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手折れずの一輪

 ぽんやりしている。
 そんな表現を生まれてこのかた使ったことはなかったがそうとしか言いようがなかった。広間の隅で長椅子に座るハスドゥルバルはどこを見ているのか、淡く色づいた頬をして物思いに耽る風でも、何も考えていない風でもあった。
 この若者の存在に慣れた家人さえ遠巻きにする中、先触れの通り昼過ぎにハミルカルの館を訪ねてきたヒミルコや友人たちもぎょっとしたり訝しんだりして、直接は声を掛けなかった。総じて気まずそうな周囲の視線など羽虫ほどにも気にならないのか、ハスドゥルバルはやや遅くに起き出してきてからずっとその調子だ。
「可愛がるのはいいですけど、あからさますぎますよ」
 書斎に入ってすぐに寄越されたヒミルコのその苦言は、まったく、的外れである。
 執務机に落ち着き、彼が連れ立ってきた者たちがこの場にいないのでハミルカルは不服をそのまま顔に出した。
「何もしていない」
「何もされてない子があんな顔しないでしょ」
 連れてきた若いのなんか変な気を起こしそうになっている、そんなことを言うのでそいつがどこに行ったか尋ねるとヒミルコは真顔になった。
「他の連中と庭の方にいますよ、ハミルカル殿とお話ししてみたいそうです」
 どこの家の者か教えられれば無碍にするわけにいかなかったが、顔もまともに見ていないのに目障りな気がしてきている。好かれるように優しくしてあげてくださいと念を押されて頷きはした。
 ヒミルコの持参した書簡や報告書を受け取って目を通すハミルカルは、ここ最近の懸念事項がひとつ解決していくらか肩の荷を下ろしていた。別の荷を負ったとも言えるが望んだものならばそう重くない。元老院に議席を得たのだ。ハスドゥルバルの助言をいくらか参考にし、若造が青二才がと説教くさい連中には思いがけず早く家督を継いでしまった未熟な人間の顔を作った。議員たちがその権力の基盤とする層への働きかけ、ボミルカルの助力、様々なものが積み重なった結果である。
 父の存命のうちに軍務を経験しておいたことも、この先には良い影響を持ち始めるだろう。イタリアの状況を伝える商人からの書簡には、ローマ人が捕えて連れ帰った戦象たちをどのように殺したかが克明に記されている。もうローマ人たちは象を恐れないだろう、そんな風に締め括られていた。戦況は思わしい方へ進んでいるのかその逆か、僅かに目を離した隙に真逆の様相を呈している。
 全てに目を通したところで、思考を邪魔する疑わしげな視線を睨み返した。顎に生え揃った髭を撫でながら、遠縁の男は怯むことなくしつこく先立っての話を蒸し返した。
「だって昨夜泊めたんでしょう? お嬢様方のいぬ間に。いつも家に帰すのに」
「あの顔で帰してみろ、ここが焼き討ちに遭う」
 笑ってから冗談を言われたのではないと気付いてヒミルコは広間のある方に視線を向けた。名門の末子がその家族に可愛がられているのは周知の事実である。ハミルカルが彼らに嫌われているのは当然と誰もが思う。昨夜から何度か迎えが寄越されたが帰りたがったなら帰すと追い返していた。
 当人がまったく帰ろうとせず、迎えの者に会いもしないのだから、いくら文句を言われても知ったことではなかった。あの一族と縁ができれば大いに力になるだろうが、徒労となるのが分かりきった努力である。
 ハスドゥルバルが夢心地の目をして時折微笑ったりかと思えば物憂げに俯いたりしているのは、確かにハミルカルに理由があるが、想像されるようなことは、ない。
「口と口をくっつけるのが何かになるか」
「はあ、つまり接吻を。それだけ?」
「だから何もしていないと言っているだろう」
 その大きく開く目をますます見張って、可愛いですねと言った声は完全に他人事と思って呑気だった。他人事で結構だが腹立たしい。
 抱きしめられたのが嬉しいと顔を赤らめていた時から、うっすらとそんな気がしていたが、一方でどこかで誰かを誑し込んでいるのが常なので疑いも残っていた。自分に関心のある連中を片っ端から手玉に取るような人間が、戯れのような口付けで腰を抜かすと誰が想像するのか。
 妻子が妻の実家の領地に出掛け、他に客人もない、あれでいて遠慮というものが存在するらしいハスドゥルバルにはその状況が嬉しかったようだった。
 ハミルカルについて回って、くっついて来てはにこにこと笑っていた。夜も更ける頃、ハミルカルの居室までついてきて楽しくてちっとも眠くならないと子供のようなことを言い、客室に下がろうとしないので、その気を起こしたのだ。起きた気はいま行き場なく彷徨っている。
 引き寄せて口付けると、しばらくぽかんとしていた。あっという間に顔を真っ赤にして目を潤ませ、わやわやと聞き取りづらい声で何か言った末に、ようやく聞き取れたのは「立てない」と。
 客室に放り込んで一人で寝た。
「今日はさっさと退散したほうがよさそうですね」
 ヒミルコがそんなことを言うのに、ハミルカルは頷いた。来訪を承諾するのではなかったとさえ思っていた。
 その後、件の若者は非常に熱心にシキリアの状況を尋ねハミルカルの話を興味深そうに聞き、父親にも聞かせてやるのだとか言っていたのだが、話の輪にハスドゥルバルが加わった途端に挙動不審になったのでハミルカルはその名前を忘れた。
 晩餐を共にするあいだ、ハスドゥルバルは半ば現実に帰って来ていたものの、その場の人間の顔を無作為に選んでじっと見つめ、ハミルカルだけは見なかった。若者が話しかけるのに笑い返しながら、おそらく何も耳に入っていない、その曖昧な表情が善良な貴族青年の何かを確実に蝕んでいたが、大人たちは助けてやれなかった。
 まったく、手に負えない。
「……寝たのか?」
 他の客人らが長居せず帰途に着き、それを見送ったハミルカルが広間に戻ると、ハスドゥルバルは寝椅子に臥していた。
 目に余るほど杯を重ねている様子はなかったがと思い返しつつ肩に触れると、大袈裟にそこが跳ねる。
 伏せていた顔を上げてそろそろとこちらを窺った灰色の瞳が、重たげな睫毛の下で揺らいでいた。数秒も目を合わせていられないとでも言うように視線が逸らされ、そのくせ肩に触れたままのハミルカルの手を握る。
 歪みのない細い指が、それなりに達者に剣や手綱を握るのを知っていた。親の目を盗んでバルカの郎党が訓練する場に紛れ込んで、周囲が怪我をさせては事だと肝を冷やすのも構わず動き回っているのも。
「ハスドゥルバル」
 声を出さない代わりに指が返事をした。手を握り返し、手首から肘へと撫でていくと、その腕はまだ頼りなく華奢と言っていい感触をしている。しっかりとした筋肉のつきそうにない体だったが誰もが優しさからそうは言わなかった。
 袖の中に止まるハミルカルの手にハスドゥルバルは息を殺してじっとしていた。
「今日もひとりで寝るか?」
 喉が小さく上下して、前髪が揺れたのでそうと分かるような仕草で首を横に振った。
 あっと声を上げたハスドゥルバルは、自分の体を抱え上げた相手への身の委ね方をよく知っていた。ハミルカルの首に腕を回し、体から力を抜いて寄り添い体重を預ける。そうしていると彼の心臓が忙しなく動き続けているのがよく分かった。
 ハミルカルの部屋でなくハスドゥルバルに用意した客室に入って、天蓋に囲まれた寝台へ下ろす。ハスドゥルバルがそそくさと小部屋のような寝台の奥へ引っ込んでいくのを、ハミルカルはとりあえず腰を下ろして見守った。
 月もない暗い夜で、人々が寝静まるには早い頃合いだが不思議と市中の喧騒は遠かった。奴隷たちの働く気配も微か、寝台の奥から見つめてくる双眸の印象ばかりがいくつかのランプの灯された部屋で鮮やかに見える。
「入っても?」
 わざわざそう問うたのが揶揄を混ぜた声だとすぐ気がついて、ハスドゥルバルは柳眉を少し寄せた。どうぞ、と答える声は細い。
 寝台の半ばに落ち着いたハミルカルが腕を広げて見せると、にじり寄ってきてそこに収まる。どれほどの値の香を使っているのか、それともその肌に溶けて初めてこうなるものか、触れ合う距離にいると軽やかで甘い匂いがした。
「う……」
 顎を持ち上げて、呻き声を漏らした唇を親指でなぞる。眩しがるような顔をして、とうとう目蓋を下ろしてしまった。引き結ばれた唇を食み、舌でつついてそこを開くよう促すと、しばらく強情を張っていたものの、薄く目を開くのと同時に顎から力を抜いた。
 開いた唇に舌を忍び込ませるとぎくっと背が震える。身を隠すように縮こまっていた舌を探り当て絡め取り、応える方法をひとつも知らないでそれがされるがままなのにいくらか溜飲が下がった。
 自分の上着の胸元を握りしめていたハスドゥルバルの手が、ぱたぱたとハミルカルの背中を叩き、襟を後ろへ引いた。
「っは……!」
 解放されるなり大きく息を吸い込み、涙目になっている。上下する肩を前にしてハミルカルは笑いを堪えなくてはならなかった。
「……息をしていなかったのか?」
「い、息……?」
 それはなに、とでも言い出しそうな呆けた顔でハミルカルを見返し、ハスドゥルバルはようやく息を整えた。座り込んだ格好ではあるが、崩折れる様子はない。
「腰は抜けていないらしいな」
「……いじわる」
 ハスドゥルバルは拗ねた顔をしてみせて、そわそわと濡れた唇に指先で触れた。
「私だって口をちょっとくっつけるくらいなら、しますけど……誰もこんなことまでしなかったもの。それに、こんな……痺れる感じもしなかったし……」
 嫌な想像をさせる物言いに怒ればいいのかその逆なのか、ハミルカルが決めかねている間にハスドゥルバルはまた夢を見るような目つきに移ろいかけていた。
 そのまま眠りに落ちかねない気配を感じて、仕立てのいい上着をその肩から落とした。首飾りも取り払い、まとめて脇によける。後ろから抱え込んだ体の少し高い体温が、まさか眠たいからではないかと思わされる。
 首を傾けて見上げてくる目には危機感も、期待もなかった。あるいは腰を抜かさなかったことに満足して本当にこのまま寝るつもりだったかもしれない。無防備な顔が寝かしつけられるのを待つ子供のように見え、その発想を頭の外へ追い出した。
 こうして腕を回してみると、まだ背の伸びる余地を残した体にありがちな薄さだった。布越しに体の線を確かめるように腰から膝にかけてをなぞる。くるぶしまでを覆う長衣の裾を引き寄せて膝が見えたところで、胸の上に置いたもう片方の手に落ち着いていた心臓がまたとくとくと騒ぎ始めるのが伝わってきた。
「あ……、え?」
 じわじわと頬が赤らみ、ハスドゥルバルが何かを誤魔化すような笑みを浮かべた。少し汗ばんだ膝裏に手を入れて、日に焼けない太腿に指の沈む感触を確かめる。
「このつもりだったが。嫌か?」
「い……嫌じゃありません、けど、あの、ハミルカルさま」
「ああ」
「あのっ……」
 らしくもなく言い淀んで自分の顔を手で覆うと、それきり静かになってしまった。赤くなった耳が見え、そこへ唇を寄せる。
「このままなにもせずに共寝をしてほしいならそう言え」
 息を吹き込むように低く囁き、金細工の耳飾りの下がる耳朶に歯を立てた。「ひっ」と息を呑んだハスドゥルバルが手足を暴れさせかけ、がっちりと捕まえられている自分にようやく気が付いた。
 吐息がかかるだけでいちいち震え背を丸めて、しかし嫌だとも、もう寝るとも言わずに、恐る恐るの手つきでハミルカルの腕に触れた。耳殻を舐る舌から顔を背けて逃げようとするので顎を抑える。
 その形を確かめるように舌を這わせて、ただ大袈裟に音をさせただけで、息も絶え絶えの有り様だった。くったりと力の抜けた首を支えてこちらを向かせる。涙の膜が張った瞳がわずかに差し込む灯りを弾いていた。常よりも赤く熟れて目線を引き寄せる唇を吸うと、やはり息を止めていた。
 立てられた膝から落ち、折り重なる裾に隠れた場所に手を伸ばす。隙間ができるごとに息継ぎを繰り返していたハスドゥルバルが息を呑んで、伏せていた目を大きく開いた。
 どうかと思ったが、手探りに触れた性器は緩く持ち上がってきちんと反応を示していた。片腕の中でハスドゥルバルが身を捩る。
「や、やだ、だめ……!」
 逃げようとすると捕まえている当人に背を押し付ける格好になって、ほとんど泣き顔を作っていやいやをしても手は止めなかった。腕を押さえようとする両手を掴む。動かないように力を入れるまでもなく、ただ手首をまとめられただけで観念してしまうのが、何かよくないものを煽った。
 先走りを塗りつけるように扱くと胸を大きく上下させ、浅い息を繰り返し始める。それさえ飲み込み目も口も閉じたハスドゥルバルの爪先が敷物を蹴って波を作った。
「うぁ、……っく…んん……っ」
「痛いか?」
 触れ方はともかく力加減が正しいのかは分からなかった、他人のものなど触れたことがない。ハスドゥルバルは何か言おうと口を開き、何も言えずに閉じ、もどかしそうに喉を鳴らした。
 少し力を強めると高く声が上がる。いくらもしないうちにきゅっと爪先を丸めて、竦んだ全身がびくつくのと同時に手のひらに熱いものが吐き出された。
「あっ、あ……」
 ハスドゥルバルの額を汗が伝い落ちていった。しばらく指先まで包む火照りに惚けていたのに、裾から抜け出したハミルカルの手が視界に入るなり跳ね起きる。
「っ……手、手が」
 なにをそこまでと思うほど慌てた様子で自分の上着を掴んで、ハスドゥルバルはハミルカルの手を拭った。絶対にそのように使うべきでない品だったがまるで気に留めない。
 いつまでもそうしていそうなので上着を取り上げて引き寄せると、ハスドゥルバルの視線が下方へ落ちた。ああも密着していれば気が付いて当然だろうが、じっと見ていることもできずに物言いたげに上目遣いにハミルカルと目を合わせる。
「する、んですよね?」
「何を」
「なにって」
 つまり、その、と赤い顔をして躊躇い続けた挙句に、親が見れば卒倒するだろう手振りを示した。ハスドゥルバルの周囲にそれを教えそうな人間は、それなりにいるのだろうが。
 具体的にどこに何をどうするのか知っている様子にハミルカルが嘆息すると、違うのかと不安げになる。
「いや、違わない。違わないが、そこまでする気はない」
「え、……指くらいなら入りましたよ」
 そう言って示した人差し指など何も保証しないというのに自信を漂わせている。
 無理だ。最初からそのつもりではなかったから落胆もなく、ハミルカルには好ましい相手の血を見ようとする趣味はない。しないと繰り返し、自分から勝手にひとり遊びを暴露したことにも触れないでやった。
 こちらの気も知らずに、ハスドゥルバルは不服を露わににじり寄ってくる。
「やだ、する。します。……最後までできます」
「駄々を捏ねるな。そんなに急ぐ必要はないだろう」
「だって──次なんかないかもしれないのに」
 虚を突かれたというのか呆気に取られたというのか、馬鹿にされたような気もする。
 ハスドゥルバルが成人した数年前からハミルカルの身辺をうろつき始めて、顔を見れば必ず声をかけ近付いてくるようになり、それを見る者たちからあらぬ疑いがかけられるのは早かった。それを迷惑とも思い、しかし笑いかけられているだけで羨望を集める存在に慕われているのには、悪い気はしないものだ。
 本当にそれだけで、向けられる好意さえどうでもいいなら、あのアドヘルバルのような輩のところに放り込んでいる。ハスドゥルバルが軽々に自ら示すように、大抵の人間から平静を奪い取る容姿にはそういう使い方があった。
 軽く押しただけでハスドゥルバルは仰向けに転がった。
「ハミルカルさま?」
 そんな話をしたこともないうちから、ハスドゥルバルはハミルカルの得ようとするものが何か知っていた。忌々しい戦いをここから眺めているのには耐えられないこと、生まれついた家系の者たちと同じように役目を負おうと決めていることを。
 掴むべき勝機をみすみす逃すような将軍たちに代わって指揮権を得る、そのために動くことなど当然だというように、頼みもしないのに忙しなく働いている。
 指を通した髪は問答の間に冷えた汗を含んでいた。眠りかけていた時と違って、覆い被さった相手を見上げる目にはほんのわずかな不安と、それを押し流す期待が浮かぶ。
「そんな痛い思いをする方法ではなく、他のやり方は知らないのか」
「……くち?」
「違う。どこで覚えてくる……」
 このまま寝かしつけてやろうかと思ったハミルカルに向けてハスドゥルバルが手を伸ばした。自分がされたのと同じように髪を撫でて、頭を上げる。口の端に唇を押し付け、あたりが外れたのかと思うとその唇が熱を分け合うように相手のそれをゆっくりなぞっていく。
 薄く開いて誘われるままに舌を差し入れれば拙くも吸い付いた。伝い落ち溢れかける唾液を大きく喉を動かして飲み込んで、こちらを見つめる目が笑った。分かってきたと楽しむ色を浮かべて。
 剥き出しになったままの両膝をまとめて、体を折り畳むように持ち上げた。驚いて色気のない声を上げるハスドゥルバルが目を白黒させている間に、挑発のおかげで萎え切れずに済んだものをあてがう。
「え、あっ……え? わっ」
 揃えた太腿で何を挟み込んだか察したハスドゥルバルが自分の脚を凝視した。
 酒席にありがちな猥雑な会話の中で、それなりにいいともまったくよくないともてんでばらばらの意見が交わされていたが。傷ひとつなく張りのある若い肌だからなのか、目に入る光景の妙か。
 太腿の外側を撫でて、力を入れられるかと囁くと、ハスドゥルバルは繰り返し頷いた。自分で抱えた膝をぐっと寄せる。その真剣味を帯びた顔のそばに手をつき、ハスドゥルバルの腕が解けてしまわない程度に腰を遣う。
 責め立てられるわけではないハスドゥルバルには肌を擦るものの形を想像する余裕があった。
「こんな、こんなのはいるわけない」
「だからそう言っただろう」
「そういうことじゃ、んっ」
 先走りや汗でぬるついた肌を滑り位置がずれて、互いのものが擦れる。途端に言葉の続かなくなった様子に確かにこうするのがいいかと一層深く屈み込んだ。
 衣擦れと、粘ついたような間抜けにも思える音が寝台の中に響いていた。その合間に、ハスドゥルバルの息が上がり始める。それでも腕を緩めずに脚を寄せ、どちらにも集中しきれないのに眉を悩ましげに寄せた。
 人肌に触れるのがそれなりに久しいからなのか、ハミルカルはこみあげてくるものに慎重に息を吐いた。汗が顎を伝う感触をいやに克明に感じる。
「じょうず……?」
 こちらを窺い、案じるように問うものだからすぐ肯定を返しかけ、思い直した。
「下手だ。誰かにしてやろうと思うなよ」
 可愛げのある誤解もせずにハスドゥルバルが可笑しそうに吐息ばかりの笑いを漏らす。うん、と頷いたのを忘れさせないためにはどうすればいいのか。
 不意にハスドゥルバルが膝裏に通していた腕を太腿に回した。腕の力でぎゅうと締め付けられる。
「おい……ッ」
 煙を籠めたような灰色の、いつも甘やかさを感じさせる瞳がじっと見ていた。ただ弄ばれて波間に浮き沈みするのでない、強く求める眼差しがハミルカルに注がれる。
 奥歯を噛み締めて、衝動に抗うのをやめたとき、その眼差しから顔を背けていた。
 体を起こす頃には常通り虚脱感に襲われたが、それにかまけてはいられなかった。
 ハスドゥルバルは腹の上に撒かれた体液をまるで初めて見るもののように眺め、指で掬った。すぐさまその手首を掴んで敷物で指を拭わせる。間違いなく顔に近づけようとしていた。
 ついでに腹と太腿からも拭き取る。既に手遅れの状態の上着を使ったので新しいものを贈る必要があるだろう。されるにまかせていたハスドゥルバルの、中途半端に高められた体に向けた視線は下ろされた裾に遮られた。
「……もうねむたいです」
 重たい瞬きをするあたり本当に睡魔に襲われていた。ハミルカルの襟元を引っ張るのに、細かいことは放ってそのそばに身を横たえる。知らぬ間に端へ追いやられていた掛け布を手繰り寄せ、擦り寄ってくるハスドゥルバルを包んだ。
 目を閉じてしまえばいいものを、半ば眠りに落ちている目を細く開いてはこちらを見る。視線が合ってそれが笑うのを見て、朝早くにまたやってくるだろう迎えは追い返し、誰の来訪も受けずにいようかと血迷ったことを考えた。そんなことをして時間を無駄にしている場合かと真っ先に言い出すのは、聞こえ始めた寝息の主なのだ。
 それでも、朝がやってきて目覚めたハスドゥルバルはどんな様子を見せるか。それは昨夜と違って楽しい想像だった。

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