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瑕に蜜

 美しいから許していた。
 奴隷たちがせっせと姉の宝石を磨くのを眺めていたとき、澄んだ緑の石を見つけた僕があなたの色だと言って振り返ったのを、あの人はただ微笑んで済ませたのだ。そういうそっけない、高慢な態度が美しい人だった。
 姉よりも姉の夫が美しいということを誰も彼も分かっていた。異郷に渡って間もなく病みついたという姉を、僕は祖国では顔も知らなかったけれど、海を越えてから好きになった。母に似ていたかもしれない。けれど真実優しい女性で、父には似ていなかった。榛色の瞳はいつも潤んでいて、彼女は不幸だっただろう。
 義兄は姉に親切で、従順だった。彼の主君の娘であるから当然だった。彼が姉を娶ったわけを僕でさえ知っていて、どうして姉当人が知らないなんてことがあるだろう。義兄は姉の夫だったが、彼女の恋人でなく、父の恋人だったのだ。
 日に焼けたのか齢とともにそうなるものか、色の薄くなり始めた柔らかな髪を風に流されながら、優雅な足取りで義兄は歩く。彼の眼差しの先には父がいる。僕が彼らを見ていても、構わないらしい。兄たちは注視することをしなかったが、ちらと見て、呆れとか諦めとか、大人びた感慨を額のあたりに表していた。
 恥ずかしくないのと尋ねたのは兄に対してだった。あのひとたち、あんなふうでいて、恥ずかしくないの?
 長兄は目を眇め、彼としては珍しく言葉に迷っていくらか考え込んでいた。このうえなく聡明で勇敢で、彼は完璧な兄であったが、末弟の扱いとなると大人が子供を扱うのに困るように手を焼くことがある。
 恥じろと言われて、恥じずに済む場所に移られたのだ。苦々しい調子で言い、兄は弟の髪を雑な手つきで撫でた。僕はふたりの兄が好きで、姉たちのことも好きだった。義兄はその次なのだ。しかし父は、好きとか好きでないとか、慕わしいとか慕わしくないとかではないらしい。僕が海を越えてから何度目かの冬、姉が死んだ。子は遺さなかった。
 義兄が必要から蛮族の姫君を娶ると、僕はやっと気が付いた。次にああいうふうに結婚するのは長兄だ。次に次兄、そして僕が。この地の姫君を与えられ、盟約の証として慈しむのだ。
 そして僕は少し安堵したのだった。義兄は、姉にしたのと同じように姫君を遇した。欲しいものはないかと心を配り、愛情深い顔で隣にいて、寝所を空けすぎることはなかった。空けるとき彼がどこにいるのだか、姫君が知っていたら、彼女も不幸になったかもしれない。父を愛する義兄の顔といったら、もう!
 なぜそこまで知っているのだ。次兄は気味悪がって僕を避ける身振りさえした。僕は部屋の場所が悪いのだと言い訳をしたが、聞き耳をたてていなかったとは言わない。
 父は母を愛していなかった。母は不幸だった。不幸のうちに死んだ。僕だけがそれを知っていて、兄たちは、父は一応の義務として母を尊んだだろうと考えている……。父は義兄の若さを愛したのではなかった。美しさは愛情を呼び起こしたかもしれないが、少年か青年の瑞々しいばかりの輝き、生きているものにしかない甘やかな香り、そんなものは、美しい義兄のひとつの段階でしかない。青年と呼べなくなり、壮年に差し掛かって、彼は翳らない。彼の瞳は宝石よりも色とりどりに輝き、心を溶かす。
 僕はその美しい姿だけは好きだったのだ。義兄はどこか策略的なところがあって、いつでも僕や兄たちを見定めていて、それが癪に障ってならなかったが、顔の造作に罪はなかった。高貴な生まれの男の挙措とその内面に関わりはなかった。兄たちと僕とが、父の血を引く息子であるという最も大切な事実に支えられていること、父が何よりも心を尽くす存在であること、そんなこと、彼はどうでもよかったに違いない。
 美しさで目をかけられたのではなかったのだから。義兄の手腕を父は必要としてやまなかった。彼は父の代わりになることは決してできないし、それを許されないが、父の一部だったのだ。ああなんて幸福な関係、満ち足りた愛情だろう。僕はそういうふうに、父が義兄を抱き寄せるのを見ていた。
 父が死んだ日、雨が降っていた。その雨は義兄を濡らさなかった、彼は海の向こうにいたのだ。すぐに呼び戻された彼が知ったのはやはり父が他の誰よりも、何よりも彼の後嗣を愛していたことと、少年にすぎないその後嗣を育て上げるのが己に残された仕事だということだった。ざまあみろ、と、思ったのは、僕じゃなかった。
 義兄は窶れもしなかった。彼は秀麗な姿のまま父の復讐をし、父がなすべきだった仕事を片付けていった。相変わらず義兄には子が産まれず、祖国にいるもうひとりの義兄の子の成長を時折耳にしては嬉しそうにしていた。不思議な事だ。
 あるとき義兄は初陣を控えた僕を呼び寄せて、自らの初陣について語った。恐ろしかったとか身震いがしたとか、そんな嘘は言わなかった。彼はただ華やかな笑みを浮かべ僕の肩に触れ、お父上は本当に楽しみにしていらした、と最後に言い添えたのだ。そうだろうか。肩に触れる手のひらの感触になにか思い出しかけながら、僕は性懲りもなく、心のなかでだけ疑ってかかっていた。そうだろうか? 父は、自分に似ているのと同じくらい彼の妻女に似ている末子を、兄たちに対するほどは打ち解けて扱わなかった。
 当時、少年にすぎなくとも戦場で部隊を率いる役目を負っていた長兄がそう言ったなら、信じただろう。僕は義兄がじっと覗き込んでくるその目付きとか、不自然な沈黙を知っていた。予想は裏切られるだろうとも考えた。
 僕は何事もなく部屋を出て、従者を連れて遠乗りにでかけた。この地にやって来てからずっと僕のそばにある男だから、義兄と話すよりその男と話すほうが気が楽なことがあった。時の許す限り、慎重な性分で御曹司の身を第一に思う従者が許す限り駆け、義兄の築いた都市へ戻った。
 帰ってまず兄を探したのはそれが習慣だったからだ。帰りを伝えておく父も母もなければ長兄を探す。自分で馬を厩舎に返してから、宮殿のような屋敷の中をさほど迷うこともなく進んだ。義兄は東方の王のようになりたいのだそうだ。それは半ば悪口の類で、たとえそうだとして、何が困るのかと僕は思っていた。
 東の人々は、つまりは僕らの属する民族と同じではないか。まったく同じではなくたって少なくとも、僕らは狼の子供とは違った。ひとり贅沢をしたがるのと、ひとり富を集めて羨望を集めるのとは、意味が違うだけ、同じ行いだ。僕は開かれた扉の向こうに兄の背中を見つけて声をかけようとした。しただけになった。
 青年の域に脚を踏み出していた長兄は背が伸びて、じきに義兄さえ追い抜いてしまうだろうと専らの話題だ。それでも彼はどこか頼りない体躯を持つ、顔つきの柔らかな、少年だった。
 そして父に似ていた。僕らには知りようがないが父が長じる前にはこんなふうだろうと想像させるに十分なほど。僕よりもずっと似ていた、次兄よりも、姉よりも、誰よりも。そして神の恩寵は彼の姿をとって父に齎されたのである。
 頬をとらえる手の白さが目についた。日に焼けるのなど構わない兄と比べると生来色の薄い義兄は真っ白いと言ってよかった。彼は少年の頬をとらえ、いくらかの間、じっと目を伏せてその鼻梁を見つめていたかと思うと、唇を寄せた。要するにくちづけたのだ。鼻先や頬にしたのではないか、と良心的に解釈するのは難しかった。
 兄はまっすぐに立ったまま動かず、ゆったりとした作りの長衣のうえに何枚も上着を重ねていたのにそれらがひとつも揺るがないのが分かった。僕は阿呆みたいに声をかけようとした体勢のままで、それを見てしまったのだが、叫ばずに済んだのは非常な幸運だった。
 僕の叫びはこうだ。 ーーきたならしい!
 手が離れると兄は一歩足を引き、すぐに踵を返した。何も言わなかった。そして彼は弟を見つけ、その強張ったーーというよりも歪んだまま戻らなくなったーー顔に首を竦めてみせ、通り過ぎさま腕をとった。腕を引かれればついていくしかなく、僕は思っていることをひとつも言わないでいるという暴挙、苦行に挑んでいた。
 美しいから許していた。義兄が美貌を持つばかりでなく輝かんばかりの才を振るい続けるので、許していた。女たちの悲哀は子供と呼ばれなくなる僕には関係のないことになろうとしていた。それがどうだ、この醜態はどうだ。
 似ているからどうだというのか。兄は、気落ちしたふうでも憤激したふうでもなかった。慣れているのかもしれなかった。彼の誇り高さ、御し難さを、身の程知らずにも彼を誘導しようとした経験のある僕は分かっている。義兄に関して兄はおそらく諦めに偏っているのだ。弟の腕を自分の部屋に入ってやっと解放した兄は、楽しかったかと尋ねた。もちろん、愛馬との遊びは楽しかった。余韻が消し飛んでいたことを除けば。
 口止めもなにもなかった。秀でた額を手のひらで擦るようにしてから、兄は僕の初陣の話に移っていったのだから。
 その初陣で、僕は僕自身と兄たちとを満足させることができた。お膳立てがされていたと言えばそれまでのことだが、僕は逃げ出さず、恐れを滲ませず、剣を振るい、血を躊躇わなかった。及第点だと言った兄の笑みがほんものだった。震えを齎さず手足を縛らない怖気が僕の内側すべてを満たしていることに僕が気が付いたのは、いつだったか、分からない。ともかくも僕は不安を払拭し、誉れのひとつに数えられた。
 その頃に至っても、兄たちが義兄を慕っているかどうかを確かめたことはない。尊敬と愛着はまったく趣を異にし、敬慕は盲目であることを許されている。義兄の愛情は長兄に向かったのかもしれない。それは虚しさが余りある代替に違いない。だから、あれきりではないかと僕は考えるようになった。誇り高くあるから美しい人だった。長兄に膝を折らせることは義兄の挫折にしかならないだろう。
 部隊を率いそれなりの成果を携え帰還する僕を義兄は褒め、そこには血の通った親愛があった。彼は僕の長く伸びた髪をおかしがり、いつしか、義理の兄として振る舞うことを止めていった。向いていなかったのだろう。そうなると彼は僕にとって上官であり、敬うにじゅうぶんな政治家で、つまり、父の愛にふさわしい男となるのだった。
 夥しい死が横たわっている。戦場ばかりでなく、宮殿のなかに、都のなかに。僕の幼少には死者のにおいとそれをかき消そうとする香や花のにおいが染み込んでいた。みな母が死んだ時と同じにおいをさせる。
 それを見つけたのは僕でも兄たちでもなかった。長兄の友人のひとりであった青年が血みどろの奴隷を長兄の足元に投げ出したとき、誰も事情を呑み込んでいなかった。その血はほとんどが義兄のもので、少しがその奴隷自身にものだった。
 義兄が奴隷に殺されたのは、長兄が将軍位を頂くにふさわしい齢になった頃だった。狩猟の最中、供の者が離れた隙を狙って、私怨を抱いていた奴隷が刃を振りかぶってーーそこからは想像だ。誰もその瞬間を見ていない。
 奴隷はよくそんな声が出るなと感心するほどの大声で、その勢いを緩めることなく捲し立てた。縄で加減なく縛られた彼が昂奮の絶頂で失神するであろうと僕は思ったが、聞くに堪えない言葉の波は止めどなく、長兄も次兄も眉ひとつ動かさないでそれを聞いていた。聞き終えて彼らは兵に奴隷を連れて行くよう命じ、義兄のもとへ向かった。
 惨たらしい屍体だった。怨念は真実あの奴隷を蝕んだのだと僕でさえ理解できるほど。義兄を慕う奴隷や従者が狂おしく泣いているのを僕と兄たちは静めるのを早々に諦め、義兄を宮殿に運んだ。血が溢れて臓腑がこぼれ落ちかけるので苦心したが、僕は少し離れた場所にいた義兄の馬の手綱をとらえ戻ってきてはじめて、彼の顔に瑕がないのに気が付いた。それどころか彼は目を閉じて死んでいた。
 ならば僕は彼を許しきってしまうしかない。それに、彼は機を逸してはいなかったから。長兄は本国で彼の将軍位が認められるより先に兵士たちに向けて演説を行い、惜しみなく義兄を称えた。誰もが兄に率いられる日を待っていたが、麗しい中継殿の喪失はやはり悲嘆を呼んだのだった。それこそが調和、美しい有様だと、僕は心から思ったのだ。

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