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梨の礫

 スキピオはひどく、倦み疲れていた。それは相当な疲労が当然と言える体験を経て生まれ育った都市に戻ったから、というのもひとつ理由だったが、ここから先、彼が覚悟すべきものへの疲弊だった。
 なるべく知り合いに出会さずに済む道を選んでも、一方的に彼を知っている人々が声をかけてくる。そのなかには様々な心情が籠められていた。帰還した生存兵のひとりである青年を労う言葉、信じがたい規模の敗北の仔細をなお知りたいと求める言葉、死んだとも死んでいないとも報せのない息子の行方を懇願する言葉。祖国への忠誠を高潔にも守り通した青年への、賛美さえ。
 目的の屋敷に辿り着いたときには喉からまともな声が出ない気がした。スキピオはそれでも御用聞きの奴隷に声をかけ、屋敷へと入る。静まり返った屋敷の中で、大慌てで主人を呼ばわる奴隷の声もまた疲れているようだった。
 すぐに姿を見せた少女は、ひどい顔色をしていた。アトリウムに入ってすぐの場所に立ち止まり、眼前の婚約者の姿を何度も何度も、確かめる。気丈で時に高飛車とさえ評された彼女には似つかわしくない怯えがそこにあった。
「アエミリア」
 スキピオは迷うことなく彼女に歩み寄り、手を取る。暖かで、小さな、傷のない手を。
「スキピオ……」
 ぼうぜんとこぼれ落ちた言葉が、涙といっしょにスキピオを打ちのめした。アエミリアは瞳を溶かしてしまいそうな大粒の涙をいくつも頬に伝わせ、スキピオの名をまず呼んだのだ。なんてことだろう。彼女はもう脱しきってしまっていた、父の死を受け入れるか受け入れないか、それを逡巡する、最も苦しい時を。
「ごめん」
「…………」
「ごめんね、アエミリア、僕は」
「私、嬉しいのよ。スキピオ」
 力尽きたように膝を崩したアエミリアを支えた腕が、まるで彼女に支えられているようだった。痛みに叫びを上げたいであろう彼女が微笑み、おかえりなさい、と彼に言った。
 カンナエから戻ってきた者にあてる言葉としては、あまりに素朴に過ぎた。けれどだからこそ、声を上げて泣き始めたアエミリアを心配してそっと窺う彼女の乳母に、スキピオは大丈夫だと笑んで見せることさえできた。
 ーー将来の岳父がスキピオと最後に言葉を交わしたとき、彼はただ、我が子のことを案じていた。思えばそれは彼が死ぬことを知っていたか、そのつもりでいたからこその憂慮だっただろう。
 遺品は将軍の遺児のもとに届けられていなかった。スキピオは客間に通され、アエミリアとその弟がそれに不満を言わないで近況を語るのを、じっと聞いていた。彼らは殊更に辛いことは何も言わなかった。
「パウルスさまのご遺体は、……ハンニバルが荼毘に付させたと聞いた」
 その遺灰が届くこともないだろう。届いたとして、それは果たしてこの幼い姉弟の手から奪われず済むかどうか。
「レントゥルスがあの方の最期に言葉を受け取ったという話だけれど、会ったかな」
「いいえ……」
 ぼんやりとした風でかぶりを振った少年を、スキピオは見つめかけて、やめる。内気な印象のある子供ではあったが、陰鬱な色に覆われた瞳はまるきり、何もかもに背を向けかけていた彼の父親に似ていた。
「父はきっとファビウス様への言葉を遺されたでしょう」
 パウルスはそう言って、泣き腫らした目をした姉をちらと、振り返る。仲の良い姉弟と言うよりも、思いやりの深い姉弟だった。スキピオがアエミリアと婚約した日からパウルスは彼の義弟であり、そのつもりで接してきたけれど、結局は血縁に結ばれた兄弟のようにはなれない。自分の弟と、この義弟は、名は同じでも応え方がまるきり違う。
 彼が膝の上にのせた手は真っ白くなっていた。そこに籠められた力の強さが、悲しみを示すのか憤りを示すのか、そこまで読み取ってやる余力がスキピオのほうにもない。
「あの方が出立の前に私の成人を済ませたのはそういうことだろうと思います。スキピオ、ひとつだけお願いしたいのです。よろしいですか」
「僕が助けられることならば」
「姉との婚姻を早めていただけないでしょうか」
 アエミリアひとりが驚いたように弟と、スキピオとを交互に見る。十四歳の彼女には結婚は早過ぎる話ではなかったが、アエミリアからすれば、弟が幼すぎた。
「僕では姉上を守ってさし上げることはできない。後見人が必要になる。それはスキピオ、あなたであってほしいけれど、それを望むくらいならば、あなたの家で姉を守っていただきたいのです」
「ルキウス……!」
「父は、あなたにそれをお願いしませんでしたか」
 した、と言ってよかった。あの子たちはまだ幼いのだと言った岳父の横顔には苦悩が見え、スキピオにその場での誓いを求めた微笑みには愛情があった。もしものことがあろうとなかろうと、スキピオはアエミリアを必ず妻とすると口にしたのだ。婚約は捨てないと。
 すぐに、という訳にはいかない。スキピオの父はローマにおらず、その許しなしに彼が結婚を決めることは不可能だった。書簡によってでも許可を得て、おそらくは一族の容認があればいい。元老院も世間も波風は立てまいと思えた。
 おずおずと肩に触れた姉の手を、パウルスは素っ気なくもゆるやかに取って、宥めるように言った。あなたが大切だと。母を亡くして久しく、父をも喪った彼らにはそれが全てなのだ。
「父はあなたにスキピオを遺してくださったんです、姉上。だいじょうぶ、だって、姉上はスキピオのことが好きじゃありませんか」
 本来的に、アエミリアにこの場で拒む言葉を口に上らせる資格はなかった。それでも躊躇いを露わに彼女が抑えたはずの涙を落とすのは、何故だろう。
 スキピオは不意に、この少年は一度も泣いていないのではないかと感じた。彼はただ姉の流す涙を受け入れてきただけで、その幼さを多く残す頬にも手にも、涙の跡は一度もなかったのではないか。
 彼らはその父たちがやったように、口頭での誓約を立てた。幾重にも誓いを重ねることにスキピオはなんら重荷を感じなかった。かえってそれは、幼い頃から変わらず心の浮遊しやすいスキピオという青年の存在を、地にしっかりと結び合わせるものだった。


 数日後、パウルスがひとりでスキピオの屋敷を訪れたとき、彼はなぜかトガを脇に抱えていた。それだけならばまだ見過ごせたが、彼は目元から血を流し、短衣には汚れ、膝には擦り傷が見えたので、スキピオよりも先に母のポンポニアが大慌てでこの少年を招き入れた。
 ポンポニアが言うのには大人しく従って着替えも手足を拭くのも行っていたパウルスは、スキピオが訳を訊くと途端に口を閉ざした。血の量こそ派手に見えたが浅い傷だったらしい目元を冷やしながら、閉じていない側の目はなぜか後ろめたそうに逡巡を示している。
「とつぜん来てしまって申し訳ありません」
「それは、いいんだよ。君なら誰も嫌だと思わないさ。僕はその怪我をどうしたのかと訊いてる」
「姉に見られたくなくて伺ったんです」
「パウルス、あのね」
「……彼らは悪いことをしたわけじゃありません」
 彼をスキピオの部屋に引き入れたのは、家内の者の目を避けたがっている様子だったからだ。しかし、避けたがっているのは親しい間柄の家のなかで注がれる気遣わしげなものだけだろうか?
 椅子にかけた彼から少し距離をとって寝台に腰掛けて、スキピオは先日にはしなかったようなまじまじとした視線を彼に呉れた。彼が恐れるのは、まさか義兄のこの眼差しではあるまい。
「誰だったか言える?」
「……言えません、言いたくない。僕が顔も名前も知らないような者はいなかったから」
「僕は怒りかけているんだよ」
「あなたが怒ると雹が降りそうだ」
 そこで初めて、パウルスは薄く笑みを浮かべた。力ないものだったが、スキピオからすれば数えるほどしか目にしたことのない彼の笑みだ。スキピオは、自分がいくら笑顔を贈っても笑い返してこない人物を、本当に少ししか知らなかった。幼い頃から彼は誰しもを楽しませる天才だった。この義弟は、スキピオが心を尽くせば尽くすほどに遠ざかる、ある意味で稀有な例なのだ。
 彼が自分を嫌っているわけではないことは、何もかもから分かる。パウルスは間違いなく義兄に親しみを覚えていたが、それを表現することを拒んでいた。
「僕を殴るとか蹴るとかして、それで彼らのやるせなさがどうにもならないことが、可哀想です」
 これは初めてのことではない、と彼は続けた。パウルスの、敗将の遺児の目にはまたあの、抗い難く彼を覆っているであろう哀愁が満ち始めていた。
「しかし最近になってのことです。敗北の報せが届いてすぐの頃は、僕らはまるで疫病の根源のようだった。誰も何も言わなかった。ファビウス様は僕を呼び寄せてくださいました、あの方が父をどのようにお考えなのか聞きました。ファビウス様が謝罪なさったのはただ、他にもっと、優れたひとを見出だせなかったという、そのことについてだった」
「君はそれを許すんだね」
「父はそれを許しましたから」
「ほんとうに君のことを案じていらっしゃったよ」
「……そう、ですか」
 そろりと外した布に固まりかけた血が剥がされたのか、眉を顰めて、パウルスは両手を膝に下ろした。
 スキピオには少し早すぎる成人を迎えたというだけのただの子供に憎しみを向ける謂れが理解できなかった。いや、言葉として理解を示すことは可能だ。しかし彼には憎しみの向かう先を間違える愚かさが初めから備わっていない。
 血の滲んだ布を手から抜き取り、ぬるくなったそれを持って部屋を出た。母が様子はどうかと尋ねてきて、弟が兄の手から手拭いを取り上げる。
「ずっと気丈に振舞っていたのよ」と母は涙を滲ませて言った。彼女は自分の夫と、スキピオらのことを思っているのに違いなかった。ヒスパニアで父と伯父が善戦しているという報せは家族を喜ばせ、不安にさせる。
 弟は冷たい水で絞り直した手拭いを兄に渡した。線の細い彼も何か言葉を添えようとしたが、取りやめて、「あまりきつい言い方をしないで」と乞うように言った。彼に言われてでなければ、スキピオは自分が時折見せてしまうらしい思いやりに欠けた振る舞いに気がつかない。
 絞り直しただけでなくて真新しい布を出してきたのだとそれを広げてみて分かった。程々の力加減で絞られた布の端から水が一滴、落ちて、スキピオの短衣に染みを作る。
 もう一滴は擦り傷を作った手の甲に落ちた。
「腫れるかもしれないから、よく冷やしなさい」
 いささか乱暴に目に押し付けた布を押さえた手は震えを来してはいなかった。スキピオはまた部屋を出ていこうかと思う。彼は無神経なわけではないのだ。むしろ、人の機微によく気が付くうえ、どうすればいいか分かるから放っておけないだけで。
 声をかけないまま背を向けかけて、スキピオ、と呼ばれる。兄とは呼んでくれないつもりかと返してみれば、パウルスは傷ついたように口の端を震わせた。
 背を丸め、自分の膝に額を押し付ける格好で、彼はいくども息を吐いた。重く湿った息はそのまま彼の声だ。スキピオにはパウルスが何を言いたいのか、言えないのか、もはや分からないふりさえできなかった。彼はーー信じていないのだろう。
「君のお父上は」スキピオはまた背を向け、戸口に肩を凭れて、やるせなさに満ちた自分の声に苦笑した。「君のお父上はね、確かに、君のことを忘れていることがあった。でもそれはいつもそうだってことじゃなかっただろう?」
 岳父は有り体に言えば暗い人だったのだ。スキピオは父が自分の婚約者を決めてきた日、相手の家の名を知って気後れのような、物怖じのようなものを感じたが、単にすぐに連想された当主への印象がそうだったということだ。
 自分は気に入られていた。はっきり知っている。スキピオは誰よりもその感触を誤らず受け取ることができる。なぜなら岳父でさえ、自分という少年を前にすると気鬱にかまけていられなかった。人が沈み込む自分を望んでいる日にさえ、スキピオはその人を笑わせてしまう。
「僕は、あるいは代わりだった。君の代わりさ」
「…………」
「それくらいね、僕も分かっていて、人と関わっているんだよ」
「それなら、どうして」
「うん?」
 スキピオの声が未だ疲弊とそれに相対する昂揚の淵にあるなら、パウルスのそれはいまやっと現実に追いついたところだった。
「どうして僕を叱って下さらなかったの」
 小さな衝撃を背中に、衣服を掴む手を脇腹のあたりに認めて、スキピオは何も答えなかった。僕に対する言葉じゃない。それは彼が何よりも先に父親に言うべきことで、何にもまして言うことのできなかったことだ。
 息苦しく、喘ぐように泣くのは、子供には似合わなかった。スキピオが組んでいた腕を解いて少年の手に手を重ねても拒絶はない。彼に、そんな力はもう残っていなかった。涙は恨めしさを包んで落ちていった。もう一度会いたいと泣くのは、先に去られてしまった子供の恨みの声に他ならなかった。

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