あわいに掬う
子供たちの様子がおかしい。通話の途中、息子からそう打ち明けられたのは、孫たちの四歳の誕生日を一ヶ月後に控え、プレゼントは何がいいのか聞き出そうとしていた時だった。ファビウスは知育玩具などあれこれ調べていたタブレットを閉じた。
「どうおかしいんだ」
『思い出してきているというだけではないような……』
自分の時はどんな様子だったかと問うから、思い出すごとに小生意気な口を利くようになり、したいこととできることの落差に癇癪を起こしていたと答えると、やはりそういうことではないと。
送られてくる写真や動画から双子の孫たちはすくすくと育っているものと思っていたファビウスは、ダイニングからリビングの絨毯の上でごっこ遊びに興じている子供達を眺めた。つい先ごろ母親を亡くしたパウルス家の姉弟をまったく手の回っていない父親から何日か預かっており、彼らを訪ねてきたスキピオ家の兄弟も加わって、この日ばかりは賑やかに過ごしていた。
何も覚えていないらしいスキピオはともかく、ふたりのルキウスたちもアエミリアの言う通りに役を振られて子供らしく人形やぬいぐるみを操っている。来年には就学のアエミリアは昔のことをきちんと認識できるようになっており、遊んでやっているという風情でもあった。
「クィントゥスは昔の話をするようになってきたと言っていたな。ルキウスは……」
あの子は誰なのだろう。
息子夫婦から子供ができたと報告を受けたときには、当たり前のようにかつてと同じ男の子が生まれると思っていた。それが双子らしいと聞いて、まあ何にせよ自然の為すことであり、困惑よりも一度にふたりの孫を迎えられる喜びが勝った。
生まれた次男にルキウスと名付けて、息子たちは昔の出来事とは関係のない子を、この時代で得た新たな喜びとして目一杯愛おしんで過ごしている。
ファビウスも同じように考えることにしていたが、何の縁もなくこの家に生まれるということがあるのだろうか。かつての家族構成をなぞっている知人ばかりだったが、子供の数が増えたという話は聞かない。
電話口の向こうで息子は困り果てているようだった。
『ルキウスが、呼んでもすぐに反応しないんです。しばらくしてから自分のことだと気が付いたという反応の仕方で。時々私たちの顔をじっと見て訝しげにしています』
聴力検査では何の問題もなかったという。健診で発達に遅れがあると言われることもない。だが日に日に家族から距離を取るようになっている。
『クィントゥスがルキウスを自分の名前で呼ぶこともあって』
「同じ名前だらけで混乱しているんじゃないか」
『でも自分のことは分かっているんですよ』
様子を見てみてほしいと乞われて断る理由はなかった。明日の土曜にはパウルスが姉弟を迎えに来ることになっており、外せない用事もない。そう伝えれば明日連れて行くと時間の相談をする間もなく性急に電話が切れた。
我が子らしくない振る舞いも親になったからこそか、力の入る眉間を押さえてふと見ると、アエミリアがいつの間にかすぐそばに立っていた。
「ファビウスおじさま、どうなさったの」
気遣わしげに見上げてくるのにファビウスは何でもないとその小さな頭を撫でた。どうかしたかと尋ねるとリビングを指さして、さっきまで遊んでいたはずの子供達が転がっているのに幼いながらのため息をつく。
「急に寝ちゃったの、ブランケットか何かありますか」
こういう環境で娘がそうなりがちなように、少女はすっかり世話役が板についてしまっている。使用人を呼んで掛けるものを持って来させると、自分で受け取って弟たちをまとめて包んだ。何も覚えていないらしいスキピオはともかく、記憶に整理をつけているところの弟たちのことを、アエミリアはひどく心配している。その気配がファビウスには幼い背からひしひしと感じられた。
かつて、パウルスの遺児のひとりとしてアエミリアを気にかけはしたが、スキピオの妻となってからは個として意識することがなくなった。成長した姿も正直なところ朧げなのだ。
ソファに並んで座った少女が、不意に、ファビウスの裾を引っ張る。
「おじさまは、スキピオのこと可愛い?」
「うん?」
「なんにも知らないスキピオのこともお父さまは好きみたい。ファビウスおじさまはなんにも知らないからスキピオを可愛がってあげるの?」
やってみせると豪語したすべてを成し遂げついにはアフリカヌスと呼ばれたという子供が、何も知らず、思い出さず、何の気負いもなく自分を慕う。その状況に複雑な思いが湧かないわけではない。だがそれは皮肉めいた状況についてであって、目の前の子供に対する葛藤ではなかった。
「覚えていたとしても、一人だけ家に入れないなんてことはしない。スキピオだけを贔屓しているように見えるかい」
「ううん。ふしぎに思っただけなの。ごめんなさい」
「パウルスは最近どうだ、引っ越しからなかなか落ち着かないようだが」
「お母さまが亡くなられてからとつぜん、わたしたちが見えるようになったみたい」
「……そうか。まあ頑張りは認めてやらないとな」
「でも……ルキウスが、困ってる……」
ふわふわと揺れ始めた頭をクッションに乗せさせて、寝息を立て始めるまで見届けてから使用人の手から受け取ったブランケットを掛けた。
すっかりこの子供達に魅了されてしまっている古株の使用人は、親たちに渡すという名目で何枚か写真を撮ってから起きたらおやつを差し上げましょうとにこにこ笑っていた。年齢の割に賢く聞き分けがあって、けれど年相応にいとけなく、その不釣り合いさが微笑ましい。それが、長い記憶を背負って生まれる子供達に多くの者が抱く印象だった。
さて明日はどうなるかと、子供たちの目がなくなったところで深くため息をついた。
じっと見上げてくる目つきで、息子の言いたいことはよく分かった。
昼過ぎにやってきた息子家族は心配事があって来たなどという気配を微塵も感じさせない。出迎えた祖母に抱きついたクィントゥスの足から慌てて靴を脱がせる義娘も、ルキウスが靴を脱ぐのを手伝ってやっている息子も、子供たちの前でその話をする気はないのだろう。
妻が少し遅いが昼食にしようと彼らを家の中に促し、ファビウスがそれに続こうとしたとき、ルキウスは玄関に立ち止まっていた。
誰を継いだわけでもない薄青の淡い瞳がファビウスを見上げる。癖のつきやすい髪はスキピオのような金髪ではないにしろ明るい色味をしていて、家族でそんな色の髪をしているのはルキウスだけだった。父に似たクィントゥスと双子で生まれていなければ、あるいは生まれていたとしても、ここがあの頃のローマであれば口さがない連中に誰の子かと噂されかねないほどに、両親に似ていない。
「どうした?」
「……おじいさまって、クンクタトル?」
首を傾げる孫を抱き上げると、祖父の顔に小さな手を伸ばしてまじまじと覗き込む。
「像とは顔が違うだろう」
「玄関にあったのはもっと……おじいちゃんだった」
「死に顔だからな、それはそうだ」
つまりこの子はファビウス家の者か、近しい者ではある。
ダイニングに運んでクィントゥスの横に座らせると、ルキウスはおとなしく食事を始めた。つたない手つきながら行儀を気にしているらしい食べ方が、ちょうどこの年頃に息子がしていたのと同じだ。クィントゥスが気ままに掴み食べなどしているのと比べると、思い出し方に差があるらしい。
食後、それとなく息子夫婦がクィントゥスを二階に誘導し、妻もそれに加わると、リビングにはファビウスとルキウスだけが残った。数ヶ月前にやってきたときは無邪気に遊びをせがんでいた孫は、アエミリアを彷彿とさせるおとなしさでソファにきちんと座っている。
「ルキウス」
「……」
「ルキウス?」
「あ、……はい、おじいさま」
これか、と思いながら、軽い体を膝に上げる。されるがままで遠慮するでもなく、きょとんとしている子供はまだ祖父の顔が不思議でならないらしかった。
「おじいさま、あのね」
階段の方を振り返って誰も下りて来ないのを確かめてから、それでも声を潜めて、真剣な顔つきをしていた。
「ぼくはどうしてルキウスなの?」
「……ルキウスという名前は嫌いかい」
「そうじゃなくって……ぼく、たしかにルキウスだったけど、でも……このおうちではルキウスじゃなかったから……」
「どこではルキウスだったんだ?」
「えっとね、おうちにいたころ」
まったくどこのことだか分からないが、ファビウスはふむと頷いて真面目な顔を作った。
「ここでは何と呼ばれていたんだったか」
「クィントゥス」
「いまはお前の兄さんの名前だからな、流石に兄弟で同じ名前はつけない」
祖父の言うことを噛み砕きながら、ルキウスはもちもちと両手を握り合わせて言葉を探していた。両親にはこの問いかけをしてこなかったのだろう、もしかすると蘇る記憶の中の誰なのか思い当たらなかったのかもしれず、それが距離をとっているように見えたのか。
「ぼくのことよそからもらってきた?」
これにはぎょっとさせられたが、表情の上ではただ苦笑を浮かべるに止めることができた。
「お前はお前の父と母の子で、どこからも貰ってきていないよ」
「…………」
「それだと何かおかしいのか?」
「プブリウスは、どこにいるの?」
まず浮かんだのはスキピオ親子の顔だったが、おそらく違う。その名前を出した途端に、ルキウスは不安げになって切ない色をいっぱいにした目を揺らした。背中を撫でると手のひらで目元を擦り、泣くのを堪えている。
これ以上問いかけを続けない方がいいと判断して抱き寄せると祖父にしがみついて、小さくしゃくり上げ始める。階段を駆け下りる軽い足音がしたのは、その涙が止まりかけたころだった。
おじいさま、と笑顔でリビングに入ったクィントゥスは目に入った光景に固まり、猛然と祖父の足元に突進した。
「アエミリアヌス! なんで泣いてる!」
後ろで両親がぽかんとして自分を見るのも構わず、クィントゥスは祖父の腕から弟を捥ぎ取った。
「クィントゥス、いまなんて?」
「なんで泣いてるんだ。おじいさまが泣かせた? やめてよ!」
「どうしたんだ、落ち着きなさい」
「おじいさまがそんなことなさるはずないでしょ?」
両親が口々に言うのに耳を貸さず、驚きに固まっている弟を隠すようにしながらぎゃんと叫んだ。
「大事にしなきゃいけないのにいじめないで!」
されるがままに目を丸くしていたルキウスが、はたと何かを見つけたように幼い顔を赤くして怒る兄を見上げた。
この子の髪はパウルスの髪と同じ色だ、と、そのときになって初めて気がついた。
生まれた時にはルキウスと呼ばれ、ファビウス家ではクィントゥス、またアエミリアヌスとも呼ばれる子。ファビウスの顔を思い出すときアトリウムに並ぶ蝋製の像をまず思い浮かべ、自分はもらわれてきたのではないかと言う。
「養子か!」
思わず声を上げたファビウスを家族全員が胡乱げに見たが、孫たちはゆっくりと顔を見合わせ、お互いの姿を初めて見るかのように急に静かになった。
「ファビウス・アエミリアヌス。それがお前の呼ばれていた名前だろう?」
ルキウスは小さく頷いた。
つまり、ファビウス・マクシムス家は自分からたった数代後に自力で家系を維持できず危うく断絶するところだった。
ぞっとしてしまうのは、家というものを全ての基盤とした記憶があるから仕方がない。息子も同じ心地らしく、しかし自分が早くに息子を置いて世を去った意識からむしろ痛みを怺えるような顔をしていた。だがすぐその表情を和らげ、まだ混乱の最中にいるクィントゥスとルキウスをまとめて腕に抱いて、何にしろよかったと。
「ルキウスに嫌われたのではなくて……」
しみじみとした声にルキウスは何か言おうとして、結局口を噤んだ。
深く掘られた穴に幼子が土を落とすあいだ、ルキウスは痛いほどの力でファビウスの手を握っていた。
吐く息が白く濁る冷たい朝に、墓地に満ちる静寂はいっそう寒々しく人々を囲っている。ファビウスはほんの僅かの参列者が順番に土を棺に被せたあと、最後に進み出た。
記憶にはあまりに虚弱で成人も危ぶまれていたスキピオの長子の姿がある。二年前、ルキウスを連れて訪れたファビウスに驚き、しかしまさか会えるとはと喜んでいた、ひとりの父親の姿とは未だに結びつかなかった。
スキピオとアエミリア、どちらとも縁のない場所で生まれ、かつて養子とした子と実の親子となって、しかし運命の運ぶところに抗えなかった──ルキウスはここに来るために、泣きながらファビウスに連絡をしてきた。
ルキウスには、祖父はどんなお願いも叶えられるし何があっても盤石な精神を保つものと信じ切っている節があった。両親には頼れないと思ったときいつも電話をかけてきて、最初はプブリウスに会いに行きたいと。そして二日前には、どうしても連れて行ってほしい場所があると。
ルキウスが寄り添う小さな姿、遺されたものの寂しい背に、自らの息子の葬儀を執り行った記憶が呼び起こされる。追悼のための演説を何度も書いては破り捨てた夜の深い闇の気配を感じていた。息子がいまも何の不安もなく生きている、その幸福が続くことを強く信じなければならないほど。
かつてルキウスが父母を同じくした弟、スキピオ・アエミリアヌスと呼ばれたという幼子の身の振り方についてあれこれと大人が話すあいだ、ルキウスは硬い面持ちでいた。
いや実際には朝からずっと、不安と憤ろしさに目を伏せていた。弟に向ける顔は優しげだったが、いまも神々がこの世界にいるのならば彼らへ呪いの言葉を吐いただろうというほど、怒っていたのだ。
弟が彼らと縁深いというギリシア人の手を取った、その時になってようやく、安堵の緒を掴んだように肩の力を抜いた。ファビウスが冷えたその肩に手を置けば微笑みを浮かべて祖父を見上げる。
「信頼できる男なんだろう?」
「はい。プブリウスにとっては特に……おじいさま、ごめんなさい」
何がと見返しても答えないで、帰りましょうかと笑った。
十二歳になったルキウスは、プブリウスとの再会が叶ってからようやく両親と馴染めるようになった。養父と兄の意識が混ざり合ってとにかく世話焼きになってしまったクィントゥスに兄弟として親しみ、仮の居場所にいるかのような顔をしなくなった。
ここ数日暗い顔をしていたルキウスのために、息子はひどく気を揉んでいる。どこに何のために出掛けるのかも伝えていた。送り届けて、晴れやかになった顔を見せてやりたい。
「おじいさま?」
「いや、何……マケドニクス殿には恨まれるだろうと思ってな」
大仰な呼び名にルキウスが可笑げにくすくすと笑い、弟に向けて手を振った。長じてアフリカヌスなどと呼ばれるようになるとは思えない幼子も手を振り返す。彼らの父親もアンティゴノス朝を滅ぼすようには見えなかったが。
この子が思うよりずっと深く、激しく、恨みを買うことになると分かっていて、かつての父との再会を先延ばしにするのを止めなかったのは、結局は自分に懐かない我が子を待ち続けている息子のためなのだ。もう貰い受けてしまったのだから、仕方がない。
そんなことを考えているとは知らないで、門に向けて歩き始めたルキウスは祖父の手を握っていた。