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いかづちと踊る

 雨粒が間隙なく窓に叩きつけられていた。分厚い雲に空が覆われ廊下は薄暗く、スキピオが窓の外を見上げるのと同時に閃光が走る。さほど間をおかずに空気を震わせた轟音、いっそう強まる雨足に、やはりしばらく学校に残っていた方がいいだろうと思う。
 その日の最後の授業を終えて荷物を携えていたが、リュックの中の折り畳み傘では駅までの道のりはどうにもなるまい。そっくり同じ時間割を組んでいるわけではない友人は、一時間半前には学校を出たはずだが、無事帰り着いただろうか。
 また空が光る。校舎を繋ぐ渡り廊下がびりびりと震えた気がして、スキピオは止めていた足を先へ進めた。薄暗い廊下からは図書館の窓から漏れる光がいっそう明るく見える。
 この高校に進学を決めた理由の一つである充実した施設の中でも、図書館はそれこそ入学前からスキピオの気に入りの場所だった。雨が止むか、もう少しましになるまで、そこで課題を片付けてしまうつもりだ。同じように考えたのだろう生徒たちがいつもより多く机を埋めていた。
 いつもスキピオの座る席は、書架の奥に隠れるように置かれている。陽光の届かない位置で、キャレルデスクと呼ばれるパネルで区切られた机は、友人とひそひそ話をしにここを訪れる生徒を寄せ付けない。入学してすぐにそこを見つけて自分の場所と決めてしまっていた。
 しかし、やはりと言うべきか、この日は先客がいた。
 上級生だろう少年が、頭上のランプをつけて文庫本を広げている。少しばかり残念に思ったが、同じタイプの席は他にもあった。読書を邪魔する前にそばを離れようとし、しかしふと、その背中に見覚えがある気がした。
 この高校には、名の知れた生徒というのがいる。
 半月前、入学式のあと新入生向けのオリエンテーションのため移動していたスキピオのすぐそばで、突然廊下の窓ガラスを叩き割った新入生がいた。そのうえ他の生徒に殴りかかったのでその場は騒然となりかけ、女子生徒がひっと悲鳴を上げるのも聞いたが、上級生が数人駆けつけてきたのを見て誰もが口を閉じた。
 ガラスの破片で手を傷つけた同級生が彼らに連れられて行ったあと、放っておかれた殴られた生徒にはラエリウスが駆け寄った。
 あの時の、上級生のひとりだ。後から聞いたところによるとガラスを割った生徒の兄で、その騒動がなんら処罰なく説明もなかったのは、彼ら兄弟の父親が学校に行っている寄付の額が尋常ではないためらしい。
 ハンニバル・バルカ。何故か訳知り顔でラエリウスが教えてくれた名を、スキピオはよく覚えていた。
「どちらが気になる?」
 えっ、とスキピオが我にかえると、ハンニバルがこちらを振り向いていた。強い印象を残す紫の瞳は、スキピオの同級生である彼の弟のものよりいくらか淡い色をしている。
「この席と、この本と」
 潜められた声はまっすぐ耳に入ってくる。邪魔をすまいと思ったところだったのに、どうやらじっと見つめてしまっていたらしい。
 ハンニバルが栞を挟んで閉じたのは、スキピオが貸し出しの順番待ちをしていた書籍だった。数十年前に翻訳されたきりだった長編小説が新たな訳で刊行されるというので、幼い頃にシリーズを夢中で読んだ思い出のあるスキピオは楽しみにしていた。誰が真っ先に借りたのだろうと思っていたのだ。
「……どちら、というか、あなたが」
 本の表紙に目を落としながらそんなことが口からこぼれ落ちた。
「そうか」
 驚くでもなくむしろその言葉で関心を失ったようにハンニバルが立ち上がる。荷物を手にした彼が自分に席を譲ろうとしていることに気がついて、スキピオは軽く息をついた。
「……僕が横取りしていたんですね?」
 ここは彼の定位置だったのだ。そんなこととは知らず新入生がうきうきと自分の場所と決めてしまって、困っていたのかもしれない。
「横取りも何もない、空いていれば座ればいい」
「でも、僕が他のところに行きますから」
「もう帰るところだ、雨もじき止む」
 ここは外から音が入らず、スマートフォンなどを見る様子もないのに、なぜ分かるのだろう。書架の間を通り抜けていく長身をスキピオの足は追いかけていた。
 そう、背が高い人だと思った。それが最初の印象で、次に、よく似た兄弟だと。ラエリウスが冗談半分に恐ろしげに語った噂よりも、弟の手が血を流しているのを見て浮かべた苦々しさの方がよほど確かだった。
 正面口から図書館を出ると、視界が眩むような光が目を刺した。
「本当に晴れてる……」
 ぱらぱらとまばらに雨粒が落ちてはいたが、雲は流れ去ろうとしていた。雲間から陽光が薄衣のように幾重にも落ちている。先ほどよりずっと遠くで雷鳴が聞こえたが、それもじきに途絶えるだろう。あちこちにできた水溜りが明るくなる空を映していた。
 ついてきた下級生を置いて帰路に着こうとしていたハンニバルが、数歩の距離を戻ってくる。スキピオは自分の頬に伸ばされた手をぼんやりと視界に入れていた。
 ひんやりした手の甲が頬に軽く触れ、離れる。スキピオには馴染みのある仕草だった。
「すぐに帰った方がいいな」
「え?」
「今晩にでも熱を出しそうな顔色だ」
 スキピオの返事を待たずに、彼は今度こそ背を向けてもう振り返らなかった。スキピオはその日の晩から丸二日にわたって熱を出した。


 マシニッサは、会いたかったと言った。それを聞いた途端にマゴーネの腕が振り上げられたのを、スキピオは確かに見ていた。
 彼らに面識はなかった、と言う。それが本当のことかどうかはともかく、マゴーネからの徹底的な無視をそよ風のようにいなしながらマシニッサは時折彼に声をかけていた。同じ授業を取っている彼らが見た目だけは共に教室を移るのを、スキピオは窓際の席から眺めていた。
「まだしんどいのか?」
 ラエリウスがそう声をかけて来てやっと、自分も立ち上がる。彼らは次に舞台芸術の授業を取っていた。いまのところ様々なジャンルの演劇やミュージカルを観賞し感想を交わすのに終始している。
「ルキウスも先週寝込んでたろ」
「うん、環境が変わるとだめだね。小さい頃ほどじゃないけど」
 あの日雨に降られたのかと問われて、そうではないのだけれどと曖昧に答えた。
 大勢の生徒がそれぞれの予定に従って行き交う廊下をすり抜ける足取りは慣れたものだ。さほど迷わず履修する科目を決め時間割を組んでしまったスキピオは、気分の上では安定していた。高校生活の足場のようなものが出来上がって、図書館など気に入りの場所も見つけ、それなのに身体だけがびっくりしてしまうのだから、我ながら困ったものだった。
 小ホールにはそれなりの人数の生徒がすでに入っていた。学年を問わない内容のせいもあるだろう、あるいは課題や講読のある授業よりずっと楽という評判のおかげか。
 入り口のあたりで部屋を見回していたスキピオたちを、席を確保していたクラッスス・ディウェスが立ち上がって手招く。ディウェスとは入学式で初めて顔を合わせて以来気が合ってよく行動を共にしていた。
 やや後方の席に落ち着くなり、ディウェスがスキピオの顔を覗き込む。
「風邪だったんだって? 心配したよ、もういいのかい」
「よくあるんだ、僕の友達はみんなすぐ慣れるよ」
「どうかな。心配なのは変わりないよ。なあラエリウス?」
 ラエリウスは肩を竦めて答えなかったが、今朝はスキピオを家まで迎えに来てくれた。家が近くだから登校はいつも一緒とはいえ、駅までの道で合流するのがいつもの流れなのに。
 にっこりと目を細めるスキピオに、ディウェスもにんまり笑ってラエリウスをつついたが、軽く払われていた。
 時間より少し遅れて教師がやってきて、前置きもそこそこに照明が落とされる。すでに寝る体勢に入っている者、ノートを広げている者などがこの席からはよく見えた。上映されるのは前回からの続き、数世紀前の悲劇を元にした舞台だった。
 舞台には王に扮する男が一人きり、惑い、嘆き、恐れる演技が彼の周囲を取り巻く惨憺たる有様を浮き彫りにする構成だった。映像で観るよりも舞台を直接観てみたいというのがスキピオの今のところの感想である。
「ホールの音響とかの設備もあそこの寄付なんだってよ。エレベーターの増設に始まり……」
 難解な一人芝居が退屈なのだろう、ラエリウスがぼそぼそと言う。ディウェスはふっと、嘲るような調子で鼻を鳴らした。
「寄付ならうちも張り切ってるからね」
「おう、自販機全部タダにしてくれ」
「買って欲しいものがあるならおねだりすれば買ってあげるよ?」
「やなやつ……」
 原案となった悲劇をスキピオは読んだが、この舞台を作った人物は優しいのだろうと感じていた。現代の観客は、王の精神を形容する言葉をいくつか持っている。だが王にはその言葉がない。
 幻覚とも亡霊とも、あるいは生きた人間とも分からないものたちに追い詰められていく男は舞台の上に生きている。
「王なんか持つもんじゃないな」
 そう呟いたのはどちらの友人だったか、彼らが口にした感想は結局それきりだった。


 図書館のカウンターで受け取った文庫本を、スキピオはしげしげと眺めた。真新しい本は角が折れることも汚れることもなく期日通りに返却され、あの栞も挟まっていなかった。
 昼休みに昼食よりも先にこちらを急いだのは、もしかするとそれを確かめるためだったかもしれない。
 図書館を出て、ラエリウスたちが待つカフェテリアへ向かおうとした。途中までは確かにそのつもりだった。図書館とカフェテリアは敷地の真反対に位置するのでゆっくり食事をしようと思えば急がなければならない。しかし、開校時に建てられいまは特別な行事にしか使われない旧講堂のそばを通り抜けようとしたとき、あの姿を目にした。
 講堂のファサード、入口へ続く十段ほどの階段に日陰を選んで座っているハンニバルは、足元の何かに手を伸ばしていた。彼はひとりで、食事をしている様子ではない。
 彼が顔を上げると同時に、その足元から小さな猫がまっすぐスキピオの方へ駆け寄ってくる。高く、しかし嗄れた鳴き声を上げながら、子猫はズボンに爪を立てて勢いよくスキピオの脚を登り始めた。
「わ、ちょっと待って、どうしたの」
 生来、動物には好かれる質だ。近所で飼われている猛犬もスキピオが手を伸ばすと子犬のように腹を見せる。だからこうしてまとわり付かれるのも慣れているのだが、どうにも、見られているという気恥ずかしさのようなものが邪魔してうまく捕まえられなかった。
 背中にぶら下がった子猫を、うまく爪を外させてハンニバルが剥がした。そのまま手渡され、ふわふわと暖かい体を抱く。
「ああびっくりした……野良ですよね、この子」
「そうらしい」
「バルカ先輩のお友達ですか?」
「いや、いまさっき初めて会った」
 本能に訴えかける愛らしい青い目に見つめられて、ハンニバルの顔色はまったく変わらない。しかし興味がないわけではないのだろう、さっきだってじゃらしていた。
「母親がそばにいればいいですけど、痩せてますね。里親を探した方がいいだろうな……」
「愛護活動のサークルがあるだろう、そこに任せればいい」
「なるほど」
 文庫本を持っているせいでうまく捕まえておけず、子猫がまたスキピオの肩に登り始める。ハンニバルがその、骨の感触の目立つ背中を撫でた。
 そしてふと、スキピオの持つ本の表紙に気がついたようだった。図書館には、利用者の情報を守る義務がある。だからスキピオが彼の返却を待っていたとは知るはずもない。けれどやはりという感じで頷かれて、手から本がずり落ちそうになった。
「体調は?」
「はいっ? あ、体調……あのあと熱が出ました、先輩のおっしゃった通り。でももうすっかり」
「そうか」
「はい。ありがとうございます……」
 肩に落ち着いた子猫の高い体温のせいか、指先までぽかぽかしてきていた。落ち着かない。
「この小説、以前の訳だと抜けがあるって聞いたんですが、どうでしたか」
 確かにそのような箇所があったと答えながら、子猫の耳元を指先で擽る。歪みのない長い指を視界から外し、結局原語で読まないと云々と、口だけがどうでもいいことを喋り続けていた。
「小さい頃このシリーズが好きで、父に全巻を揃えてもらったんです。当時すでに絶版になっている巻もあったので揃えるのに苦労したはずですがそんなこと知らなくて。でも周りに好きだって友達はいなかった。先輩は……」
「似たようなものだ」
「……弟さんたちも、読まなかったですか」
「はじめだけ読んで二度と開かなかった」
「もったいないなあ」
 彼の弟がふたり、同じ学校に通っている。名門校として名の知れるこの学校に揃って入学できるというのも、彼らを名の知れた存在にしている一因だった。
 マゴーネは一度もスキピオと口を利いたことがない。何かのついでに話しかけたことがあったが、ラエリウスが間に入ってきて有耶無耶になってしまった。彼の手から包帯が取れてよかった、とは、だから言わない方がいい気がした。
「先輩、ご存知だと思うんですが、このシリーズの展覧会が、近くの美術館で開かれてて」
 架空の世界を舞台とした、数世代にわたる物語は、その設定の精緻さから各国のファンがほとんど研究と言っていい考察を繰り返していた。その極致と言っていい、架空の世界を現実のものと見做して「考古物や遺物」を展示する展覧会が、新訳の刊行開始と時を同じくして開かれている。
 ハンニバルはそれを知らなかったらしい。猫を見ていた紫の眼がスキピオの方を向く。
「誰も一緒に行ってくれないからひとりで行こうと思ってたんです、でも……話の分かる人と見られたら、楽しそうだなって……」
「いつまでだ?」
「会期は、えっと、来月末だったかな」
 すっかりおとなしくなった子猫はどうやら寝始めたらしい。片手でそれを支えながら、はたとスキピオは重大な見落としに気がついた。自分は果たして自己紹介というものを彼にしただろうか。
「土曜なら都合がつきやすい」
 言って、ハンニバルがスマートフォンを取り出し、スキピオの手から本を取り上げる。メッセージアプリの連絡先追加画面が差し出され、慌てて空いた手でスキピオも同じ画面を開いた。
「メッセージ送りますね、今更ですが僕の名前は──」
「スキピオだろう」
「……どうして?」
 スキピオが間の抜けた声を出すと、彼は、たぶん笑った。
「お前も俺の名前を知っていただろう」
 そういうものだ、とこともなげに言う。先輩などと呼ばなくともいいと、やはり大したことではないように言って、猫を任せていいかと本を返されスキピオは頷いた。愛護活動サークルの部屋の場所がメッセージで飛んでくる。
 一覧に増えたアイコンは遠くから撮った象の画像だった。


 十月に入り、すっかり秋らしくなった空はよく晴れていた。家の最寄駅から乗り換えを一度挟んで一時間弱、美術館をすぐそばに臨む駅にスキピオは降り立っていた。
 待ち合わせは午前十時、まだ二十分近くあったが、なんとなくの予感がして駅前の広場を見回す。極彩色のオブジェがいくつか置かれた広場には、それを目印に待ちあわせる人がちらほらといた。ひとりで突っ立っていると声をかけられやすいスキピオとしては、予感が当たる方がいい。果たして、広場を一巡した視線をまた巡らせようとしたとき、待ち人は改札とは反対の方向から現れた。
 ハンニバルはすぐにスキピオの姿を認め、わずかに足を早めた。見慣れた学校指定のものではないシャツとジャケットを着た姿は、一見して高校生には見えない。
「待たせたか」
「いいえ、まったく。先輩こそ……いま駅ビルの方から?」
「いや……気にするな、撒けたはずだ」
 何を? 首を傾げるスキピオにハンニバルは答えず、彼らはそのまま美術館に向かった。
 土曜とはいえ、有名な画家の展覧会のようには混み合っていない。オンラインチケットはハンニバルがスキピオの分まで用意してくれていて、どのタイミングで精算すべきかが若干スキピオの思考を圧迫していた。
 展示は、時系列順になっていた。第一巻から外伝までの流れを追うのを、まるで時代の変遷を紹介するようにさまざまな趣向が凝らされている。全て嘘なのだが、読者にはどういう嘘なのか分かるので面白い。
 ハンニバル終始無言だったが、解説をしっかりと読み込むタイプらしく、スキピオを置いてさっさと順路を進んでしまうこともなかった。第一部の主人公が命を落とした会戦の古戦場から発掘された、という体で古びた加工を施された武具には、納得のいかないところがあるのだろう、首を傾げていた。
 美術館の建物はそれ自体が著名な建築家の作品であり、構造が入り組んでいる。複雑な順路の途中で椅子を備えた休憩所を兼ねた空間に出た。
 空調の効いた館内で歩き回っているとやや暑く、カーディガンを脱いで抱える。季節の変わり目は特に心配症になる母に出掛け際に薄手のものと取り替えられた厚手のカーディガンだった。
「これだと、見終わったらちょうどお昼時ですね」
 椅子に置かれた図録の見本を捲っていたハンニバルの隣に腰掛ける。目を上げないまま何が食べたいと尋ねられ、弟のいる人らしいなと思った。この人はどんなものを食べるのだろう。学校でもカフェテリアではあまり見かけず、飲み食いする姿を見たことがない。
 図録には詳細な年表が載せられていた。それを辿るハンニバルの視線を追いかける。
「昔、これが本当にあった話じゃないってどうして分かるのって訊いて父を困らせました」
 どうしても何も、フィクションとして作家が書いているのだからと、父は優しく説明してくれたが、幼いスキピオにはそれでは証拠にならないと思われてならなかった。
 歴史というものと物語の違いが子供には分からなかったのだ。こうして、嘘と現実の境を曖昧にする試みを前にすると、却ってその線がはっきりと見えたが。
「本当と嘘の違いが当たり前に分かる大人からすれば、なんだか危ういことを言う子供に見えたでしょうね。でも、いまでも少し……」
 言葉尻は曖昧にほどけて、スキピオには続きが言えなかった。だって、と食い下がる幼い自分がいまも父や弟、友人たちを指さして言う。
 だって、みんな何かを知っているじゃないか。
「別人の人生を生きていると感じることがある」
 はっと顔を上げると、すぐ近くにハンニバルの眼があった。彼のその凪いだ瞳を見ていると、スキピオは何かが違うと感じる。
「この人生は自分のものではない、あるいは、この自分は借り物だと」
「……昔から?」
「最初から」
 緊張が解けて初めて、自分の肩が強張っていたのに気がついた。
「僕は、何か足りないとずっと思ってきました。こんなに恵まれた人間もいないと言えるほど、何の不足もないのに。知りたいことも見てみたいものもたくさんある、楽しいし、飽きることはないでしょう、でも、何か足りない……」
 その足りなさがスキピオに穏やかな日々を与えてもいる。そんな感覚は誰にも言えなかった。誰も彼も、スキピオの愛する人たちは、その平穏を当たり前に望んでいる。子が危ういと感じる方向へ踏み出すのを喜ぶ親はいないだろう。
 スキピオには父母や周囲の人々からさまざまなことを尋ねられた時期があった。みんな物心つくかどうかだったスキピオがそれを覚えているとは思っていない。だが、スキピオの頭は何かを忘れるのに向いていなかった。言葉の出始めた弟が泣きながら兄に謝り、謝る必要などないと理解したとき見せた、あの壊れそうな笑顔を、誰が忘れられると言うのか。
 足りなさと、違うという感覚は、ぴったりと重なり合った。
「ハンニバル」
 呼んでもいいと言われてもなかなか口にできなかった名があっさりと呼べた。足りなかったのは彼だ。同じものが見える眼。世界が同じように見えている、ただひとり。
「僕たち、ぴったりだと思いませんか」
 明るいままの空のどこかから、轟音に近い雷鳴が響き渡った。
 ハンニバルは何も言わないまま、スキピオの浮かべた笑みを見つめていた。彼はスキピオを知っていた、彼の弟と親しくなったわけでもない下級生を。そして関心を持ってきたはずだ。スキピオがそうなのだから、そうだ。
「どうだかな」
 皮肉げに浮かんだ笑みにはこちらを試す色があった。
「そういう物言いをする人間は大勢いる」
「僕は他の誰とも違います」
「どこから湧いてくる自信だ、それは」
「あなたは他の誰とも違う。絶対に特別な人だ。僕もそうだというだけ」
 手のひらを重ねた彼の手はやはりひんやりとしていた。彼の血は冷えて、その眼は伏せられてばかりいる。誰よりもずっと遠くが見えるのに、手の届くところばかりを見て、彼の言う別人の人生を全うしようとしているのだろう。
 いじらしい人だ。そんなふうに感じる自分に驚いたが、スキピオは自分にはそれが許される気がした。鼻先の触れそうな距離で、ハンニバルはその思い上がりを嗅ぎ取ったらしい。
 乱雑な手つきで相手を押し戻し、立ち上がったハンニバルがスキピオを見下ろす。見知らぬ相手にするよりずっと冷ややかな顔つきで、試してみてもいいと彼は言った。


「ハンニバル!」
 教室から廊下に顔を出したスキピオが慌てて出した大声に、通り過ぎかけていたハンニバルは足を止めた。午前で授業を受け終えて帰るところらしい。
「あの猫、里親が見つかりました。何年か前に飼い猫を亡くした家で、柄がそっくり同じだったとかで。可愛がってもらえますね」
 メッセージで済ませてもよかったが直接伝えたかったのだ。ハンニバルは特に喜ぶ様子もなく素っ気なかったが、よかったなと頷いた。引き取ってしばらくは写真を送ってくる決まりらしいと嬉々と説明を続けていると、ゴンと鈍い音が響いた。二人揃って顔を向ければ、ハンニバルのそばによく見かける上級生が壁に頭を打ちつけた音だった。ふらついて後ろ頭を思い切りぶつけたらしい。
「マハルバル、どうした」
「どう……? え? 猫?」
「ハンニバルが心配してた猫ちゃんに里親が見つかったんです。ほら」
「うわっ」
 スマートフォンを示すと仰け反って逃げられる。猫が苦手なのだろうか。マハルバルは何度もハンニバルとスキピオを見比べ、音が聞こえそうな勢いで顔を青褪めさせた。
「何? あれか、偶然? 一緒に、猫を拾って……?」
「先輩、大丈夫ですか?」
「その猫の報告だけ、だよな? それだけだろ?」
「まあ、そうですけど……ハンニバル、帰っちゃうんですか? 僕まだ授業ふたつもあるのに。待っててください」
「帰る」
「じゃあメッセージください。電車乗ったよとか、おうち着いたよとか」
「意味が分からん」
 袖を握った手を払いのけてハンニバルはさっさと歩いて行ってしまう。彼と一緒に帰るところだったのだろうマハルバルは、ずるずると壁に背をつけたままその場に座り込んだ。スキピオが声をかけても反応しない。周囲の生徒が何事かと彼らを遠巻きにしていたが、スキピオの腕を掴んで教室に引き戻した者があった、
 見れば、マシニッサが真顔で教室の中を指し示す。さっきまでスキピオと話していたラエリウスとディウェスが、表情の消えた顔でスキピオを振り返った。そして顔を見合わせ、ラエリウスは低い唸り声と共に頭を抱えた。
「あの二人どうしたの?」
「さっきのやりとりを説明してはどうだ」
「さっき? ああ、ハンニバルのこと」
 その名前が出るなり、ディウェスが立ち上がる。椅子が思い切り床に倒れた。同級生たちは好奇心を隠さず彼らを見守っている。メロドラマを観る顔だった。
「何があった?」
「猫のことなら……」
「猫はいい! よかったな、昼休みに拾ってきた猫だろう? それはいいよ。あいつ、ハンニバルと、何があった?」
「……あのね」
 えへへ、と笑ったスキピオに、聞く前からディウェスが首を振る。やめてくれという懇願に近かったが、スキピオは友人の様子がまったく視界に入っていなかった。
「付き合うことになった」
 歓声を上げたのは何も知らない無邪気な同級生たち、学校でひときわ目立つ生徒同士の交際情報は瞬く間に全校に広まることになるだろう。いくらでも噂してくれという気分だ。お試し期間という謎の意地などスキピオにかかれば二週間で打ち切られたが、この二週間にも色々とあったのだから、根掘り葉掘り聞いてほしい。
 ディウェスは手で押さえた口の中で何事か口走っていたが、スキピオにはよく聞こえなかった。先ほどのマハルバルと同じに何の反応も返ってこなくなったので、ラエリウスの座っている隣の席につく。マシニッサがラエリウスの肩を慰めるように叩いて、自分の席に戻っていった。そういえばマゴーネは今日欠席している。
 ラエリウスはしばらくスキピオのことを宇宙人を見るような目で見つめていたが、一縷の望みを懸けて問うた。
「……脅されてないよな?」
「何言ってるの、ガイウス。口説き落としたんだよ」
「やめろ!」
 悲鳴をあげたラエリウスはそれから一日中口を利いてくれなかった。
 スマートフォンに届いた通知に、スキピオは自分でも分かるくらいにふにゃふにゃとした笑みを浮かべた。電車に乗った、とそれだけのメッセージにスタンプを連打していると、教室に入ってきた教師が騒がしさに面食らい、状況の説明を求められたスキピオはもう一度喜ばしい宣言をする機会を得たのだった。

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