪だったりするかもしれないから」
「だったらお父さまもお母さまも喜ばないのじゃない?」
「それは……」
そうね、とコルネリアは妹の結われず好き放題に散らかる髪を撫でる。
両親が娘たちの部屋を覗いたのは、ちょうどそのときだった。部屋に入り、大事なお話がありますと切り出そうとしていた母に、私は跳ね起きて真っ先に尋ねた。
「グラックスってかっこいいの?」
母は隣の父に視線をやった。目を丸くしていた父は娘たちのそばに座り、心配げな長女となぜかその隣で腕を組んでふんぞり返っている次女とに優しく笑う。
「格好いい男だよ。何が正しいことなのかを、自分で決めることのできる人間だ」
「顔は?」
「ん?」
「お顔」
そうだなと父は私の頭の上あたりに目をやった。
「ミノルの好みかは分からないけれど、悪くないんじゃないか」
「ふーん」
「まあ、まだまだ先のことだからね。ミノルは元気いっぱいに過ごしてくれればいいんだよ」
本当はそれが最も心配で、難しいのだ。姉も私も、兄たちよりずっと頑丈な体を持って生まれたけれど、つい数日前に一緒に遊んだ子供が一夜のうちにいなくなってしまったのを見たことがあった。
母が姉に何か囁いて、その憂いを少し晴らしてやるのを私は父に頭を撫でられながら見ていた。父と叔父はグラックスに恩があった。だからこれはいわば返礼であり、その申し出を受け入れられることはとても大切な意味を持った。
父が母と私たちを伴ってローマを出たのは、その二年後のことだった。
いつもより遅くまで眠って、目を覚ますと、グラックスが訪ねてきていた。数日前に予告されていた来訪だったがすっかり忘れていた私は、しょぼしょぼと開かない目を擦るところを彼に見られ、大急ぎで部屋に逃げ戻る羽目になった。
大抵は兄たちや母方の叔父などと共にやってくるグラックスが、この日はひとりだった。顔を洗って乳母に身なりを整えてもらった私が部屋から顔を出すと、中庭で父と話していた彼が振り返る。
「おはよう、コルネリア」
「おはようございます、グラックスさま。お父さま」
立っているグラックスと、そのそばで椅子に腰掛けている父とを順番に見た。テーブルが出されていて、もう一脚椅子があるのに、グラックスは私を手招きしてそこに座らせる。
昨夜私が乳母に寝台に入れられて眠ってから、両親がどうしていたのかは知らないが、父は疲れた顔をしていた。いつも疲れてはいるのだけれど、いつもよりずっと。
おはようと笑んだ父を窺う私の様子に何を思ったのか、グラックスが海の方を見遣る。
「昨夜は大変だったそうですね」
「節々が痛いよ、もう若くないのに無茶をするものじゃないな」
「何を。誰と比べてもお若くていらっしゃいますよ」
世辞なのか本心なのか、グラックスは私の乳母に何か言いつけて、彼女の持ってきた椀を私に渡した。麦のお粥をちびちびと食べながら、注がれるふたりの眼差しに気がつかないふりをする。
「どなたも怪我はなかったのが何よりです。コルネリアもよく眠れたようだね」
食べている途中で喋れないという建前で黙って頷いた。
私の座る椅子の背もたれに手を置いているグラックスは、こんなところに来るのにトガを着ていた。例えば次兄なら絶対にありえないがいつもそうなのだ。まるでロストラに立つときのように立派な姿をして訪ねてきて、そのまま帰っていく。
彼が本当は兄たちと来たかったけれどと言葉を濁すのに、父の顔がわずかに曇った。ここにいると、ローマにはまるで良いことしか起こっていないかのようだ。本当はそうではない。
「どちらも軽い風邪のようですが、プブリウスの細君が連れて行かないでくださいと言うので」
「うん。いい嫁だ」
「二人とも心配していましたよ」
父は、どこかを見ていた。私でもグラックスでもなく、目の前にある何でもなく。
「ハンニバルのことはお聞きに?」
「……ガイウスがね、わざわざ来て教えてくれたよ」
「ああ、そうですね。無論そうするでしょう、あの方は……」
「来て話してとんぼ返りだ。ミノルは彼が来ていたのにも気が付かなかっただろうね」
いつの話だか分からなかったから、そうなのだろう。そして彼らの間に流れる空気がどこからやってくるのかもぴんとこなかった。
その名前はもちろん知っている。自分が生まれる前に始まり、終わった戦争だが、よく知らないでは済まされなかった。王たちの名前を覚えるより先、スキピオ家の祖先の系譜を覚えるより先に、父の帯びる称号の意味について覚えたのだ。
どこの家の父親が、息子が、兄弟が、いつどこで死んだのか。父が集めた兵士たちはどこから来たのか。分からないでは許されない。知っているのを期待している人々に失望させてはいけない。母がそう厳しく教えたおかげで、姉は初めて会う人たちを何度も涙させていた。
家族以外の人々と交流を持つ頃には私も、もちろん存じていますと答えるようになっているだろう。父が、祖父が、あなたのご家族に支えていただいたことは、忘れ得ません……。
そんなふうに教えられていて、この空気を読み取れるはずがない。グラックスを振り仰ぐ。
「ハンニバルがどうしたの」
「死んだんだ」
「……ビテュニアで?」
「よく知ってるね」
「誰だったかな。どこに行っても同じことするのにカルタゴから外に出すなんてばかみたいって言ってた。……グラックスさまが言った?」
「まさか。そんなこと言わないよ」
苦笑を浮かべて、ともかく死んだのだと。それは喜ばしい報せでは、ないらしい。悲しい報せでもない。人々の間を虚しく吹き去っていく風のようなものだった。
グラックスの一族にも戦死した者があり、犠牲を負わない家族はなかった。しかし、大人たちは複雑なのだ。敵を悪様に語っておいて、無様さを許さないという、大人たちの矛盾は私には違和感としてだけ存在していた。
空になった椀をテーブルに置き、あのねとふたりを見比べる。
「あのね……浜に行っちゃいけない?」
グラックスは目を丸くしたが、父はそう言い出した訳を知っていた。いま手渡されないということは、あの石を誰も見つけていないのだ。
「攫われそうになったのに怖くないのかい」
「……そうだったの? あれがそうなんだ」
「何だと思っていたんだ?」
「さあ。でも女のひとが……」
言いかけて口を噤んだ私に首を傾げながらも、グラックスは父に伺いを立てた。
「グラックスが一緒ならいいよ。行ってきなさい」
しかし乳母も、他の奴隷もひとりふたり連れてと父は言った。両親は幼い娘を婚約者とふたりきりにせず、少なくとも乳母が常にそばについていた。
昨日はよく晴れていたのに、いまにも雨の降り出しそうな空模様だった。大人たちを引き連れて壁まで来た私は、櫓に駆け寄ってねえと声を張り上げる。顔を出した馴染みの男がおやという顔をした。
「ゆうべはありがとう。隠れて出ていってごめんね」
私が上手に抜け出したせいで、叱られなかっただろうか。男は破顔していいんですと手を振った。もうひとつの櫓に走っていって同じことを伝えると、そちらからもご無事で何よりと声が降ってくる。追いかけてきた乳母に手振りで屈むよう促し、その耳に手を当てた。
「あとでね、みんなにお菓子を持っていってあげてほしいの。私、しばらくおやつ食べないでいるから」
「まあ……お嬢様がですか?」
「そうよ。いい?」
「ええ。もちろんですよ。そうしましょうね」
私のために父が探してきたスパルタから来た女は、小言が多いけれどこういうとき物分かりが良かった。戸のところで待っていたグラックスに用事は済んだと頷くと、可笑しそうに目を細めながら戸を開いてくれる。
空が曇っていれば、海もやや荒れていた。まばらに草の生える坂を下りた先で、勢いよく打ちつける波がさらう砂に、昨夜の名残はない。
無論、女もどこにもいなかった。遠くに視線を流したあと、足元を見る。砂山も均されていて、さらさらとした砂のどこを探そうか、あてがなかった。
それに、口元がむずむずしている。言いたいことがある時の擽ったさをやり過ごし口を閉じているには、そうした方がいいと分かる程度に賢くとも幼すぎた。
「ちゃんと泣いたらいいのに」
すぐ後ろにいたグラックスが打った相槌に振り向く。何のことかと尋ねない声の調子が気に食わなかった。
「だって、悲しいんでしょ。悲しいならその顔をすればいいのに。ここはローマじゃないんだもの」
「悲しまれていると思うかい」
「あの顔は、そういう顔なの。お父さまは悲しいとき寂しい顔をするの。ローマを出ていくときだってそうだったの。この世にひとりぼっちみたいに……お母さまも私もいないみたいに……」
せっかく帰ってきてあげたのに。
トガの裾に砂がつくにも構わないで隣にしゃがみ込んだグラックスが、水平線を睨む少女に穏やかな笑みを浮かべた。
「お嬢さん、父親というのは娘の前で泣かないものだよ」
「グラックスさま、娘がいるの」
「いないよ。でもそういうものだから分かるのさ」
「じゃあ誰の前ならいい?」
「さあ、それは私も知りたいな。多分義理の息子の前でも泣いてくださらないんだろうから」
グラックスが私の手を取って、握り込んでいた指を広げさせた。そこにころりと転がり込んできた白い石は、見間違えようもない。
「ほら、綺麗な石だ」
私は、大人から見ればただの石を後生大事にしていると知られたくなくて、グラックスの前でこの石を出したことはなかった。話したこともない。父が伝えたとも思えない。
裾で拭えば手に馴染んだ滑らかさが蘇る。手のひらに載せた石を撫でる私が見返すと、グラックスは幼子のために作った顔ではない大人らしい厳しさを額のあたりに帯びて、先ほどまで私の見ていた海に顔を向けた。
「ハンニバルは、いつまでも自分を恐れるローマ人を安心させてやろうと言って毒を仰いだそうだ。ローマではフラミニヌスが顰蹙を買っているよ」
彼はしばしば、他の大人ならば決して子供にしないような物言いで、大人を相手に選んで当然の話題を私に聞かせた。いますぐ理解する必要はないと思っているらしい彼の意を汲んで、私はいつも分からないとは言わずに耳を傾ける。
「老いて衰えて、それでも意思が揺るがぬとしても、もう誰もあの男に軍隊を与えなかっただろう。食客として話し相手にするのならばともかくね。だから確かに、無益なことをしたと思う」
「グラックスさまは、ハンニバルが生きていてもよかったの?」
「戦場で死ななかったから、仕方がないと思うようになったよ」
グラックスは父に敬意を払う。いつも礼儀正しくそれでいて親しげで、私に対しても無礼な振る舞いはしない。けれど、彼は自分で正しいことを決めるのだ。目を閉じて誰かを追いかける側の人間ではなかった。
「……君の父君が、あまりに眩い光輝を恐れる者たちを、そういう者たちが導く国を安らがせるためにここへ来たのと同じだ。臆病者ほど刃を鋭く磨き、闇雲に振り回す」
瞬きをひとつすれば、優しい顔の婚約者だった。
立ち上がったグラックスが、軽々と私を抱き上げる。ぽつりと雨粒が頬に跳ねた。小雨では済まないだろう大きな雨粒が海を叩く音がだんだんと大きくなるのを、トガに包まれながら聞く。そんなふうにしたら着崩れてしまうのに、すっぽりと私を左腕に収めてグラックスは壁の中に入った。
「もし母君がずっとここにいると言ったら、コルネリアも残るかい」
「ううん、ローマに帰る。グラックスさまのいるところにいなくちゃいけないから」
雨が強くなっているのに、グラックスは庭園の半ばで足を止めた。
「誰かにそう言われた?」
「違うけど、お母さまはそうしているから、私もそうする」
「そうか、嬉しいよ。君がいないローマは寂しいところだから」
「うそつき!」
いつだって人に囲まれて楽しく過ごしていると兄が言っていた。グラックスは朗らかに笑って、否定も肯定もしなかった。
彼の緑を帯びた深い灰色の瞳が、ほんの幼い子供を映す。名誉の階梯に勢いよく足を掛ける男からすれば幼すぎる少女との間にある約束を、グラックスは決して破らないと、誰もが信じていた。
「君はご両親どちらにもよく似ているから、心配だ。約束してくれるかい」
「なあに?」
「悲しいことがあったなら私の前で、ちゃんと泣いておくれ」
もうすぐ悲しいことがあると、彼は知っていた。その気配を感じ取れない私が軽い気持ちで頷くのをきちんと見届けてから、グラックスは別荘の中に戻った。
いつか、私は彼の意思に自分の心を重ねて、同じ道を歩く。それがどんな道かを見定める時間が十分すぎるほどにあることは、逃げることのできない娘には不幸なことかもしれなかった。けれど私は信じたのだ。父が信じたこと、母が信じたことを。
その年のうちに、私は母とともにローマに帰った。