兄の心弟知らず
バルカ邸の地下にはシアタールームがある。
映画館同様の設備を備えた二十名ほどを収容可能なその部屋は、第一にはハミルカルの趣味として、第二には子供が七人もいればこういう部屋がある方がいいだろうという考えによって作られた。そもそもが長女の誕生以前に建てられたにも関わらず七人分の子供部屋を備えた邸宅であり、その考えに疑問を挟むものは誰もいなかった。
幼かった子供たちが好きに座面に立ち、跳ね、様々なものをひっくり返した末に、いささか経年を感じさせはするが、末子が高校生になったいまでも家族はしばしばここで時間を過ごしている。
「こういうのって本当にあるんですかね」
その日は、兄弟三人が少し古い映画を観ていた。マゴーネが指差した先では、超管理体制のもと育った主人公が世界の真実に気づき懊悩している。
「こういうのってどれのことだ、人工子宮?」
「それもですけど、薬で性欲を完全に失ってるっていう……なんでそれがそんなに悲しいんですか? この人」
何しろ、古典というほどではない絶妙な古さなので、上映開始十五分で三人とも感覚の違いを察していた。社会の外側からやってきた謎めいた美女──主役の俳優よりひと世代若いであろう俳優が演じている──との出会いで様々な衝動に目覚めていくというのも、マゴーネにおしゃべりを始めさせるに十分だった。
ハスドゥルバルはこの時点で弟の言いたいことがなんとなく分かった。しかしこの話題を他に出す相手もいないだろうし、まあ言わせておこうと思った。それがまず間違いだったのだ。
マゴーネは彼がなんでも知っていると思っている長兄の席に身を乗り出した。
「性欲を減退させる薬って本当にあるんですか?」
「……薬学的去勢の話か?」
「いや去勢まではしなくていいんですよ、抑えるくらいで……」
「あるにはあるだろうが」
「あるんだ。ドラッグストアに売ってないかな」
マゴーネの隣に座っていたハスドゥルバルからは、兄が眉間に皺を刻むのが見えた。
「現実に必要なのか?」
「この発想はなかったんです。あの人昼間に疲れさせておいても全然元気だから、もう相手してられなくて……かと言ってソフォニスバは駄目じゃないですか、いまの倫理的に」
「マゴーネ、生々しい」
一見するとおとなしげな弟の、こういう物言い、あるいは無神経さは、自分の言葉に重みを感じていないせいだろうと、ハスドゥルバルは常々思っていた。自分の席に戻ってきたマゴーネは三つ編みをいじろうとして、それを最近切り落としたのに気がついてばつが悪そうな顔をした。
誰も映画など観ていなかったが、いやにドラマチックな音楽は彼らの頭上に流れ続けていた。
「ほっといたらひと学年分の子供を儲けるような人間の相手をひとりがするっていうのが、無茶ですよね。十代だし」
「他にも遊び相手がいるっていう話じゃなかったか」
「いなくなっちゃったんですよ! マシニッサがお払い箱にしちゃったのか何なのか分からないけど、影も形もないんです!」
「普通は喜ぶところだろうにな……」
あの「王子」が弟を喜ばせるためにそういった関係を清算するというのは、悪くない傾向ではある。残念ながら当の本人は喜んでいないのだが。件の令嬢についても事情を思えば分からなくもないし、マゴーネが彼女を嫌わないのなら構わなかった。ハスドゥルバルからすれば哀れなばかりの少女だ。
折悪く、スクリーンでは男女がもつれ合い始めていた。それも主役ふたりではない。誰だこいつらとハスドゥルバルがいよいよ他の映画にしようかと言いかけた時、兄がぽつりと言った。
「マシニッサ?」
マゴーネは頷く。
「あの女好きが、意外じゃないですか?」
「……マシニッサがお前と何だって?」
「はい?」
あっ。ハスドゥルバルは、思わず口を覆った。まさか。そうか。だがそんなこと、あるのか?
マゴーネはまだ気がついていない。不思議そうに兄の顔を見返し、「兄上、こういう話するの嫌いでしたか? すみません」などと言っている。
ハンニバルは、確かにその点でもいささか衝撃を受けているようではあった。マゴーネはハスドゥルバル相手にするほどあからさまな物言いを父や長兄にしてこなかった、わざわざマシニッサを話題に出して場を冷やす気もなかったからだ。
「マゴーネ」
「はい」
「マシニッサの相手とは何だ」
そんなこと訊かなくてもいいだろう! ハスドゥルバルは目も覆った。答えが分かっている問いをそれでもするとき、人間は別の答えを望んでいる。
「……スキピオが兄上の相手をする、みたいなこと?」
マゴーネはそう答えてから、疑問を抱いた。マゴーネは彼がその一角を埋めている不思議な三角関係の話を長兄にしたことは一度たりともない。出かけるとき誰とどこになどとわざわざ報告する家ではなかったし、この三兄弟間にもそうした報告義務は存在しなかった。
マゴーネから何か言う前に勘付いていた下の姉ふたりには根掘り葉掘り聴取を受けたが、最後にはまあいいんじゃないのと言っていた。自由で、面白くて、軽々しい感じの恋愛って、いい。ナラウァスを翻弄し続ける三番目の姉の言葉である。
マゴーネはこれを自由とも面白いとも思わなかったが、父以外になら必死に隠すほどのことではないとも考えていた。だから、別に、黙っていたのではない。話さなかっただけだ。
ハンニバルが気付かないなんてこと、あるはずがないから。
「つまり、あの、マシニッサは……彼氏です。僕の。恋人って言い方はなんか気持ち悪いですけど、まあ、そういうやつです」
そう言われた兄が心底驚いたというか、むしろ傷ついたような、ほんとうに思いがけないものに突如背を蹴られたという顔をしていたので、弟たちは誤解を悟った。
ハンニバルはまじまじと末弟の顔を見、その視線は逸れると同時に現在から遠いどこかへ向かった。おそらく幼少からの記憶が押し寄せてきている。
「よりによって……?」
やがて絞り出された声の苦々しさに、ハスドゥルバルは当然の反応だと思ったが、マゴーネは違ったらしい。
「何ですか? ご自分の美しい恋人と比べて見劣りするとおっしゃる?」
「おい、マゴーネ」
「マシニッサの顔だってなかなかのものでしょう。兄上があれの顔でなく心性を愛でていらっしゃるのでしたら、そうですね。まったく僕とは話が合わないかもしれませんが」
「マゴーネ、怒るな」
「怒ってませんよ。もう怒り尽くしたんですから。──兄上にだけはどうこう言われたくない!」
ハスドゥルバルの引き留める手を振り払い、マゴーネは部屋を飛び出していった。
兄たちはそれを呆気に取られて見送ってしまった。特に、末弟からの反抗というものを知らないハンニバルは、父親が自分のせいで同じ顔をしていたことも知らないで驚いていた。とことん、身内に背を向けられるということを知らないのだ。
追うか追うまいか、迷った末に、ハスドゥルバルは兄の方を見た。
「兄上、今回はマゴーネの方に分があるよ」
おそらくまったく異なる理由を頭に浮かべて、兄は深々とため息をついた。
スキピオが笑っている。
満面の笑顔。溢れんばかり。弾けるような。何でもいいがとにかく笑っている。高く響く笑い声は息苦しさを訴えながらまだまだ続く。ここまで笑い倒して顔の造作が崩れないのも才能と言えた。
もう立ってもいられず笑い転げながら床に倒れんばかりの親友に、ラエリウスは久々に心底引いていた。
「そ、そんな……そんなにショックで……じゅ、授業にも、出ないでっ……? そんな窶れた顔して……!? か、可愛すぎる、あは、ははは」
笑われているハンニバルは、さっきからスキピオに目を向けなくなっていた。ハスドゥルバルもマハルバルも妖怪を見る顔で遠巻きにして、笑い終わるのを待っている。話しかけたくないのだろう。ラエリウスに向けられる何とかしろという圧力はだんだんと強まっていた。
この学校には、授業だけでなく生徒がそれぞれの活動に使うことのできる大小の部屋が用意されていた。そのうちの一室、鍵が管理室にあった試しのない「多目的室(1)」に、息も絶え絶えの笑い声だけが響いていた。
ひいひいと息を上げているスキピオを、ラエリウスは嫌々ながら椅子に座り直させた。
「おい、もう休み時間終わるから」
「ええ? ガイウス、ふふ、午後の授業はもう諦めた方がいいよ。あっだめだまだ面白い」
文字通り首根っこを掴まれてここに連れ込まれたのを他の生徒も見ていたから、どうにか説明しておいてくれないだろうか。ラエリウスは既に現実逃避の体勢に入っている。スキピオが笑うのにはどうかと思うが、真面目に聞きたい話でもなかった。
マゴーネがマシニッサとどうこうしているから、何? ラエリウスからすれば友人がかつて失ったものを手元に集めて何やら子供じみたことをしているというだけ、それで三人で交際というのは理解の範疇にないが、そこには当人たちの合意がある。
このカルタゴ人たちが何を心配しているにしろ、ラエリウスはマシニッサではなくマゴーネにその関係を聞かされていた。ああ、そうか。だからか。
「これ、マシニッサの身辺調査か何か?」
「それは済んでる」
「あ、そう……」
「おい、俺だってこんな取り調べしたくないんだよ。こいつが!」
マハルバルは、こいつが何なのかまでは言わなかった。やっと黙ったスキピオの肩が震えるのを見たせいだ。
「……ラエリウス」
内心ぎょっとしながら、それを悟られまいとラエリウスはただ視線を向けた。ハンニバルはスキピオが大喜びした顔色の悪さのまま、深く刻んだ眉間の皺を押さえる。
「お前から見てマシニッサはどういう人間だ」
「どう……って言われても……」
「俺の目には、あれがひとりの人間に誠実であり続ける男には見えない。情実にとらわれないが故に、弟のことも簡単に捨てるだろう」
なぜ分かる。決めつけへの反感でなく底冷えのする感覚でラエリウスは胃の澱むのを感じた。マシニッサは確かに彼の弟を、その属する全てごと捨てた。ソフォニスバのことも諦めた。それを選んだと言うなら、選ばせたのは──
「そうかなあ。親の葬式よりも恋人を選びそうじゃないですか?」
ねえ、と首を傾げるスキピオには誰も返事をしなかった。
「……仔馬を、贈ったって言ってた。あいつんちの牧場で世話してて、その馬の話をマシニッサからもマゴーネからも聞く。芦毛のおとなしい馬でたまに会いに行くだけのマゴーネに懐いてて……」
可愛いでしょう、と動画を見せてくるマゴーネに、その贈り物を疎むところはなかった。マシニッサも生き物をひとつ贈って、その世話を自分で請け負っておいて何の見返りを求めるでもない。ただ喜ぶだろうと贈って、幸いにも喜ばれている。それだけの話だ。
「マゴーネがあの馬に会いに行けなくなるのは、気持ちのいい話じゃないな。……あんたはマシニッサに怒ってるのか? マゴーネがマシニッサを選んだことに怒ってる?」
「怒っているわけではない」
「その顔で」
「ふっ……」
スキピオの口を塞ぎ、ラエリウスは肩の力を抜いた。
「今のは俺が悪かった。……じゃあこれって何なんだ? 別れさせたいのかと思ったけど」
「俺たちだってそこまでしないよ」
ハスドゥルバルは馬の話を知っているらしい。兄とその友人のそばに立ったままの、ひと学年上のこの少年は、ラエリウスとあまり関わりがない。
「心配なんだ。だからせめて、マシニッサをよく知ってるお前たちから何か……致命的な話が出てこないことが確認したかった」
「致命的な?」
「まあ、そんなものないのは分かっているんだ、俺も……」
こいつも大変なんだなと、ラエリウスは同情を込めて頷いた。
ラエリウスは、こうやって自分が彼らに気を許すのを受け入れるようになっていた。憎み続け、忌避し続けるというのは、こうして卑近な苦労を背負っている人間として見てしまうと簡単ではないのだ。
というか勝ったのがこちらなのだからそういう余裕があるのも当然こちらであるべきだった。ハンニバルだけは、その余裕を覆す存在なので如何ともし難いが。
「というか、自分に言ってくれなかったのが寂しいんですよね?」
ラエリウスの手を剥がしたスキピオが、いやに明るい目でハンニバルを覗き込む。
「僕も気付かないなあって思ってました。でもみんな、隠してたわけじゃないんですから。拗ねないでください」
いやお前は分かってて黙ってたのかよ──声に出さずとも三者が一斉にそう考えたのが分かった。
ハンニバルは、考えの読めない眼差しで彼の選んだ人間を見据え、無視した。それを拗ねていると思えなくもないことが最悪と言えた。スキピオのせいだ。
薄々感じていたが、日頃好きだ素敵だと言っておきながら、この遠慮のなさは何なのか。些細な矜持を守ってやろうとか一歩引いて踏みこまないでいようとか、笑わないでいてあげようとか、そういうスキピオが他には当たり前に示す配慮がない。まさかいつもこんな風なのだろうか。
ラエリウスは、自分の親友をちょっと誤解していたのかもしれない。
「何にしても直接話さないことにはどうにもなりませんよ」
突然立ち上がったスキピオは、訝しむ者たちの視線を受けながら部屋の隅にあるロッカーの前に立った。
そして勢いよくその扉を開くと、そこには、話題の二人がぎちぎちに押し込められていた。
顔を赤くしたマゴーネが、「熱中症になるかと思った」とよろめき出てくる。マシニッサの方もやや草臥れていた。
ラエリウスはあんぐりと口を開けてしまう。
「は? いつから?」
「今日に限ってマゴーネがマシニッサと登校してきて、ハンニバルは落ち込んでるから、ああバレちゃったんだなあと思って。僕らに話を聞くならどうせこの部屋だろうから詰めといた」
「…………」
「ふたりとも気配消すの上手だね」
兄たちの顔から視線を逸らし、マゴーネは口をへの字に曲げた。スキピオから距離を取るとマシニッサにぶつかり、しかしそこからは動かない、それが寄り添っているように見える。
「困ったブラコン兄弟なんだから。仲直りは早い方がいいですよ」
スキピオはハンニバルらを振り返って、「ねっ」と笑う。それに反応できなかった者たちの代わりにマゴーネが「はあ?」と棘のある声を上げた。
「僕は自覚がありますけど、兄上と兄さんは違うでしょう。何言ってるんだか」
それもなんかずれてるだろう、とラエリウスでさえ思った。
「マゴーネ、なんでそういう風に……」
「さっきの話のどこに仲直り要素があったんですか? 平行線では?」
「心配だって言ったろハスドゥルバルが!」
「だからそれは不穏の種を持ち込むのが嫌なんでしょう」
「お前がスキピオを嫌がるのはそういう理由なのか?」
「いや死ぬほど嫌いだからですけど」
完全に身内の言い争いが始まり、忘れられたラエリウスの肩が叩かれる。
見ればマシニッサが黙って扉を指差していた。音を立てず脱出し時計を確認すると、午後の授業はとっくに始まっている。しかしもう疲れ果てぐったりしていたので、帰ろうと思った。今日はあいつらにもう絡まれたくない。
「マゴーネほっといていいのか」
「もうあれは兄弟の問題だろう」
「それは、そうだな……スキピオは居座る気らしいけど……」
それも完全に面白がるために。何にも覚えていないということは、純粋だということだと、ラエリウスはどこかで信じ切っていた。
マシニッサも授業に出る気がないのか、人気のない廊下を急ぐ様子はない。一体いつからあそこにいたのかと問えば、ラエリウスらがやってくる三十分前には詰められていたという。
「礼を言っておこう」
「ん? 何に?」
「馬の話は効果的だった」
「別にお前を庇おうって気はなかったけど……マゴーネが気の毒だろ、あいつハンニバルとスキピオが一緒にいるの見慣れない頃に吐いてたぞ」
ラエリウスはそれを無視できなかった。それからなんとなく彼の態度が和らいだ気がする。
「昔から優しい男だ、あれは」
「……そういうところが良いって?」
「そうだな。もう誰のために死ぬ必要もないと悟って欲しいものだが、難しそうだ」
「お前は?」
立ち止まったマシニッサが、かつてたった数日だけ妻とした女の亡骸を前にどんな顔をしたか、ラエリウスだけが知っていた。確かにハンニバルの言うとおりの男なのだ。だがいま、マシニッサは何を統べるでも率いるでもない。
マゴーネが祖国以上に兄のために命を使ったこと、マシニッサが王であるために何もかもを賭したことは、ラエリウスがローマに忠実であったこととは絶対に異なっていた。
「そなたも損なほど優しい男らしいな」
薄く笑いそれだけ言って、マシニッサはどこに向かうものかラエリウスの目指すロッカーとは違う方へ歩いて行った。マゴーネを待っていてやるつもりなのかもしれない。
背後で乱暴に扉を開く音がしたのでラエリウスは足を早める。なぜか自分を呼ぶ声がしたが、絶対に振り返らなかった。どうせ明日には勝手に話がまとまってまたちぐはぐな平穏が帰ってくるに決まっているのだ。