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ちいさくてかわいいやつ

「ラエリウスから変なメールが来てる」
 ルキウスがそう言い出したのは、電車に乗り込みボックス席に落ち着いてすぐだった。
 気味悪げな顔をしてパウルスにスマートフォンを寄越してくるので、嫌々ながらそれを受け取る。話さなきゃいけないことがあるから、家に帰る前にラエリウスの家に寄れという内容だった。時間が分かれば駅まで迎えに行くからともある。
 確かに変なメールだった。肝心の用件を先に伝えないのはラエリウスらしくない。
 通う中学校で二年生の恒例行事となっている登山学習の帰り、朝早くからの遠出のうえ既に十七時近くで、ルキウスもパウルスも疲れていた。こんなメールについて考えるのにうんざりするくらいには。
 スマートフォンを受け取ったルキウスはパウルス以上に体力がないので萎れてさえ見える。
「こういうの、絶対に兄上の話なんだよ。いつもそうなんだ」
「何かやらしかしたのか」
「どうかな。兄上に何かあったんなら、電話がかかってくると思う」
 昔と変わらずスキピオの親友であるラエリウスは、ルキウスやパウルスにとっても良き友人だったが、やはり兄の友人という立場の方が強かった。スキピオの身辺に変化があるとこうして報告を寄越してくるのだ。
「パウルス、一緒に来て」
「いやだ。巻き込まれたくない」
「他人事みたいに! パウルスも兄上の弟なんだから来てよ!」
「姉さんはもうスキピオと結婚する気ないから……」
 ほんの幼い頃には互いの親が完全にそのつもりで扱ってもいたが、スキピオに昔の記憶がないと分かったことで立ち消えていた。パウルスの目には、姉とスキピオはそこそこ仲のいい幼馴染程度にしか見えない。
 往生際悪く肩に寄りかかってくるルキウスを押し戻そうとした時だった。隣の車両から移ってきた二人連れが近づいてきたので、乗客のまばらな車内ではあったがパウルスは向かいの席に放り出していた二人分の荷物を引き寄せた。
 一人がその空いた通路側の席に座る。なんとなく嫌な感じがして、パウルスは目を合わせないようにしたものの、通路と座席の間を塞ぐように立ったもう一人が唐突に言った。
「スキピオか?」
 若い声で、制服を着ていた。高校生だろう。ルキウスがぎょっとして見上げてしまったので、パウルスは無視するのを諦め彼を見た。赤みの強い茶髪の、一見すると人好きのする容貌の少年だった。
「ルキウス・コルネリウス・スキピオ……アシアティクス? 合ってるよな?」
 咄嗟に、ルキウスはパウルスの上着を掴む。そのルキウスを座席の奥に背で隠したパウルスを見て、少年はわざとらしく両手を掲げて見せた。何もしない、と。
「ただ訊きたいことがあるんだが、面倒を避けたくてな」
 彼らの着ているのが兄と同じ高校の制服であると気付いて、ルキウスの緊張はますます酷くなった。ラエリウスが教えてくれたことには、その学校にはかつてカルタゴ人と呼ばれた者たちが少なからず通っている。しかし互いに目の敵にするでもなく日常の平穏を保っていると、入学間もなくそう言っていた彼は、ルキウスに何の話をしようとしているのだろう。
「分かってるだろうけどお前の兄貴のことだ。あいつ、本当に何も覚えてないのか?」
 笑ってはいるが、目の奥に明らかな敵意があった。座っている方は先ほどから苛立ちを露わにこちらを睨みつけており、こちらに注意を払うべきかとパウルスは眉を寄せた。
「どうしてお前たちに教えてやらないといけない? 勝手に調べればいい」
 そう吐き捨てたパウルスに、「お前に聞いてないだろ」と言ったのはやはりそちらの少年だった。
「こいつ本当に弟か? 見てるとイライラする」
「マゴ、そういうこと言うならついてくるなよ。どう見ても兄弟だろ」
「従兄弟も似たような顔してた」
「髪と目の色だけ見て言ってる?」
 ナシカのことを言っている、彼はスキピオとは違う高校に進学したのに──彼らは自分や、その家族のことも知っているかもしれない。そう察した途端に背筋を貫くような怒りを覚えた。
「覚えてない」
 まだ声変わりしていない高い声が、パウルスの後ろから響いた。
「何も覚えてない。兄上は何も知らない」
「……疑ったことは?」
「ないよ。絶対に何も覚えてない」
 きっぱりと言い切ったルキウスを、少年らは僅かの間品定めするように眺めていた。その明らかにこちらを軽んじた、まるで同じ生き物とも思っていないような顔が、ころりと少年らしい表情を乗せる。
「それならいいんだ。悪かったな」
 ちょうど列車が停車駅に入り、彼らはそこで降りて行った。
 ふたたび列車が走り出すと、ルキウスがパウルスにしがみついた。体に回された両腕の震えが、パウルスに平静を取り戻させる。
「どうしよう……」
 ついさっき見せた態度など消え失せて、ルキウスはもう涙声になってしまっていた。
「どうしよう、兄上が」
「今すぐ何かしようって風には見えなかった、落ち着け」
「落ち着けない! 何なんだあいつら負け犬のくせに!」
 あまりにも正直な物言いにパウルスはただ頷き、ルキウスにラエリウスへの返事を送るよう促した。ルキウス自身が言った通り、スキピオの身が危ういのならばこんな悠長なメールが送られてくるはずがない。
 たった三駅の距離をひどく長く感じた。ルキウスに急かされながらホームに降り改札を通ると、駅舎の柱のそばにラエリウスの姿が見えた。
 そこでパウルスは足を止めた。ルキウスがラエリウスに駆け寄りその勢いのまま飛び付いてよろめかせているのを、実際よりもずっと遠くに見ている気がした。彼らの傍らに立っていた父が、こちらに気がついて片手を挙げた。
「──おかえり」
 そう言われても足は動かず、あれこれ捲し立てるルキウスを宥めていたラエリウスもこちらを見る。戸惑う父より先に彼がこちらに近寄ってきて、改札から出る人の流れを邪魔していたパウルスの手を引いた。
「どうした?」
「…………」
「パウルス、顔が真っ青だぞ」
「ラエリウス! マゴとあと誰か知らないけどカルタゴ人が兄上のこと聞いてきたんだけどあれなに、あいつらのこと知ってるの!?」
「は?」
 我慢が効かなくなったルキウスが一息に言い、空気が抜けたように肩を落とした。しゃくり上げ始めたルキウスと黙り込んだパウルスを見比べ、ラエリウスはおおよその事態を把握したらしい。
 彼が慌てる素振りを見せずしまったという風に困り顔になったので、やはり大したことではないのだ。そう無理矢理呑み込み、パウルスは細く息を吸って、吐いた。傍らの父を見上げる。
「父上、どうしてここに?」
「どうしてって……今日は校外学習だと言っていたから、迎えに来たんじゃないか」
 メールを送ったろうと言われ、見てみれば確かに届いていた。まったく気付かなかった。
 父は困ったように眉を下げていたが、仕事がこんなに早く終わるはずがないのに切り上げてきたのなら、姉が頼んだのだろう。昔と同じく母を早くに亡くして、姉はいくらいらないと言っても弟に対して母親代わりのような振る舞いをする。
 ラエリウスに宥められているルキウスの様子に、先ほどの発言を思い返したのだろう、パウルスを見下ろした父の顔は憂鬱げに曇った。
「大丈夫なのか?」
「うん、スキピオなら大丈夫だと思う。ラエリウス、そうだろう?」
「──えっ? スキピオ? あいつは全然、もう、大丈夫っていうか、こっちが大丈夫じゃないだけで……いやお前、いまの……」
「ルキウスに話って何だったんだ」
「……ここで話すのはちょっとな」
 ラエリウスが気遣わしげにしたのが父に対してであったので、パウルスはここで別れるのがいいだろうと父に言いかけ、その視線がよそに向いているのを目で追いかける。隣からげっと声が上がった。
「みんな揃ってどうしたの?」
 当のスキピオがそこに立っていた。学校帰りだろう、小走りに近づいてきたスキピオはパウルスの父に親しみのこもった笑みを向ける。
「お久しぶりです、おじさま」
「ああ……おかえり。ひとりかい」
「だってガイウスがさっさと帰っちゃうから。──ルキウス?」
 兄の登場に慌てて袖で擦った目元を赤くさせて、ルキウスはまたパウルスの背に隠れた。覗き込んでくるスキピオを避けようとするルキウスに服を引っ張られ、さらに追いかけてくるスキピオをまたルキウスが避け、されるがままぐるぐるその場を回っていたパウルスの肩を、後ろから父が捕まえた。
 親子の間で小さくなっているルキウスに、スキピオが手を伸ばす。
「ルキウス、こっち見てごらん」
「いや」
「いやじゃなくて、顔を見せてごらん。どうして泣いてるの」
 ちらとこちらを見たスキピオの目は、完全に据わっている。パウルスはぎゅっと口を一文字に引き結んだ。あの二人組の話をスキピオにしてもいいものか、パウルスには判断がつかない。
「怖いことがあった?」
 それは確かにそうだが、ルキウスは兄を案じて泣いているのだ。
「スキピオ、そのへんにしてやれよ。兄弟でも話したくないことくらいあるだろ」
「ルキウスにはないよ」
「あるだろ……。ああそうだ、ルキウスは今日うちに泊まるから」
 スキピオはきょとんとして親友を見た。先ほどまでの凄みは消えたものの、まったく意味が分からないというその顔はパウルスには珍しく思えた。
 な、と笑いかけられてルキウスはこくこくと頷いた。しかし一体何の話をするつもりなのかという不安がその顔に過ぎる。
「ラエリウス、私も行く」
「え?」
 頭上から父の声が降ってきたが、パウルスは背中に張り付いているルキウスを連れてラエリウスのそばに立った。後から聞けるにしても、こんな中途半端な状態で放り出されるのでは気になって仕方がない。ラエリウスはパウルスとその父親を交互に見て片頬を引き攣らせる。
「でもお前、親父さんがせっかく迎えに……」
「別に私まで泊まる気はない。父上はスキピオと帰ってください」
「ルキウス?」
「夕飯は帰ってから食べるので。行こう、ふたりとも」
 ぐっとラエリウスの背を押して、何か言いかけていた父を置いてその場を離れた。ややあって、「……行きましょうか?」とスキピオがなんだか申し訳なさげな声を父にかけるのが聞こえた。
 駅舎を出たあたりでラエリウスが本当にいいのかとまた尋ねる。姉には連絡しておけば大丈夫と答えると肩を落としていた。
「まあ……いいか。パウルスにも話すつもりではあったし」
「結局何の話なんだ。スキピオが無自覚に喧嘩を売って揉めてる?」
「ある意味ではそうだな。三年にハンニバルがいるって話したろ、何も覚えてないらしいって」
「それってほんとなの?」
 ルキウスが不安げに問うのには首肯し、つまりはハンニバルとスキピオという、単体でも手の負えない嵐の目が学校という狭い場所に揃い、どちらも過去を知らないのだとラエリウスは改めて整理した。彼を間に挟んで中学生たちが訝しむのに遠い目をして。
「家に着いてから話すよ。二人も担いで歩けないから」
 それがまったく大袈裟でない、むしろ控えめな物言いだったことを、彼らはすぐに思い知らされることになった。

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