子犬のワルツ
ただ一緒に宿題をしようと思って訪ねたパウルスの家で、ルキウスは五線譜と睨み合っていた。
手書きの楽譜は誰の手によるものか、技巧を必要とするわけではないが訳が分からない。どういうつもりで書いているのだかイメージが掴めない。ピアノの鍵盤を叩く指は心地よく奏でるというより、好き勝手踊り狂う人を追いかけさせられている感じがする。
アエミリアの顔を伺うと、ヴァイオリンを弾く彼女もどことなく訝しげだった。伴奏をしろと言い出したのは彼女なのに、好きな曲というわけでもないらしい。
初見での演奏は苦手だ。もう四度間違えて……いまので五度。
「──もうやだ!」
辛抱が効かずわっと両手を上げた。その手で頭を抱えたルキウスを振り返ったアエミリアも弓を下ろす。
「ほとんど弾いてないなんて言ってたけれど、弾けてるじゃない」
「弾けてないよ! なんか手が気持ち悪い……」
「初見でこれだけ弾けたなら十分よ、こんな変な曲」
やっぱり変だと思っていたのだ、パウルスの部屋に上げてもらおうとしていたルキウスをほとんど命令の体で音楽室に引き摺り込んだくせに。
テーブルで宿題を進めていたパウルスが終わったのかと顔を上げる。彼の座るソファに逃げたルキウスをアエミリアはもう呼び戻さなかった。気分を変えるようにまた構え、弾き始めたのは耳馴染みのあるヴァイオリン・ソナタだ。
「なんかまた巧くなってる?」
「高校の先生と相性がいいらしい」
「すごいねその先生」
ぽそぽそと話す弟たちを横目にして、アエミリアは何も言わなかった。本当のことだからだろう。
アエミリアが音楽科のある高校に進学したときには驚きもしたが、この秋に二年生になった彼女が悩んでいるとかつらそうだとかいう話が聞こえてこないので、楽しく通っているらしい。ルキウスは思い切った進路を選んだアエミリアが少し羨ましかった。
ルキウスはピアノが弾ける。なぜなら兄と一緒に習っていたからである。五歳か六歳の兄が何に影響を受けたものか習いたいと言い出せば両親はピアノ教室を探してきて、ついでだからとルキウスまで通わされた。
小学生の頃の兄は、異常な数の習い事をしていた。ピアノを弾きながら体操を習い水泳をしスケートがやりたいと言い出し、アトリエに通ってみたかと思えばフットサルに興味を持つ。その興味を満たす環境がこの地域にあったのも、両親が兄の要望すべてに応えていたのも、思い返すとおかしい。あまりに無軌道すぎて、幼い頃には体の弱かった兄弟に体力をつけさせるとか、そういう目的が両親にあったとも思えない。
しかも兄が今日まで続けている習い事はひとつもなかった。ピアノだって兄はコンクールで賞を貰ったこともあったのに、小学校を卒業する頃に「まあこんなものかな」と言って辞めてしまった。教室に残されたルキウスが一緒に辞めなかったのは、それだけが続いていたからだ。兄が何か始めるたび一緒にそこに放り込まれ、大抵は体験の段階で逃げたルキウスが、逃げないでいられたのはこれだけだった。
たったそれだけのことで、進路まで決めてしまうことはできない。
「家でも弾いてる?」
不意にアエミリアがそう尋ねてルキウスを見た。教師に質問されている気分になって縮こまったルキウスの代わりにパウルスが答える。
「ルキウスは学校でよく弾いてる」
「そう。うちで弾くといいわ、外にもあまり聞こえないし」
普通、一般家庭に音楽室などない。ルキウスが自分の家でピアノを弾けば家族のみならず近所中に聞こえてしまう。なんだかそれが嫌になって、リビングに置かれたピアノに触れなくなっていた。
「……伴奏させようとしてるでしょ」
アエミリアはスタジオを借りるのを思えば安いものでしょうと、冗談かどうかよく分からない言い方をした。
この家に防音設備の整った広々とした音楽室があり、家族の誰も弾かないグランドピアノが置かれているのは、そもそもピアニストが暮らしていた家を彼らの父親が購入したからであって、それも相当なものだとルキウスは思う。まだ幼かった娘が飽きたと言い出したらどうするつもりだったのだろう。
なんにせよ彼らがこの家に引っ越してきてくれたおかげで、ルキウスは学校でも心細い思いをせずに済んでいた。
アエミリアが第一楽章を弾き切ったところで手を止めたので、ルキウスは純粋な賞賛を込めて拍手をした。きちんと耳を傾けていたおかげでテーブルに広げたノートは真っ白なままである。
「パウルスは弾かないの、チェロ」
「たまに弾いてる」
「聴きたい、あれ弾いてよ、こないだ観た映画の主題歌」
「宿題はどうした」
「もう終わったんでしょ、後で見せて」
「そうやって受験でも見せてもらう気か」
しかつめらしい顔で自分のノートを閉じて、パウルスが立ち上がる。彼も姉に付き合って楽器を習ったらしいが、ケースからチェロを出して調音を始めるところを見るに趣味として気に入っているのだろう。やがて弾き始めたのはルキウスの挙げた映画の主題歌ではなく、もっと古い映画の劇伴だった。
弟の座っていたところに腰掛けたアエミリアが、テーブルに先ほどの楽譜を置いた。
「それで、誰が書いたの、これ。アエミリアじゃないよね」
「スキピオが書いて置いていったの」
「はぇ……」
「流石にそのままじゃ弾けないから直したけれど。自分で弾かせたら指は全然回ってなかったわ、本当にやめたのね」
もったいない、と呟く声にはさほど感傷がなかった。兄とアエミリアは、ルキウスがパウルスに頼りきりで学校生活を送るほどには親しくない。その距離感は二家族どちらにとっても長年の心配の的だった。
特に、高校に入った兄が誰も予想だにしなかった行動を取ったおかげで、去年の間じゅう父はアエミリアの顔をまともに見れなかったのだ。
「あの……アエミリアはさ、兄上と結婚する気ないって……」
「弟が言ったのね」
「それでいいの……?」
ふ、と。笑った顔には見る者に険があると思わせる気配があった。悲しいとか悔しいとか、そういう湿っぽい感情ではなく、彼女の矜持はそんなところに根差していないと示す強気な顔。そうしているとよく似た姉弟だと思う。
「スキピオはもう勝手にすればいいのよ。私にも結婚する理由はないし」
「理由がないっていうのは……今晩やるドラマと関係ある?」
アエミリアはルキウスを見て、パウルスを見た。そうねと頷く。
ルキウスは安堵すればいいのかどうか決めかねて、「演技うまかったね」とどうでもいいことを言った。
日曜の二十時には、国営放送が長年歴史ドラマを放映してきた枠があった。父母は昔からそのドラマを観る習慣があって、夕飯のあと家族揃って鑑賞するのがいつもの流れだ。
先週、主人公の息子が子役から大人の役者に交代した。可愛かったのにねえと呑気に構えていたところに自分と同じ名の甥が現れて、ルキウスは叫んだ。隣にいた母も叫んだ。父と兄が何事かとこちらを見ているのも構わず二人で手を握り合って、ドラマの残りの三十分ずっと騒ぎ通した。出番が結構あったのだ。
「母上、ファンレター送ってたよ」
「喜ぶでしょう、おばあちゃんっ子だったから」
ポンポニアは、ふたりの孫娘が生まれるのを見ることはなかったとはいえ、息子と同じ名の孫たちをとても可愛がっていた。思いがけない再会にはしゃいでいる。
「生まれないんじゃないかってちょっと不安だったみたいだ、母上は」
「……その心配はいらないのよ、本当に、まったく」
「あの子が兄上より年上なんだもんね……」
そういうこともあるのかと、ルキウスは我が事として安心したのだ。
アエミリアは彼女の弟を見ていた。物静かで、表情の乏しい、言ってしまえば暗い性格をした弟。ルキウスにはそのパウルスの方が馴染みがあるが、彼が長男を得た途端に中身が誰かと入れ替わったのかというほど明るくなったのも覚えている。
子供がいないとはしゃぐ気にもならないらしい。パウルスが自分でそう言っていたので、ルキウスは自分は愛情の薄い父親なのだろうなと思った。どこか、自分の知らない場所で、成長を見届けることのなかった我が子が生まれ幸せになっていたらいいと、確かにそう願っているのだから。
夕方になって家に帰ると、母がリビングで雑誌を読んでいた。書店で取り寄せたという芸能雑誌のバックナンバーに、甥のインタビューが載っているという情報を掴んだらしい。にこにこと嬉しそうにページを見せてくれる。
「お父さんが受け取ってきてくれたの」
「あれ、父さん家にいるの?」
「庭にいるわよ」
窓から覗くとこのあいだ植えた唐辛子の世話をしていた。自分は食べられないくせに、辛い物好きの妻のためにせっせと働いている。
事情を教えられるまで、父は母が若い俳優に入れ上げたと思って困惑していた。教えられてからは会うことのなかった孫の出ているCMが流れるたび動きを止めている。そういう家族の様子を兄は遠巻きにしているものの、「確かにかっこいい」と言っていた。言わなかったらどうしようかと思った。
あまりプライベートを明かさない方針らしく、これまで甥がどんなふうに過ごしてきたのかは分からない。母の出したファンレターにどんな反応があるのか、期待と不安が半々だった。
こちらを振り返った父に手を振って、なんとなくピアノの椅子に座る。放ったらかしなのに、屋根にも鍵盤蓋にも埃は積もっていなかった。
「なんで俳優なのか書いてた?」
「それがね、スカウトされたからとしか書いてないの。だったらアイドルでもいいわよね」
「コンサート通えるから?」
「うふふ……」
それはそれで楽しそうだが、記憶にあるかぎりルキウスや兄以上に体の弱かった甥には無理だろうと思った。
目当ての記事以外にも目を通し始めた母はまだ四十代の半ば、かつての同じ年頃だった彼女と比べるとずっと若々しかった。この時代の人間は総じて幼く若いと感じられるものの、あの頃あったありとあらゆる苦労を背負わずに暮らせているからだろう。
両親は幸せそうだと思う。
「あのね、母さん」
「なあに」
「母さんはどうして父さんと結婚したの?」
「どうしたの? 好きな子でもできた?」
「違うよ。ただ……だからさ、例えば、テレビ観てたら兄さんが出てきたとして、その後でも父さんと結婚した?」
真面目な話だと判断してか、母が雑誌を閉じる。窓の方を見た彼女にも、西陽を浴びながら庭仕事をする父の姿が見えただろうか。視線をそちらに向けたまま、母がぽつりと言う。
「あのね、お母さんお見合いをしたのよ」
「……父さんと?」
「そうじゃなくって、全然別の……知らない人と。それで、まあこれでいいかと思ってたの」
「何それ結婚する気だったってこと?」
二十五歳の頃、当時勤めていた会社の上司の勧めで見合いを受けた。誰の面影も感じない普通の相手、真面目そうで、一見すると優しそうにも見えた。そう語る母はおそらく、その相手の顔を忘れている。
「だって、あなたのお父様と結婚したのが十五歳のときで、十年くらい経ってプブリウスを産んで……もう二十五なのにって思ってたのよね。いま思うと焦りすぎだけど」
思い込みと捨て置くには生々しく愛おしい、古い記憶を共有する相手も両親しかいなかった。父と出会うことなく少女時代が過ぎ去り大人になって、こんなものかと思いながら過ごしていた。
その日も、ポンポニアは二度目か三度目の顔合わせのためにレストランにいた。行儀のいい、デートと呼ぶのも躊躇われるようなぎこちない時間を過ごしていたとき、誰かが彼女を呼んだ。
「お父さんが、雨に濡れた捨て犬みたいな顔して立ってたの」
「わ、わあ……」
「取引先との会食だったんですって。私、びっくりしちゃって……人違いですって言ったの」
「え?」
「それで逃げたのよ、お父さんもお見合い相手も置いて」
高いヒールの靴を履いていたせいで転びそうになりながらとにかく店を飛び出し、真冬の街を走った。何から逃げているのか分からなかったが走り続け、本当に転びかけたとき、地面に膝をつきそうになったポンポニアを支えたのはかつて夫とした人だった。
鞄も預けた上着のことも忘れていたポンポニアの凍え切った肩に彼女のコートを掛けて、「追いかけてこない奴なんかやめろ」と。
「ねえ母さん盛ってるでしょ」
「ほんとにそう言ったの! そしたら雪が降ってきて」
「盛ってる! トレンディドラマじゃん!」
「どこかに入ろうって言ってカフェに入って……まあ、それから半年して結婚したのよ」
ほら、と母が指差したのはピアノのそばの壁にかけられたいくつもの写真のひとつだった。ほとんどは兄やルキウスの写真なのだが、両親だけのものもある。
その写真について、どういうシチュエーションなのか謎だと思っていた。結婚式の写真は別にあるし、カメラマンが撮った写真でもなさそうなのだ。まだ若者と呼べなくもない風貌の父が母を抱き上げた直後を切り取った、思春期の精神が拒否反応を起こすいい写真だった。
「プロポーズ直後とかなの? これ」
「その場にいた知らない人が撮ってデータをくれたんだけど、お気に入りだから飾ってる」
「んん……?」
「ロープウェイでしか行けない展望台があるじゃない、あそこでお父さんが突然……」
いや突然ではなかったかもしれない、とポンポニアは記憶を手繰り寄せる。
展望台のレストランを、それも予約の取りづらそうな夜景の見える個室を確保していたから、そのつもりではあったのだろう。ポンポニアはずっとぼんやりしていて察せなかったけれど。
そう、予約までの時間を展望台で夜景を眺めて過ごすことにしたのだ。彼女たちの暮らす街が宝石を散らしたような美しい夜景を作って、海がその向こうに見えていた。道路を光の尾を引きながら車が走っていくのをじっと目で追いかけていたポンポニアは、綺麗だけれど寂しい、と言った。
──こんなに綺麗な景色の中にたくさんの人がいて、でも自分はそこにいないような気がする。周りがどれだけ幸せでも、それが嬉しくても、寂しい。寂しかった。人生を一人きりで生きていくつもりなんてなかった。
十代のうちに年上の相手と結婚して、夫の人生が自分の人生になるのだと教えられたのに、人生を作る人がいなくなった後のことは誰も教えてくれなかった。
──最後まで一緒に生きていくんだと思ってた。
彼がジャケットのポケットを探って取り出したものを見てもポンポニアはピンとこず、リングケースが開いてもなおきょとんとしていた。
「私のこと好きだったの?」
たじろぐ相手には、思い当たる節があるらしかった。
「だって、あなた……全然そういう表現がなかったから……」
「昔はそういうものだっただろう……!?」
「最近も、そんなに変わらなかったわ」
それは反省する、と真面目に言うのがおかしかった。肩を揺らして笑ったポンポニアの顔を彼は食い入るように見つめ、約束すると言った。
「最後まで一緒に生きよう、今度こそ。もう君を置いてどこかに行ったりしない」
そして跪いたのだ。ポンポニアは本当にびっくりして、この人壊れちゃったのかしらと思った。だって男が、自分より若い、それも妻にと望む女に膝をつくなんて。けれど、プロポーズで跪けない男と結婚するなという同級生の言葉も蘇った。彼女がいま従うべき感覚は後者だった。
夜景の光よりずっと綺麗に輝く指輪を受け取ったとき、やっと理解することができた。
「私のスキピオは、本当にいまを生きているんだって」
懐かしい記憶に浸っていた母がにっこり笑うと、彼女の長男と同じ人懐っこさがあった。
ルキウスは、それで、と写真を指差した。結局これは何。
「気付いたら周りの人たちが私たちを見守ってて、拍手してくれたの。あの人ったらもう照れて照れて……その写真も貰わないで帰っちゃうところだったわ」
「やっぱり盛ってるよね」
「そう思うならお父さんにも聞いてみたら?」
「もういいよ……分かったから……」
より一層ドラマチックな思い出話を聞かされる気しかしない。
ルキウスは鍵盤蓋を開いた。ぽんと軽く鳴らした音は調律された綺麗な響きだ。母がルキウスを見ていたが、その視線を重たくは感じなかった。兄と最初に通った教室で、コンクールや発表会を嫌がるルキウスに講師が興味を失ったのを見て、烈火の如く怒りさっさと他に移らせたのは母だった。
楽譜を見なくても覚えてしまっている曲はいくつもある。けれどルキウスがいつも最初に弾くのは母が好きだと言っていたワルツで、仔犬の様子を音楽にしたその曲をあなたたちを見ているみたいと言って喜んでくれたのを思い出すのだ。
「この曲も昔はゆっくりしか弾けなかったのに。こんなに上手になったのね」
優しい声で言う母に返事をしかね、ふと視線をやった先に見えたものにぎょっとしてルキウスは手を止めた。食堂のダイニングテーブルで父が項垂れていた。というより、椅子に座り込んで目元を押さえていた。
「えっ何……父さんいつからいたの? 泣いてる?」
「泣いてないよ……」
「母さんのせいで父さん泣いてるよ」
「やだわ、あなたが泣かせたのよ」
母は笑うが、たぶん母の思い出話を聞いて感極まっているのだ、とルキウスはそそくさとリビングから廊下に出た。両親揃っての惚気話など聞きたくない。
けれど自分の部屋に行こうと階段を上がりかけ、またぎょっとした。今度は後ろにひっくり返りそうになってどうにか手摺を掴んだ。
「に、兄さん」
階段のいちばん上に座る兄が、膝を抱えてルキウスを見ていた。ルキウスがパウルスの家に行った時には出かけていたので、てっきりまだ戻っていないものと思っていた。
兄は上がってこないルキウスに「上手になったね」と目を細める。
「ありがと……なんでそんなところいるの……」
「だって、僕がいると弾かないじゃない」
「そんなことないよ」
「あるよ。アエミリアやパウルスにばっかり聴かせて僕に聴かせてくれない」
拗ねたように言い、立ち上がる。ルキウスは彼を追うように階段を上がって兄の部屋を覗いた。大きな本棚がまず目に入ってくる部屋で、ベッドに寝転がっている。それが本当に拗ねているように見えてそろりと近づくと兄の手がシーツを叩いた。
隣に仰向けに転がったルキウスは、だってと一応の言い訳をした。
「もうピアノには興味ないと思ってた」
「自分が弾くのには確かに興味がなくなったけど。ルキウスのピアノは好きだよ」
「なんで? 兄さんより下手なのに」
「……僕、昔なにか言った?」
「え? ううん……」
兄はルキウスに下手なんて言わない。ただひとりで楽しそうにしているだけだ。
「兄さんの書いた曲弾いたよ」
「どうだった?」
「訳わかんなかった。酔うかと思った」
「そうだろうね。僕の頭の中ってたまにああいう感じなんだよ」
ルキウスが目を向けるとぜんぜん深刻な顔などしていない兄が天井に絵を描くように腕を動かす。思考がいくつも一気に走り出して、その連関も分からないまま追いかけているとふと、結論が分かる。いつもそうという訳ではないけれどと、あまり嬉しくなさそうだった。
「だから勉強教えるの下手なんだ……」
兄にだけは宿題を見てもらわないことにしているルキウスに、彼はそうなんだと笑った。今度何か弾いてあげると言うと、忘れないでねと返す、その声の調子がなんだか母によく似ていた。