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波に寄る辺なく

 潮騒が嫌いだ。生を受けるずっと以前から聴き続けてきたのであろうその波の音、海の蠢く響きがマゴーネはずっと嫌いだった。彼の生国が海なくしては語りえない性質を持つからこそであるのか、それにも関わらずと言うべきであるのかははっきりとしないことである。
 そして、ああ、やはりと思う。海など嫌いなのだ。へばりつく波に押されてゆらゆらと頼りない船の上で、船窓から見えるのは空ばかりであったのに、潮くさくてならない。塞がりきらない切創にその磯の匂いが入り込んで腐らせていくような気がした。熱を持った傷が濡れているものかどうか、もはやよく分からないのだが、かわるがわる枕元に立つ部下の顔が様々なことを語っている。
「マゴーネ殿」
 少しばかり年嵩の男が何度も、ふらふらと眠りの淵をうろつくマゴーネの名を呼んだ。時折手を握ってはマゴーネの返事を待っているようだった。船に乗せられてどれほどが経ったものか、おそらくはまだ一日でさえ過ぎてはいまい。マゴーネは彼としてはしっかりと部下の顔を見ているつもりだったし、思い返せば鮮明に彼らの憔悴した顔つきを描き出せるというのに、波の音が間隙なく続くおかげで時間を見失っていた。
 傷を受けたときにはここまで深いとは思わなかった。本当にそうなのかもしれないし、そう思い込もうとしたのかもしれない。
 ふと、この年嵩の男の名を思い出して、マゴーネはいよいよ駄目かもしれないと笑いをこぼした。ほとんど取り落としたような乾いたそれに握られた手がいくらか震えて、かさついた兵士の肌を少し痛いと感じた。
「おまえのことがわからなかった……」
 ずっと、この男はバルカ家の末弟についてきた。父がそうせよと命じてからずっとだ。何年になるものか思い出すのも苦労するほどの昔、マゴーネは兄たちのため、あるいは祖国のために振るう剣の重さをこの男から教わったのだった。
「マゴーネ殿」
「そう、なさけない声で、呼ばないでください」
「……あとすこしなのです」
 そうだ、あとすこしばかりのことだ。海も陸も、風でさえも、がらりと変わってしまうのではないかと言いかけて、言えなかった。何が引っ掛かったものか咳き込んだマゴーネは丸めかけた背が破れたような気がした。
 背を傷つけられるなど情けないことだ、兄が聞けば、どう思うか。叱られはすまいと分かっているというのにマゴーネは長兄の叱責を思い出そうとして、自分を思いやる言葉ばかりを釣上げてしまった。兄は決してマゴーネを甘やかそうとはしなかったのだが、兵というものを大切にすることの延長としてか、あるいは家族というものへの情愛か、マゴーネは彼に見捨てられると感じたことはない。一度だってないのだ。いまだって、そうだ。
 船腹に圧しかかる波は穏やかなものだった。
「こんな場所はいやだ」船は嫌いだ、そう続けかけたが億劫になった。「こんなところでは、いやだな……」


 思えば母は間違っていたのだろう。それが幼いころには既になんとなく感じ取られていたのに、はっきりと考えにまとめることができないでいた。マゴーネが母と暮らしたバルカの屋敷はその広大な領地のなかにあり、カルタゴの中心からは外れていたが、どこにいても海が見えた。
 父と兄とが船に乗りアフリカの地を離れたとき、ようやっと人間らしくなったという程度の幼子であったマゴーネは母の手元に留め置かれた。母は生まれ育った土地を離れることも幼い子らが父の教えに従って剣をふるうのを見ることも拒み、父の腕から末の男の子ひとりをやっとのことでもぎ取ったのだ。マゴーネはそれだから、憶えていなかった。父の顔も兄の声も。
「あなたはここにいればいいの」
 優しい笑みを絶やさぬ女だったが、その実追い詰められていたのだろう。病を得て床に臥すようになると彼女はマゴーネをそばから離さなくなった。侍女や、すでに他家に嫁いだ娘などがやんわりとそれに苦言を呉れても同じことで、マゴーネは母の衰えをじっと見ることを命じられたようなものだ。
 母のそれに似て好き勝手に跳ねまわる髪を彼女は愛していた。娘ばかりが続いた後に生まれたひとりめの男の子の持っていた天性の鋭さを持たない末の子のおとなしさを支えにしていた。
「あなたは、ここにいればいいのよ……」
 愚かな女ではなかったからこそ、そう繰り返したはずだ。この母が死ぬと自分がどう扱われるのか、マゴーネはそのときななつになったばかりの子供であったがうっすらと勘付いていた。船に乗ると気分が悪くなるというのは本当かと母に尋ね、ひどく動転させたものだ。
 痩せた指先で食い込まんばかりにマゴーネを抱きしめたまま母は死んだ。美しいままだったと記憶している。その葬儀に彼女の夫も長子も不在だというのは寂しいことだった。姉や姉婿はマゴーネを慮って耳障りの良い言葉を子供に与えようとしたが、どれほど母がそれを望まずともマゴーネはバルカの子だった。
「父上は僕を憶えているでしょうか」
 カルタゴの王をも務めたボミルカルが、マゴーネにとっては義兄にあたるそのひとが当時の幼子にとっての指導者だった。布を巻きつけた頭にしろ最高級品の柔らかな長衣にしろ、彼はカルタゴにおける貴族の姿をマゴーネに教えもした。
「お忘れになることなどありえないとも」
「けれど、僕は憶えていません。にいさまたちのこともです。それなのに憶えていてもらえるでしょうか?」
「おかしな言い方をするのだね、マゴーネ。よいかい、これから先、そなたはおそらくお母上のことを忘れはしないだろう」
「もちろん、そうです」
 母の好んだ香をマゴーネは死ぬまで忘れることがなかったし、彼女がどのようにして子を連れ去った夫を恨んだものか、忘れようはなかった。ボミルカルは目を細め頷き、喪服を着せられた幼子を膝に招き寄せる。
「それに、そなたはじきお父上のもとへ向かう。けれども私はマゴーネを忘れはせんし、そなたもそうだろう?」
「はい、義兄上のことは憶えています」
「ハミルカル殿も同じだということだ。情の深いあの方のこと、そなたを待ちわびていよう」
 こくりと頷いたマゴーネのいくらか伸びた髪を撫でて、ボミルカルは何が嬉しいのだか分からないくらい嬉しげに笑っていた。
 さていよいよ、バルカの男の子はみな父のもとに揃うこととなった。姉のしつらえた上等な外套を重く思いながらも身につけたまま船に乗り込んだマゴーネの周りには彼と馴染みのある奴隷だとか、彼が世話の仕方を習うのに与えられた仔馬だとかが並んでいたが、見知らぬ男たちもいくらかいた。ボミルカルと似た風体のそれらの者共はおそらく視察か何かの用向きであったのだろうが、言葉をかわさなかったので定かではない。
 船がカルタゴの港を離れしばらくして、外套に染み込んだのが姉のものではなく母の使った香だと気が付いたマゴーネは早々にそれを船室に放り込んでしまった。父は馬を走らせアフリカの端に行き、最もヒスパニアと距離の近い場所から船を使ったと聞くから、そっくり同じ道をゆくわけではなかった。
 波に揺られるうちひどい船酔いに目を回したマゴーネをリビュア人の奴隷はずっと扇いでいてくれたし、求めれば腕に抱いて風に当たらせてもくれた。気の優しいものでなければ母が子に近寄らせなかったおかげで、マゴーネを世話する者たちはみな無口ではあるが無愛想ではなく、それはなぜだか母の手の届かぬヒスパニアでも続くことになる。
「マゴーネ様、岸が見えてまいりました」
 それが流暢なカルタゴ語であったのはその奴隷が幼いころから鎖に繋がれていたためだった。青い顔をした幼い主人を励まそうとしてそう言葉をかけたのだろうに、マゴーネは寝台にしがみついたまま顔もあげずにいた。
 船がおかしな揺れ方をして港についたのだと分かったときもそうしていた。酔いが抜けないことよりもまず、船を降りてから自分がどうなるのかやはりよく分からない不安があったためだ。二度、三度、奴隷はマゴーネを呼び、とうとう動かない身体を抱き上げて船室を出ることにした。
 顔を伏せたままでいたので行き交う人々の喧騒や、馬の走る音がやたら大きく聞こえた。奴隷はほんの少しの距離を歩いて立ち止まり、腰をかがめる。礼をしたのだと分かったのは慇懃な挨拶が交わされてやっとだった。
「ーーその子が? 眠っているのか」
「いいえ、だんなさま。ひどく船酔いなさったんです」
 いっそ眠っていればよかったと思いながらマゴーネは顔をそろそろと上げた。目の前にいたのは暗い緑のマントを身につけた軍装の男で、はじめマゴーネはそれが父だとは分からなかった。濃い紫の瞳が太陽を受けて少しばかり明るくなっているのでそうだと分かったくらいで、きっと父にもそれが伝わったのだ。かすかに口端を上げてみせ、彼は伸ばしかけていた手を下ろした。
「この顔に見覚えがなくとも、無理はない」
「……父上ですか?」
「そうとも。お前の父だ。……気分がそんなに悪いなら馬車に乗るがいいが、兄たちが落胆するだろうな」
 太く笑った男は、ボミルカルよりもいささか若いようにさえ見えた。本当にそうなのではなく彼の溌剌とした様子がそう見せたのだ。ハミルカルは背後に控えていた彼の息子たちを呼び寄せた、マゴーネの兄たちを。
 ふたりの少年は弟をじっと見つめ、それから、横目に互いをうかがった。それを見ているとなんだか急に恥ずかしくなって奴隷の腕から下りた弟を追うように、マゴーネの背丈の低いのに合わせて膝をついたのがハンニバルだった。カルタゴを離れ五年、兄はすでに軍装に身を包んでいた。
「俺のこともきっと憶えていないだろうな」
「ハンニバルにいさま」
「ああ、そうだ。こちらがハスドゥルバル。お前をずっと待っていた」
 ハスドゥルバルはここでもまだ子供と呼ばれる立場にあるのだろう、短衣と外套だけを身につけていた。マゴーネが見上げると戸惑ったようにその目はマゴーネの頭のてっぺんだとか、足先だとかをうろついたあと、兄に向けられる。
 それでもすぐに弟のほうに向き直って「会えて嬉しい」とはにかんで言ったハスドゥルバルをマゴーネはそのときもう好きになっていた。だが奴隷に外套を肩にかけられたときにふと、このひとたちは知らないのではないかと感じた。
「母上が亡くなったのに」
 責めるのではなくただ問いかけたくて見上げたのは父ではなくハンニバルだった。長兄は促すように頷く、それにマゴーネはかえって居心地が悪くなった。
「それなのに、悲しそうじゃないですね」
「お前が俺や、父上と縁が薄いように」
 宝石の留め具で外套の前をぱちりと留めて、ハンニバルはマゴーネの細いばかりの肩を撫でてから立ち上がった。
「俺やハスドゥルバルは母上との縁が薄い。おまえが語り聞かせてくれたなら、悲しんで差し上げることもできる」
 差し出された手を従順に握った弟の扱いについて、ハンニバルは息子らを見守っていた父を振り返る。「馬に乗せてやれ」と軽く言ったハミルカルはマゴーネと同じ船に乗ってきた男たちのほうへと歩き去り、彼はきっと語り聞かせても悲しみはしないのだとマゴーネは悟った。
 ヒスパニアにはそう多くのカルタゴ人はいないようだった。傭兵はリビュア人であったりこのヒスパニアの部族からのものであったり、ともかく様々な者がおり、マゴーネは暫くの間聞こえてくる言葉が多様に渡ることに慣れなくてはならなかった。
「彼らの言葉を完璧に、とは言わずとも、理解できるようになることが求められます」
 何はともあれまずはギリシア語、またラテン語を、と家庭教師のギリシア人は眉を下げたマゴーネに微笑みかける。子供たちのために用意された家庭教師は三人、いずれもカルタゴ人ではなかったが彼らの言葉はマゴーネにも聞きやすかった。
「あなたのお父上や、お兄さま方も同じように学ばれました。マゴーネ殿は勉強はお嫌いですか」
「できるような気があまりしません」
「まあ、それで普通です。ハスドゥルバル殿も苦労しておられる」
 線の細い、青年と呼べる年齢のシレノスというのが、はじめマゴーネに文法などを教えていた。老人のフィノリスや彼らふたりの中間といった齢のソシュロスは兄たちや、部将の子であるマハルバルなどを見ていたらしい。なぜシレノスかと言えば、彼がいちばん、優しかったからだ。
 彼はマゴーネがあまりにものを知らないので驚いていたようだった。母に娘のするような手習いを遊びとして与えられたのだと白状したときには困ったなあ、とマゴーネと揃って肩を落としもした。
「マゴーネ殿、学びには目的というものがあります。手紙が書けず読めずでは困ることは分かりますね。あなたはそれだけでなく、様々な歴史、地理、兵学というものを知らなくてはなりません。目的が分かりますか?」
 涼やかな風の入るマゴーネの私室はこじんまりとしたものだったが、この家庭教師と話すときにはどうしてか広く思われた。目的、とマゴーネは声に出さずに繰り返す。彼は彼の父の仕事についてはよく知っていた。
「父上をお助けするには、それが分からなくてはいけないからですか」
「その通りです。また、あなたはハンニバル殿もお助けする立場におありだ。乗馬も剣や槍の扱いも習うことになりましょうが、それも同じことです。……嫌だと思われますか」
「いいえ」
 マゴーネは、兄が好きだった。父に伴われあちこちへ出かけていることの多いハンニバルも、初陣の時期について大人たちが考えを巡らせているハスドゥルバルも、この末弟に優しい。軟弱とも言えるおとなしい気性を軽んずるでもなく待っていてくれる彼らが好きだ。そういうことをなんとか子供っぽくないやり口で表現しようとして、失敗したが、シレノスはじっと耳を傾けていた。
「母上は戦争は嫌だと仰っていました」
 そのうえシレノスは言ってしまえという気にさせる目をしている。
「寂しがっておられたんです。それで、だから……僕は、兄上は好きです。いちばん年下の僕はそういうことのためにいるんだと思うんです。うまく言えないのだけれど、僕は母上のためにではなくて、兄上たちのために……」
 子は何のためにあるものか、誰もはっきりと口にはしないが、兄は知っている。ハンニバルの立てた誓いを知らぬ者はいない。マゴーネはきっと、兄が誓いを立てた時にそこに含まれていたはずなのだ。ハンニバルがそうすると言うのならば、ハスドゥルバルがそれに従うと言うのならば、否はない。
 父について語ろうとしないことに気がついているのだろうにシレノスは「それでよろしい」とかたく頷いた。蝋を固めた書字板に並んだ文字を矯めつ眇めつして、きりきりとした気性が見え隠れする文字の均等さを目にとめては彼はマゴーネと取り留めのない話をした。こういう男だから異郷にやって来たばかりで、大人たちの目にはいかにも儚く映る子供にあてがわれたのだった。


「おまえの馬はなんだか気が優しすぎるなあ」
 刷子を手に振り返った少年は同じように馬を撫でるマゴーネのきょとんとした顔を見て、さもありなんという顔をした。
「優しくてはいけないんですか、マハルバル」
「いけないだろ。戦場で乗り回すのにさ、象の鳴き声に怯えてひっくり返るんじゃあ役に立たない」
「この子は……ひっくり返ったりしませんよ。賢いから」
 飼葉を運んできた奴隷に礼を言ってからそれをまだ成長している途上の自分の馬に差し出してやる。たしかにマゴーネの馬はどうにも、他のものよりも小さいままに思われた。けれども気に入っているのだ。
 マハルバルはハミルカルの部将の子で、ハンニバルの友人としてヒスパニアにいた。大人たちの期待通りと言おうか、それとは少し違っているようにも見えたが、兄はこの快活な、犬の仔に似た気質の少年に気を許しているようだった。
「それに、兄上のように悍馬を手懐けるなんてできないし」
「かんば?」
「……兄上の馬はみんな気が強いでしょう。僕なんかが寄ると蹴ろうとする」
「ありゃ似たもの同士だから気が合うんだろう。それで言ってもマゴーネの馬にしちゃそいつは優しい」
「僕は気が優しいと専らの評判ではないですか」
 不満を滲ませた物言いにマハルバルはにたりとした。手を止めた主人の背中を鼻先で押した彼の馬は誰のことでも乗せるがマハルバルが駆けよと言わねば駆けない馬だ、なるほど似たもの同士である。
「自分のことをおとなしいと思ってるのか? 安心しろよ、俺から見ればマゴーネもハンニバルもあまり変わらんぜ」
 マハルバルは、無礼だ。その無礼さで誰もに気に入られてしまう少年はずるい。年少とはいえ、ひょろひょろとして剣でも弓でも誰にも敵わないとはいえ、主人筋の相手の背中をばしばしと叩く。それに笑いかけてしまわないようにするのに苦労が要った。
 主人の不機嫌を感じ取ってか、馬がふいと首を反らして飼葉を押し退けた。マゴーネはじろりとマハルバルを横目にしたが、彼の方には気にする素振りもない。何か文句を呉れてやりたいと思ってはいても、マゴーネは雑言を知らなかった。邸の敷地を行き交う兵士の交わす言葉の粗野なことにどぎまぎするほどに。
「ーーマハルバル!」
 呼ばわる声に顔を上げかけて、やめた。ぶすくれた顔をどうにかしてからでなくては兄の方は向けない。その声はマハルバルを探していたようだったが、何度も呼ぶより先に目的の相手を見つけて、砂を踏む音が続いた。
「時間なのに、何をしているんだ」
「時間? あ、そうか、新しい武具を持ってくるんだっけ」
 忘れていた、と笑ってのけるマハルバルにハンニバルがついた息はさほど不愉快そうには聞こえなかった。汚れてもいいような格好をしているマハルバルに対して、ハンニバルはおおよそきちんとした格好をしている。しゃんと伸びた背筋のままで歩くものだから彼が外套を肩にかけると風になびく様子が見事だった。
 不意に兄の目がこちらに向いてマゴーネはなんとなく馬の頭を抱き寄せた。「どうかしたのか」と尋ねる声はマゴーネがヒスパニアに来たばかりの頃よりも低くなっている。
「マハルバルが、僕の馬をいじめるんです」
「……マハルバル?」
 目をぱちぱちと瞬いたマハルバルは心底不思議そうにマゴーネを見て、ハンニバルを見て、首を横に振ったが。彼にはいくらか前科があるらしく、マゴーネは叱られるようなことをわざとしたことはなかった。
「なんだよ、別にいじめちゃいないぜ。マゴーネの馬はおとなしいって話を」
「おとなしいなんて言い方じゃなかったじゃないですか。戦場で役に立ちっこないって言ったんですよ」
 末弟がきつい物言いをしたのが珍しかったのだろう、兄はマゴーネの胸元に頭を寄せたままの栗毛の馬に手を伸ばす。
「おとなしいのは本当だが、役に立たないということはない。この馬は父上の馬の子だ、それにマゴーネの手綱ならばどれほど高い障害でも飛び越えようとするだけの脚がある。おまえによく応えて走る、いい馬だ」
「父上の? はじめて聞きました」
「シチリアで乗っておられた馬を、カルタゴに残してゆかれた。それの子が役に立たぬはずはあるまい」
 馬は撫でられるに任せていた。そこに知性があると確かに思わせる目はハンニバルを映している。
 マゴーネの伸びて編まれた髪を食んだりしない賢い馬なのだから、従うべき相手を知っているのだ。機嫌を損ねていたことなど忘れて兄を見上げれば、既に軍人のそれとなっている手がマゴーネの頭に乗る。
「ついてくるか?」
「いいんですか、だって……」
「おまえもじきに十歳だろう、剣のひとつでもねだればいい。父上も喜ぶ」
 それはきっと、間違いないことだ。自分の子供たちがみな聞き分けがよくて当然だから、時折我侭を言ってみせるとハミルカルは喜んだ。うんと昔、マゴーネの生まれる以前などはハンニバルはよい子ではなかったそうだが、想像もつかないことだ。
 いつの間にか手からなくなっていた刷子などを片付けてきたマハルバルに促されてマゴーネはふたりの後ろを歩いた。広間には父のそばにハスドゥルバルが待っていて、彼の手にはいささか余る剣を握っていた。父も兄もそれが使用に耐えるならば兵士たちとおなじ武具を用いるのが常だったが、選定は慎重だった。剣などをすぐに折ってくるハンニバルの目は馬に向きがちで、ハスドゥルバルは得物を大切にする。
 マハルバルの父であるヒミルコは息子の風体に眉を寄せて、引き寄せた子に何事か話しかけている。武具を指さしては説明を加える男が商人であるのか軍内の者であるのかマゴーネは知らなかったし、彼はただ視線を流していた。
「ねえ、兄さん」
 そっと話しかけるとハスドゥルバルは目だけを弟に向けた。
「僕が持つならどれがいいんでしょう」
「背丈に合わないものはよくないけれども、そうだな、これは軽いから扱えるのじゃないか」
 兄の指差したのはヒスパニアの部族がよく用いる形状の剣で、確かに軽かった。装飾などまったくない簡素さがそうしてくれているのかもしれず、マゴーネは首を傾げてほんの少しそれを鞘から抜き、戻す。
 結局その日マゴーネは何も求めなかった。訓練でついたものの他に傷のない腕には、父や兄のために用意された剣は不釣り合いに思われてならなかった。けれども時折、後になって、あのとき何かを得ておくべきであったかと思うことがある。
 父が死んだのはその翌年のことだった。
 数日、長く雨が続いていた。雨の降り始める前から父は兄たちを伴って都市攻囲のため軍を率いていて邸には不在だった。こう雨脚が激しいのでは行軍に差し支えるのではないかとマゴーネは思いこそすれ、心配してはいなかったように思う。
 屋内の広さのある部屋で、父に割り当てられた彼の部下を相手に剣の扱いを習っていた。ざあざあと一向に穏やかになる様子のない雨音と、午前であるのに薄暗かった室内をよく憶えている。訓練用の木剣はその軍人が最初にマゴーネに与えた課題として共に作ったものだった。寡黙だが、軍団の長の子息を世話することに喜びを見出すことのできる男だったのだろう、優しかった。
「マゴーネ殿」
 マゴーネはその日、シレノスが青い顔をしているのを初めて見たのだった。部屋に駆け込んだ彼にどうかしたのかと尋ねたのはマゴーネではなく世話役の男のほうで、彼の声にも緊張があった。
「……ハンニバル殿とハスドゥルバル殿がご帰還なさいました」
「兄上たちだけ?」
「ともかく、早くいらしてください。早く」
 痛いほどの力で手を引かれ木剣を取り落としたが、誰もそれを振り返りはしなかった。マゴーネの手首を掴んだシレノスの手はぞっとするような冷たさをまとっていた、文人である彼の手は母に似ていた。
 柱廊を過ぎ、早足に正面玄関へと向かう。すれ違う奴隷たちの顔には憂慮が見られ、マゴーネらを認めて一礼した軍装の男たちの顔は強張っていた。髪も外套も濡れたまま絞りもせず立ち尽くす彼らに囲まれるようにして立つ兄たちはすぐにはマゴーネに顔を向けなかった。
「兄上」
 父はいない。シレノスが手を放すと、マゴーネはふらふらと兄たちに歩み寄った。彼らの持ち込んだ雨水が床に広がっていて、その広間は他の部屋よりもずっと冷え冷えとさえしていた。
「兄上……?」
 ハンニバルの腰にあるのが父の剣であることに気がついたとき、マゴーネは既に悟っていたのかもしれない。けれども誰も口を開かないから彼は惑い、兄を呼んだ。マゴーネが呼ぶたびにハスドゥルバルの握りこまれた手ががくがくと震えるのが見え、彼はいまにも崩折れそうだった。
 ゆっくりと弟を振り返ったハンニバルの顔をマゴーネは、目を伏せることもせず、真っ直ぐに見たのだ。父と同じ、どこか淀んだようでいて、澄み渡った、そういう目をハンニバルはしていたのに、その一瞬だけはそうではなかった。
「父上が亡くなられた」
 兄が一歩を踏み出すと、べしゃりと水を含めた布を落としたような音がした。
 人は死ぬということをマゴーネはよくよく承知している。自分がここにいる理由が母の死のおかげであることを言われずとも知っていたのだから、それは嫌われるべき賢しらさではなかったはずだ。驚きも、恐れも見せず、ただぽかんとして兄を見上げたマゴーネをハンニバルはじっと見定めようとしていた。
「それなら」はやく着替えるか、湯を浴びるかしてくださいと言いたかったが、それは後で言うべきことだった。「……ハスドゥルバル義兄上に、早く報せないと。戻っていただかなくては」
 姉婿のひとりである美しいハスドゥルバルはヌミディアでの反乱の鎮圧に駆り出され、鎮圧の後も事後処理のためにヒスパニアを不在にしていた。父が死んだならば次の将軍が必要になるはずだ、それは兄であるべきだけれども、いくら兵たちの無上の親しみと期待を負っていても十七、八の少年にはその任は認められない。
 ハスドゥルバルが信じられないという顔で弟を見ていた。いまにも泣き出しそうなほど目を見開いて、白くなった顔のなかでその大きな目はいつも如実に彼の心を語る。なぜハスドゥルバルがそんな顔をするのかはマゴーネには分からないことだった。
「……その通りだ」
 ハンニバルはマゴーネに手を伸ばそうとして、自分の手が濡れているうえに冷え切っているのに気付いて取り止めようとした。マゴーネは両の手で彼の右手を取った、きっとじわりとするくらいに暖かっただろう。
「ご無事で、よかった」
 長兄を見、次兄を見て、マゴーネは心からそう言ったのだ。落ち着いた彼らから仔細を語られた時にもそう口走った。父は、マゴーネに兄たちを遺してくれた。これでこのふたりの先達が死んで、父だけが残っていたならば、マゴーネにとってそれは死に等しい。彼は末の子として生まれた、役目はいつもそこにあった。
 おそらく悲しみは、このふたりの兄がそれを見せてくれた時にようやっとマゴーネに流し込まれるものだっただろう。だがハンニバルもハスドゥルバルも、互いにそれを許しこそすれ、末弟に嘆きを見せなかった。だからマゴーネは知らないままでいる、自分たちを生かして帰すために死路を選んだ父の背を見送る、その痛みを。




 悲鳴が背後で上がり、それがどんどん遠のいて、反響しながら消え失せていくのを聞くのにも慣れ始めていた。ハンノ・ボミルカルははじめのころ悲鳴のたびに背後を確認したり、思わず自らの足元を見たりしていたが、それも止めてしまった。
 骨まで凍えさせる寒さに歯の根が合わず、しかしそれをわざわざ苦と思うのも止めてしまって久しい。吹き付ける風は膚を切るようにして流れゆき、踏みしめるどこもかしこも冷たかった。寒いよりも痛いと思うほうが強いような場所だ、将官であるからどうということもない、ひたすら歩く他にはなにも叶わない場所。
「死にかけているような顔をするものじゃないよ」
 布越しのくぐもった声に顔を上げるべきか少しばかり逡巡し、ハンノは結局彼の方を向いた。
「そんな顔をしていますか」
「している。みんな同じようなものだけれどね」
 幾度か瞬きをして、ハンノが見やった男の顔は疲れてはいたが明るかった。この年の近い叔父はいつもそうなのだ、いつだってなんとなく楽しげで、それがハンノのような者には理解が及ばない気がする。
 鼻先まで巻き付けてしまっていた布を指でずり下げて、マゴーネが白い息を吐く。湿っぽい息はすぐにこの山の凍てついた空気に溶けて見えなくなる。山、とハンノはひとりごちた。山というものそのものを自分は知らなかったのだという気がした。アルプスが山だと言うのなら、これまで彼が見てきた山々などは丘のようなものではないか。
「重いねえ」
 荷具を背負い直すとがしゃがしゃと金属の触れ合う音がした。マゴーネもハンノも、背を丸めなくてはやっていられない荷を背負っていた。この行軍の指導者たるハンニバルがそうしているから、彼の部将たちはみなそれに習った。
 重い。確かにそうだが、兵士たちと同じように背に負った武具や荷物の重さはかえって、ともすれば失いかける足の感覚を助けている。馬に負わせても従者に負わせても安心しきれないこともある。この山脈に暮らす部族からの襲撃や、こちらに引き入れるために行われる努力よりも堪えるのは山そのものの厳しさだった。
「兄上は象を心配しておられる」
「……何頭、滑り落ちたのでしょう」
「さあ。出立の前から多くが死ぬだろうとは思っていたから、まあ、まだいいほうじゃないか。落伍者の多さに比べればさ……」
 ひっきりなしに、悲鳴は絶えない。なぜ自分はこの深く、暗い谷底に引きずり込まれないのかと不思議に思うほどに。ハンノが踏む雪はまだ踏み荒らされていないそれであったが、後列の踏む雪は泥水だ。新しい雪の下には氷のようになった去年の雪、その上を歩こうとして足を滑らせ、抗うほどに落ちていく。
 このアルプス越えについては計画を知らされたときから空恐ろしくてならなかったが、もう歩くほかないのだと思うと現実味があるのかないのか分からない。ぼんやりと、足取りだけはしっかりと歩き続けるハンノに時折マゴーネが話しかける理由もよく分からない。
 ハンノはハンニバルの軍勢のなかに、下級将校として身を置いている。生まれてからずっとカルタゴ本国にいたハンノが父の意向によって叔父のもとに送られたのはたった二年ほど前のことで、その派遣はこのヒスパニアの軍と本国との繋がりを示そうというものでもあっただろう。歓迎されたはずだが、ハンノはやはりカルタゴの人間で、ヒスパニアの人々の気風に馴染みきることはできなかった。それを分かっていて構うのだろうか。そこまで優しい人には思われない。
「笑った顔はボミルカル殿によく似ているのに」洟を啜る音を挟んで、マゴーネははあっとため息をついた。意味のない嘆息だった。「そうしてかわいそうな顔をしていると、姉上に似ているね」
「マゴーネ殿は母を御存知なのですか、確か、あなたは……」
「ななつの時にカルタゴを離れた。兄上よりも早いが兄さんよりは遅い。憶えているよ、姉上はね、怒りっぽかった。僕の母とたびたび喧嘩をするんだ、それが怖くて」
「……父とは、喧嘩をしません」
「それはいいことだ。ボミルカル殿はお優しかったけれど、ハンノにもそうなのかな」
 放任されがちだったと言えばマゴーネはくつくつと喉を鳴らして笑う。野に放ってバルカの子らしく育てたかったのではないかと彼は適当なことを言って、いまだ少年の風情の抜け切らない年若い甥の肩を叩いた。
「兄上はおまえについて不安がっておられはしない。全くだよ。だからそう頼りなさげにすることはない」
 どうして、知っているのだろう。ハンノは自分の齢も、なんとなくやさしい顔も、叔父に気に入られるには足りないとばかり思い続けている。それをどうして、ハンニバルの深い信頼を勝ち得、他の将官とも対等に意見を口にできるこの叔父が。
 ハンノはこれを機に尋ねるべきことがある気がして口を開いたが、前方から行列を逆行してやって来た者を認めてその口を閉じる。マゴーネの部下の男だった、確かカルタゴ人だ、と浅く皺の入り始めた顔を見る。
「どうかしましたか」
「巨大な岩が行く手を遮っているそうです。対処法はあるから、兵たちを落ち着かせるようにと」
「岩……ああ、はい。分かりました。座り込まないように見張らなくてはいけませんね」
 そういえばマゴーネはくだけた物言いをハンノにだけするのだ。部下に対してであろうが捕虜に対してであろうが、丁寧な物言いをするこの人がハンノにははじめからそうしなかった。
「ハンノ?」
「え、……はい」
「はい、じゃなくて。君も動くんだよ。とつぜん列が止まるとみんな不安がるだろう」
「すみません……」本当に頭まで冷気が入り込んでいるのかもしれない。少し熱くなった頬を持て余しながら、ハンノは踵を返しかけてマゴーネに声をかけた。「岩、どうするおつもりなんでしょう」
 道を塞ぐほどの巨大な岩ならば、この道の悪さだ、象を使ったとてどかすことはできまい。報せにやって来た男の顔も曇っているし、マゴーネが納得したふうであるのが不思議だった。
「僕は知らない。けれども兄上は御存知だから、君が気を巡らせる必要はない」
 手で軽く追い払われてハンノはもうそれ以上何も言わせてもらえなかった。そして、やはり、マゴーネの言う通りハンニバルはよく知っていたらしい。火と葡萄酒とを使って岩を砕いてしまったと後から伝え聞いてハンノは感嘆することもできなかった。
 アルプスを越え、イタリアに入ってからはますますハンノは血の繋がりがあることが怖くなるような思いをした。ハンニバルという将軍のもとでの戦争しか知らぬ彼にでさえ、カンナエの光景は異常だと思われたのだ。夥しい敵兵の死体を跨いで丁重に葬るべき将官の死体を探しながら、勝利という美酒に酔えないでいた。こんな勝利がどこにあっただろう、誰が知っているだろう。
「この指輪をみんな持って帰ったら、議員たちもびっくりするだろうか」
 ローマ人はみな左手に指輪をしている。それを証印として用いるから、身分ある者のものともなれば利用価値があった。だが死んだことが明らかな執政官からの手紙など送ったところで意味を為さない。執政官がひとり死んだとみんな知っている。
 マゴーネは山と積まれた指輪を前にして、時折それを拾い上げながら、冗談のつもりなのか分からない様子でそう言った。ハンノはどう返したものか分からなかった。深夜、ハンノが提げている角灯の他に彼らを照らすのは星々ばかりだった。
「増援、貰えるかなあ」
「この大勝を知れば、きっと……」
 本国への使者としてマゴーネは明日にもカルタゴへ発つ。勝てば為すべきことは増え続ける、それを綻びなく成し遂げるにはいまの兵数では足りなかった。しかしバルカ家は、本国との折り合いが悪い。悲しくなるほどに悪い。
 ハンノの父の口添えがあれど、民衆派たるバルカ党の主張があれど、貴族たちはどう言うだろう。本国の空気というものを知っているハンノは気休めを言うことにひどい罪悪を感じた。増援こそ与えられたとして、その後は?
「ハンノとはしばらく会えないね」
「しばらく、ですか」
「何だ、今生の別れにしたいなら、別にいいけど」
「そんなつもりで言ったのではありません!」
 はっとして、ハンノは俯く。そのハンノの顔を覗き込んだマゴーネがじっと得体の知れない眼差しを呉れたあとににこりと笑った。
「今回、君はいい働きをした。兄上の意のままに動く、手足となる将兵はいつも必要とされている。ハンノは腕の一本になれているよ」
「そんなふうに、言っていただきたくて、言ったのではありません」
「言いたくて言うのさ。ボミルカル殿によい話ができる……ねえ、ハンノ。僕を憶えていておくれよ」
 どうして忘れられると思うのだ。ハンノは頷いたが、その顔の曇りにマゴーネは同じことを重ねた。憶えていてほしい、まるで幼子との別れに際するような物言いだった。
「僕のかわりに兄上のために死ねと言ってもいいかな」
「構いません。そのつもりでここにおります」
 それに、代わりなどと言わずともマゴーネだってそのつもりに違いなかった。ああ、と思う。そうか。
 同じものだと思ったから、マゴーネは頻りにハンノを気にかけたのだ。決して彼らは何かの主体となることはない存在だった、生まれたそのときから、何に用いられるのかは決まりきった人間だ。そしてそれを、不幸とは呼ばない。ハンノ・ボミルカルは父ではなく父が敬愛した男と、その男の遺したあらゆるもののために慈しまれた。
 マゴーネはいつもそうするように目をまろく細めて、自分と同じくらいの背丈の甥の目を覗き込んだままだった。彼の烈しさは彼のものではなかったのだろうとハンノは教えられた気がしている。確かな腕で剣を振るう、兵を動かす、それは彼自身の才能である以上に、彼が付属するものの持つ価値なのだ。
「憶えています、死に際まで」
 軽々しく死を口にする若さを、ハンノもマゴーネも許されていた。自らを勇敢だと評したことは一度もなくとも、彼らは死を恐れたことはない。彼らの死には価値があった、生に価値があった。


 波がいささか荒れて、岸辺に打ち寄せていた。その音がよく聞こえる場所に、バルカ家の領地はある。レプティス・ミノルにハンノが待ちかねていた一団が到着したと報告を受け、馬を駆って彼がそこに辿り着いたとき、見知った顔はみなその姿を見て笑みを浮かべた。あの若者がいまやカルタゴの将軍の任を与えられている、それがおかしかったのかもしれない。
 あの日、マゴーネがイタリアを離れてから、十年あまりが経っていた。十年の年月をハンノはそう長いと思わなかったが、人間というものには等しく時が流れているのだと、その背を見つけて思い知ったのだ。カルタゴの軍勢はみな、アフリカに帰ってきた。ヒスパニアの戦況の悪化、同盟関係にあったヌミディアの王の大敗、様々なことがありーー彼らは帰ってきたのだった。
「叔父上……」
 ハンニバルはハンノに背を向けたまま動かなかった。一団を乗せた船の着いた場所から少し離れた土地にはバルカ家の邸があり、彼らはそこにいた。ハンノは膝をついたハンニバルの前に置かれた一枚の板と、その上に載せられたものとを、見比べる。
 鼻をついたのが腐敗の気配だと分かったのと、それが誰であるのかを悟ったのは同時だった。叔父の背中は彼と別れてから何も変わっていないように思えたのに、そう思われるのがおかしいと確信もあった。ハンノは、マゴーネの麾下も戻ったと聞かされていた。けれども十分な情報のやりとりができる環境ではなかったから、知りもせずにいたのだ。
「叔父上、……ハンニバル殿」
 振り向かせなくてはならないと。ハンノは彼の肩に手をかけることなどしたくなく、押し潰した声をかけた。ハンニバルの手が弟の頬に触れているのが途方もないむごたらしさをもってそこにあった。血の染みた衣服は変色し固まっている、もう死んで数日が経っている体なのだろう。マゴーネは眠るような顔をしていたが、誰かがそうしてやったのに違いない。
「船に乗ったときには息をしていたそうだ」
 ハンノはそのときはじめて、部屋の隅に跪いたままの男の姿に気がついた。深い皺の刻まれた顔、壮年を過ぎてなお逞しいままの腕を見て、これはマゴーネの部下だと、見覚えがあると思い出す。
「帰り着くまで耐えられなかった」
 その声が震えることもなく、まるで将官に指示を言い渡すときと同じように響くのをハンノは聞いている。ハスドゥルバルも死んだと聞いていた、その首はローマ人の手で剥製にされて、兄のもとへ投げ入れられたのだと。そう語ったマハルバルの声もいやに静かだった、怒りもなく、深く流れの奥に沈んだ悲しみは、誰かひとりのためにあるのではないというように。
 彼が生きていたならば、よかったのにと、ハンノは軍を指揮するものとして考える。マゴーネの率いていた軍はみな、彼らの将を慕っていたようだった。いまハンノのまえでこうべを垂らしている男の示すように、確かな信頼が寄せられる指揮官だったのだ。
「ハンニバル殿」そう呼びかけることに気負いがないのは、何故か。きっとマゴーネにならば分かったはずだ。「ハンニバル殿、どうか、喜んで差し上げてください。マゴーネ殿は……あなたのために、生きようとなさって、死んだのだから」
 褒めて差し上げてください。
 ハンニバルは自らの甥を、真新しいものを見るようにして、見つけ出したというような顔をして振り返った。彼が、理解できぬはずはないのだ。もしかするとハンニバルとてマゴーネやハンノや、彼を信じるあらゆる人間と同じものなのだから。そうでなくとも彼よりも聡明な者をハンノは知らず、ハンノは、叔父を信じていた。
「わたくしの軍を、ハンニバル殿。あなたに授けます」
 これを言うためにハンノは馬を駆ったのだ。なぜこのときになって将軍となったのがハンノであるか、その言葉が物語っている。ハンニバルは頷いた。
「もう、これの嫌った潮騒も届くまい」
 その隻眼で彼が見るものを見たいとハンノは思う。それを望める者は多く死に、生き残った者たちは既にその望みを恐れることがなかった。鷹揚に彼が浮かべた笑みというのは失望した男の倦み疲れたそれというよりも、大望を知る男のそれであったのだ。彼は屈することを知らない、ハンノはひどく嬉しくなって微笑み返した。甥の笑みをハンニバルはまじまじと眺め、ふと、息つくようにして表情をこそぎ落とす。
「私には誇りとすべきものがあまりにも多い」
 なればこそ剣を捨てる訳にはいかない。ーーあなたの代わりに、自分は戦場でこの方のために命を懸けよう。確かにこの方のために生きたあなたの代わりになれるのはもはや、彼を憶えている自分の他にはなかった。「あなたを信じています」とハンノはその背に、その背の向こうに言った。このためにここにいるのだと信じる、これ以上ない幸運を持つ者としてだった。

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