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去る日に告ぐ

 この男はこれほどに美しかっただろうか。
 誰も知る由のないことだが、そのとき、彼らは同じことを思って互いの顔を見ていた。膝をつき見上げるマシニッサも、まっすぐに立ちそれを見下ろすスキピオも、見知らぬ影をわずかに互いの相貌に見て取ったのだった。
「……もはや我が槍は、貴殿の求めるほどのものではないかもしれない」
 父が遺したはずの王位をその手から取り零した男の声は、ひたすらに伏して機を待つばかりだったその有様と比べるとあまりに厳かで、あまりに、凛として響く。将軍とアフリカ人とのやり取りを見守るローマ人たちは、彼が王子を名乗るのを不思議に思わなかった。
 かつてヒスパニアでマシニッサはスキピオに敗れた。スキピオにより新カルタゴを陥れられ、彼の属したカルタゴ軍が敗走を繰り返したとき、おのれの民のため戦っているマシニッサがスキピオと会うことを望んだのは当然だった。バルカ家の指揮官とともに入ったガデスから抜け出し、密かに自分を訪ねたマシニッサに、スキピオは問うたのだ。あなたは王かと。
 王たらんとする、王たる者ならば必ず迎え入れる。独断を避けて即座の協力を約せなかったマシニッサにスキピオはそう告げていた。
 そしていま、血族に謀られ長らくの仇敵であるシュファクスに国を追われ、マシニッサにはもはや独力で王となる道が残されていないに等しい。だが、と彼は青年を見上げる。若草色の瞳に魔物じみた力を覚え、それに抗いながら。
「私を王にしてほしい」
 このようなことを言わなくてはならない男を、待ってはいなかっただろう。自嘲混じりにそう続けないではいられなかったマシニッサにスキピオははっきりと言った。
「いいえ」
 そして微笑む。柔らかく、思わず解けてしまったというように、これ以上なく鮮やかに。
「僕はあなたを待っていた、マシニッサ」
 差し伸べられた腕がマシニッサを立たせる。スキピオが、安心なさいとマシニッサの背後に向けて言った。この苦境にあって主人から離れることのなかった臣下たちが感極まったようにこの若い将軍を跪拝する。
 スキピオの背後では彼の副官が朗らかな様子でマシニッサを見つめていた。潜伏しつつローマ軍を待っていたマシニッサを小シルティスの岸辺で拾い、スキピオのもとへ連れ帰ったのが艦隊を率いるこのラエリウスだった。安心しろよ、と彼は口数の少ないヌミディア人に言い、いま、言った通りだろうと笑いかける。
 その心地よい親しみに同様のやり方で応える余裕というものがマシニッサにはなかったが、スキピオにもラエリウスにもそれがよく分かっていた。彼らには他者を慮り寛容を示すだけの力があった、ーー勝利へと踏み出している者として。


 マシニッサがスキピオという名を知ったのは、ハスドゥルバル・バルカによりヒスパニアのカルタゴ軍に加えられた頃だった。そのとき知った名の主は兄弟でヒスパニア戦線を担う将軍であり、彼らはスキピオの父と伯父であった。
 そして恐らくーー恐らくと言わなくてはならないがーーマシニッサが殺したのが、スキピオの父なのだ。同じ色の目をしていたから、似通った父子であったのだろう。
 スキピオ兄弟の死ののち、ヒスパニア戦線はいくらかカルタゴ軍の優勢を保った。それは思い返せばほんの短い間のことだった。何しろ将軍二名を喪ったローマ軍が新たに得た指揮官は、父と伯父の仇討ちを誓った若者であったのだ。
 誰も予測し得ない速度でスキピオは物事を進めた。ヒスパニアにおけるカルタゴ勢力の本拠地新カルタゴの陥落、カルタゴ人により取られていた人質へのスキピオの温情を知って、多くのヒスパニア貴族が彼のもとへ走った。
 趨勢を見極めよと言うならば、完全にそれは決していたのだ。マシニッサは自分を送り出した父王の望むところを思っては思案したが、それを誰にも明かさないでいた。彼は幼い頃をカルタゴで人質として過ごした、彼にはカルタゴ人の婚約者がいた、しかし彼はマッシュリーの王の子であり、臣民を担う役目を負った人間であった。
「ーーとてもお優しく、親切な方でした」
 バエクラにおける戦いでローマ軍の捕虜となったにも関わらず、贈り物を添えられてマシニッサのもとへ戻ってきたマッシワは、まるで夢を見ているような顔で言った。
「伝え聞く通りお若いのです。溌剌として、どこか子供らしささえ残っているような……」
 彼はいくらかの手傷を負っていたがみな丁寧に手当され、寝台に腰掛ける様子に危うげなところはない。マシニッサが武装を解かないまま自分の前に立ったとき、マッシワはまず自らの無事を報告した。彼の人は傷の心配さえしてくださったのだと。
 スキピオから贈られた豪奢と言ってよいほどの品々のなかには、少年に過ぎないマッシワにはそぐわないものもあった。大人が身につければちょうどよいだろうという腕輪が、まるでマシニッサに差し向けられているように輝いている。
 マッシワは伯父に対して延々とスキピオについて語っていたが、返答の乏しいのに気付くとぴたりと口を閉じた。
 この甥はまだ戦場に出るには幼く、ただ経験を積むためにとマシニッサに預けられていたが、気が逸って伯父の許しなしに戦いに参加した。そのさなかでローマ軍に捕らえられ、しかしその容貌と佇まいとが目に留まったものか、自ら身の上を語ったものか、スキピオは少年がマシニッサの縁者と知り、生かして返したのだった。
 本を正せば自分の逸りが発端である、と、沈黙によってマッシワは思い出したらしい。高揚していた頬から血の気が引く。幕舎にマシニッサと二人きりであるのが珍しくもなく、それを大して苦と思ってこなかったものを、今このときは針の筵に座らされたという顔になった。
「……それで、スキピオはそなたに何と言った」
「あの……あの、軍のことなどは何も問われなかったのです、伯父上のことは多少……ぼくは何か機密を漏らすとか、そういうことは決して、」
「何を頼まれた?」
「…………」
 震える指先をこすり合わせながら、マッシワは縋るような目をしてマシニッサを見た。
「お話を、してみたいと……そう仰っていました。伯父上は立派な方なのだと本当に信じていただきたくて、ぼくが知っている些細なことをお話したら……」
「些細なこと?」
「軍に関わることではないのです! ただ、ぼくにどう接してくださるかとか、馬をどう扱うかとか」
 マッシワは戦士に憧れる少年だった。いままさに英雄とならんとする者には、なるほど弱いだろうと思えた。
「伯父上……!」
 怒らないでくれ、叱責は嫌だ、と言って、乞うのではなかった。マッシワはマシニッサがスキピオを好ましく思わないことにひどく衝撃を受け、それに抵抗を試みていた。
 もはや無垢なばかりの子供のそれではなくなった手が伸ばされるのを避け、マシニッサは甥に言葉をかけないまま幕舎を出る。
 ーー息子の名を。あの将軍が今際の際にうわ言のように口にしたのは、彼の長子の名だった。刃を振り下ろしたときマシニッサはただ命じられた仕事を、その性向として昂る血に任せて成し遂げたのに過ぎなかった。精細に思い出すことができるほうが不思議なのだ。それほどの関心を、長く抱かなかった。
 その息子が、甘やかな誘惑を無邪気な少年に担わせたことが。結局のところ自らと自らの民とはそれを当然と思う何者かにより扱われ、購われるに過ぎないことが。ーーかえってそれらの事実はマシニッサにとってよい方向に働くだろう、と結論付ける自らが、目を覆いたくなるほどに耐え難く感じた。
 怜悧に現状を見据え、必要と不要とを知る目をマシニッサはそのときには養っていた。青臭い嫌悪はとうに飼い慣らされていたのに、その瞬間には手綱を握ることができなかったのだ。
 その後ハスドゥルバルがアルプスを越え、その先で殺され、ヒスパニアに残されたカルタゴ軍はなおもスキピオに敗北を喫し続けた。ガデスまで後退した軍勢から、マシニッサは誰に悟られることもなく手勢を連れ姿を消した。


 スキピオがシキリアで育てた軍勢を率いアフリカ、ウティカ付近に上陸すると、マシニッサもそこに加わった。他ならぬこの地での戦いのためにこそローマ軍に身を投じたのだという態度を隠さない彼をスキピオは咎めず、むしろ頼りにしていると頻りに言って、地理などの情報をマシニッサに求めることが多くあった。
 カルタゴ軍に様々な風貌の者たちが混在していたのに比べると、ローマ軍内に身をおくことははっきりと自分が余所者だとマシニッサに感じさせた。夜更け、規律正しく夜警に立つ兵士たちが陣営内を歩くヌミディア人をちらと見ては、あれは違うのだったと気を取り直すのを見るときなど、そうだ。
 本来なら眠りに充てるべき時間に、マシニッサは時折天幕を抜け出すことがある。そうしていつも愛馬のもとへ向かう主に同じ天幕を使う従者たちは何も言わないでいた。
 ヌミディア人の騎馬のうちでも最も見事な一頭がマシニッサの愛馬であった。彼の騎馬そのものはその他にもいくらかあり、戦場では乗り換えつつ戦うものだったが、彼が特別なものと認めるのは青毛のその一頭だけだった。名を呼ぶまでもなくマシニッサの足音に耳をそばだて、物静かな目を向ける。
 胸に押し付けられる頭を抱いて首を叩いても、まだ納得しないというように動かないので、いつもしばらく鬣を撫でるなどしていた。従者がよく手入れする艶やかな毛並みが、月明かりにほの暗く光を帯びる。
 乳母の庇護を必要としなくなるよりも先に馬に親しんできた。兄弟のように思うものもあれば、子のように、あるいは親のように思うものもあり、あるいは人間に対するよりも率直に慈しめるのが彼らだ。人馬は心が通ずると信じるマシニッサを、彼らが駆ける姿を見た者たちは誰も笑わなかった。
 ふいに、馬の気が漫ろになった気配を感じてマシニッサは顔を上げる。
「……どうした?」
 動きこそしないが、何かを気にしている。それは警戒ではなく恐れでもなく……期待?
 あたりを見回しかけて、すぐに原因を見つけた。軍靴で砂を擦る音ひとつ立てず歩く、ほっそりとした青年の姿。軍装を解き、彼も眠りにつくべき時間を無為に浪費しているのだと分かる無防備さで、スキピオが歩いていた。
 行き先がはっきりと決まっているようにはとても見えない。マシニッサは強すぎると言われる眼差しでその姿を追った。陣営の外を目指すでもなく、誰かを訪ねるのでもなくただゆっくりと歩き、時折すれ違う兵士たちはどうしてか、彼に気が付かない。
 月と同じ色で風にそよぐ髪が、鬣のように思えた一瞬。彼は幽鬼のようではなく、この世に足をつけた人間のようでもなく。伏せられた睫毛の影で新緑の瞳が夜暗を手繰る。
 マシニッサはその横顔に、我知らず思い出すものがあった。思い出すまいとするまでもなく頭の片隅に置くばかりだった少女、記憶のなかではほんの幼い子供でしかない、美しく成長したと伝え聞くーーもはや彼のものではない女のことだった。
 スキピオはこちらに気が付かないまま、変わりない足取りでゆらゆらと視界から消えた。マシニッサはそれを追わなかったが、馬が彼の手を嫌がるように首を反らす。
 ああ、と意味のない相槌を打ち、マシニッサは一歩を引く。今となってはさざめいているのが馬ではなく自分だと、このように咎められて認めないわけにいかなかった。途方に暮れたように動かない主人に馬は慰めるような仕草もしないで、それがかえって心地良いばかりだ。
「ああ、そうか……」
 美しいものは好きかと問うた男のことを思い出し、それに肯いた自分を思い出す。苛立ちがともに蘇る。美しいもの、得難いもの、触れられぬもの、失われたもの。
 彼はこれから、いくらかを得るだろう。多くを取り戻すだろう。そうして永久に失うものがあり、それに一生をかけて焦れなくてはならないだろう。スキピオのもとを選ぶということは、彼という男ひとりにとってはそういうことに他ならなかった。
 マシニッサは、これから勝利を掴むだろう自分を思う。正しく運を見定めたはずの自分を見る。その輝きにいっそう深まる断絶、おのれの影と同じ形をした喪失を……。
 それだからスキピオを好きになれないのだと、最後に結論めいて考えたのはそんなことだった。


「眠れなかったのか?」
 だしぬけにそう言われ、思わず否定せず頷いたマシニッサにラエリウスは少し眉を寄せた。小さな声で、揃いも揃って、と呟く。
 スキピオに劣らぬほど多忙な副官が、どのようにしてか時間を作って自分を構うのを、マシニッサは彼がそれを自分の仕事のひとつにしているのだろうと思っていた。ともに騎兵の調練を行い、その流れで共に夕食をとこの男に誘われることが多い。
 しかしそれも実のところ、マシニッサが時間を惜しんで立ったまま、時に歩きながら最低限の粗末な食事をすませるのを見かけ、驚きを露わにしてからのことだった。だから彼の性格のなせることなのだろうかとも思う。
 自分の幕舎にマシニッサを招き入れ、従者に食事の準備を指図しながら、気取りのないやり方でラエリウスは相手の外套を預かる。
「マシニッサは欠伸をしまくるでもなし、全然いいな、まだ」
「……スキピオの話か?」
「ああ、あいつ自分が開いた軍議でなんべんも……今朝はお前もいたっけ」
 朝方の軍議ならば、参加していた。しかしラエリウスが言うように目に余るほどの態度をスキピオが取っているとは思わなかった。
 ラエリウスはスキピオのような貴族の出ではなく、高度な教育を受けたわけでもないと言い、確かにそうなのだろうと思わせる振る舞いをする。しかし、マシニッサはそれでこの男を軽んずる気にはならなかった。
 ただ単にそれは彼が砕けた物言いでマシニッサに接し、スキピオに接し、かえって将校たちに対する方が丁寧なやり方になるのが好ましいからかもしれない。マシニッサは彼に弟か妹がいるのかと尋ねたことがあったが、弟でも妹でもないのに世話を焼かねばならない厄介な友人しかいない、と返された。
 上等な方の椅子をいつも譲られるのでもう断ることなくそこに座る。せかせかと動き回るラエリウスが卓に落ち着くにはまだいくらかかかるとも、既に学んでいた。
「昨晩……」聞こえるとも思えない声で言ったものに返事があった。「……夜中にスキピオを見た。私は馬の様子を見に出ていたのだが」
「ああ、また徘徊してたんだ」
「徘徊か。心ここにあらずといった様子だったが珍しくもないのだな」
「そうだなあ、小さい頃からよく夜中にうろついてたからな。ローマにいる頃はやたらと神殿に入り浸ってさ、噂じゃユピテルと相談しているんだとか、なんとか」
「そなたはそれを信じていないらしい」
 ぱっと振り返ったときには真顔だったが、すぐに人好きのする笑みを浮かべてしょうがないだろうとラエリウスは軽く言った。
「ガキの頃から知ってるんだからさ」
「信じればこそあれのそばを離れなかったのだろうと、思う向きもあろう」
「……なんだ、今日はスキピオの話をしてもいいのか? いつもはあんまり喜ばないじゃないか?」
「いいや。私はそなたの話しかしていない」
 スキピオが若ければ、彼と同じ年頃の親友であるラエリウスも若い。椅子に腰掛けて手を拭いながら、どこか落ち着かなさそうにする様子には装いを知らない青さのようなものが見えた。
「俺は別に、あいつが神々と話をしていてもしていなくても、未来を知ってても知ってなくても、いいさ。あいつに頼まれると断れなくってここまで来たみたいなもんだから」
 そうして暖かな眼差しを過去へ、未来へ、そしてたったいまこのときへと向ける青年を通してみれば、スキピオもただの若者のひとりだった。軍内にはあの若くきらきらしい将軍に不可思議な力があると信じる空気があり、兵士たちの信奉は実際の有能さにも勝ってそれにより深まってさえいるというのに。
 食事が始まると、話題はごく自然に軍事へと移っていった。アフリカへ渡ったスキピオがまず着手したウティカ攻囲は、それ自体は問題なく進行していたが、シュファクスからの使いがやって来たのだとラエリウスがマシニッサに知らせたのはいくらか前のことだった。
 マサエシュリーの強大なる王、マシニッサの仇敵たる男は、未だローマとカルタゴの橋渡し役となることを諦めきっていないらしい。和解交渉を持ちかけ、スキピオはそれに乗り気である、ふりをしている。
 シュファクスについて、ローマははっきりと敵であるとは言えない。かつてシュファクスの宮廷で王のはからいによりスキピオはカルタゴ貴族ハスドゥルバル・ギスコと寝椅子を共にして食事をした。そのギスコの娘がシュファクスに与えられたこと、まさかスキピオは知らないと、かの王が考えるはずもなかったが。
「スキピオはシュファクスの勧めに従う気はない。近く襲撃をかけるつもりでいる」
 シュファクスとギスコとを破る、これはまず前提になっていた。マシニッサはじっと、ローマ軍の狙いと作戦とに耳を傾けながら、シュファクスの支配する領域を思い起こしている。
「スキピオはカルタゴへ進む。マシニッサは西方……ヌミディアへ。まあここまでは分かってただろうが、加えてスキピオは俺と俺の麾下とをお前に貸すと言ってる」
 心強いだろうと冗談めかして言い、ラエリウスは話すうちに止まっていた手を動かし始めた。マシニッサが半ばほど残ったままの食事を前に動かないのをどう言うでもなく、しかし観察する目つきをしている。
 彼に期待されているような昂揚はなく、どこか、空恐ろしいものに近づいている気がした。夜闇に浮かぶあの瞳を思い出し、か細い鎖がぶつかり合う軽い音を遠くに聞く。
「シュファクスの王宮には……」
 キルタには、何があるか。マシニッサは言い切らないまま口を閉ざした。


 事はスキピオの思惑通りにーーいつものようにーー着実に進んだ。スキピオの和解交渉への意欲を信じていたシュファクスと彼からそれを聞かされていたギスコとは、ローマ軍による急襲に対応しきれず敗走し、カルタゴではギスコに代わって新たな将軍が選ばれた。バルカ家の縁者、ハンニバルの甥であるという。
 マシニッサはシュファクスを追った。祖国に帰還した、とも言えた。
 河畔でのシュファクスの軍勢との戦いで感じたのは、曇りなく戦場が見えるということだった。どうすればいいのか分かるというのではなく、どうなってゆくのかが、分かる。自分は勝つだろう、勝っているだろうと知っている。
 ーーヌミディア騎兵が全力で駆ければローマ騎兵はついていくことができない。敗走するシュファクスを追ったのは当初はより多くの者たちだったが、追いついた時にはマシニッサとその手勢だけになっていた。
 王を守らんとする兵を切り捨て、蹴落とし、配下が開く道をマシニッサは走った。向かい来る刃がマシニッサを傷つけることは一度もなかったが、彼の前を遮ろうとした者たちは死んでゆくのだった。そういう戦いがあるのだ。スキピオは、あるいはハンニバルは、よくよく知っているのだろう流れが。
「シュファクスッ!」
 怒号に、王の側近がこちらを振り返る。若造と侮り、あるいは青二才と嘲ったマッシュリーの王子の顔を見て、その男の顔は恐れに歪んだ。
 槍を構え直したマシニッサの前で不意に、シュファクスの騎馬が姿勢を崩した。全力での疾走に耐えられなかったものか、何かに躓いたものか、あるいは……。その馬の背から投げ出された男は機敏に立ち上がろうとしたが、マシニッサが追いつく方が余程速かった。
 引き返してきた側近たちがマシニッサの配下に屠られるのをシュファクスは瞠った目で見届けた。彼が自らへ突きつけられる切っ先に目を転じたのはその後だった。
 荒く息を吐くのはどちらも同じ、互いの目を見て吹き荒れるような怒りに脳天から貫かれる気がしたのも同じだ。しかし、やはりマシニッサの方がそこから持ち直して深く長く息を吐いた。殺さず捕らえよと、命ぜられている。
 シュファクスから武具を取り上げ、腕を縛り上げるよう命じ、ローマ軍が追いつくのを待つ。不可解な静けさがあたりに立ち込め、こんなにも、と思わせる。待ちわびたものほどこんなにも呆気ない。
「私の負けか……」
 私の、カルタゴの。シュファクスは呟き、勇壮さを表した額に皺を寄せる。彼は自分が向かおうとしていた方角ーー目前に迫ったキルタを、そこにひとりの女の姿を探し求めるように見つめ、もはやマシニッサを見なかった。
 マサエシュリーの都キルタは虜囚となった王の姿を認め、事態をよりよくすることが自らにできないと認め、その門を開いた。そしてキルタの人々は、またマシニッサの配下は、彼が誰かを探しているものと信じて、王宮に入ったマシニッサを見守っていた。
 自らの生まれ育った王宮よりもよほど見事なシュファクスの王宮は、痛いほどの静寂とそれを破らんとする悲鳴にかき乱されている。マシニッサに訴えるべき事柄を持つ者たちが機を窺い、ローマ兵が歩き回るのいかにも嫌そうに顔をそむける。揺れ動くばかりで身の置き場をなくした者たちのなかに、その女は飛び込んできた。
 王の間はその一瞬で彼らへの関心へと大きな波に押し流される。マシニッサは、自らもその波のなかで、一心に自分を見つめる双眸を見据えた。
「ソフォニスバ……」
 息を切らしいまにも崩折れそうに細い手足を震わせながら、彼女はこぼれ落ちんばかりに大きな瞳を涙に濡らしていた。
 マシニッサが足を踏み出すのを見てソフォニスバが怯えるようにほんの少し足を引き、しかし踏みとどまる。額ずこうと膝を折った彼女の腕をマシニッサはしっかと支え、その顔を見ようとした。
 お許しを、とソフォニスバが譫言のように口にする。
「お許し下さい、お許しを、どうか、お許し下さい……」
「顔を見せてくれ」
「…………」
「ソフォニスバ、そなたの顔が見たい」
 逡巡ののち、そろそろと上げられた顔は青褪めていた。彼女が果てのない恐怖に駆られてここにやって来たことは明らかだったが、マシニッサには何もかもが惜しく、それを和らげる暇がなかった。
 この女の顔を見たのは、これまでに二度きりだった。母親に抱かれた赤子を許嫁としてやろうと言われ、物心ついた彼女に婚約について教えるために彼女の父に招かれた、それきりだ。マシニッサはあの少女がこれほど美しく育とうとは思わなかったし、たったひとりの女だけを妻とするのではない彼の身上からして、ソフォニスバはその血によって他よりも大切だというのに過ぎなかった。
 それが、なぜ。何故こうまでも。涼やかな声にか細く名を呼ばれ、彼はソフォニスバを掻き抱く。この顔を見られたのではーー哀れだと。
「やっとだ、やっと、……そなたを迎えに来ることができた」
 マシニッサが得るはずの女だった。彼に与えられたはずの、彼から奪われた、そして彼がまたこの手にした、それが彼女だった。父ガイアが婚約を喜び、人質として差し出さざるを得なかった我が子の受ける厚遇を喜びーーそのようなことばかり、他ならぬソフォニスバが思い出させる。
 ーー手綱に捕らわれぬ馬が駆ける、おのが道と見た方へ駆け抜け、その先があるものと信じ、いつまでも駆けていられるものと信じて。吹き上がる風ばかりが心地いいと。
 マシニッサは既に、いいや初めから、なにものにも操られぬ駿馬ではない。そうでなくては、ソフォニスバの顔を三度見ることは叶わなかっただろう。
 微笑みかけると、ソフォニスバはますます嗚咽して頬を濡らした。


 何度も何度も、櫛を使ってマシニッサの髪を梳き、ソフォニスバは時折息を落とした。疲れ倦んだものではなくうっとりとした、満ち足りて溢れたといった吐息。
 共に眠り、マシニッサよりも先に目を覚まして彼の目覚めを待っていたソフォニスバは、朝の挨拶もそこそこに待ちきれないと言った様子で彼の髪に手を伸ばしたのだった。
 見事な毛皮の上に座り込んだ彼らの周りにはいくつも髪飾りなどの宝飾が散らばっていた。みなソフォニスバが与えられた物で、いまマシニッサの髪を慈しむその櫛もそのひとつに他ならなかった。彼女はそれらを気に入っているように見えなかったが、触れる手先は優しく、どれも磨かれて輝いていた。
 よく晴れた朝の日差しとともに少し強い風が彼女の部屋に入り込み、時折化粧台に吊るされた首飾りを揺らす。ちりちりと軽やかに響く音を、ソフォニスバが知らぬふりをするのでマシニッサも同じようにしていた。
「二度目にお会いしたときにも、こうさせてくださいましたね」
 香油を手のひらに広げ髪に塗りながら、楽しげに言う。再会したその日のうちに婚礼を挙げてからの数日、ふとした拍子に涙しては言葉を失っていた女とは思えないほど、明るく。
「あのときは御髪を台無しにしてしまいました、じょうずに編めなくて……」
「そなたが解くなと言うせいで、私はあのままで帰る羽目になった」
「ええ、……ふふ」
 いまも上手ではないけれど、そう言いながらも手際よく、髪を三束に分ける。どの髪留めがいいかと問われ、どれでもいいと言えばどれかひとつを選んでおくよう念を押された。ただ縛るだけでも構わないのだが、そう思いながら目だけを動かしてなるたけ華美でないものを探した。
 ソフォニスバは急ぐ素振りも、ことさらにゆったりとした素振りもなく、髪を編んでゆく。一度くらい、と彼女は言った。
「奴隷に任せるばかりでなく、一度くらい、あなたさまのお世話をしてみたかったのです」
「着替えなど、手助けしてくれていたように思うが」
「お手伝いのお手伝いくらいのものでしたわ。かえって彼女らの仕事を増やしてしまうんです、いつも……髪留め、お決まりになりまして?」
 宝石を避けてマシニッサが銀細工を指差すと、ソフォニスバはしばらく手に取ったそれを眺めていた。
「いつ頂いたのだったかしら……」
 薄情な呟きを聞き流し、どうやらただ三つ編みを垂らすのでは満足しないらしい手を好きにさせた。輪を作るようにして三つ編みの根元と先端とを結び合わせて、そこに銀細工を添える。
 またしばらく、口を噤んでソフォニスバはじっと自分の編んだ髪を眺めた。
「……満足か?」
「ええ、とっても……とっても、満足いたしました」
 振り返ったマシニッサに、彼女はにっこりと笑んでみせた。それは世に聞こた美女のそれというより、マシニッサの知る娘の破顔だった。
 伸ばした手で、侍女たちによく世話された彼女の赤い髪に触れる。化粧を施していない頬に、とくとくと脈のある首筋に触れ、細められた目のそばを撫でた。白く柔らかなばかりの肌が血を透かして生き生きと輝き、光を集める瞳が燃えるごとく揺れ、息づいている。
 じっと大人しくしていると思われたソフォニスバが不意に腰を上げ、マシニッサの首に腕を回した。薄衣のさらさらとした肌触りが頬をかすめ、また溢れた吐息を耳元に聞く。
「あなたさまはとても美しいと、それを忘れたことはありませんでした」
 国ひとつ容易く傾ける女の赤い唇が震え、引き結ばれる。彼女はそれ以上何を言うことも叶わずに、立ち上がったマシニッサを幾度も幾度も目を瞬かせながら見上げた。膝の上で薄い衣を握りしめる手をもういちど握っておけばよかったと、彼女に背を向けて部屋を出たときになってマシニッサは思った。


 早足に陣営を突っ切っていくマシニッサに向けられるのは驚いたような目と、好奇心の混じった目、それにいささか懐疑的な目、そのようなものだった。彼が司令官の天幕を目指していると分からない者はおらず、故に誰も彼を引き止めはしなかった。
 目的の天幕が視界に入ったとき、ちょうどラエリウスがそこから出てきたところだった。彼は入り口で立ち止まっていくらか中にいる人物と話をし、それが途切れたところで顔を上げ、マシニッサを見つける。彼の友人に向けて穏やかだった面に憂いが過るのをマシニッサは無視した。
 ラエリウスに目礼だけを寄越してマシニッサが立った先で、執務机についたスキピオが目を丸くする。
「早いな。使いをやってからまだいくらも経っていないと思うのだけど」
 広げていた書面を仕舞い、スキピオはいくらか居住まいを正した。彼の前に立った男の顔をしげしげと、探っているのを示すやり方で眺め、微かに眉を寄せる。
「なぜ呼んだか分かっているだろう」
「勿論」
 はっきりとした顔立ちのなかでも際立った明るい瞳が虚空に向かい、また自分へ向き直るのを、マシニッサはただ待っていた。口火を切るのはスキピオの方であるべきだろうし、彼がどのように話すかによって、こちらも振る舞いを考えなくてはならなかった。
 スキピオからの使者がキルタに到着したのは朝早くのことだった。すぐに司令官の元へとは言ったがマシニッサがすぐさま出立するとは思っていなかったらしい使者は目を白黒させていたが、馬を走らせる途中で追いついてこなくなったのでそれからは知らない。呼びつけられるのは遅かったくらいだった。
「叱責するべきだろうかと思っていた」
 言いながら、スキピオは背凭れから身を起こす。
「恥を知りなさいと言わなくてはならないかと」
「もう言ったも同然ではないか」
「そうだね。正直言えば、落胆もしたんだ。あなたは賢明であると分かっているつもりだった。……シュファクスはソフォニスバによって自分は過ったのだと言った」
「恥知らずだ」
 言葉を続けようとしていた口をぽかんとさせたスキピオに、マシニッサは浅く肩を竦めた。ごく個人的な嫌悪や敵愾心を示しすぎるのは、おそらくこの男が望む王の姿ではない。
「……彼女が毒婦であろうとなかろうと、どうでもいいことだ。彼女はハスドゥルバル・ギスコの娘であり、シュファクスの妻であった。あなたには相応しくない、……あなたのものにはできない」
 天板の上に組まれた指が動かないのを、スキピオの言葉がまったく端正なのを、マシニッサは認めた。
 彼のほうにも言葉の用意はあった、いくらでもあった、しかし、まるで戸惑い逡巡する愚鈍な男のようにマシニッサは黙り込み、白い肌にかかる金髪の細いのを見ていた。
 スキピオにシュファクスを処刑するつもりがないとマシニッサは聞き及んでいる。元老院もそのように沙汰を下すであろうと。おのが手で捕らえたとて手中に収めたわけではない男の生死がこのように操られるのは、言ってしまえば空しいものだった。
 マシニッサが言葉を続けるのを待っているスキピオが、ふいに、何かを見つけたように瞳に一筋光を灯した。マシニッサが口を開いたのはそれよりも先か後か、ともかくも互いに互いの意を知ったと思われたときのことであった。
「ーー叱責を受けるまでもない、カルタゴの女はもとより私ではなくそなたのものだ。許しなしに戦利品を漁る真似を、私とて配下にさせはしない」
「マッシワがついさっき陣営を出たと聞いた、まさか……」
 その名を聞いて思い出されるのは、伯父の命令を受けて青褪め目を瞠った顔なのだった。ともすれば甥は恐怖と呵責で馬の足を緩め、しかしその分別によってまた進み、といった具合でいるかもしれない。例えそうだとしても青い瓶をーーマシニッサがソフォニスバに唯一贈ることのできたものを、マッシワが打ち捨てることはないだろう。
「マシニッサ!」
 立ち上がったスキピオは、そこから動かなかった。何が彼を激させ、すぐに鎮めたものか、知ったことではない。幼い悪意を受けたかのような顔でいるスキピオに、マシニッサはどうしてか彼に向けるべきでないような笑みを浮かべた。
 カルタゴの女、シュファクスの妻を、その美貌や憐れみを誘う懇願に惑わされて娶った男だと見做されたなら、心外と言わなくてはいけなかった。激情にかられ女に手を伸ばすのは、あらゆるものを脱ぎ捨てたときでなくてはいけないと、よくよく知っているのはむしろスキピオの方だ。
 マシニッサは帯に差した短剣を鞘ごと引き抜き、その柄をスキピオへ向けた。訝しむ彼にそれを取らせる。
「同じものをマッシワに持たせた。とはいえあれに剣を使えと言うのは酷だ、ほんの一部とでも言うべきだろうが」
 少し引き出した刃の、どこか重く陰ったようなきらめきに、彼はまったく言葉の意味が分かってしまったようだった。
「ーーあれをそなたには渡さぬ」
 しばしの無言ののち、短剣を手にしたまま、スキピオがマシニッサの脇を通り抜ける。目で追うだけの相手についてくるよう促した。陣営の門へと向かいながら、スキピオは小さく嘆息した。
「かわいそうなことをするんだね」
「……幼子ではあるまいし」
「けれどあんなふうに育てたのはあなただろう。ああ、慰めるのもあなただから、いいのか……」
 門のそばで、数人の騎兵が司令官の姿を認めて敬礼する。待機を命じられていたらしい彼らの負う任務は聞くまでもなく、スキピオはそのうちのひとりに短剣を手渡した。
「キルタへ向かいなさい。無事でいたならば捕らえ、そうでないならば戻って報告を。もしもまだ息があるという様子ならばこれを使うように」
 当初知らされていたよりも注文の多い指示に、騎兵の誰も疑問を呈したり文句を言ったりはしなかった。彼らはただ規律正しく命令を受け取り、礼を取ってから馬に跨る。彼らがキルタに到着するのとマッシワが戻るのならば、後者が早かろうと思う。
 部下たちを見送ってからスキピオはマシニッサを振り返ることなく踵を返した。自身の天幕へ戻る背中を追う気は起こらず、かといってここで甥を待つのも、いかにも鬱々としている。
 有無を言わさずソフォニスバを虜囚とすると言うならば、スキピオはマシニッサを呼びつけるための使者にもうひとつ任務を与えていたはずだ。マシニッサと言葉を交わし、それがどのような形であれ了承を得てから彼女を捕らえるなどという婉曲なやり方は、許しているにも等しかった。
 ……彼女は逃される、とこしえに、誰の手も届かぬ場所へ。
 ただ最後にあの手を取ったのがおのれであってほしいと、それだけのことで贈り物を選んだ。それを認め、胸の裡に幾重にも折りたたんで仕舞いこんだ頃に、目を真っ赤にした甥が彼のもとへ戻ってきた。


 婚礼のとき、ソフォニスバは何かを思い出すように時折震え、また何かに慰められるようにそれを静めていた。彼女がどんな波に揺られているものかマシニッサには見えず、最後に見たあの手が衣に縋っていたものか、押し留められていたものかさえ分からない。
 そのうえ未だ、その名によって思い出されるのは美しい女の姿ではなく、愛らしいばかりの幼い子どものいとけない笑顔なのだ。頑是ない我侭を言い、頭上で結ばれた契約の意味も知らず夢見がちに喜んだ、その姿だった。
 スキピオはマシニッサに彼女を葬ることを許した。カルタゴではなくヌミディアのやり方で、あくまでも貴人として、しかしひっそりと葬られた女の墓所に、これから先どれほどの人間が足を向けるか。マシニッサは自分がそこにいつまでも心を留め置き続けるとは到底思えなかった。いつかは日々のうちに忘れ、淡く思い出しては、また押し流してしまうだろう。
 けれどもいまこの時ばかりは、キルタは彼女の眠る場所だった。諸々の処理を終えローマ軍の陣営に戻ったマシニッサは、夜中であろうと蠢き続ける人間の気配に耳を澄まし面影をどこかへ追い遣ろうとした。
 そのうちに、天幕の外に立ち止まった気配を感じて、眠るつもりで寝台の上に横たえていた体を起こした。億劫だと思いながらも天幕を出てその気配の主をーーほとんど予想するまでもない人物を探しあたりを見回したマシニッサに、こんばんは、と声がかかる。囁くような声だった。
「……この夜更けにどこへ?」
「ただ散歩に。付き合ってくれ」
 笑いもせずに言った顔に差す月明かりは幽かなものだった。返事を待たずに歩き始めたスキピオを、見送ったとて咎めはなかろうにマシニッサは追う。
 ふらふらと、やはり当て所なく歩くスキピオにこの夜はすれ違う者たちが気がついた。挨拶に軽く応え、しかし誰の言葉にも足を止めず、スキピオは歩く。これでは徘徊と言われても仕方がないという調子で。
「約束したものを僕は大方あなたに渡すことができたと思う」
 そう言って自分を振り仰いだ男の顔が青白く見えた。マシニッサは確かにと頷いたが、スキピオはその反応に満足せず、僅かの間足を止めて肩を並べる。
「あなたは?」
 何を問われたのかは分かったが、何のことだか分からなかった。
 スキピオはマシニッサに王国を、王位を取り戻させた。勝ち馬に乗るという当初の目的も、およそ果たされたに等しかった。この先何が起こるかを人間が断言することはできないとは言え。
 そして彼は、その約束の際にマシニッサに何を求めたか。優れた騎兵、その働き、アフリカにおける諸々の援助、そうしたものに違いなく、ならば、マシニッサもスキピオと同じことが言える。……そう結論づけつつ、マシニッサは口を開かなかった。
 陣営を囲む柵にたどり着き、彼らはそれに沿って歩き続けた。
「とくべつに欲しいものがあるなどと、言ったか?」
「……いいよ、時間はたっぷりある」
 空気を震わせるだけの笑いを漏らし、相手を横目にして。スキピオがそうして見せた顔にマシニッサは覚えがなかった。見たことがなかった。
「私を……」
「何?」
「いや……」
 らしくもなく当惑し、言葉を濁したマシニッサに、スキピオが今度は喉を鳴らして笑った。若々しい彼の気配がいっそう軽くなるような響きがある。
 ラエリウスの語るスキピオが目の前にいる。そう悟り、居心地の悪さが湧き上がってくる。マシニッサは時にスキピオのあまりにも見事なばかりの居住まいを空々しく思ったが、だからと言って、その他の顔を望んだわけではない。
「あなたは僕を好きじゃないのかもしれないけれど、僕はそうじゃない」
「それは……おかしい」
「なぜ? あなたが仇だから?」
「ああ、そうだ」
 スキピオが微笑みながらマシニッサに接するのは、敬意に満ちたやり方で遇するのは、それが正しいからだ。忠誠を購うのに最も必要なものが雅量であると彼は知り、示す。それであるからマシニッサとてそのように振る舞う彼に彼の父親と伯父について話すことはなかった。
 だが、いま屈託なく笑い、いたずらっぽく瞳をきらめかせる青年は、本当の気まぐれに身を任せることができる。
「父と伯父が亡くなったとき、本当に悲しいのと同時に、やったぞと思った」
 彼らの死によってスキピオは仇討ちをと願う若者のひとりとなった。指揮権を得る足掛かりができた。敵が憎く、時機の到来が嬉しかったーーどちらも本心だったとスキピオは言った。
「どのような気持ちであれ、僕は父たちが望んだであろうことを果たそうとしている。だからマシニッサ、あなたに彼らに対して何をしろとも言わない」
「そうか」
「あなたも同じでは?」
「スキピオ、そなたの父君は、そなたを呼び果てた」
「…………」
「そなたの言葉は真実だ、父親の跡を継ぎその望みを叶えた」
「慰めている?」
 まさか。マシニッサの漏らした不躾な失笑に、スキピオは安堵の籠もった息を吐く。
 放っておくといつまでも歩き続けそうなスキピオの足を、マシニッサはさり気なく司令官の天幕へと誘導していた。スキピオの方もそれを察していたが、まるで自分の意思で進んでいるかのようだった。
 それほどの距離を歩かず天幕に近づいたとき、スキピオがついと踵を返し、自身よりも高い位置にあるマシニッサの目を覗き込む。しんとして誰の姿もない異様さを知らぬ顔でいる男の白い顔にマシニッサの影が落ちて、目ばかりが爛々としていた。
 それが将兵の灼熱のごとき熱狂を駆り立てるものの双眸だった。この男がそのように努めるまでもなく彼に嵌め込まれたとくべつなまなこだった。
「良き友であろう。夜が明けてからも、また日が沈み、昇ったあとにも」
 抗うことなく頷いたマシニッサをスキピオはすこし首を傾げながら見上げ、小さく頷き、そうして去っていった。光を帯び軽やかに行くその姿さえ地に影を作る。彼の影が落ちる場所に、マシニッサの影もまた落ちている。

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