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影遊び

「あなたの幸せを祈らせてもらえませんか」
 突然テーブルの横に立ってそう言った女を、ハンニバルは胡乱げに見た。スキピオはその顔を確かめてから、うっとりと目の焦点の合っていない女を見上げる。
「遠くからお願いします。お祈りの力が強まるので」
「ああ……ありがとうございます」
「もう僕に話しかけてはいけません」
 はい、と頷き、女は店を出て行った。会計はどうなったんだろう。客でさえなかったのだろうか。
 ゆったりとした空気の流れる午前の喫茶店で、スキピオたち以外にこの出来事に気が付いた者はいなかったようだ。店員さえ退店に気付かず、先ほど注文したクリームティのセットを運んでくる。先に提供されていたコーヒーに口をつけ損なったハンニバルは、窓の外の歩道をふらふらと歩き去る女を見送ってからカップをソーサーに戻した。
「いまのは?」
「お祈り系ですね。比較的無害です」
「よくいるわけか」
「え……お祈りされません?」
 されない。馬鹿を見るような目をされると非常に心外である。
「祈りの力が強まる?」
「ああ言わないとここで手を組んで動かなくなりますよ」
 スコーンを割ってジャムとクリームを載せる。このバランスにはこだわりがあり、ジャムが先だ。季節ごとに変わるというジャムは、この日は杏だった。
 自分で作ろうと思えば作れるのだが、時折こうして無性に店で食べたくなる。完璧な比率でジャムとクロテッドクリームを塗ったスコーンをハンニバルに差し出すと、受け取ってもらえた。
「粉っぽい」
「初めて食べる人みたいなこと言う……」
 いやまさか初めてなのかと手を止めるとそういう訳ではないらしい。長姉はむしゃくしゃすると焼き菓子を大量に作っていたと、思い出す顔はうんざりするでもない。
 もうひと欠片を仕上げる間に、渡したスコーンは消えてしまった。食べ方は綺麗なのに妙に食べるのが早い。彼と付き合い始めて季節がいくつか巡ったが、スキピオは一緒に食事をするたびに例外なく彼を待たせていた。
「他の分類は?」
「その話続けるんですか? プレゼント系とか、追跡系とか……でもここに来るまでに名刺とかお手紙とか五通も貰った人に呆れられたくないです」
 そう言われて思い出したように取り出されたのは名刺が四枚に手紙が一通。手紙を渡してきた人物は明らかに尾けてきていたのだが、社会的地位の高そうなスーツの壮年男性だった。ああいう人でも手紙、書くんだ。駅のコンコースで面食らったスキピオの前で、ハンニバルは手紙だけ受け取って一切言葉を交わさずその場を去った。
 名刺は、電車の中や道端でその場で衝動的に取り出された印象だった。名刺を持っているのだから普通に考えれば仕事をしている。
 ハンニバルはこれまでに渡された名刺をアプリで管理していた。スマートフォンを与えられて以降ずっとそうしていると言うから、相当な人脈と評せなくもない。そして手紙は開かずに父親に渡す。それを知っていれば手紙はやめるだろうが、どうせ自己満足の行為なのでそれほど気の毒ではなかった。
 一緒に歩いていて、ハンニバルが何も渡されない方が稀だった。スキピオの方は彼と一緒にいると声をかけられることが激減する。その点でもなんと言おうか、層が違う。
「なんだか最近……増えていません?」
「成人したからだろう」
 なんでもないことのように言うが、初対面の人間は齢も誕生日も知らないはずだ。十八歳かどうか、何か特殊な技能で分かるのだろうか。
「僕は声変わりしたとき何人かに担降りされました」
「たんおり」
「アイドルを応援するのをやめるみたいな……」
 名刺の読み取りを終えたハンニバルの顔には、小児性愛者への嫌悪が浮かんでいた。間違いではない。実際にそういう類も混ざっていたのだろうし、スキピオの知らないところで大人たちは苦労したはずだ。
 香りのいい紅茶を飲みながら思い出すことではないが、そうした出来事が印象に残るかどうかは周囲の人々の動揺の度合いによって変わるなと思った。そう言ってみると、そうかもしれないと頷きが返ってくる。
「小学生のとき、遊園地で僕を転ばせて靴脱がせて持ち去った人がいました」
「暴行だろう、それは」
「膝を擦り剥きましたよ、痛かったな。両親は呆然としてました。ハンニバルはそういうことなさそうですね、お父さん怖いし」
「そうだな……車に引き摺り込まれたことはあるが」
「え? 誘拐?」
「純粋に父を脅迫する目的だった。マハルバルが巻き添えになったから覚えている。どう脱出したんだったか……」
 脱出したんだ。マハルバル先輩ってすごいな。
 知れば知るほど賃金の支払いに値する世話をさせられていると思うのだが、ハンニバルがなんら疑問を抱いていないのでスキピオも言及したことはない。
「それがいちばん大変だった思い出ですか」
「自分が話す番を待っている言い方だな」
 きょとりとしてから、指先で弄んでいたもうひとつのスコーンを割った。先ほどのはプレーン、こちらは茶葉が練り込まれている。初めて入った新しい店だが、スコーンも紅茶も悪くなかった。
 またジャムとクリームを塗り始めるスキピオに、ハンニバルは登録した名刺に記載の情報を精査し始める。国家公務員とか大企業勤務とか、法曹とか、彼は勝手に舞い込んでくる人々を時には活用することがあった。自分のためというよりも周囲のために切るカードとして。
「……今日ね、本当は家にいなきゃいけないんです」
 父には必ずそうしなさいと言われ、母にも今度は言うことを聞きなさいと口を酸っぱくされ、弟は、なんだろう、ちょっと疑わしく思っている目でこちらを見ていた。やはり兄弟の方がよく分かっている。
「それが嫌で早朝に呼び出したのか?」
「絶対起きてると思ったから……起きてたでしょ?」
 朝五時は早すぎたと思うけれど、電話に出た彼の声はしっかりしていた。
「今日は、お願いだから殺してくれって言って、僕に包丁を握らせようとしてきた人が出所する日なんです。小学校の遠足で植物園に行ったとき、包丁を持った男が突然現れて」
 スマートフォンをテーブルに伏せたハンニバルは、ニュースを見た覚えがあると言った。どういう記憶力なのだろう、六年も前のことなのに。
 そう、ニュースにもなったはずだ。怪我をしたのは男を取り押さえた大人たちだけで、スキピオにも、同級生にも怪我はなかったが、それでも異常な事件だったから。そしてニュースでは、男の具体的な言動までは報じられなかった。
「生きてきて怖い思いをした覚えはあまりないですけど、あれは……最悪に近かったですね」
 刃を素手で握りしめた男が、その柄を握らせようと迫ってきたとき、逃げられなかった。突然のことに凍りついてしまった同級生たちを相手に暴れ出したらどうしようと思ったのもあるが、単に足が動かなかったのだ。
「そしたらガイウスが僕を後ろに庇って立って、絶対に前に出してくれなかった。分かりますよね? それがどれだけ……」
「ラエリウスが如何にもやりそうなことだが」
「そう……?」
 当時スキピオは心底驚いたのに。ジャムもクリームも過不足なく塗り終え小皿を空にして、そこで止まっていた手から、ハンニバルがスコーンの半分を取り上げる。
「祈らせている場合か」
「だって家にいると家族が危ない目に遭うかもしれないでしょう? あなたのそばの方が安全な気がして」
 個人情報の保護というのは頼りにならないものだ。あの男はもしかしたらもう一度同じことをしようとするかもしれない。両親や弟は同じことを思って家にいるよう言い、スキピオはそこを抜け出してきた。
「スマホの電源を入れろ」
「……切ってるって言ってませんよね?」
「スキピオ、俺がこれの電源を落として一時間経過するとどうなると思う」
「特殊部隊が窓を突き破ってくるとか」
「マハルバルが来る」
「先輩は警察犬か何かですか?」
 冗談めかして言ってみるが、実際にあったことらしくハンニバルは目を細めもしなかった。
 じ、っと見つめられる。甘いものを食べながらなのにその透徹した眼差しはどうしたことか、いつもなら小一時間見返していられるが、今日は駄目だった。方々に連絡してスキピオを探す父の姿が頭に浮かんでしまったから。
 ポケットに入れたままにしていたスマートフォンのボタンをぐっと押し込む。黒い画面にロゴマークが浮かび上がり、壁紙が表示され、ネットワークに接続されると同時、ぶわっと通知が流れ込んできた。
 メッセージに着信、留守番電話、発信者が家族だけでなく従兄弟に幼馴染や友人たち、果てにファビウスまでも含まれており、スキピオは実際より重く感じる薄い板をテーブルに置いた。
「ここまでとは思わなかったんですよ」
「現実を過小評価するのは、それだけ脅威を感じているからだ。早く食べろ」
「……代わりにこれ読んでくださいません?」
 ロックだけ外して渡すと、ハンニバルは最初に留守電を再生した。冷めても美味しいスコーンを小さなひとくちで食べ進めるスキピオを見ながら。
「涙声のように聞こえる」
「弟ですか」
「ご母堂だが」
「…………」
 記憶を改竄している可能性をスキピオは考え始めた。本当は怪我をしたんだっけ? 考えてみると、父母が迎えにきた場面であるとか、覚えていて当然のところが抜けている。
 最後のひとくちを飲み込んだところで、ハンニバルが伝票を取って席を立った。置いて行かれたくないスキピオの気持ちを分かっていて振り返りもせず店を出る背を、やはり見送れずに追った。


 タクシーを使うと決めたのはハンニバルだった。アクセスの悪い喫茶店から自宅までの距離を思いスキピオは渋ったが、ハンニバルが先ほどの留守電を再生させようとしたので、結局はすぐに捕まったタクシーに乗り込んだ。
 心配と怒りが同じだけ感じられるメッセージのうち、まずラエリウスにだけ返信をしてみる。すぐに既読がつき、ハンニバルと一緒だと伝えると親友は心配を一切やめて怒り始めた。
『あのとき僕ら怪我なんてしてないよね?』
『怪我はしなかったけどお前何日も家から出られなくなっただろ』
『(なるほど! と目を丸くするキャラクターのスタンプ)』
『ふざけてんのか?』
 フォローは一切しないから全員に謝れと続き、これにもスタンプで返事をしかけてやめた。順番に返信を送る途中で、着信があった。
「父さん、あのね」
『いまどこにいる!?』
「いま、えっと……タクシーに乗ってて。駅前を過ぎたところです」
 深く深くため息をつき、そうかと父が弱い声を出した。そばにいるのだろう母と弟にもう帰ってくるようだと伝え、弟が信じらんないと声を上げるのも聞こえた。
 それから五分もかからずにタクシーは住宅街に入り、スキピオは家に程近い公園のそばに停めさせた。ルキウスの接近禁止令は今日も有効という気がしたからだ。自分も車を降り、運転手にここで少し待つよう言い置いたハンニバルに、通話を切らないままスキピオは首を傾げた。
「ここからはひとりで大丈夫ですよ、ほら屋根が見えて……」
「過小評価」
「えー……はい……」
 信号をひとつ渡り角を曲がって、家のある通りに出る。本当にもう着きますと父に伝えるのと、家の前に立っていた人影に気がつくのは同時だった。
 父がこちらを見て、プブリウス、と呼ぶ声が遠くからと耳元とで重なる。通話を切ってスキピオは駆け出した。幼い頃にしていたように父の腕に飛び込んでひしとしがみつくと、戸惑ったような父の腕が抱き返してくれる。
「ごめんなさい。こんなに心配をかけると思わなくて……このほうがいいかと思ってしまったんです」
「……ああ、分かってるよ」
「ずっとひとりじゃなかったし、何もありませんでした」
 スキピオが振り返った先にハンニバルの姿を認め、父の表情はわずかに強張ったが、すぐにこの状況を正しく読み取った。立ち去るかどうか思案していたハンニバルが歩み寄ってきても、体に回された腕はちっとも緩まなかったけれど。
「ご子息をお送りするのが遅くなり申し訳ありません」
「あっ、違いますよ! 僕が何も言わないで朝五時に呼び出しました!」
「五時? ……いや、とにかく、ありがとう。迷惑をかけたね」
「いえ」
 彼がではこれでと切り上げようとしたとき、玄関扉が開いて、ルキウスが顔を覗かせた。弟が家の中を振り返る仕草でそこに母がいるのも分かり、父の腕がスキピオをそちらへと促す。ハンニバルも早く行けと頷いたので、スキピオは門を潜って弟の元へ向かった。
「今日の兄さんほんと最悪だからね!」
 そう言って兄の腕を引っ張ったルキウスが、大きな音を立てて扉を閉めた。


 息子が玄関に入るのを見届けて、父親の方もすぐにそれに続くと思っていたのだろう、ハンニバルは隣に立つ『交際相手の親』に顔を向けた。
 視線の高さはいくらか彼の方が低い。スキピオがその若い顔、隙なく整った面立ちを直視するのには何呼吸分かの準備が必要だった。ただでさえ起きた瞬間から驚き心配し憤りまた心配して、いまはそのぶんだけほっとして、情緒が安定していると言い難い。
 かつては指導者としてそしていま社会人として、培ってきた技術を総動員して穏やかな表情を浮かべた。
「改めて、お礼を言うよ。タクシーを使ってくれたそうだね」
「こんなことと分かっていれば朝寝坊をするべきでした」
「…………」
 いまのは冗談なのだろうか。
 先月の学校行事で彼の父親と大人気ない振る舞いをしたのを、ハンニバルは見ていたはずだ。その時は行事後のあれこれで彼と話す機会とはならなかったが、帰宅後プブリウスには父さんは何と戦っているんですかと言われてしまった。
 何とも戦っているつもりはない。少なくともいまこの時、相手が本題を切り出すのを待っている十八歳の少年と戦うつもりは毛頭なかった。
「もう十分、伝わってしまったと思うが、私は心配症な方でね」
「今回のことは大袈裟とは言えないと思います」
「そう言ってもらえると有難いよ」
「案じておられるのは私のことですか、父のことですか」
 息子と話している時と同じ速度に振り落とされそうになったスキピオに、ハンニバルはいくばくか目を伏せ、「父があなたの足を踏んでいましたね」と付け加えた。踏まれたがこちらも踏んだし、別にそれはいいのだ。
「君のお父上は……息子と君が交際することを歓迎していないのではないかな」
「そのようです」あなたもそうでしょうとはハンニバルは言わなかった。「それが誰であれ、歓迎はされません。ご子息に限ったことではない」
 何も知らない、残酷な物言いだった。そしてその言葉にも口振りにも表情にも、父親の反対を苦に思う気配は微塵もなかった。
 プブリウスが家でハンニバルの話をしないのは、ルキウスに拒否されているからだ。健気にこの現実から両親を遠ざけようとしていた弟の努力を不意に無駄にしてしまって、一応は反省しているらしい。しかしただそれだけで、誰もプブリウスに考え直そうとは思わせられなかった。
 強硬に、押さえつけるように反対し、引き離そうとすれば、もしかするとあの子は自分たちの元から離れるかもしれない。ついさっき腕に飛び込んできた華奢な体のあたたかさがそれを恐れる気持ちをいっそう深めていた。
「いまはまだ生易しいものであっても、いつかはもっと強く反対されることになるかもしれない。君は抗しきれるものだろうか」
「父がご子息に何かするのではないかと?」
「それよりも……君があのお父上に従うことが心配なんだ」
 ハンニバルはおかしなことを聞いたと言うように相手を見た。不本意そうでさえあった。
「私は父の操り人形ではありません」
 スキピオはいっとき呆け、そして声をあげて笑った。
 すまない、と手を挙げてもなかなか笑いが引っ込まず、何度か深く息を吸って吐いた。その隣で猫ならば毛を逆立てているだろう様子の少年は、そうやって目を丸くしていると年相応に見える。
「そうだな、その通りだ──ああ、そうとも、人形などではないんだ」
 シキリアを巡るあの戦争を経験した者には、ハンニバルという存在はハミルカル・バルカの影の中にいるように思われてならなかった。
 たった一本の補給路のみを生命線として戦い抜いた、ハミルカルの朽ちることのない意志を、あるいはスキピオは信じていたのかもしれない。祖国を遠く記憶に望むばかりとなり、生も、死も、記憶をなぞり言葉のうえで扱われるものとなった。それでもあの男は変わるまいと恐れたのだから。
 ポエニ人の神がハミルカルに我が子として恵み給うた不世出の将軍は、父親の怨みを、怒りを継ぎ、神々と父の前でローマの敵であることを誓い、その通りに生き抜いた。その生き様を伝え聞いて感じた忌々しさは、果たしてハンニバル自身に対するものだっただろうか。
 彼らの他に見たことのない紫の瞳が、注意深くスキピオの様子を伺っていた。かつてもただ遺志に従い軍勢を率いたわけではなかったのならば、いっそう深く憎まねばならないのに、スキピオは彼の瞳が父親と全く同じ色をしているのではないと気がついてしまった。
「いや、すまない。どうも私は頭の固いところが抜けないようだ」
「いえ……。気休めのようですが、父は少なくとも私に嫌われるようなことはしない、というのが周囲の見解です」
「まだ嫌いじゃないか」
 いっそ嫌ってくれればいいのに。
 そんなことを言ってしまったせいでいよいよ変な人間だと思われたようだった。タクシーを待たせていると言う彼に代金を渡そうとすると、結構だときっぱりと断られた。
「結局は父が出したことになるので」
 その姿が見えなくなってから家に入ると、すぐにプブリウスがリビングから玄関に走り出てきた。なぜか髪がぐちゃぐちゃに乱れている。
「母さんに許してもらえたのか?」
「全然まだです。……彼に変なこと言ってませんよね?」
「言った」
 ええ? と声を上げた息子の背を押して、リビングに戻らせる。心配のあまりここ数年見なかったほど怒っているポンポニアを一緒に宥めてあげるくらいは、最初からしてあげようと思っていた。

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