あかつきの声
父は目の合わない人だった。
こちらを見ている時でも、たぶん額のあたりに焦点が合っていて、視線がぶつからない。話しかけられて返事をしているはずなのに言葉が受け取られている感触がなく、パウルスはいつも壁に向かって話している気がしていた。
貴族の父親としてはありふれた、子供を育てるとはそのための乳母や教師をきちんと選ぶということ、折々に子供が期待通りに育っているか確認することだと考えているような人でもあった。パウルスが十歳になった頃から政治に消極的になって、屋敷にいることが多くなってもそれは変わらなかった。姉に至っては父と会話すること自体が少なく、彼女が織って仕立てた服を父はそうと知らずに着ていた。
民衆の野放図さ、絡み合う利害や読めない場所に潜む思惑、故もなく向けられる悪意、そういうものに疲れて、きっと人間そのものを嫌いになってしまったのだろう。姉の婚約が決まった頃まで、パウルスはそう思っていた。
アエミリアの婚約者はスキピオ家の跡取りで、子供同士を会わせることもなく父親同士が決めた縁組だった。だが、せっかく家族になるのだからとスキピオは姉だけでなく父にも、パウルスにも歩み寄った。何かと理由をつけて訪ねてきて、フォルムなどで偶然顔を合わせれば必ず話しかけてくる。そういう振る舞いをする人間に不慣れな一家のぎこちなさは、街路にできた水たまりほどにも彼を阻まなかった。
父はスキピオが自分の調子を狂わせてしまうのを拒まなかった。憂鬱げな顔をやめて笑みさえ浮かべて会話を続けているのを、つまりそういうことかと思った。彼はただ自分たちが嫌いなのだ。
点滴の針が刺さった手が、ゆっくりと娘の髪を撫でる。
「だいすきよ、アエミリア」
母は飽きることなくそう囁いて、腕に抱いた娘の額や頬にくちづけた。
長い入院の後、自宅に戻ることを望んだ母の部屋は、病院の一室と同じくらいに設備が整えられていた。日に数度決まった時間に看護師がやってきて、何かあればすぐ医師が駆けつける、そういう環境を作るだけ作って父はあまり家に居つかなかったけれども、誰もそれについて何も言わなかった。
ローマの屋敷では、ただひたすら苦痛に耐え、いまから思えばおまじないのような治療に縋っていた。それに比べれば、ずっといい。それでも二度目だ。二度もあってほしい光景ではなかった。
母はまた彼女の産んだふたりの子供を置いて去ろうとしている。
「ルキウス、そんなところにいないで、こっちにいらっしゃい」
部屋に入ったところで立ち尽くす息子がその声に応えないのを、母は悲しげに見つめた。
昔のことを思い出すようになって、パウルスは口数が減った。生まれた時から父親の腕に抱かれれば火がついたように泣く子供だったが、物心つくまで当たり前に甘えていた母親の腕からも逃げるようになった。
つい先ごろ六歳になった姉は、まるでその六年しか知らない子供のようにいつも母にくっついている。
「おいで、ルキウス」
その姉に手招かれて、ようやくベッドのそばに近づいた。
断片的に蘇り、次第に繋がりを持ち始めた記憶は、まだまだ曖昧だった。出来事よりも、感情ばかりが思い出されるのだ。強く感情の動いた瞬間、その一瞬の痛みや、喜び、耐えがたさや、愛おしさ。
自分がまた同じ両親の子として生まれていると認識した途端に、パウルスは笑い方が分からなくなった。
「ほら」と姉に腕を引っ張り上げられて、ベッドによじ登る。姉の隣に座った彼に伸ばされた白い手を、そうしようと思っているわけではないのにパウルスは身を引いて避けた。
「……ごめんね、嫌だったね」
それは昔、泣くなと叱りつけた声だった。
その声はパウルスに強くなれと繰り返した。泣いてはいけない、甘えてはいけない。強くなりなさい。誰よりも強い心を持って、戦いなさい。負けてはいけない。そう病床から繰り返し、子供たちから伸ばされる手を決して取らなかった。パウルスには彼女の腕に抱かれた記憶がない。思い出される場面の全てで、母は何かを恐れるように我が子の幼さを拒み続けた。
それがどんな思いによるものだったか、いまならば理解できる。母にはどれほどの苦しみがあっただろう。それなのに、姉がそうするように母の胸に甘え微笑むことがどうしてもできなかった。
娘を腕に抱き、息子に眼差しを注ぎながら、母はいつも同じ言葉を繰り返した。
「愛してる、大好きよ」
手を繋いで空の下を歩くことのできた頃も、このようにしかともに過ごせなくなっても、繰り返していた。
「あのとき言ってあげられなくてごめんね。お別れすることになるって、分かってたのに、またあなたたちのお母さんになりたかったの。ごめんね、ごめんね……」
彼女の瞳はすぐに涙に覆われるけれど、本当に泣いたことは一度もなかった。寿命を縮めると分かっていて子供を産んだ人だった。
アエミリアが顔を上げる。その横顔に幼い少女の面差しばかりでなく長い時を帯びて、わたしね、と呟く声は静かだった。わたしね、ずっと、ずっと、誰にも言わないで願ってたの。
「もういちどだけ、お母さまにだきしめてほしかった」
妻となり大人になっても、母親に、祖母になっても、ずっとこの腕が懐かしかった。
「だからいいの、もういいの」
母の首に腕を回してぎゅっと抱きついたアエミリアを抱き返す手は、隠しようもないほど震えていた。ふたりはしばらくそうして動かなかったが、どちらが先ともなく体を離し、母が微笑んで言う。
「ね、ヴァイオリンを聴かせて」
アエミリアは頷き、すぐに自分の部屋からヴァイオリンを取って戻ってくる。三歳だった娘に楽器を習わせようと言い出したのは母で、アエミリア自身が殊のほかそれを気に入ったことで家族の様々なことの中心に音楽が居座るようになった。
小さな体に合わせて作られた楽器を構える姿を、母はこの世で最も楽しいものにするように見つめる。パウルスはしばらく彼女たちの姿を見比べたあと、姉の座っていたところに座った。母の左手の小指だけをそっと握ってみる。それから指輪の嵌められた薬指を。
幼子を慎重に抱き寄せる腕から、その時だけは逃げなかった。その晩、日付の変わる前に母は亡くなった。
今朝までは母の寝かされていたベッドは空で、点滴スタンドなど借りていたものはこの数日のうちにあっという間に引き上げられ、部屋はがらんとしていた。
葬儀と埋葬を終え家に帰ってしばらく、カーテンの開いたままの窓から夕陽が差し込んでいる。大人ならふたりがけのソファにパウルスとアエミリア、それにスキピオ家のルキウスは三人で並んで、無言だった。黒のワンピースを着せられたアエミリアはパウルスの手を握ったままでいる。
ルキウスはこの日ずっと懸命に気を張っていたものの限界を迎えつつあり、パウルスは寄り掛かってくる同い年の幼馴染の体重を姉に悟られないように支えていた。
不意に、開いたままの扉がとんとんと叩かれる。振り返ったパウルスと目が合い、部屋に入ってきたスキピオが抱えているのは個包装の焼き菓子で、そんなものがこの家にあっただろうかと思う。
「美味しいよ、アエミリアもどうぞ」
スキピオがそう言って差し出した焼き菓子を、アエミリアはそのままパウルスに渡した。パウルスが隣のルキウスに渡し、それを二度繰り返して、ようやくアエミリアは自分の手にマドレーヌを一つ握った。
「つかれたね」
ほとんど意識の遠のいている弟を見遣って、スキピオが言う。
「アエミリアもちょっと寝たら?」
「だめ」
「どうして?」
「わたしがちゃんとしてないとみんな困るもの」
みんなと言っても、実際には父ひとりを指していた。
彼ら兄弟が他の参列者のように帰らずパウルス家までやってきたのは、その両親がいたく心配しているせいだ。父は果たして母のことをどう思っていたのか、すべきことをきちんと熟しながら心ここに在らずという様子で、とても子供の面倒が見られるようには見えなかった。
ソファに座らずアエミリアに目線を合わせて、スキピオが首を傾げる。
「アエミリアのお母さまは困らせないアエミリアが好きって言ったの?」
「いいえ」
「泣かないアエミリアが好きって言った?」
「お母さまはそんなこと言わない」
うん、と頷き、俯く少女の顔にかかる髪を横へ流した。
「僕も、アエミリアが泣いたってちっとも困らないよ」
パウルスの手を握っていた力が緩む。スキピオを見返したアエミリアの瞳に光が差し込んで、それが目の縁を滑り落ちていった。何か言おうとして言葉を捕まえられずに震えた唇がやっと発したのは、どうしてと、それだけだった。
「どうして?」
ぱたぱたと雫が落ちる。
「どうして死んじゃうの、どうしてまた……またわたしたちを置いていっちゃうの?」
「うん」
「大好きならどうしてそばにいてくれないの?」
「うん……」
ぎゅっと目を閉じても涙は溢れて、何度もそれを拭う少女の手を濡らした。思うようにならない自分に苛立って強く目を擦るアエミリアの両手をスキピオが握った。振り解こうと暴れるのを、同い年の相手より小さな体をしているくせに捕まえてしまう。
「はなしてよ、あなただってそうじゃない!」
叫ぶと同時に、どうにか彼女を支えていたものが崩れた。
部屋の外にまで響く子供の泣き声を聞きつけて、数人の足音が廊下を近づいてくる。
しかしまさか泣いているのが娘とは思わなかったのだろう、困惑して立ち止まった父の隣を、ポンポニアが躊躇いなくすり抜けた。彼女が伸ばした腕をアエミリアは拒まず、しがみついてますます激しく泣きじゃくる。結われずに肩に落ちるだけの少女の髪を、ポンポニアがそっと撫でた。
「あなたはいつも頑張りすぎるわね……」
いつか、あなたのお姉さまのことを教えてほしいとこっそり頼んできたポンポニアのことをパウルスは思い出した。娘を育てたことはないからと言って、本当の娘のように思っても嫌がらないだろうかと肩を落として。
ソファを下り、パウルスは父を部屋の外へと押した。スキピオとルキウスもついてきて廊下に出たあと、二人の手を引いて庭に繋がる裏口を潜った。
母が世話をしなくなったせいで花の彩りを失った小さな裏庭にはベンチが置かれている。そこに並んで、こっそりとスキピオの顔を覗った。
何ひとつ覚えていないなんて、嘘じゃないだろうか。
アエミリアやパウルスがこの兄弟と再会した時は、まだ幼すぎて何を覚えているとも覚えていないともはっきりしていなかった。だが弟たちに昔のことが理解できるようになってなお、スキピオは何も思い出さない。もう思い出すことはないだろうとみな納得しようとしている。
どこかを見つめていたスキピオの目から、涙がひとすじ流れた。
「……にいに?」
見上げるルキウスに微笑み、涙を拭って、ぽつりと呟く。
「想像しちゃった、お父さんやお母さんがいなくなったらって……」
笑みはすぐに力を失って、暗くなり始めている庭で彼は何かを怖がっているように見えた。暗闇を怖がるただの幼子のように。
ぽかんと口を開けて兄の横顔を見ていたルキウスにも、その恐れがすぐに追いついてしまう。みるみるうちにその目に涙を溜めて、堪えようとするも呆気なく溢れた。
「やだよ、やだ、そんなの言わないでよぅ」
「ルキウス」
「いなくならないもん、みんなずっといるんだもん」
「ルキウス、ごめんね、だいじょうぶだよ」
スキピオが宥めてもこうなってしまっては収まりがつかない。様子に気がついて庭に出てきた兄弟の父が伸ばした腕に、ルキウスは怖がっているとも怒っているともとれる顔で抱き上げられた。
彼らの父は、子供たちが何を怖がるのか承知している。だかららしくもなく静かに泣くルキウスを抱くのと逆の腕を広げた。
「プブリウス、おいで」
スキピオはすぐに父の腕に飛び込んだ。父親が何事かを囁き、兄弟がそれにしきりに頷く、その光景がひどく遠い。彼らの向こう、裏口に立っている父と目が合うと、いっそうぼやけた。
悲しいことから順番に思い出すような気がする。
「それでも……こどもが先に死ぬよりずっといいんだ」
その小さな呟きが聞こえたはずもないのに、父が目を瞠った。姉の泣き声はもう聞こえてこない。家の中からの明かりが庭を照らす夜が訪れようとしていた。
ルキウスが泣き止んだ頃に、パウルスは彼らのそばに立った。スキピオの父はひどく気遣わしげな、優しい顔で友人の子を見る。彼がどういう人となりをして、子供にどう接するか、パウルスは最近になってやっと知った。
「ねえさまだけ、おじさまがつれてかえっちゃいけない?」
「……アエミリアがそうしたいと言ったなら、話し合うこともできるけれどね」
「いやだって言っててもいいから」
「君はどうしたいんだい」
「…………」
「お姉さんがいないと寂しいだろう? 君はどうするんだ?」
もし、自分も連れて行ってほしいと喚いたら、それを彼の子供たちが受け入れたら、本当に連れて帰ってくれそうだった。
そんなことはできないとパウルスは分かっている。庭に出てきた自分の父が幼子の上に影を落とすのを叱られるだろうかと見上げた。
しかし予想に反して父はパウルスの前に膝をついた。視線の高さを揃えて、伸ばしかけた手を彷徨わせて、結局下ろす。
「あの家……」
躊躇いがちに口を開いた父が言ったのは、母がまだ歩き回れた頃に家族で見に行った邸宅のことだった。数年前に亡くなったピアニストが暮らしていた、なかなか買い手のつかない一軒家。
「母さんが素敵だと言っていたあの家でなら、スキピオたちもすぐ近くだ。ファビウス様もおられる。どう思う、ルキウス」
「……どう、って?」
目が合っている。それが居心地の悪さの正体だと気がつくと、叫んで逃げたい気がした。
「三人で暮らしていけそうだと思わないか?」
思わないと答えかけたパウルスは、手を引かれてそちらを見た。ルキウスがわずかに顔を明るくしてこちらを見ていた。
「近くにひっこしてくるの?」
いまは互いの家が遠くて、時々しか会わない。別れのたびにぐずって寂しがるルキウスにそんな顔をされると何も言えなかった。
「うちに泊まりにきたらいいよ。ね、お父さん」
「そうだな、いつでも遊びに来たらいい」
スキピオまでそんなことを言うから、パウルスはもう首を縦に振るしかない。よく似た顔の三人がよかったよかったとまるで丸く収まったように頷き、父はそれにほっとしたような顔をしていた。
彼らに囲まれ途方に暮れた、その気分はいつまでもパウルスの中に残り続けた。
「スキピオがハンニバルと付き合い始めたんですって」
アエミリアがそう唐突に言ったのは、珍しく家族三人揃って夕食を囲んでいた金曜の夜だった。
三人揃ったところで会話に花が咲くでもなく静かだった食卓に、痛いほどの沈黙が落ちる。パウルスは隣に座る姉を凝視した。
「姉さん?」
「学校ではその話題で持ちきりだそうよ。周りがいくら言っても別れないからみんな諦め始めているって。気の毒ね」
「姉さん」
制止のつもりで呼んでもアエミリアは素知らぬ顔でシチューを掬い、父と弟の手が完全に止まっていることなど気にもかけない。夕食は大抵通いの家政婦が作ってくれるが、この日はアエミリアが用意してパウルスも手伝っていた。その料理の感想を述べていた父の沈黙に、パウルスは視線を向かいの席へ戻すことができなかった。
その話はつい先日ラエリウスから聞かされたところだった。アエミリアが誰から知ったのかは分からないが、事実だ。もうどうしようもないからとにかく気にせず、関わらないことに集中するようにと、あの友人は言っていた。
「ルキウス」
呼ばれ、父の手元に目をやる。スプーンを置いてテーブルの上に組んだ両手は震えてこそいなかったが、強く力を込められて指先は白く血の気が引いていた。
「この間の……カルタゴ人に会ったという話と関係があるのか?」
「ラエリウスは、向こうも心配しているだけだからと……」
「関係があるのか、と尋ねたんだ」
その硬い声は、ここ数年聞いていなかった。パウルスは父に叱責されるようなことをしないし、父が高圧的な態度を取る必要のあることは、この時代にはひどく少ない。
「あります。……スキピオが何も覚えていないのが事実かどうか、確認しに来たんです。でも本当にそれだけで、ハンニバルの方も何も覚えていない、ラエリウスはそう言っていました」
父の前でその仇敵の名を舌に乗せるとき、はっきりと苦痛を感じた。かつて、親となって息子たちにあの戦争のことを語り聞かせた時にはなかった不快さだった。
「付き合っているというのも、事実だそうです」
理解が及ばないし、理解したいとも思えず、パウルスはこのことについて考えることも感じることも避けていた。姉がなんら痛みを抱えていないのが分かって棘がひとつ抜けたけれど、目の前の父は違うはずだ。
父はあの戦争で、あの戦いで苦しんだ。だが誰かが負わなければならなかった役目であり、それが彼だったというだけのこと、そう思えた自分が遠い。
食事を終えたアエミリアが食器を重ねて席を立つ。彼女は父と弟の顔を見比べ、ため息をついた。
「本当にそっくり……」
その鬱陶しげな声音にパウルスは姉を睨みかけ、やめた。
隠したところでどうせいつかは知れることだ。ルキウスはこれを彼の父に知られないよう努めると決めたらしいが、果たしてそれがいつまで続くか。普通、時間の経過とともに仲は深まる。いつかは受ける傷なら浅いほうがいい。それは、分かる。
「でももっと言い方とか、あるんじゃないか」
「どう言ったって同じことでしょう、止められないんだもの。スキピオは他人の感情で行動を変えない、逆はあってもね」
「……怒ってる?」
「いいえ。もう怒る理由がないから」
はっきりと言い切り、アエミリアは食器を食洗機に入れてそのまま自分の部屋に戻っていった。
ドアの閉まる音を聞いてから、パウルスは千切って持ったままだったパンを皿に戻した。もう食欲がない。
「父上、スキピオの身が危ういのならラエリウスが放っておけとは言いません。だから少なくとも、その心配をなさる必要はない」
「私は……」
返事があると思っていなかったので、パウルスは父の顔を見た。
「そんなことを心配しているんじゃない。あの子は大丈夫だろう、いつもそうだから」
そう言いながら、その顔は病人のようで目はどこか遠くを見ていた。いつもそうだと言い聞かせてなおも案じて当然だろう、再び義理の息子となる見込みがとうに消えていたとはいえ身内と呼んで差し支えない間柄で、ずっと可愛がってきたのだから。
せめて食事を終えた頃を見計らってほしかったと思いながら、パウルスは食卓に並ぶ皿をまとめ始める。
「もう下げます、父上はお休みになってください」
父は何か言いかけたが、頷いて立ち上がった。憂鬱の影をずっしりと負った背中がダイニングを出ていくのを見届けてから、明日ファビウスは予定が空いているだろうかと思った。
朝方連絡して昼前には来てくれたファビウスは、すぐには玄関から中に上がらず、出迎えたパウルスにまず詳しく説明するよう求めた。旧知の相手であるからこそどう伝えたものかと思わされたのだが、スキピオの現況について歯切れの悪い説明をしたところで彼はあっさりと、「それは知っている」と。
「ここ最近で随一の馬鹿らしい話だ」
「……誰からお聞きに?」
「スキピオ当人から。誰でもいいから惚気話を聞いてほしかったんだろう」
無知ほど恐ろしいことはない──ぞっとしながらも、家では弟に厳禁とされているこの話題をスキピオが幼い頃から交流があり懐いている相手に話すのは、パウルスにも容易に想像がついた。おかげで姉が父に突然それを告げてしまい、父は昨晩から部屋に籠りきりなのだと説明を短く終えることができた。
ファビウスは明らかに呆れていたが、そうかと納得してくれた。靴を脱いだ彼の上着を預かって、とりあえず応接室に通そうとしたが、リビングでいいとさっさと歩いていってしまう。ファビウスにとってここは完全に、勝手知ったる他人の家である。
徒歩十分圏内の近所とはいえ、こうしてパウルスがファビウスを頼るのは初めてのことではない。この家に引っ越してきた当初から子供の世話に手が回らない父が姉弟を彼に預け、その姉弟がある程度長じてのちは父が調子を崩すたびに頼ってきた。父はファビウスの言うことならば、どれだけ嫌な話でも呑み込んで一応は平素の様子に戻る。
父を部屋から引っ張り出す前にと、ファビウスはパウルスを近くに招き寄せた。ティーカップとポットをテーブルに置いてからソファのそばに立つ。
「お前はどうして父親が気鬱に陥っていると思う、マケドニクス」
その添え名を教えてからずっと、彼にはそう呼ばれていた。
「まずハンニバルの存在が予想より近くにあって衝撃を受け、ハンニバルに限らずカルタゴ人の近くで無防備に過ごしているスキピオのことを案じているのだと思います」
「それが私を呼びつけるほどの理由になるか?」
「……なりませんか? ここ最近で随一の理由かと」
「衝撃という意味ではそうだろうが。お前の父親はただ驚いただけで塞ぎ込むほど繊細ではない」
それくらい繊細だと思っていた。釈然としないパウルスの顔に、ファビウスは憐れむ目をした。それは目の前の少年ではなく、その少年に投げ出されてしまっている父親への憐れみだったが、パウルスにはそれが読み取れなかった。
「いまも恨んでいるのか?」
だから、その問いの意味も分からなかった。
ファビウスが過去と地続きの話をしているのだということは理解したが、いまもというのも、恨むというのも、何のことか咄嗟には何も浮かばない。
「ファビウス様を恨んだことはありません」
「…………」
「本当です」
「別に疑っているんじゃないよ」
「では……ハンニバルを? ファビウス様が教えてくださったのでしょう、私のプブリウスがカルタゴを滅ぼしたのだと。それでもう、気が済みました」
孫から聞いた話だという。齢の近いらしいファビウスの孫たちには会ったことがないが、伝聞としてそれを知ってパウルスの感じたことは、未だに言葉にし尽くせなかった。
その話をした瞬間にだけ柔らかく笑んだ相手をファビウスはしばらく眺めていたが、珍しく弱った顔で腕を組んだ。
「──マルケルスが」
唐突な話題の転換にパウルスはおとなしく耳を傾けた。
「この間、自分を待ち伏せしていたカルタゴ軍の将校らしい子供を見かけたと。目が合ってあちらも自分に気がついている様子だったので声をかけようとしたが、逃げられたそうだ。タクシーに飛び乗って」
「……気の毒ですね」
「そうだな、子供は子供だ。さぞ怖かったろう。マルケルスとしてはこうして生きているのだから懐かしむくらいはできていいはずだと不満らしい。マケドニクス、カルタゴ人がお前の父親にそういう振る舞いをしたらどう思う」
「思うだけなら、殺してやりたいと思うでしょう」
「なぜ?」
なぜ。当たり前のことすぎて、目の前の相手に言葉にして答えるのが躊躇われるほどだというのに、ファビウスの問いかけにパウルスが答えないという選択肢はなかった。
けれど、喉から滑り出た言葉は思い浮かべていたものとは違った。
「父が傷つくから……」
マルケルスは、おそらくその将校の方から気安げに声をかけられても傷つきはすまい。相手にそれを後悔させることはあろうが。パウルスにとっては父がそんな風にはあれないことははっきりしている。
それ以上は何も言わなかったパウルスに、ファビウスは頷いた。そして想像してみろと言う。
「パウルスはスキピオがハンニバルを破るところも、お前がマケドニア王を虜囚とするところも見なかった。自らの死の先に祖国の滅びを予期していたかもしれない」
「父は……」
「そんなことは言わないとも。だが、その最期に心を安んずる何ものも存在しなかったのは確かだ」
レントゥルスが伝えた父の最期を思い起こすことを、パウルスは強く念じて止めようとした。スキピオが父は子供たちの幼さを憂いていたのだと言ったことを思い出すまいとした。
「お前やアエミリアのすぐそばに、お前たちを傷つけるかもしれないものがある。それが恐ろしい。当然のことだ、それを分かってやれないお前ではあるまい」
自分ならばどうかとまでは、彼は言わなかった。あの子たちを、と思い浮かべるのには何の躊躇もない。あの子たちを守ってやれないのだとすれば、パウルスには生きている意味がない。
そして同時に、杞憂だとも思った。父を慮るファビウスの抱える杞憂は、前提からして成り立たない部分がある。それが当て付けがましく響かないよう、パウルスは慎重に口を開いた。
「私は、ローマで自分と同じ境遇の子供に石を投げられたことがある」
平静を保ち敬意を表そうとする大人たちの矜持では制しきれなかった幼い言葉、石や拳、降りかかるものを、いまと同じ年頃だったかつてのパウルスはただ受けて、助けを求める相手を持たなかった。姉だって婦人たちとの付き合いの中で、言葉の奥に幾重にも隠された棘に刺されてきた。
「それを思えば、敵のすることなど私たちを傷つけるものではありません。それに……父はいま私や姉のことを思い浮かべていないでしょう。いつもそうだから」
「マケドニクス……」
「ファビウス様、父を呼んできてもよろしいですか」
「……ああ、構わない」
ファビウスが来ていると言えば父の部屋の扉は開く。いつも声をかけてしばらくして出てくるのが常だったから、パウルスは父が姿を見せる前に自分の部屋に引っ込んで父とファビウスが何を話すのかは聞かなかった。この日もそのつもりでリビングを出たパウルスは、廊下に父が立っているのを見てその場に固まった。
眠れなかったのか、衣服は改めていたが草臥れた風情の父が彼の息子を見下ろしていた。十三歳になって日毎に背を伸ばしているとはいえ、まだ父よりは低いところにある目を。
「……ファビウス様が……」
リビングを指して言うと頷く。眉を顰める癖のせいで皺の刻まれてしまった眉間をまた寄せて、父は静かに数步、パウルスとの距離を詰めた。
自分に伸ばされた手を、そうしようとは思わなかったのに身を引いて避けた。なぜかは分からないが心臓が早鐘を打って、ファビウスのそばに戻りたい気がした。
「ウァロと話すのを嫌がったのは、それが理由なのか?」
「え?」
何のことかと目を瞬いたのち、顔が引き攣る。
当時パウルスは小学校の入学を控え、父と姉、スキピオ一家と共に学用品を揃えるため出掛けていた。街中であの男と出会したのはまったくの偶然であり、父も驚いていた。だが、ウァロの万感の籠った謝罪も、もうすべて水に流したあとのようにそれを受け取った父も、パウルスには耐えられなかった。
──もう行こう、と何度も手を引く息子を父は叱った。スキピオの父が間に入るより先にその手を振り解かれ、ウァロが戸惑ったように親子を見ていた。
パウルスが自分で覚えている限り泣いたことは数えるほどしかなく、そのうちの一回があの男のせいというのはその記憶を容易には浮かび上がらない奥深くへ追いやる程度には屈辱的である。ともかく幼かったパウルスは混乱が頂点に達するとともに泣き、それを見たアエミリアが激怒、ルキウスまで空気に呑まれて泣き出し、夏の街角は最悪の雰囲気に包まれた。
そこから何がどうなって家に帰ったのか、まったく覚えていない。
「違います」
勢いよく脳裏を走り抜けた記憶にそのまま消えろと念じながら答え、合っていた視線を断ち切る。
父の隣を抜けて、二階の部屋ではなく音楽室に向かった。何か頭を静かにするためにできることをと求めれば、思い浮かぶのは姉と同じものなのだ。後ろ手に勢いよく扉を閉め、ケースからチェロを引っ張り出す。椅子に腰掛け弦を当てたところで、先ごろ与えられた子供用ではないフルサイズのチェロをただ抱えた。
「……石を投げられたから?」
父の言うそれが指すものが何か、確かめもせずに答えてしまった。だがもし立ち聞きしたファビウスとの会話のことならば、まったく見当違いだ。
父が嫌な思いをするのではないか、また傷つけられるのではないかと、それが怖くて手を引いたのに。弟のその気持ちが分からない父に姉は激昂したというのに、何を言うのだろう。
会いたいと強く感じた。共に暮らす家族でも、友人たちでもない、いまこうして音を出すことさえできずにいるパウルスを変えてくれる者たちに会いたかった。あの子たちを得る前の自分が嫌いで、もう一度繰り返すのを願ったことなど、決してなかったのに。
凍えるような冷たい風が吹く冬の日、空港は年末の休暇を思い思いの場所で過ごそうとする人々で朝から混み合っていた。到着ロビーにはパウルス以外にも出迎えに立つ人が何人もあり、きょろきょろと目当ての姿を探している。
知らされていた飛行機が大きな遅れもなく到着していることを確かめたとき、ちょうどどっと人が流れ出してきた。
「──ルキウス」
パウルスが見つけるより先にこちらに気がついたアエミリアが早足で人の流れから抜け出してくる。おかえりと言えば姉は疲れの見える顔で笑った。
「ただいま。……痩せたのではない? 仕事は落ち着いてきた?」
そう尋ねられ、まずまずといったところと返す。会うたびに行う決まりきったやりとりには心地よさがあった。駐車場の方へ促してアエミリアの手からスーツケースを引き取る。
大学卒業後アエミリアが留学に出て何年目になるか、年末年始には律儀にこうして帰ってくるものの顔を合わせるのはほとんど一年ぶりだった。弟に預けずしっかりと手に携えているヴァイオリンケースを相棒にして、師事する人物についてあちこち忙しく回っているのだという。一般企業で働くパウルスには縁遠い世界だ。
駐車場で車に荷物を積み込み、助手席に落ちついたところで、アエミリアがああと思い出したように小さく声を上げた。
「家に戻るより先にファビウスおじさまのところに寄ってほしいの、向こうで知り合いだって方から預かったものがあるから」
別に後からでもいいけれど、あなた全然顔を出していないんでしょう。そうちくりと刺されて黙ってエンジンをかけた。
パウルスは大学進学と同時に家を出て、あの広い実家には父だけが暮らしていた。実家に寄り付かなければファビウスと顔を合わせることも自然と減り、姉のように折々に連絡を入れることも少ない。こうして姉が帰ってきて迎えを頼んでくれなければ、年末をどう過ごしたものか。
一時間半ほどの距離を走りたどり着いたファビウス邸は、最近外壁の塗り替えをしたらしく以前より明るい印象になっていた。先に車を降りインターホンでやり取りをした姉が開かれたままになっていた門を潜る。それを追ったパウルスは玄関にいくつも並んだ靴を目にしてタイミングが悪かっただろうかと躊躇したが、姉はさっさと出迎えも待たずに奥へ進んだ。
アエミリアが入っていったリビングからは、幾人かの話し声が漏れ聞こえていた。
「──この方がお祖母様ですか?」
靴からスリッパに履き替えたところでパウルスは動きを止めた。
「綺麗な方ですね、アエミリア様はお祖母様に似てらっしゃるんだ」
「お祖父様は本当に……同じ顔ですね」
「ね、本当に……」
和やかに笑い合うその声を、この瞬間まで思い出せなかったのが信じられなかった。
声から忘れていくと言う。確かに声を忘れ、記憶の中の姿形が曖昧になっていくのを感じていたはずで、だがそれがどんな感触であったか、もう分からなくなっていた。
「アエミリア様、おかえりなさい。……あれ? それじゃあ……」
ぱたぱたと足音がして、少年がリビングから顔を出した。
パウルスの姿を認めて目を丸くし、わずかに戸惑った風でいたが、すぐにその顔を綻ばせる。
「プブリウス」
はい、と柔らかく答えた。十七歳かそこらだろう、思い出されるのはマケドニアでこの子を失いかけ、けれど戻ってきた、あの夜の幸福だった。
「え、──父上!?」
焦ったような声を聞いた時視界を占めていたのは玄関に敷かれた絨毯の模様だった。眩暈を起こして膝をついたらしい、そう状況への理解が追いついたパウルスの肩と背に手が触れる。もうひとり分の足音が近づいてきて、正面にしゃがみ込むのが見えた。
「父上」
「大丈夫ですか、ご気分でも……」
「いや、……いや、平気だ。本当に」
「でも」
言い募る弟を制し、パウルスの顔を覗き込んだ青年が優しげに微笑んでいた。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね」
「……クィントゥス」
「はい。……あ、いまはルキウスなんです。ファビウスの父がそう名付けてくださったので」
それはどういう意味か、玄関先に座り込む自分たちに注がれる視線に気がついて顔を上げると、リビングを出たところで家主が生暖かい眼差しをこちらに向けていた。その後ろから姉が目を細めている。
彼らにこの状況は何かと問いかけたパウルスは、腕に感じた重みに気を取られた。パウルスの右腕を抱くようにしたプブリウスがこちらに向ける目は潤んで、笑う拍子に涙が落ちた。
考えるより先に体が動いていた。抱きしめた身体はかつてより一層頼りなく、ほんの幼い子供を抱いているような心地にさせる。背に回った手がそろそろと相手を抱き返した。
「ごめんなさい」
「何を謝るんだ」
「ごめんなさい……自分で会わないって言ったのに、会ったらこんなにほっとするって思わなくて」
「……いいんだ。いいんだよ」
頭を撫でる手に身を委ねる、その温もりを忘れて生きていたなどと。
弟を見守っていたクィントゥスが、パウルスと目が合ってまた笑った。彼は自分と変わらぬ年頃なのだとその時ようやく気がついた。
いいのだと言いはしたが、説明を受けた時にはもうそれを撤回したくなっていた。
結論としては、クィントゥスとプブリウスはすぐそばにいた。ファビウスとアエミリア、ついでに言えばこの場に不在のラエリウスはそれを知っていて十年に渡り黙っていた。十年。意味が分からない。
広々としたリビングで困惑したり驚愕したり、果てに怒りを感じたりしているのはパウルスひとりだった。睨め付けたファビウスはまったく悪びれるところなく肩を竦める。
「友人の息子よりは孫の頼みの方が大事だ」
そう言ったファビウスは孫をルキウスと呼んで、向ける目は明らかに彼が家族にだけ抱くあたたかさに満ちていた。それに限らず上機嫌なのは、クィントゥスがこの日伴ってきた女性の存在があるのだろう。パウルスにはクィントゥスの隣に座る彼女に見覚えがある。かつて、長男が養家の血筋を我が子に受け継がせるために妻に迎えた人物に相違なかった。
彼らの左手には指輪が光っている。
「先月、婚約したんです。いい機会だからついてきてもらいました」
「そうか……」
「式はまだ先の予定ですが、お招きしてよろしいですか」
「ああ……嬉しいよ……」
本心なのだが、そう聞こえなかったかもしれない。
彼はパウルスよりもふたつ年少に過ぎないのだという。ファビウス家に生まれ、かつての養父がいまは双子の兄という、ややこしい家族構成になったと語るクィントゥスの様子に憂いはなかった。けれど一方でパウルスの顔を見ては戸惑いを浮かべ、その場の誰かと目を見合わせていた。
「こんなに若い頃の父上なんて知らないので、なんだか……」
「そうだな、お前が生まれた頃にはずっと年を取っていたから」
「多分これは思い込みとか記憶が誇張されているとかなんですけど。もっと背が高くなかったですか?」
「昔と変わらないと思うよ」
「そうかな……」
目を向けられたプブリウスも首を傾げている。まだ高校生であるプブリウスのそばには懐かしい顔が並んでいた。ポリュビオスが記憶にあるのと同じ風貌、つまりはいまの自分よりずっと年長らしいのには違和感があったが、プブリウスの話でそんなものは霧散してしまった。
「七歳の頃からポリュビオスのところにいるんです。いまは離れて暮らしているんですけど、僕はラエリウスと同じマンションに住んでいて……メテルスにもその頃から、まあ、お世話になっているので、会っていただきたくて。ついてきてもらいました」
「七歳から?」
「父が──スキピオ家の父が、亡くなってから」
パウルスはダイニングからこちらを見守っている姉を見遣った。それに気がついているだろうにアエミリアはティーカップを傾け知らぬふりで、彼女がプブリウスに注ぐ眼差しもまた優しいのだ。
ポリュビオスのことならば、信頼はすでに出来上がって確かめるまでもない。口を挟まずに見守るのに徹しているラエリウスや、メテルスのことも、若い頃だけとはいえその人品を知っていた。
「君たちがいてくれたのなら、少なくとも寂しくはなかったんだろう。ありがとう」
いいえ、とポリュビオスはゆるく首を振った。
悲しいことなど何ひとつなければいい、そう願うのも、それが叶わないのも当然だった。さっきまで彼らが囲んでいたアルバムは、ファビウスが昔のものを出してきてくれたらしい。クィントゥスもプブリウスも祖父母の顔を初めてきちんと知ったのだ。祖母に会わせてやることはできないが、祖父ならば……
「それで、どうして私だけお前たちに会えなかったんだ」
どうやら当人たちの望みであって誰が妨げたわけでもないようだが。
クィントゥスとプブリウスはまた目を見合わせ、まるで交信が行われているかのように同時に頷いた。それが、彼らは血の繋がりを持たずともかつてと同じように兄弟のままなのだと示すようだった。
クィントゥスが嫌だったわけではありませんと前置きをする。
「父上は、よく人に言われていたでしょう。子供を持つ前と後ではぜんぜん違っていたって」
「……お前たちの前でそんなことを言った奴がいたのか?」
「決して悪い意味ではありませんでしたよ。……私が自分の状況を理解した頃にはお祖母様は亡くなられていたけれど、お祖父様はご健在でした。これは父上が、私たちに与えてくださったものをご自身で得るための機会なのだと思ったのです」
おじいさまには無理を言ってしまった、と彼がより深い親しみを込めたのはファビウスのことだった。
「ご家族で、年相応に過ごしていただきたかった。私たちの父であるより先に、あなたはお祖父様の子供で、それだけの立場でいるべきだと思った、のですが……」
クィントゥスは続きを言わずに、困った顔を祖父に向けた。それを受けたファビウスの示した呆れ、あるいは諦観に、パウルスには思い当たる節が大いにある。
彼らやアエミリアの表情にプブリウスだけが目を丸くしていた。ファビウスを介してこちらの様子をある程度知っていたらしいクィントゥスは、プブリウスにそれを伝えはしなかったのだろう。
慈しんだ甲斐はあったなと、それだけを思った。この子たちにとって子供であること、庇護の腕のなかで生きる時間は、息苦しくなどない安らぎと結びついている。この世の何よりも神聖なものと思い定めて育てた甲斐があったという、そして、この二度目の生で彼らのその発想を妨げるものはないのだという心底の安堵が胸に満ちた。
「私のことはともかく」
ダイニングから聞こえよがしなため息がここまで届いたが、無視した。
「確かにお前たちにはいまの親も、家族もある。私が父親面をしてしゃしゃり出たのではよくなかっただろう、我慢ができたとも思えん」
「本心は?」
「お孫さんの写真や動画はいただけるんでしょうね、ファビウス様」
「本人と息子夫婦が了承すればな。そちらは後見人がいいと言えばということになるか」
「拒否する理由はありませんが……」
ポリュビオスは、自分の腕を両手で掴んでいるプブリウスに視線をやった。彼は困惑か混乱か、あるいは焦りか、ともかくそこから抜け出せないままだった。
「あの……思い返してみると、父上はお祖父様の話は色々してくださったけれど、ご自分とお祖父様の思い出というのは、一度も……」
重要なことに気がついてしまったかもしれない、という顔を、パウルスはただ微笑ましく見つめた。
「えっ……? お祖父様と仲が悪いんですか?」
その場の人々の視線が一斉にプブリウスからパウルスへと動く。
「プブリウス」
「はい……」
「親と子と言えども相性というものがあって、仲が良い悪いという問題ではないこともあるんだ」
またダイニングからため息。パウルスはもう一度それを無視した。
うっすらと傷付いたような気配を漂わせて、しかし理解できないわけではないらしい。プブリウスはポリュビオスの腕を抱いてそうですねと小さく言う。その翳りに自分の知らない時間の積み重ねを思わされる。
「それに何者であるより先に、私はお前たちの父親だよ」
「……そう言ってくださると分かっていたから、お会いしなかったんです。でも僕たち、ひどいことをしたんでしょうか」
「お前たちが私に対してひどいことなどできるはずないだろう。忘れないでいてくれただけでいいんだ」
心からそう思うのだが、追い打ちになってしまったらしい。うう、と細く呻いて顔を伏せてしまったプブリウスに、それまで口を開かなかったメテルスが呆れ半ばといった調子で言った。
「だから早く会って差し上げるべきだと言っただろう」
「だって、てっきり」
「ずっと案じておられたのだろうに」
下がっていた眉がきつく顰められ、プブリウスは隣に座るラエリウス越しにメテルスの方に身を乗り出した。
「あなたはお子さんに会えなくてもぜんぜん平気だって言ってましたよね」
「こちらから近付くつもりはなくとも拒む理由もないというだけだが」
「結局どっちの立場なんですか!?」
「子供の見方しか分からないと難儀だな……」
「は? 何です?」
彼らに挟まれて口を出さないラエリウスと目が合う。かつての父親ととうに再会して、いまも時々会っているのだという青年は、記憶と同じに穏やかに微笑んだ。
それがまるで、自分たちはずっとこうして過ごしてきたんですと諭すような──こういう予感ほど鋭く明確なものだ。
「紅茶が冷めたな、淹れ直そう」
正しく潮目を読んだファビウスが立ち上がると、クィントゥスたちもそれに続いた。
「おじいさま、私が……」
「いいから座っていなさい、お湯を沸かすから危ない」
「あの、もう小さな子供ではないのでお湯くらいは扱えます」
ポリュビオスも席を立って、じゃれあっている若者たちをその場に残していった。彼らが入ったダイニング奥のキッチンからは、アエミリアも加わっているのだろう、和気藹々とした空気が伝わってくる。
「いつもそうやって後から小馬鹿にして、意地悪って言うんですそういうの」
「言うべき時に言っているだろう、君が聞かないだけだ」
「大事なことを大事だと前置きしないで話す人にそういう言われ方したくありません」
なぜかプブリウスはラエリウスの肩を両腕で抱いていた。それはともかく詮無いことをああだこうだと言い合う者たちの間にある親しさは、見覚えがない。プブリウスは確かにメテルスを気に入り、メテルスの方もそれなりにこの年少者を評価している、その程度のところでパウルスの認識は止まっているのだ。
「……お前たち、そういう……」
ぴたりと口を閉ざしたプブリウスがぎゅっとラエリウスを抱き寄せてメテルスを横目に睨む。
「そんなんじゃありません、まだ」
「まだ」
「いや、全然、まったく、そういうのじゃないです」
「まだ?」
「スキピオ、そのくらいにして差し上げなさい」
大きなトレイを手に戻ったポリュビオスが、茶器をまとめていく。はたと気がついてプブリウスは中身の残るティーポットを取り上げキッチンへ戻しに向かった。ファビウスの奥方の趣味で茶器がいくらでもある家なので、そう慌てる必要はないのだが。
ポリュビオスとラエリウスとがそれを追うようにリビングを出ると、その場にはパウルスとメテルスだけが残された。奇しくもこの若者が法務官としてマケドニクスの添え名を得たことをパウルスはのちに知ることとなるが、この時にはまだ、縁のある若者程度でしかない。
「まだ、なんだな?」
こちらを見返したメテルスは落ち着いていた。ふてぶてしいと表現しかけてどうにかやめる。印象が悪い方へと傾いている。
「謝罪はしません。まだ、何もしていないので」
言葉を失ったパウルスに、彼は本当に最後まで言い訳めいたことさえ口にしなかった。
ファビウス邸から実家へと、ほんの短い距離を走る車中で、パウルスは助手席から上機嫌の気配を感じていた。すでにあたりはほとんど真っ暗だった。
姉はしばしば何を考えているのか分からないなどと言われるが、パウルスからすると露骨なほど分かりやすい。
「ずっとそうやって面白がってた?」
「ええ。面白くて面白くて……まあ気の毒ではあったけれど。あの子たちの期待通りになるかどうか、私にも分からなかったのだからしょうがないでしょう」
「なるはずないだろ……」
無垢に親と子の睦まじい時間を期待されていて、その期待を知らぬうちに裏切っていた。悪いことをしたわけでもないのに、あの子たちの期待に応えられなかったという一点でパウルスの気分は沈む。
実家の車庫に車を入れて、どちらもすぐには降りなかった。ハンドルに腕を乗せて深く深く息をつく。この二十数年で最も感情を激しく動かされた数時間に疲労を感じていた。
「何もかも父上のせいだ」
「そうね」
否定があるものと思ってぼやいたので、助手席を見る。アエミリアはそれを見返し、頷いた。
「あなたが悲しいのはお父様のせいだわ。そう言ってみたら」
助手席を降りた姉を追って、ほとんど一年ぶりに実家の門を潜った。殺風景だった前庭に花が植えられて、紫の花弁が門灯に照らされている。ふたりが玄関にたどり着くより先に、扉が開いた。
顔を覗かせた父は、最後に会った時から変わった様子はなかった。笑っていると取れなくもない曖昧な笑い方も変わらない。変わったのは、その様子から何かを読み取ろうと苦心しなくなったパウルスの方だった。
「ただいま、お父様。予定より遅くなってごめんなさい」
「おかえり。ファビウス様から連絡をいただいたよ」
「あら……。おじさま、機嫌がよかったでしょう。お孫さんが結婚するんですって」
さほど関心を惹かれないのだろう、そうかと頷いて、開いた玄関扉に娘を通してから父がパウルスを振り返る。
「ルキウスもおかえり」
まじまじとその顔を見た。かつて別れた時よりも歳を重ねた父は、むしろあの頃よりも若く思えた。動かない息子に目を瞬き、こちらへ近付いてくる。持ち上げたままだった姉のスーツケースを取り上げられて、家に入った。
夕食は済ませたのかと問われ、姉弟はちらと互いを見た。
「まだなんだけれど。私、早めに休むわ。食欲が湧かなくて」
時差ボケのせいにする言い方だったが、実際にはファビウス邸であれこれと間隙なく食べ物を与えられて、しっかりと食事をとるほどの余裕が胃に残っていなかった。
姉の部屋までスーツケースを運んだ父が階段を降りてきて、上着も脱がずに玄関先に突っ立っているパウルスを目に止めてまた首を傾げた。
「どうしたんだ」
「……ファビウス様の御宅で、息子たちに会った」
「息子?」
「その婚約者と、後見人、親友に……」
パウルスは父を僅かに見下ろしていた。その戸惑った顔は、低いところから見るよりずっと人間らしくもあった。
別れ際、門の外まで見送りに出てくれたクィントゥスは他の誰にも聞こえないよう、パウルスにだけ潜めた声で言った。
「父上は覚えていらっしゃらないでしょう。けれど私たちは忘れることができませんでした」
伝えるかどうか、ずっと迷っていたのだと分かった。躊躇いに目を伏せるクィントゥスの頬に触れると、弟と同じように淡く微笑った。
「父上は、最期に何度も……弟たちと、お祖父様を呼んでおられました」
パウルスは病で、住み慣れた屋敷で死んだ。それなりに苦しみもあったが子供や孫に見守られていたのだから、悲しむべきものではなかったはずだ。クィントゥスの言う通り、プブリウスと何か話したあとの記憶ははっきりと像を結ばず、自分が何を口走ったかなど覚えていない。
怒りを感じているのだ。そう認めると、何もかもが間違っていたのだと思えてくる。
「父上のせいでずっと会えなかったんです」
「ルキウス、それはどういう……」
「あの子たちは、父上が親をやるのを望んでいたんですよ。あなたが中途半端なせいで私は今日まで二度も生まれてきた意味がほとんどなかった。姉さんだって私たちの知らないところでどれだけ……」
甥のことをアエミリアは結局何も語らない。どうして置いていくのと嘆いた、あの悲しみをまた負って、そのうえプブリウスまでもが耐えがたい別離を味わった。
「……あなたに言っても仕方がない。私も夕食はいりません」
父の隣を通り過ぎようとして、足を止めた。パウルスの腕を掴んだ父の手には、思いの外強い力が込められている。
「何です」
「ちゃんと話してくれ。お前の子供たちが……」
どう言えばいいのか分からないのか口籠もって、しかし父は手を緩めなかった。パウルスはその手を見下ろし、自分がゆっくりと吐いた息の震えに、あの子たちの前では形を取ることもなく消えていった苛立ちを覚えた。
「ファビウス・アエミリアヌスとスキピオ・アエミリアヌス、それが私たちの後に続いた者たちの名です。パウルスの名を継ぐ者は絶えて、申し訳ないがあの家は私で最後になった」
「……そうか」
「私が養子に出した先で、いまは本当の子として生きている。その子たちに会いました。私のことをずっと知っていて会わずにいたと言っていた、私が……私には、あの子たちの思うような幸せがなかったのだと感じて、今度はそれを得てほしいと……それがどれだけ、私にとって嬉しく、口惜しいか、父上には分からないでしょう。だからもうこれ以上話すことはありません」
離してください、そう言っても、父は動かなかった。驚きを浮かべていた顔が色濃く悲哀を帯びていくのを、得体の知れないものを前にするようにパウルスは見つめた。
母が亡くなった時でさえ悲しみを見せなかった父は、まさか泣くのかというほどはっきりと顔を歪めた。涙こそないままだったが、その表情に解釈の余地がないことなど初めてだった。
「いまも私を恨んでいるんだろう」
パウルスは咄嗟に何か返そうとし、結局「何?」としか言えなかった。
何の話をしている? 父上のせいなどと言ったからかと、思考の追いつかないパウルスの様子にさえ父は悲しげにする。
「母さんはどうしてもお前とアエミリアに会いたいと、そのために私を探し当てた。私がどう思っていようが関係がないと言われたよ。たとえ、かつてのように……自分を見上げる幼いお前たちの顔を思い出すことさえできない親のままでも。後悔がある限り自分には責任があるのだと」
「……そう、ですか」
「記憶の揃い始めたお前が私たちを怖がるようになったのも当然のことだと言っていた。私は、ルキウス、母さんが亡くなるまでやはりお前たちのことが見えていなかったんだろう。見ていたいと思うようになってさえ、アエミリアには叱られてばかりだった。中途半端というのはその通りだ。お前に傷を負わせておいて、そこに踏み込まないまま親と子としてやり直そうとした」
恨まれていることに向き合えなかった。
すまないと続けようとした父の口を、掴まれていない方の手でパウルスは塞いだ。いつもいつも、過去の話は何かずれたまま進んでいく。
ずっと恨んでいたのは、幼く何もできない、何も求められない、ただ生きているだけの自分のことだった。恨むのをやめ許すことができたのは、我が子の幼さには何の罪もないと思えたときだ。
「私は、父上を恨んだことはありません」
何か言おうとする口をなおも塞ぐ。
「悲しかったのは、あなたに好かれていないのを分かっていて、それでもどこかで期待することだった。それももういいんです、私はもう子供ではない、あの子たちは幸せそうだった、あとは……」
残りの子供たちにどうすれば会えるのか、そればかりが大切だった。
押し付けられたパウルスの手を下ろして、父はもう幼さなどどこにもない息子の両手を握った。生まれて初めてそんなふうに触れられたなと思った。いやあるいは、触れられて逃げずにいるのが初めてなのかもしれない。
「私はお前を愛しているよ」
耳にした言葉を数度、反芻する。
「…………いや、いま言われても嘘にしか聞こえないので」
「嘘じゃない。愛おしいと思ったから、スキピオ殿やファビウス様からの提案を受けずにお前たちをどうにかこの手で育てたんだ。……中途半端な親だったが……」
「でも私が話しかけるたびに深々とため息をついてたでしょう」
「緊張したんだ」
「自分の子供相手に人見知りする親がどこにいるんですか」
「ここにいるんだよ」
「何を開き直って──」
ふと力が抜けて、馬鹿らしくなった。
もはや何を言おうとして始まったのかもよく分からない。逃げるでも拒むでもなくただ手を引き、父の体温の残る両手を握り合わせる。
「夕食はやはりいらないか?」
「いえ……いただきます」
うんと頷いた、父はまっすぐにパウルスの目を見ていた。それに居心地の悪さを覚えないでいられる日もあるかもしれないと、今日ばかりはそれを望む気持ちで思うことができた。
「──いらっしゃいませ」
ドアに付けられたベルが鳴ると同時にカウンターから振り向いたプブリウスが、よそいきの笑顔のままでわずかに目を瞠った。
近づいてきておひとり様ですかと澄まして問われるのに、こちらも見知らぬ店員にするように答えた。店内に案内する途中でプブリウスがカウンター上の時計を見遣り、小さく首を傾げる。平日の十四時は、パウルスが現れるにはしっくりこない時間だろう。
「今日はお仕事か何かで近くに来られたとか……?」
「ああ、時間ができたから寄ったんだ」
嘘だ。どうしても顔が見たくなって午後を休みにして、このカフェに来るためだけに普段乗りもしない路線を使った。そんなこととは知らないプブリウスはお疲れ様ですと言ってくれる。
ここでアルバイトを始めたと報告してくれてすぐに訪れて以来、会う口実ができたとばかりに通っていた。ラエリウスも同じようなことをしているらしい。
「相席でもよろしいですか?」
店内に客はまばらだったが、プブリウスの立ち止まった窓際の席を見てすぐに彼の可笑しげな顔の意味が分かった。
「何をなさってるんですか、父上」
こちらも素知らぬ顔でコーヒーのカップを傾けていた父が、おやと言うように眉を上げた。白々しい。しかしここで拒んで他の席に行くのもおかしな気がして、仕方なくその向かいの椅子を引く。
「お決まりの頃にお伺いします」と決まり文句を言ってプブリウスが立ち去ってしまうと、訝しげな顔をした男とわざとらしい澄まし顔の男だけが残された。
「よく来てらっしゃるんですか、ひとりで?」
「言っても連れて来てくれないだろう」
「そりゃあ……」
クィントゥスとプブリウスに会わせるかどうかにもしばらく迷い、いざ会わせると嬉しげなのにも何とも言えない気分にさせられて、ここまで連れて来る気にはならない。そもそも教えた覚えもなかった。
実家からここまで通いやすいとは言えないはずで、退職後の楽しみにはちょうどいいのだろうか。子供が手を離れるなり早期退職を選んで毎日何をしているとも知れない父である。
形だけメニューを広げる。頼むものは毎度同じだった。
「父上はコーヒーだけですか」
「いや、ホットケーキを待っている」
「は? 食べないでください」
「私が何を食べるかは自分で決めるよ」
「いや私が食べるので他のものにしてください」
「おふたりで分けて召し上がればいいじゃないですか」
件のホットケーキを運んできたプブリウスが苦笑まじりに言って、パウルスの前にはコーヒーカップを置いた。
「今日もブレンドかと思って淹れてもらっちゃいました」
「ああ、ありがとう」
「他に何か頼まれますか?」
「……いや、大丈夫だ」
厚く焼いて重ねられた甘いホットケーキを父が食べ切れるのかは大いに怪しい。
他の客に呼ばれてそちらに向かったプブリウスを、しばらくパウルスは眺めていた。経済的な理由でアルバイトをする必要があるというよりは、経験を求めてのことだという。労働とその対価について感覚を身につけ、使う側ではない立場にあることに順応すると。偉すぎる……。感慨は声に出ていたらしい。
「しっかりした子だ、お前に似ている」
父はそんなことを言ってシロップをホットケーキにかける。クィントゥスに対しても同じようなことを言って、ファビウスに息子夫婦に似たのだと釘を刺されていた。パウルスはそのどちらも否定する気はない。
しかし、偶然とはいえこうして顔を合わせられたのは都合がよかった。こちらから父に連絡を取ったり実家に戻ったりするのは、未だにどうにも億劫なのだ。
「ご報告が」
「ん?」
「近々結婚すると思います」
コーヒーを口に含んだところだった父は思い切り咽せた。プブリウスが何事かと振り返るのに気にするなと手を振る。
「そっ……そんな相手がいたのか……?」
「いたわけではありません、二週間ほど前に会ったばかりなので」
「何だって?」
「相手はそれなりに年上です。連れ子が四人」
「よに……待て、順を追って……」
「男の子と女の子がふたりずつ、ルキウス、アエミリア、ガイウス、テルティア」
目を白黒させていた父が、そうか、と呟いた。
二週間前、出張先で出会ったことこそ偶然だった。パウルスはイベント企画を請け負う企業で働き、出張が多い。これまでそれをきっかけに誰かと再会するということはなかった。
会場の下見を行っていたパウルスの脚に、突然何かがぶつかってきた。大きな公園でのことで、ここで遊ぶ子供だろうと思い見下ろした先に、ガイウスがいた。
見た目には三歳ほど、こぼれんばかりに目を丸くして自分を見上げている子供をともかく腕に抱いて、家族の姿を探した。ベビーカーを押しながらガイウスを呼ばわる女性の姿を見つけたとき、本当に、どうすればいいのか分からなくなった。
かつて二度目の結婚でパウルスの妻となり四人の子を与えてくれた、その人も立ち尽くしていた。ガイウスが「ちちうえ」と声を上げなければ、ベビーカーの中でテルティアが泣き出さなければ、いつまでもそうしていたかも知れない。
「最近離婚したんだそうです。子供を四人とも引き取って……どうやら碌でもない男だったようで」
ルキウスはすでに九歳、アエミリアは七歳だと教えてくれ、写真も見せてくれた。ガイウスがパウルスにしがみついて離れないのですぐに別れるわけにもいかず、公園そばのファミリーレストランに入った。
彼女は困窮しているというよりも、疲弊していた。離婚に至るまでの心労を癒す間もなく子供を育て、働き、記憶にあるよりずっと痩せてしまっていた。何かできることはないかと尋ねたパウルスに、この子たちの父親になれるかとすぐに返してしまうくらいには疲れ果て、自分の言葉に自分で笑っていた。
──あの頃、あなたは私ではなく、子供たちの母親を大切にしていただけだった。でも他のどんな父親よりも絶対に子供たちを裏切らずに、大切にしていたんですね。あの頃は分からなかったの。
──私はずっと怯えていました。あなたは優しかった、親切にしてくれた。あなたのことは好きでした。けれどあの方のように追い出されるかもしれないといつもどこかで怖かった。だから、愛してくれる人を選んだつもりだった。
──あなたではない人を父と呼ばせて、それが間違いだったなんて、絶対言っちゃいけないのに……。
「それで……お前と再婚すると?」
「それでという訳ではありませんが。私がそうしたいんです」
三分の一ほど残して手の止まったホットケーキの皿を引き寄せる。これはわずかにまだ迷い、怖気付きかける心を、言葉を重ねて従順にさせる作業だった。
暖かく甘い生地は尖りかける心境を宥めた。これを焼いたプブリウスの幸せをパウルスはもう疑わない、あの子は真実甥の息子となって、パウルスの手を離れた。しかしパウルスがしようとしているのは、それと逆のことなのだ。
「私は、怖い。またあの子たちを失うかもしれないと怯えて、それなのにこの縁に背を向けるなど考えられない。代償が恐ろしくて幸せになりたくない、なのにあの子たちがいれば幸せになれてしまう」
これ以上の幸運があればいっそう怯えるだろう。もはやあのような祈りを捧げる相手もないのに、未だに神々が均衡を保とうとその手を伸ばす気がする。
父はパウルスではなく、忙しなく働く孫のことを見ながら言った。
「お前が何か取り上げられる時には、私から持っていくようにお願いするよ」
父は重い決意を語ったわけではなかった。特別なことを打ち明けた風でもなく、ただパウルスの言葉に答えただけだ。そういう感覚を、よく知っている。
これもここ数日迷っていたこと、アエミリアにもまだ相談していないことだったが、口はすんなりと動いた。
「……あの家は、三人で暮らしていた頃は部屋が有り余っていたでしょう。客間も使えば相手と子供たちの部屋をそれぞれ用意してやれると思うんです」
「ルキウス──」
「父上が嫌でなければ……」
「嫌なものか。お前がそれでいいなら、無論、部屋を用意するとも」
そう言い切った父が目を向けた方から、心配げなプブリウスが彼らの席に歩み寄った。パウルスのそばに立ってふたりを見比べる。
「お祖父様、父上をいじめてないですよね?」
警戒を滲ませた物言いに父はぽかんとして、慌てて弁明を始めた。彼が孫を可愛いと思わなかったら、思っても態度に出せないでこの子たちを戸惑わせたらと、悩んだのがまるで無駄だったと教えるほど必死に。
話を聞くにつれて驚きを浮かべたプブリウスの瞳が輝き、そのきらめきが溢れてしまいそうになる。パウルスの手で複雑な立ち位置に置かれたのに、プブリウスはクィントゥスとともに弟たちを慈しんでくれた。その思いはパウルスが見守ることのできなかった数十年を経ても褪せることがなかったと、瞳ばかりが言葉なく語る。
「大丈夫です、きっと」
その祈りの届かなかった人を知っていながら、プブリウスは偽りなく心からそう言った。父がそれに頷き、微笑う。その姿は遠くでなくこの手の届く場所に、パウルスとともにあった。