実るとき
頭を撫でる手が、眠りの浅瀬を揺蕩っていた意識を緩やかに引き上げた。
癖のある髪の流れに沿って動いていた手は、それを指に巻き付けて弄び始める。寝台の上、横たわるハスドゥルバルの傍らに身を起こしている人の横顔は、盗み見る視線に気が付かぬままずっと遠くを見ていた。
部屋を満たす薄藍に夜が明けたことを知ったが、日の出とともに動き始める人々の気配も、忙しなさのいや増す市中の空気も、この部屋には届かない。騒がしい商店や工房の集まる地域から外れた場所にある訓練場は、宿所として使えるいくつかの部屋を備えている。その一室は近頃頻繁に開かれて、寝台に敷かれる布などが質の良いものに入れ替えられていた。ハスドゥルバルには粗末としか言いようのない部屋だが、いまではその狭さも気に入っていた。
だからいつまでもこうしていられたけれど、彼はそうではないのだろう。その膝に頭を乗せて見上げれば、穏やかながらも悩みの深い眼差しが降ってきた。
「難しいことをお考えですね」
言葉尻の溶けたような、ふわふわとした声音に、ハミルカルは手慰みにしていた髪を梳くように撫でた。その手は優しい。けれどそれは、穏やかならぬ心中と切り離された優しさだった。
彼の悩みはいつも、海の向こうにある。
ドゥレパナ沖での海戦の勝利に立て続いて、ローマの艦隊が嵐に遭い難破したとの報せが届き、市中の人々が喜びに沸いた日のことは記憶に新しい。ローマもまた長く続く戦争によって困窮していることはカルタゴ人も承知であり、もはや海戦が起こることはあるまいとまで人々は楽観した。
だが自らの艦隊を失ったローマの執政官は膝を折ることなく、その痛手を取り戻そうとシキリア島内での戦いを続け、とうとうエリュクス山を占領してしまった。ほんの数日前のことだ。
愚かなことを、とハミルカルが嘆いたのは、ローマが艦隊を失ったその好機をこそ最大に利用し、シキリアの要害たるパノルモスを奪還すべきと元老院で訴えたにも関わらず、それが容れられなかったが故だった。元老院の命令もなく将軍は積極策に出ることはなかった。占領されたエリュクス山はシキリアにおいても随一の高峰、シキリアにカルタゴが持つ拠点であるリリュバエウムとドゥレパナを陸路から攻略するに絶好の立地にある。
手を伸ばして触れた顎にはわずかにちくちくとした感触があって、それを楽しんでいるとハミルカルの手がハスドゥルバルに同じことをする。彼の手のひらに収まるつくりの小さな顎は滑らかな感触を返すだけだ。
「よく眠れなかったですか?」
いつから起きているのだろうと、僅かな落胆があった。
「いいや、よく眠れた」
「……ハミルカルさま、本当のことを仰っても怒りませんよ」
「そんな風に疑うな、お前に寝かしつけられたくて攫ってきたというのに」
昨夕、招かれた宴に迎う途中、偶然にハミルカルの一行と出会った。挨拶をしたら降りてこいと言われて、何にも考えずにその手を取ってついて来てしまったのだ。
「私の代わりに輿に乗ったご友人が無事だといいけれど」
余興にされたでしょうねとハスドゥルバルは忍び笑いを漏らした。
コツコツと小さく、けれどしっかりと戸が叩かれて、その密やかな空気は途切れた。ハスドゥルバルはおとなしく膝から頭を下ろし、ハミルカルが身支度を始めるのを見つめる。
彼は身の回りのことを自分でできるように育てられて、そうすることをむしろ楽に思う気性だった。磨き上げられた像を思わせるしなやかな背は、その陰影を視線で辿る間もなく長衣に覆われる。
サンダルを履いたハミルカルが視線を室内に巡らせる前に、寝台を出て椅子に引っ掛けられていた上着を手に取った。そっと後ろから近づいて袖を通すのを助ける。ゆったりとした上着はそれを広げる腕には重たいのに、持ち主の肩には何ら重さを感じさせていないようだった。
彼が肩越しにこちらを振り返るより先に、その背中に身を寄せ、吐息をこぼした。
「……帰りたくありません」
体に腕を回してそう言うと笑う気配があり、離すまいと握り合わせた手があやすような加減で叩かれる。背に額を擦り付けむずがってみてからその手を解いた。
こちらを向いた目が昨晩の余韻を暗がりに浮かび上がる肢体のあちこちに見つけて、寒々しい肩を両手が包んだ。ハスドゥルバルはただ重ねただけの唇がすぐに離れていくのを、まるでそれで機嫌が取れたとでも言うようにハミルカルが部屋を出ていくのを、何も言わずに見送った。
寝台の隅に丸められあちこち皺になった長衣を着て、けれど履き物に足を入れる気にならずに寝台に身を投げ出す。ハミルカルは空の色の淡いうちに自邸に戻り身なりを整えて、また身を粉にして働くのだろう。
先程のハミルカルの従者がしたよりもずっと遠慮がちに扉が叩かれるのを知らぬふりしながら、ハスドゥルバルは誰も見ていないのをいいことに大きく口を開けて欠伸をした。
ハスドゥルバルも、彼の腕に抱かれていたおかげでよく眠れた。身動きも取れないくらい疲れ果てていたらよかったのに。
この体にはもうあの手が触れていない場所など、ほとんど残っていない。ほとんど。わずかに残った場所は、いくら準備ができたと言っても信じてもらえなかった。
少し前、ハミルカルの屋敷でふたりきりになったと思ったら寝台の下から彼の末娘が這い出してきた時には、本当に息が止まった。衣服に乱れさえなかったから命拾いをしたと言っていいが、ハミルカルは幼い娘の旺盛な好奇心から逃れるのはあの屋敷の中では容易でないと考えた。訳も知らせず頭ごなしに叱りつけ乳母に押し付けるようなことはしないのが彼の父親ぶりを表している。
ともあれ、それでこんな場所を思いつくくらいだから、ハスドゥルバルがひとりで勝手に盛り上がっているわけではないはずだ。初めてこの部屋に連れ込まれた時にはいよいよと胸が躍ったものだが、進展はない。
扉の向こうから名を呼ばれ、返事もせずに窓の方へ顔を傾けた。いくらかすれば訓練場に人が集まり始めるだろう。一応はその目を避け、ハスドゥルバルも一度は屋敷に帰るようにしていたが、この日ばかりはぐずぐずと手足を泳がせている。
帰りたくないと言ったのは、ただ甘えてみただけではなかった。本当に、家に帰りたくないのだ。従者たちがいい加減にしてくれと扉の前で膝をついていてもまったく心が動かされないほどには。
前にも後ろにも進みたくない気分のままに、掛け布を引き寄せて体に巻きつける。この中で共に眠った人の匂いが残ってはいないかと深く息を吸い込んだが、ただ大きなため息になって出ていっただけだった。
昼前になってハスドゥルバルがこっそり戻った時、館の女主人は侍女たちを伴って不在で、父や兄たちも広場から戻っていなかった。
ほとんどまる二日にわたって連れ回された従者たちは、ようやく一仕事を終え、この末子から離れないようにと指図した家令にハスドゥルバルを引き渡した。ハスドゥルバルが生まれるよりずっと前からこの家で働く自由身分の男は、近頃とみに増えた白髪がますます増えていくことを予想させる哀れっぽい顔つきをしていたが、ハスドゥルバルはにっこり笑ってただいまと言った。
当主夫妻を輔け、使用人たちを取りまとめるのが役目、ただの使用人たちとは一線を画して貴族の威を背にふんぞり歩くのさえその仕事のはずなのに、家令はハスドゥルバルが相手となるとただのじいやのように威厳を失う。変な思いつきを催す前にと、もう子供ではない相手を腕に抱くようにして部屋に導いた。
それに続く奴隷たちが、自室に入ったハスドゥルバルを絨毯の上に立たせて取り囲む。丁寧とは程遠い扱いをして草臥れた長衣を脱がせ、東の果てから運ばれてきた硝子の器にするようにその身体を拭い清めた。
覆い隠すものを失った途端に視線を吸い寄せるあちこちに散った赤い鬱血、すんなりと伸びる首筋から匂い立つ気配を、彼を幼子の頃から知っている者たちはうまく見ないふりをしたものの、買い取られて間もない若い娘は堪え難いというように顔を赤くして俯いている。
家令は何事もあろうはずがないという態度で、今しがた脱いだ長衣をもう捨てるように指図した。
「今日はもうどこにもお出かけになりませんね」
「どうかな。それより手紙は来ていない?」
「どっさりと届いておりますよ」
いつも通りに、そう言って彼が目配せすると、戸口に控えていた奴隷が家令の仕事部屋に取りに向かった。
洗い上げられたばかりの長衣を着せ、風が冷たくなってきたからと厚手の上着を肩にかけて、仕上げにその薄紅とは色が合わないと耳飾りを変えると、ようやく女たちは部屋から下がっていった。柔らかな座り心地の長椅子に落ち着いて大人しく話を聞く姿勢を作ると、家令は顎に生え揃ったこれも白いものの混じっている髭を撫でる。
「お手紙が増える一方であることを旦那様はいたく心配しておられて」
「うん」
「どうか今日は奥様を出迎えて差し上げてください、ぼっちゃまのためにどれほど……」
「うん、うん」
「お返事だけは昔からようございますな」
「うん」
頷きながら卓の皿に盛られた果物を摘み始める若者は、その濡れた指先を拭う役目を得るための争いを生むような容貌を、いまばかりは悪戯をした子供のように傾けた。
「お母様はどなたかに会いに行かれたの? 祭礼には日があるよね」
「本日はメルカルト神にお祈りを」
「タニトでもアスタルテでもなく?」
「一刻も早く戦勝の報せが届き、ハスドゥルバル様が赴く戦場のなくなるよう願われるそうです」
「なるほど、考え方を変えられたのか」
ハスドゥルバルが心変わりをするよう、愚かな恋から目を覚ますようにと祈っていたがあまりにも実りがないので、最も切実なところに的を絞ったのだ。
母の祈りが聞き届けられればそれ以上のことはない。たとえそれでハスドゥルバルがハミルカルを追わぬようになるとは言えないにしても。他人事のように考え、指先から手首へと滴り落ちた李の果汁を唇で受け止めた。その行儀の悪さを微笑ましく見守っていた家令の後ろから、場違いな声がかかった。
「誰からの手紙を待っているんだい」
ずかずかと部屋に入ってきた男の姿が目に入るなり、ハスドゥルバルはやはりもう出かけようと思った。
書簡の束を手にした『客人』はハスドゥルバルの表情の曇りにも、数歩下がって控える家令の憂いにも気が付かずに、長椅子の前に立った。
「……工房からの返事を待っているんです」
「何を依頼したの?」
「武具を」
「なんだって?」
思いがけないことを聞いたというその顔さえわざとらしく、ハスドゥルバルはただ黙って笑みを浮かべた。
母方の又従兄弟がこの屋敷に滞在してひと月になる。カルタゴ市民ではあるが主にウティカに暮らし、数度しか会った覚えのない親戚だった。丸顔で指までふくふくとした中背の男には見た目にもハスドゥルバルらと似たところはない。家を継ぐことのない次男で、カルタゴに居を移すつもりだとか、ただ縁組を求めて来たのだとか、話すたび言うことが変わり、何のためにいつまでここにいるのだか判然としない。
優しい父母は頼ってきた若者を無碍にできず、兄たちはいつ出ていくのだと睨んでいるのだが、当人は居心地良さげに過ごしていた。来た時よりもだんだんと肉付きがよくなっていると使用人たちがひそひそ話をしていても聞こえないらしい。
「アズミルク殿」
ハスドゥルバルが手を差し伸べると、いそいそと近寄ってきて、袖の落ちた腕を支えるように掴みながら書簡をその手に乗せた。肉のついた柔らかい手のひらからじんわりと体温が移ってくるのに頬が引き攣りさえしないのは、慣れているからでしかなかった。
しばらく無言が続きようやくその手が離れてから、ハスドゥルバルは奴隷の仕事を奪ってきたことに礼儀として感謝を述べた。
「あなたがわざわざお持ちになることはなかったのに」
「いやいや、気にしないでくれ」
照れ臭そうな男にハスドゥルバルはやはり微笑んで、膝に置いた書簡をまずは分別にかかる。新しく手に入れた別荘に誘う手紙、ハスドゥルバルのために宴を催したいという手紙、心変わりを責める手紙。どれも横に除けて、目当てのものを見つける。
しかし、書かれているのは恐縮しきりの断りだった。家で傭兵などのための武具を購っている工房は、ハスドゥルバルのために矢の一本でも用意すれば取引先を失うと恐れているのだろう。
この家では誰に話しても喜ばれるだけの内容で、落胆を顔に出さずにそれも長椅子に置く。早めに返事をすべき何通かだけ、いつの間にか長椅子の後ろに控えていた乳母に渡した。
まだ出て行かないアズミルクが突然隣に座ったので、思わず乳母と目を見合わせる。声をかける隙を窺っていた家令も目を丸くしていた。
アズミルクは深刻そうな色を顔に浮かべて、先ほどの話を蒸し返した。
「武具、というと……本気なのか? 従軍するというのは」
「ええ。冗談で言うことではありませんから」
「叔父上叔母上は反対なさっておいでだろう」
「ですが、私ももう幼子ではありません。身の振り方を決めるべき時期です」
「感心だなあ」
自分はどうなのだ、ウティカが恋しくなってきたのではないか。
やはり出かけよう。そう、母を迎えに行くのはどうだろう。それならば行き違いになって悲しませることにはなるまい。心に決めて立ち上がろうとしたとき、アズミルクがハスドゥルバルの方へにじり寄ってくる。
膝が触れそうなほど近くに来て、何を思ってかゆっくりと深く頷いた。自分には分かっていると、あたかも相手を慰めようとするかのような笑みを浮かべる。
「お前は昔から賢い子だったから、色々と考えているのだね」
手を握られそうになりハスドゥルバルは思わず袖の中に両手を隠した。
しみじみとした顔のまま、アズミルクは何度も頷く。あいつちょっと話通じないよなと次兄が言っていたのに今更ながら心のうちで同意した。
「それでも、小さな頃から僕にだけは懐いてくれた可愛いお前が危ない目に合うのはつらいよ」
一切覚えはなく、家族もお前が特別懐いたのはボミルカル殿だけだと口を揃えるが──アズミルクの中ではそういうことになっているのだ。このひと月、ハスドゥルバルは彼が自分と仲を深めていく幻を遠巻きにしていた。
背後で乳母が殺気立ち始めるのと同時に、家令が大きく咳払いをした。
「アズミルク様、そろそろご友人とのお約束の刻限では」
「ああ、そうだった! すまないね、ハスドゥルバル」
「いえ……いってらっしゃい」
ほっとして言うのに何が嬉しいのだか満面の笑みになって、アズミルクがようやく部屋を出て行った。そのどたばたとした気配が遠ざかるのを待ちながら、ハスドゥルバルは幼い頃のように乳母が頭を撫でるのにされるがままだった。
なんとも言えない空気が流れ、ハスドゥルバルがようやく言ったのはもう何度も家人の口から聞いたのと同じ言葉だった。
「ねえ、あの人……本当にいつまでいるの?」
わ、っとその場が湧くのに合わせてハスドゥルバルは手を叩き、そばにいた同年代の青年たちを振り返った。興奮に赤みの差した頬をして、殆どの者は笑っていた。
バルカの訓練場には、この日はいつもと違う空気が満ちている。本当なら自分たちが自由に使える午後の時間帯に、若者たちは回廊に集まっていた。彼らが取り囲む一角で、たったいま手に汗握る戦いに決着がついたところなのだ。
発端は、傭兵である古参のイベリア人と新参のガリア人の間に不和が生じたことだった。荷物の置き場をどちらが広く使っているかという、本当にくだらない口喧嘩がきっかけだったらしい。それが出身地ごとに分かれるそれぞれの集団を巻き込んだ争いに発展しかけた。ただでさえ血の気の多い男たちの間でこうなれば決闘だという話になり、ハミルカルがそれを許したのだ。私闘は許されることではないが、雇い主に認められてきちんと場が設けられた。
イベリア人とケルト人は、互いに口汚く罵り合いながら拳で戦った。流石に得物を手に流血の事態は避けようという考えがあってのことだったが、殴る蹴る押し倒しひっくり返し噛みつく、ものすごい泥試合の末に、一見すると矮躯のイベリア人が相手を高く抱え上げ、地面に叩きつけて勝利した。
「……仲直りしたみたいですね?」
健闘を讃えあう傭兵たちが言葉が通じているかも怪しいのに笑顔で肩を組んでいるのを、先ほどからずっと呆気に取られていたハスドゥルバルはそこから抜け出せないまま眺めていた。
ヒミルコは──ハミルカルの代わりに決闘の見届け人となっていた──そんなハスドゥルバルの様子にこんなものだよと肩を叩く。
「連中は単純だからな、殺してやると息巻いておいて、見上げた根性だと気分が良くなるともう大の仲良しだ」
「だからハミルカルさまは決闘をお許しに?」
この先を見据えて、直接雇っている傭兵たちの統率を強めようという狙いだと思っていた。カルタゴ軍の多くを占める傭兵は当然国が呼び集めて雇うのだが、バルカにはより練度の高い者たちを抱える習いがある。
ヒミルコの頷きに、ハスドゥルバルは酒盛りでも始めそうな男たちに目をやり、不思議なものだと彼らを遠くに思った。異国からやってきたというのがこの隔たりの理由ではあるまい。
ようやく訓練場が空いたものの、若者たちが組手を始めるのは分かりきっていた。ギリシア人のように短衣を脱ぎ去り体に油を塗るといったことはないにしても、組み合い掴み合って地面を転がるのは、多分誰も付き合ってくれないだろう。
「ボスタル殿」
「無理です」
こんな風に。振り返りざまに拒絶されてハスドゥルバルはしょげた顔を作り、同い年の相手が決まり悪げになるとすぐに笑顔を浮かべた。
「試合の申し込みじゃないよ、相談があって」
「はあ……」
「ボスタル殿のところでは甲冑は作っていない?」
同輩とあれこれ話し込んでいたのにハスドゥルバルのせいで彼らに置いて行かれて、ボスタルは心底面倒臭そうだった。しかし商売の話と察して、話しぶりが変わる。
「うちは武器が主で、親戚が甲冑を作ってますが」
「ボスタル殿も自分の甲冑はそこで誂えるのかな」
「まあ、そうですね。……でも将校の軍装はあまり扱わないですよ。ハスドゥルバル殿の身につけるようなのは、それこそお抱えの工房で作らせるんじゃ?」
「断られちゃったの」
目をぱちりとさせ、ボスタルは何故と言いたげではあったが、同業者たちを思い浮かべているようだった。
もう彼も本気なのかとか冷やかしはよせとか言わなくなっていた。いや、思っていたとしても口には出すまいが、何でも顔に出るので分かるのだ。ハスドゥルバルの父や兄と縁がなく、ハスドゥルバルから仕事を請けても構わないだろう工房をどうにか挙げたボスタルは、自分をじっと見つめるハスドゥルバルに根負けした。
「本当に注文されるんなら……紹介、します」
「ありがとう! やっぱり持つべきものはお友達だね」
「やめてください」
握った手をすぐに振り払われてハスドゥルバルは抱きついてみようかと思ったが、悲鳴を上げられそうだったのでやめた。
訓練場から笑い声と悲鳴が聞こえ、見ればまだ成人したばかりの少年が傭兵に投げ飛ばされている。彼は間に合わないだろうなと、地面を転がっていく少年を少し気の毒に思った。
「ボスタル殿も、準備は進めたほうがいいよ。年が明ければあっという間にその時が来るだろうから」
青年はこちらを見て、頷く。
ここに集う若者たちはみな、もはや猶予はないとまで感じるようになっていた。彼らの主人がその使命を果たすべき時が来ているのだと。それはハミルカルとて同じだろう。
一方で、バルカの当主は自分の手に指揮権が巡ってくるまでに戦争が終わることを心配するような、矮小な器を持ち合わせていない。元老院に加わってからはより積極的に、戦況の好転のためにできることは何でもした。
きっと今頃も、エリュクスの占領によってより良い形で和平を結ぶ機会が失われたことを心底惜しんで、せめてシキリアの兵力と補給とを増強しようと働いている。それが芳しい結果を得ないことをハスドゥルバルは知っていた。元老院は、なおもシキリアで攻防が続く最中に、ハンノの主導でアフリカ内陸へ比重を傾け、ノマデスらの平定と領域の拡大を推し進めている。かつてローマ軍の上陸と略奪で受けた痛手はいまだ尾を引き、それを取り戻すべくの動きでもあった。
ハミルカルにはまだ、元老院の決定を左右するだけの影響力を持たない。それを痛いほどに感じてか、彼は以前にもまして頻繁に王の引見を受けていた。ボミルカルが戦況を理解するために助言を求めていると言うのが表向きだが、ひとつの婚姻が成ろうとしていることをハスドゥルバルは感じ取っていた。
ハスドゥルバルの準備は遅すぎるくらいだ。あまり大っぴらにすると父に剣どころか愛馬まで取り上げられてしまいそうでなかなか進められていない。
訓練場に来た目的は果たし、これ以上の長居に意味はないけれど、ハスドゥルバルはボスタルがそばを離れて仲間の輪に加わってもその場を動かなかった。
帰るとあれがいる。
馬鹿馬鹿しいが真剣にそれが嫌で今朝も早々に家を出てきたのだ。父母のそばにいれば少しはましであるものの、両親は両親でそのままハスドゥルバルを柱にでも繋いでおこうとする。
何の気なしに招き入れて泊めてくれるような友人がいないと言うのは、困りものだ。いっそボミルカルを訪ねてみようかとまで思ったとき、出入り口の方から声がかかった。
仕事を終えて去ったものと思っていたヒミルコが、妙な顔をしてハスドゥルバルを手招きしている。嫌な予感がした。
「ハスドゥルバル殿がここにいるはずだと言って変なのが訪ねてきてるが」
「いないと言ってください」
「いや、誰かも確かめないのか?」
「親戚でしょう。ハスドゥルバルはここには来ていないと……」
どたどたとした足音が聞こえ、ハスドゥルバルは両手で顔を覆った。ここには来ないだろうと、その勇気はないだろうと踏んでいたが、そういう問題ではなかった。
押し留めていたのだろうヒミルコの従者が止めるのも聞かずに、アズミルクが門から回廊の方へ走ってくる。走っていると言っていいのか迷うほどその足取りは重い。
訓練場の者たちにこれを見られたくないという気持ちで、ハスドゥルバルは通路に出た。その姿を認めるなり、アズミルクの丸い顔が真っ赤になる。
「なん……なんて格好を!」
「は?」
彼が短衣を指して言ったので何のことかは分かったが、軍装の人間を見たことがないのだろうか。
「お前がこんなところに出入りしているというから、僕はもう心配で心配で、ああ、案じた通りじゃないか! はしたない!」
幼い頃はともかく長じてから初めて短衣を着て手足を出した時には落ち着かなかったものだし、視線を受けもしたが、こんなことを言われたのは初めてだった。だって、訓練場に出れば短衣どころか腰巻き一枚で手足を振り回す傭兵たちがひしめいていると言うのに。
なんだこいつ。アズミルクの言うところのはしたない格好であるヒミルコの顔には無言ながらそう書いてあった。
腕を掴まれそうになり身を引く。
「ほら、帰るぞ」
「まだ用が済んでいませんから。先にお帰りください」
「叔母上に連れ帰ると請け負ったのだ!」
母はなりふり構わなくなってきている、ということをハスドゥルバルは学んだ。
ここで騒ぎを起こすのは本意ではない。しかしこれについていくと同じ輿に乗せられそうなうえ、従者たちはハスドゥルバルの味方はしないだろう。
ほんのわずかの間の我慢かと思いかけたとき、ヒミルコがそうだと声を上げた。
「ボミルカル様が晩餐にハスドゥルバル殿も来てほしいとおっしゃっていると、さっき使いが来ていた。言いそびれてしまったな」
「それは必ずお応えしなければ」
「そう言うと思って、もう勝手に返事をしてしまったんだ」
「大変……支度をしないと。アズミルク殿、そういうことですから。母にお伝えくださいね」
明らかに話についていけていなかったアズミルクはやや遅れて「え?」とハスドゥルバルを見たが、さっさと建物へ向かった。あとは適当にヒミルコが追い出してくれるだろう。
ハスドゥルバルは背に投げられる声を聞こえなかったことにし、建物の奥へと進んだ。あの部屋に入ってしまえば、アズミルクに限らず誰も追いかけてはこない。どんなふうに話がついているのか、もう誰もそこだけは使おうとしないのだ。
滑り込んだ一室は整えられ、人の気配はひとつも残っていなかった。ひとりで眠ることだけを想定した寝台に、卓と椅子、荷物入れと、そればかりの簡素な部屋だ。出ていくのはともかく、連れられずに入るのは初めてで、妙に物寂しく思えた。
寝台に腰掛けほとぼりの冷めるのを待つうちうたた寝をしたハスドゥルバルは、王のお招きが真実と知って慌てる羽目になったのだった。
湯気がモザイクで飾られた天井へ立ち昇っていくのを、ハスドゥルバルはぼんやりと見上げていた。指先にまで沁み入る湯の温もりに身を預けて、世話を焼こうとする奴隷たちも下がらせた小さな部屋はしんとしている。
この浴室は、館を建てた祖父が新妻であった祖母の好みに合わせて大きく作ったのだという。幼い頃には遊び場のように思って海の生き物の図柄で彩られた浴槽を泳いだものだが、いまは手足を伸ばしてゆったり過ごすのをハスドゥルバルは好んだ。陣営では水浴びが精一杯、こんな風呂はないのだと嫁ぎ先からしばしば戻ってくる姉に脅され、確かにそれは辛いだろうと思うほど。
高い位置にある窓からは西陽が差し込んで浴室に濃く影が落ちていた。結局、ボミルカルの招きを盾にしてその館に丸一日留まって夕刻に戻った末子を、父は楽しかったかと言って迎えた。
昨晩の晩餐の席にはハミルカルもいるかと思ったけれど、期待は外れた。ボミルカルとごく親しい者ばかりの穏やかな夕餉は本当に心地よかったのにそれが物足りず、あの方は忙しくしているのだねと好ましげに笑ったボミルカルにはお見通しだったのだろう。
彼はこっそりと教えてくれた。バルカ家の長女を妻として迎える心づもりであること、婚約はハミルカルが将軍の座につくよりも先に公にされるだろうこと。
幼いながらに聡明さが表れた令嬢の面差しを思い浮かべて、似合いの夫婦になるだろうと慕わしい相手の慶事をハスドゥルバルは心から喜んだ。
物事は着実に進んでいる。海軍を預かっている将軍アドヘルバルの更迭は時間の問題であり、民衆のハミルカルを恃む声は日増しに大きくなっていた。戦地にあった当時の彼に救われた話を繰り返す男も、不当に奪われかけた財産を係争で守ってくれたのだと感謝する家族も、ただそれを人に知ってほしいだけなのに、そうした声は僅かに飛躍した期待を育てた。
民会の総意というものがどのように作られるかを学び、そこで人々の目線を束ねる声の大きな者たちに訴えるべきことを教えながら、ハスドゥルバルは確かに波が押し寄せてきているのを感じている。
彼は本当に忙しくなるだろう。市中で政務に追われるのとは違う、たった少しの判断の遅れが文字通り命取りになる場所で、天分を果たすのだ。
「──ぼっちゃま?」
乳母の声にハスドゥルバルははたと浮遊していた心を引き戻した。
知らぬ間に口元まで湯に沈んでいた。浴槽の縁に上がって返事をするとすぐに戸が開いて、乳母と年嵩の女奴隷が心配そうな顔を見せた。
「心配したのですよ、お呼びしてもお返事がないので……」
「そうだったの?」
聞こえていなかったと返せば乳母は物憂げに息をつき、けれども小言らしいことは言わずに湯で温められ柔らかくなった肌に油を塗り込める。肌を磨く手つきは、ほんの僅かに力加減を間違えるだけで擦られた場所が赤くひりついてしまっていた幼児の頃から変わらず優しかった。
彼女は乳母として雇い入れられた後に自分の子を亡くしたせいなのか、生来の気質か、本当の母親のようにハスドゥルバルの世話をした。当時まだ年若く、現在もまだ中年にも届かない。両親も彼女のことは大切に扱っている。
ハスドゥルバルの考えていることが分かったように、乳母は小さく言った。
「私も連れて行ってくださいましね」
どこに、とは問わずとも分かる。
「……だめだよ? 身の回りの世話をする者は連れていくものだそうだけれど、でも……」
「いいえ。ぼっちゃまのお世話は難しいんです。他の者には務まりませんからね」
「そうなのかい」
もうひとりの奴隷に尋ねてみるが、ただ肩を竦められた。
そもそも昔からこうして身の回りを世話するのが女ばかりで、護衛役の従者くらいしか男がつけられないあたり、家族の苦心が見えなくもない。陣営暮らしとなればそんなことを言っていられず、ハスドゥルバルの心配は正直なところ戦場よりもその暮らしにあった。
だから、有り難く申し出を受けて連れて行くべきなのだろうけれど。返事をしかねて甲斐甲斐しい手に任せているうちに、またぼうっとしていたらしい。
そんな様子のハスドゥルバルが夕食はいらないと言って部屋に下がろうとするので乳母たちは湯当たりを心配してひどく食い下がったが、ようやく彼女らを部屋から追い出したあと、ハスドゥルバルは天蓋を落とした寝台の奥へ潜り込んだ。
壁との隙間に隠してあった瓶を探し当て、栓を開ける。中身は肌や髪に使うのと変わらない香油だが、少し粘りが強い。こうしたものの助けを得る、それは放埒な宴で自分よりも年少の男娼から聞き出したことのひとつだった。
部屋に踏み込んでくるような気配がないのを確かめて、手のひらに香油を落とした。花の香りのする油を体温に馴染ませている時間には、何度繰り返しても妙な孤独があった。
ハスドゥルバルには、心配するべきことが色々とある。これも、人にはくだらなく思えても切実な悩みだった。
ハミルカルはハスドゥルバルが従軍することにも、自分についてくるつもりであることにも、意見を挟まない。そうしてくれと請われたことはなく、やめたほうがいいと諌められたこともなかった。
積んだクッションに背中を預け長衣の裾をたくし上げて、脚の間に濡らした手を伸ばした。
「ん、……」
指先を呑み込ませる感覚には慣れたものの、どうにも手応えのない作業だった。
湯に浸かりながらするといいとも言われたけれど、彼女らの目を盗むのは容易でないだろうし、湯を汚す気がしてどうしても気が引けた。せめて温まって体の解れた頃合いにと、こうして時折夕食を抜いている。
ゆっくりと息を吐きながら、勝手に強張る体から意識して力を抜いていく。油を塗りつけるように指を出し入れし、触れる感触が次第に柔らかくなるのを確かめる。手のひらの油を上手くそこへ伝い落としていけばぬるついた音が聞こえた。
抱き寄せられるだけで舞い上がって、口づけに夢心地になったのに、求めるのには底がない。
ハスドゥルバルは目を閉じて、数日前に見た背中を思い浮かべた。その背に手を置くとどんな感触か、彼が身じろぐたびに、皮膚の下で筋肉がどんなふうに撓むか、その肌がだんだんと汗ばんでいくのを思い出した。
「ぅ……ん、んっ……」
届く限り深くまで指を挿し入れてみても、特別気持ちがいいということはなかった。その感覚よりも思い起こしているものによって兆している性器にもう片方の手で触れ、挫けてしまいそうな自分自身を宥めるように慰める。
もう、自分で触ったって物足りない。あの手が身体を余すところなく撫でて、口づけを落としてくれないと寂しくなるばかりだった。ただ唇が触れるだけで震える肌を吐息が湿らせていくのを、その温度ごと思い出そうとして、虚しさに追いつかれて目を開いた。
ひとりきりの広い寝台に縮こまって、こんなに必死になっているのに、まだ早いとか無理をするなとか。これでじゅうぶんだとか言って。
この手で触れ、太腿に挟み込んだもののかたちを思い描いて、それを受け入れるのにどれくらい開けばいいのだかずっと悩んでいた。二、三本の指が痛みなく入るようになっても不安が残る。しかしもしも、万が一、余裕がありすぎたらどうしよう。ハスドゥルバルは女も男も、その中に受け入れられたときの感覚を知らない。
ぐるぐると考え続ける一方で、無心に手を動かす自分もいた。
「あ…、っふ……」
彼はきっと、こんなふうに思い出されていることなど思いもよらない。まだ夏の頃にその顎を伝い落ちてきた汗だとか、いつも堪えて聞かせてくれない、僅かに漏れる声だとか、いちいちハスドゥルバルがそれに熱を持っているなんて知らないだろう。
性器を擦るのが自分の手ではないと思い込もうとして、あの手の大きさにはあまりにも足りなくて、もどかしさに喉が鳴る。
「ぁ、あっ ハミルカルさま……っ」
クッションに顔を埋め、消え入るように呼ぶと同時に手のひらに吐精した。
しばらくそのままの姿勢でいたが、顔を上げてすんと鼻を鳴らした。いつものことながらなんだかただ慰めるより虚脱感がある。のろのろと指を引き抜き、拭き掃除に使い回されるような端切れで両手を拭った。ぬるついている尻を拭うには気力が足りない。
目の前にぬっと手が伸びた。
時間が止まった。そう思ったが、天蓋の隙間から入り込んだその手が何か探すように彷徨った挙句、合わせを開いたので、ハスドゥルバルはぎくっと肩を跳ねさせた。
ランプの小さな火でさえ、真っ暗だった天蓋の中には眩しいほどの明かりだった。
「ハスドゥルバル」
湿り気を帯びた、嫌な響きの声だったが、このところ聞き慣れたものだった。
アズミルクが寝台の中に顔を出して、自分を凝視するハスドゥルバルの姿を上から下まで眺め回した。荒い呼気が近づいてくるのにそれを吸いたくないあまり息が止まりかける。
「本当に大人になってしまったんだね」
「…………」
「ああ、でも、嬉しいよ。僕を思って、僕のために準備をしてくれたんだろう」
盗み聞きをされていたことに羞恥は微塵も覚えず、ただただ気味の悪さにハスドゥルバルは固まっていた。だから音が言葉として結びつくのに随分時間がかかった。
「は? 何? ……何を言って……」
「いいんだ、いいんだ。分かっているから」
「出ていってください」
「恥ずかしがらないでおくれ」
「誰か……」
埒が開かず声を上げようとすると、急にアズミルクが機敏に動いた。伸ばされた手が足首を掴み、寝台の奥へ入り込もうとする男が影の塊のように見えた。
顎だ。
その時、脳裏になぜかヒミルコの声が過った。
顎を殴られると頭が揺れて、人間は目を回す。上手いこと入れば失神させることもできる。思い切り、下から上へ殴るといい。
まあ徒手で取っ組み合うことなんかないだろうけどもと半ば冗談で教えてくれたことを、あまりのことに停止しかけていた頭は正しく思い出した。
がつ、っと鈍い音がし、拳に衝撃と痛みを感じた。
一拍置いてアズミルクの体が傾ぐ。寝台の外へ、四肢を投げ出すようにして、音を立てて床にひっくり返った。捲れ上がった裾から覗いたものからさっと視線を逸らす。目が汚れた。
「──誰か! いないの!?」
癇癪を起こすように声を上げるのが早かったか音を立てて扉が開くのが早かったか、飛び込んでくるなり乳母のあげた悲鳴が館中に響き渡った。
顔を伏せて肩を震わせている相手を、ハスドゥルバルは忌々しく睨め付ける。
伏せた顔を片手で隠したところで、ハミルカルが笑っているのは明らかだった。それも見たことのないほどの笑いようだ。
訓練場のあの小さな一室では、時折漏れる笑い声は隠しようもなく耳に届く。まだ日は高く、外からは訓練に励む者たちの声が聞こえていたが、ハスドゥルバルはただ一連の変事を訴えたくてハミルカルを部屋に引き摺り込んでいた。
さっきから卓の天板ばかり見ているハミルカルには、寝台に膝を抱えたハスドゥルバルのむくれた顔など何の効果もない。
「あのね、これは笑い話じゃありませんから」
そう言うのさえ面白いのか、ハミルカルは数度頷き、口元を手で覆ったまま息を整え、自分で水差しから杯に水を注いで一気に飲んだ。そこまでしてようやく真顔になる。
「いや、悪い。まさかお前にそんな、勇ましい面があるとは」
こちらを見るなりすぐ視線を外したのはまだ笑いが引っ込まないのだろう。腹立たしい。
乳母の悲鳴によって館は蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、アズミルクは次の日にはウティカに送り返された。彼の家族には成り行きでカルタゴに暮らすことにならないかと願われていたらしいが、二度とやって来ることはないだろう。
既にもう何日も前の話だ。ようやく出かけることができ、気分転換にと足を運んだ訓練場でハミルカルを見つけて嬉しかったというのに、これでは話さない方がよかった。
「ちっともお分かりではありませんね」
抱えた膝に額を寄せて面白がっている顔が見えないようにしても、拗ねているのが丸分かりの声になった。
「もう長いこと……本当に! 長いことかけて、手塩にかけてようやく実らせた果実を、突然現れた得体の知れない人間が捥ぎ取って食べ尽くす、そういうことになろうとしていたんですよ。ヒミルコ殿の教えを思い出さなければ」
ちょっと声を上げれば乳母をはじめとして使用人たちが駆け付けてきたはずというのは割愛した。それでもよかったんですねと当てつけがましく膝に向かって続ける。寝台が軋んで、すぐそばに腰掛けた人の気配があったがぷいと反対の方に顔を向けた。
「ヒミルコのお陰で実は無事だったろう」
「さあ、そのうち熟れて落ちて腐ってしまうのでは?」
強く肩を引かれてころりとその腕の中に倒れてしまったハスドゥルバルを見下ろして、ハミルカルはどこか感心したような顔だった。この体躯から男を失神させる一発が放たれるとは信じ難いのだろう、それほど当たりどころが”よかった”ということだ。
膝を抱えたままハスドゥルバルは俯き、生まれて初めて人を殴りつけた手を摩った。後味の悪さなどは少しもないのだけれど、殴った後にはそれなりに痛みがあって、手の赤みが引くまで部屋にほとんど閉じ込められてしまった。
その手を取ったハミルカルがついでとばかりに揃えた膝を抱えて、ひょいとハスドゥルバルを自分の方を向かせた。彼の太腿に脚を乗せる格好になって、右腕に背を支えられる。
「怖かったとは言うまいな」
「……ええ」
「それとも何かされたのか?」
「いえ、別に……足を掴まれたくらいで」
だからと言って痣や傷などひとつもない左足を示すと、ハミルカルが履き物の結び目を解いて床に落とした。踵を持たれて、それをまだ拭き清めていないことにハスドゥルバルは尻込みするのに──あろうことか唇を寄せられて身動きが取れなくなる。
彼らは神々には跪拝をするが、そうするべき生ける主人など持たない。足元に叩頭くべきではないのだからこんな風にするのだって、そんな忌避感がしっかりとハスドゥルバルの背筋を寒くするのに、もし蹴ってしまったらと思うと抜け出すこともできなかった。
ついさっき水で濡らした唇が足首の薄い皮膚に触れると勝手にそこが震えて、身を引こうにも背中に回った腕はびくともしない。
「ハミルカルさま!」
舌先が滑る感触にほとんど悲鳴のように呼ぶと、ハミルカルがこちらを見る。
背が支えを失ってハスドゥルバルは寝台に倒れ込んだ。足を捕まえられたまま彼に見下ろされた顔は真っ赤になっているはずだった。
屈み込んできたハミルカルの顔が近くなると、もう訳が分からなくなる。まだ彼の振る舞いにいらいらしているはずだし、こんなふうに誤魔化されるのは嫌なのに、口づけてもらえると思うと瞳を見返していられない。
触れられるのを待てずに、頭を浮かせて唇を合わせる。それをぐっと寝台に押し付けられて忍び込んでくる舌から逃げ場をなくされると、自分ひとりではあれほど難しかったのに簡単に体の力が抜けた。
「あっ」
足首からその上へと動いて裾の中で悪さをする手のせいで鼻にかかった声が出て、ハスドゥルバルは咄嗟に窓を見た。窓は訓練場に隣接する庭園に向かって、目隠しもなく開かれている。その庭園もバルカの所有とはいえ、廊下だって誰がいるか知れたものではなかった。
ハスドゥルバルの懸念を見透かして、気にするなとハミルカルは軽く言った。
「お前が私を連れ込んだ部屋に近づく馬鹿はいない」
「でもっ……」
「陣営に人のいない時間などない」
口を噤んで自分を見上げたハスドゥルバルに、想像してみろと彼は続けた。
「幕舎の中にいても周囲に絶えず気配を感じ、物音や話し声が聞こえるだろう。それではできないと言うのなら、今のうちに慣れてもらうしかないな」
「いまの、うち」
「多少聞かれるくらい構うものかと思っておけ」
反駁する間もなく、魔法じみた手際のよさで長衣を剥ぎ取られた。ついでに右足に残っていた履き物も床に落とされれば、首飾りと指輪ばかりが飾る身体が昼の明るさに晒される。
寒くもないのに肌の粟立つような、どうしようもない落ち着かなさに身を捩るハスドゥルバルの上に、寝台に乗り上げたハミルカルが覆い被さる。潤んだ目が不安げに自分を見上げるのに何を思ったのか、彼の残した跡がすでに消えた肌に視線を落とした。
「見られたのか」
ハスドゥルバルはきょとんとしてから首を振った。
「何も……ただ、その……聞かれただけです」
「何を」
「つまり、し……しながら、あなたの……あなたを、呼ぶのを……」
嘘だった。聞いていたならあんな意味不明なことは言わない、アズミルクが聞いたのは喘ぐ声くらいのものだろう。
ただ、その答えに満足げに細められる目に鼓動が速くなるから、悪い嘘ではないはずだった。顔を隠そうとするハスドゥルバルの手は重ね敷かれた肌触りのいい布に押し付けられて、火照った頬にいくつかの口づけが落ちた。
抗うはずもない手はすぐに戒めを解かれる。身を起こしたハミルカルが躊躇なく服を脱ぎ去るとまた顔を覆いたくなったもののどうにか耐えた。
ランプだけが頼りの薄暗い部屋でさえ目のやり場がなかったのに、明るい部屋では逆に目が逸らせなかった。物心つくかどうかの頃からの、もはや苦とも思わない習慣となった鍛錬が編み上げた肉体には、彼の若い無鉄砲さや勇敢さを示すような場所に傷跡がある。
気が付くと肩口の傷に手を伸ばしていた。それがどんなふうに刻まれたものなのか、ハスドゥルバルにはまだ分からない。ただもう痛みを発さないだろう古い傷に、自分には知りようのない彼の時間を教えてもらえる気がしたのだ。
「気になるか?」
「……痛かったですか? ここも……」
「痛かったのは確かだが。あまり覚えていないな」
「これからは、私がいちいち覚えておきます。怪我なんてなさらないのがいちばんだけれど」
そうかと感慨なく頷いたハミルカルが、脇腹に触れていた手に誘われるままに身を沈めた。あれでは物足りなかった口づけを強請れば意地悪もせずに応えてくれる。
機嫌がいいみたいだと、笑われた甲斐を感じるのだから我ながらたわいない。唾液を混ぜ合わせるように舌を絡めて少しずつ吐息に熱が籠り始める。緊張を帯びず指先に弾力を返す胸板に触れ、それが僅かな距離を保ってハスドゥルバルに重みをかけないのを少し惜しく思った。
なだらかな線を辿り、その下に連なるくっきりとした凹凸を数えた指が、窪みに引っかかる。ふ、とハミルカルが唇を合わせたまま笑った。
「随分手つきに余裕があるな」
「……好きなんです」
彼以上に筋骨の逞しい肉体ならばこの部屋を出ていけば見放題なのだが、そのどれも景色でしかないのだから、理由は分かりきっている。
お返しのようにハスドゥルバルの薄い胸を包んだ手が、この数ヶ月で僅かなりとも手応えを返すようになったのを確かめるように動いた。
「ひゃぅっ」
その頂を吸い上げられて出た裏返った声にハスドゥルバルは息を詰めた。とうに固くなっていた胸の突起は、最初こそハミルカルに触れられていることだけで息を上げていたのに、そんなことを思っているうちに他にない感覚を齎すようになってしまった。
「ん、ぅっ……」
「そう堪えなくても誰にも聞こえない」
「そ、こで、しゃべらな……あっ!」
もう片方を抓られて腰が浮く。その腰をハミルカルの両手が逃げ出さないように捕まえ、胸を散々濡らした唇が今度は跡を付け直すように身体中あちこちに吸い付いた。
腿の内側に歯を立てたハミルカルと目が合う。されるがままがもどかしいのにただ触れられるだけで体の自由が効かず、ハスドゥルバルは眉を寄せた。紫の瞳がわずかに濃く色を変えるのに背筋にぞくりとしたものが走る。
手を伸ばして招き寄せたハミルカルの輪郭に口づけ、背に腕を回して熱を帯びた首筋でも音を立てた。彼が好き勝手するように痕跡を残すことは、たとえどれほど強く彼に縋り付きたくてもできない。
彼の手を取って、自分の背後へ、腰からさらに下に置いた。その曲線を撫でられるのも、指を埋められるのも嫌いではないけれど、いまはどうしようもなくもっと奥が疼く。
「ぜったい、もうできます」
意地を張っているようにしか響かなかったが、ハスドゥルバルは確信を持って言った。あれだけやって駄目ならもう一生駄目だろう。
ちゅ、と音をさせながら何度も頬や唇に吸い付く。そんなご機嫌取りの末に上目遣いにじっと見つめ、けれど見つめ続けられずに俯いたハスドゥルバルの前髪を払って、ハミルカルは少しの間額を合わせた。分かった、と囁く。しかしと彼もまたもどかしげにこの物の少ない部屋を顧みた。
「……油がいるんだったな」
返事をする代わりに、ハスドゥルバルは寝台の下に身を乗り出した。壁際、寝台の柱の影に隠してあったものを掴んだところで、そのままずり落ちそうな体を引き上げられる。
真新しい香油の瓶を掲げてみせると、ハミルカルは少し呆れたようだった。
瓶を受け取ろうとしたハミルカルの手を、ハスドゥルバルは不思議に思って見返し、首を振った。栓を抜くと同時に甘い香りが彼らの間に漂った。
「ハスドゥルバル?」
手のひらに香油を落として慣れた手つきで体温に馴染ませる様子を、ハミルカルは彼らしくなく当惑した様子で見守ったが、ハスドゥルバルの方は真剣そのものであり、それには構っていられなかった。
「すぐ済みますから、あの、あんまり見ないでください」
見るなと言った通り膝を閉じて、その間に腕を挟み込むようにしてハスドゥルバルが作業を始めると、水音がそこから小さく聞こえ始める。
「っふ……」
苦しげな吐息は、ハスドゥルバルがその作業を楽しんではいないことを明かしていた。注がれる視線を避けるように背けた顔をハミルカルは指先で向き直らせて、噛み締めたせいで赤くなった唇を甘く食む。
ハスドゥルバルはおとなしくそれを受け入れたものの、背中を撫でた手が腰へ下りて、割れ目の上を擽るのに身を竦ませた。その手は柔肉のはざまを伝い落ちる油を指で掬いながら、自らの体を懸命に解そうとする指にたどり着いた。
いや、とハスドゥルバルが空いた手でハミルカルを押し返す。
「だめ、もうちょっとだから」
「ただ眺めて待っていろと?」
そう言った相手の、充血して腹の方へ反った性器が目に入り、ハスドゥルバルは呆気なく怯えた。どんなものを受け入れるか知っていてもいざとなると自分がどうなるのか想像がつかない。最悪の場合、半分に割れる?
そろそろと指を抜くと、ハミルカルの手が閉じていた膝を開く。それでも目線が落ちるのだけは拒むのを強いて暴きはせず、既に香油で濡らされた場所に手探りに指の腹を押し付けた。つぷりとそこに入り込んで、慎重に内側を撫でる。
ハスドゥルバルはすでに打ち上げられた魚のように口をぱくぱくさせることしかできない。いくら慣れたつもりでも自分の意思の及ばないものが入ってくるのでは、まるで違う。
「ぅ、う……っん……!?」
そんな奥まで触ったことはない。激しく瞬きを繰り返すハスドゥルバルを、本当に大丈夫なのかという顔でハミルカルが見ていた。
「無理そうなら」
「そ、うじゃなくてっ……ゆび、指が」
「指?」
「知らな、ところ、触ってる……!」
つまりどういうことだと眉を寄せられても、ハスドゥルバルは未知の感覚をやり過ごすので精一杯で、分かりやすい説明などという芸当はもはや手の届かないところにあった。
まだ慣れないうちに増えた指が輪を広げるようになぞり、その柔らかさを確かめる。彼は彼なりに遠慮を持って触れているのだが、深く浅く、塗りつぶすように這い回る感触に声もなく体を小さくして震えるハスドゥルバルをじっと見つめる目には獰猛さが見え隠れした。
指を抜き、先ほどの香油を自らのものにも塗りつけるハミルカルに気が付いて、ハスドゥルバルは敷き布をぎゅっと握りしめた。
膝裏に入った手が容易く体を折り曲げた。似たような格好なら何度もしたことがあるが、いつもとは逆に脚を開かされ、そこにハミルカルの体が割り入ってくると、彼をひどく大きく感じる。
あてがわれたものの指とは比べようもない重さを感じて、腰がひけるのをどうにか堪えた。不安をいっぱいに浮かべたハスドゥルバルの頬を手の甲で撫ではしたものの、ハミルカルはもうやめるかとは尋ねなかった。
「ひっ……」
ぐっとその頭を埋めたものが、ゆっくりとそのために準備をしてきた体を押し開いた。指一本さえ動かせずに息を止めたハスドゥルバルに、ハミルカルが動きを止める。
「痛いのか」
髪を揺らして首を振った。引き攣るような痛みは、苦しさに紛れてそれほどハスドゥルバルを苦しめなかった。それなのに血の気の引いた頬を涙の粒が転がっていく。
強張って浅くしか息を吐かない胸をハミルカルの手のひらが温めるように撫でる。間違いなく自分を苦しめている人の手がこのうえない安心を齎す不思議に、ハスドゥルバルは細く吐息し、殊更ゆっくりと胸に空気を満たした。
ただこの顔を見ただけなら怒っていると思うだろう険しい表情で、ハミルカルは逡巡しているのだ。ハスドゥルバルは胸に置かれた手を取り頬を押し付けた。
「やめないで、おねがい」
手のひらに唇を寄せて乞うたのに返事はなかったが、手綱は緩んだ。
怒張したものが熱い壁を掻き分けるように体を貫く。小さく腰を引いてはより奥を穿って、少しずつ深くへ進むのを、それに合わせて息をしながら克明に感じた。
途中より大きな圧迫感があって、やっと半分ほどと言われた時には泣き出しそうになったが──そのすべてを収めたときにはもう途方もなく長い時間が経った気がした。
「は、っ…ぅ……んん…」
ようやく息の仕方が掴めた唇を塞がれ、ハミルカルの頭を両手で掻き抱いた。硬い髪の根元に汗をかいて、それが首筋へ伝うのをなぞる。腰の重みが馴染むのを待つゆらめくような動きと、口の中を舐め尽くすような口づけとが、頭の芯を蕩けさせていった。
涙でぼやけた視界ではその合間に荒く息をついたハミルカルの、理性の糸を引き絞られたような表情が分からなかったのだ。
「まだ痛いか?」
掠れた声にだいじょうぶと返す。本当に痛みは引いてきていた。それよりももっと口を吸って、とねだるのに応えてくれると思ったのに、そうする代わりにハミルカルは笑ったようだった。
「──っ!」
がくんと視界が揺れる。
異物が引き摺り出されると同時に体がひっくり返るのではという気がして、待ってと言おうとしたが言葉にならない。痛いほど強く掴む手のせいで腰を逃すことができず、完全に抜け出す寸前に予告もなく突き上げられて足が跳ねた。
「うっ、ぅあ、あっ あッ」
腹の奥を繰り返し突かれるごと、ただその弾みに押し出されて声が出る。下生えが触れるのが分かるほど押し付けられた体が離れ浅くを擦り始めると、そうしようと思わないのに繋がった場所が苛むものをきゅうと締め付けた。
敷き布を掻き寄せて縋ったところで逃げ場はなく、腕に伏せた顔はすぐに上げさせられる。涙と汗で前髪の張り付いた顔のそばに手をつき自分を覗き込む男の顔が、涙に溺れる瞳にはよく見えなかった。
体をひっくり返されて、一度抜けたものがまた挿し込まれる。あんなに痛くて苦しかったのに簡単に受け入れられたのが信じられずにいると、萎えてしまっていたものをハミルカルの手が包んだ。
「ゃ…あ、だめ、いまはだめっ」
「どうして駄目なんだ」
「だめなの、いやっ……!」
何にも聞いてくれずに、ハスドゥルバルを追い詰める方法をよく知っている手にあっという間に高められてくうと喉が鳴った。肘をついていられず崩れた体を力強い腕が抱き寄せる。汗が互いの肌を張り付かせて、彼がこれほど近くにあったことはなかった。
そのまま後ろから揺さぶられ、ハスドゥルバルはほとんど泣きじゃくっていた。
「は、みるかるさま、ハミルカルさまっ……」
返事の代わりに項に口づけられる。熱い吐息に感じ入ったような唸りが混じって、それが耳に吹き込んできた途端、指先まで痺れが走った。
「あっ、あぁ……!」
彼の指に追い立てられるままに果て、ぱたぱたと布に白濁が落ちる。
ややあって苦しいほどに抱きしめられ、押し付けられた胸が痙攣するように弾む。ハミルカルは締め付ける熱い壁に自身を擦り付け、長い射精の末に、何も生さぬ腹に最後の一滴までもを放った。もうどちらのものか分からない荒い息遣いが部屋に響き、硬さを失ってようやく、ゆっくりとそれが出ていく。
その拍子に掻き出された精液が伝い落ちる感覚に背筋が震えた。確かめたくとも、腕を上げることさえできない。
「ハスドゥルバル……」
囁く声に頷くことはできただろうか。彼は何か言ったはずなのに、それを嬉しいと思った自分が何を聞いたのか、もう思い出せなかった。
──眠っていたのかと思ったがそうではないらしい。自失していたのはいかばかりか、体を起こそうにものしかかっている体の方があまりに重たく身じろぐのさえ難しかった。抱かれているというよりも覆い被さられている。肩に呼気を感じた。
寝ている? そう思ったのが聞こえたようにハミルカルが顔を上げて、ハスドゥルバルの体に回していた腕を解いた。彼を振り返るくらいはできるようになったが抜け出せそうにはない。
あちこちの方向に引っ張ったせいで体の下に皺になった布は濡れた感触がする。気にしたことはなかったが、ハミルカルの召使たちがこれも始末するのだろうか。頭は色々と忙しく思考を回すのに、実際には何も言葉が出ずにただハミルカルの顔を見ていた。
そんなハスドゥルバルの様子にハミルカルは心配が芽生えたらしい。どこかつらいのかと尋ねられて自分の体がどんな状態だか確認したハスドゥルバルはしばらくして小さく呟いた。
「まだ入ってる感じ……」
そうではないことは尻のあたりに当たっているもので分かるのだけれど、下腹部の違和感はそうとしか表現できなかった。
「それに……ちゃんと閉じなくなっちゃったのかも」
「大丈夫だろう」
言いながら確かめるように指で触れられて、そこに塗りつけられた色々なものが乾き切らない感触にハスドゥルバルは眉を顰める。窄まりは彼の言う通り慎しげに閉じて、あんなものを受け入れていたとは思えない。確かに杞憂だったようだけれど、安心させてくれたはずの手が戯れのように体をまさぐり始めるとそのあちこちに燻っている余韻に火がついてしまいそうだった。
「やん、もう……っ」
布との間に入り込んで手のひらに胸の突起を転がした手を掴んで、ひどい重労働のように苦労して引き剥がした。重たい倦怠感が爪先まで満ちて、疲れている。
ずっしりと全身にかかっていた体重が失せた。それはそれで物足りないと思うのも束の間、腕を引かれてハスドゥルバルは相手の上に寝そべる格好になる。ハミルカルは薄い毛布を引き寄せてハスドゥルバルを包んだ。
穏やかに上下する温かな胸に頬をくっつける。さっきまで聞こえていなかった外の喧騒が急に耳に届き、窓から差し込む光にそれほど長い時間は過ぎていないと分かって、ほうとついた息には安堵が滲んだ。夜にはまた予定があると聞いていたけれど、まだこうしていられる。
「ハミルカルさま」
「ん?」
「……ハミルカルさま」
本当に、底がない。
ほんの数刻前までは『最後』と呼んでいた行為なのに、経験してしまうと欲しいものが増える。恥じらいもなく楽しめたかと彼を問い詰めたくもあり、もっと強く、何度でも求められ続けていたかった。
「……武具を注文しました、私の体にちゃんと合うような鎧と、兜と……」
「なんだ、一足遅かったな」
「ひとあし?」
「剣は?」
「持っているのがありますけれど……」
「家宝だとか言っていたあれか? あれはお守りにしておけ、刀身が長いしお前には重すぎる」
貧弱と言われたようでむっと顔を上げたが、見下ろした先で予想しないほど優しい眼差しにぶつかってハスドゥルバルは言葉をなくした。
涙の跡の残る頬を包んだ手に見逃しようのない心を見出すのは、どこまでも求め続ける欲深さのなすことだろうか。
「私から贈らせてくれるな?」
どうせ折れたり刃こぼれしたりして、すぐに換えることになるだろうが。そんなふうになんでもないことのように言う。
彼にとっては──ついてこいと言葉にしないことは、連れて行ってと言葉にする必要さえないということなのだ。ハスドゥルバルはその手にだけ伝わるほど小さく頷き、そうして、どんな言葉よりも鮮やかに、花が開くように微笑んだ。