夢のゆびさき
その連絡があったのは深夜のこと、見知らぬ番号からの着信を取ったのはほとんど眠りの中からだった。しかし聞こえてきた声が、揺蕩っていた意識を強引に引き上げた。
『ポリュビオスで間違いありませんか』
「……そちらは?」
『グルッサです、覚えておいでだろうか。申し訳ないのだが今すぐ、出てきていただけないか』
手探りにサイドテーブルの上からリモコンを探し照明を付ける。時刻は午前三時を過ぎたところ、通りに面した窓から外を見れば、マンションの正面に車が停まっていた。
ポリュビオスの視線を感じ取ったかのように、助手席のドアが開く。街灯がその銀の髪を照らした。
『スキピオがあなたを待っています』
すぐに向かいますと答えたのは、果たして窓辺にいた生者だっただろうか。
手近なところに掛けてあったスラックスとニットに着替え、コートを羽織り仕事用の鞄を掴んだ。その瞬間には、夜が明ければ大学へ講義に向かわねばならないことなど頭から消え去っていた。
エントランスを出ると、すぐそこに車のそばに立つ人影があった。こちらを見ているその青年がグルッサであることを、記憶となぞり合わせるのには少し時間が要った。最後に彼と会ったのはカルタゴ攻囲に参加した当時、ポリュビオスの記憶にはその上に三十年分の層が重なっている。
肺腑を満たす空気の冷たさが、あっという間に指先を凍えさせた。確信を得ないままドアの開かれた後部座席に乗り込むと、車はすぐに走り始める。明らかに法定速度を超えているのを訝しんだところで、二十代の半ばか、その程度の若者が助手席からポリュビオスを振り返った。そのくっきりとした目元がようやく、記憶の淡い線を明瞭にする。
髪に手櫛さえ通さない有様のポリュビオスに、彼は親しみを込めて笑いかけた。しかしそこには肉体的なものではない疲れがありありと浮かんでいる。
「無礼を許してほしい。本当なら明日、もう少しまともな方法で連絡するつもりだった。しかし……」
間に合いそうにないのだ、とグルッサは行く手を見遣る。車は高速道路に入ろうとしていた。
「どこへ向かっているのですか」
「病院です。一時間半ほどかかる、寝ていていただいて構いません」
「スキピオに、何が……」
「ああ、……いや、スキピオは大事ない。彼の父君が……」
舌が絡まったように言い淀んで、グルッサはバックミラー越しにポリュビオスと目を合わせる。それが否応なしに嫌な予感を呼び寄せた。
ポリュビオスはこの書割のような時代にリュコルタスの子として生まれた。父の盟友が健在であり、かつての人生で得た幾人かの友人と再び縁を持つこともあった。そこにはローマで知己となった者たちも含まれていたが、終ぞスキピオの名が聞こえてくることはなかった。
人伝に縁を手繰れども辿りつかないのならば、どこにもいないのか、まだいないのか、推し測る方法はないに等しい。だからグルッサが迷った末に言ったことはまったく埒外から飛び込んできた。
「スキピオはまだ七歳なのだが、保護者を失おうとしている」
それはパウルスのことではなく、スキピオはかつて養父とした人物の実子として生まれて、しかしまたも健康に恵まれることのなかったその父を、いままさに見送ろうとしている。
グルッサの語ったことは、それだけではポリュビオスがこのように連れ出される理由には結び付かなかった。だが彼は最初に、保護者を失おうとしていると言った。
「彼のそばには、誰が」
「いまは誰も」
その返事があまりにもあの友人とそぐわず、そのうえ彼の幼い姿など知らぬポリュビオスには、何の想像も叶わなかった。車窓の外では空が白んで海が淡い色を帯び始める。海沿いを走っているとそのとき初めて気が付いた。
直走った車は目的地である病院の地階駐車場へ入り、ポリュビオスはグルッサに導かれるまま時間外入口を通った。暗い院内を早足に進むうちに、明かりのついた病室がひとつきり、廊下に浮かび上がっているのに行き当たる。
「だいじょうぶだよ」
半ば開いた扉から幼い声が漏れ聞こえ、ふたりともそこで足を止めた。
「うん、……うん。分かってる。だいじょうぶ……」
返事をする相手の声は、廊下にまでは聞こえてこない。病室には医師などがいるようだが慌ただしい気配はなく、それで察しがついてしまった。
ポリュビオスは足音を立てずに、そっと戸口に立った。病室の奥、ベッドに横たわる人の顔を覗き込む小さな背中が見える。既に力のない手を握って、なおも遠いその声に耳を澄ませては頷いた。
「おとうさん、知ってるでしょ? ぼく、前だってちゃんとできたんだよ。おとうさんが言ってくれたとおりにできたの、だから……もう泣かないで……」
返事はあったかどうか、子供は握った手に縋るように額を押し付けた。
わずかののちに看護師にそっと引き離されて、その横顔が現れる。医師が何を確認しているかよく分かっているというようにおとなしい子供は、自分ではなく病室の外にいるグルッサへ諸々を伝えに出る者たちを振り向かなかった。
「スキピオ」
呼びかけはひどくぽっかりと浮き上がったように響く。七歳と教えられた子供がこちらに顔を向けた。
彼は何日も眠れていないという顔をしていた。薔薇色に色付いているべき幼い頬は白く、眼差しが解けたように曖昧で、こちらを向いたのにそこにいるのが誰か見えていない。すぐにふいと向きを変えて、また元の場所に立つ。
かつて出会ったとき、十八歳だったスキピオは既に家督を継承していた。三年前に養父を看取り、それでも実父の庇護と導きのもとで守られていた。ポリュビオスが知るのはそのスキピオだけで、目の前にいる子供ではない。
幼子はじっと父親を見つめていた。いまはこの世にただひとりの存在を。
ポリュビオスがやっと足を踏み出し、彼のそばに膝をついたとき、子供の頬は濡れていなかった。暖かそうなセーターを着せられているのに寒々しいほどに頼りない肩に触れ、ゆっくりとこちらを向かせる。
明け方の海を写し取った瞳がポリュビオスを見る。ゆっくりと瞠られる双眸が遥か過去と現在とを揺らめき、小さな両手が肩に置かれた手にそっと触れた。子供らしくない冷たい手のひらだった。
「先生?」
確かめようとする声音に頷く。伸ばされた手がポリュビオスの額に触れ前髪を上げて、ちょうど昔彼と出会った頃と同じ齢である相手の顔貌をなぞった。
抱き寄せた体は見た目通りに軽い。拒むところなく任せられたその身を抱き立ち上がったところで、ずっと見守っていたらしいグルッサが病室に入った。
「眠りましたか」
「そのようです」
「よかった。この一週間まともに寝ていなかったので……手続きがあるのでお任せしていいか」
一体どういった縁があって彼はここにいるのか、ポリュビオスが頷くとすぐにまた部屋を出ていった。
遠ざかる足音を聞きながら、ポリュビオスは横たわる人を見下ろした。苦痛に歪まぬ穏やかな顔だったが、涙の跡が拭われずに残っていた。
「あなたは……」
ポリュビオスは、スキピオの養父が書き遺した歴史書を読んだ。弁論の原稿、養子のために書き留めた覚え書き、彼に送られてきた手紙、遺書までもスキピオから目を通す許しを得て、それらを通してこの人物について知った。会って話してみたかったものだと言ったのはスキピオを喜ばせるためでない、彼の本心だった。
偉大な父祖の徳を、まったく違う方法で継ぐことが能うのだとその身で証明した人物は、一体どのようにこの浅い夢のような時代を生きたのだろう。
泣かないで、と乞う声が耳に残っていた。
よく晴れた、空気の澄んだ朝だった。先に車を降りたポリュビオスが差し出した手を取って、スキピオも駐車場に降りる。座席に置き忘れていたマフラーを巻き直してやるとはにかんで、促されるまま繋いだ手を握り返した。子供はこの地域の風習の通り、喪服と呼ぶほどではない服装で、コートだけは黒のものを着せられていた。
数台の車から降りてくる人々も同じような格好で、業者が運び出した棺の後をついて墓所の中へ進んだ。
役所での葬儀は故人の手配した通り略式で一時間もかからずに終わり、それと同じくらいの時間をかけて彼らは墓所に辿り着いた。母親もここにいるのだとよく慣れた様子でスキピオが大きな門を見上げている。
この二日の間にどうにか仕事の都合をつけはしたものの、ずっと付き添うことは叶わなかった。葬儀が土曜日となったのは偶然だったが、そうでなければここにいられたか分からない。
スキピオはそれを心配のしすぎだと思っているらしい。
「子供じゃないんだから……いや、子供ですね。立派に」
年相応とは言えない口ぶりが幼い発声に不釣り合いで、彼自身それを分かってか僅かに顔を顰めた。
深く掘られた墓穴に棺が納められるあいだ、人々は無言だった。葬儀には弁護士だったという故人の仕事仲間なども姿を見せたが、ここにいるのは、過去を知る者ばかりだ。
促されて前に出たスキピオが、蓋のされた棺を覗き込む。注視する者たちの全員に子供が転がり落ちるのを心配している気配があったが、しゃがみ込んだスキピオは手に取った土をそっと穴に落とし、危なげなく立ち上がった。
戻ってきたスキピオを迎えたのはファビウスだった。まだ十二歳の彼は祖父に連れられてここに来ていたが、聞けばその人物がクンクタトルと呼ばれたあの偉人だという。兄弟はそれぞれが後継者となった者のもとに生まれたということだった。
「プブリウス、手を出して」
ファビウスはそう言って湿った土を払ってやる。されるがままのスキピオはいとけない子供そのもので、いまなお迷わず兄と呼ぶ相手の体に両腕を回し、他の人々が自分と同じように土を落としていくのを見守っていた。
両手のひと掬いで埋められる穴ではなく、業者とともに大人たちがシャベルで掘り返された土を戻していく。グルッサにシャベルを手渡されて、ポリュビオスもそこに加わった。
現代の問題として、墓地の一角を永遠に占めることはできない。この一連の葬送と同じく、改葬し納骨堂に移す時期まですべて手配が済んでいた。そのすべてが周到と言っていいほどで、遺された財産についても少なくともスキピオが成人するまでそれが掠め取られることなど万にひとつもないよう整理されている。
グルッサがポリュビオスにそれを説明したのは、その万全の用意のなかにひとつ、抜け落ちた部分があったためだった。彼ら親子には他に血縁者がない。子の養育を任せる者について遺書は誰の名も示していなかった。
「あなたを探すのは難しくなかった、しかしあの方には迷いがあったようだ」
個人的なお節介ではなく歴とした仕事としてグルッサは親子の世話をしてきたと言う。故人は──プブリウスは彼を信頼して様々に頼み事をした、その最後がポリュビオスをあの病室へ連れてくることだった。
白い息を吐きながら他の場所と馴染まない土を眺めた人々の手から、業者がシャベルを回収していった。決まった祈りがあるわけでもなく、すべきことは終わってしまった。
スキピオがふと気が付いたように兄のそばを離れて近付いて行ったのは業者たちとやりとりするグルッサ、その隣にいる少年のところだった。
「マシニッサ殿」
髪といい顔立ちといいよく似ているために、彼らが並んでいると兄弟のように見える。その少年がマシニッサだと言われた時には戸惑いもしたが、スキピオに目を細める姿には老王の面影が確かにあった。
「今日はありがとうございます。グルッサも……何もかも任せてしまって」
「任されるのがこれの仕事だ、気にすることはない」
「いいえ、父も同じようにお礼を言うはずですから」
マシニッサの顔に浮かんだのは苦笑だったが、生真面目な物言いをそれ以上退けることはなかった。
「これからのことだが、何か希望はあるか」
「……いえ」
「まさか一人で暮らしていくとは言うまい?」
「まだそれができないのは分かっています。でも……」
「スキピオ」
ポリュビオスが背に手を添えるとスキピオは不安を隠さずにこちらを見上げる。
「わたしと暮らしませんか」
そう言われ驚きつつも、おそらく薄々察してはいたのだろう。戸惑いながらグルッサを見たスキピオに、彼は断ってもいいですよと軽く言ってのけた。
「ガイアは孫がひとり増えるくらいどうってことはない」
「うちで引き取ってもいいが、パウルスがな……」
クンクタトルが呆れと困ったのが半々で言って見た孫は、そうしたら遠くに引っ越さなきゃいけませんと祖父に堅く言った。この兄弟は、パウルスが未だ中学生に過ぎないと知って当分会わないことに決めてしまった。どの角度から見ても残酷な仕打ちだが、意志は固い。
スキピオは大人たちを順繰りに見て、困り切ったようにマフラーの端を握った。考えがまとまらないのだろう、焦りが滲み始めた目と視線を合わせる。
「パウルス殿が成人しておられたならこんなことは申しませんが。父親代わりではなく後見人としてわたしをお頼りなさい。他の方々よりずっと気楽なのは間違いない」
「気楽って、そんな」
「楽しいと思いますよ、うちにはあなたの好きそうな本もたくさんあるし、十七年ともに暮らした相手に今更気兼ねすることもない。両親はわたしから話を聞かされ過ぎてあなたと一度しか会ったことがないのをよく忘れています。それに……」
言葉を切って、ポリュビオスは墓地の入り口の方を見た。その視線を追ったスキピオが、小さく声を漏らした。
「ラエリウスもそうしてほしいはずです」
「──スキピオ!」
遠くから張り上げられた声に、弾かれたようにスキピオが駆け出した。
腕を広げた少年に飛びついて、ふたりしてそのまま芝生に倒れこむ。それきり動かなくなったが、誰も近付いて水を差すようなことはしなかった。
ラエリウスのそばに大人の姿はなかった。両親に何も言わないでひとりでここまで来てしまったらしい。連絡したのはポリュビオスだが、言い訳してやる必要があるだろうと子供達を遠目にした。
「あの二人やっぱり仲良くなったんだな、赤ん坊の頃から気に入ってたが」
そう話しかけてきた青年にはっきりとした既視感があり、ポリュビオスは何も答えなかった。彼の隣にアエミリアがいるのだからスキピオ家の誰かだろうが、それよりもずっと最近この顔を見た覚えがある。
ああ、初対面かと青年は右手を差し出した。
「ルキウス・スキピオ。昔で言えばアエミリアヌスの従兄弟、義理の叔父」
「はじめまして」
軽く握手を交わした時になって、その目元が赤いのが分かった。アエミリアと同じ柔らかな茶髪に、これは異なる若草色の瞳で、端正な顔立ちの青年だった。彼の隣から、アエミリアが一歩進み出る。制服を着た少女はかつてと同じ高貴さをその気配に纏っていた。
「ポリュビオス、お礼を言います」
「……ご不安にお思いでしょう」
「それでも、いちばん良い選択肢だと信じます。あの子は難しいから」
ファビウスがいつまでも地面に転がっているふたりを起こして、今度はそのふたりに飛びつかれて自分が押し倒されていた。微笑ましい子供の戯れにしか見えないが、場所を考えなさいとクンクタトルがそれをまとめて引き起こした。
ルキウスは和やかな顔で彼らを見つめて言う。
「あいつをよろしく……いや、たまに連絡してもいいか? 俺は反面教師の方だから、会いたがりはしないだろうけど」
「勿論。スキピオも喜ぶでしょう」
「どうかな、それは」
アエミリアが否定しないでいるので、何か葛藤があるらしい。しかし彼が髪を掻き上げる仕草で既視感の正体に辿り着いてポリュビオスはそちらを口に出すことにした。
「……うちの学生のスマホのケースに、あなたの写真が挟まっています」
「へえ? 嬉しいね、何かにサインしとこうか」
「いえ、際限がなくなりそうなので」
拘泥せずにルキウスは可笑しげに笑い、アエミリアを促して門の方へ歩き出した。別れ際に渡された連絡先のメモにアエミリアのものも書き付けられており、やや重たく感じながらそれを胸のポケットに仕舞う。
歩み寄った先で、スキピオはぬいぐるみのようにラエリウスに抱えられていた。十一歳の相手にそうされてしまう程度には小柄なスキピオがポリュビオスを見る。先ほどまでの逡巡のない顔をしていた。
「どうです、スキピオ。決めましたか」
「はい」
「では帰りましょうか。難しいことは明日から考えましょう」
独り身のポリュビオスには思い浮かびもしない面倒事がいくつもあるのだろうが、その辺りはグルッサが承知しているだろう。いまはただ、スキピオが頷いてこの手を取ることだけが大事だった。
手元をじっと見つめられながら、ふつふつと穴の浮かんできた生地の端にターナーを差し込む。手首を返して一息にひっくり返すと、それなりの焼き色がついていた。
ホットケーキミックスの箱を持つスキピオが弱火、二分弱、と呟いて時計を見た。
「二分、弱……?」
具体的な数字を書けと言いたげな声色だった。ポリュビオスがまあこの辺りだろうとフライパンをコンロから上げるとあっと声を上げたので、早かったしい。
皿に移したホットケーキは、力なくへたり込むように萎んだ。
「あまり膨らみませんでしたね」
「書いてあるとおりにしましたよね」
スキピオが濡らして敷いた布巾にフライパンを乗せて熱を取り、コンロに戻して二枚目の生地を落とす。記憶にある限り自分でホットケーキを焼いたことはないが、子供の時分に実家で食べた物はもっと分厚かったような気がする。
最低限の調理道具しかないキッチンでもどうにかなるので良いかと思ったのだが、甘く見ていたかもしれない。ポリュビオスは自らの食事にまったくこだわりを持ってこなかったツケをここしばらくまとめて払わされていた。
正確には、ふたりで暮らすには手狭だった部屋を引き払い、グルッサの勧めるままに職場からほど近いマンションに移ってからの一ヶ月あまり。あまりにすんなり進んだ賃貸契約や妙に安い家賃を努めて受け流しつつ、最初の一週間ほどでとりあえずの生活の基盤を整え、諸々の手続きを進めた。
すべての優先順位が一列に並ぶ状況で、仕事を放り出すわけにいかないので文字通り目を回したが、ポリュビオスは幸いにして心身ともに頑健だった。途中スキピオを実家に預けざるを得ないこともあり万全と言えないまでも。それに、後見人の選任手続きはこれも妙に素早く進んでいる。
「学校はどうでしたか」
スキピオの通う小学校は今日から冬休みに入っていた。
「楽しかったです。カルウスが親切にしてくれるし、クラスの子たちもお利口なので」
「お利口ですか」
「素直です、みんな。なんというか……いまどきの子?」
教師たちの目にはその誰よりも素直に映っているだろうスキピオが思案げに言う。ずっと家庭学習をしていたが転入試験の結果を見れば学力に問題はなく、気をつけるべきは他の子供たちとの協調……入学時の面談後、カウンセラーからのコメントである。
「ラエリウスもメテルスも同じように授業を受けてると思うとちょっとおかしな感じがします」
「それはそうでしょうね」
そのふたりがいるというのが、自分の勤務先に附属する小学校にスキピオを通わせることにした理由なのだが。
ぺたんと返した生地を見て、ポリュビオスもスキピオも首を傾げた。
「……焦げましたね」
生地は狐色というには焼けすぎていた。真っ黒焦げというほどではないものの。
「これはわたしの分にします」
「え、食べます」
「苦いですよ。人参が食べられない人には無理です」
スキピオはムッと眉間に皺を寄せた。当人の意識と感覚の乖離というのは、一人分の人生を覚えている彼らにありがちな問題だったが、そのなかでもほのぼのとしたものだ。人参がどうしても食べられない、というのは。
苦手な物はないと言うくせに食卓で唸り始めるので困らないこともない。誰も無理強いをしないのにスキピオは格闘し続けている。ポリュビオスが見たところ、子供らしく味覚が鋭敏で色々と食べづらいものがあるのに言わないでおり、その中でも耐え難いのが人参らしい。
焼き上がった二枚目を自分の皿に移して、またフライパンを冷ましたところで、ポリュビオスは違和感に手を止めた。こちらを見上げるスキピオはどうしたのかと不思議そうにしている。
「……? スキピオ、ちょっとこちらに」
フライパンを戻し火を止めた。頬と額に触れ、首筋に手を当ててみると、明らかに体温が高い。やけに目がきらきらしていると思ったら潤んでいて、なんとなく全体的にほかほかしている。
「ポリュビオス?」
「頭が痛いとか、だるいとか、いつもと違う感じはありますか」
「今日は暖房が利きすぎてるかもって思ってました」
「暑いんですね」
時計を見る。午前十時、土曜日なので混んでいるだろうが午前診療には間に合うだろう。
「熱がある。病院に行きましょう」
「びょういん」
鸚鵡返しにしたスキピオは焼いたばかりのホットケーキとまだ残っている生の生地を見る。でも、ホットケーキ、と言って動かない。自覚させたせいか顔つきがぼうっとしてきていた。
何はともあれ準備をとキッチンを離れようとしたポリュビオスの手を握り引き留め、スキピオはかぶりを振った。
「病院、嫌です」
「スキピオ?」
「……ぼく、熱出したりしません、風邪ひかないし……」
言い聞かせるよりもと、ポリュビオスはスキピオを抱き上げた。リビングのソファに下ろして、購入以来使ったことのなかった体温計を差し出す。
脇に挟んで十数秒、ブザーの音で取り出した体温計は三十八度を示していた。予想より高くポリュビオスは眉を寄せたが、スキピオはもっときつく顔を顰めている。
「分かったでしょう。支度をしますから待っていなさい」
もう食い下がらなかったが、それからスキピオは拗ねたようにうんともすんとも言わなくなった。
反応の薄い子供を車に乗せて向かった小児科は、グルッサから託されたプブリウスによる資料の中に名前があった。資料にはスキピオのアレルギーの有無にワクチンの接種歴、あらゆる診療科の受診歴から、飲んだことのある薬に至るまでが詳細に記録され、それを見たポリュビオスの両親をお前についての記録なんかこの十分の一だぞと感嘆させていた。しかもそれは資料のうちの一分類でしかないのだ。資料は数冊のファイルに分けてまとめられている。
外来は予想通り混み合い、待合の椅子も空かないのでスキピオを腕に抱えたまま待つことになった。子供がぐずるのがあちこちから聞こえ、診察室から幼児の絹を裂くような悲鳴や泣き叫ぶ声が響いてくる空間は、自分まで体調が狂いそうな気がしてくる。
プブリウスの残した記録を見るに、スキピオには乳幼児の頃はともかく物心ついた後には風邪をひいた形跡さえなかった。感染症の予防に人一倍神経を尖らせていた父親と同じように過ごしたせいもあるだろう。そして同世代の子供と過ごした経験がない。免疫がないのだ。
一時間以上経ってようやく呼ばれた診察室での見立ても同じようなものだった。
「学校に通い始めたところってことですから、まあ貰ってきちゃったんでしょうね。休みに入る前に学校で流行ってた病気あります? 分からない? ……この資料、あなたが? お父さん? ああ、なるほどねえ……」
老医師はぐったりした子供を手早く診て、カルテに判読不可能な書き付けをする。処方される解熱剤や炎症を鎮める薬などの説明が続いた。
「検査などは」
「熱が出て間もないってことですからね。湿疹なんかもないし、熱が下がらなかったらまた来てください」
そういうものかと、ポリュビオスは従順になることにした。何しろ、ここ最近の付け焼き刃を除けば自分や兄の幼少期の記憶くらいしか子供についての知識がない。
老医師はまた資料に目を落とした。
「錠剤は飲んだことがないんだよね?」
「のみます」
子供が突然声を発したので医師のそばにいた看護師までもがきょとんとしてスキピオを見た。
「粉薬もあるんだよ」
「のめます」
「そうか、じゃあ錠剤にしよう」
そうか、ではなく……ポリュビオスはついさっき決めた従順さが剥げかけたものの、促されるままに診察室を出た。本当に飲めるんですかと尋ねると、スキピオはふんと鼻を鳴らしただけだった。
家に帰り着いた頃には昼過ぎで、スキピオは足元が覚束なかった。着替えさせてベッドに入れてから処方された薬の説明書きを見るとほぼすべてに食後に服用とある。
そういえば遅めの朝食としてホットケーキを焼いていたところで、何も食べさせていないのではないか。渡したパックジュースをすぐに飲み干したのを見て、飲ませてもいなかったと思い返しひやりとする。
「……何か食べられそうですか? 薬を飲まなければ」
「ホットケーキ」
「もっと食べやすいものにしませんか、ゼリーもありますよ」
「ホットケーキ食べます」
仕方なしにポリュビオスは頷いた。少し待つよう言い置いてキッチンに入ると、室温で放置された諸々が待ち構えている。まさかこれを食べさせるわけにもいかない。幸い箱にはまだ粉が残っていた。
スキピオの前ではどうにか押し戻したため息が深々と落ち、すぐに気を取り直す。袖を捲ってボウルを空にするところから手をつけた。
最初の二枚からすれば上出来と言える、しかし明らかに箱に印刷された姿とは違うホットケーキを焼き上げた時には三十分ほど経っていた。寝てしまったかもしれないとスキピオの部屋に様子を見に行こうとし、ポリュビオスはぎくりとしてその足を止める。ダイニングの椅子にスキピオが座っていた。
「いつから……いえ、ベッドに戻りましょう、もうできましたから」
テーブルに腕をついてうつらうつら船を漕いでいたスキピオは、言葉の半分しか聞かなかったらしい。キッチンを見遣り、椅子を降りてカウンターを覗く。
「あたらしく作ってくれたんですか」
「ええ、焦げていないでしょう。スキピオ、その格好では冷えますよ」
抱き上げようとすると腕をすり抜けて、キャビネットを開きカトラリーを出し、ホットケーキの乗った皿とまとめて持った。ダイニングへ運ぼうとするので、トレーを取ってから方向を変えさせスキピオの部屋の方へ歩かせる。
スキピオをベッドに戻し、皿はトレーに載せサイドテーブルに置かせた。踏み台代わりに置いてあるスツールを引き寄せて座る。スキピオがプブリウスと暮らしていた部屋からそのまま持ち込んだ家具類だった。
「喉は痛くありませんか」
「平気です」
「痛いのか、痛くないのか」
「ちょっと痛い……?」
まったく信用ならなかったが、食べさせないわけにいかない。やや調子を持ち直した様子なので自分で食べると主張するのは認め、膝にトレーを載せさせた。ひっくり返さないように見守るポリュビオスに、スキピオが思い出したように言う。
「お仕事は?」
「今日はいいんです」
「でも、進みがよくないんでしょう」
そんな話をしたらしい自分に辟易しながら、ポリュビオスは書斎からラップトップを取って戻った。
「ここで仕事をします。それならどうです」
それならばよい、と頷き、ホットケーキを切り分け始める。おいしいと言って皿に乗せた一枚を食べ切り、もう一枚とは言わなかったので薬を飲ませた。スキピオは医師に宣言した通り咽せることもなく五つも六つもある錠剤を飲み下していた。
それからしばらくこんこんと眠っていたが、日が落ちた頃にまた熱が上がり始めた。
何か食べられるか尋ねると首を振る。それでも薬だけ飲ませるべきか逡巡したポリュビオスは思いついてプブリウスの資料を開いた。果たして、全てを見通しているかのように食事を摂らずに飲んでもよい薬とそうでない薬が羅列されているページがあった。それに従い胃を荒らすかもしれない解熱剤以外を飲ませて、一度着替えさせる。
寒いと言うのを宥め布団を被せても今度はなかなか寝付けないようだった。何度も寝返りを打ち手足を泳がせている気配がしていたが、しばらくすると、部屋はしんとしてただ暗いばかりだった。
「せんせい」
眠ったかと思ってラップトップの画面に落としていた目線を上げる。寒いからと布団に埋もれていた頭を出して、スキピオは小さな液晶の光が部屋の隅に作る闇を見ていた。
「おとうさん、元気でうれしいって」
そうして呟いた声が、涙が落ちるのと共に震える。
「ぼくがいつも元気なのがいちばんうれしいって……」
ラップトップをテーブルに置いてポリュビオスは手を伸ばした。火照った頬にひっきりなしに伝う涙が枕に吸い込まれていく。
汗ばんだ髪を撫で、そうでしょうねと囁くと、寒いと言ってしゃくり上げた。体の内側から悪寒がして、頭が痛い、身の置き場がない。どうしたらいいのか分からない。そういうことを訴える。
「あのかたはいつも苦しかったのに」
「スキピオ、それは……」
「いつも痛かったのに、よくわからなかった」
「当たり前のことでしょう、わたしだっていま分かって差し上げられないのだから」
頑是なく首を振って、息を詰まらせながら泣き始める。彼が泣くのを見るのは本当に久しぶりなのだとポリュビオスは思い出していた。あの病室でも、墓地でも、生まれてから暮らしてきた部屋を離れるときでも、この子供は泣かなかった。涙を自らに許さないひとではなかったのに。
自分の流す涙に溺れて喉を引き攣らせるような泣き方は、たとえこの子でなくとも胸が痛んだだろう。だから、その手の中に吐き出すようにスキピオが言ったことは、鋭い針のように聞く者まで傷つけた。
「ぼくじゃ、ないほうがよかった」
触れる手を押し返し、瞳を覆う涙を見ている。涙を流した人を、そこに満ちていた悲しみを。
「やっと本当のこどもが持てるはずだったのに……養父上の、養母上の、本当の……ぼくじゃないほうがよかった、ぼくじゃない子が……」
もっとよく似た子供、疑いようもなく彼らだけのものである子供、何も知らずまっさらな、かつての父母を懐かしむことを許す必要などない子供。
「むかしからみんなそう願っていたのに」
スキピオは袖で目を拭い、嗚咽を漏らし続けた。それが文字通り熱に浮かされて溶け出てきた彼の古い記憶と、幼子のいまも開いたままの傷の痛みとでできた言葉だと分かっても、ポリュビオスはもう一度手を伸ばすのを躊躇した。
スキピオは親になったことがない。ポリュビオスとて同じだ。だから、決して分からない心境というものが彼らにはある。想像しても、寄り添ってみても、決して、親となった者がどれほどの覚悟を持つのかを彼らは分かることがない。
プブリウスがスキピオのために遺したのはあの数冊のファイルだけではなかった。膨大な数の写真や動画があり、そこには子供に見せるために撮ったのだろう両親だけの日常が切り取られてもいた。ひとりきり遺していく子供のためにできることを、思いつくままなんでもやってみたのだろう。
けれども、どれほど慈しまれたかを理解することで引いていく痛みではないのだ。ローマの街中でポリュビオスの手を取ったスキピオは、自らを家門に迎えた者を疑っていたのではない。いま泣き続けるスキピオも、自分がプブリウスに愛されていたことを疑っているのではない。
あの頃、彼はほんの幼い頃に別れた生母を自分が傷つけたのだと信じて、それを埋め合わせる方法を探していた。
「おとうさん……」
泣き疲れて眠りの淵に落ちていく間際、子供は握り返してくれる手を求めなかった。
「ひどい顔だなあ」
その瞳と同じような色のサングラスを外し、玄関でルキウスが言葉の通りに呆れた顔で笑っていた。手に提げていた紙袋とビニール袋をポリュビオスに差し出す。
「こっちは母上からアエミリアヌスに。こっちは俺からあんたに差し入れ」
「わざわざどうも……よければ上がってください、コーヒーくらいしか出せませんが」
「じゃあ、ありがたく」
ルキウスの纏う空気は冷たく、おそらく駅から歩いてきたのだろう。そうして若者らしい格好をしていると、大学の教え子たちとそう変わらない。
朝方、何気なく近場に来たからとメールを寄越してきたルキウスに状況を伝えると、アエミリアから電話がかかってきた。その時点でほとんど眠らず夜を徹していたポリュビオスは疲れを感じたが、あれこれと聞かれたことが純粋な心配によると理解してもいた。その電話から二時間ほどでの来訪である。
彼らがちょうどその前を通り過ぎたときスキピオの部屋のドアが開き、子供が顔を出した。眠ったあと冷やしはしたが腫れぼったいのだろう目を擦りながら、意外な来客にドアの隙間で首を傾げる。
「おじうえ? おはようございます」
「おはよう」
「……どうして?」
「お前が熱なんか出すからだろ?」
そう言って頭を撫でるついでに額に触れ、まだ高いなと言ったのは病に慣れた者の口ぶりだった。自分でも額に触ってみて、スキピオが部屋を出てくる。
思い返すと、葬儀のとき彼らは言葉を交わしていなかった。スキピオがルキウスやアエミリアを避け、避けられる側がそれを見逃しているといった様子で、これはいつぶりの会話なのだろう。
キッチンで紙袋の中を見るとレトルトのシチューやスープ、保冷バッグにアイスクリームなどが包まれ、ついでに本が一冊入っていた。あまり簡単そうでない表紙の子育て指南本をじっと見つめたポリュビオスはとりあえずそれだけ紙袋に戻した。ビニール袋には量り売りの惣菜がいくつかにバゲット、正直ありがたい差し入れだった。
「そんなに気になるなら顔洗ったら」
「はい……」
背後でのそんなやりとりの後で、スキピオが洗面所に向かう。先ほど熱を測った時にはピークを過ぎたようだったが、まだふらふらとした足取りだった。
ダイニングでそれを見送っていたルキウスが立ち上がってポリュビオスからカップを受け取る。熱いコーヒーを口にしてその白い顔に血色が戻るのを見ていると、まったく馴染みのない種類の人間を相手にしている気がした。それぞれが若くして亡くなった兄弟だったと言う。兄のように病んではいなくとも、ルキウスの体質もそう変わっていないようだった。
洗面所の方から水音が聞こえる。立ったままのポリュビオスの方を見ないで、ルキウスがぽつりと言った。
「兄さんが昔、アエミリアヌスを見ながら真剣な顔して、最初からうちの子だったことにならないかって言うから……それ聞いた叔父上が怒って。叔父上が兄さんを怒ったのなんかあれが最初で最後だった。……何?」
「いえ……わたしはあなたの兄君のことも知らないので」
「そうだったか?」
「最近はすっかり親しい人のように感じていますが」
「ああ、色々引き継ぎがあったんだろ。まあ引き受けたのはあんただからな、頑張りなよ」
戻ってきたスキピオが椅子に座ったところで、ポリュビオスは何が食べたいか尋ねた。
「ホットケーキ」
「……昨日も食べたでしょう」
「でも一枚だけだったから、まだ残ってるんじゃないですか」
「そんな心配はしなくともよろしい。アエミリア様から頂いたスープになさい」
「アエミリアさま?」
まるで当人に嗜められたように、スキピオはこくりと頷いた。
ひとまずココアを作ってテーブルに置く。マグカップを傾けるスキピオは重たい目蓋を鬱陶しげにして、夜中に自分が泣いたことなど覚えていないようだった。
レトルトのパックを湯煎にかけているあいだ、ダイニングのふたりは途切れ途切れに会話を続けていた。スキピオがルキウスの仕事について聞くと人を食ったような答えばかりがあり、ルキウスがスキピオに学校について尋ねるとまだ半月ほどしか通っていなくて分からないと素っ気なく返事があった。
「どうして俳優なんですか」
それは、昔の価値観からすればありえない選択だった。この時代においては名が売れた者たちはある種の特権階級でさえあるとはいえ、卑しいという感覚がどこかに残っている。
「色んな人間になれるだろ。それが……楽しいのかな。ぜんぜん楽しくない気もする」
「……ぼく、嬉しかったです。おとうさんと一緒にドラマとか映画とか観て、楽しかった」
「ティーン向けの恋愛映画なんか観たくなかったろ」
「面白くは、なかったけど……」
正直に言ってしまう子供の前に深皿に移したスープを出すと、スキピオはテーブルとポリュビオスとを見比べた。ダイニングテーブルは小さく、椅子は二脚だけだ。自分がリビングの方に移ろうかと椅子を降りようとするスキピオを、ポリュビオスは抱えあげて膝に乗せた。
「いつもそんなふうに甘やかしてる?」
答えを求めない問いだった。ルキウスは小さな人参を避けながらスプーンでスープを掬う子供に目を細める。
ただ目の前の存在を可愛く思い愛しむ目ではなかった。だがそれでこそ、彼が穏やかな気配でそこにいることをスキピオは受け入れているのだろう。
「アフリカヌス・ミノル」
そう呼ばれてスキピオは顔を上げた。
「そうやって精々幸せに暮らせよ、兄さんのために」
スープを食べ終えて薬を飲むのまでを見届けてルキウスは帰り、見送った子供の小さな背には寂しさが漂っていた。
その晩にはスキピオの熱は下がり、彼らはクリスマスマーケットに行くというラエリウスとの約束を守ることができた。
キッチンでの物音に、ポリュビオスは目を覚ました。寝心地がいいとは言えないソファベッドで身を起こすと、カーテンが閉じられたままの薄暗い部屋で、スキピオがキッチンに立っている。
すでに着替えているその背を眺めていると、青年がポリュビオスを振り返った。
「起こしてしまいました?」
「いいえ……おはようございます、スキピオ」
近づいてきたスキピオがポリュビオスの後頭部に触れて、寝癖ができていると笑った。またきちんと乾かさないで寝たんでしょうと小言というには柔らかな物言いで、またキッチンに戻っていく。
毛布を畳み、広げていたソファベッドを元に戻した。カーテンを開けると、開いた窓から日差しとともに春の風が吹き込む。
スキピオがこの秋に大学生になって、高校に通うあいだ暮らしたマンションからまた引っ越した部屋だった。ワンルームだが築浅の広々としたつくりで、ベランダから海が見える。大学に近いことよりその景観を選んで自分で手続きを行なったこの部屋を、スキピオは気に入っているようだった。
高校生になろうとしていた彼を置いて新たな勤務校の近くに居を移して以来、月に一度はこうしてスキピオの部屋を訪ねていた。彼の進路を自身の事情で左右するのをよしとしなかったポリュビオスは、当時いくらかスキピオに恨まれたものだ。
着替えて顔を洗い、跳ねる髪を一応は抑え込んで戻ると、スキピオがテーブルにカトラリーを並べたところだった。
サーバーからカップにコーヒーを注ぎ入れるのにインスタントではないのかとキッチンを見れば、ハンドドリップで淹れたらしい。見覚えのない年季の入った道具がいくつか並んでいた。
「バイト先のマスターが分けてくれた豆なんです。ポリュビオスなら分かるかなと思って」
道具も貸してもらったと言って、どことなく自慢げにカップを置いた。
スキピオが今年の初めにアルバイトをすると言い出したとき、周囲は正直なところ、大丈夫なのかと思った。かつて貴族の、それも名門の当主として多くの者に傅かれて暮らして、労働など卑しいものと見下していたこと、それにそれ以上に案じられたのはその率直すぎる気性だった。客と喧嘩をしてクビになるのではと言ったのは誰だったか。
幸いにして、大学の友人の紹介というのもよかったのだろう、老人が経営するカフェでのアルバイトについてスキピオはいつも楽しそうに語った。
研究室に据え置かれた、学生たちに不評の古いコーヒーメーカーが作る味に慣れた舌には、丁寧に淹れられたコーヒーは複雑すぎる。ナッツのような香りだと言うとマスターもそう言っていたと返ってきたので、一応の沽券は保てた。
ランチョンマットの上に置かれた皿を見て、ポリュビオスは目を瞬いた。
「……ホットケーキですか」
パッケージの写真からそのまま引っ張り出してきたような、お手本のようなホットケーキが二枚重ねられていた。真四角に薄く切られたバターが乗り、シロップが添えられる。
むらのない狐色を帯びてふっくらと厚く焼かれたホットケーキとスキピオを見比べると、先ほどよりずっと嬉しそうに笑って、買ってきたんじゃないですよと冗談めかした。
「習ったんです。というか、まだこれしか作れないんですけど、及第点を貰って店でも出してるんですよ」
ホールの仕事だけかと思っていたと返せば、やってみたくなってと。自分の前にはマグカップだけ置いて席についたスキピオは、ポリュビオスの表情に何を読み取ったのか、
「……ラエリウスも美味しいと言ってくれたし、客に文句を言われたこともないので、大丈夫だと思います」
そう言って、あとはただ見守っていた。
チョコレートなどで脳を叩き起こす以外に口にする甘い物などいつぶりだろう。シロップをかけナイフを入れて、視線を受けながらひとくち分を切り出した。
ふんわりとした優しい甘みが、懐かしさを呼び起こすようだった。思い出されるのが自分の食べたものでなく、目の前にいる相手に食べさせたものであるのは、仕方がないことだろう。
「美味しいです」
「ほんとう?」
「ええ。嘘を言っても仕方がないでしょう。驚きました」
「また何か習ったら作ってあげます」
気をよくしてそう言ったスキピオが頬杖をついて、窓の外に視線をやった。十八歳になった彼は、かつてよりも柔らかな線でつくられて、まだ大人になりきらない風情を残している。
「昔……先生と暮らし始めた頃に焼いてくれたのを思い出して。僕が熱を出したんだっけ、あまりよく覚えていませんけど、ホットケーキが嬉しかったのは覚えています」
「酷い出来でしたね、あれは」
「そんなこと……美味しかったですよ。手料理ってあまり知らなかったんです、おとうさんは料理が下手だったし」
それは投薬で味覚が鈍ってしまっていたからだと、言いはしなかったが思い返す遠い眼差しで、嬉しかったと繰り返した。幼かったスキピオは、確かに、ポリュビオスがレシピのままに作る素っ気ない料理でさえにこにこと機嫌よく食べた。
彼自身が自分の食事に娯楽性を求めない質で、ポリュビオスは食育に失敗したと思っていたところだったので、アルバイトは良い機会だったかもしれない。パウルス殿にも作ってあげるといいと言えば、店で泣いていましたと、憂いなく語った。
「あなたの分は?」
「僕、練習中に一生分食べましたから」
またこちらを向いて、ポリュビオスが食べ終えるまでずっと目をまろくして微笑んでいた。
波の音を遠くに聞いていたが、不意に、あの夜、とスキピオが呟く。海から吹く風がその髪を揺らしていた。夜が明け、一度家に帰るよう促されて病院の外に出た子供にも同じように風が吹きつけていた。ポリュビオスは一度、そこでスキピオと別れた。また来てくれるのかとは問わずに、車の中から振られた小さな手を覚えている。
「来てくれたのが、あなたでよかった」
ありがとうと吐息に混ぜるように言ったスキピオに、ポリュビオスはただ笑った。かつて同じことを思っていた、同じようにあなたでよかったと思っていたのだと、教える代わりに。