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駒鳥の無謬

 象がゆらゆらと長い鼻を揺らし尾を揺らし、大きな耳をばたつかせていた。
 柵の向こうのそのまた向こう、深い溝の向こう側で、マゴーネは初対面の象のことをかれこれ数十分に渡って見つめ続けている。象をとりわけ愛するわけではない。この大きな、彼のまわりにいる子供にのんびり屋だと誤解されている動物を、こんなところにいるのは可哀想と思うこともない。可哀想なのは戦場で前も後ろも、敵も味方も何も分からなくなって走り回る象のほうで、これはきっと、急所を銛で刺されることもなく毒を口に含まされることもなく、寿命をぐんぐん引き伸ばされて死ぬのだろう。
 動物園である。幼いときに父に連れて来てもらったことがあった。長兄は狭い運動場の中でしか暮らせない象の姿にひどく不満気だった。そのときには、海生動物のほうにマゴーネは目を向けていたように思う。
 公募によりつけられたありきたりな名前の象がマゴーネの方に近づいてきては、餌も持たずはしゃぎもしない客に不思議そうな目をして離れていった。ざらざらした鉄柵に腕を預け、そこに顎を乗せて、独特の臭気に鼻が慣れて久しい。あの象は人を乗せないのだろうか。走ったりはしないのだろうか。泳いだり、しないのか。
「お好きなんですか」
 隣に立った少女は手にソフトクリームをふたつ持っていた。真っ白い、何の変哲もないものだったが、彼女が持っていると何やら特別に美味しいもののように見える。ひとつ差し出されるまま受け取り、昔は好きだったとマゴーネは答えた。
 ソフォニスバは、直接口をつけずにプラスチックの小さなスプーンを使った。この暑い日にその調子では溶けるほうが早かろうが、彼らにはそういった扱いに困った食べ物を押し付けるあてがあったので、マゴーネも冷たくひたすら甘いソフトクリームをちんたら舐める。
「マゴーネさんのお屋敷には象がいらっしゃったのかしら」
「いましたよ。あの象、妊娠しているそうです」
「まあ」
 何がまあなんだか分からない。ソフォニスバがブリムの広い帽子の影から、ゆっくり歩き廻る象を追った。華奢な首にはその帽子さえ重たそうに見える。軽やかな印象の白を基調としたワンピースは彼女によく似合っていたけれども、あんまりにも嘘っぽいくらい可愛らしいので、いやと言うほど人目を引いた。
 自分も帽子を持ってくるべきだったと陽射しの強さに思うが、こんなところに突っ立っていれば帽子の有無など問題でないだろう。小さな子供が帽子を放り出しては父母に追いかけられていたのを見たのが今日のことだったか、それともずっと以前のことだったか、曖昧である。
「何を見てきたんです」
「カピバラ」
「それって大きなねずみみたいな……」
「冬ならお風呂に入っているそうですけれど、今日は伸びて、寝ていました」
「それから?」
「ふれあい広場というのがあったので、そこに長居してしまいました。モルモットを抱っこできるんです」
「それもねずみですよね」
 どうやら彼女は動物には深い関心がないらしかった。うさぎもいただろうと訊くと首を傾げてそれで終いだ。そんな彼女は、この日は明るい茶髪を三つ編みにしていた。使用人にでもしてもらったものか綺麗にひとつにまとめられていて、寝起きにほとんど手癖のままに編んで終わらせるマゴーネの髪とはなんだか様子が違う。
 ちらりと見上げられる。若草色の大きな瞳が、親愛の情を満たしてマゴーネを窺う。見返せば冷ややかな目だと思われそうで気付かないふりをしていた。
「マシニッサは?」
 何故か今日に限って三つ編みにしないで髪を上げてまとめていた男の、涼しげだか暑苦しいのだか分からない姿を思い浮かべる。ソフォニスバに付き添っているものと思ったのに。
「馬に捕まっていますわ」
「捕まえているのじゃなくて?」
「離れようとすると鳴いて暴れる子がいて」
「へえ」
 面白そうだ、と柵を離れたマゴーネにソフォニスバは当たり前のようについてきた。そうすると彼女はスプーンを動かす手をまったく止めてしまい、しかし食べきるのを待っているとマシニッサの方が先にこちらに来てしまいそうだったので、マゴーネはまた気付かないふりで通した。
 食べ歩きは行儀が悪いとか以前に、歩くときに他に注意を向かわせられない気性なのだろう。本を読みながら話はできないし、何かを書いているとき話しかけられると言われたことをそのまま書いて、きょとりとしてみせる少女だ。
 馬は動物園のなかであまり目立たない場所にいた。大きな木が何本も植えられて日陰を作った一帯、妻子に置いてけぼりにされた父親らしき男性がベンチに座り込んでいる。たいていの人間は馬を特に見たければ動物園より牧場に行くだろう。父親が牧場ひとつ持っているくせに動物園に来てまで馬の顔を見ようとする男の姿はすぐに見つけられた。目立つ髪の色だから。
 確かに馬に絡まれている。頻り地面を蹴り嘶く馬はマシニッサが離れればもっと暴れるぞと脅しているかのようだった。マゴーネはマシニッサがこちらを振り返る前に立ち止まった。彼と馬の間、古びた木柵の根元に苔が生えていた。
 振り返って見れば、小さな白い手の中で完全に溶けきったソフトクリームが、まったく口のつけられていないコーンをふやかして、根元からこぼれ始めていた。足元の土に落ちているのに慌てる素振りもないソフォニスバからそれを取り上げて、マシニッサの方へ近づく。
 振り返った彼の鼻先にずいと差し出す。男がしたとは思えないまとめ髪にぶちまけてやりたい気もしたが、面白くなさそうで止めてやった。
「これ何とかしてください」
「……溶けているが」
「ソフォニスバが溶かしたんですよ。うわ、なんですその馬」
 柵にほとんど凭れ掛かるようにして馬の首を撫でていたマシニッサは、マゴーネが顔を顰めた意味が分からなかったらしい。
 マシニッサの手をソフォニスバが甲斐甲斐しく拭いてやるのを馬は目で追っていた。そうして清められた手が再び自分に触れることは滅多にないと知っているのかもしれなかった。
 マシニッサは溶けたソフトクリームに浸かっていたスプーンを救出し軽く舐めてみて、甘すぎると言いたげな顔をした。それでもコーンを傾けて口に流し込み始めたのでマゴーネは自分の、コーンだけ半分ほど残っていたのも押し付ける。マシニッサに執心していた馬はマゴーネが手を伸ばしても嫌がらなかった。触れた毛並みの悪さに、ああ、となんだか悲しくなって呻きが漏れる。がさがさした鬣に指を通すのを、少し躊躇った。日陰者だ。確かにここは日陰だけれど。
「飼育員がついていますよね、動物園なんだから。誰も撫でないんでしょうか」
「暴れ馬だそうだ」
「暴れていませんよ」
「俺が暴れるなと言ったから」
「はあ……」
 目を転じてみれば、隣の柵の中ではぽっかりと差した陽の光のなかで、ふかふかした毛並みのポニーが船を漕いでいる。あれなどは子供を乗せることもあるのかもしれなかった。この馬は、見たところ若くもないし、体躯も立派とは言い難い。
 可愛くない子だった。むかし、マゴーネが可愛がっていた軍馬だってもっと愛嬌のある顔だった。むかしもむかしである。こういう大きな馬はサラブレッドとか言うのだろう。
「もう暴れなくなりますか」
 少女にじ、っと見上げられて、マシニッサはすぐに首を横に振る。もう少し迷うとか、誤魔化そうとするとかすればいいものを。
 かわいそうだとソフォニスバが呟いた。彼女が生きものを見ながら言うと、それは真っ先に死刑宣告のように響くらしい。人形のような造作の少女にそっと睫毛を伏せられて、この場において馬は死んだも同然である。
 ソフォニスバはマゴーネの手も綺麗に拭き清めてくれた。彼女がもう一度モルモットを撫でたいと言うので連れ立ってふれあい広場に向かったけれども、ソフォニスバはそこでずっと灰毛のチンチラを撫でていた。


 夕刻、帰り着いた我が家の玄関先に見知らぬ靴があったので、マゴーネは咄嗟にげっと思った。こういうときの勘は外れないものだ。可愛らしさを感じさせるデザインを好き好む男は彼の家族にはいない。
 バルカ家の家長が長く家を空けることは珍しくなく、幼いころからのことだからマゴーネはそれをどう思うでもなかったが、最近は厄介な習慣だと感じていた。この格好の機会を逃さない、抜け目ない少年の顔を思い浮かべ、脱いだ靴を靴箱に入れる手つきがいささか乱暴になる。
「ただいま帰りました」
 そろりと居間に顔を覗かせると、ソファから次兄が振り返っておかえりと言ってくれる。果たしてそこに長兄の姿はなく、三人の姉たちが揃ってテレビゲームに興じていた。口々におかえりなさい、早いのね、もっと遅くてもいいのに、などと言うのに応えながら、そんなものうちにあったかしらと次兄にまた目を向けるとハスドゥルバルは天井を指差す。もっと正しく言うなら、二階を。
「手土産? 大仰なものを」
「貸すという建前だがまあ、くれるんだろうな。お前も遊ぶか」
「嫌ですよ、あの人を喜ばせるなんて」
 兄の隣に腰掛ける。手洗いうがいは、といちいち指摘してくる人がいまは不在だった。
 何のゲームをしているのだか、テレビそのものに向かうことの少ないマゴーネにはよく分からない。本格的な戦略を要するものは避けられたのだろう、可愛らしいキャラクターが飛び跳ねているが。
「楽しかったか、動物園」
「妊婦の象がいました」
「ああ……兄上のほうが楽しめそうだな……」
「あのふたりで動物園?」
 絵面がおかしくてマゴーネは笑いかけたが、今日の自分たちはと言えばもっとおかしいと気付いて笑いが引っ込む。高校生の男ふたりが中学生の女の子を挟んで、見るからに血縁がないのだ。何だと思われただろう。
 最寄りの駅から家まで歩いてくるのにかいた汗が冷やされた空気にひいていく。家族がみんな座ることができる数のソファはいまがらんとしていて、床のラグに寛ぐ姉たちの姦しい声がなんだか遠かった。許嫁が父親に伴われて出張を兼ねた旅行に出かけているのに何も感じていないらしい次姉の横顔など、なんだか清々している。
「そうだ、おみやげ」
 放り出していた鞄を引きずって、キーホルダーをひとつ兄に渡した。小さな象の、木彫のなんとも素朴なものである。ハスドゥルバルは親指で象の頭を何度か撫でてから、渡す相手が違うのではないかと言った。
「俺が好きなのは犬だよ」
「犬もあげます」
 本当に犬のキーホルダーもあったから、それも手のひらに載せる。そちらは鼻を押すと目が光るギミックつきのキーホルダーだった。無駄にでかい。ふっと笑った兄がかちかち鼻を押しているのを見ると、動物園に何の関係もないのにいい土産のように思えた。
「彼はどんな様子だ」
「いつも通り……」
「令嬢も?」
 マゴーネは頷き、兄の肩に凭れ掛かる。少年の肩だ。けれどよく動かされている身体で、心地よかった。
「次は水族館ですって」
 ソフォニスバがそう言うから、仕方ない。マシニッサは分かったと言っていたしマゴーネも異論を唱えなかった。マシニッサはチンチラの等身大のぬいぐるみを買って満足そうな少女の方を送ることになっていたから、帰路の方向が違うマゴーネは彼らとは早々に別れた。彼女の帰宅が遅くならないよう、解散の時間は早めに設定されているのが常だ。
 彼女はマシニッサの恋人である。許嫁であるかどうかは分からない。そしてマゴーネもマシニッサと交際関係にあった。しかしマゴーネとソフォニスバの間には何ら関係が持たれていない。そういうことを早々に打ち明けられているハスドゥルバルは、おかしいだろうと言うでもなく、別れるとき拗れたら言えよとだけ苦笑していた。いい兄だ。マゴーネがどうしてほしいのか知らないくせに叶えてくれる。
 なんとなしに解いた髪を手櫛で梳いていると、階段を降りてくる足音が聞こえた。二人分かと思ったのに一人分で、それが軽やかなので、この野郎と小さく毒づく。どんどん態度がでかくなっていやがる。
 廊下から続く扉が開き、ひょいと見えた顔に、マゴーネは一瞥を呉れた。目が合うとその少年は微笑みを浮かべ、後ろ手にではなく手元を見ながら扉を閉める。
「マゴーネ、帰ってたの」
「僕の家ですからね」
「泊まってくればいいのに」
 若草色の瞳だ。ソフォニスバよりもなんとなく淡い色だけれど、似ている。
 スキピオは来客用のスリッパを少し引き摺るような音をさせながら近づいてきて、一人分の隙間を空けてマゴーネの隣に腰掛けた。この暑いのに長袖を着ている。長兄の客ならば愛想よくする義理がないではないけれど、姉たちが顔も上げないのはそういうことなのだ。
「マシニッサの家、面白いよ。いらっしゃる女性の誰が彼の母君だか分からなくて」
「そんなもの見たくありませんね」
「自分でも誰が母親だか知らないって言ってた」
 知らないのでなくて、母親であるべき女の顔が見当たらないのだ。そう言ってもスキピオには通じないのが不条理だった。
 何をしに下りてきたのだろう。マゴーネがマシニッサと交際しているならスキピオは長兄と交際していると言えるし、家に上がり込むのはもう構わないので、部屋に籠っていて欲しいものだ。
 彼はもはや嫌味でさえないくらい秀麗な顔を、それに似合うやり方でだけ動かす。長兄がこの顔が好きで関係を保っているなら悪夢だとマゴーネは思う。同じく秀でた頭の方であってほしかった。彼らだけ忘れきっているけれど、それなら許しようも、なくはない。
「怒らせちゃった」
「は?」
「ハンニバル。別に怒鳴られたりしてないんだけど怒ってるから抜け出してきたの。対処法を教えてもらおうかと思って」
「謝れば済みますよ」
「なにで怒らせたか分からないんだよね」
 眉を下げ、困りましたと饒舌に語るふうに軽く笑ってみせる。こいつは嘘を吐いてるんじゃないかとマゴーネは疑っているのに、知ってか知らずか、スキピオはハスドゥルバルにも同じように話しかけて嫌そうな顔をされていた。
「兄上は」
 不躾なくらい真っ直ぐにこちらを見た目を避けて、マゴーネは鞄を膝に抱く。
「苛々なさることくらいあるし、変な理由で機嫌が悪くなることもあります。それだけでしょう。何も、僕らに……」
「初めて怒ってるところを見たの」
「はあ?」
「びっくりしちゃって」
 そうしてまた見せられた笑みに親しみがあるような気がした。気のせいと思うにはスキピオは微笑むのが巧すぎ、彼の顔かたちは笑うのにいっとう向いているのだ。目を泳がせたマゴーネの肩のあたりに不意に彼が手を伸ばし、髪の毛一本摘んで、目をぱちりとさせる。それがマゴーネの髪でなくて、かと言って、マシニッサの髪でもなく、茶髪だったからだろう。
 マゴーネは無性にその髪一筋がスキピオの指に囚われているのが我慢ならず、それを取り返した。くずかごを引き寄せてそこに突っ込んでしまう。こいつは何も覚えちゃいない。言い聞かせる調子になったが、その必要がある。こいつは何もかも忘れて生まれてきたのだ、ハンニバルと同じだ。よりによって彼らだけがその幸運に預かってこのぬるま湯のような世界に息づいている。だから、こんなふうに思うことはないはずなのだ。
「ね、マシニッサのことどうして好きなの」
 怒るとかそういうことではなくて、ぞっとして、背筋よりも臓腑が冷えた。この調子でまたこの少年がマシニッサを誑かすということは多分ないだろう。戦争があるなら、ともかくである。
「マゴーネってもっと、誠実な人が好きなように見える」
「そうですね、ええ、その通り」
「ちょうどハスドゥルバルみたいな」
「そうですよ」
「何だって彼と付き合ってるの。ガイウスも不思議がって、心配してる」
 スキピオのことは嫌いだったが、その友人のことは別に嫌っていなかった。ガイウス・ラエリウスはマゴーネの勝手な判断でマシニッサを囲む男女のことを知らされている。あれはいい人間である。マシニッサも気に入っている。どんどん気に入ってくれと思う。
 視界の端にいる次兄はこの会話を聞いているのかいないのか、手に馴染みのないコントローラと格闘する姉たちの耳にこれは入っているのかいないのか。
「彼が先に僕を好きだと言ったんですよ」これはずるい、とマゴーネは自嘲する気持ちになる。「彼が。だからいいよと言ってあげた。悪いことばかりじゃない。けっこう、楽しいこともありますから」
「好きじゃないの?」
「好きだったら殺してる」
 こいつはもしかすると、マゴーネが起こした騒動を知らないのかもしれない。彼らの歳の差はむかしとはまるで違って、滅茶苦茶になっていて、スキピオはマゴーネと同級だった。マシニッサもそうだ。まさか内部進学で適当に進んだ学校に誰も彼もが集うとは誰も思うまい。マゴーネも予想していなかった。長兄の友人たちが長兄のそばに変わらず揃っているのは、相変わらず長男を偏愛する父のせいだと思っていた。
 マシニッサがいるとは思いもよらなかったのだ。廊下で鉢合わせたあの白々しい秀逸な顔面を見て、マゴーネはまずそばにあった窓を割った。割ったことは憶えていないがそうらしかった。それから血を流している拳で彼を殴った。マゴーネを止めようとする人間が誰もいなかったのは、彼がバルカ家の末子だからに他ならない。頬を思い切り殴られてマシニッサは何も言わなかったし、反撃もしなかったし、いまもそれを蒸し返さない。
 ──あの方のほうが先に言ってくださったんですもの。
 ソフォニスバが微笑んで、嬉しそうな目をしていた。マゴーネは以前にスキピオと同じような問いを彼女に投げかけていた。ソフォニスバには様々な選択肢があるはずである。男になど見向きもせずともよいのだ。ギスコは麗しい娘の人生をただ自由たれと願っているだろう。それだのに、少女はマシニッサのそばにいる。
「マシニッサさまと、シュファクスさま、同じころにお会いしました。けれど先にわたくしの手をとったのはマシニッサさまだった。わたくしね、どちらでもいいんです。おふたりとも好きです。愛しているなんてむずかしいことば、よく知らないんですもの……。
 マゴーネさん、わたくしがあのとき死んだのを、マシニッサさまのせいだと思われるのね。そうなのかしら。お父さまではないかしら? スキピオさまでは、シュファクスさまではないかしら。元老院のせいかもしれませんわね。あの戦争がいけないなんて、陳腐な言い方もできますわね。
 バルカ家のみなさまのこと、わたくし、存じておりました。あなたがたがいちばん血を流して戦っておられたのですもの。だから、もしかすると、マゴーネさん。わたくしが死んだのはあなたのせいかもしれませんわね」


 髪を撫でる手、その指の長さと端正さ、磨かれているらしい爪。丹念な手入れなどされていないマゴーネの髪はたびたび櫛に引っかかり、そのたびマシニッサのその指が髪を宥め賺した。
 爪を磨いてやろうかと言われて、少しさせてみたこともあるけれど、なんとも気持ちが悪くてすぐにやめさせてしまった。つるつるした爪の光沢を誰が喜ぶのだろうと問えば、自分の短い爪でマゴーネの手の甲を柔く引っ掻いて、痛くないだろうと。低俗な冗談である。
「もう切ってしまおうかと思ってるんです」
 生来の癖っ毛は三つ編みにしてもどこか収まりが悪い。マシニッサの手が止まって、マゴーネの顎に触れた。上向かされて見えた彼の顔、髪で隠れるとも隠れないとも言えない目元には傷がある。つい昨日、マゴーネが徒らにつけた傷だった。
「近頃なんて、あなたに可愛がってもらうくらいしか用途のない髪だし」
「それでじゅうぶんだろうに」
「そうかなあ……。昔は、何か意味があって伸ばした気もするんですけれど。いまはただ昔にはそうだったから、というだけで、未練たらしいでしょう? それにあなたとおそろいだと思われたくない」
 裸足が柔らかく毛の長いラグの上を滑る。伸ばした足の肉付きの悪いこと。なんだか血の気が引いているように見えた。
 どうして僕はマシニッサの部屋になんて来てしまったのだろうなあ、この部屋に入ったその時にも思ったことをまた繰り返す。広々とした部屋だったが物が少なくて、机とベッドと本棚と、あるものだけ言えばマゴーネの部屋と変わらない。
 ベッドに背を預けているマシニッサに凭れ掛かったまま、レースカーテンの向こうで沈んでいく太陽を思っている。髪がそうなら睫毛も色の薄い男で、マシニッサがマゴーネを見るときにはそれは伏せられがちなのだった。
「俺が残しておいてほしいと言うのでは、切らない理由にならないのか」
「ますます切りたくなります」
「つれないな……」
 指が長いから大きく見えるだけの手が腰に回されたので、いつも通りにそれを軽く叩いた。どこであろうと、誰が見ていようと、彼は振る舞いを大きく変えない。すぐに人をすぐそばに引き寄せては好き勝手触るのだから、いまどき誰にどう責められても仕方がない。
「あなたってスキピオのことがいちばん好きなんでしょう」
「嫌いだよ」
「そうやって言うのがね、そうなんですよね……。ソフォニスバも同じように思ってますよ。結局僕ら、あの子にぼろぼろに負けちゃったんだもんなあ」
「何をどう噛んで含ませても納得しないのだな、そなた」
「好きでしょ?」
 すこし笑って、マシニッサは何も言わなかった。
 この家にやってくる道すがら、泊まるかと問われて何も考えないまま頷いていた。そのための準備を何もしていないと言うと来客用に揃っているからと返されたときにはなんだか、周到で嫌だったが。
 ラグには髪の一本も落ちていない。探し回れば目につきづらい銀髪が落ちているかもしれないが、本当に全く落ちていないとしても不思議はなかった。ガイア、マシニッサの父は彼の息子をいたく愛していて、我が子の世話のためだけに何人を雇っているのだか分からない。ここはまるで王宮である。その息苦しさ、閉ざされた窓に囲まれたような心地を、マゴーネは僅かなりとも知っていた。
 腰に落ち着いていた手が腹を撫でて、胸元に置かれた。布一枚の向こう、厚くもない肉と骨の向こう、そこで慎ましく鼓動しているものを、撫でられているようだった。
 柔らかい手触りのシャツは撫で心地がいいだろう。彼や彼の恋人と行動をともにするとき、見るからに場違いにならないよう服装に気を遣わなくてはいけない。自分の趣味なのかマシニッサの趣味なのか判然としない服ばかりがクローゼットに押し込まれていた。そのシャツのなかにするりと入り込んだ手が冷たくも熱くもなく、まるで自分の手に触れられているように思う。
「痩せたか?」
 さあね、そうかもね。返答を喉から口へと運ぶのが億劫でただ首を傾げる。痩せているだろう。マシニッサと初めて夜を過ごしてしまったのが夏の始まる前のことで、もしかすると春さえまだ遠い頃だったかもしれない。
 彼と一緒にいるのがひどく自然な日と、そうでない日と、気配を感じるのさえ堪えられない日とがあった。今日がどの日にあたるのかマゴーネにはまだ決められない。いつもそうで、決めるのはその日の終わりなのだ。胃に流し込んだものみんな吐き出したり眠れなくなって夜更けに本を開いたりする日は駄目だった。船酔いにかかったみたいになって、立っているのも座っているのも、息をするのも嫌気が差してしまう。
 動物園に行った日はよく眠れた。スキピオなんかと話したのに夢も見ないで深く眠った。蝿を払う尾の揺らめきが眠らせてくれたのだろう。
「マシニッサ、今日って、そういうつもりで僕だけ呼んだんでしょう」
 昼間に一緒に出掛けた、ふたりだけで。ソフォニスバはいなかった。彼女がいればマゴーネは必ずひとりで帰路につき、ひとりで夜を過ごすことになる。マシニッサがあの少女の身体を知らないのは確かな推測で、唇さえ知らないのではと疑う余地があった。
「気乗りしないなら延々こうして過ごすのもいい」
「まだ分からないから、いいですよ」
 彼は汗を冷やしただけで流しもしないで、少し汚れたままの肌が好きなのだ。マゴーネがどうというのは彼には関係がなく、独り寝には広すぎるベッドに先に寝転がってしまえば、あとはもう全て彼の裁量だった。
「髪を切るなら」とマシニッサがマゴーネの腰のベルトを緩めながら首を緩く傾げる。「勝手に切らないでくれ。切るにしても、色々あるだろう」
「あなたを美容院に連れて行って……『彼が言うとおりに切って下さい』って?」
「そう。それがいいな」
「考えておいてあげます」
 力を抜いた脚が剥き出しになって、抱え上げられるのを遠くに見る。この男の向こうに天井があるとき、何もかもが遠ざかって、まるで夢を見ているときのように、マゴーネは腕も脚も自分のものとは思えなくなっていく。
 人の言うところが本当なら、彼はおそろしく大勢の子供を儲けうる男なのだ。子供の顔をみな見たいからと、嫌がる女を説き伏せ半ば脅して妻としてしまった父を思うと、マシニッサが同じようなことをしでかさないとも限らなかった。
 頬を掠めて落ちてきた彼の髪を引く。細い三つ編みだった。合わされた額の間で、髪がざりりと擦れる。
 技量だの何だのを言うなら、マシニッサに不足はなかった。彼の指は的外れな場所を探らず、どこかに固執することもない。勘が鋭いのもその勘を信用するのも考えものだ。あなたって。マゴーネは可笑しいから笑った。
「我慢の似合わない人ですね」
 盛りのついた獣みたいにしたがってるくせに。
 笑っていない目が、じわりと色合いを変えた。血が通っていく瞳の青は何も思い出させない知らない色だから好きだった。それが彼だけの記号になった日には嫌いになる。
 濡らされた指が内臓のなかに入り込む。浮きかけた肋を数えるみたいに脇腹をたどった舌、びくつき強張った脚を支える手、それらに施される行為の意味を覚えた身体が従順に腑抜けになっていく。掴んだままの銀髪の細さなんてどうでもいいのに、熱を他人事のように眺める目線はそれを気にしていた。身体をひっくり返されて、指に押し開かれたそこに重たいものがあてがわれる。いつもより早いんじゃないのか、ほんのちょっと煽られたくらいで。
 なんの匂いもしない枕に顔を押し付けた。新品だってもう少し纏うものがあるだろうというくらい味気ない感触がした。波が打ち付ける音が聞こえる。耳の奥で血が流れる忙しない音とそれとの違いをいつも見失っている。
 呻きだか喘ぎだか分からないものが漏れ出して、頼りない腰を掴んだ手が逃すまいと力を込めた。埋められたものに苦しめられているうちはまだ繕いようというものがある。品に欠けた光景を指差して笑える身分になったことは一度もなかった。
 彼が少しの間息を詰めたのを感じて、自分の指が何をしてるのか気が付いた。思いやりの欠片もない爪がマシニッサの手を引っ掻いて、また傷付けていたらしい。
「痛い、……?」
 自分のことを言ったような気がしてマゴーネはふふと笑った。痛いんだよ、こっちは。
 爪に少し血がついていて、放っておけばすぐに乾いてこびりつくだろう。少し身体を捻り、髪をまた引っ張られて屈んだマシニッサの口元にその指先で触れる。少しだけ開かれた唇をつついて薄い舌に爪を立てた。強く立てるには体勢に無理がある。彼は自分の血を舐めて、指を根元まで口に含んでみせてから、それを押しやった。
 片脚を脇に担がれて、それこそ笑えないくらい間抜けな格好にされてしまうと、遠ざかっていた目線が帰ってくる。ぎゅうと目を瞑って、それから開くと、何が嫌で湧きでたのだか知らない涙がひっきりなしに落ちていった。
 枕を抱き締めている間に、床に放られたスマートフォンが何度か震えた。二度、三度、それまではマゴーネも数えていたけれど、それが何度震わされて電池を消耗させられたのかは有耶無耶になった。


 涼しくなったうなじを何度か撫でていると、横から伸ばされた手が同じように晒された肌に触れた。そこに三つ編みはなく、下ろされた髪もなく、さっぱりとして軽くなった頭を何度かマゴーネは撫で付ける。
 彼の言うとおりに切って下さい、と本当に言ったとき、マシニッサは少し意外そうにしていた。その横でソフォニスバは自分も口を挟みたいという顔だった。連れの多い客に美容師は苦笑いしていたけれども、結局、あれこれとつけられる注文にみんな応えてそれなりの格好に整えてくれた。
 彼らの眼前を鮫が泳ぎ去っていく。青がかった暗闇は照明により作られたものと分かっていて素直に覚える水中にいる錯覚が、マゴーネの気を少し重くしていた。海星だの蟹だのが展示された場所から動かないソフォニスバと、そのそばを離れないはずのマシニッサを置いてひとりで順路を進み、大水槽に辿り着いたのだ。何故かいま隣にいるマシニッサの目が、やけに素直に水槽の中を泳ぐものたちを追うので、殊更に疎んじるのもおかしな気がする。
 この展示室は順路のちょうど中間に位置するためか、開けた空間にいくつか長椅子が並べられていた。親子連れが休憩しながら、あれは何という生き物かと楽しげに話している。その真ん前に陣取るのは気が引けて、誰の目も遮らないだろう場所を選んで突っ立っていた。
「甚平鮫がいるかと思ってたのに」
 この水族館には目玉の展示がいくつかあり、そのひとつが巨体をこの大水槽で持て余している甚平鮫のはずであった。入り口で渡されたパンフレットにもそう書いてあったが、マゴーネのそばに立て札があり、死んだと書いてある。たった三日前のことであるという。
「見たかったのか。そなたは大きな身体のもののほうが好きらしいな」
「まあね、海星よりは……。こんなところに入れるから死んじゃうんですよ」
 どうしてか、動物園で大型動物を見るよりも、ここで水槽を見上げているほうが、狭苦しそうで憐れだと思わされた。もっと遠くまで泳いでいけるのだろう、なにせ海で暮らすのだ。
 首元に触れていた手が下りて、マゴーネの腰を引き寄せる。それに抗わないで身を寄せ合っていても誰もこちらを見ないような気がした。彼はソフォニスバがいたって、こうしたければこうするのだ。
「海で暮らすのだと言っても、流れる場所は決まっているのだろう」
「鮭が生まれた川で死ぬみたいなことですか」
「そうだろうな……」
 鮫を追っていた目は移り気なもので、子供のように落ち着きがない。少し目を上向けてみれば、飼育員が水槽に飛び込むところだった。スキューバダイバーにならなきゃ水族館に勤められないなら、僕は無理なんだろうとマゴーネは気落ちするでもなく考えた。彼は金槌なのだ。幸いにも学校にはプールがなくて、家族に彼をからかう者はいない。幼い甥が水辺に近づくマゴーネの裾を引いていやいやをする、それくらいのことだけだ。
 むかしには、泳いだことはあっただろうか。あったとしてもそれは川や湖での水遊びに留まり、海に身を浸したことはないかもしれない……。
 黒いスーツに身を包んだ人間が、あまりに無防備に、ぎざぎざした鋭い歯のそばを泳いでいる。人間を好き好んで食べはしない鮫がいるとか、いろいろな事情はあるだろうけれど、すぐそばをあんな風にうろつかれて牙を剥いてみようと思わないのは不思議だった。
 青い水の底に白い砂が敷き詰められている。腹這いになった生きものの名前をマゴーネは知らない。分厚いガラスに触れると冷たくて、近付いてきてその手をまじまじと見つめる生きものの名前も、知らなかった。黒い瞳は賢げで、優しそうでさえある。本当のところそんなことはないだろうにそう見えるのが似ているのだ。
 轡を噛まされることさえ許さないのに、手綱があると嘘を吐いて、人を騙している。
「同じ頃合いに死ぬのだろうって話すんです」
 重ねた手に瘡蓋の感触があり、マゴーネはそれを何度もなぞった。薄い傷はすぐに綺麗になくなって、彼の手はまた美しいばかりのそれに戻るのだろう。彼は言葉に対して目を向けたけれども、マゴーネの指に傷つけられるかもしれないことに怯える様子はなかった。
 同じ頃合いに。マシニッサは小さく繰り返した。つくりの細やかな容姿の印象を裏切らず彼は声にしろ体つきにしろ柔らかいところがあって、不意にそれが目についた。
「でもあなたが寂しいって言うなら、ソフォニスバはそうじゃなくてもいいんですって。寂しいですか」
「…………」
「嫌だと言うんじゃ駄目なんですよ。寂しいって。彼女はそうじゃないと、あなたを憐れんでやれないんですもの」
 言えやしないのだ。マゴーネも、ソフォニスバだってそれが分かっている。彼の誠意がそこに満ち満ちているのだ。彼は嘘を吐くくせに、自分を偽ることを厭わないくせに、吐いてはいけない嘘があることを嗅ぎとっている。
 お前はどうするのだと尋ねられている気がした。いっそう強く抱き寄せられて勝手にそう感じた。誰も彼らを振り返らないのをいいことに、こうして立ち尽くしている。
「僕は……」
 彼女が死ぬのと、マゴーネが死ぬのとは、何の関係もない事実だった。彼女は王座を抱く城のなかで、マゴーネは波に抱かれる船のなかで、死んだのだって同じときではないし、毒と傷とは別に生まれたのだから。
 ソフォニスバはマゴーネを紹介されたときにはおとなしかったけれど、その次に会った日には口数がずっと多く、彼女の恋人が二番目に選んで連れてきた人間のことを知りたがった。どうやら彼女はマゴーネの顔を見ないうちから、死について話すと決めていたようだった。誰にでもそうするわけではないのだ。彼女は美貌を褒めそやされる女でこそあれ、聡明であることを求められたことはない、それでも、愛されうる人間だった。
 そばにいてくれればよかったって、わたくしが言うかわりに、マゴーネさん、いつか言ってみてね。
「もう兄上が、死ねと仰ってくれないんだもの……」
 腕から抜けだして大水槽を離れたマゴーネをマシニッサは追ってこなかった。あんまり先に進み過ぎるとソフォニスバが困ってしまうから、彼はあそこで少女を待つ。
 暗い通路の先にはたくさんの窓があった。小さな水槽がいくつも嵌めこまれた、あまりに狭苦しい場所で、マゴーネはまた立ち止まった。四人ほどしか座れない椅子に誰も腰掛けていなかったのでそこに落ち着く。彼の正面の水槽で、小さくも鮮やかな色の魚が浮かんでいた。
 ひとりで帰らなくてはいけないのか。ふと当たり前のことを思い出して、彼らしくもなく背を丸めた。水族館と家とは一時間半ほどかかる距離で繋がっている。来た道を戻るだけのことがひどく億劫で、駅まで歩いて、電車で座るか立つかして、また家まで歩く、それを思い描くと立ち上がりたくなくなっていく。
 彼の前で浮かぶ魚の赤が視界の端をちらついている。しかしそれがふわふわと、流されるような動きをしているのが気になってよくよく見れば、死んでしまっているのだった。仲間の魚たちは代わり映えなく泳ぎ続けている。こういう小さな、名前のない展示物の死は張り紙がされることもなく消化されていくのだろう。マゴーネは暫くの間それを見ていたが、耐え難さを覚えて目を伏せた。もう誰も彼に、魚のように死ぬことに耐えろとは言わない。
「待っていなくちゃいけないでしょう」
 そばに立った男の影が、水槽の照明によって深まって、マゴーネには彼の表情がよく分からなかった。きっといつも通りの静かな顔で、目を細めるばかりで、ひたりとした視線を送っている。
「どうして今日に限って……。彼女、まだ海星を見ているかもしれない」
「こんなところに連れて来てしまったから」
「何ですって?」
「海は嫌いだろう。波の打つ音が嫌いなのだろう。こんな場所は好きでもないだろうに、自分抜きで行けとは言わなかった」
「それは、ソフォニスバが」
「優しいのだな」
「何なんだ、あなた」
 この気味の悪さをまったく知らなかったなら、この場を離れてしまえた。しかしマゴーネはずっとむかしにも似たような思いをして、……吐き気を覚えて、口元をおさえる。
「それだからそなたをずっと見ているのだ」
 まるで告白だった。懐古と、吐露と言うには生々しいほどの。関係を求めたとき、ともにいるように求めたとき、こんなことを言わなかったじゃないか。ただそれを望んでいるというだけでマゴーネを呼び求めた男が、今更こんなことを言うのだ。暗がりにいる彼らの言葉を他には誰も聞いていなかった。マゴーネだけが彼の告白を聞き、その意味するところを悟った。
 手を伸ばされて逃げ出せなかった。マシニッサは短くなった髪を撫で、首筋を辿り、未だ少年らしい線でだけ作られている顎をとらえる。
 殺してしまえればよかったのだ。殴るだけでやめておくなんて、優しいこと、しなければよかった。いまここで殺してやれればいいのに。近づいたためにしっかりと目にすることができた彼の瞳が穏やかなものに見えた。くちづけられたのはほんとうにこれが初めてだった。薄い、けれど感触のよい唇は長居せず離れていく。
「あなたが嫌いだ、……ずっとそうだった……」
 そうだろうと彼がまるで慰めるように言った。知っていたのだ、知っていた、彼は、ずっとむかしから、知っていたのだ!
 マゴーネはもう勇敢でなくてよかった。怖気づいて震えていることを誰も責めないのだから、逃げ出してもいい。逃げた先には兄たちがいるだろう、この男でなくて、いまは、いまだけは……。あの日にはそうでなかったのに。
 影の落ちた瞳がじっとマゴーネから離れなかった。その眼差しの所以を知ってしまったいまとなって、どうして、その美しさを認めてしまったのだろう。なぜあの少女は、この美しさのみならず何もかも許して、生きていられるのだろう。
 他のどの言葉にも抗わなかったのに、なにもかも忘れてしまえばよかったと言うのにだけはマシニッサは頷かなかった。

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