霞のあなた
その姿が目についたのは、不安げな子供がいたからだと、そのときは思った。
雨の気配のする湿った空気と、そのくせぎらぎらと照りつける太陽に誰しも辟易しながら歩くなか、その男性は花壇に座り込んで見るからに動くことができない様子だった。誰かが声をかけてもよさそうなのに、通行人は座り込む人と、そのそばに立ち時折周囲を見回す子供が見えていないように通り過ぎていく。
横断歩道の向こうにその姿を見つけたスキピオは、信号が変わると同時に躊躇わず彼らに歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
街路樹の枝が作る小さな影は、さほどの慰めにならない。屋内に入った方がいいだろうと鞄を探るスキピオに、男性がのろのろと俯けていた顔を持ち上げる。柔らかな金髪に隠れていた緑色の瞳は、強く瞬きをしてやっと目の前の相手の像を結んだようだった。彼は大丈夫と言おうとして、最初の音さえ舌に乗せられぬまま動きを止めた。
その青褪めるどころか真っ白な顔色に、思わずそばの子供を見やり、驚いたように見開かれた双眸とかち合った。
知らない学生に声をかけられたから、というには、驚きすぎている。七つか八つといった年頃の男の子は、こちらも疲れ切った顔で、ぼんやりしていた。
「……あの?」
ふたりの顔を順繰りに見ながらのスキピオの声には流石に困惑が滲んでいた。
更にしばし、顔を上げた姿勢のまま固まっていた男性がはっと我にかえる。
「あ……」
「これ、未開封なのでよかったら」
差し出したミネラルウォーターのペットボトルを前に、また何度も瞬きをして、言葉がつっかえて出てこないようだった。いよいよ危ういのではないか、と眉を寄せるスキピオの手から、子供がペットボトルを受け取る。ありがとうとしっかりと言うので笑って首を振った。
「おとうさん」
そう促されたが、男性はやんわりとそれを遠ざけ、お前がもらいなさいと囁いた。囁いたと表現するしかないほどに細い声で、見ればこの暑い中でその額には汗が浮かんでいないのだ。
「救急車を呼びますか?」
「いえ……いえ、ありがとう。大丈夫です、あと少し休めば」
そうは見えないと思ったのが分かったのだろう。男性は力なく笑い、いつものことだからと薄い背を無理に伸ばした。
「迎えが来る約束なので、本当に大丈夫」
「あとどれくらいです? どこかに入った方がいい」
「ええ……」
生返事である。弱々しいまでに柔和な見た目の割に強情だと、スキピオは子供の方に目を転じた。
「お迎えは何時に来るのかな」
「……あの、わかんない、もうすぐだと思う」
「来るんだよね?」
「うん、いつも来てくれるから」
それは嘘ではなかろうと、スキピオはとりあえず頷いた。子供の髪は汗を含んで額にひっついており、ほの赤い頬にしても、どうしてもかわいそうに思えてしまう。
それからしばらく、父親の方の様子を見ながら男の子と話をした。彼ら親子は隣県に住んでいるが、墓参りのために時々この街を訪れるらしい。「おかあさんのお墓」と語る子供の感慨のない横顔から、物心つかぬうちに死別したのだと知れた。
毎度こうして往生する訳ではなく、今日は特別具合が悪いのだと、それでも父親の不調に慣れた様子で語る。色々と悪い条件が重なってしまったのだと。
「君のお名前はなんていうの? 僕はスキピオ」
「…………」
「プブリウスでもいいよ」
「おとうさんもプブリウスだよ」
「へえ!」
「ぼく、……ぼくは、アエミリアヌス」
アエミリアヌスは、大きな目でスキピオを覗き込んだ。そして何かに納得したように目を伏せる。その目は父親とは異なる青を湛え、この瞳をどこかで見たことがあるとスキピオにふと思わせた。
彼らの前を一台の車が通ったのはそのときだった。いかにもな高級車が停止し、後部座席から人が降りてくる。その姿を認めると同時にぱっと駆け出したアエミリアヌスを受け止めた青年にも、似た人物を知っていると頭に掠めるものがあった。
「待たせてしまったようで申し訳ない。……うん? ああ、なるほど」
アエミリアヌスが耳元に何事か囁くと、青年はにっこり笑ってスキピオに向かって会釈をする。長く伸ばした髪を編み込んだ、上背のある人物だった。そのはっきりした目鼻立ちと銀とも灰ともつかぬ髪は偶然と思えぬほど、スキピオのよく知る友人に似ているのだった。
「おふたりがお世話になったようで、ありがとう」
「いいえ……」
青年に支えられながら立ち上がったプブリウスも、スキピオに礼を言った。
「お水の代金を……」
「受け取れませんよ、飲んでいただけてもいないのに」
そんな言葉が口をついたのは、なぜだろう、ひどく心配で仕方がなかったからだ。せめてひと口、僅かにでもその顔色を和らげてくれたならと、焦るような心地があった。いつもなら会ったばかりの、それどころかこの先縁が続くとも思えない相手に、こんなふうに接することはない。すまなさを感じさせないよう振る舞い、互いにすぐに忘れてしまうような別れにするはずだ。
そのうえおどけて言ってしまえばおかしくならなかったのに、声にはその焦りが不満のように滲んでいた。プブリウスもきょとんとしたが、スキピオが声をかけてから初めて現実に立ち戻ったかのようにくすくすと笑い声を立てる。
「そうですね、でも、本当に助かりましたから。……スキピオくん、また会うことがあればお礼をさせてください」
もう立ち去ってもよかったのに親子が車に乗り込むのを見届けたスキピオに、助手席のドアを開きかけた青年が振り返る。まじまじとこちらを見つめ、何を思ったか、
「すぐに診察を受けられるよう手配しますから、心配いりませんよ」
宥めるように言われ、答える間もなく車は走り去っていく。しばらくそれを見つめていたスキピオは鞄の中で携帯が震えるのに気付き、届いたメッセージで本来の用向きを思い出した。しかしそのメッセージの内容も待ち合わせに遅れるというもので、ならばいいかと仔細を伝えずに了解と返す。
足を踏み出し、一度だけ車の去っていった方を見た。とうに影も形もないというのに、それを確かめねばその場を去れなかった。
季節が移ろい、和らいだ日差しのもとで心地よい散歩を楽しめるようになった頃には、スキピオも彼らのことをそれほど思い出さなくなっていた。それほど、と言うからには、ときどき思い出している。
道端で困っている人々に出会す頻度がやけに増えたように感じたが、友人にどうしてそう目敏いうえに突進していくんだと言われ、気にかけ続けているのだと認めざるをえなかった。
この日も目的地に辿り着けず右往左往するビジネスマン風の男性を助け、お礼にと手渡された試供品のジュースを手に戻ってきたスキピオに、ハンニバルは珍しくもないという態度だった。
「こういうの、僕あまり飲まないんですけど。いります?」
いらない、とにべもない。持て余した小さな缶をとりあえずパーカーのポケットに仕舞っておく。
また歩き始めた彼らには特に目的地はなかった。過ごしよい季節になるとただ歩くために歩く趣味がどちらにもあり、スキピオがバテてしまうので真夏の休止を挟んで近頃再開されたこの長散歩を、弟には老夫婦かと気味悪がられる。しかし海に程近い彼らの街は景観に恵まれ、歩いてみれば同じように過ごす人々の多さに気がつくものだった。
喪服姿の数人が連れ立って歩いていくのを目にしたのは、何を話すともなく二十分ほど歩いたときだった。旧市街と新市街の境にある公営墓地へ向かうのだろう人々の向こうに、墓地を囲む高い壁と糸杉が見えた。
まず間違いなく、あの親子もこの墓地を訪れたのだろう。アエミリアヌスは何ヶ月かに一度と言っていた。本当なら毎月でも参りたいところ、父の体調がそれを許さないと。
「──スキピオ」
肘で軽く突かれ、何事かと見上げると目線で行く手を示される。墓地の駐車場のそば、古びたベンチに小さな人影があった。所在なさげにカーディガンの裾を指先で弄ぶ子供が、近くを人が通るたびにそれを見上げては俯く様子は、迷子かという第一印象を与える。
行ってこいという意味で示したハンニバルは、スキピオが立ち止まって動かないので訝しげに数歩の距離を挟んで振り返った。そして何を思ったのか、いつもならば決してそうしないだろうに、スキピオを放ってその子供の方へ歩み寄っていく。
数十メートルの距離で、彼らの交わす言葉は聞こえてこなかった。しかし子供が──アエミリアヌスがこちらを見、あっと声を上げたので、やっとスキピオの足は動いた。
「知り合いか」
「ええ。……今日もお墓参りかい、アエミリアヌス。どうしてひとりなの?」
自分の前に膝をついたスキピオに、アエミリアヌスは少しのあいだ躊躇うように口をもごもごさせた。
「お墓参りです。ひとりなのは、えっと……勝手に来たから……」
「勝手に?」
「ぼくが行き方を知ってるところ、ここくらいしかなくて……」
スキピオは、確かにほっとした自分に構わず、アエミリアヌスの姿を頭から足先まで眺めた。アーガイル柄のカーディガンこそ羽織っているが、その下はリネンのシャツに膝の出るズボンで、今はまだ昼過ぎでちょうどいいだろうが日が傾けば心許ない格好だった。
あちこちに視点を彷徨わせるアエミリアヌスが、諦めたように「おとうさんに内緒で来たの」と白状したのは、目の前の相手からの心配が伝わったのだろう。
「そっか。まあ君も色々あるよねえ」
バスを乗り継いでここまで来たというのだから、しっかりしている。スキピオがポケットを探って取り出したジュースはぬるくなっていたが、アエミリアヌスはお礼を言ってから受け取った。
どうしたものか、スキピオは静かに話の流れを見守っていた相手の袖を引く。
「ハンニバル、この後って……」
「──げほっ」
「えっ、大丈夫!? 不味かった!?」
盛大に咽せたアエミリアヌスが激しく首を振るが、咳き込み続けて一向におさまらない。背中を摩ってやるうちにようやく落ち着いた子供が、恐る恐る、本当に、一度逸らした目を必死に宥めすかし、ハンニバルを窺った。話しかけられた時にも怖がる様子はなかったのに、それはうんと幼い子が初めて出会う大きな動物に怯えるような仕草だった。
「……大丈夫か?」
言いながら隣に腰を下ろした相手に、ぎょっと飛び上がる様子など子うさぎか何かのようだった。しかし、なぜか、ハンニバルはこれを面白がっている。スキピオの目には明らかだが、アエミリアヌスがそれを察するのは無理があった。
「揶揄わないであげてくださいよ」
「誰が。迎えを呼ぶのがいいだろう、送っていってもいいが」
「そうですね。アエミリアヌス、携帯は持ってる?」
首を振られ、それじゃあ送っていくかと決めかけたところで、あのとアエミリアヌスが声を上げた。
「大丈夫です、帰れます。ちゃんとお金もあるから」
「そりゃあ帰れるとは思うけど……僕らが君をほったらかしで家に帰れないんだよ。後ろをついていっちゃうかも」
「でも……」
渋りながらも、すぐ隣からの視線に耐えられないのか、アエミリアヌスは観念して頷いた。帰りたくないとは言わないのだから、父親と大喧嘩をしたといった事態ではないのだろう。
手を差し伸べると大人しく小さな手を乗せる。
「今日お父さんは家にいる?」
いないと返す声が途端に沈んで、立ち上がらせようとした体がその場に踏みとどまろうと強張った。仕事かと尋ねると違うと言う。
「病院……」
落胆の深い声が、歩道を転がっていく。スキピオは肩を落とす子供でなく、どこか、遠いところに焦点を合わせた。
「おとうさん入院してるの、明日手術で、それが、怖くて──おかあさんに、まだ我慢してってお願いしたくて……まだ……」
まだ連れて行かないでほしい、そうこぼした子供の聡さを憐れに思う気持ちなのか、この子と同じくらいに恐れているのか、指先を震わせたものの正体が分からなかった。
プブリウスの病室は、窓から海の見える個室だった。アエミリアヌスは迷うことなくこの病室まで辿り着いて、「おとうさん、来たよ」と声をかけ扉を開いた。その背についてきたスキピオは、一歩部屋に入ったところで立ち止まった。
薄い病衣を纏って、その痩せ細った体の線も露わにしながら、プブリウスは我が子を相好を崩して迎えた。アエミリアヌスが出ていたほんの数時間の冒険を知っているだろうに、そのことには触れず、彼よりも茶味の強い柔らかい髪を撫でている。
涼しい部屋で安静にしているにも関わらず白い顔が、スキピオに向かっても笑顔になる。病室まで付いていく気はないとこの病院からそう離れていない浜辺に行ってしまったハンニバルを、無理にでも連れて来ればよかった。
「お礼をすると言っておいて、また助けてもらいましたね」
そんなことはいいのだ、と笑んではみたが、無事に送り届けられてよかったと潔く場を離れることができなかった。父親の手を握っている子供を前にしても、他の誰を前にしても、こうはならないのに、プブリウスを前にすると何もかもがままならない。
焦りがまた胸を焦がしている。自分の倍ほどは生きているのだろうこの人を、どこか、もっといいところで、安らがせてあげたい。こんなふうに点滴に繋がれて、クッションに背中を預けてやっと体を起こしているなんて、あまりに──ベッドのそばに立って黙り込むスキピオに、アエミリアヌスが「あのね」と父親の手を揺らした。
「スキピオさんのお友達も一緒に来てくれたんだよ。ハンニバル、さん……っていうひと。海を見に行っちゃったんだけど」
「……うん?」
「背が高くって、たぶんグルッサと同じくらいかな。スキピオさんよりふたつ年上だって」
プブリウスがアエミリアヌスの耳にこそこそと何か言うと、アエミリアヌスは「そう、『あの』」と意味深なことを言った。
そうしてわずかの間、プブリウスは何かに思いを馳せるようなぼんやりした顔をしていたが、ひとつふたつと繰り返し頷き自分の顔を撫でて深く息をついた。
「彼をご存知なんですか?」
流石に問わずにいられなかったスキピオに、まあ、そうなんだ、と首を斜めに傾ける。
「あちらは私たちのことなんか知らないはずだけれど、まあ、人伝に話を……聞いたことがあります。ほら、お父上が名の知れた方でしょう」
「ああ、そういう……」
ハミルカルが良くも悪くも著名なのは事実だった。スキピオを視界に入れた次の瞬間にはハンニバルの弟たちに両腕を掴まれどこかに連れられて行ったので、まともな挨拶などをしたことはない。
アエミリアヌスがパイプ椅子を持って来るのに、固辞するのも躊躇われてそこに落ち着く。病室は、スキピオが懐かしいと感じるにおいで満ちていた。幼い頃にはさほど長い期間ではないがスキピオもこうしてベッドの上で過ごしたことがある。
「明日、手術だとお聞きしました」
「ええ。でも初めてではないし、それほど難しいものでもないんですよ。心臓がね、昔から上手く動かなくて。それだけならまだいいのにあちこち歯車が合わない有様で」
ほとほと困り果てていますと笑うのは、事情をゆっくりと探られる煩わしさを避ける、スキピオにも覚えのある振る舞いだった。なんでもないことのように自分から話してしまえば、それ以上のことを詮索されることも減る。
ベッドに半ば乗り上げて父親にくっついてるアエミリアヌスが、瞼を重たげに持ち上げていた。その背中に腕を回して、プブリウスは本当に我が子が可愛くて仕方がないと隠さなかった。
「自分がこんなふうだから、この子が健康に恵まれて、風邪ひとつ引かないのが奇跡のように思えます。……あなたも、今はお元気なんでしょう?」
日が傾き始め、病室に差し込む光がいささかきつく目を刺した。ブラインドを閉じようと立ち上がったスキピオは、見下ろす浜辺にハンニバルの姿を見つける。
「また、この子に会ってあげてください。私のせいで学校にも通わないで、お友達がいないんです。あなたさえよければ」
それに次こそはお礼をしたいですから。か弱いとしか言いようのないプブリウスが微笑むのをやけに力強く感じて、スキピオは彼と連絡先を交換することにした。多すぎるとたびたび呆れられる連絡先の一覧にひとつ増えた名前は、自分の知らない響きを持っていた。
マシニッサの住む邸宅は、邸宅と呼ぶ以外にない偉容でもって住宅街を威圧している。そのように表現していたのはこちらも別な邸宅に住んでいるマゴーネだった。しかし、これは建てた人間の趣味なのだろう、そう言いたくなるのも分かる外観をしている。
父親のガイアは息子のためにこの邸宅を建て、息子の面倒を見るための女性を何人も住み込ませて、自分はと言えば他の子供と別の家に住んでいるという。複雑怪奇な彼の家族事情を、スキピオはこれまで気に留めていなかった。マシニッサを友人と思うのにそのあたりはさほど重要ではないと判断してきたのだ。そしていま、それを少しだけ後悔している。
吹き抜けの広いリビングで、ラグに座ってアエミリアヌスが黙々とテーブルに広げた算数の課題を進めていた。学校に通いこそしていないが、先ほどその内容を見たところ家庭学習で十分すぎるレベルまで学べているようだった。
その小さな姿を見守るのが、スキピオと、マシニッサ、それにグルッサというのが、釈然としない。一人掛けのソファから並んで座る二人を見比べてみれば、第一印象に狂いはなかったのだけれど。
「……自分の口で説明しようとするとこんがらがるんだけど、つまり、親戚なんだね」
「とりあえずは、そうです」
「とりあえずか……」
両者がどういう関係にあたるのか、グルッサが一から説明してくれたのだが、どうも受け入れ難い出来事が数度挟まれたのでスキピオは途中できちんと理解するのを諦めてしまった。それを狙ってあまりにあけすけな説明をされたのだと理解してもいた。
授業を終え、その日はひとりで帰路に着こうとしていたスキピオに、マシニッサが声をかけてきた。昨日からアエミリアヌスを預かっているが会うかと。
どういうことかと尋ねても父親の頼みだとしか言わない。そして当然のように寄越されていた迎えの車に一緒に乗り込むと、助手席にグルッサがいた。
スキピオやマシニッサよりいくらか年長だというグルッサは、説明は済んだとばかりにアエミリアヌスのそばに座ってその手元を覗き込み始める。彼らは気安そうに見えた。
「あの子とは以前からの知り合い?」
「いや、昨日初めて会った」
「……どういう?」
「アエミリアヌスの父君は腕のいい弁護士で、ガイアの事業を助けてくれたことがある。それでグルッサを世話役に付けたらしいが。馴染みのシッターがインフルエンザだそうだ」
つまり助けてくれるような親族もなく、アエミリアヌスは家にひとりで過ごしているということだった。
グルッサに唐突に子供を預かってくれと言われてこのマシニッサが請けるのも不思議だが、プブリウスの職業の方がいくらか衝撃が大きかった。なんだか、働いたこともないような印象を抱いてしまっていたらしい。
プブリウスにアエミリアヌスの写真と共にメッセージを送ると、すぐに返信がある。驚きと、謝意、それにすまなさ。まだ入院が続くものの、半月前の手術は成功したと聞いていた。
だから、マシニッサが声を潜め、子供に聞こえないように口にした言葉にスキピオは虚をつかれたのだ。
「もうあまり長くない」
あの子の身の振り方を考えてやらなくてはいけない。
スキピオが何も言わないのを横目にして、彼は彼なりに苦いものを含んでいた。
「開いてみて良くないものを見つけるというのは、よくあることだろう」
少し荒れた波の音が、繰り返し繰り返し空気を震わせた。鈍色の曇り空の下では、寄せて返す波もどこか重たくずるずると見える。
車椅子では浜辺に下りることはできず、病院から続く舗装された道から、波打ち際に遊ぶアエミリアヌスの姿をプブリウスは見守っていた。首に巻いたマフラーを鬱陶しそうに外してしまうのに嗜める声をかけたいのに届くほどの声が出ず、眉を下げて目を細めている。
スキピオは自分がここまで押してきた車椅子のそばに留まっていた。アエミリアヌスは時折しゃがみ込んでは、貝殻を拾っているようだった。
「お礼を色々考えたのですが、あんなものしか思いつかなくて」
仕立てのいい手袋は、そんなふうに言われるようなものではなかった。一度開いた包装をきれいに戻して鞄に仕舞った手袋とは長く付き合えそうで、それが、いつかは優しい心地を運ぶものだろうか。
軽く押しただけで進む車椅子のあっけない手応えが腕に残っていた。ハンドルを握っていなくては、ブレーキをかけていても転がっていってしまいそうで、先ほどからプブリウスのつむじばかり見ている。くすんでしまった金髪が潮風に巻き上げられていた。
「スキピオさん」
こちらの抱く杞憂を見透かしたように、プブリウスが手招きをした。ブレーキをもう一度確かめてから彼の前に周り、膝をつく。
屈んだプブリウスがスキピオの右手を取った。ダウンコートを着込んでいるのに血液の温もりの感じられない、乾いて硬い手のひらだったが、その両手に包まれて嫌な気はまったくしなかった。若草色の、明るい瞳が、彼の若さを思えば痛々しいほどの深慮を籠めて揺れている。
「もう、ここには来ないでください」
「……寂しいことをおっしゃるんですね」
「苦しんでいるところを見られたくないんです。今更のように聞こえるでしょうが」
あなたは悲しむだろうからと、また見透かしたことを言う。彼を見舞うのは初めて病室を訪れてから二度目にしかならなかった。
スキピオは、友人の多い人間だった。彼に友情を感じてくれる人たちはたった一度言葉を交わしただけ、約束もせずに別れたのに、再会の機会に巡り合った時にはそれを喜んでくれる。嫌われることもありはするが、苦となるほどの軋轢を味わったことはない。
父母の庇護のもと弟とともに何不自由なく暮らし、好ましい人々が近くにあった。その、淡い色合いのスキピオの生きる世界の中で、プブリウスはぽっかりと空いた穴のようだった。
「あなたは私に会わない方がよかっただろうに」
どうしてか彼は申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。
「私にとっては会えてよかったのだから、勝手なものです。私は──あなたが自由で、日々を楽しんでいると、安らかだと知れて……あなたを、傷つけようとする人のいないことを知れて、それで、十分です。あとはあの子のことだけが」
スキピオの頭越しに、アエミリアヌスの姿を捉えた目が、一粒の涙を零した。それをきっかけに幾筋も頬を濡らす涙をスキピオが左手で拭うと、おとなしくされるがままになっている。
「きっと大丈夫だよ」
濡れた目がスキピオの顔を映し出していた。困り切って笑うその顔を、彼自身初めて目にした。
「大丈夫、心配いらないから」
心から信じられるというかのように、プブリウスはかけられた言葉を噛み締めていた。大丈夫と何度も繰り返し言い聞かせる、スキピオの祈りの先にあるのが彼の子のことではないと、気がついていたかどうかは分からない。
その年はじめての雪が降った寒い夜に、スキピオはマシニッサから連絡を受けた。すぐに出られるのならば車を回すと言われ、断った彼に、マシニッサは食い下がらなかった。その翌日から数日、彼は学校に姿を見せなかった。
何のためかは確かめずとも分かったし、こちらから尋ねればマシニッサは答えてくれただろう。上の空で過ごすスキピオに周囲は不思議そうではあったが、深く詮索されることはなかった。
そしてそれからいくらも経たない頃にアエミリアヌスが現れたのは、奇しくもまたハンニバルが隣にいる時だった。スキピオの希望で足を運んだクリスマスマーケットに、赤いコートを着た男の子がひとり佇んでいた。最初にそれに気がついたのも、スキピオでなくハンニバルの方だった。
「またひとりか?」
そう声をかけられて、アエミリアヌスはいつかのようには怯えなかった。振り向いた彼の背後で、飾り付けられた大きなツリーの電飾が輝き始める。
「ひとりじゃありません」
「それならいい」
「……デート?」
こともなげにそうだと首肯されてアエミリアヌスが子供らしからぬ据わった目をしたが、生憎こちらもそういう反応には慣れてしまっている。スキピオの手元に気がついたアエミリアヌスはすぐにその険しい顔を引っ込めた。
「手袋、着けてくれてるんですね」
「うん。暖かいよ」
「よかった」
「君は……あれからどうしてたの?」
「先生のところにいるんです」
そうしてアエミリアヌスが指差した先に、二人連れがこちらに向かってくるのが見えた。先生と指された男が両手に湯気の立つカップを持ち、そばにもうひとり、アエミリアヌスよりいくらか年長の男の子がついている。
その子は自分たちへの視線に気がつくと、軽い足取りで駆け寄ってきた。まずアエミリアヌスの手を取って、ぎゅっと握ったままスキピオたちを見上げる。人の目を惹くような可愛らしい顔立ちをした子だったが、途轍もなく明白な既視感があった。
「ラエリウス、スキピオさんと、ハンニバルさんだよ」
「ラエリウス……?」
「はい。こんにちは」
同じ名を持つ幼馴染の面影がある、しかし似ていると言おうとすると似ていないところが目につく。唯一無二の家名でもあるまいしありうる偶然なのだが、帽子から除く亜麻色の髪は全く同じだった。
ホットチョコレートの甘い香りが彼らの間に漂う。ゆっくり歩いてやってきた『先生』が子供たちにカップを渡し、こちらに会釈した。三十そこそこか、あるいはもっと上か、判然としないが、きちんとした印象の人物だった。
「おふたりのお話はかねがね」
「……あなたがアエミリアヌスを引き取られたんですか」
「縁がありまして。グルッサの骨折りのお陰です、彼も肩の荷が降りたでしょう」
「あの子も?」
「いえ、今日は引率の先生を務めているだけです」
グルッサが知っているのなら、マシニッサも承知だろう。スキピオはあの友人が任せたならば信頼できるのだろうと納得できた。カップを傾けている子供たちの様子からも、そう思うことができる。
マーケットの会場となっている広場の中央から、讃美歌が響いていた。
「もし、この子たちの話を誰かにすることがあれば、心配いらないとお伝えください。また会うこともあるでしょうと」
『先生』は答えを聞かずに子供たちの手を引いて去っていった。彼らが人混みに紛れたあとになって、意味のない小声でスキピオは言わないでいられなかった。
「……遠い親戚?」
「そう簡単な話ならいいが」
「マシニッサのせいで簡単な話と思えない……ガイウスに聞いておじさんたちに修羅場が生まれたら僕のせいかな……」
興味を惹かれないらしいハンニバルはさっさと広場の出口の方へ向かってしまう。その腕を引き見て回ったマーケットで、もうあの三人とは出会わなかった。
「スキピオが来たんですってね」
入ってくるなりのアエミリアの言葉に、プブリウスは苦笑で答えた。術後、面会に応じられるようになってすぐ来てくれた『母』に対してあの人を庇う方法はないに等しい。
「ハンニバルも一緒だったそうですよ。ここまでは来ませんでしたが」
「呆れた……」
アエミリアは肩を竦めつつも、プブリウスが心底可笑しがっているのでそれ以上は言わなかった。彼女が来る日にはアエミリアヌスが家にいたがるので、病室には彼ら二人きりだった。
備え付けの小さな冷蔵庫を開いて、中のものが減っていないのをプブリウスは知らぬふりでいる。いくつか増やされたゼリーなどをアエミリアヌスに勧めても、あなたのためのものでしょうと言って助けてくれないのだ。
椅子に腰掛けたアエミリアは、スキピオと同い年の、面差しにあどけなさの残る十六歳の少女でしかない。それなのにかつてはその齢で自分を身籠ったのだということが、今となっては残酷としか思えなかった。
「アエミリアヌスはやっぱりパウルスには会わないんですって」
「自分でそう言ったんですか?」
「ええ。問い詰めたら白状したわ。パウルスにまだ子供でいて欲しいのだそうよ。クィントゥスと話し合ってもう決めたんだって」
ふたつ違いのアエミリアの弟は、物静かで笑顔の少ない少年に戻ってしまっている。しかし一方で気鬱の晴れた父親に気を遣われ機嫌を取られているのを見るのは、アエミリアとしても胸のすく思いだった。それに、そんなふうに『父』を思う子供らの気持ちを無碍にできるほど冷たくはない。
「ファビウスおじさまは孫がちっとも寄り付いてくれないから悲しんでる。本当に気を遣わせる男ばっかり……」
つんとした物言いでも、プブリウスにはアエミリアの心情がよく分かった。
「申し訳ありません、母上だって子供なのに」
「いいのよ。どうせ、昔だって子供らしくしていた覚えなんかないもの」
拗ねるでもなく言って、長い髪を指に絡める
彼らがグルッサを介して再会した三年前、四歳の我が子を抱いたプブリウスの姿を前にしてアエミリアは長いこと無言だった。幸せなのねと笑うまでに彼女に去来した思いまでは、プブリウスにも察することができない。
「……ルキウスは来たの?」
「来ましたよ、伊達眼鏡をかけて」
弟は──もう血の繋がりはないが、そう呼ぶのに違和感がない──誰が探すよりも先に、テレビの中に見つかった。知名度急上昇中の俳優。テレビに映し出されたよく知る顔を見たプブリウスとアエミリアヌスが顔を見合わせたのも、もう笑い話だった。
「でも、父上や母上と会うのはまだ怖いみたいで。会えて嬉しいと言ってほしいんでしょうね。それにはもっと有名にならないと」
「変な子になっちゃって……」
「不摂生はしないと約束させました。ゴシップもなし」
線の細いのは変わらないが、過酷なスケジュールを熟しているのだから頼もしいものだった。
半ば仕事、半ば義理としてアエミリアヌスらのために動いてくれるグルッサは、誰をどこに見つけても無断で連れてくることはない。だから、プブリウスは妹たちとは会っていない。どちらもまだ十代、姉妹として生まれて穏やかに暮らしていると知って、それを壊したくはなかった。プブリウスも、過酷な人生を背負う妹たちに子供でいて欲しかったのだ。
長いこと話して、いささか息が詰まる。浅くゆっくり息を吐く仕草にすぐに気がついたアエミリアが席を立った。
「もう行くわ、用事があるの」
「……はい」
「プブリウス」
「はい?」
「どうして私とは会う気になったの」
きょとんとしたプブリウスの目には、アエミリアは庇護すべき少女として映る。ならば会わずにいるのが、理屈に合っているかもしれない。
「あなたは自由だと知ってほしかったのです」
スキピオは、もう彼女と幼馴染以上の関係を考えもしないだろう。それでも同じ親から生まれ、同じ弟を持ち、周囲に似たような家族が数多いるアエミリアがひとつの考えに囚われてしまわないかと。
幼い頃、自らの記憶を振り返ることができるようになってすぐ、プブリウスはその必要がないと悟った。それは妻にもう一度選ばれ、アエミリアヌスを我が子としてこの世に迎えて確信となった。
「余計なお世話よ」
ぷいと向けられた背に、お気をつけてと声をかけた。コツコツと軽い足音が遠ざかっていく。
次、スキピオと会うことがあれば、お別れを言おう。ゆらゆらと睡気に身を任せながらプブリウスは心に決めた。私のことなど忘れてしまってくださいとは、もう言えないから。