稲妻の影に立つ
「動かないでください、写らないです」
真剣な面持ちのプブリウスに言われるまま、ずらそうとしていた体をまた椅子に落ち着けた。
ココアと焼き菓子のセットにいましがたミュージアムショップで購入した彫像作品のミニチュアを添えて、どうやらその背景に父親を置き、そんなに撮ってどうするのかと思う回数のシャッター音が響いた。何やら光の当たる角度などこだわりがあるらしく、スキピオは笑えばいいのやらどこを見ればいいのやら、曖昧な面持ちでそれを見守っていた。
「……最近凝ってるのか?」
美術館でも撮影可と見るなり写真を撮っていたが、その姿はスキピオにはあまり見慣れないものだった。プブリウスは凝ってるというか、とスマートフォンから目を離さないで言う。
「SNSを始めたんです。非公開のアカウントで、知り合いしかフォローしないんならいいってガイウスが言ってくれたから」
「私の入り込んでる写真なんか上げてもしょうがないだろう」
「僕のアカウントを見れる全員、父さんのこと知ってるから大丈夫ですよ」
何が大丈夫なのだか、満足のいく画を撮ることができたらしいプブリウスは添えられた小さなマシュマロを暖かいココアに落としていく。昔からこれが好きで、ひとつずつトングで摘んで優しい手つきで落としていくのだ。小皿を傾けていっぺんに流し込むなどということは決してなかった。
それほど大きくはないが歴史のあるホテルは、記念日などにはレストランを利用することも多く、このラウンジも家族にとっては一息つける空間だった。思えば、親子ふたりきりで訪れたことはなかったかもしれない。
「そろそろ映画も観終わる頃ですね」
あんまり面白そうじゃなかったけどなと首を傾げる息子に、目的はそちらじゃないんだろうとスキピオは笑って答えた。苦笑になってしまったかもしれない。
ポンポニアとルキウスは、舞台挨拶付きの上映回に席を確保できたとかでふたりで映画館に出かけてしまった。スキピオは未だに、孫に会わせてもらっていない。ルキウスが言うには「父上と兄上が会うのは早すぎる」のだそうだ。
せっかくの週末、ふたりに置いて行かれた父に声をかけてくれたのがプブリウスだった。てっきり例の交際相手と会うものと思っていたのに、「父さんも好きだと思います」と言って美術館で開かれている展覧会に誘ってくれたのだ。
それがどれだけ嬉しいか、人の心の機微に敏いくせにちっとも分かっていないのだろう。
子供たちが幼い頃にはカメラを持ち歩いて、ことあるごとに写真を撮っていた。スマートフォンを持つようになってかえってその機会がなくなっていたかもしれない、そんなことを思ってカメラアプリを起動すると、何も言わないのにプブリウスは小首を傾げてにっこり笑った。
いくらかの精神的な準備運動を経て、スキピオは紅茶ひとくち飲み下した。
「その……最近はどうなんだ、彼とは」
わざとらしい切り出し方だが、これ以上どうすればいいか思いつかないのだ。プブリウスが苦笑を浮かべたのも無理はなかった。
「無理して話題に出さなくていいんですよ」
「無理なんかじゃないよ。今日だって本当は彼と来たかったんじゃないか」
「そんなことないです。コンテンポラリーアートについて気が合わないんですよね」
プブリウスは何かと忙しく過ごす子で、今日のように少しでも関心のある展覧会には必ず足を運ぶし、全く縁のない分野のワークショップなどにも躊躇なく参加していた。どうやら、そういう時間の過ごし方を共有できる相手ではあるらしい。
「僕は作家性の方に目が行きがちなんですけど、ハンニバルは時代性の方に重きを置くというか。同じようなものなのになぜか噛み合わなくて」
「難しい話をしてるんだな……」
「それで、なんとなく一緒に見ない方がいい展覧会が分かるようになってきました」
クッキーを齧りながら言うのも、それを苦に思ってのことではなさそうだった。彼らに付きまとう過去を別とすればつい先日少し話しただけの相手だが、純粋に息子とは気が合うのだろうと思う。
「あとはそうだな……SNSも無理やり始めてもらったんですけど何にも投稿しないんです。でも見てはいて突然話題に出してきて、食べてみたいって投稿したグミとかチョコとか見つけると買ってきてくれます」
そんな感じ。端的に睦まじさを伝えられ、スキピオはそんな感じかとしか返せなかった。
ふと、プブリウスは父の背後の何かに目を留め、その若草色の瞳をわずかに動かしたのち、ぱっと別の場所を見た。それを関心の移ろいのような振りをしてホテルの売店を指差す。
「このクッキーってあそこで売ってましたよね。お土産にしましょうか」
その仕草が父親の気を逸らすためのものだと分かってしまうのは仕方のないことで、息子が見せまいとしたものの正体を確かめようとしてしまうのもまた、仕方がなかった。
後ろを振り返ったスキピオは、すぐにプブリウスが見つけたものが何か理解した。息子の気遣いを無碍にしたことに申し訳なくも思った。
ラウンジは季節ごとに趣を変える庭に面してガラス張りとなっていて、いまちょうどスキピオの背後にその美しい庭が見える。広々として軽い散歩を楽しむことができ、スキピオとしては家族との美しい思い出のたくさんある場所だ。そこに。
「お仕事じゃなさそうですね……」
息子の抑揚のない声に頷きながら、スキピオはおそらくどんな表情も浮かべていなかっただろう。
庭の植え込みのそばを、ハミルカル・バルカが彼よりも若い男を伴って歩いていた。それだけならばともかく腕を組み、スキピオにはその姿を寄り添っているとしか形容できない。
季節を迎えて彩り豊かに開く薔薇やチューリップの可憐さと、彼らは妙にしっくりきている。その若い男をスキピオはどの時点からしても初めて見たが、誰なのかは思い浮かぶ名があった。遠目にも整った容貌と分かる横顔は微笑みを浮かべ、寄り添う相手にしきりに何か話しかけている。それに答えるハミルカルもまた穏やかな面持ちをしていた。
「……ハンニバルの二番目のお姉様が、あれが許せなくて家を出ていっちゃったんですって」
僕も見たのは初めてですがと、プブリウスは珍しく虚無感を漂わせていた。
あまりじっと見ていれば向こうも気がつくとスキピオも息子に向かい合ったが、その可能性は低いようにも思えた。彼らはこちらなど見はしないだろう。理由は言わずもがなである。
焦点を合わせずに彼らを視界に入れ続けていたプブリウスがうわと声を上げた。口をあんぐり開けている。
「いや、振り返らない方がいいです、見ない方が……」
「そんな恐ろしいものならお前も見るんじゃない」
「恐ろしいんじゃなくて、わあ……キスしましたよあの人たち……」
「……見るのをよしなさい」
「死角に入りました」
ココアのカップを傾けながらプブリウスは目をぱちぱちさせている。かわいい息子になんてものを見せてくれたのかという怒りが静かに沸き始めた。ホテルのあちこちから見通せる庭で。何を。
何の用でこのホテルにいるにしろ、帰るならこのラウンジのそばを通る。ゆっくりしている場合ではないかもしれない。しかし帰らないのならば……嫌な想像を追い出そうとスキピオは軽く頭を振った。遅めの昼食だろう、きっと、おそらく。
「愛人ってことですかってハンニバルに聞いたんです」
「まあ……そうとしか言えないだろうね……」
「でもハンニバルは意外そうで……物心つく前からいたからそういうものだと思ってたらしいんです。マゴーネたちもそうなのかな。でもお姉様は出て行ってるわけで……」
「深く考えなくていい」
ハミルカル・バルカはひとりの女性との間に四女三男を儲け、その妻と別れてはいない。プブリウスが言うにはその女性も家を出て行ってしまったらしいが、ハミルカルの左手には指輪が存在し続けている。
あの男の険しい表情しか知らないでいたかったと思った。あんな優しげな顔は見ないままでいたかった。あれは、目の前の存在を愛おしむ顔だ。
こんなふうに思うのは間違っていると現代の倫理が咎めながらも、スキピオはどうしても内心で毒づくのをやめられなかった。
まだやっているのか。
もうそんな歳じゃないだろ。
しかし彼らとこれ以上関わり合いになることはあるまい、息子同士が交際しているハミルカルだけならばともかく。そう高を括っていたスキピオは、目の前の存在を前にして社会人としての礼儀を忘れていた。
「急なお願いにもかかわらずお時間を取っていただき、ありがとうございます」
歯切れよくしかし優雅にそう述べた男は、同じ部屋の中で見ると年齢の読み取れない風貌をしていた。ほんの若造にも見えるし、すでに壮年に入っているような気もする。
ハスドゥルバルは部屋に入ったところで立ち止まって、スキピオがソファを勧めるのを待っていた。出て行ってほしい。しかし、彼は仕事として、アポイントメントを取り、ここに来ている。
社長室には空調の音だけが響いていた。
数年をかけて慣れ親しんだこの部屋に異物が入り込んでいることに、スキピオは驚くほど強い拒否感を抱いていた。ここを自分の居場所だと思っているのだなと現実逃避に近い感慨が湧く。
本社の役員であるスキピオが出向という形でこの出版社の代表取締役の席に着いた時、社内の空気はあまりよくなかった。前任者が荒らすだけ荒らして放り出した影響を強く受けながら、粘り強く信頼を得るべくこの数年働いてきたが、信頼関係の構築が足りていなかっただろうかと思わされる。
ハスドゥルバルをスキピオに『紹介』するだけしてさっさとオフィスへ戻って行った営業部長について、内通者がいたと思った。内通も何もない。ハスドゥルバルが顧問を名乗った広告代理店は取引先だ。その広告代理店が属するビュルサグループこそが、宝飾品や服飾の分野から始まり、数世代をかけて多岐にわたる事業を手掛けるに至った、現在はハミルカル・バルカをトップに戴く企業集団である。
ビュルサ。最初に聞いた時から嫌な名前だと思っていた。カルタゴに益する輩がまさか社内に──スキピオの混乱を読み取ったように、立ちっぱなしのハスドゥルバルが「誤解なさらないでください」と眉を下げた。
彼はただ個人的な事柄が話題に出ると知って気を利かせてくれただけ、こちらの利益となることはそれ以上は一切していない。そう説明するハスドゥルバルは困ったような顔をしていた。今朝急に打ち合わせへの同席を求められた時には、相手方の情報は曖昧だった。
自席のそばにこちらも立ったままだったスキピオは、深く息を吐いた。取り繕っても仕方のない相手ではあるが、むしろ矜持が気持ちを穏やかに整えてくれた。
「……いや、驚いてしまって。申し訳ない。どうぞおかけください」
デスク前の応接スペースを示し、ハスドゥルバルがかけた向かいに座った。外でタイミングを窺っていたのだろう秘書がコーヒーを置いて退室するのを待ってスキピオは自分から切り出した。
「個人的な事柄とおっしゃいましたが」
「ええ、お礼を申し上げたくて参ったのです」
何ことだか心当たりのないスキピオの前に、ハスドゥルバルはファイルを差し出した。数枚の書類は、見覚えのある記事のゲラ刷りだった。
隠し撮りであることが明らかな数枚の写真と、センセーショナルな見出しは、ハミルカルの私生活を取り沙汰すものだった。一般的な感覚からはずれた家族関係とさまざまな黒い噂をあたかも関連があるかのように書き立てている。妻との仲、娘たちの夫や交際関係、後継者と目される鍾愛の息子の存在、果ては目の前の男との関係に至るまで。
自社で発行する週刊誌が掲載しようとしていたその記事を差し止めたのはスキピオ当人だった。あまりにも低俗であるというのもそうだし、記事の影響を受けるのが取り沙汰されるハミルカルよりもその子供たちであることは明らかだったのだ。
「そもそもが弊社に相応しい記事ではありませんでした。これがあなた方のことでなくとも掲載はさせませんでしたから、お礼などは不要です」
「ですが、あなたには都合が良くもあったのではありませんか?」
「いいえ、全く」
ゲラが何故彼の手にあるのか、問いたいことはあったがファイルに戻してテーブルに置いた。
それを受け取らないまま、ハスドゥルバルは微笑む。スキピオを見る灰色の瞳は、あたかも好意を満たしているかのように穏やかだった。
「ハミルカルがお友達とひどい喧嘩をいたしましてね。どうも今回は加減が効かなかったようです」
「そのお友達が……情報提供をしたと」
「そういう喧嘩の仕方なのです。しかしこんなものが世に出れば、子供たちのため然るべき措置を取らざるを得ません。その争いの芽を摘んで頂いたのだからお礼は当然と存じます」
そう頭を下げたハスドゥルバルの名刺には、弁護士の肩書もあった。訴訟など起こされれば面倒では済まなかっただろう。
「いまも……バルカのために骨折りは惜しまないというわけですか」
含みのあるスキピオの物言いに、勿論と頷く。
このハスドゥルバルについて、ローマにあっては、ハミルカルの娘婿であり将軍職を継承した男というのがおおよその認識だっただろう。民会に力を持たせ、貴族以上に民衆の声を背に負っていたバルカ家において、その種の扇動に長けていた男。ハンニバルの引き起こした戦争の最中、もしもカルタゴ本国においてこの男と同等の才能を持つ者がハンニバルを後押ししていたならどうだったかと想像させる存在だった。
カルタゴの国法を一人による支配へ変えようと目論んだ、傲慢な人間だったと言う。取るに足らぬ者の恨みを買って殺された。
なるほどこれが、とは、スキピオは納得できないでいた。ハミルカルやハンニバルにはなかった感覚だった。ハスドゥルバルはこうだと言い切ろうとすると迷いの生じる、曖昧さを帯びた顔貌をしていた。整っているのは間違いないが、例えばプブリウスが良くも悪くも注目を集めるのに対して、この男は周囲がふと気がつくとそこにいるということができるだろう。
「お話はそれだけでしょうか」
筋を通したいというなら、聞くだけは聞いた。
また空調の音ばかりが頭上から降ってくる数秒、ハスドゥルバルの目線はスキピオのデスクへ向かった。そこには写真立てがいくつか、こちらからは見えないようになっているのに、伏せておきたい衝動に駆られる。
「うちのハンニバルも困りごとの多い子ですが、ご子息はそれ以上に様々なものを惹きつけてしまうようですね」
「……何のことをおっしゃっているのか……」
「さぞご心配でしょう。お礼となればよいのですが」
また別のファイルがテーブルの上に置かれる。先ほどのものよりも分厚く見えるそれを、毒が塗られていないか警戒するような手つきでスキピオは開いた。
「とりあえずは地球の裏側に。彼の遠縁にそちらで事業を営む方があって、身元を引き受けていただきました」
ハンニバルと言葉を交わしたあの日、結局プブリウスやその周辺に不審な出来事は起こらなかった。杞憂で済むのがいちばんいいと他人事のように言ってルキウスを立腹させた息子が、実のところは安堵していたのをスキピオは知っている。
何事も起こらなかったのは、あの男が出所したその日のうちに飛行機に乗せられていたせいだった。事件の起こった当時でさえ知ることのできなかった情報が羅列された書類を、ハスドゥルバルは差し上げますと言った。
「なんだか誤解されているような気がするのですが、遠縁も身元引受も事実なのですよ。そういうことにしたということではなく。あのような事件を起こした時点で明らかですが、哀れな人間ですね。植物園で清掃員として働く自分にまるで先生にするように質問をしたご子息に、何かが見えたそうです。いまも見えていそうでした。ローマ人だったことはないようですが」
ハスドゥルバルが直接会い、身の振り方について説得をした。そういうことが読み取れた。ざっと全てに目を通したスキピオは、ファイルを閉じた。これもテーブルに置く。
「息子の浅慮でハンニバル君を巻き込んだことについて謝罪します」
「え?」
さも、意外そうに。
それがある種の信頼によるとしても、実際には危険は遠ざけられていたとしても、プブリウスとともにいたせいでハンニバルが巻き込まれたのは確かだ。
「謝罪だなんて……賢い判断だと思います。実際、あの日はハンニバルにはこっそり人をつけていましたから、襲われることがあってもご子息は無事でした。最も確実に身を守る選択をしたと言えます」
それが、父に諭された息子と同じ言い分であったので、スキピオは口の中に苦いものが満ちるのを感じた。
「ハンニバルには身を守る術を教えています。何もお気になさらず」
「先ほどから、まるでいまもバルカの一員であるかのような口ぶりですな」
──スキピオはヒスパニアにいたのだ。のちにプブリウスもまたそうしたと聞くように当地の有力者との繋がりを得ようと努めていれば、実情とともに信憑性の疑わしい噂までもが耳に入る。
ハスドゥルバルがハミルカルの寵愛を、その若さの美ゆえに受けたのだという話は、実情の範疇だった。
当時のスキピオにとってはそれはギリシア的な、年長者が若者を愛でるものだった。長ずるとともに終わる関係であると認識していたし、それもあくまで異国の文化、たとえ少年であろうとローマ市民を愛でられる側に置くことはおぞましい発想と感じられた。
この時代ではまるきり誤った考えである。そしてスキピオは、自らが生まれた時代に順応してきた。プブリウスがハンニバルを友人でなく恋人としたとき受けた衝撃はあくまで、相手がハンニバル・バルカであったことによった。
だがいま感じている嫌悪感は、不倫へのそれを抜きにしても、明らかに当時から地続きのものだ。
ハスドゥルバルは首を傾げ、それまで揃えていた脚を組む。
「先日はお恥ずかしいところをお見せしたようで」
恥ずかしいとは一欠片も思っていないだろうにそう言って、不愉快さは見せなかった。自分達に気がついていて息子にとんでもない光景を見せたなら、たった一発でいい、殴らせてほしい。
「穢らわしいと思っていらっしゃるんですね。理解します。あなたにとって結婚とは神聖なものなのでしょう、大切な奥様との婚姻が、この時代では個人の情愛に根ざした誓いであると信じたい。それも理解できます、とても大切な考え方ですから。しかし、ハミルカルは結婚に際して妻となる相手と契約書を交わしています。私の存在はその契約に反していません」
「それは大人たちの事情でしょう。子供たちを守る立場と言いながら、その心までは範疇ではないとでも?」
「それを言われると困ってしまいますね。ハンニバルも最近は現代的な恋愛を学んでしまって……単に愛しているから寄り添うということを覚えたようです、ご子息のおかげで」
いちいち引っかかる物言いをする。
膝に手を置いて、あなたに理解いただく必要は少しありそうだからとハスドゥルバルは呟いた。何を想定してそう言うのかスキピオの考えが及ばないうちに、「ハンニバルにおかしなことを教えられると、回り回って私が怒られます」と冗談のように言う。
おかしなこととは、この時代にあって不倫は道義にかなわず、君はこの男の存在を受け入れているがそれは間違っていると諭すことだろうか。そんな無用のお節介をするつもりはない。
「かつての妻……ふたりいますが、私は彼女たちの持つものが欲しくて婚姻という手段を取りました。この時代においても婚姻は何も愛情にのみ立脚するものではない、彼女たちが私に何かを望むなら再び夫となっても構わない。そう言ったらこっぴどく振られてしまいました。……私にってはそういうものです、ハミルカルにとっては少し異なりますが」
出て行ってしまった二番目の姉。それがかつてハスドゥルバルにハミルカルの後継の座を与えた女性であることは間違いなかった。
「──私はハミルカルを愛しているんです。バルカとは、あの人のこと。それだけなのですよ」
適度に逸らされては合わされていた視線が、不躾な強さでスキピオの顔を覗き込んだ。ハスドゥルバルが浮かべる笑みは、先ほどまでのおとなしげなものから軽やかな、気安いものへ変わっていた。何か悩むように僅かに眉を寄せて、もしかしてとハスドゥルバルが呟く。
「ご子息は奥様に似ていらっしゃるんでしょうか」
スキピオは常々、プブリウスは母親似なのだと言っては周囲にそれを惚気話扱いされてきた。
確かに外見的な特徴を挙げれば父親と同じだが、あの子の表情はみんなポンポニアから受け継いだもの、ふたりは笑い方も悲しみ方も同じで、その点で言えばルキウスの方が自分に似ているのだと。
家族を除いた最初の賛同者がこの男であるというのは、喜ばしいどころかその逆、神経を逆撫でされた不快をスキピオは隠さなかった。それに応えるハスドゥルバルは変わらず和やかに笑う。
「笑ってみてほしいな」
湯気を立てなくなったコーヒーに目を落としたスキピオは、折よく鳴った電話に助けられて立ち上がった。こんなタイミングで入れられることのまずない内線を取ると、お客様にお迎えがいらしているんですと困った声で秘書が言う。迎え。嫌な予感に受話器を持ったままハスドゥルバルを見れば、既に荷物を手に立ち上がった男は肩を竦め、頼んだわけではないと。
「以前私が刺されてからひどく心配症になってしまったんです」
刺されもするだろうなとしか思えなかった。
見送りの体でエントランスに出ると、予想通りの男がひとりで立っていた。これの応対をさせられた受付や秘書にはあとで労いが必要だろう。
ハミルカルはスキピオと、その後ろに続くハスドゥルバルを見比べて、どうやら呆れからため息をついた。
「お礼は受け取りました」
それだけを言いスキピオは口を閉ざした。ハミルカルも何も言わなかった。息子の通う高校で顔を合わせた時には饒舌だったが、まるでお前に構っている場合ではないとでも言いたげに目礼だけを寄越して踵を返す。それを追うハスドゥルバルが慇懃に挨拶を残していった方が場違いなようにスキピオには思えた。
今日はなんだかお疲れなのね、と先にベッドに入っていた妻がこちらを見て言った。
もう眠ったものと思って静かに閉めたドアの前で、どう答えたものか口をもごもごと動かすスキピオに、布団を捲って早く入るように促す。まるで子供にするように夫に布団をかけてその上からぽんと肩のあたりを叩いたポンポニアは眠たげな優しい目をしていた。
「お仕事のことならあんまり聞かない方がいいのかしら」
「いや……半分仕事で半分違うんだ」
「まあ、なんだか難しそうね」
十数年前、妊娠とともに考えるところがあって仕事を辞めたとはいえ、ポンポニアは世間知らずではない。しかしこういう世慣れないかのような物言いをして、スキピオの口を軽くする。
「この間の、あの事件の犯人のことでね」
「……どうしたの?」
「もう心配はいらないと教えてもらったよ。地球の裏側で慈善活動をするそうだ」
あれからスキピオもファイルの内容を調べたが、嘘八百が並べてあるということはなかった。慈善事業は存在するし、その責任者について怪しむべきところもない。ビュルサグループとの繋がりも見つからなかった。本当にそこに落ち着いてくれるのならば、常に意識のどこかに置かれていた懸念が取り払われたということだ。
ポンポニアはきょとんとしていたが、そうと小さく答えた。
「よく分からないけれど、よかった。それはお仕事じゃない半分よね」
「うん……」
「なのにどうして手が冷たいの?」
「冷たいかい」
「プブリウスの初めての発表会の時くらい冷たいわ」
幼い息子はまったく平気そうに舞台に上がってピアノを弾いているのに、見守る父親の方が緊張していた。懐かしい話に自分の顔が緩むのを感じて、自分の手を摩る小さな手を握り返す。
いつも柔らかく温かくて、スキピオの気持ちを解きほぐす手だった。包丁で少し傷をつけただけで大騒ぎする夫にポンポニアは呆れるけれども、本当を言えば重たい荷物だって持たせたくはないのだ。
ハスドゥルバルの見透かしたような物言いを思い出し、それが誤りではないことをスキピオは内心で認めた。彼女は何も知らないうちに結ばれた父親同士の契約によってここにいるのではなく、成熟した大人として自らの意思でスキピオを選び、どこにも去らずにいてくれている。かつてならばそこに違いを見出さなかっただろうに、いまのスキピオにとっては何より重要なことだった。
それを知っているのかどうか、ポンポニアはほんの小さなため息をついた。
「プブリウスね、夏休みに旅行に行きたいんですって」
「うん?」
「付き合ってる人と、ちょっとした旅行よ。まだ危ないかもしれないって言ったのに、地球の裏側にいるんなら行けちゃうわね」
唇を尖らせて言う妻はそれについてあまり話題にしてこなかったけれど、やはり思うところがあったのだろうか。
「いい親はお小遣いでも渡して楽しんでいらっしゃいって言うのかしら。旅行は早すぎるって渋ってもいい?」
「そうだな……私が渋って、君はそれを宥めるくらいがいいんじゃないか」
「それっていってらっしゃいって言うようなものよ」
そうだろうか。そうかもしれない。息子たちのおねだりに弱い自覚はしっかりとあった。たとえルキウスの言動から何かを学んだプブリウスがどうしても無理を通したい時に「父上」と呼びかけてくる残酷な振る舞いをするとしても、いつも聞いてやりたい気持ちに負ける。
「連れて行かれちゃいそうなのが、嫌なの」
重たく落ちかかる瞼をどうにか上げながら、ポンポニアの声は憂いを帯びていた。
「また離れていっちゃうのが嫌なの……まだ子供なのに、もうどこかに行こうとしてる、でも引き留められなくて嫌なのよ」
「あの子はどこにも行かないよ」
「……あなたには分からないかもしれない」
突き放すような言葉だが、そこに満ちる悲しみを思ってスキピオはポンポニアの頬に触れた。もう眠るように促すその手に抗わずに目を閉じた彼女の、これから先の姿をスキピオは知らない。共に老いていくことさえ初めて経験することになる。
だからか、と不意に思った。
自らの死によって隔てられ、そばにあることも見守ることもできなかった、その存在が見せる変化はどんなものであれ愛おしい。それはハミルカルもまったく同じことで、思えばあの男はいま、息子たちの成長を初めて目の当たりにしている。
そしてどのような形であれ、かつては何を求めたのであれ、愛しんだ相手がいまも自分のそばを選んで笑っているのを見守っている。だから、あんな風に見つめるのかもしれない。
まったく気がつく必要のないことだった。
ハンニバルが旅行のことを上手く隠しすぎず、父親やその他諸々の反対や妨害のあまりの面倒さに負けてくれることを期待したが、望み薄だと察せてしまったのだから。たぶん、子供らしく拗ねた顔でもされればあの父親も根負けして小遣いを渡すだろう。
プブリウスは例のSNSのアカウントをフォローするかとスキピオに尋ねた。普通親には見せないだろう、変に気を遣うなと言われて不思議そうに、楽しいと思うけれどと。計画している旅行の様子などを共有するつもりだったのかもしれない。
フォローさせてもらおう。ついでに、プブリウスの投稿を見るためだけに存在するかのようなあの象のアイコンのアカウントもフォローしよう。ほぼ確実にハミルカルはその存在を知らない。奴の知らないところで距離を詰めておくのも手である、ハンニバルには変な親だとすでに思われているから何を気にすることもない。
それでポンポニアが悲しまないで済むならと、そんな理由で小狡いことを考える自分を、スキピオは気に入っていた。