水底より
家族で動物園に行った帰りのことだった。広い園内を歩き回り疲れ果てた子供たち、特に娘たちが甘いものを食べたいと言い出し帰路の途中で彼女らの指さしたファミリーレストランに入った。
中途半端な時間で店内は空いていた。ファミリーレストランそのものが初めてだったきょうだいは怒られない程度に騒ぎながら店員の後をついて行った。
ハスドゥルバルは四人の姉たちが並んだ向かいに、父母に挟まれて兄と席に収まった。まだ三歳だったマゴーネが買ってもらったコアラのぬいぐるみを抱いて離さないまま母の膝に乗せられていたので、三世代のコアラだなと思ったのを覚えている。
姉たちがケーキやパフェを好き好きに選ぶ一方で、ハスドゥルバルやマゴーネにはまだ食べてはいけないものが色々あった。母は子供に与える食べ物にひどく神経質だったが、姉たちはその頃みな就学して、自分できちんと歯磨きができるとの認定を受けて自由だったのである。
ハスドゥルバルは兄と一緒にメニューを覗き込んでいたが、兄と違ってただ文字を眺めているだけで、兄が読み上げるのに頷いていた。
「父上はなにをたのむのですか」
ハンニバルが隣に座る父の袖を引くと、娘たちを見守っていた父はそこで初めてメニューに目を落とした。たぶん、コーヒーでも飲むつもりだったのだろうが、ハンニバルがじっと見上げてくるので察するものがあったのだろう。ソフトドリンクのページに目を落として、うんと頷いた。
「父はこのミックスジュースにしよう」
途端に姉たちが肩を震わせ、額を寄せ合う。ハスドゥルバルは父の指さしたジュースの写真を見つめ、自分もこれがいいと母を伺った。
「いいわよ、おやつはシフォンケーキにしましょうか」
「うん。マゴーネも食べられる?」
「そうね。分けてあげるの?」
頷くと母の手がハスドゥルバルの頭を撫でた。マゴーネは半分眠ってしまっており、コアラの頭に顔を半分埋めていた。
「あなたたちいつも同じもの頼むよね」
長姉は微笑ましげに言い、じゃあハンニバルもミックスジュースねと呼び出しボタンに手を伸ばす。
「アイスコーヒー」
「えっ?」
「アイスコーヒーにする」
家族全員にきょとんと見つめられて、ハンニバルはまったく平然としていた。父も意表をつかれたという顔で、彼らは母の方を見た。だめと言い切りはしなかったが、母はどうしてもそれがいいのかと長男にもう一度メニューを勧める。
しかしこうなると頑として意見を翻さない子供であることは、彼女もよく知っていた。
「ハンニバルにカフェインは早すぎるわよ」
「いいじゃないお母さま、全部飲めるはずないんだから」
「そんなこと言うと一気飲みするんじゃないの?」
面白がった三番目の姉が今度こそ呼び出した店員に素早く注文を済ませてしまった。彼女たち四人分にしては多いデザート類を咎められる前にという狙いがあったが、母は何も言わなかった。
飲み物はすぐに運ばれてくる。そして姉たちやマゴーネまで黙って見守るなか、ハンニバルはストローに口をつけた。母が渋い顔をしているのでごくごく飲み干すことはなくひとくちだけを吸い上げる。誰もがぎゅっと顔を顰めるのを想像したのに、口の中でゆっくり味を確かめ飲み込んだハンニバルは真顔のまま
「まずい」
とだけ言って、父の前に置かれたミックスジュースと自分のアイスコーヒーとを取り換えた。
呆気に取られたあと、姉たちがくすくすと笑い声を立てる。そうやって笑われても臍を曲げないでいるところがますますおかしく、ケーキなどが運ばれてきてもしばらくその余韻がテーブルに残っていた。
「ハンニバル、お口の中が苦いでしょう」
そう言って差し出されたスプーンにハンニバルは上目遣いに母を見た。アイスクリームは滅多に食べさせてもらえなかったものの一つだった。
「いいのですか?」
「ええ、どうぞ」
兄が何も覚えていないことで、母だけは救われていたかもしれない。
かつては早々に父に取り上げられ、その手で育てるということの叶わなかった長男は、母親の柔らかな愛情を拒まなかった。ハスドゥルバルも兄と似たようなものだったが、それでもやはり、母親に対して笑ったことさえあの頃の兄にはなかったのだから。
おいしい、と口元を綻ばせた子供に、母は目を細めていた。
その様子を見上げていたマゴーネが自分もほしいと手を伸ばして、ハスドゥルバルはシフォンケーキに添えられた生クリームをその口に入れてやった。
車内に転がり込んだと同時に、背後で叩きつける勢いでドアが閉まる。肩越しに振り返ればマゴーネが運転席に向かって出せと指図し、車は弟を置いて家の前を離れた。
法定速度ぎりぎりで走り始めた車内で、体当たりをして押し込んだ父の体の上から起き上がる。ハスドゥルバルはその未だ思考の動いていない顔から目を逸らして、弟はうまくやるだろうかと遠ざかる我が家を車窓に見送った。
姿勢を立て直したハミルカルが、ハスドゥルバルと同じように外の景色が流れて行くのを見、運転席に向かって戻せと言いかけたが、運転しているのはマゴーネの『じいや』である。かつてマゴーネの初陣を世話し、付き従い続けその最期まで見届けた男は、もはやハミルカルの命令さえ受け付けなかった。
「あのローマ人」
地を這うような声で唸り、髪を掻き上げたハミルカルの脳裏には、いかにも無害そうな子供の顔が浮かんでいる。
グループを束ねる父は多忙で家にいることの方が少ない。家に戻る時には事前に秘書から連絡があるもので、この日のように予定外の帰宅というのは滅多になかった。ハンニバルにも、弟たちとは理由は違えどあの少年を父親に会わせるつもりはなかった。
だから鉢合わせたのは不幸な事故である。誰も望んでいなかった展開だった。
「いつからだ」
「……九月か十月、詳しい時期は知りません」
すでに年が改まって二月に入っていた。入学間もなくあの少年が息子に近づいたと知ってハミルカルは一層顔色を悪くし、子供に聞かせるべきでない罵倒を口走る。
スキピオはハンニバルの父親の登場にただ驚き、挨拶をしようとしていた。何か言う前にハスドゥルバルとマゴーネが割り込んだので彼らが言葉を交わすことはなかった、もしそうなっていて、もし、ヒミルコやかつての義兄がその場にいたなら、スキピオは無事にあの家を出ることができただろうか。
息子たちの行動の意図にも頭の追いついたハミルカルは、訝しむ目つきでハスドゥルバルを見下ろした。マゴーネやマハルバルたちまでもが「共謀して」自分の目を欺いてきたことに、怒りはないようだった。
「なぜあれを庇う」
「兄上を庇っているんです、スキピオじゃない」
「……それでいいのか、お前は」
「いいわけないでしょう!」
父でなく座面に向かって怒鳴ると、重石が外れてしまったのが自分で分かった。
「いいわけない、誰もいいと思ってないんだ! マハルバルもやめろと言ったし嫌だと言った、俺だって考え直してくれと言った。マゴーネなんか寝不足で訳がわからなくなって泣いたのに、兄上は慰めるだけで分かったとは言わなかった、俺たちの言い分が意味不明だから!」
例えば齢が離れすぎているとか、素行に明らかに問題があるとか、何かしら裏がありそうだとか、そういう理屈の通った拒絶なら兄も容れただろう。
「マハルバルは、結局、兄上のためにしか動かない。だからもう放っておくって言ってる。父上がいくら言ったってそれが兄上を苦しめるなら聞き入れないだろう。でも」
寡黙な次男の勢いに口を閉ざしている父を、ハスドゥルバルは見上げる。
「殺しますか?」
ハミルカルが驚くのに、ハスドゥルバルは内心で、落胆する。すぐに頷く父ならばそもそもスキピオの入学を許さなかったと頭では分かっているのに。
「そうしてほしいのか? お前とマゴーネは」
「別に死ねとは思いません」
しかし、かつて義兄を殺した男がもはやこの世にもいないのをハスドゥルバルは知っていた。自らの愛でた者がどんな死に方をしたかを知って父は躊躇しなかったはずだ。それは、もう一度同じことが起こる可能性がほんのわずかでもあるなら、それを許す理由がなかったからだろう。
スキピオは、ハンニバルを殺さなかった。死に追いやったのはアフリカヌスの名を冠した男ではなかった。それは弟妹よりも長く生きた長姉が教えてくれたことで確かな事実であり、きっと、この先も、くだらない諍いを通してでさえ、あの少年は兄を傷つけはするまい。
ハスドゥルバルは、諦めではなく、兄は好きなようにすればいいと思う。そのせいでどれほど自分たちが煩悶しようが、顧みず好きにすればいい。
「……父上、俺は、父上を死なせた連中に会ったらどうにかして殺したくなると思う」
「ハスドゥルバル」
「自分の首を剥製にした奴の顔を見てもうんざりしただけだったけど、あいつらは嫌だ。俺が殺したいって言ったら、父上、どうにかしてください。できるんでしょう」
ハミルカルが未だ肚のうちに飼っている憎悪が、彼にいやに優しい笑みを浮かべさせた。もはや息子の滅茶苦茶な物言いに驚きもせず、そうしてやろうと彼は青褪めたハスドゥルバルの頬を撫でた。そして、だんだんと悪くなっていくその顔色に目を丸くする。
「父上……」
ハスドゥルバルは口を押さえた。夕飯を済ませて間もないタイミングもよくなかった。
「……酔った……」
「おい、停めろ!」
運転を代われと言われて運転手は異を唱えなかった。おそらくイヤホン越しにマゴーネからもう戻ってもいいと指示があり、話の流れを伺っていたのだろう。車は家からそれほど離れずに走っていたようだった。
運転席から引き摺り出された男を乗せずに車は再び走り出した。置き去りにされた男と窓越しに目が合ったが、彼はただ苦笑を浮かべていた。
幼い頃から、ハスドゥルバルは自動車というものにどうしても慣れなかった。父の運転でなければあっという間に酔って悪くすれば戻してしまうので、いつもなら運転手を使う場面でもハスドゥルバルを乗せる時にはハミルカルは自分でハンドルを握った。
長じてもなおどの運転手の運転も受け付けないので車での登下校を諦めたハスドゥルバルに付き合って、ハンニバルも電車を使って通学するようになった。思い返すとそのせいで誰の目も届かない時間が増えたのか。
「限界なら吐いていいぞ」
バックミラー越しに言う父に、ゆるゆると首を振る。そういえばあの動物園、その行き帰りも父の運転だったおかげで、嫌なところのひとつもない思い出なのだと、ぼんやりと思い出していた。
「兄上はもう遅いから送るって言ってさっき出て行きました。免許なんか取らせるべきじゃなかったですよ」
戻ってきた父と兄に、マゴーネは拗ねた顔でそう言った。十八歳の誕生日に何がほしいと尋ねられ免許を取りたいと答えた長男に、そうか車が欲しいのかと返す、そんな調子だからと。
やっぱり酔いましたかとふらついているハスドゥルバルを支えて、弟はそうだと父を振り返る。広い玄関の隅に小さな靴が揃えられていた。
「ボミルカル殿が急な出張になったそうで、姉様たちが来てます。明後日まで泊まるって……」
それを聞いたハミルカルの顔に血色が戻るのを見て、ハスドゥルバルはマゴーネとこっそり目を見合わせた。出張の真偽はこの際問題ではない。
リビングから、ペットボトルを携えた幼子が顔を出す。ハンノがえっちらおっちらと運んできた炭酸水を、ハスドゥルバルは玄関のスツールでありがたく受け取った。
「だいじょうぶ?」
「ああ、この感じはすぐ治まるやつだ」
慣れっこなので感覚で分かる。礼を言われはにかむハンノを、ハミルカルが後ろからひょいと持ち上げた。すでにパジャマを着せられている三歳の孫にすっかり相好を崩している。
「母さまが、じぃじ怒ってるってゆってた」
「そんなはずないだろう。私がお前の前で怒ったことがあるか?」
「うん……? あるかも……」
ハンノが首を傾げるのを聞いているのかいないのか。猫を吸うという奇行が一般化して久しいが、父は孫を吸っている。記憶の揃いつつあるハンノはかつては会うことのなかった祖父のその調子に困っていたが、母と父がうんと甘えておあげと言うので吸われるがままである。
もう寝る時間だろうと寝かしつける気満々で姉の部屋の方へ向かうのを、ハスドゥルバルたちは口を噤んで見送った。リビングに入ると長姉がソファから弟たちににこりと笑いかけた。
「これでとりあえず明日までは保つでしょう」
「助かります、姉様。ボミルカル殿は何か言っておられました?」
昔から、マゴーネは長姉と義兄によく懐いている。隣に座った末弟に姉は別に何もと意味ありげに答え、顔色の良くなってきたハスドゥルバルに大変だったわねと眉を下げた。
「あの子が帰ってくる前にお父様を寝かしつけられないかしら。ハンノには一緒に寝てってお願いするよう言ってみたのだけど」
「それは……寝るんじゃないですか? 姉様のベッドですが」
「疲れてるでしょうしね。会議続きで疲れて、どうしてもあなたたちの顔が見たくなって帰ってきたのよ、お父様。ちょっとかわいそうかも」
「ハンノで帳消しです、たぶん」
自分の方がよほど気疲れしたという顔でソファに沈むマゴーネを、姉が腕の中に引き寄せた。そしてハスドゥルバルに向かって、空いた腕を広げて見せる。
逡巡したものの、ハスドゥルバルは姉の隣に座った。自分の結婚を機会として母に家を出るよう促し、共に暮らしてうまく子育てを助けてもらっている長姉には、もしかすると母以上に敵わないと感じることが多い。
「わがままよね、本当はあなたたちが生きていればそれでいいのに」
姉の呟きの纏う悲しみには、ハスドゥルバルもマゴーネも慰めの言葉を持たなかった。
そのうちマゴーネが寝入った後になって、ハンニバルは家に戻った。なんだか困ったような、釈然としない顔をしていたが、まったく起きない末弟を抱えて二階に上がっていった。
その後父と兄の間にも色々とやり取りがあったようだけれども、ハスドゥルバルにそれが聞こえてくることはなかった。