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若葉の頃

 会わせたい者がいる、と父がハンニバルを伴って居館からそう遠くない港へ向かったのは、バルカ家とその配下がカルタゴよりこの地へやってきて一年になろうかという頃だった。自分を乗せた船もこの港に着いたのだと誰に言われるでもなくハンニバルは思い出し、そっと父や父の将のひとりであるヒミルコを伺う。厳しくもありながら幼子に対してさえ敬意を払うヒミルコはハンニバルにとって信頼の置ける人物であり、父の腹心とも言える存在だったが、今日のように謎めいて微笑むときには何かを企んでいるのだと早くに学んでいた。
「本国からの船に、その者が乗っているのですか」
 武装せず平素の服装に身を包んだハミルカルは何も答えず、こちらも少し笑ってみせる。ハンニバルはそれ以上質問を重ねなかった。
 このバルカ家の当主は確実にヒスパニアを支配下におさめ、その勢力を拡大するとともに本国へ供給するべき金などの資源を掌握している。それを肌身で感じるほどに近くで見ていながらも、やはりハンニバルはやっと十に歳が届いた程度の子供だった。まだ当事者とはなりえないのだ。
 整備された港と、それに付随する町並みはあくまで軍営地としてのそれだった。都などと呼ぶにはまるで、何もかもが足りない有り様ではあったが、ハミルカルは愛すべきものを見る眼差しで自身の造る街を見ていた。
「ーーああ、見えてきましたね」
 ヒミルコが手を翳し、洋上に浮かぶ船影に目を細めた。その視線を追ったハンニバルは、まだそこに特別注目すべき点を見つけていない。まさか幼年の末弟が乗っているはずもなく、ならばシレノスたちのような家庭教師か、とも思ったがそれならばわざわざ港にハミルカルがハンニバルを伴うとも思えなかった。外套が洋上を滑る風にあおられ、磯のにおいは本国にいた頃から馴染み深い。
 船はどんどん港へと近づき、その姿がはっきりと認められるようになったころ、ハンニバルはやっと「おかしなもの」を見つけた。甲板から身を乗り出すようにしてこちらを見ている赤毛の、少年。
 その少年もまた、ハンニバルの存在を目に止めたようだった。濃い紫の瞳が無感動に自分に視線をやっていることに気付き、しかしすぐに、彼の視線はハンニバルの背後のヒミルコに移る。
「若君、あれが我が愚息のマハルバルです」
「ヒミルコ殿の……」
「ちょうどあなたとは同い年になる。ああ、若君と比べると出来の違いが際立つなあ、我が子ながら」
 とんだ暴言だったが、深い愛情の込められた言葉には違いない。船を降りた少年が足早にこちらへ駆け寄るのをハンニバルはまだ無感動に見つめるだけだった。同い年の少年、マハルバル。これが父の言った者なのか、と。彼に伴ってやって来たヒミルコの家の者達を置いて父と主君の前に立った少年は、行儀よく挨拶をして一礼してみせる。
「船旅はどうだった、マハルバル」
 少年に対するハミルカルの声音には親しみがあった。内々の者に対しては柔和な一面を見せる彼はしかし、我が子にはその声色を使わない。
「あまり面白くなかったです、馬のほうが好きだ」
 そう答えながら、マハルバルの視線はハンニバルへと向かった。よく快活さのよく表れた顔立ちや、少年らしいまっすぐに伸びた手足は、なぜだかハンニバルよりも彼を幼く見せているようだった。ハンニバルは比較の対象を持たぬので知らないことだったが彼は年齢にしては背の高い方でもある。何よりも、静かなその面持ちが彼らをきっぱりと分けていた。
 ヒミルコが我が子の頭を乱暴に撫で、子と同じ夕日の色の目を細める。主従が相対する形になりマハルバルはお互いの立場を一応は察したようだった。
「お前がハンニバル?」
「……そうだ」
「若君に向かってお前、はないだろう。父の目のないうちに礼儀を忘れたのか?」
「うるさいな! いちばん偉いのはハミルカル様なんだろ!」
 当たり前だ、とヒミルコはため息をつく。頭に載せられたままの父の手から抜けだそうとマハルバルは抵抗を試みていたが、現役の武将であるヒミルコの力に敵うはずもない。それは明白だというのにじたばたと暴れ続けるこの少年の意図がハンニバルには分からなかった。
「父上」見上げると、ハミルカルは我が子に視線をやらず続きを促した。「マハルバルは、俺の何としてここへ?」
 きょとんとこちらを見るマハルバルは、ヒミルコの子である以上はバルカ家への忠誠を義務として課せられている。ひいてはハンニバルへの忠誠を。だが父やヒミルコが彼を呼び寄せたそれ以上の理由というものをハンニバルはおおよそ見当づけていた。
「無論、お前の対等の存在として。このマハルバルを兄とも弟とも思うがいい」
 ハンニバルはマハルバルを見た。マハルバルもまた、ハンニバルを見返す。
 子供達がじっと睨み合うようにして動かないのを彼らの父は、内心では手に汗を握り見守っていた。


 扉を開けて、シレノスはぽかんと、その空の部屋を見回した。いつもならばきちんと若君の腰掛けているはずの椅子は空で、近頃新しく並べられた椅子もまた、空だ。シレノスに連れられて来たハスドゥルバルも微かに目を瞠って、部屋を覗きこんでいる。
 午前の過ごしやすい気候のうちに勉学を済ませてしまうのが習慣となっているのを二人が忘れてしまうはずもないが……シレノスは腕に抱えていた書物を机に置き、二階の窓から屋敷の中庭へ顔を出した。そしてふと窓枠に引っ掛けられた布に気付く。
「おやおや、これは……」
 何を結び合わせたものか、さして長くない布をいくつか合わせて縄のようにしたものが垂れ下がっている。これと、窓にほど近い場所に立つ木とを伝って、子供達は抜けだしてしまったらしい。シレノスはこのことをハミルカルに報告せずにいられるかどうかを思案して、いたずらの証を腕に収めた。
「おこっていますか?」
 そう控えめに尋ねたハスドゥルバルの小さな頭を、シレノスはふわふわと撫でてやる。それで安心したらしいバルカの次男坊は師の手を引いて、兄らの抜けだした窓から離れた。
 シレノスがそうして教え子たちの不在に気付いた頃、ハンニバルとマハルバルは家の者の目の届きにくい裏手から屋敷を抜けだしていた。どちらが言い出すでもなく、足は演習場となっている平原へと向かう。その途中で通り過ぎる兵士たちはハミルカルの子がいるのに驚いても、マハルバルが指を口に当てるのを見て見て見ぬふりを決め込んでいた。戦場では馬を駆り、甲冑を身につけ武器を手にする者たちが、彼らに割り当てられた土木の仕事に従事するのは当時では珍しいことではない。これから発展していくだろう街を抜けて、彼らは見晴らしの良い丘を登った。
「父上はいるかな」
 マハルバルが手近な木によじ登り、新兵の訓練にあたっているのだろう一団に目を凝らす。ハンニバルはざっと見渡して父のいないことを確認したが、それに安堵すればよいのか落胆すればよいのかは判断がつきかねた。
 抜けだそう、と言ったのは勿論マハルバルのほうだ。遊ぶのなら午後にしろと答えたハンニバルに、午後になると訓練が終わってしまっていると言い募り、最後には「これは冒険だ、こんなこともできないなんて臆病者だ」とまで言って、マハルバルはここに来た。彼がハンニバルを悪さに誘うのはこれが初めてのことだ。
「なあ、お前って同じ時間に起きてちゃーんと勉強して、シレノスの言うこときいて、決まった時間に寝て、次の日も同じことしてるのか?」
「それが俺の義務だからな」
「つまんねーなー、さぼりたいなーって思わないわけ?」
「思わない」
「……つまんねえな……」
 それはハンニバル自身に向けられた言葉だった。ハンニバルが見上げると、マハルバルは発言を取り消すでもなく真実つまらなさげな顔で幹に背を預ける。マハルバルがヒスパニアに来てまだ二週間程度しか経っていないが、彼はしきりにつまらないと口にした。そう言われてもハンニバルにはつまらないと思うことがないから「そうか」としか返してこなかったのだが、この脱走はもしかすると我慢の限界というものなのかもしれない。
「……俺は」
 ハンニバルは、マハルバルという人格をあまりよく理解していない。彼は快活で、素直だ。ヒミルコに対する口の利き方は時にハンニバルが唖然とするほどに乱雑で、大人たちの頭を悩ませるためにその知性を総動員する様子は、ハンニバルにとって見知らぬ国の習慣を見せられるような驚きがあった。しかし何も、ハンニバルは「良い子」であるわけではない。
「俺は、望んでヒスパニアに来た。本当ならばまだ本国にいるべきと父上が考えておられたところを、無理を言って同行させていただいたのだ。その俺が与えられた義務さえも果たせないのでは、父に恥をかかせることになるだろう」
 改めて口にする必要がないほど、それはハンニバルと彼の周囲にいる者達にとって当たり前の事実だった。ハンニバルがバアルに立てた誓いを誰しも伝え聞き、だからこそ、ヒスパニアに渡ったカルタゴ人の誰もがこの少年に期待をかけても良いものと思っている。
 マハルバルが目を瞬かせ、思案するように眉を寄せたが、しばらく彼は言葉を発さなかった。兵たちの上げる声がここにまで届き、刃の交わされる鋭い音が風に紛れてハンニバルの視線をまた平原へと導く。
「なんでヒスパニアに来たかったんだ?」
 ハンニバルの横顔が確かに大人びていることはマハルバルも認めるところでもあったが、彼に言わせれば遊びを求めて勉学を放り出したり、奴隷の仕事にちょっかいを出して屋敷を走り回るということは必要不可欠なことだ。ハンニバルがまたマハルバルを見上げ、「なぜ?」と思いもよらぬ言葉を聞いたかのような顔をする。
「だって、カルタゴにいても同じようなことをしてるだろ。勉強して、剣とか乗馬の訓練をしてさ。なんだってヒスパニアじゃなきゃいけないんだ? 俺なんか若君の遊び相手に、って連れて来られちゃったんだけど」
「……不本意だったのなら、謝る」
「お前が連れて来いって言ったんじゃないだろ。絶対、親父がハミルカル様にあれこれ言ったんだぜ。……お前は、ここにいて良かったって思ってるわけ」
 マハルバルは本国でバルカ家の人々と顔を合わせたことが何度かある。ハンニバルの幼い末弟は大人に従順な子供だったが、あれはおそらく父や兄のいない環境がかえってそれを強いているのだ。そういうにおいを嗅ぎつけることにあたってはマハルバルは鋭かった。そして、その嗅覚を持ってしてもこのハンニバルのことはよく分からない。よく分からないから、踏み込むことも出来ない。
「父は、ローマへの復讐を俺に誓わせた」
 声変わりさえまだしていない、互いに幼いだけの声だった。擦り傷や切り傷の絶えない手足にはよく包帯が巻かれて、貴族の子弟だというのに典雅といった言葉とは程遠いのが、この子供たちだった。ハンニバルは母が子の出立を惜しんで泣くのを見たし、末弟が不安がって出迎えに出られなかったのも覚えている。もしかすると、ハンニバルには長子として彼らを守る義務もあったのかもしれない。
「ヒスパニアは戦いの地だ。カルタゴとは違う。俺はいずれ、絶対に、ローマと戦わなくてはならない」
「カルタゴは生温いってことか」
「そうだ」それに、と心持ち首を傾げる。「父上がおられないのでは学ぶべき相手を失うも同然だろう」
 枝から飛び降りたマハルバルが、木陰に立ったままのハンニバルの顔を覗きこむ。
「お前は絶対に、戦争をするんだな」
「そのためにここにいる。そのためにーーお前もここに来た、マハルバル」
 じわりと、双方の顔に浮かんだのは獰猛でさえありながら幼い笑みだった。そうして笑い合うのは初めての事だったが、どちらも違和感や驚きなどなく互いに顔を見合わせる。同じものを持っている、その確信だけが足りないでいた。
「それなら、いい。お前がそのつもりなら」
 鮮やかな瞳がそのとき、ようやっと彼の本性を映して爛々と輝くのを、ハンニバルは見た。


「あそこにいるのはハンニバルと、マハルバルでは?」
 厳しい訓練にへとへとになった新兵たちに小休止を言い渡し、ヒミルコのそばへ馬を寄せたハスドゥルバルが居館の方角にある丘を示す。武人でありながら生来の優美さを失わないハミルカルの娘婿は、その顔立ちに似合わない粗野な笑い方で年長の将を振り返った。
 丘の上、そう背の高くない木々のそばによく見知った赤毛を認めてヒミルコも苦笑する。隣の黒に近い茶髪は確かにハンニバルのものであろうし、おおよそ我が子が彼を唆したのだろうがーー怒る気にはなれなかった。それはハスドゥルバルも同じだろう。
「シレノス殿に謝っておかなくてはな、まだ大人しくしているが、何度も迷惑をかけているようだ」
「あの方はかえって悪戯っ子を喜んでいるようですよ。ハンニバルもハスドゥルバルも、教え甲斐はあっても叱り甲斐のない子供だから」
 ハスドゥルバルは義弟に対して遠慮というものがない。だからこそ必要以上の配慮を嫌うハンニバルに慕われていた。
 ヒミルコがマハルバルを呼び寄せたのは勿論ハンニバルの遊び相手としてでもあるが、文で伝え聞く息子の本国での様子があまりに酷かったからでもある。家庭教師の言いつけを守らず家人を困らせることばかりして、なにしろ嗣子であるからきつく戒めるのにも限界があった。あれの母親が生きていればまた違ったのかもしれない、何よりも父が子を目の届く場所に置いておけたなら。
「我が子可愛さで、と思われても仕方がないとは思う。呼び寄せたところであれにつきっきりになるわけでもない、マハルバルはかえって反抗を酷くするかもしれん。だから若君に任せてしまおうかと思ったのだ」
「……主従として早くから関係を、と?」
「ハミルカル様もそれを許してくださった。足して二で割れば丁度良い具合になるのではないか、あの二人は」
 果たしてそううまく事が運ぶだろうかと、ハスドゥルバルは遠目に子供達を眺める。ハンニバルもマハルバルも、まだお互いの扱い方を把握していないだけでーーヒミルコの願いどおりよい関係を築けたとして、大人たちの思う通りに彼らが行動するはずはないと、ハスドゥルバルには思えるのだが。まだ本国にいた幼いころ、罠を仕掛けて捕らえた猛禽を嬲り殺したハンニバルをハスドゥルバルは知っているし、現在のハンニバルの品行の良さは計算によらない。
 それが楽しいと思えばマハルバルの悪戯などにも加担するところがあるのではないか、と思えてならなかったが、それがヒミルコにとっては歓迎できない結果であると思えなかったので黙っていた。叱らせてくれない子供よりは、頭に拳骨を食らわせて説教をさせてくれる子供のほうがいくらか可愛いとよく言うものだ。
「あのふたり、喧嘩していません?」
 マハルバルが飛びかかったせいでバランスを崩したハンニバルが後ろへ倒れこんでーーそれ以上は見えなかったが、取っ組み合いをしているようにしか見えなかった。ハスドゥルバルが振り返るとヒミルコは「放っておけ」と父親の顔で笑う。実子のいないハスドゥルバルには分からない感覚というものが子を持つ者達にはあることをこうしたとき感じたが、大して羨ましくもなかった。しかし、と彼は小さく息をつく。
「あの子がちゃんと人間らしくなってしまうというのは、惜しい気もするな……」
 その名の通りの、神がかりの子供が面白いのにと馬首を巡らせるハスドゥルバルに、ヒミルコは困ったように笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。

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