一度引き受けたなら、最後まで面倒を見ましょう
マハルバルは、今も昔も父親によってあてがわれることによってハンニバルの友人になった。
歴史をどう紐解いても存在しない時代の記憶は、それを持つ者を程度の差こそあれ縛っている。その記憶についてまともに考えられる年齢になると自らの頭の方を心配し、しかし同じように「覚えている」者たちと出会うことでかの時代の実在を疑わなくなる──それ自体はいいが、記憶の再現に執着し始めると問題だった。
父親であるヒミルコは、ハミルカルの下で働くことに何の疑問も抱いていない。そしてそのハミルカルは、好かれてもいないのにどう口説き落としたのか、以前と同じ妻を持って以前と同じ人数の子供を儲けることに異様に執着していた。実際のところ再現したがっているのは子供の方、それも四人の娘の後に生まれる長男であることは誰の目にも明らかだった。
次男と三男の誕生も望んだあたり他の子供が可愛くないわけではないのだろうが、物心ついて自らの置かれている状況を理解したマハルバルは、どうするものかと思ったものだ。同じ年に生まれ、当たり前のように側に置かれている遊び相手は、何しろ何にも覚えていないのだから。
ハンニバルは幼い頃から周囲の状況をじっと観察する質で、口数もそれほど多くなかった。まったく覚えのない、過去とも未来ともつかない思い出話、初めて会うのに自分をよく知っているかのように振る舞う者たちに対し、何のことかと問わずに耳を傾け目を向けていた。あれは情報を集めていたのだろう。マハルバルがそれに気がついたのは三歳だか四歳だかの頃、大人たちはいっとき騒然としたが、すぐに思い出させる必要はないと結論を出したのだった。
大人たちが意味のわからない言動をしなくなっても、ハンニバルは特に反応を示さなかった。マハルバルは一度だけ、なぜ母上はこの家を出ないと思うと訊かれて困ってしまったが、マゴーネがまだ赤ん坊だからだろうと答えると納得したようだった。
口数が少ないからといってハンニバルは決して大人しい性格ではなく、母親が悲鳴を上げるような遊びに毎日興じ、マハルバルは毎日そのお供をしていた。昔はある程度成長してからの付き合いだったから、無鉄砲で邪気のない、好奇心の旺盛な子供と遊ぶのは純粋に楽しかった。
ひとりぶんの人生を知っているからと言って頭まで大人のままで生まれるはずもなく、子供に付き合ってやっているとは一度も思ったことがない。おろしたての服で水浸しになり、手や膝を擦りむくのも構わず木に登って、勝手に父親の書斎に入り込み万年筆をおもちゃにして壊す、しかし動物を甚振ることも使用人に残酷に振る舞うこともなかった。
「見たくないって言ったんだ」
子供達が揃ってベッドに並べられる昼寝の時間、寝付けないハスドゥルバルはマハルバルに言った。
「テレビで、動物のドキュメンタリーをやってて、象の特集だった。兄上は見たくないって。死ぬところをわざわざ見るのは嫌だって」
一歳差で生まれた兄の寝顔を、ハスドゥルバルは五歳の子供とは思えない眼差しで見下ろしていた。マハルバルは彼の言うことを意外には思わなかった。
「昔もそうだったんだろうか。別にそんなことはなくて、ただ、いまはそう思うだけなのか」
「象が好きなのは同じだもんな」
「うん……」
「そんなこと言われて嫌だったか?」
「ううん」
ハスドゥルバルがハンニバルとマゴーネの間に横になって、目を閉じる。
「兄上はただ好きなようにしてくれればいいんだ」
マゴーネは長兄をずるいと言ったことがあるが、ハスドゥルバルは言わなかった。三人分の寝息が聞こえ始めるまで、マハルバルは彼らを見守っていた。
覚えていないのなら、そっとしておく。この生をただ健やかに思うまま過ごしてくれればいい。それが、周囲の者たちの総意だ。しかしそれはそれとしてマハルバルは時代錯誤の心得を父親から叩き込まれてもいた。
「どうしてお前がついていながらこんなことになるんだ!」
要するに坊ちゃん方をそばでお守りし悪い虫などつかないようにするんだぞ、という、過保護の片棒を担がされる役割である。だからこうなる。
ハミルカルが二日酔いのような顔色で虚空を見ている横で、威勢のいいのはヒミルコだった。応接間のテーブルには非合法に集められたらしい写真が数枚並んでいる。
「どうしてって、言われても……」
その一枚を拾い上げると、スキピオが喜びそうないい写真だった。ふたりが仲睦まじい様子で犬と戯れる様子を切り取っている。どこの犬だろう。
スキピオ。アフリカヌスとかいうおぞましい添え名をいまは持たない、十五歳の少年。マハルバルらと同じ高校に通い、成績優秀かつ周囲の人望を集める、目がちかちかするような存在感を放つ二学年下の後輩。まさかこいつが入学してくるとはと呑気に構えていた間に、なぜか彼らは交際していた。
案外気付くのが遅かったなというのが正直な感想だった。ハスドゥルバルやマゴーネが食事に手をつけられなくなっていたのを見なかったのだろうか。彼らが誰も知らないところで仲を深めそれが明らかになってから、三ヶ月ほど経っている。
「高校生なんだから彼氏とか彼女とかできてもいいだろ」
「ローマ人だぞ!」
「ローマなんかどこにもないよ……カルタゴもだけど」
「マハルバル!」
気色ばむ父親にマハルバルは白けた気分になる。マハルバルとて当然、ハンニバルにこれがくっついているのを歓迎はしていない。他にもっと選ぶ余地があっただろ、どういう趣味してんだ、と直接言った。
「大体親父もハミルカル様もこいつに直接何かされたわけじゃないんだから……」
「我が子の仇だ」
「ハンニバルを死なせたのはスキピオじゃないんだろ。カルタゴを滅ぼしたのもこいつじゃない」
書物を紐解けど土を掘ってみれど、彼らの記憶の痕跡はどこにもない。だから自分の死んだ後のことは、それを知るものから伝え聞くほかなかった。
「この男が……」
ようやっと口を開いたハミルカルは、写真を見るのも堪え難いというようにまだ虚空を見ている。
「何も覚えていない、というのは事実か」
「事実です。スキピオの幼馴染や弟に確認したので間違いありません」
「その者たちが欺かれている可能性は」
「ないでしょう。ハンニバルが俺たちを騙しているくらいにはあり得ない」
計略があって近づいたわけではない。それが、ハミルカルの気をさらに重くしているらしい。
ハミルカルが仕事にかまけて家を空けている間に、スキピオはバルカ邸に出入りするようになっていた。彼らが鉢合わせするのは時間の問題であり、実際にそれが起こったわけだが、ハミルカルはまずローマ人が自邸にいることに驚愕、その直後それが長男の客と知って思考が止まり、その隙をついてハスドゥルバルとマゴーネが表に回させていた車に押し込まれたらしい。
ハンニバルの周囲の人間を全て調べ上げているのだから、生徒の中にかつてローマ人であった者が相当数いることも、スキピオが入学したこともハミルカルは知っていた。だがまさか関わり合いにはなるまいと、思い込んでいたのだ。
まだあの誓いがいまも続いているかのように。
「ハミルカル様」
この父親の執着は、恨みが先なのか、愛情が先なのか、マハルバルには分からなかった。だがハミルカルはその社会の裏表に及ぼしている影響力を行使してスキピオを排除するより先に、こうして一応の冷静さを取り戻してマハルバルを呼び出した。ヒミルコや部下のハスドゥルバル相手にどんな荒れ方をしたのかは知らないが、頭を過ったはずだ。
ハンニバルは最近、幼い頃には素直に受け取っていた父親の過剰な愛情と干渉に冷ややかな目をするようになっていた。
「交際に反対したら、いま以上にハンニバルに鬱陶しがられますよ」
というか、この父親は平穏に後輩と付き合ってるだけの長男に構っている場合ではない。
長女の結婚を契機にとうとう家を出てしまった妻や、かつてと同じハスドゥルバル相手の婚約に唾を吐いて「お前がこいつと再婚しろ」との父親への置き手紙を残し出奔した次女という問題が、ますますハンニバルの気持ちを父親から離れさせている。
ハミルカルは、刻み付けられている眉間の皺をさらに深め、もう何も言わなかった。
スキピオには遠慮というものがない。
ハンニバルの周囲が自分を歓迎していないことを理解していながら、ならば関わり合いにはなるまいとは思わないらしい。
「先輩、ひとりでごはんですか?」
にこにこと。人懐っこい笑顔を浮かべて、当たり前のように向かいの席にトレーを置いたスキピオに、マハルバルは周囲を見渡した。混雑するカフェテリアにはスキピオの同級生がいくらか、しかし親しい人間はいないようだった。
「いつもの人たちは?」
「さあ。別に毎日約束してるわけじゃないから」
「いいですね、さっぱりしてて。先輩のそういうところがハンニバルも好きなんだろうな」
マハルバル相手に気まずさをひとつも感じさせない振る舞いは、生まれ持ったものか培ったものか、いずれにせよ不愉快ではなかった。マゴーネなどはスキピオのこういうところがいちばん嫌いで、気味が悪いと言うが。
サンドイッチが二切れにスープ、それきりの食事をスキピオはゆっくり進めた。彼が座った時点であらかた食べ終えていたマハルバルは席を立ってもよかった。そうしないで見た目通り食が細いらしい後輩の前に留まったのは、ハミルカルと父親との会話を思い出したからだ。
観察と報告。それがマハルバルに改めて課せられた仕事だった。最も重要なタイミングでの報告を怠った人間に何を期待しようと言うのか。
「ハンニバル、風邪って嘘ですか?」
「嘘だよ。雨だし寒いからだるいんだろ」
「気分的に?」
「気分的に」
成績優秀はスキピオと同じだが、ハンニバルは彼ほど品行方正ではなかった。気が乗らないとこうして学校を休むし、卒業とその後の進路に影響がないところを見極めて手を抜く。
「いつも先輩が風邪ってことにしてあげたり出された課題を教えてあげたりしてるんですね」
じきに悪い影響がこいつにも出るだろうな、とマハルバルは思った。ハンニバルに誘われてしまえば学校を抜け出して遊びにも出るだろう。
秋学期が終わりに近づき、既に大学入学資格の取得を終え、ハンニバルの進学について心配する者は誰もいなかった。しかしスキピオは入学して四ヶ月ほど、来年には──ここまで考えて、マハルバルはぐっと顔を顰める。自分は、こいつらの付き合いが続くと当たり前に思っているのか。
入学から一ヶ月足らずの間に彼らに何がありいまに至るのか、正確なところを誰も知らない。誰もそんな話は聞きたがらないし、マハルバルもそうだったが、分かっているのはこれがほんの序の口、始まりに過ぎないということだ。
「先輩って、小さな頃からハンニバルと一緒なんですよね」
「そうだけど」
「このあいだ、ハンニバルのお父様に会ったんです」
それが本題と分かると、なんだか、マハルバルの方は気が抜けた。
スキピオがきょとんとして、ため息をつく相手の顔を覗き込む。
「マゴーネたちが連れて行っちゃって挨拶もできなかったんですけど、凄い顔してたなって……」
「そりゃ、溺愛してる息子に彼氏ができりゃ、ショックも受けるよ」
「溺愛ですか。やっぱり」
「お前んとこも似たような感じだろ、父親はショック受けてないのか」
「紹介してません、ルキウスがやめろって言うから。……先輩、とりなしてくださったんでしょう」
笑みを引っ込めてこちらを見つめる澄んだ目、その底を読むにはマハルバルには色々と足りなかった。
「なんで俺が?」
「ハスドゥルバルやマゴーネにはそうする義理がないし、他の先輩方は距離感があなたと違う。いままで僕に何事もないのは……先輩のおかげでは?」
「違うよ。というか俺たちをなんだと思ってる? マフィアか?」
「それより怖いものかと」
「よくそれであいつと付き合おうと思ったな……」
「だってハンニバルはハンニバルで、あの人はあなたたちより強いもの。たぶんお父様よりも」
「まあ、それはそうだ」
ちらほらとカフェテリアから生徒たちが去り、騒がしさが収まり始めていた。次の授業に向かおうかと荷物をまとめたマハルバルの手元に影が落ちる。
マゴーネがひどく不満げに幼い子のような顔で向かい合って座る者たちを見下ろしていた。
「なんで仲良くしてるんですか?」
してないと言いかけ、マゴーネの後ろに立つ少年が目につく。重ねられた二人分のトレーを持って、それが全く似合わない後輩は、ある意味ではスキピオ以上にマハルバルにとって警戒の対象だった。
「お前こそなんで王子といるんだ」
「王子? 何ですそれ」
「女子がそう呼んでるだろ。ぶっ殺すんじゃなかったのか?」
「次にカッとなったらやります」
スキピオを見ながらの一言を吐き捨て、マゴーネは足早にカフェテリアを横切っていく。マシニッサが去り際に寄越した目礼が、ついさっき摂った食事以上に重く胃に落ちた。
予鈴がどうしてか遠く聞こえる。マハルバルの脳裏に去来するのは、歳の近い兄たち、少し歳の離れた姉たちが、末子をどれほど可愛がってきたか、母親の鍾愛が切実なまでものであること、いつまでもいつまでも彼を幼子のように見ている家族の姿だった。
「大変ですね、先輩も」
憐憫に満ちた微笑みだけ残してスキピオが立ち去るのを、後ろから蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、マハルバルはどうにか踏みとどまった。仲良くなったんだなと呑気に感想を述べるハンニバルの姿が容易に想像できたのだ。
しかしこれも、父親たちが自力で察するまで黙っていればいい。ハミルカルと同じ顔をするであろうハンニバルのことも、マハルバルはこの時だけは忘れることにした。