結び目を連れて
いつも彼を思っていたなどということは、もちろんなかった。
葬儀を境に思い出すことは日毎に減り、そのきっかけもまばらになって、人が彼の名を口に上らせる時、そこに浮かべられるのは血肉の通った人間ではなく、ただ名と行いとだけがなぞられるようになっていった。
息子たちの栄達を見届け、多くの孫たちが育つのを見守る日々に、彼を思い出さねばならない瞬間はなかったのだ。年老いるうちに同輩の数が少しずつ欠けていけば、老人の愛する思い出話に彼の姿の見えることも少なくなっていった。ただ一度、ファビウスの一人息子がローマに建てた最初の凱旋門、そこに並ぶ彼の一族の像を指さした孫のひとりが、あれは誰かと祖父に尋ねた。
スキピオ・アフリカヌスは子を残さなかったが、その実父と兄とともに、甥が帯びる輝かしい名の一部としてそこにいた。
アフリカヌスと言われ子供用のトガを身に着けた孫はどちらの方かと少し迷ったあと、教わった諸貴族の系図を思い浮かべ、恐れ知らずの好奇心を浮かべた目で祖父を見上げた。
「お祖父様のお友達だったんですよね」
子供達には、思い出のより良いところばかりが伝わっていく。元老院で、フォルムで、あるいは法廷で、容赦なく繰り広げられた争いではなく、それ以前に彼らの間に結ばれていた友情を、あるいは対立を越えて示された敬意を、父親たちから教わっている。
答えずただ笑っただけの祖父に、孫は瑞々しい感動を宿して像に向き直った。アロブロギクスの添え名を得たファビウスは、このように見上げられることをこそ望んだのだろう。ただ祖父や父、同じ名を負う者たちばかりでなく、こうして多くの家名の主が像を並べた者の背に光輝を注ぐことは、あまりない。パウルス・マケドニクスが息子たちを名家の養子とした時に望んだのも、この光景であったはずだ。
ファビウスとともにその年の執政官に選ばれたのはオピミウスで、彼らの就任から間もなく、ガイウス・グラックスが死んだ。ローマはまたも市民の血を浴び、ガリアでの勝利により吹き込んだ風では、その怨嗟も、生温く漂う血の臭いも消し去ることはできなかった。
憂いのない孫は祖父や父の考えを通してばかりそうした出来事を見ている。グラックスは殺されるようなことをしたのだと、信じると表すまでもなく理解するのは、敬う者たちをこそ信じるからだ。
多くの者に囲まれ、慕われ惜しまれて死んでいくとき、満たされるばかりではなかった。確かに不吉な気配を感じ、数多くの血族が飲み込まれていくであろう波の高ささえ推し測れなかった。だが、なすべきことを成した。自らの腕のかぎり、持って生まれた器のかぎり、信じた通りに生きた。
闇とも、光とも分からぬ眩んだ視界の中で、口々に名が呼ばれる。自分が死んだのは真昼のことだったと、メテルスははっきり覚えている。
ふたり分のランチボックスを閉じたところで、テーブルの上でスマートフォンが鳴った。朝食の途中だったカルウスがそれを取り上げ、二言三言交わしてから兄を見やる。
「いまからテレビでインタビューが流れるから観てって」
「嫌だ」
「嫌だって。うん、分かった。じゃあね」
今日も帰りは日付が変わってからになるらしいと、まったく慣れたこととしてカルウスはスマートフォンを元の位置に戻す。ふたりが目覚めるより先に家を出た母がこうして連絡を寄越すのはほとんど毎日のこと、律儀なものだった。
保冷バッグに包んだランチボックスをテーブルに置き、メテルスも席につく。朝食は弟が用意し、学校に持参する昼食は兄が、というのが、その下準備を済ませて家を出る母の指示である。
祖母と共に子供向けアパレルブランドの経営に邁進する兄弟の母親は、かつて、彼らを産んだのと同じ女性だった。ただ彼らの記憶に残る、年の離れた夫の看取りに精魂尽きて枯れたように生きていた貴婦人の面影はない。
かつて、とか、昔の、とか彼らが呼ぶ、古い時代の記憶は、母子の家庭においてあまり問題になったことがない。幼い頃には記憶に苦しめられもしたらしいが、祖母の教育により目覚めるもののあった母は現代を謳歌し、我が子らを「娘を育てるように」育てることにした。昔の考え方で言えば娘にしか教えないことも息子たちに教えることにしたという意味だ。
そのおかげで、トーストと果物を添えたヨーグルトを用意する、サンドイッチを作ってランチボックスに詰める、それくらいのことでぐだぐだと文句を言うような人間には育っていなかった。
「今日、おれのクラスに転校生が来るらしいんだ」
「この時期にか」
「やっぱり珍しい? そもそもうちに転校っていうのも珍しいか」
カフェオレのカップを傾けるカルウスは、母の席に積まれた雑誌やパンフレットをちらと横目にして、「ラエリウスの情報なんだよ」と意味深に言った。
ラエリウスは、メテルスのクラスメイトである。現在の情報としては、そこにもう一つ、母親同士が友人であり、母のアパレルブランドのモデルに起用されているというものがある。二年ほど前、母が嬉しげに見せてきた雑誌に兄弟は目を見合わせた。彼女はラエリウス・サピエンスをよく覚えていなかった。
ラエリウスの方は彼の母親たっての願いで、母の喜ぶ顔が見れるならばと引き受けているらしい。ラエリウスがカルウスも進学を予定していた、メテルスの通う学校への入学が決まった時点で、彼らの縁はしっかりと結び直されていた。
カルウスはこの秋に小学二年生になった。十二月の初旬、ひと月と経たずに冬季休暇に入ってしまうことを思えば、珍しい時期での転校生だった。そして弟の言う通り、彼らが通うのは大学附属の私学で、転入にも試験を必要とする。
しかしラエリウスら五年生からすれば、二年生の転校生などそもそも興味の対象ではない。
「まあつまり、誰かなんだろうな。誰だったらいいと思う?」
「ラベオでなければ誰でもいい」
「兄上……」
「そろそろバスの時間だ」
カルウスは含み笑いを隠さずにカップを空にし、食器をシンクに運んだ。
学校指定のコートを着込んだ兄弟がマンションを出ると、ちょうどスクールバスが所定の場所に停まったところだった。カルウスが兄の手を取り、彼らの部屋で見せたのとは違う顔を作る。
「行こ、兄さん」
彼らがバスに乗り込むと、いちばん後ろの席にラエリウスの姿があった。彼はメテルスに気がつくと、再会してからついぞ見せていなかった、かつてと同じ揺るぎのない穏やかさで目を細めた。
アエミリアヌスと名乗った。
「でも、スキピオでいいです。いまも長い名前の一部ではあるので」
同い年のはずの弟よりもいくらか幼く見える容貌で、その子供は慕わしげな仕草でメテルスを見上げた。彼の手をしっかりと握るラエリウスは、この世の幸福を編んで作り上げた人形のように現実味のない存在と化している。
何度繰り返しても。いつか、スキピオと一緒ではないのかと迂闊にも尋ねたカルウスにラエリウスは言った。何度生きても出会えない。あなた方は二度目ですか、いいですね。今回はどうやら、みんないるみたいですから。
放課後、教室に駆け込んできた弟に連れられてやって来たのは大学のキャンパスだった。ただでさえ子供の足には遠く隔てられた敷地を早足で渡り、たどり着いたのは幾度か入ったことのある建物であり、馴染みのある相手が彼らを待っていた。
ポリュビオスは彼らの通う小学校の附属する大学で、准教授の職を得ている。彼の研究室は親の多忙により放課後に時間を潰す場所を求める彼らの憩いの場となっていた。
スキピオは、そこでメテルスらを迎え、ほっとしたように息をついた。
「学校に通うのは初めてで、ラエリウスも学年が違うから、カルウスがいてくれてよかった」
そう言って、七歳の子供の身で語るには複雑ないきさつを簡潔に述べた。たったひとりの家族であった父親を亡くし、ポリュビオスのもとに身を寄せることになった。これまでは家庭学習を行ってきたが、ポリュビオスの勧めで転入を決めたと。
ポリュビオスが作ったココアと、同僚の土産だという菓子とが子供たちの前に並べられる。資料を山と積んだ机での仕事に戻った物静かな男は、スキピオの説明を補わなかった。
狭くはないはずの研究室は、壁の全てが本で埋め尽くされているために常に圧迫感を覚える。しかしメテルスは、この息苦しさをそのためと思い込むには長い記憶を持ち過ぎていた。目のかすみも関節の痛みもなく起床のための準備運動を要する老体から抜け出した喜びをポリュビオスと分かち合ったとき、柔軟になられたようだと言われた。
そうではなく、単に、老いて弛み適当になった部分がまだ残っているのだ。
「メテルス?」
カルウスとクラスについて話していたスキピオが、向かいの席から首を傾げていた。メテルスは自分がこの部屋に入ってから黙りこくっていることに気がつき、子供の目というのは比喩ではなく透き通っているなと思った。
「スキピオ、気にしなくていい。たまにおじいちゃんになるんだ」
「ええ?」
「兄上がいくつまで生きたか知ってるか? 八十だぞ。ポリュビオスもだけど、自分の若さについてけてないんだよ」
「カルウス、言い方がひどいよ」
メテルスは好き勝手言う弟を一瞥したが、咎めなかった。かつてならこうして説明役になろうとした時点で黙らせていた、スキピオもそう思ったらしい。
「……幸せなおじいちゃんでしたか?」
「孫は可愛かったよ」
「そうでしょうね。メテルスって……小さい頃はご子息そっくりだったんですね……」
それも、否定するほどのことではなかった。母親は長男を安上がりの撮影素材としようと試み、息子たちには天真爛漫な笑顔が浮かべられないことを発見して断念していた。
メテルスはスキピオの隣に視線を移した。ずっと、スキピオから目を離していないラエリウスに。カルウスがひそひそと耳打ちをしてよこす。
「外ではこんな感じじゃなかったよ」
「そうだろうな」
本当は膝に乗せていたいのではないだろうか。かつてと変わらず小柄なスキピオならば難しくはなさそうだった。
スキピオは注がれる視線をものともせずココアを飲んでいる。
「他に誰と会った?」
「兄のファビウスと、アエミリア様、それにグルッサとマシニッサ殿……アフリカヌスとハンニバルにも」
「何?」
「高校生でした。ローマ人とカルタゴ人が異常な密度でひしめき合っている地域があるみたいです。近づかない方がいいですよ」
「そうさせてもらう。……こちらはさほどの人数ではない、探していないからだろう」
世代や年齢差が入り乱れていることは承知していたが、ハンニバルとは。
でも、とスキピオがラエリウスを振り向く。ラエリウスはずっと微笑を浮かべていたがそれが花咲くように輝いた。
「ラエリウスの父君もそこに。知ったならきっと会いたがるだろうね」
「僕も会いたいけれど……」
「会った方がいい」
ふたり揃って、メテルスのきっぱりとした物言いに目を丸くする。
「もう一度我が子に会おうとして妻を探すところから始めたらどうする。止めてやるべきだろう」
「そんなこと……あるでしょうか……」
「発想としてはあり得る」
「……あの、ぼく、兄さんと相談してパウルスには会わないことにしたんですけど……」
「パピリア様が愚かな結婚をするとは思わないが」
パウルスについては、後妻の方を心配するべきかもしれない。幼くして亡くした息子たちを求める思いの方が、あるいは他家で健やかに長じた子らへの思いに勝らぬとも限らない。そしてかつて母親だった女が、そのために何を犠牲にするか。
あなたは? スキピオが言葉にせずに問うていた。おそらく彼にはあり得ない発想だろう、かつてと同じ女性を探し出し再び結婚するという選択肢は、メテルスには数の一つになり得る。
四人の息子。二人の娘。彼らが手を離れるまでを共に見届けた妻。
三人分の疑問がメテルスに向かっていた。メテルスは、弟の葬儀にも参列したのだ。誰も彼の人生の全てを知らない。
「あの女は一度やり遂げた仕事を繰り返すことを選ばない」
素晴らしい妻だと言えたが、変わり者でもあった。そのおかしさはメテルス以外に知られることなく、彼らが情愛以上に情熱で結びついていたことも知られていなかった。語ったことがないのだから当然である。
「子供達はどこかに生まれるだろう。そしてそれぞれに生きていく。私は何も案じていない、あの子たちには古い父親などもう必要ないのだから」
しん、と研究室に沈黙が降りた。
「……よく喋るようになったよな?」
カルウスが何故か声を潜めて言うのに、メテルスは今度はその頭に拳を落とした。
マケドニアへ向かう軍団の中で執政官の息子たちは毛色の違う存在だった。それは民衆の強い後押しに押し上げられたパウルスへの敬意が彼の息子たちにも及んだとも言え、あるいは、若い彼らが生家を出て負う名がそれぞれに長い歴史と数多の高名な父祖を持つものだったからとも言えた。
しかし、スキピオについては、またひとつ理由があったはずだ。
彼は群衆に埋没するということがなかった。数多の兵士や奴隷がひしめく陣営においてスキピオを探すのに苦労した覚えがない。兵士たちは少年に気が付かず見過ごすということがなく、居場所を探せば次々に指差される先にその姿があった。
だから、ピュドナでの戦いののち彼が帰らず、それが発覚するのが遅れたのは、それだけ勝利のもたらす酔いが深かったということだろう。陣営が蜂の巣を突いたような騒ぎとなり、パウルスのために誰もがスキピオを探した。
主戦場から外れた場所にその姿を見つけたとき、メテルスはどうして自分までもが彼を見失ったのかと疑った。初陣の高揚、勝利の気配に包まれ、マケドニア兵の死体を足元に血に汚れながら、スキピオはメテルスを振り返って屈託なく笑った。
戦争をひとつも怖がらない男だった。親しい者たちの死に打ちひしがれ誰に憚ることなく涙しながら、ひとつの王国、ひとつの都市の最期に胸を詰まらせながら。
──彼らが再会したのちも、季節は滞りなく巡った。
日差しのもとにいるだけで肌が汗ばむのを感じる盛夏、涼しい研究室には子供ばかりが屯していた。
この大学を会場に研究会があるというのでポリュビオスが留守にしていても、スキピオやラエリウス、メテルスらは勝手にそこで過ごしている。
夏休みに入ってもポリュビオスのもとに集まる子供たちを、親たちはむしろ喜んで送り出していた。同世代の子供達に馴染まない我が子が、身元のしっかりした大人に懐いて、どうやら勉強なども見てもらえているようだと。サマーキャンプに放り込まれることを思えばどんな誤解もありがたいものである。
課題を黙々とこなしていたラエリウスが、ふと時計を見上げ、研究室の扉を見た。
「スキピオ、遅い気がする」
トイレに行くと言って出て行ってから二十分ほどが経っていると、言いながらすでにラエリウスは席を立っていた。メテルスは、カルウスにここに残るよう言ってそれに続いた。どちらかと言えばラエリウスがおかしな言動を取らないかと思ったのだ。
教授棟と呼ばれている建物は、やはり学期中以上に人の気配がない。廊下の照明までも昼間は落とされて、昼前の頃合い、北向きの窓からの光は幽かだった。
研究室から一番近いトイレを覗いたラエリウスが、首を振りながらすぐに出てくる。
「……僕はこの階と上を見るので、下に降りていただいていいですか?」
建物は四階建て、ポリュビオスの研究室は三階にある。ラエリウスはすでに青褪めていた。
メテルスは頷き、気をつけるよう言ったが、それが彼に届いたかは怪しかった。階段を下りながら思い出すのは、長じてからの風貌に幼い頃の面影が残っている方が危ないというポリュビオスの談だった。
「たとえばメテルス殿は印象がまるで変わるので、かつてのあなたと今のあなたを結びつけるのは容易ではない。しかしラエリウスやスキピオは、さほど変わりないでしょう。ラエリウスは見知らぬ大人に突然抱き締められたことがあるそうです。かつてあの方を崇拝していた者が感激しての行動だからまだ良かったが、そうでない者も、必ず、私たちと同じように生きている」
恨みや、憎しみを、どれほど受けながら生きたか。踏み躙り征服した者たちの悲哀を、かつての彼らは我が身の苦しみとしなかった。ひとりの人間が目の前で吐く怨嗟でさえ取るに足りぬものと見做し無視することができた。
彼らにそれを許してきたものはもうないのだと、メテルスはその男の目を見て悟った。
一階と二階の間、階段の踊り場で、スキピオは壁際に追い詰められていた。その両腕を掴み、ほとんど吊るすようにして彼に迫っていた男は、泣いていた。
「──誰だ?」
学生だろうか、まだ若い。見開いた双眸がメテルスを見たが、相手が誰かは分からなかったようだった。知らなかったのかもしれない。
それは怖がっている人間の目だった。口元を震わせ、スキピオを見下ろした男は恐ろしいものに対するように震えている。
その顔を見返したスキピオには表情がなかった。紙のように白い顔をして、じっと男を凝視していた。そこから何かを探し出そうとしている。階段の半ばから、メテルスは動くべきかを考えていた。男はメテルスに注意を払っていない、踵を返し、研究室の扉を片っ端から叩くのが、この幼い体にできることだ──そう決めた刹那、スキピオが「おまえは」と呟く。
「カルタゴの……」
火に触れたように男が掴んでいた腕を振り払った。投げ出された子供の体が、視界から消える。
「スキピオ!」
それを追ったメテルスの隣を誰かが通り抜けた。階段を駆け上がったその誰かが、男を床に組み伏せる。階下にスキピオの姿を見て、メテルスは止めていた息を吐いた。
落ちるスキピオを受け止めたのだろう青年が、意外そうに腕の中の子供の顔を覗き込んでいた。
「アエミリアヌスか?」
茶色がかった黒髪と、それがかかる秀でた額、それに、怜悧さを隠しもしない紫の眼。
スキピオは青年の顔を呆然と見返していたが、ほんの浅く頷いた。駆け寄ったメテルスの背に啜り泣きが聞こえてくる。嫌な空気が、男を取り押さえているもうひとりの青年から漂っていた。
下ろされたスキピオがへたり込むのをメテルスは支えたが、先ほどよりずっと、逃げた方がいいと感じていた。青年は大丈夫かとスキピオに問う。そこに特別思うところはないように聞こえた。
躊躇いがあったが、スキピオはとうとう青年の名を口にした。
「ハンニバル、さん……ありがとう……」
そう呼ばれた青年はスキピオとメテルスとを見比べたあと、階段を上がっていく。
「絞め落としたのか」
「いやだって……聞かせられないだろ……」
言葉の通り、男はぐったりと意識をなくしているようだった。聞かせられない、というのがひどく思いやり深い言葉に聞こえた。これほどに惨いこともない。
連れの青年はハンニバルといくらか押し問答を繰り広げたのち、スマートフォンでどこかに連絡を入れる。こちらを見た顔をメテルスは知らなかったし、スキピオもそのようだった。
「スキピオ? アエミリアヌス? どっちだ?」
「マハルバル、それはいい」
「よくないな。どっちでもあるなら。……そっちは?」
ついでのように水を向けられ、メテルスは首を傾げた。
「マケドニクス」
マハルバルは目を瞬き、至極嫌そうに顔を顰める。
「……助けることなかったんじゃないか? こいつら」
「お前が先に飛び出して行っただろう」
「そりゃぱっと見は小学生が不審者に……」
階段を駆け降りてくる軽い足音と、どこかの研究室の扉が開く音が聞こえ、ハンニバルらが踊り場から上階に目を向けた。彼らなど見えていないようにそのそばを抜けて、走り寄ってきたラエリウスがスキピオを抱き竦めた。
嗚咽が聞こえ、スキピオの小さな手がラエリウスの背を撫でる。
踊り場では、細面の男が状況に面食らって立ち尽くしていた。
「ちょっとマハルバル……何をなさったんですか?」
「シレノス! 俺を疑うな!」
ポリュビオスが戻った頃には、男も彼らも姿を消していた。明らかに公的機関から来たのではない者たちに連れて行かれた男は、おそらくここには二度と現れないだろうが、悪いようにはされないはずだ。
研究室で待っていたカルウスは戻ってきた兄たちの有様にぎょっとし、習い性で兄の顔を窺い、口を噤んだ。部屋にはしばらくラエリウスの泣くのばかりが聞こえ、ポリュビオスから渡された保冷剤を腕に当てながらスキピオはぼうっとしているように見えた。
「声が出なかったんです」
不意にぽつりと言って、赤く手形のついた手首を掲げる。
「昔なら、どんな時でも大声が出たのに、喉が詰まって……」
あの人たちはそんなことひとつもなさそうだった。そう続けた声音が羨むように響き、幼い頬に苦笑を浮かべる。それが、無力さに苛まれていたあの頃のスキピオと同じ笑い方だった。
「ぼくがあの人みたいに何も覚えていなかったら、彼はぼくを殺せたかもしれない」
メテルスも、ラエリウスも、腕ではなく白い首を見ていた。そこには傷ひとつ、痣もない。
八十年分の記憶。老いと、過ごした時間とは、ひとつの人生をなだらかに均した。生きて死んでいくために必要なことだった。だが、いまここにいるのは、過ぎゆくものを見送るほかなかった老人ではない。
あの朝──夜のうちに悪意が満ちて、突然、失われたものを、メテルスは惜しんだ。その理由を、息子たちに伝えうる言葉に包んで。
「貴公の棺を誰が担いだと思う」
スキピオは、マクシムスとトゥベロかなと、あまり考えないで答えた。
「私の息子たちが貴公を運んだ」
「……そう、だったんですか?」
「そうだ。そうするほかに、守る方法が思いつかなかった」
「守る……?」
戸惑いに満ちた声で、スキピオはラエリウスの方を見た。何の話をしていると問うように。ラエリウスは真っ赤になった目で薄く笑い、首を振った。
再び出会い、こうして過ごすようになってからのスキピオは、かつて対立の生まれるより前の、良き友人でありたいと臆面もなく口にした頃と同じように振る舞っていた。それが許されるのが嬉しいのだと隠さないで、ただの子供のように過ごすこともあった。
「私は君を失うのが怖い」
スキピオはぽかんとして、なかなかその言葉に追いつけなかった。冗談だとか嘘だとか言われるのを待っているようでもあったが、メテルスはそれきり口を閉じたので、混乱に包まれたスキピオに助け舟が出されることはなかった。
子供の時間は、ゆっくりと流れていく。経験が時間の感覚を変えていくものだと言うが、現代において過ごす時間にかつてと同じと言えるものはほとんどなかった。
互いを探してもいないのに再び出会う者たちがあり、時折の招かざる変事をやり過ごし、彼らはいつしか、新しく生きることに慣れていった。それは、これが何かを清算するために与えられた時間ではないのだと、納得して受け入れることでもあった。
「僕はスプリウスに会いたかっただけなのに、ムンミウスがついてきたんですよ。懐かしいなとか言って。あの人全然変わってないんです、ぜんっぜん!」
憤懣やるかたなし、といった口ぶりだが、内容のくだらなさにメテルスは適当に相槌を打った。あなたにも会いたいらしいですよとスキピオが言うのには御免だと返したが。
助手席のスキピオはその邪険さに満足したらしく、スプリウスは元気そうで良かったと笑った。この日本当に久しぶりに会うことのできた友人がまた同い年で、それも嬉しいらしかった。あの兄弟は遠方に暮らしているのでそう頻繁には会えないが、こうして出かけていくのも苦ではないと。
「パナイティオスの連絡先を教えたら喜んでました。留学しようかなって」
スキピオはこの冬に十七歳になっていた。一人で遠出をするのに誰の手助けもいらない。しかし、メテルスがこうして駅まで迎えの車を出しているように、彼らはひとりで行動することを互いに歓迎しなかった。十年の間に色々とあったのである。
例えばポリュビオスは十年前とは異なる大学に教授として招かれて、スキピオはいまひとりで暮らしている。ラエリウスが両親と暮らすのと同じマンションに部屋を借りているので、一人暮らしとも言い切れなかった。
「メテルスは院試を受けるんですよね?」
「ああ」
「マニリウスさんが喜びます。……僕も嬉しい。遠くに行ってしまうと寂しいから」
スキピオは窓の外に顔を向けて、聞こえるかどうかの声で呟いた。
十八時を過ぎてすでにあたりは暗く、車通りは疎らだった。大学を中心にして広がる街では特に注意の必要な時間帯でもある。わずかな手間を惜しむ気忙しい若者が、大学から出てくる頃合い──
「わっ!」
ブレーキを踏んだと同時に咄嗟に腕を伸ばして押さえた身体の軽さの方に気を取られる。轢きかけた若者への関心はその時点で半減していた、顔がよく見えたから。
再会というのは、常にこうして訪れる。
歩道から飛び出してきたところでライトに照らされ鹿のように固まっていたポンペイウスは、車内に知った顔を見つけ、まったく嬉しくなさそうに笑った。助手席のスキピオがその笑みにげんなりとした顔で応えた。
このままアクセルを踏み込むか、避けて通り過ぎるか、本気で検討した後で車を端へ寄せた。ポンペイウスが運転席を覗き込んでくるのに窓を開く。
「怪我は」
「ないよ。当たってもないし」
きっちり確かめる気になれなかったので、そうかよかったなと閉じようとした窓ガラスの上にポンペイウスの手がかかった。
「でも殺されるかと思った」
「笛吹きの息子……」
「喧嘩売ってんのか、坊ちゃん」
スキピオはふんと鼻で笑ってポンペイウスと目を合わせなかった。
「轢いちゃえばよかったですね」
「揉み消す伝手があればな……」
生憎、電話一つで人間をどこかに連れて行ってしまうような知り合いはいない。かつて出会したその種の者たちには、あれ以来出会うことはなかった。
何か言おうとしたポンペイウスの大きな目が、自分の鼻先を、次いで暗い夜空を見遣った。ぽつりと雫が屋根を叩く。ぱたぱたと軽く跳ねた音が、ざっとひとまとまりに辺りに降りつけるまでにいくらもかからなかった。
ロックを外すとすかさず後部座席に乗り込んだポンペイウスが、はあやれやれと息をついた。
「メテルス殿のことは大学で見かけたことあったんだ、声はかけなかったけど」
「その思慮を法令遵守にも回したらどうだ」
「ちょっと飛び出しただけじゃん」
「飛び出しにちょっとも何もないよ……」
下宿が近いのかと問うと寮に入っていると言う。学生寮は送り届けるまでもない距離だが、雨足が弱まる気配はない。
「戻るとこだったんだけど、腹減ったな」
「降りろ」
「降りなよ」
「なんだよ、久々だっていうのに。デートの邪魔したから怒ってる?」
「何を言ってるんだ君は」
心底訝しげに、不快そうでさえあるスキピオにポンペイウスはじゃあ何なんだよと悪びれない。メテルスは何も言わずにハンドルを回した。
「内乱になったっていうのは聞いた?」
まんまとただ飯にありついたポンペイウスがそう言い出したのは、未成年と運転手を前にビールの三杯目を空けた頃だった。まったく遠慮がないのは相変わらずらしく、嫌な話を切り出すにも躊躇いがなかった。
学生街のレストランは騒がしく、彼らの会話は声を潜めるまでもなかった。それでもスキピオの声が低くなったのは、その内心の表れだっただろう。
「……いつの話?」
「親戚に顔の可愛いちびがいるんだけど、覚えてるクチなんだ。そのグナエウスが言うにはもうめちゃくちゃになって……まあまだ言葉が出始めの幼児の話だからよく分からなかったんだけどさ。俺たちが死んでしばらくして内乱になったんだと」
語るポンペイウスにそれを嘆く様子はない。スキピオの顔は曇ったが、彼にも、メテルスにも、実際のところ予想外の話ではなかった。スカエウォラやファンニウスをスキピオたちに引き合わせたのはパナイティオスで、まだ幼い彼らの代わりに聞き出したことを伝えてくれていたのだ。
世代を下るにつれて、メテルスらに対して口籠る者が増える。それは思い出すのに苦痛を伴うという以上に、尊敬を捧げる者たちに惨い話を聞かせる躊躇いによるものだった。
「あんたにも絶対責任があるぜ」
ポンペイウスに指差され、スキピオはその指を押し除けた。
「それはユグルタのことだけでも十分だよ」
「そういう話じゃない。あんたのやり方を学んだ連中が自分の軍隊を持ったんだ、人気さえあればこんなことができるって教えたのはあんただろ」
「僕はそれをお祖父様に学んだ」
吐き捨てるような冷たさにポンペイウスは懐かしげに目を眇めた。だがそれ以上饒舌になることはなく、八つ当たりをしたと言って椅子に背を凭れさせる。
「あのちびがあんまり泣くから。虚しくなって、あんたがカルタゴで泣いた理由が分かったんだ」
「……君、あんまり酒に強くないんだね」
「そうかもしれない」
昔とは酒も全然別物だからとぬるくなったビールを流し込む。ただ誰かに打ち明けたかったのだろう、とメテルスにも分かった。この時代にうまく順応しているポンペイウスにさえ割り切れないものがあり、捌け口を求めている。
若者たちの箍の外れたような笑い声が店に響いていた。どこにどんな記憶を抱えた人間がいるか分かったものではないというのも事実ながら、飲み食い、笑う、彼らはローマなどという名さえ知らない。地図の形が違う、歴史が、文字が、言葉が違う。
「ローマは滅んだと思う?」
「それを知ってる奴に会うことがないことを願うよ」
雨が止んだようだとポンペイウスが杯を置いた。一度は知らぬふりをしたという言葉の通り、彼がメテルスやスキピオに自分から関わりを持とうとすることはその後なかった。
それがああもおしゃべりな男だと、闖入者がいなくなっただけで、いやに静寂を強く意識させられる。スキピオがいたずらに操作するカーオーディオから流れては切り替わるラジオの音ばかりが車内に響いていた。
土曜日の夜を楽しもうとする者たちに向けた軽い調子は上滑りして、スキピオの気分にはそぐわないようだった。
彼のマンションが近くなったところで、黙りこくっていたスキピオが辛抱できなくなったように顔を上げる。
「今日泊まっていってください」
「ラエリウスのところに行けばいいだろう」
「今日はお母さんの誕生日なんですよ、流石に邪魔したくありません」
「ポリュビオスに電話をかけろ」
「声を聞いたら会いたくなっちゃうじゃないですか」
「今更じゃないのか、それは」
もう高校生になるのだから平気でしょうと言われて「平気じゃない」とめそめそ泣いていたスキピオを、ポリュビオスはあっさりと置いていってしまった。アカイアに帰った時を彷彿とさせる未練のなさは、おそらく信頼によるのだろうが。
お互いの家に泊まることは、幼い頃には頻繁にあった。メテルスの母に限らずポリュビオスも、ラエリウスの両親も、自らの仕事への情熱と子供とを天秤にかけられない種類の人間で、保護者同士が打ち解けあってしまうと、多忙な彼らにこれほど便利な繋がりもなかっただろう。
しかし、それは保護者を必要とした頃の話だ。スキピオとラエリウスが大抵の兄弟よりも長く共に過ごすのとも話が違う。
「明日予定があるんですか? 日曜にも勉強会が?」
「……いや」
「誰か待たせているとか」
「そんなものはいない」
それじゃあいいでしょうとむしろ訝しげなスキピオの感覚は、幼い頃というよりも昔、奴隷を何人も抱える屋敷の主人だった頃のものを引きずっていた。
客を招かない晩餐ほど惨めなものはないと言い、祭日には別荘で何人もの友人と語らい過ごした、人の気配をいつも感じていた頃の感覚でいえば、まったくの一人きりでマンションで過ごす時間は物悲しい。特に、ポンペイウスがあんな話をした後では。
メテルスのついたため息を承諾を受け取って、スキピオがこちらに乗り出していた体をシートに落ち着ける。あるいはポンペイウスと出会す前からこのつもりだったのかもしれない。
朝食べるものがないと言うので寄り道をしてから、マンションに着いたのは二十一時を回った頃だった。
スキピオの部屋は単身者向けのつくりで、リビングと寝室とが区切られてはいたが入ってすぐに全体が見渡せる。テーブルやソファ、ベッドサイド、果てはキッチンなど、あちこちに置かれた本のほかは整理された部屋だった。
メテルスのコートを寝室にかけて戻ってきたスキピオがメテルスの視線を辿って、「先生よりはちゃんとしてます」と言い訳をした。書斎から他の部屋へ侵食していた書籍や資料に比べれば確かに、生活に馴染んでいる。
座ってくださいと言いながら自分は落ち着かずに買い物袋の中身を片付け風呂の支度をして、ソファに落ちていた文庫本を捲るメテルスに着替えはこれでいいだろうと渡したのはポリュビオスのものであろう寝間着だった。
このせっかちさがなければポリュビオスとの生活は成り立たなかった。帰宅から一時間ばかりで客を含めて寝支度を終えたスキピオは、別に文句を言ってもいないメテルスにまた言い訳するように言った。
「リュコルタスさんがどう育てたのか分からないですけど、この時間にはこれをするという感覚がないんです、最終的に帳尻が合えばいいという感じで。まあ僕もそんなに丁寧に暮らしていませんけど……これって蒸らすんですか?」
ティーバッグをふたつ放り込んだポットに湯を注いで首を傾げている。いつもはマグカップに水と放り込んでレンジにかけて終わりだという。掃除や洗濯といった家事は好きだが飲食に関心が湧かないというスキピオを、誰かは味音痴とまで言っていた。
「この時代のお酒って美味しいですか、ポンペイウスは美味しそうに飲んでましたけど」
「ものによるだろう、呆れるほど種類が多いから」
「ふうん」
適当に淹れられたハーブティは茶というより匂いのついた湯だった。ソファの足元でラグに座り込んだスキピオには、体が温まればそれでいいらしい。
「ポンペイウスの親戚の子、大丈夫でしょうか」
「どうにか折り合いをつけるだろう。誰もがそうしているように」
「……後から、というか、いまの人たちの目を通して、まずかったなと思うことありませんか? それで、怖くなってしまったことがいくつかある」
「市民全員に結婚を義務化するよう提唱すること?」
「それは──まずいというか、いまでも言う人がいるから笑えないというか……」
ちらと見上げてきた青い目が、すぐに髪に隠れた。
スキピオがローテーブルにカップを置いて、メテルスの脚に凭れかかる。体重をかけてこない中途半端さでは、眠気に身を任せることもできないだろうに。
手を伸ばして撫でた髪は、まだ乾き切らずに柔らかかった。形のいい頭はされるがまま、犬がされるように撫でられていたが、不意に喉を鳴らして笑う。
「またおじいちゃんになってますね」
彼の中では、それは褒め言葉らしい。
「……兄と、そろそろパウルスに会ってもいいんじゃないかって話しているんです」
「あの方ももう二十四、五だったか」
「はい。アエミリア様も、いいと思うっておっしゃってくれて」
「そうだな。これ以上はポリュビオスが恨まれるだろう」
彼は決して父親代わりになったわけではないが、果たした役割はそのようなものだ。あの愛情深いパウルスが悪い言い方をすれば除け者にされて、息子たちに会う機会を奪われていたと知れば、子供を恨む代わりにその周囲を恨むのではないか。
それで、とスキピオは僅かに言い淀み、頭に載せられたままの手を取った。メテルスの手を包んだ両手はぽかぽかと温かい。
「あなたも一緒に」
「家族水入らずの場にしてやらないのか」
「兄は結婚を考えている女性を連れてくるんですよ。アエミリア様はクンクタトルのおうちに呼び出せばいいなんて言ってるし」
「……もう少し、段階を踏むべきだと思うが……」
同情か憐憫か、そんなものを向けるべき相手ではないのだが、メテルスには二十数年分の情報を浴びせかけられるパウルスがどんな顔をするか想像がついた。
メテルスと同じく学生であるはずのファビウスにどんな出会いがあり、どんな決心をしたのかは、スキピオは語らなかった。ポリュビオスとラエリウスも連れて行くからと、なぜだか心細げに言うのだ。
「そうだな、予定が合えば」
そんな、後からどうとでも言える返事でも、スキピオは素直に喜んだ。メテルスが嘘を言って自分を困らせるとはひとつも思わないでいる。
そうやって幼子のように胸を開いて、裏切られ傷つけられては切り捨ててきた、かつての純粋さと苛烈さとが、いまはただ甘やかされて無垢にも似た形をとっていた。メテルスにはもう、スキピオの立場を攻撃し言葉を戦わせる理由がない。スキピオが怒りを振り翳す理由がないように。
「僕は大丈夫だって、分かってもらいたいんです」
メテルスの手を抱いたまま、スキピオがソファのふちに頭を傾ける。睫毛が重たく上下し、瞳が隠れてしまったあとも、メテルスはしばらく動かないでいた。
海沿いの街にスキピオの両親の眠る墓所はあった。父親の生前からしばしば通っているという古い公営墓地は広く、彫像を載せた著名人の墓が観光名所にもなっている。
スキピオは、いまはラエリウスとともにここに訪れることがほとんどだった。時折ラエリウスのかつての父親やアエミリアが加わることもあると言う。そうした方がアフリカヌスやパウルスと出会さないで済むんですと、スキピオは苦笑していた。
メテルスが同行したのには大した意味はなかった。今朝スキピオが朝食を準備しながら父に彼のことを報告しようかなと言った、その流れというだけだ。
「会えていたらどちらも喜んだだろうに。ポンペイウスは父のことが好きでしたから」
あえてポンペイウスに伝えることはあるまいと彼は考えているようだった。かつての養父を実父として生まれ、ほんの短い時間を共に過ごし別れた、そんな話は誰しもを悲しませることにしかならないと。
墓参りと言っても花を供えてほんの挨拶をする程度のことで、小さな墓石の前に長く留まることはなかった。昨夜の雨があたりに残り、午前の陽を弾いて輝いている。それを眺めながら門へ向かう足取りは、目を閉じても躓かないだろうというほど慣れたものだった。
「ここ、バスを使わないと来られないでしょう。送ってくださって助かりました」
「いや」
「そういえばメテルスって、父と面識は……」
「あると言えばあるが、交友と言うほどではなかった。聡明な御仁だという印象を持ったのを覚えているよ」
「みんなそう言いますよ。みんな」
戻ってきた駐車場からは、海岸線を遠く望むことができた。彼らの住む県は内陸で海がない。
「せっかくだから海に行きませんか、あなたが嫌じゃなければ」
海にほど近い別荘地に土地を持っていた頃の名残か、スキピオやラエリウスは海辺に出るのを好んだ。どうせ進学するなら海のあるところにしようかと冗談めかして言うほどで、砂浜へ出かけては飽きることなく二人で過ごしている。
砂浜へ下りていく背を見送りながら思い浮かべるのは、本当に見たことがあるのか怪しいその光景なのだ。トガを纏ったスキピオとラエリウスが、貝殻を拾いながらゆっくりと歩いている。誰も彼らが何を話していたのか知らないのに、彼らがそうして笑い合っていたことを知っている。
冬の海には他に誰の姿もなかった。冷たい風に髪を煽られながら、スキピオは波が迫るぎりぎりまで近付いて足元から何か拾い、波間に放った。
車のそばに突っ立っているメテルスを不思議そうに見上げ、大きく手を振る。
剣を持ったことも盾を持ったこともない、血の温かさを知らない手だった。マケドニアで見た姿よりも幼なげな少年は、この安穏として目的のない、過去さえもない場所で、父親のおかげでやっと息ができている。
望まれるのはただ生きて、幸せでいることだけ、それが最期の言葉だったから。
砂を踏み込むには向いていない革靴で、ざくざくと斜面を下り隣に立つと、潮風がいっそう濃くなったように感じた。
相変わらず小柄なままのスキピオが、メテルスが首にかけただけにしているマフラーに手を伸ばした。背伸びをしてくるくると二周させて、満足そうに離れるその手をとらえる。
メテルスの手も、彼と変わらない。それを恥じる気にも疎んじる気にもならないのは、やはり遠く離れてしまったからだろう。
スキピオはぎくりと背を強張らせたが、逃げなかった。重ねた唇は引き結ばれてぎこちないのに目を閉じてしまう、そういう不慣れさで、息まで止めてしまっていた。
そろそろと瞼を上げてまだ相手の顔が近くにあるのに驚き、見る見る間に赤らむ目元が、メテルスが笑ったのできっと睨み上げてくる。
「意地が悪いんじゃないですか」
「からかっているとでも?」
「そうでしょう! 僕が……うう、あなたはどうせ慣れてるんでしょうけど!」
「昔取った杵柄というやつかな」
「むかし……え? いや……」
何故か衝撃を受けているらしいスキピオに、この十年のいつ、そんな暇があったかと問いたかった。メテルスは、ただ他と違う縁があるというだけで世話を焼いたり、こうして無為に時間を過ごしたりはしない。
火照った頬に手のひらを添わせると、スキピオは目をうろうろさせて眉を寄せた。
「あの、こんな言い方は、失礼だとは思います、思うのですけど……思い出は美しいものだから……」
「だから?」
「メテルス、前に言ったでしょう。僕が死んだ時に悲しんでくれたと」
「ラエリウスが君の位置情報を把握したがるのもそのせいだと思うか?」
「いまラエリウスの話はしてないし僕だってラエリウスの位置情報は見られるようにしてます! 安心するからそうしてるだけですよ!」
「悲しんだというのは正しくない。気付かされたとでも言うのがいいな」
スキピオにはもっと相応しい死があったはずだと。こんなものは認め難いと怒りに駆られ、その怒りの向こうに、眩く思えるものを見つけた。喪失に気付かされるというのは陳腐だが、普遍的だからこそ陳腐なのだ。
死んだものは、葬ってしまえば以上追えない。老人はその全てを過去として抱えて死んでいったが、生憎、スキピオもメテルスも生きてここに立っていた。
メテルスが初めて彼の死んだあとの話をした日と同じように、スキピオは頑なに、そんなはずはないと繰り返した。
「あなたが僕をそれほど認めてくれていたのは、嬉しいです。本当に……僕はあなたを尊敬しているし、昔は、憧れもした。あなたみたいになりたかった。あなたが僕のしたことを他よりも特別だと思ってくれるのは嬉しいですよ。でもこれは違うでしょう、だって僕の知ってるメテルスは僕にそんなに興味ないもの!」
「勝手に私を決めつけるな」
苛立ちが滲んだのは、それが本当に気に障る物言いだったからだ。
「自分に私の考えを変えられると思うか? 私のしたいことを曲げられるとでも?」
戸惑いに混じって、怯えがスキピオの目に浮かんだ。目の前にいるのが自分の知る者ではないかもしれないという気付きでもあった。
死によって隔てられた十数年と、この十年とは、どちらの方が力を持つか。メテルスにとってはどちらでも構わなかった。結局、ここに立って言葉を発するものだけが真実なのだ。
「君の姿は見失わない、今も昔も。どういう意味だと思う」
「わ、分かりません」
「好きだということだ。簡単だろう」
テレンティウスかパクウィウスあたりに情緒を学んだ方がいい。笑って手を離したメテルスに、スキピオは完全に時間が止まっていた。彼がカルウスの余計な入れ知恵で脇に置いてきた違和感の答え合わせは、どうやらそう簡単には飲み込めないらしい。
車の方へ向けかけた足を返し、いつまでもそこでそうしていそうなスキピオの腕を引いた。引かれるままについてくる軽い手応えが、斜面の半ばで僅かに抵抗する。
「覚えていますか」
何をと問う代わりに振り返った先で、スキピオは痛みを堪えるように目を細めた。
「僕はあなたが望みを果たすところが見たいと、そう言ったでしょう」
「果たしたよ、そうは見えなかったか?」
「いいえ……いいえ、確かに、見ることができました。だから、たとえあなたが僕を必要としなくなっても、それがあなたの幸せなら、嬉しかった。僕がこんなふうに思うことはあまりないんです。あなたがコッタなんかを弁護して本当に嫌だったのに軽蔑できなかった。ヒスパニアでもあなたの仕事の終え方はあんまり褒められたものじゃなかったけれど、それより可笑しかった。あなただから、そんな曖昧な感じ方をした」
メテルスの手を逃れて、大きく踏み出した数歩でスキピオは斜面を駆け上がった。
「それがどういう意味か、あなたは考えたことがないでしょう?」
責めるように悲しげな声なのに、彼は笑っていた。そうして、じっと見上げるメテルスから逃れようと目を伏せる。
メテルスには後悔はなかった。かつてはこんなことを思いもせず、こんなふうにスキピオのそばに立ち、涙を拭ってやることもなかった。友情や、心地よさ、好ましさといった単純で、得難いものは、背に負うもののためにいくらでも打ち捨てられ、顧みることもなかった。それを、悔いる思いはひとかけらもない。
老人が心から惜しんだのも、スキピオが同じようにして多くを捨て、捨てられて、足掻いた末に手にしたものだったに違いない。こうして声もなく頬を濡らす彼を、それでもラエリウスはずっと守っていたのだろう。
「これからいくらでも考えられる」
彼らに時間が与えられたのは、やり直すためでも、償うためでもない。スキピオが心からそれを受け入れるのがいつになるにしろ、いつまででも待つことはできる。
スキピオがふやけた声でやっぱりあなたなんか連れて行かないからと言うのに、好きにすればいいとメテルスは笑った。