top of page

第四話

 天井近くで回転するシーリングファンから吊り下げられた、色とりどりの硝子片を、彼はじっと見つめていた。硝子はぶつかり合っては悲しげに鳴り、陽光を弾く。ステンドグラスか何かを砕いたようだとわたしは思っていたが、それがこの部屋に現れたのはつい数日前のことであったので、由来は知らなかった。
 しかし、明日には知っているだろう。彼がじっと椅子から動かないで、広すぎるリビングルームの支配者の顔をしているのを、わたしはテラスから眺めている。
 彼の椅子はただ座るためのものではなく、彼の身体の様子をみなわたしに教えるための椅子だった。ほとんど毒薬のような薬のお陰で彼は低いところで安定し、時折の微睡みごとに疲れ果て、病に貪られながら暮らしている。歩くのが億劫だと言うので用意した車椅子も、このひと月は仕事がなく仕舞い込まれていた。
「あと三十分だ」
 くたりと首を曲げ、こちらを見て、彼は微笑った。そうだなとわたしは返し、テラスから部屋に入って、彼の足元にしゃがむ。毛の長いラグに預けた膝を、彼に見えないように指先で引っ掻きながら。
「手順は忘れていないな?」
「ああ、覚えてる」
「おれは忘れかけてるよ、自分で考えたのに」
「みつる、……」
 やはりベッドにしないか、と言おうとしたはずだった。ここは彼のいちばん好きな場所というわけでもなく、特別な場所ではなかった。いっそ研究室にすればいいのだ。そう思うのは三年分のわたしだったし、それ以前からのわたしは、ここでいいだろうと投げやりに言う。
 痩せてすこし皮の弛んだ手が、膝に掛けられていたブランケットを押しやる。わたしがそれを畳んでラグの上に置くのを彼は目だけで追いかけた。
「大丈夫か」
 わたしと、彼とは、いま同じ境遇にあるのだった。あと二十四分三十秒、それで何もかもとおさらばであるという点で。
 情のない声で心配されて、わたしのほうも酷薄な笑いが漏れた。馬鹿にしあっているのだが、怒る気になれない。いつもそうだ。三方の壁みな硝子張りの晴々しいこの部屋で、ずっと嘲りあってきた。
「用意をするよ、それから姫君をここへ」
「ああ……」
「石は好きな色にしよう。と言って、虹色は作れないそうだが」
「灰色」
「灰色?」
 ちりちり、ちりちり、硝子が傷つけあっている。鳶色の冷ややかな瞳がわたしを見て、まろく力を緩めた。灰色か、ともう一度言い、わたしは頷く。悪くない。
 彼の頭に乗せたヘッドギアにいくつも差されたケーブルはみな白かった。それらは床についたところで束ねられ、まとめて廊下を這っている。それに研究室まで案内されて、わたしはもう何度も唱えさせられた手順をなぞった。九割方の設定は彼自身が行っているのだから、わたしのすることと言えば確定である。オーケー、オーケー、オーケー、何度も答える。
 オーケー、それでいい。あと十五分ちょうど。硝子板にしか見えない端末を取り出して、彼の愛しい姫君に連絡を取った。彼女は身体ごとここに来られないから、心だけ寄越してくれる。
 真っ直ぐにリビングに戻ればいいのにわたしは一度、自分の部屋を覗きに行った。鈍色の螺旋階段の先にあるのはわたしの部屋ひとつきりで、頭だけ出してそこを確かめ、すぐに階段を下りる。部屋数は少ないのにぜんぶがやたらと広い屋敷だった。
「あと十二分八秒」
 呟いた声が聞こえたらしく返事があった。視界の端に戻ってきたわたしではなくて、ホログラムを見ている。小さな小さな像が彼のそばに置かれたテーブルのうえで、歌うように言葉を紡いでいた。
 一本だけ、ヘッドギアからだらりと垂らされていたケーブルを手に取り、耳の裏に差し込んだ。まだ何も聞こえず、何も気配はなく、また彼の膝元に戻ったわたしは、その静寂だけは怖いと感じた。
「たった三年、どうだった」
「悪くなかった」
「悪いことをした」
「聞いていないな、いつものことだが」
「聞いてるさ、悪いことをしたよ……」
 空気を揺らす強さもリズムも同じにわたしと彼とはくつくつと笑う。生白い手にわたしは触れなかった。彼のどこにも触れようとは思わなかった。次に目を開くわたしが、三年前と同じように困惑するのは憐れだから。
 わたしの中にある透明な石が、灰色になる頃。彼のか弱い鼓動が掻き消え、わたしが掻き消える頃。変わらず硝子はきらきらと揺れているだろう。その連続をわたしは知っているだろう。
「ちゃんと死なせてくれよ、梗」
 姫君に笑顔を贈った彼が瞼を下ろした。わたしの見上げる彼の容貌はひどく優しい。真綿のごとき信頼と安堵、針の先ほどの恐怖。
 撃鉄を起こしたのが彼なら、引き金を引くのはわたしだ。


 驚きに見開かれた、曇り空の雲を詰めたような瞳があった。ぎくりと竦ませた肩を和ませないままの正崎は言葉もなくーー恐らく何か言おうという思考が追いついていないーー目の前にいる廉と、ついさっき彼の受けた理不尽とを結びつける。肘置きに手をついた廉によって椅子に閉じ込められていることに気付いてか不器用に座り直してから、手の甲で頬に触れた。
「廉……」
 彼は廉の顔をまじまじと見て、新しい驚きを得たようだった。廉はと言えばまだ平静に程遠い。
「どうしてここに」
「だーーだって、さっき……」
 コドン社の社長が急逝したと知った。
 だから、と言おうとして、それに続く言葉を見つけられない。今日は、丸一日の休みを貰ったから同僚に勧められた映画でも観ようかと思っていた。プラティ社の寮から街に出た時点ではそのつもりだったし、チケットも取ってあって映画館に入りかけていて、本当にそうやって休日を潰す気だった。
 正崎はソファから背中を起こして、困惑している相手の名前をもう一度呼んだ。
「どうしてここを?」
 そう言われて見回すと、やたらに広いリビングルームに廉はいるのだった。テレビはないが音楽でも流すのか音響機器が一式揃っていて、白いラグの上に硝子テーブルとソファ、そのうちのデザインの異なる一人がけのものに正崎は腰掛けている。面積の割に物が少なすぎた。三方が硝子張りのお陰で燦々と太陽に照らされている。南側にテラス、その先には庭が。
 いい家だなと呟く。我ながら馬鹿みたいな、いや馬鹿そのものな発言だった。
 まだ嫌な感じが残っていて、人間ならば心臓が痛いほど動いているだろう。思考には靄がかかり、それが晴れない。緩くかぶりを振ったところでどうにもならないのに何度かそうしてから、小さく謝った。
「コドンの社長が亡くなったって」
「ああ、そうらしいな。仲宿は持病があったし高齢だったから」
「それで……」
「うん?」
「ここ、あなたの家?」
 映画館に入る間際、速報を知って、それからどうしたのだったか。取ったチケットは十一時上映のものだが、もう十二時を過ぎていた。
「わたしの家だよ。君に教えた覚えはないんだが」
「ああ、うん、そうだな……調べたような気がする。そう、調べた。宮瀬統の」
 故人の住まいは検索するとすぐにヒットした。廉が混迷を深めて髪をかき上げ、やっと気が付いて身を引く。正崎の身体をすっぽりと包んでしまうような少々厳ついソファは、ぎしりとも言わない。
「この家、を調べて……入れたから入って、そうしたらあなたがここで目を閉じていて驚いて、それで」
「驚くようなことだろうか」
「いや、分からないけど驚いたんだ。呼んでも気が付かなかったみたいで、焦って……ごめん、殴って」
 映画館に入らずに駐車場に停めていたバイクで真っ直ぐにここに来た。自分の行動をはっきりと思い出せたし、記憶に損傷の痕跡もないのに、廉はまだぽかんとしている。
 なぜそんなことを?
 正崎の質問に正しく答えられていない。廉も分からないから、答える術がないのだ。十二日ぶりに見る彼の印象がやや違っているのが髪型のせいだと気が付いたり、上着のポケットに彼の端末が入っていることを思い出したり、そういうことはできる。
「正崎さん、宮瀬統の家に住んでるってこと?」
 一介の調査員が住むには相応しくない屋敷だ。郊外の一軒家はかつて見た美杜邸ほどではなくともじゅうぶん上流の暮らしを思わせ、おそらくデザイナーなど雇って建てたものだろう。それも調べれば出てくる情報だった。
 ソファに座ればどうかと言われておとなしくそれに従う。いつものように横に流さないで額に落とされた前髪が目にかかるのを、正崎はやや疎ましげにしていた。
「ここはもともと宮瀬統が所有していた家で、いまはわたしが所有している。置いてある物はほとんどそうだ、捨てたり増やしたり、していないから」
「遺産の相続人だった?」
「ああ、そうだ。知らなかったのに、ここに来たのか」
「ごめん……」
「責めているわけじゃないが、わたしのスケジュールも何も知らなかっただろうに」
「そうなんだけど、うん……」
 追及の手が強いものではないので、廉は曖昧なことばかり言って、許されるような気になる。不法侵入になるのだろうか、玄関は苦もなく開いて、そこに違法な手段は講じなかったと記憶している。正崎には怒りが見えない。目を覚ましたときに見せた、驚愕も消え失せている。
「……記憶結晶を持っているんだ」
 持て余したような脚を組んで、彼は庭のほうを見ていた。庭と言っても芝生があって植垣があるだけ、花も咲いていない。突き抜けて青い空に散り散りに流れる雲は白くて、眩しかった。
 停止したシーリングファンがひとりでにきしりと鳴った。廉はそれを見上げ、そうだったのだと思う。そうだったのか、と答えた。
 端末を出し、テーブルに置く。硝子同士がかちりと音を立て、正崎の目がそちらに向いた。風が流れるのを音楽のようにして、この家は静かだけれど静まり返ってはいないのだ。
「埋め合わせを、と思っていた」
「いいよ、そんなの。さっきのでチャラでいい」
「釣り合わないだろう」
 そんなことはないと廉は思ったが、正崎は頷かない。十二日前に損傷した腕は綺麗にリペアされ、内部損傷も軽微、人格にもシステムにも大きく負荷がかかった様子はないとのことだ。
「次に会えるのはいつになるんだろうって思ってた」
 端末を返すのに、小包にでもして送ったほうが早いのだろうかとも。あの一件の後、廉の日常に変化があったわけではなく、十二日は長すぎることはない。正崎はなぜだか笑みを湛えていた。
「一緒に調査するのはいつか、って。あなたとはふた月で六件、仕事をした。合同調査は合計で五十件の調査を目安にしていて、まだ二十四件しか終わってない。四分の一はちょっと、多いから、もうないのかもしれないって」
「そう言われたのか、プラティで?」
「いいや。でもそうなったら少し嫌だったんだ。同僚も最近は楽しくなってきていて、コドンとの部門統合、悪くないってみんな言ってる……あなたはどう?」
「悪くないと思うね、少なくとも、君との仕事は」
 どこが満たされたのかはっきりしない充足に誘われて廉ははにかんだ。五十件の調査が終えられれば、その結果と調査員たちの報告、提案、要望、それに世論や各運動の潮流を鑑みて、コドンとプラティは新たな尊厳死制度を作り上げるのだ。
 具体的に自分たちの労働環境がどうなるか、まだ分からない。部門を完全に分離して、子会社化するのではないかという話もあった。悪くない話だ、そう、悪くない。
「なあ、廉」
 親しげに呼ばれて聞き分けよく首を傾げる。乱れに乱れた情緒は安定すると水底のように静かになる。
「その指で、一度、プラティのセキュリティレベルが最も高い扉に触れてみるといい」
「どうにもならないと思うんだけど」
「さあ、どうかな。だって君の指はこの家の扉を開いたじゃないか」
 言われて、手のひらを広げる。指先には固有の指紋がある。しかし、扉の認証は指紋だけで行うわけでなし、声紋や網膜、様々な条件を組み合わせるのだ。アンドロイドの声にモデルはいても、似ている相手はいても、全く同一の声を持つ人間はいないことになっていた。指紋も同様である。
 暫くの間、正崎は廉を取り留めのない話でひきとめた。最近九山に話しかけられて少々驚いたこと、九山を通して千雅から連絡を貰ったこと、彼女らの話は二人分でやっとひとつになるということ。数日前に扱った案件で起こった小さなアクシデント、コドン社のエントランスはまだ風通しがいいこと。
「仲宿社長の葬式って正崎さんも出るのか」
「藤吾が出るなと言うから、出ないよ」
「また喪服を着るのかと思ったのに」
 不意にスピーカーから流れだした音楽は十九年前のヒット曲だった。甘い女の声で、世の儚さを恨んでいる。これが彼の趣味というわけではないらしい、インターネットラジオの、少し懐かしい楽曲を扱うチャンネルに合わせているだけだ。
 廉は朝顔の話をした。彼の知り合いだという彼女が、いつ彼と知り合ったのだろうかと尋ねられないまま、明日にもカウンセリングがあるのだと。この十二日で既に二度も朝顔のオフィスを訪れている。
 特に不愉快そうな顔も声もなく正崎が彼女のことを聞いてくれて、安心する。見逃した映画のことに触れると正崎が一緒に行こうかと言うので、ちょうどいい時間の回はあるかと検索をかけた。彼は三連休を取らされていて、暇で仕方ないのだと冗談っぽく顔を顰めた。
「さっき、眠ってた?」
「ああ、夢を見ていた」


 目を細めるのとともに、オプティックがオレンジに光った。それが薄らぎ向日葵のような色に、赤みがさして飴色に。七色に限らない彼女のオプティックを虹色だと形容するのは間違いだけれど、他にどう言い表すべきだろう。
 朝顔の手元には、タブレットとタッチペン。彼女は先程から無意味な落書きをしては消し、時折廉にペンを任せては下手な絵にくすくす笑った。いまはペンギンを何匹も描いている。
「梗ちゃんのおうち、どんな風だったの?」
「広かったよ、インテリアは落ち着いた感じで、物が少なかった。見て回ってないから、リビング以外は知らない」
「まだあるのかしら、シーリングファンと、硝子の飾り」
「硝子は……」
 なかった。朝顔が顔を上げ、そうなの、と呟く。微笑みは彼女の常で、鮮やかな声は彩りだった。
 机の朝顔の側にだけ、紅茶の入ったカップが置かれている。あのチョコレート以来、廉が出会う彼女はいつも何か口にしていた。飴玉だとかグミだとか、水だとかコーヒーだとか、食事らしいものはなかったけれど、それだからいつも何かの香りがする。
 ペンギンは十八匹まで増殖したところで消し去られた。朝顔のオフィスに入ってまだ三十二分、この日のカウンセリングはやや長い一時間半を予定している。納谷栄正の件による余波を心配しているというのでもなくて、廉の上司からの要請でもなく、ただ朝顔が誘うので廉はおとなしく彼女の元を訪れているのだ。
 業務時間内にどう考えても必要のないことをしていても、カウンセリングだったと言うと文句が出ない。廉は午前の間にほとんど自分の仕事を片付けてしまっていて、午後は翌日の調査の下準備でもしようと思っていたので、煩わしくもない。朝顔と話すのは好きだった。この部屋が嫌いな者なんてプラティにはいない。
「廉ちゃん、最近は眠たいと思わないのね」
「そうだな、必要以上にってことはなくなった。夜に設定通り眠くなるだけ」
「悩み事がなくなったのかしら」
「悩み事なんてないよ、あれば、ここで話してるだろ?」
「そうね」
 タッチペンを滑らせ、今度は何か、人物らしいものを描いている。頬杖をついてそれを見守りながら、朝顔の意図が読めないことに廉はこれ以上なく日常を感じた。彼女の考えることはひとつも分からない。
 机をなぞって、ホログラムを呼び出す。種類を選んで鳥にした。原色の羽で飛び交う小鳥は、休む枝のない机の上をずっと迷い続けている。朝顔はあまりこれを選ばないのを知っていたけれど、彼女の目は手元に落ちているから、構わないだろう。
「それ、誰を描いてるんだ?」
「誰に見える?」
「そうだな……」
 黒一色で描かれていて、ヒントが少ない。絵本の挿絵のような毒気のない優しい絵柄だった。
「大矢充?」
 その目を見てなんとなく答えた。若くして亡くなったプラティの創設者の顔はいやというほど見ているし、いまここで彼女が描いても不思議はなかったので、後から根拠がないでもないと思い直す。
「ロールシャッハテストって知ってる?」
「染みが何に見えるか、っていうやつ」
「あなたにはこれが充ちゃんに見えるのね」
「……それ、誰なんだ?」
「私の好きなひと」
 示し合わせたように薄桃色に光ったオプティックから、咄嗟に目を逸らした。絵を見るふりをして。
 からかわれたのだ。分かってはいるのだが、他の誰かにこの絵を見せてみたいと思った。廉の考えを見透かしたように絵はまた消し去られ、真っ白なカンバスが残る。
 昨日、映画を観た。脈絡なく廉が言うと、朝顔は興味を示した。彼女はどういうわけか社屋から出ることがなく、劇場で映画を観る機会もない。同僚に勧められて、ファンタジーものを。朝顔はタイトルを聞いただけでその同僚の名前を当ててしまう。
「三部作の第一作目らしくて、あと二年位で次が公開だって」
「ぜんぶ観るの?」
「どうかな。一緒に行った相手はあんまりその気がなさそう」
 誰と行ったの? いつもならそう訊かれるはずなのに、朝顔はただ頷いた。予定していた答えは供されることなく、廉のなかに居残った。正崎を連れて行った、たったそれだけのことだ。
 映画は面白かったけれど夢中になるほどではなかった。アンドロイドの女優が出ていて、それが美しい声で人間のふりをするのを見る、それがいちばん楽しかったというくらい。
「朝顔、プラティでいちばんセキュリティレベルの高い扉って、どこだろう」
「それ、聞いてどうするつもりかしら」
 へらりと笑顔を作る。朝顔の声に咎める色合いがなく、彼女はおかしそうに微笑んでいた。扉について尋ねるとき、目的なんて最初から絞られているのだ。
 小鳥のホログラムがざらざらと崩れるように仕舞われて、今度は蝶の群れが飛び回り始める。夕日の羽を風に舞わせ、彼らは気の遠くなるような距離をそうして泳ぎ切る。燃えるような色の洪水の向こうで瞬くオプティックの色は、見えない。
「大矢充の研究室」
 プラティ社の本社南館、最上階、エレベータから下りて社員が憩いの場として親しむ展望台とは反対側に進む。広々とした廊下を曲がらずに真っ直ぐ行けば、まず磨り硝子の壁と、扉がある。正規社員ならば入ることができる。やや狭い社史閲覧室はたいてい誰もいなくて、時折社内恋愛の劇場になっていた。
 その社史閲覧室の入り口から見て左方、これも磨り硝子の扉。常に施錠されていて誰も入ることができない。誰も。十四年前から一度として開かれたことがないという、プラティ社の開かずの間である。
 大矢充は研究者だった。連動システムは宮瀬統との共同開発だったが、彼個人による発明も数多い。宮瀬とは違い、どちらかと言えば経営には向かない人物であった。ブレーンが揃っていたからいいものの、社長室とは名ばかりの個人研究室にいることが多かったという。彼が死ぬと、誰もこの扉を開くことができなくなったのだ。
 何故か。この扉を開くには大矢充の生体認証か、彼が在室していることが必須条件であったため。何故、誰も認証システムを停止させてこじ開けてしまわないのか。現社長の古豪と、CEOの萬が、そうしないから。
「正攻法で開くのが難しいというだけじゃないわ。プラティ社はあの扉を誰も開かないようにはしていないのに、解錠を試みたものは誰であれ解雇するの。開けなかったくせに、開こうとしたから」
「開いちゃいけないわけじゃないんだな」
「そうね。開けるなら、開けばいいのよ。あのね、廉ちゃん」
 伸ばされた手に薄い色の髪を撫でられる。嫌がる素振りもなくそれを受け入れているアンドロイドに、うっそりと笑みを見せて、扉が開かないのをずっと見てきた彼女は囁くように言った。
「ただいま、って言うのよ」
 磨り硝子の向こうに薄っすらと、窓から透けているのだろう青空と、壁際の機材とが見える。かつては秘書が控えていたこの小さな部屋が誰も拒んでいない理由。
 壁にも扉にも、操作できるパネルの類はない。簡素なドアノブには鍵穴さえなく、硝子を割ってしまえば早いはずだと分かる。割れば、すぐにエージェントが駆けつける。あるいは扉に干渉したのに開くことができなかったとき。
 まず認証システムを呼び起こさねばならない。起動さえすれば勝手にこちらを調べあげて、扉を開くかどうか決めてくれるという仕掛けだろう。冷房に晒され続けてひやりとした硝子は、指が張り付くようなつるつるした感触をしていた。逡巡は何と何が争うことで起こっているものやら、いま、自分でさえ分からない。
「ただいま」
 足元で、錠の回される音がした。


 夏だ。アンドロイドたちにとって季節とは、衣服へのこだわりを示す指標のひとつである。廉は季節にあわせて服装を変えることにしていた、そういう気分だからといって真冬に半袖を着たり、気に入っているからといって真夏にニットを着たり、そういうことはしない。
 車窓の外、道行く人間たちのややうんざりした顔色は他人事だけれど、日差しの重たさは感じる。パステルカラーのシャツにジーンズ、その上にプラティのエンブレムの入った薄手の上着で身を包んで、いつぞやの帽子をまた被っている廉は、隣の人物をちらと見て帽子の影で少し笑った。
 やはり夏も冬もない。シャツは暗い緑だし、上着は黒で重たげで暑苦しいし、露出が少なすぎる。何を言うでもなくぼんやりと車窓を流れる景色を目で追っていた正崎がこちらを向くので廉は手をひらひらとさせた。
 真昼の街には様々な風体の者達が行き交う。のっぺりした、陽に熱せられて高温になりそうな服のアンドロイドを見つけて、あれも季節感を気にしないタイプだろうなどと想像した。さほど道が混雑していないし、事故の情報もなく、不穏な影はないので予定時刻に到着するだろう。
 ほぼ三週間ぶりの合同調査で、プラティ社の社用車で調査対象のいる場所まで送られている途中だった。運転手のロボットの無口さに当たりを引いたと廉は内心思っている。おしゃべりな運転手の車にあたると、行きも帰りも喋り通しだ。
「安積ケヤというロボットは」
「ん?」
「変わり者だな。公団勤務の結果として裕福と言ってもいい経済状況にあって、遺言で執行人に義務付けたのはコレクションの一定期間の保管とは」
「それもアイドルグッズのコレクションだって、書いてたな。プレミア価値がついてる物があるとか」
 稼働年数五十一年のロボットだった。利用申請も、制度運用開始時に行われている。社会的地位の高いロボットは身辺を綺麗にしていることが多いし、遺す名誉を気にかけるので、調査は簡単でありがちである。
 しかし今回は少々難しいかもしれない。事前資料に目を通して廉と正崎は同じように考えていた。連動対象の申請まできっちりなされて、保証人の話にも特に不審な点はない。夜分ひとりで自宅にいて、ベッドに入った後に機能を停止したということだった。
「連動対象のこのアイドル、ずいぶん前に死んでいるのに」
「単純に考えれば申請に嘘があったんだろう」
「まあそれはよくある……」
 安積の自宅は高級マンションの一室である。公団に正規職員として所属し、管理職にあれば、こんな家にも住めるらしい。廉はプラティ社以外の給料体系などよく知らない。
「この前、正崎さんの家で流れてた曲を歌ってた歌手だ」
 キイ、と突然踏み込まれたブレーキに、廉は身を強張らせた。赤信号。上げかけた抗議の声をどうにか飲み下す。安全運転を保証される車両以外には当分乗れそうにないのだ。運転手は平坦な声でひとつ謝り、貨物は当然のように彼を許した。
 少し身体をずらすようにして座り直した廉を横目に見てから、正崎はそうだなと遅い返事をする。
 あのときの曲で人気を博した歌手が、いつしかアイドルめいた立ち位置に定着し、人気の絶頂で突然死。十三年前のことだ。死因ははっきりした情報がなく、当時は騒がれたらしい。
「酷い騒ぎ方だったよ。まだ掘ってもいない墓穴を荒らすような」
 芸能関係のこととか、スキャンダルとか、意識したことさえなかった。あまり気持ちのいいものではないのかもしれない。青信号。車は滑らかに走りだした。
 コンシェルジュ付きのマンションはエントランスまでホテルさながらである。控えめに音楽が流れ、足元は絨毯が敷かれていて、人工大理石の壁と柱がある。典型的なので緊張は誘われなかった。エントランスで待っていた保証人もまたロボット、公団の職員だと資料にある。
 アンドロイドではないが衣服を身に着けた機体は嶋と名乗った。資料と異なる名前だと指摘すると通称だという。自己管理権を得ていない機体が与えられた姓を嫌って取る手だ。あまりよくないことだが、珍しくはない。
「回収はなし、ということでしたが」
 八階の部屋に向かいながら尋ねた廉に、嶋はうっすらと疎ましげな風合いで首肯する。
「公団で再利用するそうです。古い機体なので、入手困難なレアメタルを使っているとか……調査はどれくらいかかりますか。遺品整理があって」
「予定では二時間です。疑問点がすぐに解決できれば一時間ほど」
 濃紺の扉を開き、廉と正崎を先に入れてから、彼は玄関に立ち止まった。案内してくれないのだろうかと廉が振り向いても、足元をじっと見ている。「あの」と一声、聞こえていない。「嶋さん?」声量を上げると嶋は顔をこちらに向け、ああ、と手を出した。
 今度は廉が面食らって、彼のほっそりとした手を前に反応できなかった。空調の行き届いている室内、どの部屋からか、件のアイドルの最も売れた曲が流れている。
 合意書へのサイン、じゃないか。そっと声なく、正崎が助け舟を出してくれたので、沈黙は三フレーズに収まった。ホログラム表示型の端末を内ポケットから出し、合意書に向かって定型文を読み上げてもらう。それで合意を貰ったことになり、プラティ社の調査は開始される。
 調査員が合意形成を確認したところで嶋は玄関扉を開いて身体半分出て行ってしまった。辛うじてこちらに向いている顔は表情が薄く、しかしさっさと全身を出してしまいたいのはありありと分かる。
「それでは二時間後に公団の職員も到着するので、それまでにお願いします」
「え、ええ。立ち会われないんですか」
「まあ、だって……必要ないでしょうから」
 扉は音もなく閉まった。
 甘い歌声が足元を支配している不思議な空間である。廉の苦笑に合わせて口の片端を吊り上げた正崎が短い廊下を進んでいく。突き当りの扉をまず開くと、歌声が少し大きくなった。
「これは……すごいな」
 ふたりを出迎えたのはアイドルその人、の、等身大ホログラムだった。ホログラムと言っても非常に精巧な像を結んでいるあたり高価な装置によるのだろう。先程から流れている楽曲をいままさに歌っているのは彼女なのだ。そのホログラムの背後の壁には紙のポスターがいくつか、額に入れられていた。
 リビングルームは右を見ても左を見ても同じ顔に出会うように考えられているのか、目を逃がした先にはまたアイドルが今度はディスプレイに延々と流れる無音のライブ映像の中にいて、廉は廊下を振り返るのも怖い気がする。全ての表示を止めたい、しかし何か意図があるのかと思うと触れない。
「部屋は三つだけだったはずだ、確か……」
 独り言を言いながら廊下に戻り、手近な扉を開いた廉を正崎は追いかけてこない。開いた先にまた同じ顔があって勢い良く扉を閉じた。ならばこちらを、と反対側のドアノブを捻る。
 素っ気ないほどに普通の寝室があり、廉は肩透かしを食らった。眠るときこそ愛するアイドルに囲まれたいという思考ではないらしい……ベッドサイドの催眠装置からは目を逸らした。ロボットの夢を操作して思い通りのものを見せてくれる、プラティ社が特許を持つ機械。
 安積ケヤの死体はシーツの上に仰向けに寝かされている。この機体が自分でベッドに上がり、横たわった、そのときのままの姿勢だろう。
 見た目には五十一年の経過は伺えない、当然だけれど。薄い赤のボディ、同じ色の頭部と、規則的に入る銀色の線。その線が顔まで伸びて、フェイスパーツを形作っていた。なんとなしに、人形のようなデザインだと思う。民芸品として売られている人形に似ている。
 耳に相当するパーツはなかったが、インターフェイスパネルは通常の位置にあった。屈み込んでそっと触れる。もしかすると機能停止は連動システムによらないものかも、とほんの少しの疑いをかけていた。
 指先から、少しざらついた感触のデータが入ってくる。古い機体だから処理の仕方が少し違うのだろう。しかしそれ以外に特に変わったところはなく、読むことができる。ある程度整理された遺言を期待できる感触があった。
 ーーまだ生きている。強い言葉。まだ、まだ。まだ生きているから。残留情報はその言葉の厚い膜に覆われている。掘り進むと死者が遺すと決めた言葉が浮かび上がる。封筒に入れたみたいにして残っていた。
 きちんとした解析にかければ全ての情報が復元されるとしても、調査員が欲するのは死へ糸を伸ばす情報だけだ。死の状況を示す情報はどこだろう。遺言の執行について気にしている。公団での仕事の引き継ぎ。連動システムは殆ど突然死の予告であるからして、無理からぬ懸念だ。
 死体には催眠装置が繋がっていた。歌姫が歌っている。彼女が有名になる前、ひとつのイメージを付与されるより前に作った歌だ、私はこれがいちばん好きなのだ。拙い言葉、ありきたりなメロディ、安っぽい主題、普遍的な全てを手にする彼女こそ、最も……。
 今夜もあの曲が流れている、人はあの歌声と彼女を結びつけている。彼女とはあの歌の影なのだと言う人がいた。正しい。私はそうは思いたくない。今夜も流れる。人はその歌の影を見る。
 まだ生きている。
「……あ」
 どん、と背中に衝撃があった。扉に背中を打ち付けたのだ。扉に襲いかかられたわけではなく自分で飛びのいてバランスを崩した。
 そのまま床に座り込んでしまって、自分がひどく動揺しているのに彼はやっと理解が追いついた。驚いたのかもしれない、けれど驚いたくらいで、飛び退くのはともかく震えるだろうか。
「廉?」
 声がかかるのと同時に内開きの扉が押され、正崎はその重みに少し戸惑ったようだった。障害物が廉自身だと気が付いてか、もう一度呼ばれる。体重をかけて扉を閉めてしまいたい気がした。
「どうした」
「…………」
「何か問題があったのか」
「いや、ない……ない、報告書も書けるし、いや、でも」
 自分が今しがた得た残留情報を消去しようとしていることに愕然とする。全て吸い出すより前に指を離したので、廉の中には不完全な遺言しか残っていない。しかし厚い膜の内側はみな手に入れた。それを何故消そうと言うのか。
 床に手をつき、どうにか立ち上がったが、ふらふらした。帽子が落ちてつま先に当たる。頭が冴えているのに足元が覚束ない、まるできちんと神経が通っていないようだった。扉を開いて部屋に入った正崎の顔を、そろりと、目だけを動かして確認する。彼は怪訝そうに、ベッドの死体と、プラティ社の調査員を見比べた。
「情報は得られたのか」
「ああ、……」
 廊下の先から、甘い声が聴こえた。いちばん好きな歌。
「ちゃんと、読めた。大丈夫だ」
「嘘をつくな」
「は?」
「他でならともかく、いま嘘をつくのは、らしくない」
「なんで」
 なんで分かる。言ってから完全な失言だと悟り、正崎の顔を見れなくなった。彼を押し退けて部屋を出る、リビングルームではなく玄関の方に向かって、しかしそこで足を止めた。
 陳腐な歌詞をいやに悲しそうに歌っているのだ。それが好きだったらしい安積は、歌姫が死んでから十三年も、これを聴き続けていた。病気だ。
 足音で正崎も寝室から出たのが分かった。彼の方はリビングルームにまた入っていった。追い打ちがないことに微かに失望を覚える。先程の言葉もおよそ叱責とは程遠かった。ーー歌が止まる。
「廉」まるで初めて呼んだときのような響き方だった。「仕事の続きは?」
 ここにいるのが部長だったら、廉はきっとまた寝室に戻って、死体に指を触れただろう。しかし彼のそばにいるのは正崎だけで、なんということか、正崎の言葉というのは廉にとって縄にはならないらしい。
 自分の額から頬、顎にかけてを手のひらで撫でた。滑らかな、同じ素材だが少し違う感触同士が擦れ合う。戻って、情報を得直さなくては。こうする間にも自壊は進み、先程までならば得られた情報が得られなくなる。あるいは変容するかもしれない。同じ作業をもう一度。
「嫌だ……」
 呻き声にもならなかった。呟きがやたらと高く響いた。
「嫌?」
「よ、読みたくない」
「やはり問題があったんだろう」
「そうじゃない」
「ウィルスでも?」
「いいや、そうじゃないんだ」
「安積の連動対象は?」
「申請の通りだった……」
 歌が消されるとここは静かだ。雑多な空気を避けた場所にあるマンションだから、音を選ぶことができる。こんなところを選んでまで彼が没入し続けた、十三年間。
 どう言えば正崎に伝わるものか、見当もつかない。廉ははっきりと嫌だと言えるのだが、何が、どうして、が言えない。かつて彼にはこういう心持ちになって沈黙し、周囲を困らせる癖があった。癖を出さないために、はっきりと予感のある対象を避けてもきた。
「虚偽の報告をするのか。わたしは君の代わりに仕事をしてやれない。他の調査員を呼べば評価に響くぞ、もうすぐ労働義務期間が終わるんだろうに」
「自分と会話してるみたいだ」
「手を引いてやろうか?」
「手……?」
 どちらの意味だ、と思い、手首を掴まれて文字通りの方だったと知らされたが、それは嫌だと思わなかった。
 ぐいぐい引っ張られて、寝室の前に戻される。灰色と白と、アイボリー、それくらいしか色がない部屋だ。ベッドの頭側に窓があり、カーテンがつけられていない。
「嫌なんだ」
 往生際悪くまた言うと、帽子を拾い上げた正崎が廉の顔を覗いた。努めて視界に入れなかったのに無理矢理侵入されては、あからさまに目を逸らせない。
 首を傾げた彼は一体何を診断したものだか、否応なくまた廉の手を取った。光る指先。それだけで意図は明らかだし、応えるのもよほど楽なのだ。しかし廉の指先はただの指のまま、ぴくりともできない。
「まだ生きているって」
「遺言か」
「昨夜の、二十三時七分四十秒まで、そう思っていた。そのとき安積はあの装置で夢を見てた、夢でも歌姫に会おうとしていて、毎日そうしていたんだ。マニュアルには、週に四日を限度にってあるのに……」
 彼女の歌は毎日どこかで聴くことができる。笑顔はどこかで見ることができる。未だに消費され続けるアイドル、過去の美しさの象徴、あの日へのよすが。安積が強いて耳にし目にすることを望んでいたことを差し引いても、もう存在しない人間の姿はあちこちに存在していた。
 それを、まだ生きている、と。ある面ではそれだけのことだった。
 連動システムは、対象の死を条件とするのではない。死の認識こそが条件であり、そこにはシステム利用者の考えやバイアスが大きく影響するものだった。はっきりと生きているものに連動する者だけではないのだ。はっきりと死ぬものだけに連動する者だけでもない。
 とうとう廉は、指先から語ることに逃げた。口を開いてもため息くらいしか出てこなかった。同じように光を灯した指先を通して、言い表せないものみんな投げ込んだ。まるで、遺言を整理しないで死んだ、数々の調査対象と同じことをしている。迷惑がったことも一度や二度ではないくせに。
「記憶のなかでの不死か」
 そして、正崎にかかるとみんな一言で片付いてしまうのだ。
「安積が対象としたのが生物としてではなく、偶像としての彼女だったから、十三年の開きが生まれた、ということか」
「そう、……そうだ」
「……君のくれた情報には、何が安積に死を感じさせたのか、が欠けている」
 そこに触れた途端に飛び上がってしまったのだから、そうだろう。廉の元でもその情報は明確性を持たず、感触ばかり残されている。その感触に、まるで熱湯に触れたみたいになった。
 音楽はなく、ホログラムも消されたリビングルームに誘導されて、ソファに座らされた。宮瀬邸にあるものと同じような座り心地だ。正崎はスツールに腰を下ろす。
「あと一時間と三十五分。一時間を迷うのに使っても間に合うだろうな」
「一時間も付き合ってくれるのか」
「君への埋め合わせ、小分けにしていこうと思ってね」
 いま考えたに決まっている理由だったが、廉にはとてもよいものに聞こえた。構わないのだと錯覚できる言い方だ。正崎は最後には見逃してくれないだろうと思うからこそ。
 無言はよい方向に物事を進めない。そう言ってやまないのは朝顔だった。廉も同じ結論しか見えない道を一人で歩くのは厭わしかった。
「わたしがここにいないほうがよかったな」
「え、どうして」
「ひとりきりなら、仕事から逃げようなんて考えもしないだろう」
「……そうかな。飛び出していたかも、この部屋から」
 調査において出会すトラブルに甚だしく動揺したことは、少なくとも合同調査が始まるまではなかった。プラティ社がコドン社よりもある種まともな顧客を相手にしているということではない、同僚のなかには残留情報を狙われて傷害事件に巻き込まれた者だってある。
 たまたま、廉は、運がいい。与えられる仕事を選ぶ立場ではないけれど、上司は調査員の向き不向きを考えてくれるし、冷徹な人ではない。早く自己管理権を得たいと思うのは現状への不満の大きさによるのではないのだ。ただただ、社に所有される自身の有様が空恐ろしいばかりで。
 知らぬうちに逸れていた目線を話し相手に戻すと、彼も同じことをしたところだった。不格好な目配せ。
「原因は夢かな」
 あの催眠装置を思い浮かべたらしい正崎が、これで正解かと目を瞬かせる。眠ったまま死んだのだからそう考えるのは自然だったし、正しかった。
 誘夢装置と言うのだ。開発者は大矢充で、そもそも夢を見ることが稀なロボットに、望ましい夢を与える装置。人間も自己催眠でそういったことを行う者があるらしいが、ロボットの場合はより確実だった。夢を誘導する、つまり、休息状態に見るメモリの再構成イメージを操作する。
「販売停止になっていたと記憶しているんだが」
「長期に渡って使うと、操作した夢のほうに思考が寄って、精神異常を来す機体が出た。いまは治療用にだけ使われてるけど……五十一年だからな。回収要請を無視して所持し続けたんだ」
 十三年間の熱狂はその精神異常の一端ではないか。廉はたかだか五年弱の時間しか知らず、何かに夢中になって追いかけるということも知らないからこそそう考えてしまう。
 ホログラムは消えていても、目を転じれば液晶のなかで歌姫が笑っているのだ。ひとつやふたつではなく、まるで絵画を飾るように壁にかけられたそれらの音をみんな聴き分けて、酒に溺れる人間の真似をしていた。夢でだって彼女を選んだ。仕事については勤勉で、業務態度を高く評価され信頼されていた機体が、真実関心を持った相手は自身でさえなかった。
 ああ、駄目だな。独りごちてずるりとソファに背中を沈めた。調査対象について、あまりに鮮やかに息づく情報を得るばかりに、親身になってしまう新任の調査員は多い。いつしか慣れきって、感情移入は劇場を出るまでの一時限りになるものだ。
「調査報告書を書くとき、あなた、どうやってあんなに冷たい文章を書いてるんだ?」
 稲角についての報告書に、愛しているからなんて文言はなかった。正崎の作る報告書を廉は合同調査が始まって以降は毎回読んでいるけれど、とにかく冷ややかで、上手い。
「事実ばかりでなくて、解釈も交えないといけないのに、どうして、感動みたいなものがないんだろうっていつも思うんだ。俺も下手な報告書を書くタイプじゃないけど、真似できない」
「さっき、報告書は書けるって言っていただろう」
「……嫌味だな」
「思うに、廉。君はいま物凄く個人的な動機だけで座り込んでいる。一山越えれば、報告書なんてすぐさ」
 そこでにこりとされて、そういう顔で笑われたことはなかったので、廉は自分がひどく頼りないもののように思う。頼りないというのが間違いなら、弱い、小さい、ともかく彼を前にして萎縮する存在に。あの倉庫で似たような心地になったこともあった。
 くっきりと笑うと正崎からは彼自身の面影が消えるのだ。歌姫の笑顔に似ていた。彼女はただの人間で、この国に生まれてこの国で死んだ、ごくふつうの女性だったが、いまの廉にはそう捉えきれない。そう、歌姫。アイドルじゃなかったのか?
 猶予の一時間のうち三十分をそうして溝に捨てた。
 広いが彼の家ほどではないリビングを見回していた正崎が立ち上がって、音響機器の前に進んだ。彼が手にした古風にも程があるLPレコードはグッズのひとつとして販売されたものだ。
 安積が三枚のレコードのためだけに購入したプレーヤーに、うち一枚がセットされる。針が溝に落ちて、聞き慣れない引っ掻き音が控えめに響いた。
「彼女の歌ならこれが好きだった」
「正崎さん、こういうの聴くんだ」
「わたしが聴いていたわけじゃないよ、横で聴いていたんだ」
 ピアノの旋律と、これまで廉が聴いてきたなかでいちばん落ち着いて、低められた女の声。
「誰の隣で?」
 答えがひとつしかない気がしたので訊いてしまった。廉に背を向けたままの正崎はまるでショーウィンドウを前にして立ち止まったという風情で、答えない。白い指先がスラックスの上から脚を叩いているのだがそれがてんでリズムに合っていなくて、見ていると調子が狂った。
 ああ、あなた、ここにいたのね、探していたのよ、あなたを失うよりずっとまえから……。
 歌姫の経歴のなかで派手な役割を負わなかった歌だが、安積は何度も何度も聴いたはずだ。レコードを擦り切れさせたくなくて、きっと、他の音源から。
 あの扉とその影のはざま、あなたの足元を通り抜けた風が揺らす、硝子の窓とわたしの指先のはざま。
「ゆびさきからあなたが聞こえる」
 ここを聴かせたくてレコードを出してきたのか。
 嫌悪と恐怖を紐解くのに何が必要か、なぜ、彼が知っているのだ。立ち上がろう。そうあまりに明瞭に考えを浮かべることが意思の弱さを物語っていた。本当にその行動を起こすつもりなら、言葉として浮かべるより先に、立っているものだ。
 廉には少しサイズの合わない帽子が被せられた。目深になったのを直すと、視界に入り込む影がある。
「ほら、手を繋いでいてやるから」
 まるきり馬鹿にした気障なやり方で差し出された手を、払うかどうか、迷ってしまった。彼は少々せっかちだから、一曲を聞き終わらないうちにそんなことを言って廉を揺り動かす。
「これは、違反にならないかな」
「わたしたちがいつもしてることと、そう変わらないさ」
「それもそうだ……悪い先輩に捕まった気分だ」
「誰も君のせいだとは言わないよ」
 死体は変わらずに眠っている。拘りの感じられない寝具、日焼けしたヘッドボードから、連想できることは多い。一度そうしたのと同じになるように意識しながら指先を触れた。
 肩越しに振り返った左手の光に人間がするように息を吐いた。どれだけの情報が崩れたか分からないが、既に得たものと照らし合わせれば、不足があるということはない。正崎が同じものを見ている。だから、もし、また手が離れてしまっても、彼が理由を見つけてくれるだろう。逃げ出す寸前に見えたあの光景のなかにいたものが、何か。
 瞼を下ろした。他者のなかに沈みゆく曖昧な感触を、しっかりと指先が追ってくるのを、確かめた。


 ーー割れんばかりの拍手、歓声、叫びが木霊して、あちこちを跳ね返る。凶暴なまでの熱を孕んだ照明がたったひとりだけを浮かび上がらせていた。客席は闇だ、黒く塗りつぶされ、そこには大勢がいて、誰もいない。
 デビュー十周年記念のコンサートは、彼女を活動初期からずっと応援しているファンのために演出されていた。あの日、あのとき、みんなでいっしょに、こんなことがあったね。夢を見せる手管を知り尽くした誰かがまるきり集団催眠をかけるようにして、観客に思い込ませた。彼女はいつもあなたの力で立ってきたと。
 そしてみんな、自分だけが彼女の隣にいたと思っている。自分だけは、そう思わない、私は何度もそう繰り返してきた。彼女の背後にいるプロフェッショナルに騙されていないという優越感、そのうえでステージに立つ人間を支持し続けている満足感は、計り知れない。
 数えきれない目の向かう先で、歌姫が歌っている。彼女が有名になる前、ひとつのイメージを付与されるより前に作った歌だ、私はこれがいちばん好きなのだ。拙い言葉、ありきたりなメロディ、安っぽい主題、普遍的な全てを手にする彼女こそ、最も彼女らしい。
 そして今夜も最後には、あの曲が流れている。人はあの歌声と彼女を結びつけている。彼女とはあの歌の影なのだと言う人がいた。正しい。私はそうは思いたくない。今夜も流れる。人はその歌の影を見る。
 真っ青な瞳が少女めいてきらめき、泣いているのかもしれないときりきりとした焦燥が私を揺らした。その瞳が順繰りに客席を旅し、そうして最後には私を見た。
「ねえ」
 彼女が歌っている。私がある意味では憎む、しかし、いつもとうとう諦めて美しいと認めざるをえない歌だ。彼女は、いつも、同じように歌うのだ。
「ねえ」
 皆、彼女が自分を見たと信じる。私だって信じてしまおうと思うことがある。恍惚に浸り、愛されている錯覚に酔いしれて、この夜を過ごしたい。毎夜足を運ぶ私を、いつか、覚えてくれやしないかと思う。変わらぬ歌声がいつもどこかで流れていた。それが、途切れ、途切れて、探さなくてはならなくなった。しかしどこかで彼女は歌っている。
 まだ生きている。だからこうして、誰もが知り、誰もが知らぬ彼女が歌っている。
「ねえ、聞いて」
 歓声に打ち破られない歌声が響き渡っていた。彼女を呼ぶ有象無象の怒号など彼女の足元を崩しさえしない。私は、だから、聞こえていなかった。
 マイクが放り投げられて、どん、と衝撃音が闇を叩いた。足元を転がったそれを顧みずに、彼女はステージから跳んで、どこかに立った。どこか、分からない。見えない。
「私、寂しいんだ。どうしてかわかるでしょう……とても寂しいんだよ」
 孤独を歌うのが似合う人だった。だが、彼女は泣かないし、そんなふうに、乞うような目をしない。いつか、本当にあなたは人間ですかと尋ねた記者がいた。
 名を呼ばれて、私は叫びだしそうになるのに、声など出ないのだ。なにせここは、彼女のためだけの場所であってーー彼女が生きる最後の、場所であるから。
 闇にまぎれてしまいそうな灰色の衣装を着た彼女の指先が私に触れた。
「とっても寂しい。だから、会いに来て……」
 青い瞳から溶け落ちたように、涙が白い頬を伝った。

bottom of page