影の凝り
雨音に混ざり耳に届く足音が、振り返ると同時に止まる。
等間隔に並ぶ街灯と、民家の窓から漏れる明かりが、夜の視界を開けさせていた。見えるかぎり歩道に自分だけが立っていること、車などが通る気配のないことを確かめ、傘を持ち直した。
二十時の閉店のあと、レジを締めて清掃や翌日の準備を行い、マスターと雑談などしていると、帰路に着くのは二十二時を回ることもあった。常ならばクロスバイクで二十分ほどの帰路だが、こんな雨の日には歩くことにしていた。
春先の夜は肌寒く、風に舞って打ちつける雨粒が冷たい。明日の講義は二限からの予定だから、さほど焦る必要はないが足を早めた。歩道に薄く溜まった水を靴裏で弾く音が大きくなる。
背後からの足音も同じように急ぎ、先ほど避けた水溜りをその足音の主は乱暴に蹴った。
このまま家に帰ってしまっていいものだろうか。ここからマンションまでに、この時間に開いている店はない。遠回りをすればまだ開いているドラッグストアがあるが、ここよりも暗い脇道に入らなければならなかった。
いつからそれが着いてきていたものか、気が付いた時には道のりの半ば、確信したのはついさっきだ。スマートフォンを手に握ってはいたが、誰かに電話をかけて話をしながら歩くにしても、いらぬ心配をかける気がした。雨足はだんだんと強くなってきている。
自分の部屋のあるマンションが見えた。五階建ての、空き部屋のない建物にはほとんどの部屋に明かりが灯っていた。雨音が波の音を掻き消し、足音も遠くなる。
もう一度立ち止まって、来た道を振り返る。やはり何の姿もない。
迷いはあったが、敷地に入って傘を畳んだ。小さなエントランスに少しのあいだ留まり、オートロックに鍵を挿す。開いた扉に体を滑り込ませ鍵の掛かるのを聞いて、ようやく息をついた。
気味の悪さが残りはしたが、その日はそれで済んだものと思った。
バインダーに挟んだ伝票の下にもう一枚紙を見つけて、手が止まってしまった。
小さなメモに丸っこい文字で書かれているのがSNSのIDであること、レジの前に立った高校生だろう少女が頻りに髪に指を通して俯いていることに、眉根を寄せそうになってどうにか力を抜いた。とりあえずは会計を済ませてレシートとそのメモを重ねて差し出す。
「こちら、お返しします」
えっと小さく声を上げた顔の幼い戸惑いに、まだ出会えていない妹たちが思い出された。だからこういうときいつもするように表情をなくすのでなく微笑んで、またお越しくださいと言うことができたのだろう。
心なしか背を小さくしてその客が店を出て行くと、常連客が読書に没頭するほかは店内はがらんとしていた。金曜日の十八時を過ぎて、店員もスキピオの他にはマスターだけだ。カウンターに戻ったスキピオにそのマスターがひょこひょこと近づいてくる。
「いつもより対応が優しかったね」
「子供のすることですから……」
「ひとつかふたつしか違わないと思うけど」
でもまあ子供だねと困ったふうにカウンターに頬杖をつく白髪の老人は、もう暗いのにひとりで大丈夫だろうかと先ほどの客を心配している。
店内にはジャスが流れていた。レコードはマスターの趣味だと思っていたそれは彼の亡妻の遺品で、共に店を切り盛りしていた女性の名残が多く残されているこの店と、気ままで穏やかな店主とが、働くこと自体初めてだったスキピオには幸運と思えるほど居心地がいい。
グラスを磨き始めたスキピオがその話題を続ける気になったのは、その居心地のよさに水を差すのがまさにそれだったからだ。
「ああいうお客さんって、多いですか?」
「うちは学生のバイトが殆どだし……スキピオくんみたいに大学生になって初めてのバイトだって言って初々しい子が一生懸命やってるとねえ……」
君はあんまり初々しくはないけどもと冗談を添えながら、どうやらそれは彼にとって悩みの種らしい。アルバイトを始めて三ヶ月ほど、先ほどのものが可愛らしく思えるような声かけなどを数度受けている。
「スキピオくんはちゃんと断れるからはらはらしなくて済むよ」
「でも慣れません、不気味で」
「いままであんまりなかったの?」
「全然……」
努めて笑顔を作っているのが悪いような気もしている。昔の習いで票を集めるような気分で振る舞うのは接客には度が過ぎるのかもしれない。
客と店員という役割の上で振る舞っているところに、前触れなくその線を乗り越えられるのは正直、不快だった。それが好意であるとはとても信じられない。そんなことを思いながらグラスを並べ、テーブルを拭いておこうとクロスを濡らしたスキピオにマスターが遠慮がちに口を開いた。
「言おうか言うまいか迷ってたんだけどね」
そう切り出されたスキピオが身構えるのにいや怒ろうとしているんじゃなくてと慌てる。
「夜のシフト入るの、やめた方がいいかもしれない」
「どうしてですか? 僕なにか……」
「いや助かってるんだよ。すごく綺麗に掃除してくれるから、朝の子たちが喜んでるし。でもねえ、ちょっと……誰かに迎えに来てもらうわけにもいかないんでしょ?」
「それはそうですが」
「向かいに公園があるでしょ」
頷く。遊具があるわけではない小さな公園だが、昼時などはそこのベンチで昼食を取る人の姿などをよく見かけた。
「よくベンチに座ってる人がいるんだけど、多分……君のいない日は座ってないんだ」
思わず窓を見るが、木々の影にあるベンチは無人だった。
「きっちり確かめたわけじゃないし怖がらせるかと思ったけど、気をつけるに越したことはないと思う」
どう返したものか当惑している間に、ひとりきり残っていた客が席を立った。
空いたテーブルからカップを下げ細々とした掃除を始めても、意識はどうしても窓の方へ向かった。そこに同じ人物がいると気が付いたことはなかった。
この日ばかりは雑談などする気にならず業務を済ませてすぐに店を出たスキピオは、マスターの住居を兼ねている建物の裏に回ってそこに立ち尽くした。
停めておいたクロスバイクがない。
なんらかの方法で捩じ切られたチェーンだけが取り残されていた。それを拾い表の道に出て、辺りを見回しても、仕事帰りらしい通行人や、野良猫の姿くらいしかなかった。
店の中に戻って他になくなっているものがないかマスターの確認を取ったが、荒らされた様子もないと言う。いよいよ顔色を悪くした老人が「迎えに来てもらった方がいいよ……」と繰り返すのを宥め、それでもいつもとは違う方向に足を向けた。
車通りの多い大通りは、金曜の夜を楽しむ学生などでまだざわめいていた。深夜まで営業を続ける飲食店やコンビニエンスストアが夜が街を覆おうのを拒むように煌々と輝き、あまり好きな光景ではないがこの時ばかりは有難い。
スマートフォンにメッセージが入っているのを見つけて、返事を打ち込むのでなく電話をかけた。コール音が続いて諦めかけたタイミングで、安らぐ声が聞こえる。
「ポリュビオス、いま忙しかったですか?」
『いえ、家に着いたところです。今日は少し早く終わったんですね』
「おしゃべりしないで出たので」
いつもそうしなさいと言われ、守りもしないのにはいと返事をした。周りの音でまだ外にいるのが分かったのだろう、歩いているのかと問われると、どう答えたものか言葉が鈍る。
「自転車が、その……盗られました。チェーンもかけてたんですけど」
『タクシーを拾いなさい』
間髪入れない返事に、いや、と戸惑いがそのまま声に出た。
「そんな距離じゃないですよ」
『そういう問題ではありません。メテルス殿に連絡して来ていただいてはどうです』
「いやそれも……もう遅いし……」
彼の住まいはそれほど離れていないので、呼べば来てくれるだろうけれど。来てはくれるだろうけれど。言うことを聞く気がないのが伝わったのか、ポリュビオスがでは電話を切らないようにとため息まじりに言った。
『そうでなくとも最近物騒でしょう、気をつけてください』
こうして話すとき、ポリュビオスがそう言い添えるのはいつものことだった。スキピオが部屋を探すときオートロックのあるマンションにしなさいと条件をつけたのも彼だ。保護者としての心配を邪険にせず分かっていますと返す。それがいつもの流れで、だから、スキピオが何も言わないのを電話口の向こうでポリュビオスは訝しんだ。
『何かありましたか』
「いえ、何も……ちょっと変だなと思ったくらいで、まだ」
そんな言い方になるのは、これまでにかつての縁が引き寄せた諸々がそう悠長に構えていられないものだったからだ。子供の頃の姿など知らないだろうにどう見つけ出すのか、追いかけられたり突き落とされたりと色々あり、ポリュビオスが神経を尖らすのも謂れのないことではない。
しかし、何度か気配を感じたような気がするとか、同じ人物が公園にいたらしいとか、その話を聞いた直後にクロスバイクが消えるとか、それらを繋がっていると言い切るには躊躇があった。
『スキピオ、様子を見るのはよい考えとは言えません』
「でも本当に……」
『明日そちらに行きます』
「え? このあいだ来てくださったところですよ」
またため息をつかれてしまった。
『ラエリウスが同じことを言っていたらどうします』
「……彼の家に泊まるか、四六時中張り付いているか、そんなところですね。よく分かりました」
それに、どんな理由であれポリュビオスに会えるのは嬉しい。
どうせならどこかに出掛けようかと話していると、帰路はあっという間だった。ポリュビオスはスキピオがマンションに辿り着き、自分の部屋に入って戸締りをするところまで確かめてから通話を終えた。気をつけなさいともう一度言って。
部屋の照明をつけ荷物を置く。開けたままのカーテンを閉じ、ふと思い直してサンダルを履いて外に出た。
マンションと海辺の間には垣根と二車線の道路とがあるばかりで、視界を遮るものがない。それを気に入って住んだ部屋だからこうして波の音に耳を澄ませることは屡々だった。凍える冷たさの代わりに心地よい涼やかさを運ぶ風に潮の匂いが混じり、どこかの部屋から漏れ聞こえる音楽も不快ではない。
しばらくぼんやりしたあと、視線を遠くの水辺線からすぐ下の道路へ移したのに意味はなかった。マンションの裏には敷地が続いて、住民用の駐輪場が設けられている。管理人が熱心に世話する庭木、いつも整えられているフェンス沿いの垣根のあたりは、そばの道路に街灯がないのでむしろ遠くよりも暗く見えた。
そう、暗く。スキピオの部屋から落ちる光がいっそうそれを深めて、そこに何があるものか、記憶を辿るだけで見えているわけではない。
不安なのだろうか。そうは思えないのだが、ポリュビオスが心配するからそれが移ったのかもしれない。視線を外すのにいくらか時間がかかり、後退るようにして部屋の中に戻った。
──ぱちりと目を開く。眠っていたのかも判然としない心地に天井を見つめて少しのあいだぼんやりしていた。
間接照明などもつけずに眠る習慣だから視界は暗い。その暗さからしてまだ早朝でさえなく、起きるには早すぎると寝返りを打ち寝直そうとした。その暗い視界にいっそう暗く、凝っているものを見つけて下ろしかけた目蓋を開く。
意図するより先に体が起き上がった。ほぼ部屋の真ん中に立っている誰かと目が合う。夢か、幻覚の類ならばよかったのに、スキピオの頭ははっきりとこれが現実だと判っていた。
「誰だ」
平静に近い声が出たが、それに反してぐっと胸に重たさを感じた。
鍵は、かけた。この部屋は三階の角部屋だ。だが、首筋に風が当たり、ベランダの窓が開いているのをそよぐカーテンが教えていた。そこだって鍵は確実にかけたが──こんなふうに思考ばかりが速いのは緊張の証だった。
立ち位置を変えず、じっと息を殺しているのは背格好からして男、それが視線を動かさずにこちらを見ている。強い風が吹いてカーテンが大きくはためいた。明るい月の光が男の姿を影から浮かび上がらせる。
「おれを知ってるはずだ」
粘ついた声に、スキピオは答えなかった。徒手であること、荷物もないことを確かめた僅かの間ののちに、また部屋が暗く沈む。
「知ってるだろ、こっちを見てた」
男が重心をずらしたのと同時にチェストの上のライトを掴む。ベッドから抜け出し床を踏み込む一歩、コンセントの抜ける勢いで両腕を思い切り振り被った。ガラス製の傘が男の頭に叩きつけられ砕ける。その硬い感触を手放し、ベランダに飛び出した。下には駐輪場の屋根がある──迷わず手摺に手を掛け身を乗り出したが、襟を掴まれて視界が回った。
部屋の中に引き戻され、その勢いのままに突き飛ばされる。フローリングに叩きつけられた背に鋭い痛みが走った。すぐに腕をついて起きあがろうとした、その手を靴底が踏みつけた。髪を掴まれ床に強かに側頭を打つ。ぐわんと重力の上下さえ曖昧になった数秒で、男が倒れた体に馬乗りになって体重をかけた。
「知ってるだろう、なあ」
そこに拘泥する声が荒い息に弾んでいた。ぐらつく視界が整わないなかで、男の顔を確かめないまま吐き捨てる。
「お前など知らない」
それがたとえマケドニアやギリシア、カルタゴ、ヌマンティア、どこで目にした顔だったとしてもそう言った。頭を押さえつけ肩を掴む手の力が強まる。たとえ──それがローマで、ロストラから見下ろした何某かであったとしても、あるいはそれらの名を知りもしないこの世のものであったとしても。
顔が近づけられる。月明かりに逆光になって、そこにどんな感情が去来したものか読み取れなかった。
「うそだ」
「これから先も私はお前を知らない、お前が誰であろうと同じだからだ」
「同じ?」
男は酷く汗をかいていた。肩で息をし、口の中で呻き始める。
わずかに自由になる左手で音を立てずに床を探った。散乱したガラス片が指先に触れる。それを手繰り寄せようとしたとき、ばちんと衝撃があった。頬を張られたのだと頭が追いついたスキピオが反射的に男を見上げると、ぎらぎらと光る目だけが浮かび上がっていた。
同じじゃない、違うと譫言を繰り返しながら、男の手がいまさっき叩いた頬を撫でる。まだ痛みよりも熱さだけを感じている肌に触れる手のひらの汗ばんだ感触。男は笑みを浮かべていた。その手が首筋を辿り、薄いシャツの上から体をなぞった。
殺そうとしているんじゃない。
悟った瞬間に血の気が引いた。腕を突き出し押し返そうとしてもあまりに重く、その両腕を掴もうとする手を振り解き身を捩るのに僅かにさえ抜け出すことができない。
男の腕を引っ掻き、顔を押しのけて、触れられまいと暴れる腕が捕えられ、骨が軋むような力で床に押さえつけられた。
じたばたと暴れる足は床を掻くだけだった。屈み込んだ男の湿った息が背けた顔にかかる。
「嫌だ、嫌……ッ」
ぞろりと口元を這った感触に息が詰まった。唾液の生臭さが途方もない嫌悪を呼び起こし、瞬きさえ忘れた。動かなくなった体を掻き抱く手は忙しなく動き回り、首元にさっきと同じ感触が這う。息をするのを思い出しても浅くしか空気が吸えない。目の焦点が合わず、窓の向こうに朧げに月の影ばかりを追いかけた。鉛のように重い手足が投げ出されている。頭と体とを繋ぐ糸が引き千切られたように何もかもが結びつかない。
男が何か喋り続けていたが、知らない言語を浴びせられているようだった。汗ばんだ手のひらが背けたままだった顔を上向かせる。おれを見ていた、と男が繰り返したのだけが分かった。その顔がどうしても像を結ばないのだ。思い出したのは、カルタゴの城壁の上で嬲られ突き落とされて殺された兵士たちの見開いたままの目だった。飢えと渇きによってあらゆる価値の裏側へ精神を連れ去られたヌマンティアの捕虜たちの洞穴のような瞳。自らの味わった恐怖の理由を求め、見上げる相手を罵ることを覚えた市民たちの怨みがましい目。
ある一瞬に凍え縫い付けられて、ここにいない眼差し。
いつもそれを見下ろしていた。
動かそうとする意思よりも強い何かに手を引き上げられて、男の顔に思い切り爪を立てた。──がりっと嫌な音と感触がして、雫がスキピオの頬に降り落ちる。目元を爪に抉られて男がよろめく。何が起こったのか考える間を置いて、その気配が怒りに覆われるのが分かった。
獣じみた咆哮を上げた男の両手が首に掛かった。自らの血で濡れた手が喉を絞めあげ、空気が通らなくなる。その手を引っ掻く爪が皮膚を破る感触があっても力は弛まなかった。ぎりぎりと首を押さえつける手に体重をかけて男はスキピオの顔を凝視していた。まだ、殺そうとしていない。これは殺すための手ではない。
視界が狭まる。苦しさに喘ぐ自分を俯瞰する視点が、今度こそガラス片をその手に握らせた。
「──は、はぁっ、はッ……」
一気に吸い込んだ空気で胸を満たし、咳き込みながらそれを吐いた。何度も繰り返し、ひとりでに流れる涙をそのままにする。伸し掛かる重い体を腕と足とで押し退け、這うようにその下から抜け出した。
「う……」
床に強くついた手のひらに鋭い痛みがあり、見ると握り込んだガラス片が赤く線を引いていた。背中の痛みも戻ってきて、同じような傷だろうと思う。
乱れた衣服をどうにかする気も起こらず、座り込んで手のひらを見下ろしたのは一分にも満たなかっただろうが、やけに長く感じた。顔を上げ、月明かりを弾いて美しい光の粒となったガラスと、それの対極のような存在を視界に入れる。男の首に突き立てたガラス片が夥しい血を床に撒き散らしていた。腕に纏わりつく生ぬるい感触も男の血だ。倒れ伏した体はまだ息をしていた。
眠りたくて仕方がなかった。
殺してしまえるなら、眠ってもいい。だがスキピオはのろのろと立ち上がり、あちこちの痛みを意識の外に追い出しながらキッチンにかけてあったタオルを取った。見下ろしてみて初めてそれがまだ若者だと気が付いたが、それにしたってスキピオよりは年長の筈で、この先これのことを考えさせられる時間が否応なく生まれることに辟易させられる。
気道を塞がないように傷を圧迫しタオルで縛った。目を覚ましたらどうするかと投げ出された手足を見、斬り落とせればなと思う。他の指揮官たちがそうしていたように、スキピオにも背信に走った者たちの両手を斬り落とさせたことがあった。ここにはそんな切れ味のいい刃物も、それを扱える腕もない。これだけの血を流せば動けまいと楽観することにしたのは、隣の部屋のインターホンが鳴るのが静まり返った空気の中で聞こえたからだった。すごい音が、声も、と哀れな隣人がインターホン越しに訴えるのも聞こえる。
通報されたらしい。あれだけ騒げば当たり前だ。玄関のチェーンを外し鍵を回して、共用部に顔を出すとちょうどエレベーターが三階に着いたところだった。制服を着た警察官が三人、こちらを見るなりぎょっとして降りるのを躊躇した。
「……救急車も呼んでいただけませんか」
ひどく掠れた声になった、と思ったところで記憶は途切れている。
病院の匂いは嫌いだった。起きた途端に見えたすべてとその匂いで病院だとげんなりして、どうして自分がここで寝ているのか、思い出して一層うんざりした。
あちこち痛む体を起き上がらせると、自分がいるのが小さな個室だと分かった。カーテンが引かれていたがすでに昼頃だろう。そのカーテンを開こうと伸ばした左手に仰々しく包帯が巻かれていて、では右手でと身を捻ると背中に引き攣る痛みが走った。
鋭い舌打ちが出る。それも湿布か何かを貼られた頬に響く。枕を立てて背を預け、誰か呼んだ方がいいのだろうかとナースコールを手繰り寄せたが、足音が聞こえた。革靴が廊下を叩く硬質な音だ。
ノックをせずに病室の扉を開いたメテルスが、目が合ってそこに立ち止まった。
「……どうしてあなたが?」
ポリュビオスかと思った。その物言いに誘われるようにメテルスは病室に入った。明らかに機嫌が悪かったが、スキピオも似たようなものなので気にならなかった。
「ポリュビオスは警察署だ、どの程度時間がかかるか分からないので私が呼ばれた」
「警察……もしかして、死にました? あの……」
何と呼ぶのも嫌で手を空で彷徨わせると、メテルスの機嫌はますます降下していった。そばに立たれても見上げるのが疲れるので椅子に座るよう促す。
「死んでいない」
「なんだ。じゃあ過剰防衛にはならないのかな」
「殺したところでそれにあたる筈がないだろう」
マニリウスの教え子が言うと説得力がある。何はともあれそれならばいいと納得しかけたスキピオに、メテルスは目を細めた。
「なぜ応急処置を? せっかく、殺せるところだった。余計なことをした」
それで怒っているのだろうか。スキピオは自分には怒られる筋合いがないとしか思わなかった。十八年間で身につけた常識を鑑みれば見殺しにするのは正しくない。それだけのことではないか。
膝を抱えて、剣呑な目つきの相手を見つめる。久しぶりにそんな顔をしているところを見た。
「あなたって、最初に言うのがそんなことなんですか。一度にこれだけ怪我をしたのなんて記憶にある限り初めてなのに」
戦場に出ていた頃でさえ、こうもあちこち傷だらけになったことはない。病にしろ傷にしろ、スキピオは戦場で戦えなくなった経験がなかった。掲げて見せた左手を、メテルスは傷の上に触れないように下ろさせる。彼の右手の中にあって、その手は痛みよりも引き攣るような違和感だけを発していた。
「もう帰っていいんでしょうか」
「頭を打っただろう。この後の検査で何事もなければ帰れる」
「でも……あそこはもう引っ越さなくちゃいけませんよね」
本当に気に入っていたのに瑕疵物件にしてしまった。隣人などからすれば住み続けられるだけ迷惑だろうし、もう一度部屋を探さなければならない。
「とりあえずは」とメテルスが静かな声で言う。「私の部屋に来るといい。どうせ大学を長く休む気はないのだろう」
有難い申し出で、断る理由はなかった。それでも返事をしなかったのは何故か、カーテンが日差しを遮る部屋に沈黙が落ちる。警察の聴取があるだろうとか、他にこのことを知っているものはいるのかとか、確かめておくべきことは分かっていて、すべてが霧散していく。
失うのが怖い、と言った幼い声を思い出した。
見失うことはないと言ってくれた穏やかな声を。
見るというのは、こうして視線を注ぐことを言う。その裡を覗くように、その存在に応じるように、受け入れようとしていると伝えるために、目を離さないこと。
なぜ怒っているかなんて、考えるまでもないのに。いまになって何が起ころうとしていたか思い返すと、ポリュビオスが呼んだのが他の誰でもなく彼でよかったと思う。
「メテルス、僕に触れてみてください」
包帯越しにではなく。メテルスはしばらく相手の顔色に異変のないのを確かめてから、空いた手を何にも覆われていない頬に沿わせた。伝わってくる温もりはよく知ったものだ。幼い頃からそばにあって、それよりもずっと昔にも触れたことがある。
思いもよらなかったから、という言い訳は使わないほうがいいだろうと思った。そんなふうに見られることを知らないなどと白々しいことを言うのも。
「僕、しばらくずっと怒っていますよ。そばにいたら疲れると思う」
「お互い様だろう」
「あなたが怒ってるの、僕は結構好きです」
そう言ってみると笑うことができて、ほんのわずかに落ち着いた。一緒に怒っていてくれるならどうにかなりそうだと思うこともできた。それが間違いでもいまはよかった。