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砂上の夢

「遅すぎないか?」
 時計を見上げながら父が言い、母がもう帰ってくるんでしょうとルキウスに言って、ルキウスは一応携帯をもう一度確認してからもうすぐだよと返す。
 もう帰ってくるらしいと言ってから十五分、三度目のやりとりである。すでに三人分の食事の終えられた食卓で、母はのんびりと梨を剥いていた。小皿に分けられた瑞々しい果実はよく熟れて甘い。父が何度も見上げる時計は二十時を少しすぎたところを指していた。
「高校生なんだから、色々あるでしょう」
「色々って……プブリウスはクラブにも入らなかったんだろう? いつもこのくらいなのか?」
「いつもじゃないわよ。ほら、お友達付き合いとか。ねえルキウス」
「さあ……?」
 同じ学校に通っていた去年までならばともかく、兄が高校に進学してからの交友関係は重大なものしか知らなかった。ラエリウスやナシカが教えてくれた重大事項を頭に浮かべながら、三十分前に送られてきたメッセージに目を落とす。
 いまから帰るよ。送ってくれるそうだから心配しないでって伝えて。
「送ってもらえるって言ってるから」
 ルキウスがそう言うのと、車のエンジン音がしたのはほとんど同時だった。それがちょうどこの家の前で止まったのに、父が席を立つ。ルキウスは立ち上がるのが一瞬、遅れた。
「まって、どうしたの」
 いかにも鈍い物言いしか口をつかず、父の腕を掴もうとした手は履き古したルームシューズの底が滑って届かなかった。玄関の外、門の向こうで、ドアを開く音。
「送っていただいたんだから、お礼を言わないと」
 至極当たり前、きちんとした親らしい発想だった。ルキウスは父のそういう生真面目なところが好きだったが、いまばかりは勘弁してくれとしか思えない。
 父が玄関を開く。門灯に照らされた兄の明るい髪がまず彼らの目についた。車の中を覗き込む兄の声を遮るものがこの閑静な住宅街にはなく、通りのよい声ははっきりと夜の空気を伝わった。
「それじゃあまた明日。今日はありがとうございました、ハンニバル」
 兄が振り返り、玄関先に立ち尽くす父親に目を丸くする。そしてその後ろのルキウスに気がつくと、しまったなという顔で笑った。
「あれ……父さん、今日は早いんですね」
 その腕を掴んで自分の背に我が子を隠した父は、おそらくルキウスと同じものを見た。突然のことに虚を突かれた、まだ少年らしさを残す無防備な顔を。何も覚えていないというのは事実なのだとルキウスは思った。父は、何を思っただろう。
 ハンニバルは、どのようにかは知らないが事態を飲み込んだのだろう、遅くなってしまい申し訳ないということを言って、ドアを閉めた。
 父の背中越しに車の去るのを見送った兄が、自分の手首を掴んだままの父の手を見下ろした。小刻みに震える手から逃げ出さないまま、動かない父の顔を覗き込む。
 その眼が、ルキウスには怖かった。
 ルキウスにはとても見えない遥か遠くまでを見通す、澄んだ瞳は、昔ならば目指す先が分かったからただ憧れるばかりで、こんなふうに怖くはなかった。ルキウスの兄は何も覚えていない、たったいま自分を家に送り届けてくれた少年が何をしたのか。ルキウスたちの父に、ナシカの父に、アエミリアとパウルスの父に。数えきれない子供達の父親に何をしたか。
 憎悪など指先に触れたことさえない兄が、青褪めた父に何か言おうと、口を開く。
「──父上!」
 ルキウスは父の手を兄から引き剥がした。
 はっと我に返った父に首を振ると、何が言いたいか分かってくれたようだった。
「兄さん、ご飯まだなんでしょう、母さんが待ってるよ。僕らは話があるから」
 父の腕を引っ張り、兄の背中を玄関に押し込んで、ルキウスは目が回りそうだった。絶対に家に連れてくるなと言ったのに! せめて少し離れたところで車を停めてくれれば、せめてルキウスが兄は自分の言葉を重く受け止めないことを思い出していれば、せめて送ってくれるという言葉の意味をもう少し考えられていたら。
 書斎の扉を閉めると、父が両手で顔を覆う。そこに何かがこびりついているとでも言うように額を拭い頬を拭って、胸の内を全て吐き出すように、深く息をついた。
「あれは……」
 知っていたのか、と問われて頷いた。
 兄が進学を決めた学校は、この地域に限らず名の知れた名門校で、様々なところから学生が集まる。どんな学生がいるかを父は知っていたが、発想さえなかったのだろう。自分たちがそのように生きてきたからだ。因縁を掘り返して戦争の続きを望むような、あるいはその全てを捨て去るようなやり方は、選んでこなかった。
 進学してからの兄の様子や、様々なことが父の頭の中で繋がっていく。それが怒りと、それ以上に生々しい恐れを呼び寄せるのが、ルキウスにさえ分かった。その矛先が真っ先に目の前の相手に向かうのは自然なことだった。
 だがルキウスを振り返った父は、自分が何を言おうとしたか忘れて息を呑んだ。ルキウスはどうしたのだろうとそれを見上げていたが、おろおろとして伸ばされた手がその頬に触れる。
「ど、どうしたんだ。どうして泣くんだ、ルキウス」
「父上」
「ああ、どうしたんだい。すまなかった、何もお前に……」
「父上、僕、話していないことがある」
 うん、と頷いた父はすでに、目の前の子供に気を取られた普通の大人だった。この安穏とした、どこから繋がっているのかも分からない時代に慣れた、優しい父親。
「兄上はローマに帰らなかった」
 自分の死んだ後のことは、教えてもらわないと分からない。
 父が子供達の行く末を断片としてしか知らなかったのは、ルキウスにとって幸運だった。知ってほしくないことがあった。見ないでほしいものがあった。
「リテルヌムで死んで、そこに葬られた。帰りたくないと言ったから、兄上はあの墓所に入らなかった」
「……帰りたくない?」
「恩知らずの祖国には」
 肩に置かれた手が強張る。
 カルタゴとの戦いがその烈しさを増す一方の、悪夢と呼ぶのさえ生ぬるい敗北と犠牲、それでも戦い抜こうと決めた、あの頃に父は死んだ。あの戦争を終わらせたのが我が子と知って彼はどれほど嬉しかっただろう。
 ルキウスは父と伯父の戦死の報を受け取って足元の抜けるような恐怖を覚えたが、兄は、涙を流しながら自らの前に開いた道を見据えていた。
 あの眼が怖い。それでも、それが仇を討つため、祖国を守るため、勝利するためだったから、ルキウスにも理解できるような気がしたのだ。気が、していただけだったが。
「兄上を本当に傷つけて、もう立てなくしてしまったのは、ローマ人があの人に向けた悪意だった。僕が告発の口実を与えたのに、兄上は僕を見捨てなかった。だから……もう、あの兄上には何も、返してあげられないから……」
 比べられるのも惨めで、羨むことさえできなかった。ルキウスはいつも兄の背を見ていた、だから隣に立つことも、彼に目指されることも知らない。政敵たちの告発に怒りでもって応じたあの背中を、支えることもできなかった。
「ルキウス」 
「楽しかったんだと思うんだ」
「…………」
「ハンニバルがいて、あの人を目指すことは、兄上にとって何よりも楽しかったんだよ」
 父は、そこに見知らぬ人生を見出していっとき呆然としていた。かつての自分よりも長く生きた人間の記憶が彼らの間に横たわり、彼が覚えているほんの若者でしかない息子たちはもうずっと遠くにいるのだと、気がついたように。


「長いこと話してますね」
 空いた食器を下げて食卓に戻ってきたスキピオに、母が剥いた梨を差し出した。書斎に入った父と弟はもうかれこれ一時間は出てきていない。
「いいじゃない、いつもあなたばっかり構ってもらってるんだから」
「……父さんに? ルキウスに?」
「どっちもでしょ?」
 肩を竦めた母がまた籠から梨を取り上げるので、ちょっと怒ってるなと察する。皮を剥く手つきはするすると見事なのだが、自分で食べるつもりがないので剥かれただけ誰かが食べなくてはならない。
「今日の……友達、やっぱり家に呼んじゃいけないみたいだ」
「そうねえ、うちには合わないでしょうね」
「合わないですか」
「あとでルキウスに謝っておきなさいね」
「……はい」
 トントンと軽い足音が階段を下りてくる。食堂をひょいと覗いたルキウスは、赤い目をしていた。弟はスキピオの方を見ないで、母のそばに立ち、ぎゅっとその頭を抱きしめた。
 どうしたのと言いながらも母は笑って、果物ナイフなど皿に放ってしまう。そんなふうに甘えることのないルキウスは何を言えばいいか分からないのか、ただ母の髪に頬を寄せて、まだ潤む目を伏せていた。
「もう連れて来ないでね」
 そう言ったのはスキピオに対してで、もちろんスキピオはすぐに頷いた。この弟に本当にそっぽを向かれてしまうと、それは寂しいだろうとちゃんと分かっていた。

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