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囀る鎖

 乳母に手を引かれ廊下を歩く。足首に巻かれた華奢な金の鎖が立てる涼やかな音は、ソフォニスバが物心ついた頃から彼女につきまわっていた。彼女だけでなく、こうして屋敷のなかで養育される令嬢の足にはその純潔のあかしとして鎖があり、音を立てる。しゃらしゃらと細やかに、それは、もはや少女たちにとっては耳にしているもいないも同じ存在となっていた。
 ゆっくりと乳母が歩くので、ソフォニスバは彼女に手を引かれるときには父の後ろを追いかけるときのように息せき切って小走りになることはない。その父が娘を呼んでいるからこうして歩いている。
 何のご用事なの、と尋ねても乳母は何も答えなかった。すこしこわばった彼女の顔にソフォニスバまで不安になる。幼い主人の不安には敏いはずの女であるのに、痛いばかりの無言が敷かれていた。はやくお父さまのいる部屋に、と思う。鎖の音がいささか調子を崩していた。
 乳母はひとつの部屋が近づくと足を止めて、ソフォニスバを前に歩かせた。早歩きをしようとすると肩を捕まえられて、先ほどと同じようにゆっくりと、戸口に立つ。主人に声をかけるのはソフォニスバではなく乳母で、父も、乳母に返事をしてからソフォニスバを見た。武人である父は屋敷を留守にすることが多いのだが、容姿の端麗さを歩き始めたころから評判にとっている娘についてはひどく気にかけてくれているのだと、ソフォニスバは雰囲気だけで知っている。自分は可愛らしい娘なのだ知ることは驕りではなかった。
 父に手招かれ、部屋に入る。すると父の腰掛けるのに向かい合って長椅子に浅く腰掛けた青年に気が付いて、ソフォニスバはまだ子供であるから不躾にその人の顔を見た。凛とした、卑しい者には持ち得ない覇気のようなものを持っている青年は、明らかにカルタゴ人の顔立ちはしていない。けれどもどこか自分と近い血が混ざっているような、きれいな姿をしていた。
「お父さま」鎖の音に混じって響く、少女の声は鈴を転がすよりもよほど軽やかに響いた。「この方はだあれ?」
 青年は控えめにソフォニスバに目礼したが、黙っている。父が苦笑しつつ落ち着かないソフォニスバを隣に腰掛けさせ、常よりもゆっくりと、まずは青年に自分の娘を紹介した。
「ソフォニスバ。こちらはマシニッサ殿、ヌミディアの王子だ」
「王子さま?」
「そう。幼少の頃にはこのカルタゴで過ごし、勉学なされた。……お前の夫となる人なのだよ」
 まあ、とソフォニスバは周囲の女たちがするように高く声を上げた。本当に驚いて上げた声はそれよりもいくらか遅れて発せられ、くるくると父と青年とを見比べてから、「それじゃあわたくしは王女さまなの」と少女は言った。
 マシニッサは既に戦場に立つことはできても、まだ父と同じくらいの大人にはなりきっていない、そういった年頃に見えた。ソフォニスバの目には彼の姿はそう物珍しく映らなかったのだが、カルタゴ風の衣装に包まれた身体は自分のものとは違うと、それだけは理解できた。ヌミディアの民は馬を駆る、それを生業とする。とても強く、しなやかな人々なのだと。語り聞かせてくれたのは父ではなかったか。
「そうは言ってもまだソフォニスバは幼い。すぐにでも輿入れを、とはゆかぬ」
 父の大きな手がソフォニスバの頭を撫で、そわそわしている小さな身体が椅子から降りてしまわないように肩に置かれた。彼女が足を揺らすと鎖が騒ぐ、それにマシニッサが目を向けるのにつられてソフォニスバも自分の足を見たが、サンダルが履き古したもので恥ずかしいと思っただけだった。
 マシニッサに向けて父がする話はソフォニスバにはよく分からなかった。小難しい話は聞いてはいけない、大人のことだから、そう躾けられた彼女はきちんと意識してそれを聞こうとしていなかった。
「ソフォニスバ」
 呼ばれ、父を振り仰ぐ。
「お前、まだマシニッサ殿に挨拶をしていないだろう」
「ごめんなさい」
 椅子から降りて、マシニッサのすぐ前に立つ。澄んだ瞳がひたとソフォニスバに据えられると、背筋を伸ばそうと思う前にソフォニスバは彼女としては驚くほどきちんとその場に動きを止めることができた。生来立ち居振る舞いが優雅であるのに同時にどこかせわしない、と言われているのである。
「ハスドゥルバルの娘、ソフォニスバと申します。……ええと、よろしくお願いいたします、マシニッサさま」
「……ああ、こちらこそ」
 堅い口調でそう言ったが、マシニッサは微笑んだ。彼はとても無口なのだとソフォニスバは思い、そういうひとの妻となることはどういうことだろうかと思う。父は物静かでもなければ、騒がしくもなかった。
 異国の青年はじっと動かない少女にいくらか待ちの姿勢を取っていたが、困ってしまったのか、父を見た。父は笑いを含めたままの声でソフォニスバを呼び戻す。こんな風に未婚の娘が客人の前に出ることは当然だが珍しく、その相手がカルタゴ人ではないことは、いままでなかった。その珍しい相手は自分と婚約するのだとソフォニスバは抵抗なく受け入れていたし、マシニッサは彼女にとって好きになることのできる人間だと感じた。
 ヌミディアの王子は単にこの幼子との接し方をはかりかねて口を開かないのだが、ソフォニスバは彼の静けさを慎重さと受け取りーーひたむきな眼差しにはまごころがあると少女は信じたのだった。
 けれどもふと気が付いて戸口を見た少女には、また話し始めた父も、それに耳を傾ける青年も目を向けていなかった。ソフォニスバは戸口の脇に控えた乳母が目元を押さえて唇を噛んでいるのを見つけ、どうしたのと問いかけたくなったが、少女の手は父の手の中にあった。浅黒い膚をした乳母の真っ黒な瞳は潤み、時折ソフォニスバの、本当は何も分かっていないのに何もかも飲み込んだつもりでいる姿を見ては、その涙が節くれだった指を濡らした。
 彼女が自分を哀れんで泣いているのだとは、ソフォニスバは教えてもらわなかった。


 慌ただしく行き交う足音を聞いていながらソフォニスバは動かなかった。柔らかな毛皮の敷かれた床の上には、彼女に贈られた様々なものが、その美しさからすれば哀れとも思えるやり方で広げられている。金細工の施された杯、ダイヤモンドの散りばめられた腕輪、女の手でも裂けてしまえるほど薄くしなやかな布、馬の彫刻の施された首飾り、きれいなものはみな、ソフォニスバの故国で取引されこの地にやってきたに違いなかった。
「ソフォニスバさま」
 奴隷が呼ぶ。美しい発音とは言えなかった。
「ソフォニスバさま、王が……」
 支度をしろと言うのだろうか。これ以上の支度とは何だと問うつもりでソフォニスバは面を上げ、動こうとしない主人に苛立つ奴隷と目を合わせた。ソフォニスバが床に並べるどの贈り物よりも安い値段の女はそれだけで怖気づく。
 このキルタに連れて来られてからソフォニスバは一日だって装いを崩したことはなかった。婚礼の衣装を別にすれば、一度だって着飾りに差をつけてこなかった。そしてなにもしないでこの部屋で座り込んでいる。ここにいてくれと夫は言った。だからそうしていた。ソフォニスバは動こうという気にひとつもならないのだ。
 物言いたげに部屋を覗きこんでいた女を怒鳴りつけたのはソフォニスバではなかった。先程まであれほどに騒がしかった王宮はその怒号を合図にしんと静まり返ったように思う。きっとそうではないのだけれど、ソフォニスバにはもう喧騒は遠かった。
 彼女の部屋に入るにはひとつしか扉がない。その扉に至るまでに小部屋がひとつ置かれ、小部屋までに長い廊下が続く。王宮のなかでここは最も奥まっていた。
「ソフォニスバ」
 その音は整った姿を持って響いた。ソフォニスバは裾を払って立ち上がり、その上で膝を折る。彼女が動くとその体にいくつも巻きつけられた宝飾がきらきらと鳴り、窓からの光に輝く。美しいはずだ。これで美しくないのならば、あとは死んでみるしか方法がない。
 シュファクスは食い入るように彼女を見つめていた。いつもそうして、風が三度吹くほどの間、王はおのが妻の存在を確かめようとする。ソフォニスバは常にただ黙って跪くしそれを咎められたことがなかった。無骨な手が伸ばされ、白いばかりの頬に触れた。
「よき報せがあるのでしょうか」
 この王は戦いに出向いたのだ。その戦いがどのようなものであるかソフォニスバは知らされていなかったから、蛮族の征圧だとか、反抗を見せる領民の平定だとか、そういうものかと思ってシュファクスを見上げた。ベールの向こう、シュファクスは笑い損ねた顔でもって妻を見ている。
「ソフォニスバ」と彼は情けない声を出した。臣民に対し期待される以上の威光を降り注ぐ王だというのに、間違いなく強い君主であるのに、シュファクスはソフォニスバを前にすると堂々たることを忘れるようなのだ。
「私が無事で嬉しいか」
「はい、嬉しゅうございます」
「ずっとここで、待っていたか。ひとりで?」
「はい」
「そうか。……そうか」
 手のひらは離れ、シュファクスはどかりと座り込んだ。思案する顔つきだったが、ソフォニスバがそばに座るとまばたきを繰り返して、言った。
「マシニッサをマッシュリーの王国から追放したのだ」
 露台からはいつも風が吹きこむ。寝台を何重にも囲む薄布が波打ち、ソフォニスバの顔を覆うベールが揺れた。
「それはよき報せでございますか」
「そうだと思うか」
「わたくしは、政を存じませぬ。シュファクスさまがよろしいと思われるのならば、よき報せなのだとだけ心得ております」
 そうして淡く、目を細めることだけで微笑むと、シュファクスはきつく眉根を寄せ、行き場のない手を握りなおして、やっとのことで頷いた。
 ソフォニスバはヌミディアの王の妻となった。けれども、この民族について初めて教わり、その民族の人間と初めて言葉を交わしたときには知らなかったことが多くあったのだ。シュファクスはマサエシュリーの王である。そしてマシニッサは、マッシュリーの王子であった。
 同じことだと父は言った。何にせよお可哀相なことだと乳母は泣いた。幼い日に母を亡くしたソフォニスバは、母が父のもとに輿入れしたときに身につけた一切を与えられて家を出た。事情が変わったのだ。ソフォニスバは政を知らない。けれども知るべきこととして教わったのは、マシニッサにはもう、父が美しい娘を与える価値がないということだった。
 何にせよソフォニスバは夫を父と結び合わせなければならないのだから、同じことだ。シュファクスは一度はカルタゴに反旗を翻したものを、鎮圧され、そしてこの美しい娘を与えられた。
「シュファクスさま」
 指輪の嵌められた手を取る。剣を、槍を振るい、馬の手綱を引く手の皮は硬く、この夫からは土のにおいがした。嫌いなにおいではなかった。あの青年も同じようなにおいをさせていたし、それに、ソフォニスバは馬が好きだ。
「お怪我などなさっておりませんのね」
 王は王たるために兵を率いなければならない。ソフォニスバはシュファクスが手傷を負って戻ったときのことを憶えていた、王専属の医師から聞き出したやり方で傷に手当をしてやったときのシュファクスの顔も忘れていなかった。
 シュファクスには既に嫡子がおり、その嫡子は幼くはないのに、ソフォニスバに子ができればどうなるか。カルタゴの一貴族の娘を、まるでどこかの姫君にするように扱い、贈り物をして、この部屋に置いている。そうして贈り物に囲まれているソフォニスバのことを思い帰るのだろう。それはもはや、健気と言ってもよいほどだった。労りを知らない女の手を、それでもシュファクスは強く引き寄せた。彼はひとつの約束のあかしとして、美しい女を与えられた。


 国を出るとき、父は娘におのれへのではなく祖国への愛情を失わぬように言った。ソフォニスバが高位の女の有り様を忘れ、両肩に負わねばならぬものを打ち捨てるのを恐れての言葉だった。
「きっと」と父は、どこか憔悴した目をしていた。そんなふうな父をソフォニスバは見たことがなかった。「王はおまえを大切にする。何も心配はいらない、周囲が何くれとなく言い立てたとしてもだ。だからお前はそれだけを覚えていればよい」
 娘は頷いた。
 彼女にシュファクス王との婚姻を知らせたのは父でも父の使いでもなく、カルタゴの高位の者たちであり、父は娘が家を出る前にやっと間に合ったというのに過ぎなかった。それでも敬うべき父の言葉なればこそ重く、自分を慈しんだ親の悲壮なればこそ和らげてやりたかったのだ。戦地たるヒスパニアでどういったことが起こり、なぜ父が派遣された彼の地からアフリカへ戻ったのかをソフォニスバはそう詳しく知らされていなかったけれども、上手くいかなかったのだとは知っている。
 そうして父の言葉を受け取ってすぐに、馬車に揺られそれまで見たことなどなかった蛮族の土地を見た。カルタゴの令嬢を前にしてどこか萎縮する言葉の通じない奴隷よりも、よい土地で育ち研ぎ澄まされた血筋を感じさせる馬のほうに彼女の関心はあった。父の持たせてくれたもの全てとともに運ばれていたから、寂しいとも心細いとも思いようがなかったのだけれども、馬車が停まり、従者が言葉を交わすのを聞いて、幼い日の夢想を思い出した。
 要するにーー馬車から降りたとき彼女を出迎える男の顔をソフォニスバは知らなかったということである。乳母や侍女たちから聞かされた婚礼とその後の生活のおおよそを、少女たちがみなそうするように好き勝手に想像してやまなかった彼女は、当然のようにそこにマシニッサを置いていた。あの青年が手を差し伸べる姿を知っていたし、その手のひらがやはり硬く、体温の高いのを知っていたから。シュファクスの顔は知らなかった、それどころかその名を、ソフォニスバは彼が夫になるのだと聞かされたその日まで、耳にしたことがあるのかさえ判断できないでいたのだ。
 顔の造作がわからぬ厚さのベールのせいで足元がふらつくことも、きつく締められた帯のせいで息苦しいのもその日まで知らなかった。侍女に促され輿に移り、そこからはソフォニスバはただ置物のようになって婚礼や宴をやり過ごしただけだ。夫の顔を不躾にも覗き込むことはどうにも勇気が出ずにできなかった。夫のほうも、新しく迎えた妻の高貴さを前にしてか、それ以前に彼の自制としてか、ベールを暴こうとはしなかった。
 ふたりきりになるまでだと分かっていても、それまでの時間はどれほど長いのかと、椅子に腰掛けるだけの女はずっと考えていたのだった。
「そなたの父は私をどのように話していた」
 婚礼の重苦しい衣装のまま寝台のうえに座り込む花嫁への第一声が、それなのだ。ベールの隙間から垣間見えたシュファクスは、と言っても首から下しか見えなかったのだが、彼の方も盛装していたけれどもいくらか装飾を取り払っていた。彼は寝台から少し離れた長椅子に身を預けていて、きっとあの濃い色の瞳が居所を迷っていたのだろう。
「父は、何も心配はいらないと」
「何も?」
「何も……。それだけでございます」
 寝台が軋んで、シュファクスが近くに来たのが分かった。それでも彼はベールに手をかけず、ソフォニスバがなんとなしに寝台の沈んだほうへ顔を向けると、苦しげなほど重い息を吐き出す。
「何も知らぬのだな」
「わたくしが知らねばならぬことは、シュファクスさまのことだけでございましょう」
 まだ何も知らない。そういう意味を込めて、ソフォニスバは言った。嗅いだことのない甘い香が薄く部屋に漂うなかで、彼らはそれからじっと黙りこくっていた。シュファクスがまた動いたのは、ソフォニスバが欠伸をどうにか噛み殺したときのことで、彼女が驚いて肩を揺らしたのを怯えたのだと思ったらしい。
 夫は王として過不足ない姿を持つ男なのだと、やっとベールが冠ごと取り去られたので、分かった。
 彼は華奢な細工の施された冠をいささか乱雑に寝台の端に放って、それから彼の妻の顔を見た。
 ソフォニスバにはそのとき彼の見せた顔の理由は分かったけれども、その顔の意味は分からなかった。彼は少しだけ瞠った目をゆっくりと瞬いて、眉を寄せるーー引き結ばれた唇にしろ何にしろ、ソフォニスバはそういう顔を見せる人間を彼の他に知らない。少女と言ってもよい年頃の花嫁の髪に触れた手は大きかった、父のそれよりも。
「何一つ知らず私の国に来たとて、望みはあろう」
「望み?」
「王の妻となるのだから」
「…………」
 優しげな目だ、馬のそれを思い出させる目だと、そのときは思った。シュファクスが何人の花嫁にこうした問いを投げてきたのかなどとは考えず、ソフォニスバはまるで、彼が自分の最初の夫であるのと同じに自分が彼の最初の妻であるかのような気になっていた。そう思わせるだけの顔だったのだ、彼は食い入るように少女の大きな目を捉えていた。
「どうかお見捨てにならないで」
 こめかみの辺りに触れていた手に手を重ねる。双方の指に嵌められた指輪が音を立てる、その音を聴き慣れている気がした。
「……それだけでございます」
 宝石も金細工も、職人たちが長い時間を投じた織物も、女の身を飾るものはすべて彼女は持っていた。父がそのように自分を慈しんだ意味だけは知っていたし、それは喜びに近い充足を娘に与えうる愛情だった。
 言葉ないままにシュファクスが結い上げられた髪を留める櫛を外し、緊張を強いるほどきつく額を引いていた髪が下ろされると、息苦しさもすこし遠ざかる。それで彼女は、彼女自身そうと気づいてはいなかったが、この婚礼を知らされてのちはじめて微笑ったのだ。
 濃い化粧も色とりどりの衣装も、耳に揺れる赤い宝石も磨き上げられた銀細工の腕輪も無意味にする笑顔だった。彼女は幼い時分から常にその容貌を褒めそやされてきたが、それらの言葉はまた常にソフォニスバにとっては身近な人々の愛情に他ならなかった。なるほど彼女は美しい。おのれでそうと知ることが身の丈にあった自認である。娘が並外れて美しいことは人を喜ばせるーー父を救う、そのはずだった。
 だけれども、シュファクスは笑わなかったのだ。彼は手先を傷つけた者がするように髪に添えていた手を逃がし、頬を引きつらせた。今度は不思議そうにしてその表情の変化を見守るソフォニスバに気がついたのだろう、浮かべるものを笑みに変えたがそれもどこか苦々しかった。
「そなたは美しい」
 本当は言いたくないのだろうと、ソフォニスバはシュファクスがあまりに重く言うものだから理解するしかなかった。
「そのために私にはそなたを見捨てることだけが、できなくなってしまうのだから」
 シュファクスは彼の体躯からすれば小さく、あまりに軽い妻の肩を抱き寄せる。閉じ込める腕だ。これは、ソフォニスバを逃すまいという腕だ。彼は少女の足にかけられていた鎖を易易と千切り、捨てた。


 お幸せですかと侍女が尋ねた。ソフォニスバが王宮の空気に慣れて生まれ育った屋敷のにおいを忘れ、食事であるとか習慣であるとか、それまでの生活から変化したものたちに親しみを覚えて久しい頃だった。その女はまだ年若く、またカルタゴ人であるが親を亡くしていたので、ソフォニスバは彼女の主人としてこの地で伴侶を探してやるつもりでいた。
「お嬢様が本当に小さくていらっしゃったおりには、夫君となるであろうお方のことばかり聞かせてくださいましたでしょう。お嬢様は本当に夢見るようなご様子で、私どもは……ずっとそんなお顔をなさっていらっしゃればと願っておりました」
「そうだったかしら」
「そうだったのです。ああ、でも、それは本当に短い間のことだったのかもしれません……」
「おまえ、なぜ、そんなふうに尋ねるの」
 父の言った通り、王はソフォニスバを大切にした。疎かにされたと感じたことは一度もなく、他の妻たちに会うことが驚くほど少なかったから、ソフォニスバは自分が王宮でどのように感じ取られているのかについて興味を抱くことがなかったほどだ。
 侍女はすこしの紅を乗せた小指でソフォニスバの唇に触れる。濃い化粧は婚礼の日だけのことで、ソフォニスバは自分の好みとして顔を派手に飾り立てることをしなかった。その睫毛が震え、侍女はどうしてか、膝を握りしめるようにして背を縮こませる。
「マシニッサ様のこと、ご存知ではないのですね」
 ぼんやりと、ソフォニスバはただ青ざめた女の顔を見ていた。驚きもせず、心の動きを表さない主人に、侍女は安堵したがっている執拗さで言葉を続ける。
「あのお方はいまやローマのもと戦っておられます」
「シュファクスさまは王国から追放したと仰ったわ」
「そう、そうでございます。それだからかもしれない、私にもそこまでは知れませぬ。お嬢様、お嬢様の夫君と、あのお方とは、はじめからそのような間柄でいらっしゃった、けれど」
「けれど、なあに」
「けれどーー」
「何も、おまえの心配することはひとつもない。だけど分からないわ。おまえ、何を心配しているの?」
 女は唇と言わず肩と言わず、その身のすべてを震わせるようにして、ソフォニスバの手を握った。慣れ親しんだ手の柔らかさが、湿ったような若い肌の感触が、どうしてかそのときは鬱陶しく思われた。
「悲しくはお思いにならないのですね」
 何が?
 シュファクスは父を裏切ってはいなかった。マサエシュリーの王はカルタゴのそばにあり、ソフォニスバは彼らの誼そのものとしてここに座っている。マシニッサがローマとともにあるのならば、シュファクスは彼と戦うだろう。シュファクスは強い王だ。マシニッサがどのような王子であるか、ソフォニスバは想像しかしたことがない。
 そういうことを言ってやると、安堵しかけていた侍女の面には罅割れのような痛ましさが広がっていった。
 ソフォニスバは、侍女が更に何かを言い立てる前に立ち上がった。膝に乗せていた銀の細い鎖が滑り落ち、指先で遊ばせていた指輪が高く音を立てて床を叩く。訝しげにそれを見上げていた侍女はソフォニスバの視線を追い、驚きそのままに声を上げて何事かを不明瞭に口走りながら、逃げ出すように部屋を出て行った。その様子など見えていないように立ち尽くす王の姿を、ソフォニスバはもっと早く見つけるべきだったかもしれない。
「おかえりなさいませ」
「ああ。……」
 ソフォニスバは軍装を解かないままの彼のほうへ近寄った。すると動かないかと思われたシュファクスが不意に動いて何も言わぬまま妻を抱え上げて褥に入る。それもよくあることであったから、ただ彼の腕や首筋に見える傷が浅く、うっすらとして、けれども鮮やかで新しい血をこびりつかせているのばかりを見ていた。
 見上げる天蓋には刺繍が施されている。星々を信仰するこの民族は、こうして夜空を模したものを見て心を慰めるのだろうかと思う。彼女の肌蹴た胸元に顔を埋めた彼はとくとくと鼓動する音を聞き、ソフォニスバも自分がゆっくりと血を巡らせているのを聞いた。ソフォニスバには子がないままだったし、どうやら、シュファクスを囲む状況というのは芳しくない様子だったが、彼の足が遠のくことはない。
「悲しくは思わないのか」
「何を……?」
「そなたは、本当に何も知らないでいるのだな」
「あなたさまがそう仰るのなら、そうなのかもしれません」
 愚かだと言われている。それが、ソフォニスバには気安めに思えた。投げ出していた手で編まれた髪に触れ、それが以前よりもかさついているのを知った。彼に触れられ彼に触れるとき、そこに自分があるのだということに気づく、それがいつも不思議でならない。
 彼は強い王だーーけれどマシニッサは、もしかすると、彼は、誰よりも強い王となれるかもしれなかった。最後に会った父の疲弊は、王の目に忍び寄る迷いは、そのことを表しているかのようだった。
「シュファクスさま、どうかーー」
 ソフォニスバの夢想に彼はいなかった。いたのはいつも、あの薄い色の瞳をした青年だった。それが彼女の幼い夢、幼い彼女の全てで、それを打ち壊したのはシュファクスではない。だが、違う、違うのだと叫びたかった。熱が駆け巡るのをやり過ごすすべはとうに覚えたはずなのに、夢を思い起こすごとに逃げてしまいたいほど苦しい。
「お見捨てにならないで」
 引き裂かれるようにして絞り出した声が、シュファクスに手を伸ばさせる。自分を抱いてきたその腕をソフォニスバは嫌っていない。だからこの言葉は裏切りではないだろうか、ソフォニスバは答えを出すことを恐れて顔を背けた。
「わたくしを、父を、国を……どうかお守りください、シュファクスさま、どうか……わたくしを、ひとりになさらないで」
 抱き寄せられるより先に、その首に腕を伸ばした。女が息の仕方さえ忘れかけて震えるのを、シュファクスは背を撫でることで宥めようとしていた。それでも足りずにかぶりを振る。
 手を差し伸べる、あの姿を覚えている。ゆっくりと選ばれた言葉のいささかの拙さ、それを恥じて目を逸らす成熟しきらない挟持、あの眼差しを覚えている。だがそれが彼女のいまを、生きるこのときを妨げたことはなかったのだ。彼はきれいな青年だった。彼は優しかった。それだけのことでしかないのに、この思いは途方もない罪悪を噛む心地がする。
 ソフォニスバの祖国は一度、ローマという国に敗北した。多くの領土を失った戦争だったと父は口惜しげに語った。ソフォニスバの祖父もまたその戦場に身を置いていたのだと聞かされていた。シュファクスはマシニッサに優っているだろうか。カルタゴは、ローマに優っているだろうか。いまやそれはまるきり同じこととしてソフォニスバとシュファクスとの間にあり、彼らの狭間の空虚を埋め立てている。
「あなたさましか、わたくしにはいないのです」
 顔を上げたシュファクスが見せた顔は、やはりソフォニスバが知らないものだった。彼は怒り、それに付随しうる惑いに似たものをいっぱいに湛え、口元を震わせた。何が彼から流れ出そうとしていたか、分かりもせずただまっすぐに目を見開いている女の腕を掴み、肌に手を滑らせる。軍馬を駆り槍を振るうとき彼はそういう目をしているのだとはソフォニスバは知らず、その目にはすぐに、ソフォニスバがよく知る色が滲んだ。
「愛している」
 彼の腕の中でそう言われたのが初めてのはずはない。それだのに、叫び声を上げたい狂おしさに襲われてソフォニスバは喘いだ。
「そなたを愛している。だから何も、心配することはない」
 骨の軋む強さ、女が胸を詰まらせる苦しさ。添い遂げるという言葉の持つ安寧と、心許なさ。
 愛していると彼は言った。何度でも惜しむことなく彼は言い、ソフォニスバはそれを聞いた。聞くだけでよいのだと考えていた。座るだけでよく、微笑むだけでよく、腕に迎えられるだけでよかったのだから。
 それなのに、とは、彼は言わなかった。あの苦しげな顔つきでシュファクスは多くを口にしていたが、ならばとは言わなかった。それだけのことで、それが全てであったのだ。


 引き裂かれた女の声が空を劈く。それをソフォニスバは遠く聞いている。
「王が捕らわれたと、それで、ローマ軍が……マシニッサ、さまが」
 侍女はいまにも倒れ伏すのではという顔で、絶え絶えに訴えた。同じことを何度も彼女は言い、ソフォニスバの言葉を乞うていた。どこかで泣く女がいた、それは、ソフォニスバが顔も名も覚えないままの、シュファクスの妻たちに違いなかった。
 殉じなければ辱めを受ける身であればこそ、女たちは初めて剣を取る。勝者の戦利品として見世物となり異国の者共の好奇に汚されるよりも死を、自ら選びうるものがそれだけと知って。
 だがソフォニスバには、そうする必要がなかった。だから侍女はソフォニスバに盛装を進めず、短剣を寄越してくることもなかった。ソフォニスバに仕えてきた侍女や奴隷は小部屋で心細さを胸に詰めて黙り込んでいる。自らの主人がソフォニスバであれば、彼女らにも死を選ぶ理由がないのだ。彼女は、本当は誰のものか。それをみな知っているつもりでいる。
 ローマ軍とマシニッサとに敗れたシュファクスはキルタにまで戻り、その城門で捕らえられたのだと言う。捕虜となった王の姿を見たキルタの民は望みを失って城門を開き、ローマ軍を征服者として迎えた。
 王は自分のもとへ帰ろうとしたのだとソフォニスバは思い、その姿がないことを知っていながら、露台に出た。やや遠く望まれる城壁のあたりにカルタゴの者ではない兵士たちがいた。そのまま目を巡らせる。毎日そうしてきたように美しく飾り立てた彼女の姿を、白々しいまでに鮮やかな太陽が照らし出していた。
 手摺に身を乗り出した主人の肩を、侍女が捉える。身を投げ出すつもりはなかった、だが、そうしてもよかった。
「マシニッサさま……」
 未だあちこちに伸び代を残していた青年はそこにはいない。いるのは、ただただ鋭い眼差しを、高台にいる女へ差し向ける王がひとり。
 王宮の奥に入ったところだった彼は目を瞠る。口元が動き、何事か言おうとしたが、すぐに引き結ばれたのでソフォニスバにはそれが読めなかった。ヌミディア人がみなそうであるのと同じに戦場に出るとしても軽装のまま、ただ王としての威風を負ってマシニッサはそこにいた。彼はすぐに足を踏み出し、ソフォニスバからはその姿が見えなくなる。
 膝から力が抜けた主人の身体を侍女は強く支え、勇気づけようと彼女の名を呼んだ。
「お迎えして差し上げなくてはなりません」
「だけどーー」
「お嬢様、やっとあの方がいらしたのですよ」
「え?」
 愕然として自分を見るソフォニスバの様子に女は気がつかないようだった。侍女が油の染みのように浮かべた笑みにぞっとしてその手から離れようにも、彼女の手はしっかりとソフォニスバに触れていて、逃れられない。
「ずっとお待ちしていたのでしょう」
 このときおそらく、ソフォニスバは選ばなくてはならなかったのだ。笑うか、泣くかを。どちらを待っているのだとみな問うている。答えなくてはいけない。答えは即座に出さなくてはいけない。だが、それだのに、ソフォニスバは凍りついたまま取り繕うこともできないでいた。答えなどどこにも探すあてがなかった。
 助けてくれと訴えるためにシュファクスの王女たちが部屋にやってきたのは、征服者たちの足音が耳に届き始めたのと同じ頃合いのことだった。誰がしの妻となるには幼すぎる容姿の少女たちはソフォニスバの手を取り、額を擦り付けて、声を押し殺し泣いていた。
「……心配なさることはないわ……」
 彼女たちの名前を知らない。嫡出であるか庶出であるかも知らない。シュファクスの子のうちソフォニスバが名を知るのは、この王宮を継ぐべき王子ただひとりでしかなかった。
「慈悲深き方であるはずだもの、そう、泣くことはないのよ」
 何も知らないのにそう慰めると、王女たちは何度も何度も頷き、彼女らの乳母に抱き寄せられて袖で顔を覆い隠す。それからソフォニスバは誰が促すより早く部屋を出ることにした。誰にも追いつかれぬよう、足を早めた。彼女の姿を見つけると王の臣も右往左往するばかりの奴隷も、ひどく顔を歪ませる。それらと目を合わせることなど考えもつかずにソフォニスバが向かったのは、王座である。
 婚礼の日に一度だけその傍らに腰掛けた。ソフォニスバは本当に、誰の前に出ることもなく過ごしてきたから、彼女の顔さえ知らぬ者がこの王宮に多くいるはずだった。
 乳母に手を引かれた日、彼女を追う音があった。彼女はこんなふうに足を大きく動かして歩くことができなかった。床に擦れる裾が風雅とは程遠い様子で払われている。自分の身を取り巻くものが騒ぐのばかりが恐ろしかったーーとうに失われたのに、とうに足を繋ぐ鎖は切られたのに、本当はそうではなかったのだ。
 異国の人間と、ヌミディア人ではあれどこの国の生まれではない人間とが、突然現れた女を振り返る。王の間への広く開かれた扉の向こう、そうした人々のうちに、やはりまたその姿を見つけた。
「ソフォニスバ……」
 声に変わりはなかった。駿馬のごとく立つ姿がそこにはあり、彼は迷いなくソフォニスバに歩み寄る。肩を上下させ息を切らし、朱の上っているだろう頬を持て余したままで膝をつこうとした彼女の腕を支えた。覗き込もうとする彼の目から逃れようと身を捩り「お許し下さい」と譫言を繰り返す、ソフォニスバにかけられた声には焦燥があった。
「顔を見せてくれ」
「…………」
「ソフォニスバ、そなたの顔が見たい」
 顔を伏せるだけでなく彼の足元に額をつけてしまえたなら、言葉も出ようと口惜しく思われる。どうかあの王女たちに温情をと、この王宮の者たちに、支配者としての寛容をと。それを口にするためにここまで来たのではなかったのか。
 そろそろとソフォニスバは顔を上げた。目がよく見えないと感じたのは、涙がまなこを曇らせているためだった。
「マシニッサさま」
 呼べば、懐かしい。その目を前にすれば、ここはあの屋敷ではないだろうかと錯覚できてしまう。涙を払うとマシニッサが幽かに微笑っているのが分かり、それが、嬉しい。なぜなのかなどどうでもよかった。ソフォニスバはこの数年を、そうした柔らかな実感のうちに生きてきた。
 どれほどの間、彼がソフォニスバを見つめていたのか。その胸に引き抱かれ、彼の鼓動が速いのに気がつくと、ソフォニスバには縋ることしかできなかった。
 幼い無知を、知らぬおのれをも知らぬ愚かさを、そうあることを許された日々を、それを甘受したあの少女を、マシニッサが愛していたと言うのならば、よかった。あの日見た王族の青年に覚えた微かな高揚を愛と思い恋と思い、焦がれ続けるソフォニスバであったならばよかった。だがソフォニスバは、無垢に見えるほど愚かになりきれなかった。
 掻き抱く腕は力強く、熱い。ひしと離さぬ手の大きさをソフォニスバは肩で知った。何故だろうと思う。この熱はーーあなたは。
「やっとだ」
 掠れた声が誰に向かって絞られているものか、ソフォニスバは抱かれるままにそれを聞いた。
「やっと、そなたを迎えに来ることができた」
「……ソフォニスバは、もう、そのような女ではありませんのに……マシニッサさま、どうかお許し下さい、わたくしは……!」
 喉を灼く声は名を呼ばれ掻き消えてしまう。またソフォニスバの顔を上げさせたマシニッサが浮かべた笑みは優しかった。青ざめて涙を落とす女の懺悔は彼には届かないのだとソフォニスバは知った。
 ただ美しいばかりの女は恐れていたーー彼女はほんとうは誰を待っていたわけでもなかったから。


 婚礼が略式とはいえその日のうちに用意されたことに性急さを読み取るものは多かっただろう。ソフォニスバは涙の乾かぬうちに新たな王に忠誠を誓い、シュファクスの王女たちや王宮の女たちの多くについて寛恕を得ることができた。マシニッサは彼の妻を隠すようにそばから離さず、それが、そのときだけはどうしてか、ソフォニスバには訳が分かってしまったのだった。
 マシニッサの命で婚礼が呆気無いほどに早く終えられてすぐ、ローマの将校がひとりマシニッサの前に現れて、傍らのソフォニスバを見つけて眉を顰めた。
「それはシュファクスの妻だろう」
 多くの言語を学んだソフォニスバには彼のラテン語が少しは解せたから、そっとマシニッサを窺った。若い将校の憂慮には心優しげな色が濃く、ソフォニスバへ向けられる眼差しには憐れみがあった。それでもなお分からないのならばそれは分かりたくないだけのことで、ソフォニスバは分かろうとしていた。
「まさか、先駆けを求めたのは彼女のためか?」
「そなたへの言葉に嘘はない」
「マシニッサ、彼女は……」そこでソフォニスバが彼らの会話を理解しているのを悟って、将校はソフォニスバに対して言った。「あなたはシュファクスの妻であっただけでなく、カルタゴ人なんだ」
 彼らは冷ややかな関係ではないのだと、ソフォニスバは自身に向けられる誠実さを受け入れる。そう深く考えずともマシニッサが舐めたであろう辛酸も、それをローマがどのように拾い上げたのかも、いまならば想像がつく。マシニッサが身を寄せたのがこういう人間のいる場所であることがソフォニスバはほんとうに嬉しく、ほんとうに、悲しかった。
「私の妻でもある者だ」
 妻の手をマシニッサは握り、それ以上は何も言わなかった。将校が納得していないことは明らかだし、マシニッサが彼を納得させようとしていないことも同様だった。口を開かずにソフォニスバがベール越しに目を遣ると、将校はマシニッサが半ばほど背に庇う彼の妻が微かに首を振ったのを見て、「俺はスキピオに隠せない」と言った。
 隠してやりたいと言っているのも同然の言葉だった。将校は、シュファクスや彼の側近たちをローマの将軍のもとに送らねばならないことを伝えにマシニッサのもとへやってきたのだ。マシニッサは長らくの敵である王の身柄について、ただローマの随意にとしか言わず、ソフォニスバを連れて城門までそれらを見送りに出た。どうやらつい少し前まで夫であったひとはすぐそばにいたようだった。
 ソフォニスバの立った場所からは、虜囚たちの姿を見つけることはできなかった。だがシュファクスは、ソフォニスバがいまやマシニッサの妻となっているのを知らぬはずがない。其処此処から注がれるのはそうした視線だったのだとソフォニスバは遅すぎるほどに遅く、恥じることもできぬおのれを知った。
「ローマの将軍とはどのような方でございますか」
 様々な指示や処理に追われたマシニッサがソフォニスバの居室に入ったのはもう夜更けのことで、彼はそこで初めて、疲れきった顔を見せた。
「名を知っているか?」
「……スキピオさま」
「そう。ローマの将軍であるにしては若い、私よりも若い男だ。私は一度彼奴に敗れた……それも知らないのか。ずっとここにいたのだな」
 寝台に投げ出した彼の手足が思っていたよりも細く伸びるのを、衣服を寛げてやりながら意外に思った。マシニッサは星図の刺繍をゆったりと目で追い、時折ソフォニスバを見て、それを向けられるものにだけ分かるように微笑う。
「彼奴の父は私が殺した」
 彼の長い髪を解き、櫛を通そうとしていたソフォニスバは手を止める。父、と呟いた彼女はそのときになって、マシニッサが自分のすぐそばにいることの意味するところに行き着いた。そして彼はヒスパニアにいたのだと、耳にしていて当然のことを初めて聞いたかのように反芻する。
「バルカのもとにいた頃に討ち取った将軍がスキピオの父だとは、長いこと気付かないでいた」
「お怒りを、買いはいたしませんでしたか」
「さあな、彼奴は何も言わぬ。……そなたの父は祖国の怒りを買ったようだが。バルカ家の縁者が将軍位についたそうだ」
「ハスドゥルバルは死にましたか」
「……いいや」
 眠りが追い縋って、ソフォニスバからマシニッサを遠ざけていた。伸ばされた髪、彼らのうちでは珍しくただ一房に編まれたそれはソフォニスバのものと同じくらいに長い。大した引っ掛かりもなくやわく波打つ髪に櫛は容易く通った。寝台の上に散らばるのを見ていると、そこに眠るのが夫であり王であることが、信じられなくなりそうだった。
 父も、シュファクスも、どこか硬さを思わせる男で、ソフォニスバはそれに慣れていたのだろう。そしてかつてのマシニッサの姿は彼らのようになっているものとばかり考えた。けれどそうではなくて、マシニッサは鋭くはあるのにどこか、彼女に近いものを持ったままだった。
 何度も何度も髪を梳かし、彼の身体から装飾の類を取り除いて、別な部屋から彼に合う衣装を探してきても、ソフォニスバのほうには眠りが近づこうともしない。途方に暮れて身動ぎもしないで眠るマシニッサの枕元に戻った彼女はふと、その腰に差されたものに目を留めた。それは無骨な、目立った装飾のひとつもない拵えの短剣で、護身用か何かだと見えた。してはならぬと分かっていても、手を伸ばすのに躊躇いがなかった。
 女の手にも扱える程度の重さがあり、ほんの少しを鞘から抜くと、鏡のようにきらりとした刃が覗く。夜闇の満ちる部屋のなかで、不可思議にそれは光を弾いていた。何度も用いられ、これが幾度も、マシニッサを守ってきたのに違いない。
「気安く抜くものではない」
 喉を空気が抜けるような音がして、ソフォニスバは取り落としかけた剣を咄嗟に鞘に戻した。がちんと鳴ったのにまた驚き強張るのを、薄く目を開けたマシニッサは怒るのでもなく、剣を取り上げる。
「これには毒が塗られている。指先の傷ひとつでも無事では済まぬ毒だ」
「……ごめんなさい……」
「そなたは剣の扱いも知らぬのだろう。ならば、無理をせぬことだ……」
 剣を取り上げられたまま宙に浮いた手を、ソフォニスバは下ろせなかった。微睡みのなかで女を見守る目は、ソフォニスバにはどこか怖いほどに怜悧で、けれども彼女の口元に触れた指先が優しい。
 じわりとまた浮かんだ涙が顔を伏せかけたせいでその手に落ちる。悲しくなくともこのひとを見ているだけで水が溢れ出すのだった。はくつく口を押さえようとすればいっそう急き立てられるようにして嗚咽がこぼれ、ますます背を丸めるソフォニスバの手をマシニッサが引いた。彼に寄り添い身体を横たえると温もりを分け合うようにして頭を抱かれて、彼の衣を濡らすことになってしまった。彼はただ女の小さな身体を抱き寄せるばかりで、それだけだった。
 マシニッサの少しだけ速い呼気に合わせて息をするうち、その夜は眠った。夢は見なかった。それに目覚めたときソフォニスバはひとりきりで、侍女も奴隷も、昨日までは呼びつける前に傅いていたものが遠慮がちに小部屋で小さくなっている。
 衣装を改め、毎日そうしてきたように身を飾るものたちを選ぼうとして、ソフォニスバは侍女の差し出すそれらを退けた。冠もベールも、あらゆる輝くものたちを置いたまま、それらと並んでまた座り込んだ。露台から吹き込む風の孕む熱も、彼女のために敷かれた毛皮の柔らかさも変わらない。何も変わりがないと言ってもよいが、この部屋をひとたび出ればそうではなかった。新たな王には求めることも求められることも多く、それにマシニッサは独力でここまで辿り着いていなかったから、ソフォニスバの夫はその日まるきり姿を見せず、また夜が更けた頃にやってきた。もうソフォニスバを肌身離さずというつもりはないらしかった。
 何をしていたのか尋ねられ、ただ俯く。マシニッサは追及もしないでいくらか酒を口にしたが、度が過ぎるには程遠い杯の数でそれをやめた。
「お休みになられますか」
 酒器を下げさせ、奴隷をみな部屋から出して、ソフォニスバは椅子に浅く座る夫の足元に跪いた。少し考えてから頷くと、決めてしまえば動くのが早くなくては気の済まぬ気性らしい彼はすぐに寝台へ向かう。
 それを追い、天蓋の布を柱に束ねる紐を引き抜いた。四方がそうして布に囲まれると、彼らだけを閉じ込めた小さな箱が出来上がる。誰にも見られることのない小箱だった。マシニッサはソフォニスバがそうしてから自分に近寄るのを、やはり強く求めるでも拒むでもない。
「わたくしをお求めにはならないのですね」
「求めずともそなたはそこにいよう」
「……マシニッサさま、わたくしは愚かなのです。この期に及んで」
 彼の腰にはやはり毒ある剣が差され、ただ見ているぶんには、マシニッサにはソフォニスバをその毒から遠ざけようという緊張がない。ソフォニスバが何に焦っているのか、獣のそれよりもずっと遠くを見通す彼の瞳には映るはずだった。
 だがマシニッサはまたソフォニスバの腕を引き、仰向けの胸に彼女の頭をのせる。
「そなたは憶えているだろうか」
「何を、でございますか……」
「ギスコの屋敷でそなたに会ったのは、一度きりのことではなかった」
「一度きりのことしか、憶えておりませぬ」
「そうだろう、本当に小さかったのだから。私が人質としてカルタゴにあった頃にそなたは生まれたのだ、そなたの父は生き延びるかもわからぬ脆い赤子を私にくださると言い、その話を土産に帰郷することを許した」
 ソフォニスバはその様を想像する。顔ではなく胸の柔らかさ、腕の温もりだけを憶えている母が、このひとに自分を示して微笑うのを。
「それからいくらかして、またそなたに会った。よく笑う娘だと思ったものだ」
 口元で握りしめた手をじっと見つめ、マシニッサの手が髪を撫で付けて流れるのをまるで幼子のように享受した。彼の裡には彼女自らでさえ知らぬソフォニスバが住んでいるのだ。彼の言葉を介して、忘れきっていたそうした日々は彼女に歩み寄る。
「そなたを愛おしく思うのは、懐かしむのと似ている」
「あなたさまは、それだけのことで」露台から吹き込む夜風が布を叩き、乗ったこともないのに船のようだと思う。「……それだけのことで、わたくしをおそばに?」
 死を選べなかった妻妾が連れ去られていったのを、王子たちがひとつの部屋に閉じ込められているのを、ソフォニスバは侍女から聞かされて知っている。誰の目にも、ソフォニスバだけが新しい王の庇護によってあらゆる姿の鎖から免れているように見えている。
 ーーそうだ、と彼が言う。息つくような微かな声だった。すると彼の思うところが不意に、けれども神の意を受けるように疑いようもなく、ソフォニスバには感じ取ることができた。身を起こして額を触れ合わせる。落ちる髪がいっそう彼らを狭く閉じ込める距離で、彼女は目を細めた。
「そなたには、すまぬことをした……」
「いいえ。ソフォニスバは嬉しゅうございます」
 今朝は彼の髪を編み直してやれなかったことが気にかかり、この夜が明けたなら櫛を取ろうとソフォニスバは決めた。彼女の若草色の瞳ばかりを映し出す瞳が白む空よりもずっと柔らかく、涙のないその目元にくちづけると、彼がほんとうにーーそれまで彼は張り詰めていたのだと知れる、いとけないほどの力なさで笑んだ。
 彼が瞼を下ろすよりも先にソフォニスバはまた彼に寄り添い、きつく、開かぬよう祈りながら目を閉じる。夜は無慈悲にも短く、夜明けは遠ざけるのに際限がない。それでも拍動だけに耳を澄ませた。彼女が眠りに沈むまで、マシニッサはずっと目を閉じずにいたようだった。


 瓶は海よりも濃い青をして、そのうちに満ちる水までも青いのかとソフォニスバに思わせる。それを差し出した少年の手のひどい震え、いまにもこれを取り上げて逃げ出してしまいそうな悲愴を前にして、ソフォニスバは両手にそれを仕舞いこむ。
「伯父上がーー王が、御自身でお選びになるようにと」
 少年の名はマッシワといった。マシニッサの実の甥である秀麗な少年はその心根もまた高貴なのだろう。人払いをして王妃の部屋に入ったとき、はじめて目にしたはずのソフォニスバがただ端然と椅子に佇むのを見て、彼はもう泣き始めていた。
 マシニッサがキルタからローマの将軍のいる堡塁へと向かったのはつい先程のことだったが、マッシワはその堡塁からここにやってきたらしい。彼らの駆る馬の速さが、いまは彼らにとっては恨めしいのだろう。ソフォニスバが椅子を勧めるのも聞かず、また彼女が立ち上がるのも拒んで、マッシワは罰を受ける顔で立ち尽くしていた。
「シュファクス王はあなたのことを罵っておられた」
 敗将としてスキピオの眼前に引き出された王の言葉を、彼は幼く掠れる声で繰り返そうとして、我慢ならずかぶりを振る。
「あなたに誑かされた、そのおのれを責めるとまで、言ったのです。だからどうかソフォニスバ殿、どうか……」
「よろしいのです」
 カルタゴの姦婦、おのが妻を、虜囚の身に落とせとシュファクスはスキピオに訴えたのだ。彼がソフォニスバを手放そうとはしなかった。その報せが、ソフォニスバに静けさを与えた。彼は諦めなかったのだと知れた。そしてここにはあの短剣が纏うのと同じであろう毒がある。ソフォニスバは、誰にも手放されてなどいない。
 この日は風が吹かない。慌ただしくとも構わない王宮は静かで、誰も叫んでなどいなかった。
「どうか、泣かないでくださいまし。これでよろしいのです」
 少年がいやいやをして彼の外套を握りしめる。王族とはいえそれは、見事な品でありすぎるように思われた。長い睫毛に涙をため、時折ソフォニスバを見てはすぐにその円い目を逸らす、これではあまりにかわいそうだとソフォニスバは彼を哀れんだ。
「ぼくは、一度捕虜となったところをスキピオ殿に救われた身です。王にローマとの絆をと訴えたのはぼくなのです。おふたりとも本当にお優しく、強いお方だと思ってきた……」
「それは間違いではございません、マッシワさま、思い違いなどあなたはなさっておりませぬ」
「理由は、ぼくにだって分かります、でも!」
「なぜいまなのでございましょうね」
 マッシワには、スキピオがマシニッサに返すだけの価値があった。かつてソフォニスバがそうであったのと同じだ、彼はその外套や、きっと様々な光輝とともに、マシニッサに贈られたのだろう。
 ひく、とマッシワが喉を鳴らした。高貴なる少年のもたらしたのがこの瓶でなく、あの短剣であったなら、ソフォニスバはこうも落ち着いていられなかったかもしれない。彼女は刃を自分の身を守るために振るうすべさえ持たず、刃が身を刺す痛みなど、耐えようのないほど恐ろしかった。もしかするとどこを突くべきかも分からずマッシワに命を絶つ情けを醜くも乞うたーーそれをせずに済んだ。マシニッサは、そこまでの苦をソフォニスバにも、彼の甥にも課さなかった。
 少し揺らしてみれば、小さな瓶のなかで、あまりに少ない毒が踊る。この部屋にはソフォニスバに贈られたあらゆる宝が輝いている。みな毎日磨かれて、あるじの身を飾るそのときを待っていた。
「どうか、お伝え下さい」
 いまさっき知ったばかりの少年が誰よりも身近に思われて、ソフォニスバはなるたけ優しく言った。
「結婚の贈り物はお受けいたします。夫から妻へ、これより素晴らしい贈り物はございません。ただ……もしも、葬儀のときに結ばれるのではなかったら、わたくしはもっとたやすく死ねましたものを」
 本当は問わずとも知っている。ソフォニスバはもう彼女の受け取るべきすべての贈り物を手にしてきたのだから。マッシワが顔を背けようとして、それを自らに許せずにソフォニスバに相対する。この勇気が愛されるべきだとソフォニスバは、瓶の封を切りながら誰のためでなく祈った。
「よろしいのです」と彼女は繰り返し、まだ涙を落としている少年にだけ、秘密を打ち明けようという気になった。瓶の口は小さく、流れこむ毒は、とろりとして甘い。
「だってわたくしは、どなたにもまごころを尽くしてはこなかった……」
 眠りはすでにソフォニスバに送り届けられていた。だから彼女はこれが眠りとは違うことを、間違いようもない。瓶がその手を滑り落ち、傾いだ彼女を支えた腕があった。それが誰によって伸ばされたのか、とうとう彼女は知ることがなかった。

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