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船出前


 ありとあらゆる言語が、同じ意味の言葉を繰り返していた。
 助けてくれ、頼む、なんでもする、やめてくれ、お願いだから。死にたくない。手足を縛られ襤褸切れを纏うだけの傭兵たちは、自分たちを取り囲む者たちの言葉も知っていた。辿々しいフェニキア語が命乞いを繰り返し、それが火に油を注ぐのと同じだと気がつくと、ぽっかりと口を大きく開いたまま近付いてくる巨体を見上げた。夜の帷が落ちつつあるなか、象使いの翳す松明を背にした獣は闇そのもののように見えたはずだ。
 幼獣の頃から馴らされた象たちは、象使いの命ずるまま足下に投げ出された人間を踏み潰していった。およそ人の体から出るものとは思われない音が、丸太のような脚が一歩進むごとに響き渡る。踏み殺される者たちの悲鳴さえも象が吼えるのにかき消されていった。
 砂の上を飛び散った血が足先まで届きかけて、一歩後ろへ下がった。
 踏めと言われて踏むだけで、きちんと止めを差してやる慈悲を獣は持ち合わせていない。頭を砕かれて死んだものはまだ幸いと言うべきで、下肢が原形を留めないのにまだ生きている傭兵は気が狂ったように叫び続けていた。
 その惨劇を取り囲むカルタゴ軍の兵士たちはそれを大いに笑い、楽しんだ。
 陣営の外の開けた一角に集められているのは傭兵による反乱の勃発した後に招集された、カルタゴ市民からなる部隊だった。シキリアでのローマとの戦いがようやく終わり、たとえそれが敗戦であったとしても平時の空気を吸えるのだと思っていた市民たちは、傭兵に対して並々ならぬ怒りを燃やしている。
 外国人たちが報酬に対する不満や、自分たちを苛酷に扱うカルタゴへの不信を抱くことはまだしも、彼らがリビュアをも巻き込んでいまやカルタゴをアフリカの地に孤立させていることを、どのようにして許せばよいか。
 象の足元に投げ出されているのも数年に渡ってシキリアで共に戦った傭兵である。反乱の鎮圧を命ぜられた当初、ハミルカル・バルカは捕虜とした傭兵や彼らに呼応したリビュア人たちに帰順を呼びかけ、それに応えない者も自由にしたが、もはやそのような温情が許される状況ではなかった。傭兵たちは自分たちのために親身になって働いたはずのギスコを切り刻んで、他の捕らえたカルタゴ人諸共削ぎ落とせる肉の残らぬ姿にして殺した。
 自分たちを囃し立てるがなり声をうるさがって、象たちは踏み心地の悪い肉塊を蹴散らす仕事を嫌がり始める。すると象使いはすぐに彼らを引っ込めて、別の象を連れて来ては血の海を広げていった。戦いの中でいくらか数を減らしているとはいえ、編成された時には七十頭を数えた象部隊は、このために生かして連れてこられた捕虜たちを残らず踏み潰すだろう。
 夏の空気に血の臭気が満ち、自軍の兵士たちに狂気が染み付いていくのが分かる。離反した都市を陥していくのはともかく、傭兵たちを奴隷として売り払うこともせず鏖殺すべしと定められた反乱軍との戦いは、そうして酔っていなくては耐え難いほど酸鼻を極めつつあった。
「……あ」
 不意に声を上げたハスドゥルバルを、共にこの作業を監督していた同僚が振り返る。シキリアでも共にハミルカルの下にあった、つまり自然と付き合いの長くなった男で、惓んで眠たげな目をしていた。
 新たに連れてこられて無惨な仲間の死体の上に放り出された捕虜の中に目を引く顔があり、彼にそれを指差す。
「あの男、見覚えがある」
「どいつもこいつも見たことがある気がするよ」
「褒美がほしいとうるさいから口を吸ってやった傭兵ですよ、ギリシアの、どこから来たのだったっけ。なんだ……死ぬのならしてあげるんじゃなかった」
 ローマとの戦争においてヘイルクテ山に陣取っていたおよそ三年、それだけの時間があれば、傭兵との間にも気安さが生まれたしふざけることもあった。そこに心の通った信頼はなかったが、現に傭兵たちは彼の地で自分たちを指揮した将軍のやり方を学んでいま戦っているのだ。
「そんな悪ふざけ、バルカ殿に叱られなかったのか」
「叱られましたけれど。まあ、前払いのおかげでいい働きをしましたよ。楽しかったな」
 件の傭兵はこちらに気がつくことなく、骸の中に沈んでいった。
「──ハスドゥルバル様」
 振り向けば奴隷がひとり、目を伏せて立っていた。目の前の光景を見るまいとして俯く少年はリビュア人だったが、奴隷の親から生まれたのでカルタゴで生まれ育ったと言ってよかった。その声は狂騒のなかで聞き逃してしまいそうなほど弱々しい。
「ご主人様がお呼びです」
「支度をして伺うとお伝えして」
「いえ、いますぐにと」
「困ったな。ここ、お任せしても?」
 同僚は頷き、もうじきに終わるからと欠伸を噛み殺していた。
 奴隷を連れ輪を抜けて陣営の中へ戻り、傭兵たちがその出身ごとに寄り集まる雑多な区画を通り過ぎて、将軍の幕舎へと向かった。いま、この陣営にはふたりの将軍がいる。
 将校たちを集めての軍議などをこちらで行う分だけ、目的の幕舎は大きく設えられていた。しかし奥まった私的な空間だけでいえば向かい合う方がよほど広いのだ。
 護衛の兵士に声をかけようとしたところで、数人の供を引き連れて出てきた者があった。将軍のひとりであるハンノは、ハスドゥルバルに気が付くとわざとらしく「おや」と声を上げ、たったいま出てきた幕舎と相手とを見比べる。
「なるほど、お勤めか」
 下卑た物言いにただ微笑んで、ハスドゥルバルは彼らに道を譲った。ひそひそと交わされる言葉は聞き耳を立てる必要のないほど一辺倒で、彼らと陣営をひとつにしてから飽きるほど聞かされている。近頃本国で自分についてどんな噂が囁かれているか、無論ハスドゥルバルは承知していた。悪意ある脚色はともかくおおよそ事実なのでどうとも思わないのだが。
 幕舎に入ると、呼びつけた当人の姿はない。ここまでハスドゥルバルの先を歩いてきた少年に促され奥へ進み、ランプの灯りばかりが頼りの空間へ入る。
 ハミルカルは軍装を解いているところだった。外された武具を並べていた奴隷のひとりが音もなく近づいてきて、ハスドゥルバルの外套を受け取る。ハスドゥルバルは既に軽装だったが、短衣を身につけていた。この軍装に合わせた短衣も帯も、最初は慣れなかったがすっかり体に馴染んでいる。軍に加わって既に十年近い。
 奴隷たちは夕餉の支度を始めていたが、部下たちを招く気分ではないのだろう、一人分の軽い食事だけが卓に並べられていた。
「ハミルカルさま、あの方を追い払うために私をお召しに?」
 返事はなく、少し来るのが遅かったらしい。卓のそばの椅子に腰掛けるハミルカルの足元で、奴隷が軍靴を脱がせにかかっていた。
 頬杖をついたハミルカルの目元に疲れが見え、足を清める仕事を終えた奴隷と入れ替わりに彼の前に立った。長衣に身を包んでも寛いだ様子のひとつもないその佇まいに奴隷たちはすっかり神経を擦り減らされており、ハスドゥルバルが指図するとそそくさと外へ出ていく。
「何か召し上がってください」
「……いや、いい。お前が食べろ」
 そんなことを言って、朝食の他に何か口にしたかも怪しいのだ。ここにも、風に乗って傭兵たちの悲鳴が聞こえてきていた。
 痩せてはいないから口うるさく言わないけれど、ハミルカルが目に見えて窶れたのでは士気にも響く。なのに小皿に盛られたオリーブをひとつ口元にあてがうと幼い子供のようにそっぽを向かれてしまう。代わりに食べてみるとあまり味がよくなかった。
 ハミルカルの腕に腰を引き寄せられて、胸元に預けられた頭を撫でる。乾いた硬い感触の髪は指を通したくらいではどうにもならなさそうだった。
「血の臭いがする」
 呟く声に、ハスドゥルバルは兵士たちは喜んでいたと返した。
「死んだ兵士たちの弔いも終えています。いつも通り、簡単なものですけれど……」
 軍団に加わった神官は毎日同じ仕事を繰り返して疲れ切っていたが、それは誰も彼もが同じだ。それでも、ここ最近はこれまでよりも弔うべき死体が増えている。
 二将軍の合流によって規模の大きくなった軍勢の指揮は、うまくいっていなかった。ひとえに彼らの仲が険悪だからである。この有り様は既に本国に伝わり、問題視されているだろう。
 シキリアから手を引くばかりかその他の小さな島々をも手放した、すなわち自由に航海できる海を大きく削られたカルタゴ人はその上にローマへの賠償金を負って、振り返ってみるとアフリカでさえ何もかもが失われようとしている。リビュア人たちが傭兵の呼びかけに応じたのは、あのハンノのようなやり手が、考えうる限りの手段でもって彼らから搾り取ってきたからだ。男たちを兵士として徴用し、重い貢納を課して、やっとのことで二十数年に渡って戦争をしていた。
 そういう意味では、カルタゴに必要な人間なのだ。ただこうして戦場にいられると邪魔なことこの上ない。しかし、ハンノの軍勢とこちらの軍勢とをまとめ、共に指揮を取ることを提案したのはハミルカルだった。
 この日には、数十人の傭兵を捕らえはしたが、こちらの兵士も同程度殺されていた。大半はハンノの指揮下にあった者たちである。将軍たちは互いに譲歩するということをせず、大っぴらに反目しては、相手のすることを無視して連携せず兵士を損耗させている。
 損害は仕方がない、耐えるべきだと言ったのはハスドゥルバルだ。いくら指揮に混乱が生じても、成果が上がっていれば本国はよしとするだろう。無視できなくなる程度の損害はむしろ不可欠だった。
 将軍はどちらか一方だけでいいという声が上がらなくては。
 ハンノはいらない、ハミルカルだけでいい。その結論が出るのにさほど時間はかからない。ボミルカルが元老院から民会へと決定の場を移す手筈となっているのだから。
 髪を梳く手を取ってハミルカルが顔を上げた。冷徹さを思わせる面差しに傷ついた気配が漂うのはこんなときだけだ。
「何も召し上がらないなら、せめてお休みになってください。明日は陣を動かす予定ですから」
 悲鳴と、その対極の笑い声とが耳に届く。彼の言う通り血の匂いが髪の一本一本にまで染み付いていた。それらに知らぬ振りをして微笑んだハスドゥルバルの腕を掴んだ手には、骨の軋むような力が込められていた。
 その手に引かれて倒れ込んだ寝台からは、奴隷たちの心配りか、場違いな清しい香りが漂う。ハミルカルの使う寝台は天幕で土に布を敷くだけの者たちに比べればずっと良いが、ハスドゥルバルの幕舎にあるものと変わらなかった。身の回りの世話をする奴隷の数にしてもそうだ。ハンノの幕舎には彼を慰める美しい女とて侍るのだろうに。
 帯を解く手をそっと押さえると訝しむ目に見下ろされる。
「……身を清めていないので……」
「今更だろう」
「今日は特別、暑かったでしょう、汗が……」
 こうして夜になれば涼しく過ごしやすいが肌には汚れた感覚があって、寝台に上がっているのにさえ躊躇がある。貴婦人ではあるまいしと揶揄された若い頃ほど気にならないけれど、こんな場では別だ。
 何を思ったのか、ハミルカルが小さく息をつく。屈み込んだ彼の呼気が首筋にかかり、肌を這う感触にハスドゥルバルは息を詰めた。
「ん、……」
 肌の柔らかいところを吸われると、ちくちくとほんの淡い痛みが熱を植え付けていく。衣服で隠れないところには跡を残さないよういくら言っても聞いてくれない。
 体が熱を帯びると乾いた汗がまた肌を湿らせる気がして、ハスドゥルバルは覆い被さる体を押して弱々しい抵抗をした。けれど先ほどまでは冷たくよそよそしくさえあったその肌に自分と同じ体温を感じて、一度自分の幕舎に戻るなど考えられなくなってしまう。
 短衣の中に滑り込んだ手のひらは手入れが行き届かずざらつき、その手が触れる肌にもいくつかの傷跡があった。初めて彼に晒したときには傷も痣もなく柔いばかりだった体も、長い軍務がそれに耐えられる形に作り変えている。どうやらハミルカルはそれを気に入っている、ということが、どうにかハスドゥルバルを宥めていた。
 うなじにまで擽ったいくちづけを落としていたハミルカルが顔を上げる。ぼんやりとそれを見返すハスドゥルバルの顔を覗き込んで、揶揄うような声音を出した。
「やっとお前の匂いがした」
 答えずに逃げるように顔を背ける。どうして羞恥を覚えるのだか、赤くなっているのが分かっている顔を彼の方に向き直らされても目を伏せた。
 重ねた唇はすぐにしっとりと吸い付き合い、その感触を味わううちにハミルカルが唇の端に小さな傷があるのに気がついて、舌先がそこを這う。血の固まっていた傷から鋭く痛みを感じ、手の強張りが伝わってしまったのだろう、自分で噛んだのかと問われてハスドゥルバルは小さく頷いた。
 こんなときに仔細など語りたくはなかったので片手で頭を引き寄せて、少し顔を傾ける。伸ばした舌を絡め取られ、それの纏う唾液をこそぎ落とすようにされると堪えようもなく背に震えが走る。本当に力が入らなくなる前にと右手を頭上に伸ばし、重ねられた敷物を探った。
「……?」
 ハスドゥルバルは目を閉じたまま少し眉を寄せた。いつもなら敷物の裏に香油の瓶があるのに、指先には何も引っ掛からなかった。奴隷が忘れてしまったのか、と思ったとき、花の香りが鼻を掠めた。
 目蓋を上げるとともにハミルカルが体を起こして、手のひらに香油を垂らす。伸ばした手を瓶を持つ片手に捕まえられて、思わず閉じようとした膝は相手の体を挟み込んだだけだった。
「だめです、自分でしますから」
「お前はいつもそう言うが、楽しみを奪っているとは思わないか」
「ハミルカルさま、返し……っ」
 油で濡れた手が脚の間に伸び、会陰からその奥へと這う。体温に馴染んだ香油を閉じた場所に塗りつけられて息が乱れた。いつもと同じ油のはずなのに甘い香りに眩暈がする。
「っあ、ぅ」
 こんなふうに慣らす間も与えられないことがあるから、できるかぎり支度を済ませてからハミルカルのもとへ参じた。それができなければこっそり自分で開いて、それを不満に思っている様子もなかった。こんな気まぐれに困らされるのはいつものことだけれど、気が立っている日のように痛みが伴わないだけいい。
 窄まりから中へ指が入り込んで、こじ開けるのでなく解していく。粘り気のある水音にいまになってさえ居た堪れなさを覚えるハスドゥルバルの顔に強い視線が落ちていた。
 されるがまま体を投げ出していたって構わないのだろう。けれど意地のようなものがあった。
「……そんなに、ていねいに……っしなく、たって」
 片腕を彼の体に回し、背を浮かせて距離を縮める。ハスドゥルバルの背を支えてくれる手に挫けてしまいそうになりながら、長衣越しに肩に触れて胸板をなぞって、頼りない短衣と違ってその体を隠す布を引っ張った。
 たくし上げた裾の奥、既に芯を持っているものに指先を添わせて、形を確かめるように柔く撫でる。節だった指が体の中を動くたび震える唇を舐めて、上擦る声はそのままに囁く。
「これくらい、ちゃんと……はいります、から」
 手に力を込めると握り込んだものの質量が増した気がし、耳元に重い吐息が落ちた。寝台のそばに置かれたランプの淡い灯りを頼りに、見上げた瞳の色を確かめる。常よりも濃く見えるそれがハスドゥルバルを見、ハミルカルが目を細めるのを。
 剥ぎ取るように脱がせた長衣を寝台の端に追いやる。浮いた背を寝台に押し付けられて、腰を持ち上げる両手の指が痛いほど強く食い込むのがむしろ陶然とした心地を運んだ。
「……いいな?」
 そんなふうに尋ねたり尋ねなかったり、答えを聞いたり聞かなかったり。ハスドゥルバルが頷かないとは思っていないハミルカルに笑いかけて、その首に手を回した。
 彼がその準備をした場所へ、熱を持ったものが押し入ってくる。受け入れるための力の抜き方も息の仕方も体が覚えているのに、こんなときじっと顔を見るハミルカルの癖には昔から慣れなかった。
「あッ……ぁ、んぅ……っ」
 高く上がりかけた声を飲み込む。ぎゅっと目を瞑ると涙が伝い落ちていった。
 入り口には交代で兵士が立ち、周囲には将校の幕舎が並び、そばを行き過ぎる兵士たちの話し声だって聞こえてくる。この幕舎から何が聞こえようが誰も驚きはしないだろうが、噂話に色をつけてやる気はなかった。
 入り込んでいるものが浅いところに留まっているうちは声を抑えるのも難しくない。緩やかに揺すられているのにいつまでも耐えてもいられなかったけれど。
「ハミルカル、さま、もっと」
 その先は言葉が続かなかったが、正しく伝わった。眦に粒となっている涙を吸って、そのまま薄い唇がハスドゥルバルの口を塞いだ。ちっとも優しげでないものが粘膜を擦り上げて奥へと進む。喉を震わせ、けれど音にならない吐息を飲み込むようにして、ハスドゥルバルが堪えられるのを確かめて唇はゆっくりと離れていった。
 強く突き上げる動きに背が反って、足先が空を掻いた。好きなように貪っているようでいて、寝台が大きく軋んで音を立てないように加減をしているのを知っている。彼だっていつも、理性の綱をしっかりと手にしたままだ。
 もう傭兵たちはすべて死んだのだろう、悲鳴は聞こえてこなかった。冷たく目の逸らせない現実が常に傍らにあり、彼らはそれを忘れる術を持たなかった。戦場から市へ帰ったところで、また別の現実が周囲を取り囲む。
 何もかも忘れて、あるいは誰に憚ることなく。
 果たして、そんな場所があるだろうか。


 浅い眠りから目を覚まして、まだランプが消えていないのに安堵した。
 それでも油が残り少ないのだろう、小さな火は頼りなく揺れている。しばらくそれを見つめたあと、ハスドゥルバルはそっと体に回された腕から抜け出した。体のあちこちに残る違和感を意識から追いやり、寝台の上に起き上がる。
 ハミルカルが目を覚さないのを確かめている、そんな言い訳をしながら眠る顔を見下ろした。
 彼は寝ている間も眉を顰めたままだ。眠りは浅く、目の下にうっすらと隈の浮かんでいる日さえある。怖い顔をしているのがいつものことだから、大抵の者は気にしないけれど、近しい部下たちは密かに案じていた。だから誰もハスドゥルバルが呼ばれるのを咎めない。
 傭兵たちにはすっかり嫌われてしまったが、ハミルカルは自らの指揮下にある者たちに情を抱かない人間ではなかった。シキリアでローマとの和平交渉の全権を与えられたとき、彼が振り返ったのは何も文字通りそば近くにあったカルタゴ人だけでなく、兵士のひとりひとりであったはずだ。
 部下を生かす道が他にないと認めて敗戦を受け入れた。ギスコの考えを信頼して傭兵たちを託した。それがこの顛末を迎え、どれほどの怒りがあるだろう。
 掛け布を引き上げてその肩を覆い、音を立てないように寝台を出る。いつ脱いだか覚えていない短衣を地面から拾い上げ、帯を締めた。外套を広げたとき灯りが消え、手探りに幕舎を出る。
 護衛の兵士たちはこちらをちらと見ることもなく、ハスドゥルバルも何も言わず彼らの間を通り抜けた。月明かりで視界は明るく、歩哨などの当番である兵士たちのほかはみなまだ寝静まっている。ひとまず自分に割り当てられた幕舎に戻ると、寝ずに待っていた奴隷たちが主人を迎えた。
 ことが済んだ後にはつきものの面倒な後始末を済ませ、衣服も改めたハスドゥルバルを生家から連れて来た奴隷たちは休ませようとしたが、幕舎の外に人の気配があった。寝台へ促す初老の女の手から手を引き抜く。
「少し出るよ、お前たちはもうお休み」
「ハスドゥルバル様、応対なら私どもが……」
「いいから。私が戻って来たとき起きていたらいけないからね」
 幕舎から顔を出すと、その人物はちょうど立ち去ろうとしていた。
「ナラウァス殿」
 思いの外大きく通った声に、青年はやや気まずげに振り向く。彼らの民族に見られる身軽な出立ちだったが、休むための姿ではなかった。彼に夜間の哨戒を担わせた覚えはない。
 歩み寄ろうとしたハスドゥルバルの肩に、後ろから奴隷が丈の長い上着を着せ掛ける。それに袖を通す間にナラウァスの方が数歩の距離を近付いてきた。
「どうなさいました、何か……」
「いや、問題は何も。いつもこのくらいには目が覚めるんだ。今日はたまたま……」
 あなたの姿を見たからと、なんだかますます気まずげにする。
 休んでいないのを心配されたのか、人のことは言えないようだがと思い、ハスドゥルバルはすぐに思い至って苦笑を浮かべた。体に重く沈むような気怠さは目敏いこのヌミディア人から隠せていないだろう。
「……ご存知ではありませんでしたか?」
「うん、まあ、知ってはいたよ。以前から。ただ思い出すのが遅くなって」
 どこから出てきてよろめきながら自分の幕舎に戻るのだか、それを見届けた後に事情を察して去るところだった、らしい。性根の真っ直ぐな青年にこんな困った顔をされると流石に申し訳ない気持ちが湧く。
「こんなに早くに起きて、いつも何を?」
「散歩かな。あとは馬の様子を見るよ」
「お供しても?」
「それはいいが、あの……寝ていないのでは……」
 夜が明けるまでいくらもない、深く眠ってしまって無理に起きる方がつらい、そんなことを言うとナラウァスは納得していたが、あまり経験のない感覚のようだった。
 このヌミディア貴族は、いわばハミルカルを含む軍全体にとっての恩人である。彼の援兵が窮地を脱する助けとなり、いまもハミルカルは彼と彼の騎兵を頼りとしていた。ハミルカルの世評を聞き及び、その人物を見込んで、多くの同胞が敵として取り囲む陣営へ身軽に飛び込んで来た若者。
 常よりもゆったりとした足取りで進むナラウァスを、ハスドゥルバルは象たちのいる方へ促した。
「物凄い見せ物だったようだ」
 呟くナラウァスの視線の先、陣営の外に、乾ききらない血の海が広がっている。死体も臓腑もおおよそどこかに運ばれ捨てられるか埋められるかした後だが、このそばで象たちは気が休まるものだろうか。
 ナラウァス自身は陣営を離れていたのか、距離を取ったのか、その見せ物を目にはしなかったようだった。
「ハミルカル殿はおつらいだろうな」
「……ええ」
「これを見ながら仕事のできる傭兵たちのことがよく分からない」
「こんなことになって、まさかまた給料を払い渋るわけがありませんからね」
「それもそうか」
 自らに感傷はないのに、人の胸の裡を裏表なく慮る。ナラウァスの才覚のみならずこういうところをハミルカルは気に入っていた。彼が素直にハミルカルを慕い、称えることは、それを耳にする兵士たちに良い影響を及ぼしている。
 ハスドゥルバルがその横顔を見つめていると、青年は首を傾げた。太い三つ編みに結われた長い髪が肩から落ちる。
「私のような者があの方のそばにあって、がっかりなさいました?」
「いいや」
 短く答えてから簡潔すぎたと思ったのか、噂通りでなかったからと付け加えた。
「ハミルカル殿があなたをただ虐げているとか、あるいはあなたがその方法だけで取り入っているというなら、軽蔑もしただろうが。あなたには重く用いられるだけの才があるし……妾のある身でとやかくいうのも変だろう?」
「よかった。あなたには嫌われたくないのです」
 月が彼らの姿を互いにはっきりとその目に映していた。微笑んだハスドゥルバルの顔に、ナラウァスはその形を初めて見るかのように、不思議と好奇も好悪も感じさせない眼差しを注いだ。
「不思議だな。美しい人にそう言われると嬉しい気がする」
 そう言って笑うところにも含みはなく、ただ優しげな笑い方には誤解があるようだと思われた。
「言いそびれて来ましたが、私はあなたより年長です」
「えっ」
「私が義理の兄となるわけですね。あなたがバルカの娘と本当に結婚するのであれば」
「義理の……」
「あの方があなたとの縁組を考えてるのは三番目のお嬢様です。まだ幼くていらっしゃるけれど、美しい方ですよ。そして二番目のお嬢様を、私にくださるおつもりなのです。私の父はもう亡いが兄がいて、断りを入れない訳にいかないので正式には決まっていませんが」
 長兄は家格などを理由に渋っており、ハミルカルの妻女からのハスドゥルバルへの心象は悪くなる一方だった。ともあれ話はまとまるだろう。ハミルカルとその支持者の間での、ハスドゥルバルの立ち位置が確かなものになるという意味でもある。
 踵を返し来た道を戻るハスドゥルバルの後ろを、やや遅れてナラウァスは追いかけた。隣に並んだ彼が困惑を滲ませているので話しておく機会がありよかったと思う。
「……複雑だな?」
 それでもずっとそうなのかと、曖昧な物言いの割に明け透けな問いを投げかけられて、今度はハスドゥルバルが首を傾げた。
「さあ……あの方が求めてくださる限り、でしょうね」
 決めるのはハスドゥルバルではなかった。しかしとっくに、寝所に出入りするのに相応しい年頃は過ぎている。
 試しに彼の好みそうな気の利いた女を選んで忍び込ませたことがあるが、ハスドゥルバルの仕業と知るなり追い出され、二度とするなと釘を刺された。美しい少年ならどうかと問うたときのハミルカルの顔は、見せられるものならナラウァスにも見せてやりたい。
 戻ってきた幕舎の前で、ナラウァスはやはり少し休んだ方がいいと、中で起きている者たちに伝えるようにして言う。
「そう無理をせずとも、じきにいい知らせがあるんだろう? あなたのおかげだとハミルカル殿が言っていたよ」
 思わぬ言葉に目を瞬いたハスドゥルバルに、ナラウァスは手を振って去っていった。
 あの青年にはそんな話もするのか、その時彼はどんな顔をしているのかと、辿り着く当てのない想像を巡らせ始めたハスドゥルバルを、ひとつも言いつけを守らない奴隷たちが伺っていた。

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