凪のはざま
冬休みに入ってからというもの、ただひたすら無為に日々を過ごしている。
一昨日帰るのが億劫になって泊まったマシニッサの家に、マゴーネは昨日もなんとなく居続けてしまった。次兄にだけ連絡を入れたが、こういう時は長兄が家を出たのが都合がいいと思える。
「いま何時ですか……」
目を覚ましてからうとうとと曖昧な意識を漂って、それだけで三十分は経っていた。隣で同じように横になっていたマシニッサが起き上がりそばの窓から日の高さを見て、十一時ごろだろうと答えた。そしてまた広々としたベッドに転がる。
窓の外では年末らしい寒々しい風の音がしていたが、部屋の中はセントラルヒーティングが温度を均一に保ち、半袖で布団に包まってちょうど良い心地だった。それがいけないのだ。昨夜だって絶対に観きれないだろうという数の動画サブスクが契約されているのを発見したせいで寝たのは明け方だった。マシニッサは初めて気付いたと言っていた。信じ難い人間である。
わずかに空腹を感じたが、眠気が勝る。布団に入り込んできたマシニッサもそのつもりだろうと思ったのに、その腕に抱き寄せられてマゴーネは眉を寄せた。
色気のあるやり取りがあったとは思えなくともこの男は好き勝手にその気になる。この部屋以外で行為に及んだことはないので何かしらの基準は存在するのだろうが、マゴーネにはその気配さえ読めない。
「少し髪が伸びたな」
うなじに唇を寄せながら言われてくすぐったさに身を捩った。シャツの布越しに触れる手のひらがじんわりと熱を分けて、このまま眠る方が余程いいと、悪さをする指を捕らえて──自分が笑っていることに気が付いて息が詰まった。
「マゴーネ?」
強張った体が分かったのかマシニッサがこちらを覗き込もうとする。もう何日もともに過ごして、それがまるで、離れ難いからというように思えた。それは慣れとは違う。
布団を跳ね飛ばす勢いでがばりと起き上がり、肩を突き飛ばす。簡単に仰向けになった身体の上に伸し掛かってみるとマシニッサは目を丸くしていた。
まるきり、意表をつかれたという顔だった。それだけではまったく溜飲が下がらない。ついさっきまで当然のようにマゴーネの体を弄っていた手をシーツに押さえつけて見下ろしてみると、やっと十七歳という線の細い少年がそこにいた。
マシニッサはすぐに体勢をひっくり返せるだろうに訝しむだけで、それが舐めているというのだ。馬乗りになられてその顔をしているのは立派な挑発だった。そのうえマゴーネはいま、気分が悪い。自分でもなぜなのか分からないほど……いや、本当は、分かっている。
「その気になれるのか?」
そんなはずはないという調子での言葉に、マゴーネは頷いてやった。
「試してみますよ。あなただということを忘れれば、綺麗な顔だ」
本心だったが、マシニッサは眉を寄せた。マゴーネがそういう感想を自分に持っているとは思わなかったのだろう。
シャツの中に手を滑り込ませ、体の線を確かめてみる。この部屋でマゴーネはいつもされるがまま、触れられるばかりで、爪を立てるほかにこの体に触れることはほとんどなかった。かつてとは比べ物にならなくとも頻繁に乗馬をして、飽食と縁のない暮らしをしている人間らしく、薄い皮膚の向こうの筋肉の凹凸を手のひらが拾う。
キスでもしてみるべきだろうか。これも自分からしたことがない。鬱陶しく顔にかかっている前髪を払い、額から鼻梁、唇へと親指を滑らせた。指には滑らかな感触だけが残った。
目を伏せ、どこを見るともなく瞳を彷徨わせていたマシニッサが、不意にくたりと力を抜いた。僅かにマットレスに深く沈む感覚で、四肢を投げ出したのが分かる。そうして目蓋を下ろしてしまうと死んでいるようだった。これは、拒んでいるのではない。
顎を掴んでこちらを向かせる。軽く振るだけで左右にぐらぐら揺れそうな首で、支えなくてはならなかった。
「あなた、この体じゃないにしても、経験があるでしょう」
うっすら開いた目が、マゴーネの険しい顔を認めて何度か瞬いた。
「……この見目を褒めるカルタゴ人はそなたが初めてではない」
閉口するというのは、まさしくこういうことだ。
マッシュリーの王子は、その幼少期をカルタゴで過ごした。人質としてではあっても、カルタゴ風の教育を受けさせることが前提であり縁のある貴族に預けられていたのは間違いがない。マゴーネはヒスパニアへ移る以前に彼と顔を合わせた覚えがないが、同じ時期にあの都市で過ごしたのかもしれなかった。
自分たちは、ヌミディアという隣人を対等には思わなかった。通婚があり様々な面での交流があっても、エリッサが船をつけるより先に彼の地にあった人々を当たり前に蔑んだ。
その身を丸ごと預けられた美しい王族を弄ぶ者があっても、不思議には思わない。
マゴーネはマシニッサを見下ろすのをやめた。隣に転がって、自分が捲った裾を直してやる。足元に追いやっていた布団を引き寄せて被せるとマシニッサの眼差しがはっきりして、彼は布団の中で寝返りを打ってこちらを見る。
「興が醒めたか」
「興が乗ってやったことじゃないです、最初から」
ただ、腕の中にいるのが心地よい気がして、ぞっとするのと怒りとが一緒くたに腹を渦巻いただけだ。
それも過ぎ去ってしまって、なんだか虚しかった。
「僕がその気のままでいたら、最後までああしていたんですか」
「……ソフォニスバも」ぽつりと呟いた声には微睡の気配があった。「同じようにしていた」
返事をしないでいると、マシニッサは本当に眠ってしまった。まだ昼前なのに──昼前から何をしているんだか、馬鹿馬鹿しさがマゴーネに身を起こさせる。
静かにベッドを下りて部屋を出た。もはや勝手知ったるという足取りで一階に降り、誰かいれば飲み物をもらおうとダイニングを覗いて、ぎくりとする。
いつもいる世話役の女性たちの代わりに、壮年の男がダイニングテーブルでラップトップを開いていた。髭を蓄えたその男のことをマゴーネは本当に、どの時点から言っても初めて見たが、誰何する必要はない。
「おお、どうなさった」
ガイアはマゴーネに気付くと愛想のいい顔になり、体ごとこちらを向いた。息子とは異なり黒い髪、より色の濃い肌で、すんなりと伸びやかな体つきばかりが似ている。
「……飲み物をいただけないかと」
「お好きに取りなさるといい。息子はどうしました」
「寝ています」
その答えはガイアを些か驚かせたようだったが、マゴーネからして顔も洗っていないのだ。冷蔵庫を開いて炭酸水の瓶を見つけたマゴーネはさっさと戻ろうと二本手に取る。この男は、内心にどのような野心を飼っていたにしてもカルタゴの友人のまま死んだ。父王が死んだあとマシニッサが味わった苦難はマゴーネの知ったところではない。向こうがマゴーネのイタリアでの足掻きを知らぬのと同じだ。
ガイアの慇懃な態度は嫌味でやっているようには見えないが、父親としてはハミルカルの同類に思える。その思いつきが、マゴーネにじっと注がれる視線を見返させた。
「起こしますか。マシニッサに会いに来られたんでしょう」
「結構。顔ならば好きな時に見られるのでな」
「そう。……失礼します」
「マゴーネ殿」
ハミルカルと同じように再び同じ子の親となることに執着した男は、無論子がそばに置く者を注視するだろう。ソフォニスバはともかくマゴーネは異物だ。ハンニバルの周囲から見たスキピオのように憎まれる謂れはないとしても。
「あなた方に会ってからマシニッサはやっと息をしている」
「……死んでたんですか?」
「生きていたが、老人のようだった。だから儂はあなたに何もせぬ、それを伝えた方がいいように思ってな」
男の顔をじっと見つめ、マゴーネは頷く。何もしなくてよかった、と思った。
「あの方のこと、可愛く思うようになられたの?」
「はい?」
あら、違うのかしら。ソフォニスバはさも意外そうに小首を傾げ、顔を顰めているマゴーネが彼女の思考に追いつくより前に「あれは何?」と地上を指さした。
「大学のキャンパスでしょう」
「広いのね、大学って……わたくしのおうちはどこかしら」
骨組みのほかはすべて透明な素材でできたゴンドラは、頂上に近づいていた。マゴーネとソフォニスバはなぜか二人で観覧車に乗っている。
このゴンドラの落ち着かなさと、ソフォニスバの真っ白なコートを見ていると感じる不安は似ている、と左右の景色を忙しなく眺める少女を前に思った。食べ歩きをしたいと言い出したらどうにかして止めてやらなくてはならない。
「あの、さっきの何なんです。マシニッサの話ですか」
「はい。今日のマゴーネさんは可愛がる方のひとという感じ」
「それは……婉曲表現?」
「お分かりになるからそうおっしゃるんでしょう? でも違ったみたい。そうだったらどんなふうだったか教えてもらおうと思ったのに」
「どんな……って……」
ショッピングモールの一角を占める観覧車の、国内最大級の謳い文句に釣られたソフォニスバがマシニッサを地上に置いてきたのは、まさかこんな話をするためだったのか。
気が咎めますとマゴーネは正直に言った。中学三年生はこういう話題に適した存在では決してない。言い出したソフォニスバは平気な顔でいる。
「いけませんか? この体は未通ですけれど、二度結婚したのですもの。それとも十四歳の子供とそういう話をすると罰せられてしまうのかしら」
「そこまで厳しい法律は流石に……」
「どうなさったの?」
「いや、知ってる人がいたように見えて」
輪を下り始めたゴンドラが地上に戻るにはまだ五分ほどある。ミニチュアのような遠くの景色よりもモールの広い敷地やそこを行き交う人々がはっきりと見えるようになってきていた。
マゴーネの視線の先を追っていたソフォニスバがあっと声を上げる。
「マシニッサさま、あんなところに──」
言葉が不自然に途切れ、マゴーネもマシニッサの姿を探した。この真冬に、屋内で待っていればいいのに乗り場の近くのベンチに座っているのがすぐ見つかる。
ソフォニスバの荷物を脇に置いて、こちらを見上げているようにも見えたが、それよりも気になるものがありマゴーネはソフォニスバも同じように思ったのだと察した。
「あれ、どなた?」
「ナンパかスカウトか、どちらかでしょう。しつこそうだな」
「まあ……本当にいるのね、そんなものが……」
「出会したことありませんか」
「お友達と出かけるときも、必ず誰かが付き添ってくださるんです。だから……マシニッサさま、気がついていないの?」
「無視してるんですよ」
その場を離れたくないならほぼそうするしかないが、離れればいいではないかとマゴーネはマシニッサのそばで喋り続けているらしい男を見下ろした。あれが女なら暇つぶしに話し相手にしたかもしれないが、マシニッサはその存在をないものとして扱っているようだった。
いわゆるお嬢様学校に通うソフォニスバほどではなくとも、マシニッサとてあしらいに慣れているわけではないのではないだろうか。マゴーネにしてもあの手の人間に絡まれたことはほとんどない。長兄に渡してくれと履歴書在中と書かれた封筒を渡されることはあるが。この秋は大学進学を待っていた妙に真面目な連中にどさどさ渡されて大変だった。
「あっ」
ソフォニスバの額がゴンと窓にぶつかった。
男の手が肩に垂らされたマシニッサの髪に触れた。ソフォニスバがここまでの車中で結ってやった髪だった。
流石に面白半分で見物する気分ではなくなる。マシニッサに電話をかけようかとスマートフォンを出したマゴーネは、しかしその手を止めた。
「下郎が」
キイ、と軋む音をさせてゴンドラが揺れる。
どう考えてもいまのはソフォニスバが発したのだが、頭がそれを認めようとしない。怒っている? 怒りという感情を備えていたのか? 怒るにしてもなぜ──
「え、あれ……兄上?」
「ハンニバル・バルカ? あれが? ああ、見えなくなっちゃう」
さっき気のせいかと思った姿が、今度ははっきりと見えた。ハンニバルがマシニッサと男のそばに近づいたところで、ゴンドラが乗り場へと入っていき、外が見えなくなる。
係員がドアを開くのも待ちきれないといったソフォニスバが、ぴょんと飛び降りてそのまま走り出した。その足取りは思いの外軽やかで速い。追うマゴーネを置いてけぼりにして、先ほど見えていた場所に迷わず駆けていく。
「マシニッサさま!」
周囲の注目など構わず彼女の上げた声に、兄が振り返るのが見えた。ベンチのそばには兄とマシニッサが立ち、あの男はいない。おそらくハンニバルが現れた時点で逃げたのだろう、そういう手合いだ。
ソフォニスバはマシニッサの腕に触れ腰に触れて背中に触れ、肩に手を置いて顔を覗き込んだ。
「ソフォニスバ」
「まあ、お髪が……せっかく綺麗にして差し上げたのに」
「ソフォニスバ、大事ない。見ていたのだな」
「そうです! 下賤の者があなたに触れるなんて」
下賤って。なんとなく二人を遠巻きにしていたマゴーネとハンニバルは顔を見合わせる。三週間ぶりくらいだろうか。進学を機に一人暮らしを始めた兄は、父が寂しがるので頻繁に実家に顔を出しはするのだが、タイミングが合わずにマゴーネとは会わずじまいということもあった。
「ありがとうございます、兄上」
「無視するのもどうかと思っただけだ。それに俺というよりは……」
「よかったですね、あの人が騒いだらどうしようかと少し心配しました」
どこからか現れたスキピオに、ハンニバルが頷く。
やっぱりいた。マゴーネはその場から一歩引いた。兄が待っていろと言うので遠巻きに様子を見守っていた、といったところだろう。
このモールは実家よりはハンニバルの暮らすあたりからの方が近い。マゴーネらはガイアお抱えの運転手任せの車で来ていたが、兄たちがどういう方法で来ていてもなんか嫌だなと思った。何をしに来ているにしても嫌だ。すかさず兄の腕に手を添わせるスキピオを見ればそういう気分にもなる。
くんと袖を引かれ見れば、ソフォニスバが好奇心をいっぱいにした目でマゴーネを見上げていた。
「……ソフォニスバ。こちら僕の上の兄で」
「ハンニバルさまですね。それはもうたくさん、お話を伺っております。……マゴーネさん、似ていないなんておっしゃっていたけれどそっくりね」
そんなこと言っただろうか。兄は無邪気に笑う少女にいくぶんか表情を和らげた。
「弟が世話になっていると聞いている。君たちの邪魔になっていなければいいが」
「まあ、そんなこと。わたくし、三人でするおでかけがいちばん好きでしてよ」
その言葉には額のあたりが険しくなったが、姉たちによく躾けられた弟であるところのハンニバルは、ソフォニスバにそれはよかったと頷いた。
ソフォニスバがマシニッサとマゴーネ、どちらの手も握っているのを、スキピオが興味深げに眺めている。ラエリウスが知っていればこいつも知っているはずで、その眼がソフォニスバを見るのには奇妙な人間関係を面白がる以上の意味はない。
だがマゴーネは背後に立つマシニッサを振り返らなかった。スキピオと視線を合わせての数秒の沈黙ののち、ソフォニスバが微笑む。
「こんにちは」
きれいに左右対称の、訓練された笑顔だった。数ある名画の中にもこんな少女はいないだろう。スキピオもにこやかに挨拶を返したが、明らかにどちらも、完璧すぎて違和感を発している。
「ソフォニスバ、そろそろ席が空きそうですから行きましょう」
スマートフォンで一時間ほど前に取ったオンラインの整理券を確認するふりをして言うとソフォニスバはその顔のまま頷く。そういうことなのでと小さな肩を建物の方へ向けさせて、マゴーネは兄だけを振り返った。
「兄上、年末年始は帰ってきてくださいね。ハンノも会いたがってます」
「分かった」
「あとそいつを家に泊めるのやめてください。マハルバルから筒抜けなので」
「……お前も早く家に帰れ、ハスドゥルバルから筒抜けだぞ」
そんなことだろうと思っていた、という顔で兄弟が別れるのを、ソフォニスバとマシニッサとが感心したように見守っていた。
「何ですか」
「やっぱり仲が良いんですのね。わたくしのお兄さまたちはよそよそしいので羨ましいわ」
「それは多分、家族のなかで妹だけが可愛すぎて腰が引けてるんでしょうね……」
「まあ」
「さっきの、もうすぐ順番なのは本当ですよ」
彼らがこんなやかましく雑多でナンパ師の出没するような施設に来ているのは、パンケーキのためである。
ソフォニスバがテレビで観たという、見た目だけ胸焼けのするような量のクリームの盛られたパンケーキをどうしても食べたいというので仕方がなかった。マシニッサは自身はまったく好まないくせに、ソフォニスバがそういう飽食の時代を象徴する嗜好品を食べる様子を見るのが好きらしい。
午前中に来たのに一時間待ちとあって、ソフォニスバの期待は膨らんでいるはずだった。しかし飲食店のフロアまで来ても少女はぼんやりしている。
「……お腹空きました?」
「それも、そうなんですけれど」
「ソフォニスバ、あれは何も覚えていない」
「それも……存じております」
マシニッサの腕にしがみつくようにして、ソフォニスバは彼女なりに物憂げな息を吐いた。
「わたくしね、心配していたんです。スキピオさまを見たらやっぱり、好きになっちゃうのかしらって。シュファクスさまやお父さまみたいに……でも、心がひとつも動かなかったの。なんだかがっかりだわ」
あいつ、初対面の人間に印象でがっかりされたことないだろうな。
内心愉快な気分だったが、マゴーネはそれを顔に出さなかった。目当ての店に着くとちょうど順番が来ており、外の景色がよく見える窓際の席に案内される。店内には女性客がひしめいていたが、ソフォニスバのおかげで浮く心配はなさそうだった。
奥のソファにソフォニスバとマシニッサを座らせて、注文用のタブレットを渡した。マゴーネもさほど甘いものを好まないが、食事系のパンケーキというのもあるらしい。どれにしようかと頭を悩ませる少女を、マシニッサは穏やかな顔をして見守っていた。
注文を終えると、ソフォニスバがマシニッサの髪を整えると言って小さな鞄から櫛を出した。せっせと長い髪に櫛を通しながら思い出したように言う。
「ハンニバルさまを拝見できたのはよかったです。女たちはみな、表立っては言わないけれど夢見がちにあなたがたのことを噂していましたのよ。ハンニバルさまなどはバアル神の似姿、恐ろしくも惚れ惚れしてしまうようなお方に違いないとか……」
「野蛮人と言われているかと」
「ふふ……そんなふうに言うのはね、怖いからです。怖いのは、憧れるから」
複雑に編み直さず、ゆるく一つの三つ編みを作って、これも鞄に入っていた髪留めで留める。
「父はあれこれ言っていたけれど想像通り格好よかったわ。イミルケさんに教えてあげなきゃ」
しんと音が消えたように感じた。
目の前でふたりの交わす会話が音を伴わず、絶え間なく流れていた音楽も途絶えた。少女の笑う姿が本当にそこにあるのかもよく分からなくなったとき、隣の席で幼い子供がフォークを落とした鋭い音が静寂を破り、さわさわと喧騒が戻ってくる。
喉の渇きを覚えて水を口に含んだ。
「……義姉を、ご存知でしたか?」
「クラスメイトです。優しくて、とっても楽しいかたなんですよ」
「じゃあまだ……」
十四歳に過ぎないということだった。
マゴーネは、スキピオのかつての妻がただの幼馴染として存在しているのを知っていた。そっちと付き合ってろと悪態をついたマハルバルも、スキピオの弟などには接触したが彼女には近づかなかったらしい。
ふと頬に触れた手を見る。マシニッサはマゴーネの半ば睨みつける目つきに薄く笑った。詰まっていた息を吐き、その手を下ろさせる。
「父は……たぶん孫のことを知らないんです」
「そうか」
「知ったら、母にしたのと同じことを義姉にするでしょう。僕らは母や姉を見ていて、あの人にそんなことできないと思った。でも……でも、あの子は……」
「マゴーネ、これが気休めになるかは分からないが」
そう言ってマシニッサが自分のスマートフォンをテーブルに置く。覗いてみると、青年が三人、笑っていたり困惑していたりのばらばらな表情で写真に収まっていた。
「誰です、これ」
「我が嫡子だ」
「はい?」
「右からミキプサ、グルッサ、マスタナバル。みな俺よりも早く生まれて、血の繋がりこそあるが当然親子ではない」
指先が画像を横へ流すと、今度は大勢が写っている。老若男女、風体からして何の集まりか推測の効かない人々は──みな、マシニッサやガイアにどこか似ている。
「庶子たちはSNS上で連絡を取り合い、こうして会ってもいるらしい」
「この全員があなたの子供?」
「早世した子などは顔を思い出せないが。彼らとはもう薄い縁さえない、他人だ」
マゴーネはその写真の中で笑う人々に目を凝らした。数で言えば、マゴーネやその家族、周囲にいる昔を知る者たち、学校を中心として存在を知るローマ人たち、その全員よりも多い。どういう生活を送ればこれだけの子を儲けうるのか呆れもするが、確かに、気休めにはなった。
同じように写真を見ていたソフォニスバが顔を上げる。店員が恐ろしいシルエットのパンケーキを運んできたところだった。パンケーキの大皿が二枚と、三人分のドリンクがテーブルに並ぶ。
「あのね、マゴーネさん」
カトラリーを両手にしたところで、ソフォニスバが珍しくしおらしい声を出した。
「イミルケさんにはもうお話ししているの。そうしたらあのかた、ハンニバルさまには絶対に会わない、会えばまた好きになるからって……」
「……何をどこまで話したんですか? さっきのあいつのこととか……」
「まあ、そこまで口が軽くはありませんわ。マゴーネさんのこと、それからそのお兄さまがたのこと。イミルケさんね、叶わない恋になんか耐えたくないっておっしゃっていました」
昔は、何よりも妻という立場が守ってくれたし、慈しまれる理由にもなった。生家の所有する鉱山が足場を支えてくれていた。だがただのふたりの人間としてあるとき、焦がれる気持ちを守ってくれるものは何もない。彼が覚えていようがいまいがそれは同じ、愛されたいと思う限り、すべてを過去として抱えているのがいちばんいい。……そんなことを語ったのだと、少女が言う。
正直、マゴーネはサラダにドレッシングがかかっているかもよく分からない心地だった。かつての義姉がいつどこで、どんなふうに命を落としたか、マゴーネは知らない。新カルタゴ陥落の混乱のさなか、自分たちが彼女らを救えなかったことだけが事実だった。その彼女がそんなふうに思っているとは考えつきもしなかったのだ。所詮、妻というものをそれ以上の存在とは捉えなかったから。
「素敵ね、本当に好きでいらしたのね」
ホイップクリームに埋もれたパンケーキを一枚小皿に分けてフルーツをバランスよく移しながら、ソフォニスバは冗談を言っている風ではなかった。
ちいさく切り分けた生地にまたクリームを寄せてフルーツも添えて、その調子でいつ食べ終わるのかと既に心配になる様子だったが、味は満足のいくものだったらしい。
それを眺めていたマシニッサと目が合う。数多の妻妾を抱えてあれだけの子供を得た男は、いまこうして過ごす他に何も求めない。その陰でどれほどの情念が渦巻くやら、マゴーネはこのときになって初めて想像した。
「親が求めなくても勝手に生まれてくるなら、僕らの方がおかしいんでしょうか」
マゴーネらはハミルカルの子で、マハルバルはヒミルコの子だ。長姉とボミルカルの間にまたハンノが生まれた。知る限りローマ人たちの状況も過去のなぞり書きであり、それが当然だと思っていた。そうでなくては、生まれないのではないかとも。
「おかしいとは思わない。望まれるのならば応えてやってもいいが、望まれる必要などないということだろう」
あっさりと言うのは彼が親だからだと、その発想もマゴーネは初めて持った。
結局ソフォニスバとマゴーネが半分ほどでもういいと言って押し付けたパンケーキを、マシニッサは彼にしては珍しく無理をして処理していた。
数日ぶりに帰ってきた我が家は、このところでいちばんの騒がしさだった。長姉家族が昨日から帰省しており、母も戻っていた。出て行ったとは言っても絶縁したわけではなく、家族の集まる場をふたつに増やすようなことはしないひとだった。
どこに行っていたのと問うこともなく彼女らはマゴーネにおかえりと言い、それぞれ寛いでいる。ちょうど昼時でハンノがボミルカルに昼食を食べさせてもらっているところだった。
着替えてからリビングに戻ると、下のふたりの姉たちは録り溜めたドラマを観ている。そこから少し離れてソファに座る次兄のそばにマゴーネも座り、タブレットを触っている兄に凭れ掛かった。やはり落ち着く。落ち着くというのは、この心地のことを言う。
「長逗留だったな」
「限定配信のドラマとか映画とか観てると何日あっても足りないですね……」
ハスドゥルバルはそれを建前と思ってただ頷いて、ハンニバルも今晩には帰ってくると教えてくれた。なら父も帰るだろう。出奔の末に海外にまで足を伸ばしてしまっている次姉を除けば、家族が揃うわけだ。
「兄上なら、昨日出掛け先で会いました。ほらあの、観覧車のあるショッピングモール」
「ああ……観覧車に乗りに行ったのか?」
「これです、これ」
スマートフォンでソフォニスバのパンケーキの写真を見せると、ハスドゥルバルは珍獣を見るような目をしていた。食べ物にさえ見えないらしい。
「兄上、あいつと一緒でしたよ」
「映画でも観に行ったんだろう、あそこはマイナーな映画も上映するから」
「好きですよねえ、そういうの」
「楽しかったか」
「……まあ、そうですね。ソフォニスバが」
話してくれたことを口に出しかけ、思い直して、写真をいくつか横へ流していく。
「色々服を見繕ってくれたんですけど。僕の発想にないものばかり選ぶので面白かったです」
「似合ってるじゃないか。買わなかったのか?」
「その場では面白くても絶対着ないし……」
ふと、マゴーネはハスドゥルバルの手にあるタブレットに目をとめた。兄は隠すでもなく、画面を傾けてこちらに見せてくれる。そこに示されたワーキングホリデーの字にえっと大声が出た。
「兄さん、どこ行く気ですか」
「いますぐにじゃない。卒業して一年くらいはぶらぶらしてみるかと」
「嫌ですよ!」
キャンと吠えた末弟を、いつの間にかそばに来ていたサランボーがよしよしと宥めた。その三番目の姉の腕の中でマゴーネはただ魚みたいに口をはくつかせる。あまりにも強く拒絶の気持ちがあったが、どう表しても足りない気がして言葉が出てこなかった。
ハスドゥルバルは弟の様子に片眉を上げたが、これは長兄がつくるのと同じ、決して思い直すつもりのない顔だった。
「姉上があちこちから写真を送ってくれるだろう、自分で見に行くのも面白そうだ」
「嫌ですってば!」
「お前、兄上が出て行くのには何も言わなかっただろ」
「兄上はしょうがないけど兄さんは駄目です! 嫌です!」
駄々を捏ねるのはマゴーネだけで、姉たちは和やかにいっそ世界一周でもするといいなどと言っている。
「別に働かなくたってそれくらいの費用はお父様が出すでしょ、遊び歩いたらいいじゃない」
「面白い仕事見つけちゃったら帰ってこなくなりそうだものね」
「帰ってきますよ、進学する気はあるので」
それでどこに行くのだと話し合い始めた兄姉に置いてけぼりにされて、マゴーネはすごすごとダイニングに移った。オムライスを食べているハンノが心配そうにこちらを見るのに僅かに心和まされる。
息子が口の端につけたケチャップを拭ってやるボミルカルは、義理の弟妹たちの騒ぐのを聞いていたらしい。もう大人になる頃だからねと彼が柔和に笑うと、マゴーネはもう吠えずにため息をついた。
「……僕もどこか行っちゃおうかな。留学とか」
「残念ながら、ハンニバルもハスドゥルバルも家を出た状況でマゴーネもというのは至難の業だろう。ハミルカル殿は相当寂しがるぞ」
「寂しいって、自分は全然家にいないくせに……それに姉様たちがいるじゃないですか」
下の姉ふたりを指して言うと、サランボーがソファの背もたれに肘をついてこちらを振り向く。
「私もう出てくよ」
「えっ? いつ?」
「春頃になったら。研修が終わったら本配属だけどここからだと遠くって。お手伝いさん一人くらい連れて行こうかな」
「ナラウァスはどうするんですか」
「どうもしない。勝手にするでしょ」
あんまりな言いようにこの場にいないヌミディア人に同情の念が湧くも、まずいのではないかと萌した焦りの方が大事だった。父は母や長姉が出て行くのには動揺しなかったが、次姉の出奔には流石に面食らい、長兄の進学先がその名を知らぬ者のない名門であるのに喜びつつも一人暮らしにしつこく反対していた。県外であり交通の便を見ても通うのは効率が悪すぎるというハンニバルの当然の主張が通ったが、今も未練がましい。
このうえサランボーとハスドゥルバルが出て行くと、この家に残るのはマゴーネとまだ大学生の姉だけだ。
「ちい姉様、大学出たらどうするんですか」
「決めてない……就職もしたくない……」
「じゃあずっと家にいたら? 父上はずうっと養ってくれますよ」
「それもよく分かんない男と結婚させられそうで嫌なの……」
それを否定する材料がなく、マゴーネはボミルカルを見た。あの顔だけはいいかつての義兄と違って、ハミルカルに心酔するというよりは盟友であった男の冷静さを期待したが、彼は老練な政治家の顔で首を振る。
「末っ子は辛いものだね、必然的に出遅れるのだから」
「ちょっと……僕だってずっと実家にいるつもりないんですけど……」
「学生のうちは可愛がられておきなさい」
冗談ではないと言いかけ、車庫に車の入る音を聞きつけてマゴーネは席を立った。スリッパのまま玄関扉を開くと門を潜ったところだった父がこちらを見て、なぜか憤慨している末子に僅かに目を瞠った。
父が石畳を歩いてきたところに両腕でしがみつく。
「父上! 兄さんが出て行こうとしてます!」
「何の話だ」
「大学入る前に世界一周旅行するからお小遣いくれって言ってますよ!」
変な言い方するなよと家の中から声がしたが無視した。
「サランボー姉様まで出ていくって言うし」
「仕事の都合ならば仕方がないだろう」
「普通の親みたいなこと言わないで配属先変えてきてくださいよ」
サランボーは父親のコネを使わずに就職したので多分そんなことはできないのだが、それでも何とかしろとマゴーネはしがみついたまま唸った。普段そういう振る舞いをしない末子の背を父は軽く撫でて、外にいるには薄着の子を玄関の中に入れる。
靴を履き替え使用人に上着を預けたハミルカルはまじまじとマゴーネの顔を見下ろした。兄たちほどには背が伸びずに打ち止めになったマゴーネは、自分はいつまでもこうして父の顔を見上げるのだろうなと思ったが、その顔色が曇っていくのに首を傾げる。
「……父上?」
「マゴーネ、ガイアに会ったか」
「会い……ました、挨拶だけしたというか。またお仕事で喧嘩したんですか?」
友好的であって然るべき大きな取引先だというのに、組織のトップ同士が顔を合わせるとああだこうだと言い合いをするから困ると、それはマシニッサから聞いたことだったかもしれない。
「父上、どうなさったんですか」
リビングからはドラマ鑑賞をやめてゲームを始めたらしい音が聞こえる。ハンノに合わせて選んだのだろうゲームのポップな音楽が、この廊下には上滑りして流れていった。
父の手がマゴーネの頭を撫でて、頬を包んだ。それがまだ柔らかい感触の残る少年の頬で、当惑する様子に幼さを見出して深々とついたため息は重い。スマートフォンを出せと言われて幼い頃からの習いでマゴーネは疑問も持たずにおとなしく渡した。それが父のポケットに仕舞われて姿を消す。
「学校が始まるまで外出禁止だ」
「…………?」
「通学は車を使うように」
「え? ちちう、ぎゃっ!?」
突然抱き上げられてマゴーネは目を白黒させたが、高校生の息子を担ぎ上げて父は余裕の足取りでリビングに入る。あっいま逃げないともう家から出られないのか──気付きは遅すぎ、玄関の鍵がかけられる無慈悲な音が聞こえた。
兄姉たちは一応は顔をあげて父におかえりなさいと言い、マゴーネの有様には驚く様子もない。何事かと二階から下りてきた母と長姉も助け舟を出してくれそうになかった。
ソファに下ろされ固まっているマゴーネに父の声が降ってくる。
「ガイアと話がつくまであのローマの犬には会うな」
その頭ごなしな物言いと裏腹にまた優しく頭を撫で、部屋に下がる父の背中にマゴーネがかろうじて言えたことといえば、
「兄上にはそんなこと言わなかった! 野放しだった!」
ボミルカルは苦笑してハミルカルを追ったが、宥めてくれるはずはなかった。コントローラーをガチャガチャ言わせている姉たちがやれやれと呆れたようにぼやき合う。
「ハンニバルとマゴーネじゃ問題が別物だよねえ」
「知っててやってるかどうかという話でもあるし……」
「兄上と僕は別物なんだから僕はどうだっていいでしょう! 兄さんチクりました!?」
ハスドゥルバルは薄笑いで俺じゃないと首を振った。姉たちが今更そんなことをするとも思えない。ではハンニバルなのだろうが、こちらにしても今になって何が目的なのだ。自分はスキピオを部屋に連れ込んでいるくせに。
「兄上も父上もいくらマシニッサが嫌いだからって」
「マゴーネ、問題はあの子じゃなくてあなたなの。分からないかな、ちいちゃなマゴーネちゃんには」
末の姉の言うことは、本当に分からなかった。必然的に出遅れるというボミルカルの言葉が蘇る。ハンニバルがスキピオとなんか付き合わなければ、それを父に諦めさせていなければ、こうも過剰な反応になることはなかっただろう。
帰ってきたら絶対に許さない、と歯噛みするマゴーネにそっとハンノが寄り添って、慰めるように手を握った。幼子もなんだか呆れた顔をしていたが、マゴーネがそれに気がつくことはなかった。