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翼ある贄

 ハスドゥルバルは、本当はよく憶えていた。巨大な神像、その足元に跪く父の背、爆ぜる音を混じえ絶やされることのない炎、神殿には香がけぶり、屠られた贄の流す血の匂いは、遠い。
 神官の指図の通り、慣例の通りに父や父に従う者たちが空気に接したばかりの血に触れる。その場にいた誰よりも幼かったけれども、ハスドゥルバルは傅役の男の手が肩にしっかりと置かれていたことを忘れないし、自分の隣に、ひとりで揺れることなく立ち続ける兄の姿があったのも憶えている。そして炎に重く沈んだ眼差しをくべていた父が呼び寄せたのはただひとり兄であったのだ。
 父は、ほとんど常の通りの声で彼の寵児を招いた。他の者共がみな下がるように素っ気なく指示され、足音さえ控えてその場を後にするなかで歩を進めた兄の手を父が握る。その当時まだ兄の手は幼かった。ハスドゥルバルは、促されていたのに、目を逸らすことさえしなかった。バアルの神像はその威容でもって彼の子らを睥睨し、我慢の仕方というものをようやっと知った年頃だったハスドゥルバルはそれを恐ろしくないと思い込もうとせねばならなかった。その彼に、父の声は何に遮られようとも真っ直ぐに届いた。
「私はヒスパニアへ行く。そこはカルタゴとは違う、全く違う場所だ。お前も聞き及んでいよう。彼の地には富があり、また、多くのまつろわぬ民がいる」
 そこで言葉が切れたのは、言葉を費やすことに意味が無いと父が気が付いたからだ。ハンニバルが炎の熱にも父の厳しい眼差しにも屈さず、父と同じ瞳でもってただひとつの問いを待っているのだと分かったからだった。
「お前も行くか、父とともに」
 その問いを、もしも。もしも自分にしてくれていたらと、思わないわけではない。ハスドゥルバルはその記憶を夢か何かかと思うたび、そうではないと思い直すたび、あの言葉が自分にかけられていたらと夢想せずにはいられなかった。ただ理由なくその場に棒立ちになって父と兄を見つめていた幼児に交わされる言葉の意味が理想的な形で理解できていたわけではない。うまく、望まれる言葉を返せたとも思わない。ただ、ハスドゥルバルはあそこにいた。
「行きます」
 途方もなく高く思われた天井、多くの人々が跪くことのできる神殿のその空間に、満ち満ちた神々しいばかりの煙の幕を裂いて、兄の声は響いた。
「連れて行ってください。俺は、父上とともに、行かなくてはなりません」
 ハミルカル・バルカは、いまやカルタゴの矜持にただひとり残された守護者は笑んだかもしれない。連れて行くと言わないのならば許さない、そういう烈しさが長子の声音には明らかに籠っていた、それを喜んで。
 彼は背を抱き寄せるようにして、ハンニバルを息絶えた羊のすぐ前に立たせた。切り開かれた喉から流れ出る血は乾かず、炎を照り返す様は死を思わせる陰惨さを纏っていなかった。子はその血の意味を知り、言葉を待つ。
「ならば誓え。お前はローマの敵となるとーーその火種を絶やさぬと」
 ハンニバルの小さな手が羊の肉を押し潰すようにして置かれ、血を恐れることを生まれたその時から知らぬ子の横顔には喜悦があった。奴隷たちの止めるのも聞かないで駆け回り、罠にかけた哀れな猛禽を殺す子供の顔だった。
 誓う、と彼はただそれだけを言ったと、ハスドゥルバルは記憶している。
「ハスドゥルバル」
 ふと気付けば、兄が立っていた。熱に浮かされるようにしてぼうと自分を見上げる弟に、彼は手を差し出した。戯れのうちに弟に命の捕り方を教えた兄の手にはべたりと血が纏わりついたままだったし、ハンニバルの背後に見えた父の顔は厳しいままだった。
 もう一度呼ばれ、手を取る。兄のそれよりもいっそう幼いだけのハスドゥルバルの掌が濡れて、兄が指に力を入れると膚と膚のあいだで血が固く粘る。温かさに気を取られて怖いとはひとつも思わなかった。兄はその日、邸に戻るまでハスドゥルバルの手を離さなかった。


 照りつける日差しを返して穂先が輝くのを何を思うでもなく眺めている。自分と同じように馬に揺られる兵士たちに幾分かの疲れがあれど疲れきってはいないこととか、負傷者の様子であるとか、それはぼんやりするのとはまた別のことで、どのように報告するかということはつらつらと考えていた。これは上首尾と言えるだろうか、使者として赴いた都市からの帰路、急襲を受けた結果としては。
「あの部族は父上に恭順したものかと思っていた」
 そればかり気にかかって呟けば馬を並べていたマゴが「別に嘘をついたわけじゃない」とにやにやと笑ってみせる。
「顔役としては将軍と仲良くしたいがそうじゃない者が多いのさ」
「彼らとも争いになるだろうか」
「相手方による。まあ、ハスドゥルバルが怪我をしたとあったんじゃ、穏便にはいかないよね」
 払いそこねた槍で傷つけられた脚に痛みがあった。巻きつけた布に赤く滲んだ血は騒ぐ程でもないが、些細なものと言うには多い。
 兄と同年代の少年はやや気落ちしたハスドゥルバルを眺めていたが、すぐに飽きたように前を向いた。マゴに傷はなく、ハスドゥルバルを傷つけた槍の持ち主を殺したのも彼だった。父の名代を任せられたハスドゥルバルにお守りのようにして随行した兵のなかでは若いけれども、ハスドゥルバルからすれば自分よりは大人に近い相手だ。一年ほど前までは本国で暮らしていた貴族の子弟だというのに柔弱なところがないから兄と気が合っている。
 陣営に戻ったハスドゥルバルらの有り様はすぐに父に伝えられた。マゴが先に傷をなんとかしておけと言い置いてさっさと報告に出向いてしまったので、ハスドゥルバルはその通りにすることにした。鈍いものだった痛みが増しているように感じたせいでもあったけれど、ハスドゥルバル自身はそれに気が付かなかった。馬を従者に任せて自分のテントに入る彼を呼びとめる者もない。
「兄さん、怪我したんですって?」
 呼びとめる者はいないが、ずかずかと入り込んでくる者はいた。
 椅子に腰掛けたハスドゥルバルが何も言わないで見上げるのも気にせず、まるで自分を闖入者とは思っていないらしいマゴーネは兄の傷を目にとめてわっと声を上げる。
「血ですよ!」
「怪我をしたんだから血も出る。お前、この時間はシレノスについているはずじゃないのか」
「だってマゴが、兄さんが酷い怪我だって。……酷いというほどじゃないですね」
 傷の様子をまともに見ていられないのか目を細めながら、それでもわざわざ汲んできたらしい水をいっぱいに溜めた桶をハスドゥルバルの足元に置いた。薬はどこだと荷物をひっくり返そうとするので指図してやるとすぐに見つけて持ってくる。
 怪我だ血だといちいち騒ぐくせにそれを聞くと見に来ないでいられない弟だった。黙って任せていると慣れた手つきで手当をするのは、父や兄が傷を負うたびに飛んで来るからだ。
「痛いですか? 痛かった?」
「うん、痛かった。お前なら泣いてる」
 間違いないと思って言ったが、気に食わなかったらしい。マゴーネのやさしい手とか幼さが強く主張する顔立ちとか、この地ではほとんど身近に見ることのない自分より幼い存在はハスドゥルバルにとってか弱かった。だから泣くだろう、ハスドゥルバルは初陣でも、つい先立っての戦闘でも、心の乱れを覚えなかったけれども。
 きれいに包帯を巻いて、マゴーネは満足気に頷く。だが、兄上は怪我を滅多になさらないのに、とこれは不満気に言い、マゴーネは彼なりに兄を睨めつけてみせた。
「兄上と比べられても困る」
「比べてるんじゃなくて、見習ってくださいって言ってるんです。怪我をしたって平気だ、治るなら大丈夫だって、そういう気持ちでいるから兄さんはなんだか怖い」
「怖いか」
「そうですよ。僕に心配かけないでください」
「心配……」
 見縊っているのかと思った。けれどもその気持ちはすぐに流れていって、ハスドゥルバルはただ頷く。自分よりも長く母のもとにいた弟だ、気が優しいのも仕方のない事だ。
 立ち上がって軍装のままテントから出たハスドゥルバルをマゴーネは追い、兄の行き先を知って目を瞬かせた。
「報告ならマゴがしてたと思うんですけど」
「だから手当てをしただろう」
 傷をそのままにして父の前に出たところで先に手当てをと追い払われる。そう言ってやるとマゴーネはなぜだか感心したふうに笑った。
 陣営を抜けて居館へと向かう。ハミルカルが一応の住まいとする邸は豪奢なものとは程遠い、まるで田舎の小さな別荘のようなこじんまりとしたもので、いつかまた別の場所にもっと大きな、彼に相応しい邸を建てるつもりだろうかと思う。それでも新たに建設された都市での生活は、陣営でだけ過ごしていた頃よりは落ち着きがあった。
 いつまでもついて来るつもりのマゴーネを従える格好で執務室を目指すと、扉のそばに兄が立って、マゴと何か話している。すぐに弟たちに気がついて壁に預けていた背を浮かすのを目にすると痛みのためばかりでなく足が重くなった。
 ハスドゥルバルの脚にきちんと包帯の巻かれているのを見てからマゴーネに目を向けた兄は、無言のまま何かを末弟から受け取ったらしい。
「怪我はそれだけか」
「ああ、マゴのお陰で。……入ってもいいのか?」
 そもそも父はいるのか、と兄を窺うと頷きが返ってくる。ハンニバルにシレノスのところに戻れと言われておとなしく廊下を取って返していくマゴーネをなんとなしに見送ってから室内に声をかけた。
 短い答えに扉を開いたハスドゥルバルに付き添うことはハンニバルはもうしない。では何のために待っていたのかなどといちいち考えることを、ハスドゥルバルももうしなかった。
 部屋に入れば執務机ではなく部屋の片端に置かれた長椅子に父は浅く腰掛けていた。ハスドゥルバルを手招き、最初に脚の包帯に、次に目にと投げかけられる眼差しは兄のそれとよく似ていた。
「兵をふたり失いました」
 何をはじめに言うか、決めてしまっていたはずなのに思いがけず口をついたのはそのことだった。
「あらましは聞いた。お前の責ではない」
 そう言ってやや眉を下げた父の表情はどこか困っているようにも見えた。軍装に身を包んでいなくとも軍人であると分かる一方で、粗野な風では全く無いハミルカルが少し姿勢を崩して座っているのが、ハスドゥルバルに緊張を解かせる。
「そう悄気げた顔をするな。半ば予想していたことだ、お前には何も言わなかったが」
「父上や、……兄上は、あの部族を信じきってはおられなかった?」
「そうだな。この地に本当に信じうるものは少ない。しかしハンニバルに苦い顔をされてしまった、これからはお前にも伝える。同じようなことが起こらぬとも限らない」
 苦い顔とは、どんな顔だろう。思えば兄は父の前で相好を崩すことがほとんどなかった。
 ハスドゥルバルの釈然としない顔をどう受け取ったのか、ハミルカルはぐっと顔を顰めてみせてから、すぐに力を抜くように笑った。父は、昔よりも笑うようになった。カルタゴにいた時分には、ハスドゥルバルは父を厳しい顔しかできない人間だと思っていた。
「昔から気に入らないが間違っていないと認めたときにこの顔をする。私はこれに弱いんだ」
「そんな顔はされたことがないと思います」
「それはそうだろう、お前はあれの弟だから。……ともかく、ご苦労だった。今日は休むがいい、傷を悪くせぬように」
「……父上」
 陽が少し、傾き始めている。この父は多忙でないということがなかった。このところは兄も同じような様子だ。
「今日の夕食は、ご一緒できるのでしょうか」
 想定していない台詞だったのか、ハミルカルは目をぱちりと瞬いてから、つい先程と同じように頬を上げる。立ち上がった彼はまるで楽しいことがあったみたいに見えた。
「よろしい、今日は揃って卓を囲もう。こんな報酬でいいというなら安いものだ」
「報酬なんてつもりは」
 なかったのだが、それでもいい気がしてハスドゥルバルは口を閉ざした。前に出て扉を開いてから見上げた父の上機嫌に水を差したくもなかったのだ。
 廊下にハンニバルが立っているのを知っていたように彼に声をかけてから、父は衣服を改めてくるようにとハスドゥルバルに言った。シレノスがよいと言ったならマゴーネをついでに連れてくるようにと。
「珍しい、はしゃいでおられる」
 ぽつりと言った兄をハスドゥルバルは振り返ったが、彼の方はマゴと目を見合わせていた。廊下を曲がって彼らの目の届かないところに入るとすぐに駈け出した彼を誰も咎めず、痛みさえ身を引いて道を譲った。


 降り注ぐ雨の、急流となって濁った川の騒ぎ立てるのが喧しい。顔を拭う手も外套も何もかも水浸しで、震えの走りそうな寒気を覚えた。空が暗いーー暗いのが空だけであれがよかったのだが。
 ハスドゥルバルは何度目か知らぬが傍らのハンニバルを覗い、その横顔が青褪めて動かないのをまた確かめた。彼の目はハミルカルにじっと注がれて、揺れもしない。こちらに背を向けた父が将校と何を話し合っているものか、この雨音の中では拾うことは叶わなかった。
 裏切りが起こったのだ。そのために父は攻囲していた都市を落とすことができず、そのうえ敵に追われながらの退却を強いられている。兜から滴り、父と自分たちの間を隔てる雨をハスドゥルバルは睨んでいた。睨むべきものがこの場にはなかった。
 父が兄を呼んだのは、ハスドゥルバルが焦燥らしきものを感じ始めたまさにその時のことで、はっと顔を上げた弟をハンニバルは一瞥した。後から思えばそれは、もう分かっている、という顔だったのだ。
 未だ少年に過ぎなかった兄の頬に、肩に触れ、それから父は言った。
「ハンニバル。弟を守ることができるな?」
「必ず」
「ああ、疑っていない。これを持っていけ、大した品でもないが」
 ハミルカルは場違いに明朗な表情を浮かべ、腰の剣を鞘ごと抜いて息子に差し向けた。ほんの一瞬、あるいは一呼吸の間だけ、兄はそれを前にして動かなかった。だが彼はすぐに自分の剣を、つい最近買い付けたばかりのものを同じように抜き、父に手渡す。ハンニバルの受け取った剣が長いこと父のそばにあったと、ハスドゥルバルも、兄も、この場にいない弟でさえ、知っていた。
 ただ彼らを見つめるばかりだったハスドゥルバルに父は目を向ける。言葉はなかったが、それはいつものことで、構わなかった。兄にくれた言葉がそのまま自分の貰った言葉なのだ。
 だが、ハスドゥルバルはかぶりを振った。自分が立場に合わない顔をしていることは分かっていたが、それでもそうせずにいられなかった。ハンニバルが数名の部下の名を呼ぶのを、呼ばれなかった者たちが父のもとへ集まるのをただ見ていることはとてもできなかった。
「ーー兄上」
 自分たちを探す敵がいまどこにいるのか、それから逃れるために何が必要なのか、分からないハスドゥルバルではない。だからだ。だから、父は間違っていると思った。
「待ってくれ、兄上! だめだ、父上は……俺がやったほうがいい、俺が」
 彼らはここで死なせてもいい人間ではない。はっきりと確信してそう言ったハスドゥルバルは掴み掛かる勢いで外套を掴まれて言葉を失った。
「父と、俺に。お前を捨てろと言うのか」
 重く弟を見据えた双眸に涙はなかった。たとえあったとしてそれを見ることなどできなかっただろうが、なかったのだ。ハスドゥルバルが唇を戦慄かせて首を横に振るのを、彼は瞬きもせずに見ていた。そうではないのだと言う力がハスドゥルバルにはなく、それに彼は、このヒスパニアにやって来てからずっと見守られてきた自分を知っている。
 ハミルカルの指示を受けるまでもなくハンニバルは己の取るべき行動をすべて理解していた。彼は軍勢を導かねばならない、アクラレウケまで、父の建設したあの都市まで。
「ああ、でも、いやだーー父上、……父上ッ!」
 呼ばわる声に応えがなかったのは、あるいは慈悲だったのかもしれない。
 父がほんの少数の配下を伴って自分たちの側を離れていくのを、追いたかった。そうでないはずはないのだ、兄とてーーハスドゥルバルの腕をきつく掴んで押し留める彼が誰よりもそれを願ったはずだ。
 厚い雲に太陽が隠された薄闇の向こう、目で追うことのできない場所へハミルカルが消えると、ハンニバルはすぐに部下に命令を下した。もう彼はハスドゥルバルの腕を引こうとも強いて声をかけようともしなかった。だから、ハスドゥルバルもまた馬を駆ることができたのだろう。逃れた者たちが敵に追いつかれることはなかった。それが全てだった。
 アクラレウケに残っていた者たちは、いつかのようにすぐに状況を把握することはできなかった。彼らは軍勢のなかに彼らの将軍を探し、その姿がなく、将軍の息子たちが口を開かないのを答えとしただろうか。
 マゴーネが当惑を露わに立ち尽くすのを前にしてハスドゥルバルは、その時になってはじめて泣きたいと思った。兄たちの帰還を知らされてシレノスに玄関広間まで連れてこられた末弟は異様な空気に気圧された様子だった。けれども細い両足を動かしてハンニバルに歩み寄った彼は、当惑以上のものを持ち合わせていなかったのだ。
「義兄上に、早く報せないと。戻っていただかなくては」
 それが父の死を知った弟の言葉だった。母の死を悼まないのかと兄に尋ね、家族の負う傷を恐れた彼の。
 ハンニバルの首肯に安堵したように目元を和らげたマゴーネが無事を喜び、ふたりの兄を見上げた。それだから結局、ハスドゥルバルは彼に泣き喚きたいほどに悲しいのだと教えてやれなかった。分かってはくれないだろうと思ったからだ。
 シレノスが濡れそぼって冷え切った彼らを心配して促して、やっと、ハスドゥルバルはその場を動けた。
「ハスドゥルバル」
 暖められた部屋に入ってかけられた、打ち沈んだその声の調子に、ひどく安堵したように思う。髪から水滴を落としながら兄は父が彼にしたようにハスドゥルバルの肩に触れた。その瞳はこんなときにも静かで、だが、それは燃えるものがないことは意味しなかった。
「今日この日をお前に後悔させ続けはしない。絶対に」
「……分かってる」
 かじかんだ笑いを浮かべて、俯いたハスドゥルバルを抱き寄せる。その彼の吐いた息の震えが、まだ彼よりもずっと低い背丈しかない弟への無言が、ハスドゥルバルに涙を許していた。こんな風に慰められるのはもう止めた筈だった。兄はもうハスドゥルバルを子供とは扱わない筈だったのだ。
 義兄がアフリカから戻るまでの間の混乱、困惑は、部将たちやこのハンニバルが取り纏めるだろう。その力が彼にはあった。だからこそここにいるのは兄であり、自分だ。涙はただ喪失を恨んで落ちていった。それはどこか、寂しいと言うのに似ていた。


 新カルタゴで過ごす冬はこれで何度目かと数えかけて、すぐにやめた。それよりも分かりやすい指標がある。
 義兄が築いた宮殿とも呼べる居館はいくらか騒がしさに包まれている。季節の巡りによって軍隊が冬営に入り、この山上の邸に仮の主としてバルカの人間が戻ったためだ。そのハスドゥルバルは外套を身につけたまま柱廊から中庭を抜けて、より奥まった場所へと足を運んでいた。
 ここまで来ると慌ただしさは遠く、静かな空気が漂っている。誰かを呼びつければ用件は早々に済むだろうがそれをしないで、時折辺りを見回しながら馴染みある光景を歩いた。探しているのは小さな姿をしたものなので自然と目線も下がっていく。
 名を呼んでみようかと思いついたとき、背後で枝の揺れる音がした。ハスドゥルバルが足を止めるとぴたりと止み、数歩進んでみるとがさりとまた、そちらも動く。
 もう少し付き合ってやってもよかったが、ハスドゥルバルは踵を返して植木を分け開いた。きゃあと高い声が上がり、小さな手がハスドゥルバルの腕にかかった。そのまま持ち上げてやった身体の重さに目を細めるハスドゥルバルを、腕にぶら下がったままの子供も笑顔を浮かべて見上げる。
「元気そうだ、ハミルカル」
 それに大きくなった。甥は擽ったそうに首を傾げて足を揺らす。その健やかな様子にハスドゥルバルは胸を撫で下ろす心地だ。一度下ろしてやってから抱き上げて、今度はおとなしく腕に収まっている子供の顔を覗き込んだ。
「何か変わったことはあったか」
「ううん、だいじょうぶ。……叔父上は?」
「変わりない」
 一、二度目を瞬いてから、ハミルカルはひとつ頷いて機嫌よくしていた。言葉数の少ない、どちらかといえばおとなしい子供だったが、父親に似て敏いところがあった。
 ーー結果として、兄はハスドゥルバルに嘘をつかなかった。つまり父とバアルとに立てた誓いに違えず、いまや彼はヒスパニアを離れイタリアにある。ハンニバルが出立して以後、ハスドゥルバルがこのヒスパニアで彼の留守を預かっていた。万事うまくやってきたとは言えない。
 そしてこの子の齢がほとんどそのまま、ハスドゥルバルらがローマとの戦争に踏み切ってからの年数だった。ハンニバルがサグントゥムを囲んでいる最中に生まれた子供が物心ついたときには、その父はアルプスを越えた彼方にいた。だからこの子はハンニバルがその誕生を喜んだことも、慣れない手つきで抱いてやったことも知らない。
「……ちいちゃい叔父上は?」
「ああ、一緒に帰ってきている。まだ忙しいんだ。お前の母上はどこだ? 挨拶をしなくてはな」
「寝てるの」
「寝てる?」
 ハスドゥルバルがぴたりと足を止めるのに、ハミルカルは一拍置いてから首を振った。重い病などではなくて軽い感冒で、熱は引き始めているのだということを懸命に語る。
「お前は平気だったのか。熱は出さなかった?」
「うん、だいじょうぶ」
 それならばちいちゃい叔父上のところに連れて行ってやろうと言えば、すぐにまた笑顔に戻る。もしかすると兄のもとで育てばこうはならなかったかもしれない素直な性格でハミルカルは叔父を慕った。冬の間だけそばにいることも、母親であるイミルケがしてやれない遊びに付き合ってやることもそれに寄与しているようだった。
 件のマゴーネは玄関広間で物資の手配などに追われている。兄が甥を連れてやって来たのに気が付くとハミルカルには笑みを見せたもののハスドゥルバルのことは軽く睨んだ。
「あとは兄さんに頼みますよ。僕だって可愛い甥っ子を抱っこしたい……ーーわあ、また重くなってる!」
 渡された甥を抱きとめたマゴーネの身体が傾ぐのに思わず背中を支えてやると、要らぬことをするなと追い払われる。小柄なマゴーネが抱いているとハミルカルももう軽々と抱えてやれる年頃が過ぎているのが分かった。しかしハスドゥルバルもマゴーネも、どちらも諦めてやるつもりがなかった。
 バルカの跡取りはそうした気持ちを知ってか知らずかそれを嫌がらないものだから、彼らを妨げるのはイミルケの一声くらいのものだった。彼女は夫の不在をむしろ撥条にしてひとり息子を育て上げることに心血を注いでいる様子だ。
 マゴーネは甥を抱き直し、手にしていた紙をハスドゥルバルに渡した。当座必要となるものの手配はほぼ済んでいる状態らしい。新カルタゴは義兄が見出したヒスパニアにおける最高の都である。冬を過ごすのに不足はない。
 甥を下ろさないまま広間を後にしかけたマゴーネが振り返って、兄さん、と呟くように呼んだ。
「ハミルカルの初陣、どうなるのでしょうね。もちろん兄上の下がいちばんいいけれど。……兄さんや僕が見てやるのでも同じことかな」
「それまでこの戦争が続くと思うか」
「ええ、思います」
 ハミルカルが父を知らないなら、マゴーネもかつて父を知らなかった。この子は戦時以外を知らぬというなら、彼らもまた周囲が剣を取らぬ日々を知らない。ふたりの叔父の顔を見比べているハミルカルを見るマゴーネの目が、もうひとりの甥を見るそれと同じように昏い。
「だけど、僕らのために死ねとこの子に言うのは、口惜しいでしょう」
 兄が何も答えないのを知っているように、マゴーネはそれ以上言い募らなかった。
 ハスドゥルバルがそれを思い立ったのは、仔馬に乗ったのだとハミルカルが叔父たちに報告したときのこと、単に頃合いだと考えついたからに過ぎなかった。
 ハスドゥルバルは兄から、一振りの剣を預かっている。ヒスパニアを立つ間際、弟の手にそれを預けた兄のほうもその場で思いついたからそうしただけだ。繰り返し敵を薙いでなお鋭い、それはハスドゥルバルにとって自分の持ち物ではない。
 夕餉の後にハミルカルを自らの居室に連れて行って、剣を渡した。ハミルカルには抱えるのが精一杯といった様子だったが、構わないだろうと思えた。
「兄上はそれをお前に、と」
「……父上が、ぼくに?」
 目を丸くする甥は、しかし疑っているわけではなかった。
「お前の祖父が、お前の父に遺したものだ。そしてお前に。……重いか?」
 ハミルカルは素直に頷きかけて、思い直し首を横に振る。両腕にしっかりと剣を抱いて彼の見せたその顔が本当に兄に似ていた。これを父や叔父たちのするように振るえる日が来るだろうかと、ハミルカルは遠い日を夢想するのでなく言う。本当は、彼にはもちろんだと頷いてやることなど必要なかった。けれどハスドゥルバルは小さな頭を撫ぜてそう遠からずやってくると、気休めるように言ったのだ。


 振り下げた鋒、それを受けた異邦人の顔はよく見知ったものに思えた。造作がではない、その、驚きと恐れとが混濁して凝固した目が。
 その黒目がぎょろりとして深く突き刺さった槍を認めて、それから身体が馬から落ちていった。緋色のマントに覆い隠されるように血に伏した男をハスドゥルバルは知っているが、知らなかった。こんな顔をしていたのだ。
 ローマ人たちがその荷を積み上げて作った壁を突き崩し、丘の上へ雪崩れ込んだ兵士たちは喜色を浮かべていた。さんざん煮え湯を飲まされた恨みがあってか、単に勝利の気配を嗅ぎ取ってか。
「将軍は死んだ! グナエウスは死んだぞ!」
 ハスドゥルバルが殺したのが誰かに気付いた部下が敵味方双方に対してそう叫ぶのを、ハスドゥルバル自身は見送った。
 槍を引き抜き、丘の上から眺められるだけを眺める。規模に差の有り過ぎる二軍の、最早虐殺の様相を呈している戦闘に終わりが見えていた。二名の指揮官どちらもを欠いた敵は追い立てられ、ある者は殺されある者は捕虜に落ちる。ハスドゥルバルとマゴーネ、ギスコの三者に率いられるカルタゴ軍がまとまってかかれば、裏切りによって数を減らされた敵にできることはほとんどなかった。
 長いこと対峙し続けていたローマ人がどちらも死んだことに、もっと高揚したほうがよかったかもしれない。安堵に似たものはあったが彼はこういうとき笑うのが不得手だった。血気盛んな部下たちがかわりに笑い、叫ぶであろうと思う。
 息絶えた男の顔が、二分した軍の一方を指揮していた弟の死を知って歪んだのをハスドゥルバルは思い出していた。ヒスパニアのローマ軍を指揮する将軍がふたり、それも兄弟であると聞いていくらかの感慨を得た覚えもある。
 然程の時を要さずその場に戦いを続ける敵がいなくなると、ハスドゥルバルは足下の指揮官の遺体を運ぶように命じた。これの弟の遺体もまた探しだすようにと。
「やっとすっきりしましたね、兄さん」
 兵を引いて陣営に戻った後、みっつに分けた軍のうちのひとつを預けていた弟が顔を見せたのは翌日のことだった。言葉の通りの様子でテントに入りまずは自軍の損害について述べる。ハスドゥルバルが黙って促すままに型通りの報告を終えると、マゴーネはひとつ気にかかることがあると指を立てた。
「どちらの残党も対岸へ逃れたようです。割合にまとまって動いていました、有能な将校が残っていたのかも」
「他の守備隊も同じ場所へ動いたようだな」
「……よくないですよね?」
 当然、いいことではない。だがこの数年間に比べればずっとよかった。イタリアから本国へ、本国からこのヒスパニアへと戻ってきたマゴーネの見てきた戦況のなかでも最良だと言える。イタリアの友軍に届けられる報告にも華を添えてくれるはずだった。
「そうだ、指示の通りに指揮官の遺体を探しました。マシニッサが討ち取ったので、そう梃子摺らなかったですよ。兄上がパウルスになさったようになさる?」
「ああ。……マシニッサは役に立っただろう」
 マゴーネは、ただ肩を竦める。否定はなかったが褒めてやるつもりもないらしい。
 マシニッサは先だってハスドゥルバルがアフリカから連れ戻った援兵だった。アフリカでマサエシュリーの王がローマと結んだためにハスドゥルバルは一度アフリカに渡り、マッシュリーの王の助力を得てこれを鎮圧し、戻った。王がヒスパニアへ送る騎兵たちに我が子を添えたのは、真実その武勇に信あってのことである。
 ハスドゥルバルがあの王子について考えるとき思い浮かぶのは、同じ血の流れる、しかし父の敵たる者たちを屠って笑った青年の顔だった。マシニッサは血みどろの髪を重たく垂らして、ハスドゥルバルと目が合うとにこりと、あるいはもっと深く笑んだ。
 弟は麾下にある王子への言及を避けて、これからどうするのだと首を傾げる。
「イタリアに向かいますか。いまのところ、ローマに正規の軍隊を派遣する余裕はないように見えますけれど」
 そして兄が望むように、彼とともに戦うか。あのスキピオ兄弟がいなければもっと早くそうしていたはずだ。
 そもそもハンニバルとともにアルプスを越えたマゴーネにはヒスパニアに戻るつもりがなかったから、声には急かすような色合いが強かった。ハスドゥルバルとてそのつもりである。それが可能ならーー自分に、そうすることができるなら。
 中心となる家門からバルカ党と呼ばれる党派だけで指揮官の席を埋められればどれほどよいかと思う。信頼が置け、その能力を疑うことなく作戦を協同できれば、少なくとも悩みの種はひとつ減らされるのだ。
 ローマ軍に対する勝利の後、三人の指揮官が顔を合わせる機会が増えるごとに、ハスドゥルバルは何よりも不協和に悩まされることになった。それは半ば自らの責であろう、高く育まれた矜持にはできないことが多いものだ。
「アンドバレスの訴えには貴殿が偽りの罪を積み上げて娘を奪ったのだとある」
 それでもその内心は顔にも声色にも現れてはなかろう。だからといって事実や与える印象が変わるわけではない。相対する男の白々とした顔を見ていると本国を思い出す。ハスドゥルバルは卓に広げた書状に目を落としておくか、ギスコと視線をかち合わせるかを迷い、後者を選んだ。
「彼は長く我々に尽くしてきた同盟者だ、まさかそれを知らずに?」
「いいや、知っていたとも。君らのご友人だということは」
「……カルタゴの友人だ」
 テントの隅に立ったマゴーネがギスコに見えないところにいるのをいいことに顔を思い切り顰めるのが、ハスドゥルバルからはよく見えた。部下たちを同席させればみな同じ顔をしたに違いない。
 ギスコは、ハスドゥルバルにとってはそうではないが、マゴーネが言うところでは本国にありがちな男だった。ハスドゥルバルは幼い頃に離れ、ヒスパニアより余程心の根付かない土地である。そこにいる貴族たちの気性、少なくとも自分たちは違うと考えている者たちから見たありきたりさをよく知らない。
「功あって再びの王位までも認めた相手を、貴殿はーー」
「君の父君がこの地に渡ったのは何のためだった? 財を得るためだ。要するにヒスパニアに狩りをしに来たのではないのか」
 狩り? ぽかんとして二の句の告げなくなったハスドゥルバルの凝視を、ギスコは慣れたもののように受け流した。
「私も元老院の任命あってここにいるのだ、そう説教じみた物言いをしてほしくはないものだな」
「説教……」ハスドゥルバルはやはり書状を見ることにした。カルタゴ人の言葉で記されたそれは、信義あるものと願う相手への救いを求める訴えである。「……アンドバレスに娘たちを返せ、彼女らは奴隷ではない」
 思い描いていた以上の労苦を覚えてハスドゥルバルが強い調子で言ったとてそれも、慣れたものなのだろう。貴族たちの間で政争だの何だのに頭を悩ませるのはハスドゥルバルの仕事であったことがない、縁遠い話だ。ヒスパニアの住民と言葉を交わすほうがいくらか意の通じるものがある。
 ハスドゥルバルが、時にマゴーネも加わったが、ギスコと対立するのは当初からのことだった。双方はじめからそうするつもりだったとも言える。分かりきっていたのであとはその度合だけが任されている状態だった。
 ギスコが去り、マゴーネも退出してしんとしたテントで意味もなく立ち尽くした。ハンニバルに敗れて以後忠実な友人であり続ける王にとって、この不義は耐えられるものではない。ハミルカルがこの地に狩りをしに来たと言うなら、彼は狩った獲物をみな食い尽くしたわけではない。義兄ハスドゥルバルが築いたのは砂上の城ではなかった。
 けれどもふと足が動いてテントを出てしまうと、陰惨な心地は影のようなものだった。強く照らされて濃くなる分だけ捉えどころがある。
 冷たくなり始めた空気の中あてどなく足を向かわせる先に、少しでも寒さを口にすればアルプスを越えてみろと言い立てる弟の姿を認め、しかしハスドゥルバルは足を止めた。その側にマシニッサの姿をも認めたからだ。
 マッシュリーの王子は、編んだ長い髪や装身具などよりも佇まいだけで人の目を縫い止めるものがある。父王より彼を託されたときそう感じ、それはいまも変わっていなかった。
 このまま知らぬふりで立ち去ってもよかったが、狩りという言葉が彼に結びついて、ハスドゥルバルはやはり深い考えなしに彼らに近づく。振り返ったマシニッサの目礼とマゴーネの憂鬱気な目つきしかそこにはなかったが。
「何か問題が……あったんだな、その顔は」
「甥がいなくなったって言うんです、迷子ですかね。それか口煩い伯父が目を離した隙に遊びに行ったのか」
「マゴーネ、いちいち突っかかるな。まだ少年だったろう、あの子は」
 ガイア王が長子に戦場での経験をと望んでマシニッサをハスドゥルバルに託したなら、あの少年はそれ以前の行儀見習いのような体で伯父に預けられていた。整った風貌のお陰で大人びて見えたがほんの子供であることに違いはない。
 ならばこの伯父は甥を案じてマゴーネに声をかけたのだろうか。ハスドゥルバルはマシニッサの顔に焦りどころか苛立ちのひとつも見出だせない。口を開いたその言葉の調子も平坦に過ぎた。
「マッシワも幼子ではない。戻る道を尋ねるくらいの言葉は知っているが、なにしろ姉に似た顔をしている。あれの素性など誰の知るところでもないだろう」
「そんな無作法者はいないって言い切れるといいんですけれど。現に姫君を攫った輩がいるわけだし」
「マゴーネ」
「何ですか。いいでしょう、これくらい」
 自分の従者にも声をかけて探させると言って向けられた背にははっきりと不機嫌が読み取れた。まさか長兄の下でも同じ振る舞いをしたわけはないだろうが、あれでは拗ねた子供と同じだ。
 マシニッサはその背が道を逸れて見えなくなってから、輩とは、とひたりとした目でハスドゥルバルに向き直る。幼少には人質としてカルタゴで過ごした彼の言葉には躓くところも、引っかかるところもなかった。
「気にしないでくれと言いたいところだな」
「ギスコのことだろう」
「ああ……うん、そうだ。いつものことだ」
 ハスドゥルバルはまた歩き出した。ついて来ないだろうと思ったマシニッサまでもその場を離れたのに内心面食らったが、黙っている。
 彼が指揮官たちの不和を知らないはずはなかった。その場面に出会したこともあるし、マゴーネと言葉を交わせば弟は隠さないからそうと知れる。美貌を謳われるギスコの娘がマシニッサの婚約者だということもまた周知の事実だ。どうやら甥の姿を探しながらハスドゥルバルに並んでいるらしいマシニッサがそれを理由に動いたことは、なかった。
「バルカの名をよく聞かされていた」
 そう言ってハスドゥルバルをまた躊躇いなく真っ直ぐに見る。
「ハミルカル・バルカについてやたらに話したがる貴族がいて、それはひとりではなかった。いまはハンニバルについて聞きたがる者ばかりだ。あなたたちはそういう存在だった、我らにとって」
「……落胆させたか?」
「いいや」
「それならばよかった」
「あなたや、あのマゴーネを見ていると、ハンニバルという男の姿までも見える気がする」
 それきり口を閉ざしたマシニッサに、やや遅れてハスドゥルバルは相槌を打った。つまりは言いたいことを言うためについて来たということらしい。その目に見えている兄の姿について、少なからぬ逡巡を覚えたのに、ハスドゥルバルは尋ねることがなかった。


 その誉れの味を知っている筈だ。いかなる美酒もその光輝の前に膝を折る他なく、どのような賛美よりもただ事実だけが彼に自負を許しているーースキピオは、まさにこの地でこそ、父の誉れとなった。
 新カルタゴ陥落の報せは殆ど降って湧いたようなものだった。ヒスパニアの首都たる都市が包囲されているという報せがもたらされるのと、いくら急いだとて十日は要する行軍について思案するのと、そして新カルタゴがローマ人の手に落ちるのと、全ては殆ど間隙なく起こった。ハスドゥルバルも、また、再び軍を割いて別地に陣を敷くマゴーネもギスコも、まさか、派遣されてくる将軍のまず第一の仕事がそれであるなどと、予想し得なかった。
 ローマの若き将軍の風聞は嘘臭いまでに輝かしかったが、それに難癖をつけるより先にハスドゥルバルにはなすべきことがあった。ーーイタリアへ。
「あの子は」
 軍に出立の支度を急き立てる合間、殆ど意識されず落ちた呟きを聞き咎める者はなかった。
「あの子は死んだのか」
 剣がその身を守ることはなかっただろう。子供の手はただ柔らかく、薄い皮膚に守られるばかりだった。スキピオが新カルタゴで取った振る舞いについても多少の情報が手に入ったが、それは、ハンニバルの妻子の安全を確たるものとはしない。
 次いで起こったバエクラでの敗北は、痛手ではあったが決定的ではなかった。ハスドゥルバルと彼の軍隊を取り逃がしピュレネを越えるのを許した、そのしくじりがスキピオにとって多大なものとなるか否かが自身にかかっているというのは、ハスドゥルバルに少しの愉快さももたらさなかった。多くの兵が勝ちを制する気の殆どない将軍の指揮下で捕虜となったこと、これもハスドゥルバルにとってすれば同様である。ヒスパニアに残した弟の肩にかかった荷はスキピオの光輝と同じだけの重さを持っている。
 ピュレネを越えた先、ガリアでの冬営はガリア兵をかき集める仕事に追われるものとなったが、彼らが易易と買収に応じたお陰で大きな危険はなかった。
「ハスドゥルバル殿は昔から気の乗らない顔をなさることが多いが、いまもそうだな」
 老兵がそう言ってなぜだか分からぬが笑うのを、ハスドゥルバルは言葉もなく見ていた。
 ハスドゥルバルは、その時になって自分の側に立つ老兵が本当に昔から側にいたのだということに気がついた。マゴーネが幼い頃に彼につけられた世話役が、主人が独り立ちしたと見てもその身辺に留まっているというような存在は、ハスドゥルバルにはいなかった。また、ハンニバルが持つ友人たちと等しい存在も。
 彼はハスドゥルバルが少々気詰まりを覚えているのに皺を深めるようにして笑う。そうする間にも彼はずっと両手を擦っている。彼らの目の前に焚かれている火にかざしてやっと血が滞りなく流れていく感覚がした。吐く息が凍てつき、蛮族風にズボンを穿いてもなお、この地の冬は厳しく思われた。
「退役の機会はいくらでもあったのにわたしはそれをしないできた。何故か分かりますか」
「……分からない。だが、お前が勇敢だということだけは分かる」
 ここまで死なないでいる。それだけで十分だった。ハスドゥルバルは彼の顔を父の死んだあの日にも見たことがあり、スキピオ兄弟を討った日にも見たことがある。壮年を過ぎ衰えの足音に耳を傾けている男が踏むにはこの地は遠く、険しい。
「私は昔にハミルカル殿とお話ししたことがある。それが理由です。どうして理由になるかは?」
「それならば分かる気がする。俺がここにいるのもただ聞いたからだ。知っているだろう、ハンニバルがバアルに何を誓ったのか」
 火を前にすると、あの香木の煙を思い出す。傍らの男の伸びた背筋や数えきれない傷、見窄らしさを感じさせない禿頭、いまこの時ばかりは静かな目元に、遠い背を思い出した。
「ハミルカル殿はあなたたちご子息を若獅子と呼んでおられた」
「ああ、覚えている」
「神は他の何よりも尊い贈り物をなさったのだとあの方は仰った。わたしからすればあの方こそが軍神だったが、あの方が見ているがいいと私に言った。ーー見ているがいい、私は死ぬことがないのだ」
「……それは、本当に?」
「嘘など言いません」
 彼は、自分をいつから知っているのか。ハスドゥルバルは見つめていられない火から目を逸らして老兵を見遣り、その答えはどうでもいいのだと感じた。彼は目を細めていた、まるで、ハスドゥルバルが甥にしてやっていたように。それを見ると言葉は嘘を纏わずするりと出て、落ちていくことができた。
「ならば、俺も死ぬことがない」


 執政官の名を知り、また、まさにその当人が対峙するもうひとりの執政官の軍に精鋭を率いて合流したのを知って、いらぬ笑いが漏れた。憎まれているのだ。クラウディウス・ネロといえば、ハスドゥルバルが欺瞞でもって出し抜き恥をかかせた相手だった。
 イタリアに入ったハスドゥルバルはハンニバルとの合流を目指し、そのために多くの行動をとったが、いずれも実を結ばなかった。兄の下へ送り出した使者が正しく密書を届けたならば、ローマ軍が何故ハスドゥルバルの進行方向に待ち受けているなどという報告が入るのか。戦いたがっている者共に追われる心地は久しく味わっていなかったのに、後先のない焦りに混じって底抜けの何かが笑っている。
 ひどく長く思われた夜が明けたが、それが意味するところは事実以上のものではなかった。メタウルス河を渡りそこね、道案内人に逃げられたハスドゥルバルらはあてどなくさまようばかりで、右を見れど左を見れど、部下たちが硬い顔を崩さない。
「戦うのですか」
 将校のひとりが馬を進め近づいてきて言うのに、首肯も否定もしなかった。彼らも同じ心地で、だからハスドゥルバルに聞きたがるのだ。明確に役目を知っているなら戦いたいなどと言わない。だが、手を拱いて狩り尽くされるのは御免だった。
「ハンニバルは生きていると思うか」
「え? それは、その」
 クラウディウスがやって来たのは、手隙になったからではないかと。言外に尋ねられて狼狽えながらも将校は「いいえ」と、存外にしっかりとした声を出した。
「まさか。使者が捕らえられたのだとしても、それだけはないことかと」
「俺もそう思っていたところだ、気が合うな」
「ハスドゥルバル殿……」
「あの丘、使えるのじゃないか。ーー戦列を組め。この際だ、ガリア兵も組み込んでしまえ」
 はっとしてすぐに顔つきを変えた将校が馬首を巡らせるのを横目に見送る。命令が伝わると同様に空気をがらりと入れ替えた軍勢に鼓舞する言葉をかけながら自身も右翼へと動いた。自らの吐く言葉が望むままの力を持つならばいいが、ハンニバルが取るような魔術めいたやり方が身についているとは思えない。
 分からぬ者がいるだろうか? 前方に見える戦列を組み終えたローマ軍の姿は刻一刻と近づき、彼らは自分たちにハンニバルの影を見ている。それは死の似姿なのだ。
 最前列に並べられた戦象のところまで辿り着いて、ハスドゥルバルはその穏やかに見える、しかしそうとばかり読んでいれば流血を免れない生き物の瞳を一瞥した。本国のバルカの屋敷に飼われていた象はどのように死んだか、ハスドゥルバルは知らない。
 はっきりとした始まりは、なかった。ただ双方均衡の崩れきっているのに気付いて駈け出し、衝突したのだった。象使いに操られ真っ直ぐに突進する戦象に踏み潰されてくれる者は、そう多くないだろう。しかし象の巨体への恐れは不要なのだといくらか学んだローマ人はともかく、何頭かの馬が咆哮に惑うのが視認できた。
 槍を構え直したハスドゥルバルの姿を指揮官のそれと認めてもいないだろうに挑みかかってきた騎兵が何を叫んでいるものか、ハスドゥルバルには聞き取れなかった。ラテン語は不得手なのだ、いくら罵られても。突き出される剣を躱して馬に突き刺した槍をすぐに引き戻し、そのままに振るって横殴りに騎兵を叩き落とす。死角からの剣を弾いた従者に礼を言うのは後回しだった。
 武具に特別な絢爛さも目を引くだけのしるしも求めないハスドゥルバルの姿は、指揮官とひと目で分かるものではない。ローマ人の将軍たちの緋色のマントが翻るのは見事なものだが、真似したくはなかった。
「ハスドゥルバル殿!」
 呼ばれ、振り返りもせずに声の主から近づいて来るのを待った。従者に一応は守られているとはいえ、愛想よく応える余裕はない。目に留めた通りに地形がうまく働いており、趨勢がほとんど拮抗するなかでは。
「ーーああ、お前か」
 駆け寄るついでとばかりに歩兵の二、三を馬で蹴り倒し、老兵はいやに明るい顔をハスドゥルバルに向けた。快活なまでの明るさだった。
 拮抗し、延々と続くのではと思われる戦闘で、誰も彼もが死に物狂いになる。ここで押され敗れれば自分を迎えるのは死のみであることにはどちらも変わりなく、死の吐息を感じて剣を振るう腕に疲れさえ許さないのも平等にそうだった。ヒスパニアより連れて来た兵士たちがそうなら、長くバルカとともにある将校たちがそうであり、ハスドゥルバルとて免れない。
 穂先に破られた喉から溢れる血潮を両手に受け止めた男の見開いた目が、ハスドゥルバルを見る。がぼがぼと喘ぐうちに何を言うものか、頬に飛び散った血飛沫のぬるさの方が雄弁だった。
 誰も彼も、死ぬのが嫌なのだ。なぜなら彼らは兵士でしかない、ひとりの人間でしかなく、それは生まれついた場と人々のために戦っていてさえ変わらない。哀れなのは、死に場所を決められない者だ。
 不意に厭なものを感じて右方へと目を転じる。倒れる戦象が見えた。次いで後方を振り返る。流れの変化、それも、それだけはあってくれるなと考え望みを託したものが裏切られたことを報せる鯨波。
「緋色……」
 垣間見えるそれは執政官のしるしだった。ーー崩れた。
 ぎりりと噛み締めた奥歯が削れるような音で悲鳴を上げる。役立たずのガリア兵が動く気にならない限りこの右翼が全体の主力であり、ならばこそ側面に回られてはならなかった。
 誰がそうと言わずとも、ハスドゥルバルが黙していようとも、捻じ曲がった空気を感じ取れない者はいない。自軍の兵士たちがそれでも戦う理由などハスドゥルバルの知ったことではないが、だが、その死を望みの絶たれる音として彼は聞いてきたのだ。
「おい、爺さん!」
 名を知らないのでそう呼びつけたが、老兵はそれで自分のことだと分かったらしかった。すぐに馳せ参じた男の上がりかけた息に混じった笑いと同じものをハスドゥルバルも浮かべている。
「最後まで死なないでいてみろと言ったら、怒るか?」
「生き残れと? 無茶難題ですな」
「だがお前は父の目に留まった男だろうーーそれに、若獅子はまだ残っているのだからな」
 ハスドゥルバルの身には、そう多くの傷はない。初陣やそれから暫くを弟の言ったような無頓着さで切り抜けたのだが、ちゃちな怪我を繰り返して死期をたぐり寄せるのはそもそも性に合っていなかった。
 偶然だとか、思いがけぬところだとか、下らぬ切欠で死ぬのは嫌だった。戦場ではない場所で死んだ義兄の血は無為に流れたとハスドゥルバルは感じたのだ。そして、あの雨の中で自らではなく彼が血を分けた者たちを生かした、父の死こそは選び取られたものだった。
 生き残ったとして、ハスドゥルバルにもこの老兵にも、末路は決まりきっている。それでもハスドゥルバルは教えこまれた傲慢さで老兵を顧みなかった。生きてみろと言うのだ。
 脇目もふらず、馬を駆り立てる。斬り伏せられた兵士の骨を砕きながら蹄は地を蹴り、ハスドゥルバルが選んだ馬は怯まなかった。
「クラウディウスか」呟きは口籠って響かずに消えた。執政官の顔をハスドゥルバルは知っていた。そこにいるのがもう片割れではなくてクラウディウス・ネロであることは、ひとつの味気なさを打ち消している。前後を敵に押され逃走さえ叶わない兵士たちに彼はもう言葉を投げなかった、何も浮かばなかったのだ。
 ローマ兵と見るや槍を振るい、止めを刺す誠実さを打ち捨てて敵の波を掻き分けようとする者の存在に、クラウディウスはすぐに気がついた。彼はおそらく、いや間違いなく、このハスドゥルバルを探していただろう。ハスドゥルバルを殺さねばならぬと定める理由を、ハスドゥルバル自身が彼に与えてやっていた。
 馬の首を刺し貫いた槍が容易には抜けそうになかったので、それを見捨ててハスドゥルバルは剣を抜いた。手綱を握る左手に碌な感覚がなく、いつだか知らぬが左腕を傷つけられていたと知る。
「クラウディウス、ーー俺を憶えているだろう!」
 わざわざ得手ではないラテン語で叫べば、おうとクラウディウスが吼えた。
 血に汚れた貴族然とした白皙が狩りに猛る獣のように歪み、そこには紛れもない憎しみを見出された。ハスドゥルバルが殺したローマ兵に目も向けない傲岸さでもってして、彼はそこにいた。
 がくんと突き揺すられて視界が回る。見れば腹を貫いた槍の鋒が血に濡れて光っていたーー手柄を上げたことに気付いて笑みを作りかけたローマ人を、ハスドゥルバルは最後に殺した。
「憶えているぞ、ハスドゥルバル」
 矢に射られ膝をついた馬から落ちた彼に降りかかる声の帯びる笑いの気配には刹那の、咄嗟のものとは異なる興奮が伴っていた。
 吐いた血で濡れた手で剣を握ろうにも、その手がどこに落ちたのかも判然としない。見上げた先で馬を下りたクラウディウスが彼の仇敵を睥睨している。
「間違い、なく、……ハンニバルに、知らせろ……俺を殺したのだと」
「ああ、言わずとも」
 振り下ろされた白刃が煌きからハスドゥルバルは目を背けなかった。それが喉を食い破る音までも聞いて、彼は目を閉ざした。


 握り合わせた手と手の間で、一度は乾き始めていた血がまた粘りを取り戻していた。ハスドゥルバルが頻りにそれを確かめるように手を握り直すのを、ハンニバルはそのたび見下ろしていたが、振りほどく気がないと彼は諒解しているらしい。
 乗せられた馬車の無言を苦痛とは思わない兄弟だった。夜遅く、日頃寝台に叩き込まれて眠りに落ちている頃にこうして屋敷の外に出ているのがおかしかったのもある。そしてそれよりも、ハスドゥルバルにとっては、神殿で目にした何もかもが未だ彼の鼻先に揺らめいていた。
「なあ、兄上」
 こっそりと話しかければ彼は弟に目を向ける。同じ馬車に乗る父の無言よりは、兄の無言は軽い。
「……ヒスパニアに、おれは行けないの? 兄上だけ?」
「ハスドゥルバル」
 その夜見せた表情のなかで、その顔がいちばん人間らしかった。利発さと、邪気のない悪趣味、父からの多大な期待とで異彩を放つ子供としては弟の不安を宥めようとする顔の優しさは珍しいものだったのだ。
「おまえ、聞いていたんだろう。出て行かなかったのだから」
「うん。やっぱり駄目だった?」
「いや、駄目じゃない。おまえが聞いているものと思って、俺だってああ言ったんだ。分かるか?」
「うん。……なにが?」
 するとハンニバルはすぐそばの父から隠れるように弟を引き寄せ、声を低くした。
「俺とおまえ、それにマゴーネのぶんまでいっしょに誓った。だからおまえたちは俺と同じだ、ヒスパニアにだって行くさ」
 目を輝かせるハスドゥルバルに対して、それでも兄の目は静かなものだった。いつだって彼はそうして静けさの中にいて、どれほど走り回ってもどんな悪戯に手を染めても、狂乱に陥らない。
 ハンニバルは、自分のよりも幼い弟が何もかも分かって喜んでいるのではないことまで知っていた。だから彼はもっと言葉を砕くとか、時間をかけるとかして、ハスドゥルバルが我が身に起こったことを吟味する機会を与えることもできたのだ。それをしなかったことこそが、彼の望みを表していたのだ。
 笑顔を見せる弟の手を、痛いくらいに強く彼は握っていた。
「俺、兄上とおんなじだ。そうだろ」
「ああ、そうだ」
 その夜、あの炎に焼べられたのは兄だけではなかった。そしてそれを知っているのも、父と兄だけではなかった。
 ハスドゥルバルはそうして与えられたものを決して、一度として、兄が最早彼は忘れてしまっただろうと考えた後であってさえ、手放すことはない。

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