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星々の歌が降る

 クロスバイクは戻ってこなかった。
「要するに自転車泥棒は別にいて、そちらは解決の見通しがないんです」
 朝から不機嫌を隠さないスキピオの物言いに、メテルスはそうかとだけ答えた。
 昨日は警察の聴取があり、その際にクロスバイクについても説明があったらしい。さほど遅くない時間にメテルスが帰宅した時にはスキピオは部屋に下がっていたが、気疲れして早く休もうとしていたのだろう。
 清掃は済んだが家具類を置いたままにしている部屋のことや、終わらない手続きについて、スキピオはうんざりし始めていた。事が済んだと言えるまでに必要な手続きは、自分で証拠を集め告発した相手を法廷に立たせて弁論を行うよりもずっと煩雑に感じられ、何度もあの出来事を語ることに辟易している。
 朝食にもあまり手が伸びない様子で、目元には疲れがはっきりと浮かんでいた。
「昨夜も眠れなかったのか」
 訊かれたくはないだろうが、メテルスはそう尋ねた。スキピオが眉を寄せて先ほどから手のひらを温めるのにしか使っていないマグカップを覗き込む。
 メテルスの部屋に居候を始めて数日は、そんなことはないと言っていた。だがそんな誤魔化しが通じないことは彼も分かっている。
「まったくという訳ではありませんでした」
 硬い声には拒絶の気配があり、面持ちには苛立ちが隠しきれていない。
 病院での検査で異常なしのお墨付きをもらうと、当人は立って歩けるのだから大学にも通うしアルバイトにも行くと言い張っていたが、ポリュビオスに懇々と諭されて一週間だけはどちらも休んでいた。あの喫茶店のマスターは事のあらましを聞いて気の毒なほど狼狽えていたらしい。
 週末に入り、その一週間が終わろうとしていた。ポリュビオスがこの顔を見ればまだ休むべきだと言うだろう。大学に通える距離に住むメテルスにスキピオを預けたことを後悔するかもしれない。
 数年前までは母と弟と共に暮らし、彼らがそれぞれの仕事や進学のために出て行ったマンションの一室には、スキピオを滞在させる余裕がある。カルウスが使っていた部屋を覚えていたスキピオはおかしな気分だと笑って、当座の生活に足りるだけの荷物を持ち込んだ。
「どこかに出掛けたらどうだ」
「出掛ける?」
「いっそのこと何もかも置いておいて気晴らしに出るのもいいだろう」
 休むと言っても、警察の聴取があり方々への連絡があり、心身を休ませているようにはメテルスにも見えない。早く出て行けと言った覚えはないのに、スキピオは既に新しい部屋を探し始めてもいた。
 スキピオは相手の言葉を噛み砕くそれなりに長い時間を置いて、メテルスの目を見返した。今朝起き出してきてから初めて目が合った。
「でもそんな急に、あなたの予定はいいんですか」
「私の?」
「……一緒にどこかに行こうってお誘いでしょう?」
 そんなつもりは、なかった。ラエリウスでもポリュビオスでも、神経の和らぐ誰かを伴ってという想定であったが、しかし、メテルスは頷く。
「この週末は何も」
「珍しいですね。……じゃあ、静かなところがいいかな。人が大勢いるところよりも」
 口をつけないままカップをテーブルに置いたスキピオの手が、首元に触れる。彼の頬や首に残る痣は、最初の有様を思えば色を変え薄らいでいた。それでも目を凝らすまでもなくそこにあり、昼間には陽気を感じられるこの季節に首元の隠れる服を選んでいる。
 左手の傷には未だガーゼを当てて、不意に身体のどこかを庇うような仕草をする。なかなか寝付けないまま数時間を過ごし、夜中や明け方、浅い眠りから目覚めていることを隠そうとするように、その仕草も些細なものだった。
「いっそどこかに泊まるか」
 唐突な思いつきだったが、それができる場所を探して選べばいいのだ。スキピオはあなたに任せますと言って、ようやくパンを千切って口に運んだ。


 車を降りると冷たく澄んだ空気が体を包んだ。高原は未だ上着のいる気温で、数時間の運転を終えた身には心地よい。助手席から降りたスキピオも山々に囲まれた景色を見渡し、深く息を吸い込んだ。
 海ばかり見ているなら緑に目を向けてはどうだとメテルスが目的地をこの高原に決めてしまったのに、スキピオは注文をつけることもなくついてきていた。ロッジの空いていた一部屋を確保する形で予約を入れてすぐ出発し車でそれなりの距離を走った末に、ちょうどチェックインの時間に到着していた。
 駐車場から本館の建物に入ると、同じようにただ静かに過ごすためにここを訪れているのだろう宿泊客が何組かラウンジで過ごしている。長い歴史があるというこのロッジについては、祖母が心地よく過ごせたと言っていたのを聞いた覚えがあった。過剰に観光地化されていない自然保護地区であり、スキピオの唯一の希望通り、それほど多くの観光客が訪れる場所ではない。
 荷物を預け鍵を受け取って身軽になると、スキピオは部屋に入るよりも先にフロントで渡された地図を広げた。登山のしたい者にはそれに適したルートを、ただ軽く歩きたい者には散策コースを勧めている。
「湖があるんですって。少し歩きませんか」
 道中で昼食を済ませていたから、そのままロッジを出た。助手席でいくらか微睡んでいたスキピオは、朝に比べればすっきりとした顔をしていた。野鳥が囀るのに耳を澄ませて音の出所を探すようにあちこちを見回しながら、気ままな足取りで進んでいく。
 途中幾人かとすれ違いながらも、遊歩道は静かだった。人の手の入った道より奥、林を見遣って、昔みたいにとスキピオが呟く。
「狩りができると楽しいのに」
 資格が要るし猟銃を使いたい訳ではないしと、思い出しているのはマケドニアの王宮で遊んだことなのだろう。
「地図には鳥のことばかり書いていますけど、鹿なんかがいるはずですよね」
「そうだろうな、出会したくはないが」
「マケドニクスが鹿ごときを恐れるんですか」
 そんなふうに他愛のない会話をしながら歩くうちに、木々の間から湖が現れた。遊歩道はそれなりの大きさの湖の周りをぐるりと巡り、また戻って来るようになっているらしく、ロッジへと戻っていく家族連れとすれ違う。
 桟橋がありボートが繋がれていたが、乗ることはできないようだった。湖面はただ静かで、時折強く吹く風が梢を揺らす音ばかりが近い。
 湖岸の危うい位置に座り込む子供の姿を見つけたのは、半周ほどを歩いてどちらも言葉少なになった頃だった。枝を持って水面に浮かぶ何かを突いている様子だったが、体の小ささに対して頭の大きな子供のこと、見ているだけで危機感を誘われる。
「あの子、ひとりでしょうか」
 先にそれを見つけ、そう言って近づきかけたスキピオが、その場に立ち止まった。
 表情を失って子供を見つめる目にも何の感情も読み取れなかったが、メテルスが訝しむ気配に思い出したように瞬きをして、足を踏み出す。
 スキピオが子供のそばに立つのを、メテルスは少し離れて見ていた。
 子供が顔を上げる。見たところ二歳あたり、マフラーを巻いているのに上着を着ていない。長い髪を二つに結えた女児はただそこにいるものの姿を確認するようにスキピオを見返した。
「……センプロニア?」
 そう呼んだ声は躊躇いに揺れた。
 まだ言葉が出ていないのか、「見知らぬ相手」への警戒ゆえか、何も言わない子供に、スキピオが手を差し伸べる。
「そんなところにいると危ないよ。お父さんかお母さんは?」
「…………」
「寒くない?」
 最後の問いにだけ頷いた子供を、スキピオは脱いだ上着で包んだ。怖がらせないようにか断りを入れて抱き上げ、遊歩道へと戻ってくる。
 周囲には子供の家族らしい姿どころか人影ひとつない。迷子らしいと言ったスキピオの当惑は、確信ゆえのものと見えた。 
「……確かか?」
 正直なところ、かつてのスキピオの妻女についてメテルスはそれほど細かな容姿を覚えていない。いつも俯いていて、目が合ったことが一度もなかったという印象ばかりがある。しかしその緑がかった黒髪と、同じく深い緑と灰とを溶かしたような瞳は、父親であるセンプロニウス・グラックスと同じだった。
 スキピオは頷く。怖がるでもなく大人たちを見比べるセンプロニアは枝を手放さないままで、どう見てもただの幼子だった。彼らが昔のことを思い出すのは大抵が発話のしっかりした後の三歳か四歳ごろ、まだ何も知らなくとも不思議はない。
「ロッジに戻りましょう」
 来た道を戻るよりも進む方が早いと、彼らは先を急いだ。ここには泊まりに来たのか遊びに来たのかと問うてもセンプロニアは無言であり、メテルスにはこの子供が我にかえって突如泣き始めることが最も警戒すべきように思われた。
「小さな子相手に怖い顔しないでください」
 スキピオにそう言われ視線を外したが、自分の思いつきがこの展開を呼び寄せたと思えばそういう顔にもなる。
「フロントに届ける時には私が預かる、先に部屋に入っていろ」
「……どうしてですか?」
「家族と顔を合わせたいのか」
 スキピオはメテルスの横顔を見つめ何も答えなかった。
 見覚えのある景色に辿り着きちょうど湖畔を一周したと分かった彼らの視界に、それは飛び込んできた。
 ロッジのある方向から猛然とこちらへ走ってくるのは、迷子の少女と同じ色の髪をした少年だった。しかし怒り心頭のその顔が十歳かそこらと見え、スキピオの反応が遅れる。
「──妹に何してる!?」
 叫び様に繰り出された飛び蹴りをまともに受けかけたスキピオの前に出て、メテルスはその足を掴んだ。軽い体を宙吊りにされて驚くよりも先に放せ下ろせと大声を出すあたり、気性は何ら変わっていないらしい。
「……ガイウス・グラックス」
 少年は自分の足を掴む相手の顔を見てげっと大きく声を上げた。
「メテルスのジジイ!」
 手を離すと受け身も取れずに地面に投げ出されるがすぐに起き上がって、威嚇する子猫のような顔でこちらを見据えた。
「妹ごと蹴り飛ばす気だったのか?」
「そんなはずあるか!」
 では何をどうするつもりだったのか、所詮は子供の発想だった。ガイウスはメテルスと睨み合う無益さを悟り妹へ目を転じ、そしてそこでやっと、妹を抱いているのが誰かに気がついた。
 スキピオも、センプロニアの両親と顔を合わせる想定はしても、義弟たちはまだいないものと思っていたのだろう。目の前で繰り広げられるやり取りに呆気に取られていたが、進みでてセンプロニアを下ろした。
「お兄ちゃん、でいいのかな」
 尋ねられた子供が頷くので、上着を着せてやったままで背中を押す。センプロニアが歩み寄るとガイウスはそれを両腕で迎えた。慣れた様子で抱き上げる。
 そう、異なる親の元に生まれることがあるのだから、兄弟の生まれる順番が同じではないことくらいありうるのだ。
「……妹から目を離さないようにね」
 スキピオがそう言うのにガイウスはきっと上目遣いに相手を睨んだが、どうにか思い直し頭を下げる。
「見つけてくれて、ありがとうございます。蹴ろうとしてごめんなさい」
「いいよ」
「……それだけ?」
「何がだい」
 穏やかなばかりの微笑みにも優しげに整えられた声音にも、スキピオがどう振る舞おうとしているのかがはっきり表れていた。
 ガイウスはかつて義兄と呼んだ相手に何か言いたげな顔をしていたが、踵を返した。スキピオはそれを見送らず、メテルスの腕を引き彼らの後ろについてロッジの方へ歩き始める。
「あの子たちだけで行かせるわけにいかないでしょう」
 妹を抱えた子供の遅い歩みに合わせているうち、風は冷たさを増し始めた。メテルスが自分の上着を被せると、スキピオは目を丸くしていたものの黙って袖を通した。
 遊歩道の入り口まで辿り着いたときちょうどロッジの車寄せに出てきた人物を、センプロニアが握った枝で指す。
「ママ」
 そう呼ばれたのが聞こえたように、母親──コルネリアが振り向いた。
 まず子供たちの姿に安堵を見せた彼女が、その後ろにいる者たちを認めて浮かべかけていた笑顔をほんの一瞬だけ失う。しかしガイウスが妹を抱え直すのにはっとして急足にこちらへ近づいてきた。
「ああ、よかった……」
 娘を受け取り、一度ぎゅっと強く抱きしめてから、小さな体を包む上着に目をとめた。
 こちらを見る顔はまだ若い。息子の齢と合わせて考えれば、昔と同じように早くに結婚したとしか考えられないほどには。
 スキピオは彼女らに近づかないまま、しかし去るあてもなく、見届けた後のことなど考えていなかったのだという風情で立ち尽くしている。
「プブリウス」
 そう呼ばれ小さく肩が揺れた。コルネリアはその華やかに人の目を惹く容貌に、まるで懐かしい相手と出会った時のような親しさを帯びていた。
「……ありがとう、娘を見つけてくれたんでしょう?」
 差し出された上着を受け取って、スキピオは「いえ」と短く答えただけだった。
 客室で昼寝をさせていたところ、ほんのわずかに目を離した隙に姿を消したらしい。家族皆で探し回っていたところであり、本当に事故の起こる寸前だったことにスキピオはただ寒さのせいでなく顔色を悪くしていた。コルネリアもどれほど気を揉んだものか、娘を抱く手は小さく震えている。しかし本当にそれだけが理由とは思えなかった。
 家族は昨日からここに宿泊しているという。常に再会というものは唐突に、歓迎されるか否かなど構わず訪れるが、その中でもぞっとするような偶然だった。
 娘を自分のショールに包んだコルネリアが、スキピオの顔と左手とをまじまじと見つめた。
「プブリウス、どうして怪我をしているの」
 白い手が伸ばされる。スキピオがただ受け入れようとした、頬の痣に触れかけたその手を払い除けたのはメテルスだった。
「……あなたこそよくご存知だろう」
 コルネリアは明らかにメテルスのことを判っていた。しかし虚を突かれた顔で、その手は宙に浮いたままだった。ガイウスとセンプロニアの、同じ瞳がメテルスを見ていた。
 ただ見ているだけの妹とは違い、父親に連絡を入れかけていたガイウスはスマートフォンを下ろし母親とメテルスとの間に立ち塞がる。
「どういう意味だよ」
「このような傷がどう生み出されるか、お前たちは知っているだろうと言っただけだ」
 言葉を理解する一拍を置いて、ガイウスの顔に恐れと渾然となった怒りが浮かぶのを、メテルスは懐かしくさえ思った。
 注がれる疑いの目に自分ではないと恐れ慄き叫び、究明の手を避けんとして調べるべきことなど何もないと言い張ったときのガイウスも同じ顔をしていた。
 そしてコルネリアは、その矜持の高さがどれほどのものかを誰しもに思い知らせるような目をしていたのだ。
「あなたほどのお方が風聞に耳をお貸しになるのですね」
 娘の耳を塞ぎ顔を伏せさせて、メテルスを見上げる青い瞳は冴え冴えとしている。どれほどの賞賛や中傷を受けながらもあくまでも健気に、思い出を慈しみ続けてどうにか高潔なまま生き抜いた女に、メテルスは目を細めた。
「あるはずもない次が与えられたのだから、騒乱の種とならぬようご子息をお育てになることだ。今度は喪に服するくらいはできたほうがいい」
 しんと落ちた沈黙を破ってスキピオが発したのは、彼のものにしてはあまりに弱々しい声だった。
「何のことですか……?」
 彼はメテルスを見ていた。従姉に対するたったいまの言葉への怒りと共に、それが理解の及ばないものであることに困惑を隠せていない。
 メテルスは答えず、代わりにガイウスが信じ難いものにするようにスキピオを見る。
「何も知らないでいるのか? よりによってあんたが……」
「ガイウス、よしなさい」
「あんたが! 何にも知らないでのうのうと生きているのか! 兄上の遺したものを壊しておいて、姉上にも背を向けておいて、なんだってメテルスとこんなとこにいるんだ? まさか昔からそうだったって言うんじゃないだろうな」
「ガイウス……!」
 コルネリアの制止を振り解いた少年が伸ばした腕をメテルスが掴むと、スキピオはそれを止めようとした。だが自分に向けられる眼差しの悲愴によってその場に縫い止められる。
 この義弟が長じてどれほどの弁を振るったかさえスキピオは知らないのだ。彼の目の前にいるのは、ティベリウスという指針を失って惑う若者ではなかった。
「あんたの呪ったカルタゴは再建され、農地法も結局は後回しにされただけだ」
 変声を迎えていない幼い声が、それでも血を吐くような恨みがましさを纏っていた。
「あんたやラエリウスが見て見ぬふりをして先延ばしにしたすべてが後の時代に押し付けられただけじゃないか。命懸けで時代の流れを引き戻そうとすることほど無駄な行いはない! 僕らを国家の敵と呼んだところで万民の飢えが癒されるはずもないのにヌマンティアを滅ぼしたように僕らを殺したんだ、あんたこそカルタゴで死んでおいた方がよかった、僕らが殺したとしても不思議じゃないような存在になる前に、僕らにとっていい兄であったうちに死んでくれた方が──」
 自分の言葉に追い立てられて一気に吐き出してから、くしゃりと顔を歪める。メテルスはその腕を離した。肩で息をするガイウスはかぶりを振り、両手の手のひらで目を擦った。「違う」と呟く声は幼い。
「ちがう……」
 スキピオは血の気を失っていた。──誰も、彼にガイウス・グラックスの最期を本当には伝えていなかった。兄と志を同じくし、しかし倒れた、そのようにしか。
 そして、スキピオの死がどのように語られたのかを、誰も口にしてこなかった。
 メテルスはスキピオの手を取った。引っ張られよろめいたスキピオが後ろを振り返るのも構わずにロッジの中へ入る。
「メテルス、待って」
 踏み止まろうと抗うのを無視してロビーを抜け、客室のある方へと向かう。急な思いつきで予約できたのはさほどの眺望の望めない一階の部屋だった。
「……手が痛い……」
 そう言われて振り向けば、掴んでいたのは左手だった。手を離し、客室の鍵を開く。
 荷物の運び込まれたツインルームはそれなりに広々として、静かだった。左手を押さえたスキピオの目は部屋ではなく、あの親子へと向けられている。その勁い眼差しはメテルスへの憤りを隠さなかった。それでも彼が最初に問うたのは、メテルスの振る舞いの理由ではない。
「あの子に何が起こったんですか」
 据え置かれたソファに腰を下ろしたメテルスは、思えばこれはラエリウスも見ていないことなのだと気がつき、スキピオが知らないのはほとんど自分のせいなのだと認めた。
「兄と同じように公有地の再分配に取り組み、兄以上に多くを変えようと挑んだ」
「それは聞いています、でも」
「元老院最終決議がガイウスを排除し国家を護持すべく出された」
 それが聞き慣れない言葉だったからか、それでも意味するところが理解できたせいか、スキピオは返す言葉を失った。
「執政官が兵を率い、ガイウスはその支持者とともに殺された。君の甥が執政官だった年だが、率いたのは同僚のオピミウスだ」
 実際に改革のため働いたわけでもなく、連なるというだけで年端のいかぬ少年までもを含んで、殺された者は三千人に及んだ。
 ティベリウス・グラックスが殺された時とは状況がまるで異なっていた。当時の執政官であったスカエウォラはティベリウスが王冠を望んでいるなどという主張には頷かなかったし、ナシカとその支持者が元老院を出た時、彼らは兵を率いたのではなかった。メテルスやラエリウスをはじめとして、多くの議員は議場に残ったのだ。
 メテルスは、殺されたガイウスの首は見なかった。ガイウスが為そうとした多くのことが元老院を揺るがし国家を──あの少年からすれば国家などと呼べない古くからの体制を壊そうとしていると考え、殺害を是としはしたが、必要を超えて見物に出る気にはとてもならなかった。
 あの流血はメテルスにとっては傷となっていない。ポンペイウスの言う内乱がどこから始まったのかを考えるとき、ローマ市民に対し行われた殺戮を端緒と見做せるだろうと今となって考えはする、その程度だった。
「あの夜のことを一度も話してこなかった」
 スキピオは話題の転換を察し、メテルスの前に立った。わずかに眉を寄せて、責めるようにどうしてと言う。
「どうしてコルネリア様にあんなことを言ったんです」
「君を殺したからだ」
「メテルス──」
「あるいは死を望んだ、息子のために殺してくれと誰かに頼んだのかもしれない」
 一週間前、スキピオの身に何が起こったかを知ってラエリウスは蒼白となって何も言わなかった。言葉に収めて発するにはあまりに激しい怒りに駆られて黙り込む親友に、スキピオさえ戸惑い、宥めることが叶わなかった。
 あの怒りは、ただ傷つけられたからではない。思い出させられたからだ。
 夜更け、夜陰に紛れて部屋へ忍び込んだ悪意が、スキピオに手を伸ばしたことを。ラエリウスはスキピオの甥たちが葬儀を執り行うのを助けたが、スキピオの死顔を見たのは彼らだけだった。布に覆い隠されたまま葬られたせいで、どんな傷があったのかさえも人々は想像し噂した。
 急な病とも、自ら命を絶ったのだとも噂が立った。そのすべてが聞くに耐え難く、だがメテルスは、選び取るまでもなくひとつを信じた。
「多くの者が君は殺されたものと信じ、疑わしい者たちが名指され、だが誰も殺害者を法廷に引き出すことはなかった」
 その名を羅列することもできたがせずに、スキピオとティベリウス、そのどちらとも近しい者ほど強く疑われたのだとだけメテルスは言った。
「誰を憎むのが正しい?」
 スキピオはただメテルスの目を見返した。怒りが過ぎ去り凪いだその眼に誰かへの憎しみが、あるいは恐怖があったのならばと、どれだけの者が思うのかを彼は知らない。
 彼は結局、何も言わないのだ。何が起こったのか、起こらなかったのかを。最期に何を見たのかさえ。
 長い無言のあと、スキピオの目から涙が一筋だけ落ちた。
「死んでしまったあとになっても、僕はあの子を傷つけたんですね」


 もうふたりとも部屋を出る気にならず、ルームサービスで夕食を済ませたあとスキピオは本を読んでいた。ベッドに入ってもしばらく光量を抑えた照明をつけて読書を続けたのは、メテルスが先に眠るのを確かめたかったのだろう。彼はメテルスが眠らずにいるとは気付かなかった。
 照明をすべて落とした部屋で、しばらくはスキピオが寝返りをうつ衣擦れの音ばかりがしていた。それが途切れ、小さな寝息が聞こえて一時間もしないうちに、前触れなくスキピオが体を起こした。
 魘されることもなく、飛び起きるのでもなく、しかしそこからまた横になる気配がないので、メテルスは閉じていた目を開く。
 ベッドサイドの照明がつくと、スキピオは隣り合うベッドから勢いよくこちらを振り向いた。
「……起こしてしまいましたか?」
 立てた膝に腕を乗せぎこちなくそう言って、首をさする。
「毎日その調子なのか」
「……いいえ」
「ましになっているという意味か?」
「いえ、あまり」
 壁越し、扉越しでも、その様子を気配で伺うことはできた。だがこうして、眠れない時間をどんな顔で過ごしているのかを見れば、何の意味もなかったと感じられた。
 スキピオはメテルスの目線を避けるように目を伏せていたが、段々と苛立ちが勝ってきたようだった。
「これじゃ、まるで僕が怯えているようじゃないか」
 まるでそんなことは許されないと言いたげな物言いをし、メテルスを見る。まさか否定を求めているのではあるまいが、何も言われないのにはっきりと不快げにした。
「あんなものは恐るべきではない。そうでしょう。あんな──それが誰であろうが意味のない人間のしたことに、僕が怯えるべきじゃない」
 そう吐き捨てながら、左手に触れる。メテルスの部屋に身を寄せたとき、冗談めかして彼が言ったのは枕元に立たないでくれということだった。驚いて、殴りかかってしまうかもしれないから。
 あの夜、スキピオは殺してしまうかもしれないという躊躇を持たなかったが、殺してしまおうとも思わなかった。警察に説明するようにはメテルスに対して語りたがらないが、それでも察しはつく。何が起こり、何が起こりかけたか。
 彼は対処しきれない筈だと、子を思う顔でポリュビオスは言った。警察や病院が勧めるはずのカウンセリングを受けるかも怪しい。だからひとりにはしておけない、いまこの時だけでなくこの先も。
 悪意は未だ彼らのそばに息をしていた。それを忘れることを幼い頃から許されずにきた。しかしこれまで目の前にいるのがスキピオだと知って行動を起こした者は、誰もが恐れによってそうしてしまったのだ。再び自らが壊されることを避けようとして、火の粉を手から払うようにして。メテルスも、もはや何の力もない自分に向けられる怯えた目を知っている。
 今回だけは、あの男だけはそうではなかった。 
「一度だって怖いと思ったことはなかった」
 淡々とした声は強がるのではなく、打ち明ける響きを持っていた。
「敵たちの叫びも、わずかな差で自分に突き刺さっただろう矢も、僕の足を止めなかった。死んでいくものの、死ぬこともできないものの悲鳴が耳に残り続けてもそれが怖くはなかった、人間を焼く煙で鼻が利かなくなっても息ができた、瓦礫に埋もれた者たちを踏み砕く蹄の感触はいまも思い出せるけれど、それを夢に見たことなどない。何万もの人々が僕を憎んでいても、恐れていても、市民が僕にいなくなるよう願っても……」
 彼の怒りは常に、激する以上に冷え切って言葉を鋭く砥ぐ。自分自身への許し難さでさえも、言葉を切る数秒のうちに氷のような軽蔑へと変わっていった。
「それがどうしてなのか、彼らはきっと知っていたでしょう。それなのにこんなふうに、まるで……怖かったのだ、傷ついたのだと訴えるように、眠れずにいる……」
 スキピオはまた不意にメテルスの存在を思い出したようにこちらを向いた。その顔は皮肉めいた笑みを浮かべている。
「あなたが好きだと言う僕は、こんなふうに泣き言を口にしないでしょう?」
 突拍子もないことを言われてメテルスは何の感想も乗せない笑みを返した。こうも何も分かっていないとかえって清々しい。
 メテルスには、彼が悔いているのではないことが理解できた。やり直したいと思っているのでも、ああすればよかったと夢想しているのでもない。ガイウスの恨みを目の当たりにしてもそれは変わらないだろう。
 だがスキピオはいまたった十八歳に過ぎなかった。いくら五十余年の記憶があっても、彼の人格がそこから連続するものであっても、十八年をかけて育てられたと言うべきだった。たったそれだけのことだ。
「私たちは確かに弱くなった」
 スキピオは目を瞬いた。意外そうに、寄せていた眉を開いて相手を見つめる。
「これからそれを目指すのならばともかく、兵士を指揮し、市民を導くのに必要なあらゆるものを欠いて、世界のありようをその手ひとつで変えることなどできない。ならばこそ許されないことも、許されることもある。スキピオ、いまも弟たちに死を恐れるなと教えるのか?」
 パウルスが思い切った選択をしたことで、スキピオはちょうどいまと同じ齢の頃に亡くした弟たちと再び出会った。世に広く知られるほど慈しんだ妹たちと、ファビウスと共に、あと数年は不安を抱きながらも彼らを見守るだろう。
 相手の言わんとすることを悟って、スキピオは遠い存在にするようにメテルスを見る。あるいは、自分が持ちえなかった多くを持った相手に対してするように。その曖昧な顔のままで言ったことはますます突拍子がなかった。
「そちらに行ってもいいですか」
「…………」
「だめ?」
 時々、メテルスはスキピオに自分の話が通じていないのではないかと思う。この事柄については特にそうだが、疑いが確信に近付いてしまった。
「まだ、と言っていただろう」
「……パウルスにですか? だって本当にまだ、何でもないですから」
「何でもなくなりたいのでなければ、自分に下心のある相手との同衾は避けて当然だと思うが」
「でもあなたの近くの方が眠れそうなんです」
 呆れが勝ると抵抗も馬鹿馬鹿しくなる。メテルスがため息をついたのをいつものように了承と取って、スキピオは自分のベッドを抜け出した。
 どうせここにいるのがラエリウスでもポリュビオスでも、あるいはファビウスでもスキピオは同じことを言う。パウルスでも言うのかもしれない。彼らがそれを許し続けてきたせいでメテルスはこういう目に遭うのだ。
 布団に潜り込んできたスキピオは他人の体温を心地よさげにした。自分の位置を定めると、先ほどよりずっと近くからメテルスの顔を覗き込む。険しさの失せた子供のような目で。
「……下心ってもっと不気味なものかと思ってました」
 自分が抱いたことがないものに理解がないのでそんなことを言う。メテルスがその体を抱き寄せても、身を固くするどころか距離を詰めて、吐息に紛れそうな笑い声を立てた。
 それでももうメテルスが口を利かないつもりと分かって口を噤み、しばらくして聞こえてきたのが寝息であれば、心がささくれ立つこともなかった。それはなぜか、はっきりと伝えているはずだということだけが納得いかなかったが。


 扉が控えめに叩かれたとき、目を開いたのはメテルスだけだった。時計を確認すると七時前、カーテンの隙間から差し込む光は弱々しく部屋は薄暗い。
 非常識な相手と無視しても構わなかったが、よりによって今朝この部屋を訪ねる者は想像がつく。無視する方がよほど面倒事を引き寄せると早々に結論を出し、それなりに深く眠っているスキピオから身を離した。肩の上まで布団を掛け直して起きてしまわないことを確かめる。
 もう一度響いたノックの音が先程より大きく、はっきりとそれが不快だった。
 扉を開くと案の定、センプロニウス・グラックスが幼い少年を伴って立っていた。ガイウスよりも年少で、センプロニアより年長のその少年、ティベリウスは、父親と手を繋いでやや不安げにメテルスを見上げる。
 対してグラックスは、それほど縁の深くないメテルスに久しぶりだと笑った。コルネリアほどではなくともその貌は若々しく、生気に満ちていた。親子で同じブランドのジャンパーを着込み外へ出る準備を済ませている。
「早くにすまないね。ガイウスが起きる前に来ないとどうしてもついてきてしまうから」
 あの子は朝が弱いんだ。どうでもいいことを教えられてメテルスは何も答えなかった。扉を半ばほどしか開かないまま、それを閉じないのはこの男への敬意が残っているからでしかない。
「スキピオはいるかい」
「眠っています」
「そうか。そう警戒しないでくれ、息子が怖がる」
「あなた方に部屋を教えた覚えがないので」
「ああ、それはまあ……ガイウスがひどく神経質になっていてね。すまない」
 悪びれないグラックスよりも、ティベリウスの方がよほど気不味げに体を小さくして、申し訳ないと顔に書いてあった。それでも父親にもう戻ろうとは言わない。
「メテルス? ……どうなさったんですか?」
 部屋の中を振り返ると同時に閉めかけた扉が外からぐっと押し返される。
 メテルスの舌打ちを聞き流したグラックスと、スキピオの目が合った。寝起きの緩やかな心地など消え去ってしまったスキピオが素足のまま近づいてきて、メテルスの背に触れた。
「お久しぶりです、グラックス様」
 目線を下げるスキピオの手が寝衣を掴む。微笑みはぎこちなく、ガイウスに向けたほどには相手を突き放せていなかった。
「……ティベリウス、久しぶりだね」
「義兄上」
「僕はもう君の兄じゃないよ」
 ティベリウスは目を瞠り、そうですねと弱々しく返した。スキピオはグラックスに尋ねる。
「何かご用ですか」
「ああ、少しでいいんだ、話せないか。息子の非礼も詫びたい」
「それは、結構です。先に礼を失したのはこちらですから」
「君が何か言ったんじゃないんだろう?」
 同じことだとすげなく答えてから、親子の視線が同じところに向かうのに気がついて、首元に触れる。アメニティの寝衣はゆったりとした作りで、そこに浮かぶ痣を隠さなかった。スキピオはそれについては何も言わずグラックスに向けて頷く。
「話すのは構いません。支度をさせていただければ」
「ありがとう。ロッジの裏にテラスがあるのを知ってるかな、そこで待っている」
「……はい」
 待っているからとグラックスは重ねて言った。スキピオがそれに二度も答えさせられる前に、メテルスは扉を閉めた。それを咎め立てず洗面所に入り顔を洗い始めた背中に声をかける。
「いいのか」
 もう兄でないのなら、グラックスとてもうスキピオの義父ではない。
 タオルで顔を拭いたスキピオが、鏡越しにメテルスを見て笑みを浮かべた。それは苦笑だった。
「断る理由が思いつかないので。……でも、ついてきてくれますか。ガイウスが起きてきたらまた蹴られそうだ」
「蹴り返してやれ」
 そんなことできるはずないでしょうと眉を下げたスキピオには、本当にそんなことはできっこない。あなたもそんなことはしないでくれと言われ、メテルスはただ肩を竦めた。


 冷たく、少し湿った空気の中に、薄く緑の匂いが漂う。テラスからは本来見事な景観が望めるのだろうが、朝靄が立って遠くの山々を隠していた。何台か並べられたテーブルにつくのでなく立ったまま待っていたグラックスとティベリウスが、足音を聞きつけて振り返る。
「朝はまだ冷えるな」
 グラックスはあくまで朗らかな態度で、傍らの息子の肩に手を添えた。促されたティベリウスは小さな手を握り合わせて、生来の繊細さを隠せない瞳は揺らいでいた。
「ぼくはあなたを義兄上、としか……それ以外にどう呼べばいいか、分からないんです」
「君が嫌でないなら、呼び方は好きにするといい」
「……義兄上、ガイウスがごめんなさい。ガイウスは昔から、勢いで思いもしないことを言ってしまうところがあるんです。昨日も、きっと……」
 思いもしないことだったか、どうか、本当はティベリウスにも分からないのだろう。
 スキピオは君の気にすることではないと、まるで青年に対するような物言いをした。
「話とは何だい」
 六歳か七歳、そのくらいにしか見えない子供相手に、目線の高さを合わせようとしないのはスキピオの振る舞いとして不自然だった。
 話しぶりがいくらしっかりとして聡明さを窺わせても、体と精神は記憶についていけない。ティベリウスは困り切って、口をはくつかせた。
「……わ、かりません」
 肩に置かれたままの父親の手を握る。
「会えば分かるかもしれないと思ったけど、やっぱり分かりません」
「ガイウスがどうして怒ったのか知っているだろう」
 何も返せず、喉を詰まらせたのが答えだった。
 彼らを見守るグラックスがこちらをちらと見遣った。そこに剣呑な気配がないことは彼が何も知らないことを意味しない。メテルスよりもなお長く生きたコルネリアが何をどのように語ったのにしろ。
 ──そのようなことを行った者はみな、同じように死ぬがいい!
 その詩句がヌマンティアでなぞられたことを多くの者が知っていた。それが彼が帰国したとき既にスキピオへの疑いや怒りを招いており、遂にはカルボーにあの問いを発せさせた。スキピオのもとへ届いた報せはおそらく、彼にそのような失言をさせる程度には偏ったものだったが、そのようなことは誰も顧みなかった。
「僕は君に謝れることは何もない。君から聞きたい言葉もない。……こんなふうに出会ってしまうことがなければ、探すこともなかっただろう」
 護民官の再選を認める法の成立を阻み、土地を取り上げられ惑うラテン人たちの助けを求める手を取った。混乱への対処であり憎しみを煽ることはなく、まったく道理に合わぬ真似をしたわけではなかったが、それは確かにガイウスの言うように、ティベリウスの遺したものに手をかける行いだった。
 ティベリウスは深く息を吸い込み、幼いばかりで頼りなげな背中をまっすぐに伸ばした。
「義兄上にとってはそうであっても、それでもぼくはあなたに会えてよかったと思います」
「なぜ?」
「だって好きな人と会えないままなのは寂しいから」
 スキピオはおそらくやっと、目の前にいるのが幼い子供だと思い出した。自分を見上げる真摯な目に、容易には砕けない強い意志を見出し、ティベリウスの前に膝をつく。
 そっと手を伸ばして触れたのは頭だった。そこに傷のないことを確かめるように撫でる手をティベリウスは受け入れ、されるがままになっている。小さな頭に傷痕も見つけずに済んだ手がそのまま頬に触れると、淡く笑みを浮かべた。
「君たちは僕を嫌いになってもいいんだ」
「嫌いじゃありません」
「恨んでもいい、もう何を言ったって……それで何かが壊れてしまうことも、周りの人たちが僕らの代わりに何かしようとすることも、もうないんだから」
「ぼくは、義兄上を恨んだことも、悔しくてしょうがなかったこともある。嫌いになりたいと思ったこともあります。でもそれはできなかった」
 ティベリウスが護民官となる以前から彼らの間には葛藤があった。ティベリウスとクラウディアの婚礼はそれを象徴するかのように、相容れない政敵同士を花嫁と花婿のもっとも近い親族として並べていた。ただスキピオもプルケルもその場ばかりは互いへの敵愾心を置いて、心からの祝福を送っていたのだと、ティベリウスの同僚鳥卜官として招かれていたメテルスは記憶している。
 抱き寄せられてティベリウスはすぐにスキピオの背に腕を回した。そこにぎゅっと込められた力はその小さな体の精一杯で、それに応えるようにスキピオはティベリウスを抱き竦める。
「ティベリウス、ローマで君にもう一度会いたかった」
 ようやく言えたのはたったそれだけだった。
 ──メテルスのそばを小さな影が通り抜ける。どこからか駆け寄って来たセンプロニアが、ぽふっと軽い音を立ててティベリウスの背中に倒れ込んだ。
 兄たちがぽかんとして自分を見るのに首を傾げる。センプロニアはパジャマ姿でこそないが寝癖のついた髪をあちこち跳ねさせていた。
「え? ……センプロニア! なんで? ママは!?」
 ティベリウスが見回してもコルネリアやガイウスが追いかけてくる気配はなく、すかさず手を握って妹を捕まえるところを見るにこれは日常茶飯事らしかった。
 グラックスが抱き上げようとするとさっと避けて、ティベリウスの手を引いてスキピオの後ろに隠れてしまう。心底傷ついた顔を晒した父親を憐れむ心のまだない幼子を振り返り、スキピオは「おはよう」と声をかけた。
「お腹が空いたのかな」
 センプロニアは臆さず視線を受けたが、兄の襟を引っ張って何事か耳打ちする。ティベリウスは目を丸くし、妹とスキピオを交互に見てからセンプロニアの上着のポケットを探った。引っ張り出されたのは飴玉のような飾りのついたヘアゴムがふたつ。それをスキピオに差し出す。
「あの……これで髪を結んだりって、できますか?」
「できるよ。でも僕がするの?」
「やってみてほしいらしくて……」
 請け負ってセンプロニアをベンチに座らせ、手櫛で髪をまとめ始める手つきは慣れたものだった。妹たちと頻繁に会っているおかげだろう。
 彼らの打ち解けた様子を遠巻きにしたメテルスの隣にグラックスが立った。その何か言いたげな気配を知らぬふりでいるのに、構わず真面目腐った顔を向けられる。
「一応、確認したいんだが。スキピオのあれは君がやったわけでは……いや、分かっているが確認はしておきたいだろう。睨むなよ、怖いな」
 何があったのだと、踏み込むのに一切の遠慮がなかった。
「あなたには関係のないことだ」
「あるだろう。私の息子なんだぞ。大体君も未成年とふたりでこんなところに」
「スキピオは成人しています。それにもうあなたの息子ではない」
「気持ちの上での話じゃないか、パウルス殿もそう言うだろう」
 無論そうだ。だからこれ以上そういうややこしい手合いに増えられるのは御免被る。
「娘を不幸にした男でもまだそう言えるのですね」
 グラックスはそれこそ当人に確かめなければ本当のところは何も分からないと、何かを期待するのでもなく腕を組んだ。その視線の先で、センプロニアは寝癖を誤魔化すように三つ編みにされた髪を摘んでいた。喜んでいるようにも不満があるようにも見えないが、それでさえ父親の目には微笑ましい姿に映るのだ。
「センプロニアが恨み言を言ったならまた考えるさ」
 髪を結い終えたスキピオがセンプロニアをベンチから下ろすと、なぜかセンプロニアは建物の中へ戻っていった。ティベリウスがそれを追いロッジに入ったところで、母親の声が彼らを迎えた。
 スキピオの立つところからはその様子が見えるようだった。じっと眼差しを注いでいたが、気が済んだようにこちらへ戻ってくる。グラックスを見て、彼がその場に留まっているのに小さく首を傾げた。
「高校生くらいにしか見えない」
「え?」
「なんでもない。せっかくだから朝食を一緒にどうだ?」
「いえ……僕がいるとあの子たちが落ち着いて食べられないでしょう」
「いつも落ち着いちゃいないから同じだよ。まあ気が向いたら来てくれ」
 あっさりと去っていくグラックスに、スキピオはますます疑問符を増やしていたが、気にしないことにしたらしい。
「部屋に戻るか?」
 チェックアウトの十一時までまだ余裕があり、このまま朝食の会場になっているレストランに向かえばあの家族と同席する羽目になる。スキピオは頷いて、急に瞼を重たげにした。
「まだあなたと寝ていたかったな」
 あんなに早く訪ねてこなくたってよかったのに。そんなふうにらしくもなくぼやいて、それでももう一度ベッドに入ることなど思いつきもしない。部屋に戻る途中で、ここはいいところですねとスキピオは笑った。言いたいことはあったがそういうことにしておいた。


 うわ、とスキピオが小さく声をあげたのと同時に、何かが床をゴトンと重く転がる音がキッチンから響いた。何呼吸ぶんかの沈黙ののち、メテルスの部屋の扉が叩かれる。
「これ……ずっと使ってらしたカップですよね」
 その手にあるのは確かに、十代の頃に購入したマグカップだった。持ち手が取れてしまっている。そのせいで床に落ち、衝撃が加わって大きく罅が入っていた。メテルスにそれを差し出したスキピオはしょげた顔をしていたが、劣化によるもので彼が割ったとは言えないだろう。
「怪我は?」
「大丈夫です。すみません、不注意で」
「買い換える時期だったんだろう」
 手に馴染んではいたが、愛着があったわけではない。メテルスが本心でそう言うのが分かってか、スキピオも気を取り直した。キッチンに戻り、カップを新聞紙に包んでゴミ箱へ入れる。掃除を終えて乾かしてあった食器を片付けようとしたところだったらしい。
 その首筋に汗が浮かんでいるのを見て、窓を閉め空調をつけた。まだ真夏ではないし冷房は午後からなどと老人のようなことを言うので手がかかる。スキピオは、メテルスが操作する分には何も言わなかった。
 スキピオの頬はもうそこに痣があったのさえ分からなくなっている。手のひらの傷も跡を残さず消え、背中も同じくだった。既に季節は夏へ移り変わり、夏季休暇に入るのと同時にスキピオはあの部屋を引き払った。
 いくらかの家財を処分して少なくなった荷物をここに運び込んだときには、まだこれでいいのかと半信半疑の様子だった。それでも住んでいない部屋に荷物だけ置いて家賃を払い続ける不経済さ、どういうわけか進まない部屋探し、それに状況を察知したメテルスの母が許可を出す形で後押ししたのがどうにかスキピオを納得させた。変なのを連れ込まれるよりは昔から知っている子が空き部屋を使ってくれる方いいという母の弁をどう思ったのかは知らないが。
 何にしろ、都合よく条件が揃っていたのだ。時折仕事のために母が戻りはするがそれを気不味く思うほど浅い付き合いではなかった。
 朝から掃除に勤しみ、部屋を満足のいく状態にできたスキピオがコーヒーを淹れ始める。どうにか続いているアルバイト先で覚えて、味よりもその手間のかかる作業を気に入り自分で道具を揃えていた。メテルスが部屋に戻らずにダイニングチェアから眺めていると、カップはこれでいいかと客用のものを掲げてみせる。
「新しいのを買いに行かなくちゃいけませんね」
「別にそれを使うので構わないが」
「あのカップしか使ってなかったくせに。これじゃ飲み口が小さいんですよ、たぶん」
 そう細かく好みがあるつもりはない。スキピオの方はポリュビオスと暮らしていた頃に色違いで買ったものをいまだに使っていた。
「今日買いに行きますか? お昼も外で済ませればいいし」
「ああ。他に足りないものは?」
「何かあったかな……あ、ポリュビオスが来るのは再来週になりそうです。さっきメールが来てました」
「分かった」
 スキピオが一人暮らしをしていたとき、ポリュビオスは月に一度程度の頻度でその部屋を訪れていた。その習慣はスキピオがここに移ってからも何食わぬ顔で継続されている。なにしろ部屋は余っているのだ。ポリュビオスが泊まるより先にラエリウスが泊まっていた。
 彼らは、そうして当たり前のように介在することを受け容れてさえいれば、メテルスに文句をつけない。それを鬱陶しく思うには付き合いが長すぎた。
「テレンティウスがポリュビオスに会いたがっていて……スプリウスもマニリウスさんもと声をかけるうちになんだ同窓会みたいになってきてます。メテルスもどうですか?」
「遠慮させてもらうよ」
「みんな喜ぶのに」
 本心で言っているらしいが、何をどう考えればそう思うのか見当がつかなかった。
 テーブルにカップを二つ置いたスキピオが、何か思い出したという顔でメテルスを見下ろした。肩に手を置いて身を屈める。
 ただ重ねて触れ合わせただけの唇を、難しい顔をして指先でなぞった。
「下手ですか?」
「は?」
「テレンティウスが、幼稚園児がするみたいだって」
「……幼稚園児に下手も上手いもないだろう」
「それはそうかも」
 技巧の一切ない、まさしく幼児がするような行為のどこをどう評価すればいいのか。スキピオがあの劇作家のすることならば明らかに度が過ぎていても悪ふざけの範疇に入れてしまうことを、最近知った。どんなふうに角度を変えて捉えても、度が過ぎている。
 肩に置かれたままだった手が耳元に触れ、メテルスの額にかかる髪をかき上げた。眉根を寄せる相手に向けるにしては無防備な力の抜けた顔をして、その眼差しは柔らかい。最近は眠れずに苛立つこともほとんどなかった。
「テレンティウスには、まだとは言いませんでしたよ」
「一切そのようなことはないと」
「拗ねないでください」
「誰が……」
 言葉を遮るように両手が頬を包んで、メテルスの顔を上向かせた。そこに影を落として、先ほどよりはしっかりとした感触で唇を重ねたとき、スキピオは目を閉じなかった。
「僕のこと、いまも好きですか?」
「ああ、好きだよ」
「……僕ね、考えていたんです、ずっと」
 あなたが初めて好きと言った時から、そう言ったときになってその頬が赤らむ。自分の顔に出やすい性質を分かっているスキピオは手の甲で頬を擦った。
 互いを覗き込んでいるのに耐えきれず離れようとしたスキピオの腰を引き寄せる。膝と膝がぶつかり、彼は観念したように目を伏せた。
「あなたの好きなところ、思い浮かべようとすると子供の頃からのことばかり浮かぶんです。ポリュビオスの研究室に行くときに手を繋いでくれたこととか、このあいだテレンティウスと遊んだ後に迎えにきてくれたこと、何にもしないで一緒に寝てくれること、さっき僕の手に傷がないか触れて確かめたこと」
 何かをされるという発想があったのかと思った。スキピオの部屋にもベッドはあるが、週の半分も使われていない。
「昔みたいにあなたのようになりたいわけじゃない。それにあの頃といまのあなたは少し違うけれど、僕はいまもメテルスを好きだと思います。もし、あなたも同じように思うことがあるなら……」
「……いま考えていることを言ってもいいか?」
「どうぞ」
「何もかもが今更すぎる」
 いまさら、とそのまま返したスキピオは、憤慨し始めるのではという予想を裏切って笑った。メテルスの背に腕を回し、何が嬉しいのかくすくすと笑うのが耳元に聞こえる。
「あなたのこと、色んな人に紹介し直して回ろうかな」
「パウルス殿に対してできるなら付き合ってもいいが」
「まず最初に行きますよ、父上にはまだと言ってしまったし」
 つくづくこの面において父親の気持ちに理解がなく、何が起こっても責任の取れなさそうな無邪気さだった。喜ばれると思っている可能性さえあり、純粋に気の毒になる。
 あるいはグラックスに、とメテルスは考えはしたが口には出さなかった。数人を間に挟んでメテルスの連絡先を入手し、忘れた頃に一方的な連絡を寄越してくるのは、スキピオとの繋がりを保っておこうというおそらくは妻子への思いやりなのだろう。
 スキピオはそんなこととは知らない。彼はあのとき、コルネリアやガイウスともう一度話そうとはしなかった。センプロニアが何もかもを思い出すのを待つこともしていない。
 ほとんど、というのは、いまも眠れずにいる夜があるということだった。それが何のせいなのか、尋ねないでいるメテルスにスキピオも何も言わない。
「メテルス?」
 黙りこくった相手にスキピオが首を傾げた。コーヒーが冷めてしまったと、既に関心が移り始めている。
 時間はあるのだといつか考えたことがまた頭を過った。そう、これまでにもあったように、彼らにはまだ時間がある。半歩ほど進んだところで満足されては困るのだ。
 メテルスは油断し切っているスキピオを引き寄せた。幼稚園児が知りようもない、巧拙の問われる口づけというものがどんなものかを教えてやるために。

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