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第六話

 クロゼットの奥、埃こそ積もっていないが長く放置されていた様子の小箱から硝子片が出てきた。色とりどりに塗り分けられていて、数えてみると虹の七色だった。
 シーリングファンと、硝子の飾り。
 廉はこれがそうなのだとすぐに分かり、艶やかなままの硝子をすぐに小箱に戻す。小箱は傍らに積んだ箱の上に足した。オフホワイトの箱をみな出してきてくれ、とのことだった。
 宮瀬邸はどこもかしこも整頓され、掃除が行き届き、いつでも人間による生活を受け入れられる状態になっている。いま廉がいるこの部屋はおそらく宮瀬統の寝室だが、ベッドにはシーツが敷かれ、掛け布団も枕も揃っていて、それらは色褪せてもいない。しかしそれでいて、いまここに生活があるようには見えなかった。
 広いベッド、壁の絵画、作業に適した机はないが小さな丸テーブルがベッドサイドに置かれ、本が一冊そこに乗っている。クロゼットは廉が開いているものの他にもう一つあるが、そこには箱はなかった。生活のなかで居場所を定められたままそこにある時計や、ネクタイ、鞄、ごく普通の人の持ち物。
 そして廉が用事のあるクロゼットには衣服が入っており、それらはクリーニングに出され戻ってきたときのままの姿だった。その陰には大小の箱、みな同じオフホワイトで例外はなく、中には一応の分類のなされた小物などが収められている。
 ぜんぶで十五個の箱を一度みなクロゼットから出してしまって、廉は扉を閉じた。抱えられるだけを抱え、部屋を出る。スリッパと床のぺたぺたと触れ合う音を聞きながら入ったリビングに集められているのは宮瀬統の遺品である。
「ああ、ありがとう……」
 床に座り込んで箱を開いていた正崎が顔を上げて言うので頷く。昼前の日差しで膝のあたりまでを暖めながら、彼は箱のひとつひとつを開いては中身を確かめていた。
「これと、まだ寝室に十一個ある。他の部屋は?」
「それで全てだよ、他にはないから」
「……宮瀬さんは二階で何してんの?」
「寝てる」
 いつものことだから、気にしなくていい。正崎がちらと口の端を上げ、廉が床に下ろした箱を撫でた。彼らの頭上で回転するシーリングファンが理想的な温度の空気をよりよく巡らせていた。
 ここに何度も来ることがあるかどうか、想像もしなかったのに、廉は彼に招かれてこの家を訪れている。来てくれないかと言われて用事を聞く前に諒解し、用事を聞いた後も特に嫌がらなかった。
 寝室とリビングを何往復かして箱を運び終えると仕事がなくなって、前に訪れた時にかけたソファに浅く座った。正崎の周囲に数十個の箱がやや無秩序に置かれている光景というのは、異様だった。膝に肘を置いて指と指とを触れ合わせているのにはすぐに飽きる。
「玄関開けたら宮瀬さんがいて、びっくりした」
「それはすまなかったが、別に彼も驚かすつもりで待ち構えていたんじゃない」
「待ち構えてたのか」
「きっと機嫌がいいんだ、今日は……」
「その箱、さっきも開けてた」
 ぴた、と手を止め、中身を覗き込んでから、正崎はその箱を脇に除ける。あぐらをかいて真剣に作業している顔つきだが、見る限り既に確認した箱と未確認の箱はめちゃくちゃに混ざっていた。
 だが廉が気が付けるのに彼が気付けないのは少しおかしい。動作だけを見れば彼は、開き、覗き込み、閉じ。ただそれを繰り返している。
 遺品整理をするから手伝ってほしい。正崎はそう言って廉を彼の家に上げ、廉は箱を運んでやった。しかし、整理する必要など微塵もないほどきちんと仕舞われていたものをどうする気なのか。彼は箱の中身に触れていない。
 廉が話さないとリビングは静かだ。箱の素材が擦れ合う音と、壁の向こうからの蝉の大合唱。八月の半ば、二週間の長期休暇を貰っている廉は非常に暇で仕方がなく、それも正崎の招きにすぐに応えた理由のひとつである。それだけではない。それだけだと嘘を吐いてもいない。
「あなたって本当にここに住んでる?」
「ああ。どうして」
「生活感っていうのかな……ないから。あの寝室、あなたが寝てる感じがしないし、服も、時計なんかも、動かしてないんじゃないか。その割に埃はぜんぜん積もってなかったけど」
 不意に手招かれ、彼のそばに立った。更に手招かれてしゃがみこんだ廉に小さな箱を示し、正崎はすぐにそれから顔を背ける。
 その中には緩衝材に包まれた硝子の置物がいくつか。はっきりと何と言えない曖昧な造形で、モチーフとして多くの動物を挙げられそうだった。
「わたしの部屋は二階にある。そこも、あまり使ってない」
「そこでも寝てない?」
「そうだな」
「じゃあどこで寝てるんだ」
「その椅子」
 およそひと月前に正崎が眠っていたのは確かに、いまは無人で寂しげな姿のリクライニングチェアだった。留め具を外せば安楽椅子のように揺り動くこともできるのだろうデザインで、眠り心地は人間だって悪くはないだろう。
「どうして宮瀬さんはあなたの部屋で寝るんだ? 父親の部屋じゃなくて」
 翼の生えたアザラシに見える置物を緩衝材から取り出して日光に透かす。するとまったくの透明に見えた硝子のなかで虹色が輝き、それは角度によって青が強かったり赤が強かったりした。一秒だって同じ色合いで留まってはくれないらしい、どういう設計なのだか分からないが。
「……父親じゃないだろう?」
「ん? ああ、叔父。でも養子だから父親でも間違いじゃない」
「藤吾に直接言うなよ、わたしが怒られる。……彼は、そうだな。あの部屋で暮らしたことがあるからだろうな。訊いたことはない」
 基本的な経歴、ネットで拾える情報ならすぐにみんな集められるけれど、血肉のある過去はこうして誰かの口を介さねば知ることはできない。しかしどうにも会話に気の進まない様子を見せる正崎に、廉は追及をやめた。
 玄関先で出会した宮瀬藤吾は挨拶だけきちんとしてすぐに螺旋階段を登り、それきりである。あの人間のラフな服装も櫛を通しただけの髪も見る予定はなかったがしっかり覚えてしまった。
「これ、可愛いな」
 筆記具が入っている箱を膝に乗せたまま、正崎は眼前に翳された硝子に少し目を寄せた。
「何だろう。兎かな? 手足の大きい兎が逆立ちしてる」
「さあ……」
「うわ、牙がある」
 床に尻をつける拍子に肩と肩がぶつかると、正崎は大袈裟なくらい傾いた。すぐに戻ってきた彼は手を伸ばすと、廉に腕を下げさせた。
 やめろと言われないのをいいことにテーブルに置物をみんな並べていく廉は、箱を覗き込む横顔を時折盗み見た。彼はほんとうに中身にはひとつも触らず、それじゃあ何が入っているかの確かめにはならないだろうに、目ばかり落としている。
「……処分するの?」
 宮瀬統の遺品は、正崎の持ち物であるはずだった。この家がそうであるように、彼は捨ててしまったらしいが特許や諸権利がそうであるように、あるいは名前でさえ、望めば持てるように。
「いや、本当は探しものをしてるんだ」
「そうは見えなかったな」
「これでも進歩しているんだよ。藤吾が来るまでは探そうという気を起こさなかったし、君が来るまでは箱に触れる気がしなかった。いまは中身を見てる」
「はは、それは大躍進だ。探してるのは何? 手伝おうか」
「そうだな」
 断られると、思ったのだ。
 正崎は廉が不規則に並べた硝子のけものたちに目を伏せた。全部で七つ、箱に入っていたのだった。正崎が手にしていた箱が手渡される。やたらと軽くて、きちんと物が詰められていない。
「石を探してる。ちょうど……君の瞳と同じような色だ。大きさは三センチほどで、楕円形」
「どこに入れたか、分からなくなった?」
「ああ。その部分のメモリが破損していて」
 思い出せない。ーー廉は軽い相槌を打って渡された箱を開いた。栞がいくつも入っている。最も小さな規格の箱にしても、薄い栞数十枚だけを入れるのは合理的でない。
 書店で紙の本を買うとついてくるものや、手作りらしいもの、押し花がラミネートされたもの、時折プラスチックやアルミで作られたものもあった。石はない。廉が蓋をして、それを自分の側に置くと、正崎がまた小さな箱を寄越してくる。
 ケースに収まった万年筆、仕事関係のファイル類、数十年分のアナログな手帳、試作品らしい見たことのない小型端末、たくさんの空箱、どぎつい色をしたマスコット。
 本当に宮野統の私物なのかと疑ってしまうようなものを混じえながら、箱には様々な物が入っている。
 正崎は掘り返される遺品に眉ひとつ動かさなかった。廉がこれは何だと尋ねると答えてくれ、気まぐれに手渡すと手に持つけれど、すぐに箱に戻したがった。
 あと数個、というところで、軽く鋭い音を聞いた。正崎が手に取った箱の中で、硝子がぶつかりあっている。どうしてあれは何かしら保護するもので包まれていないのだろう。
 虹の七色。硝子片に結び付けられたピアノ線は白く丸い金具に等間隔に繋がっている。吊るすためのものだろう金具を手に取り、掲げてみれば、ゆらゆらと回転しながら硝子がちりちりと燦めいた。ピアノ線の長さは様々で、円形の金具は二重になっていた。赤ん坊をあやす道具にこういった物があった、といらぬことを考える。
 しばらく揺れる硝子片を見上げていたが、正崎の目が逆方向にあるのに気が付いて廉も目を落とした。箱の隅、影になって見えないようなところに、小さく見失ってしまいそうな石があった。
「なんだ、この箱は一度開いたのに気が付かなかった」
「…………」
「正崎さん、これでいいんだろ?」
 取り出せば確かに、廉の瞳に似た色合いをしている。ただ透き通らず不透明な色合いで、揺らすと薄い膜の向こうでその色が揺れているように見えた。
「正崎さん」
 手を差し出す。開かれた手のひらにそれを乗せ、廉は硝子の飾りを箱に戻した。
 それが記憶結晶だということは、聞かずとも分かった。石と言い、実際に石として存在するのだが、自然に存在するどのような鉱物とも違う姿を持つ、人の手による宝石。
 正崎や廉ならば、専用の装置に繋がなくとも指先から中身である情報を得ることはできる。記憶結晶は調査に関連することがあると認められ、彼らの機能はそこに及んでいるのだ。けれども正崎の指先には変化がなかった。
 廉は、口を開こうかどうか考えている。彼は正崎にいつも質問をしていた。そうしないとこのアンドロイドのことが分からないし、彼の間にあるものもないものも分からない。正崎ははじめから彼の指先を差し出していたから、許されざることとは思わなかった。
「……それ、何が入ってるんだ」
「大矢充」
 ぐ、と彼の指先に力が入る。石は頑丈で、人間と同程度の力しか持たないアンドロイドに砕くことはできないのに、壊してしまうのかと廉は危ぶんだ。
「大矢と宮瀬が、……大矢がまだ少年だった頃に、記憶結晶の開発者と知り合って、作った。試作品で、いま流通し使用されている記憶結晶とは微妙に違う。一般的な読み取り装置では開けない……」
「あなたや俺でも駄目だな、それじゃあ」
「ああ……」
「宮瀬統の石もあるんじゃないか?」
「ここにはないよ。大矢の遺品を探せばあるだろう」
「なぜ、……」
 正崎が廉の顔を覗き込む。彼の手のひらの上で、心の主たちにより交換された石は息づいていた。膝の上に置いたままの箱を抱え、廉は灰の瞳のなかでこちらに焦点を合わせる白の円を見返す。
「捨てようと思って」
 微笑んだ彼がそのまま立ち上がりゴミ箱のある方へ歩いていってしまいそうで、廉はその手を取った。腰を上げてさえ、体勢を変えてさえいなかった正崎に面食らった顔をされても気を緩められない。
 彼が手の中の石に手のひらの熱を移し、廉が彼の手首に自分の熱を移した頃に、正崎は二階を見上げた。部屋の構造から言って、彼が見上げた天井の上には部屋はないが。
「藤吾を起こしてきてくれないか、昼食を食べさせないと」
「い、嫌だ……気まずい……」
「大丈夫さ。目覚めはいい方だ」
 肘で急かされて渋々立ち上がり、中身を検めず数個余った箱を跨ぐ。広げに広げた遺品を片付ける様子もなく座り込んだままの正崎を一度だけ振り返ったとき、彼の手にはもう石がなかった。
 螺旋階段を上がり、そのまま扉もなく続いている一室に顔を覗かせた。南向きに丸く開かれた窓はブラインドが下げられていて、部屋は他の場所に比べるとやや暗い。
 物の少ない部屋である。そのうえほぼ使われていないというのだから、哀れなものだった。西に枕を向けるベッドの暗色のシーツの上に、倒れこんだそのままといった格好で眠る人間がいる。廉は足音を忍ばせて部屋に入り、カーペットの敷かれていないフローリングを足裏で擦るようにベッドに近づいた。
 どう声をかけるのが正解なのか、聞いておけばよかった。自分の腕を枕にして物静かに寝ている宮瀬は、相変わらず物々しさの抜けない眉間をしている。
「あのー……」
 夏物のシャツは触れてみると素材にこだわりのあるものだと知れた。こちらに向けられた背中を数度叩く。
「宮瀬さん。そろそろ起きろって、正崎さんが」
 身動ぎと、やや不明瞭な返事。開いた目が霞むのか何度か瞬きを繰り返し、額をひと撫でしてから、宮瀬は廉に気が付いた。意外そうに丸くなった目の下には隈がある。はっきりとした色合いの鳶色の瞳に映る廉は彼に負けず劣らずの困り顔だ。
「正崎さんに頼まれて」
「ああ、ありがとう……」
「……いえ」
 目覚めがいいというのは嘘ではないらしい。身を起こした宮瀬は枕元に投げ出していた端末を手に取ってすぐにベッドを下り、スリッパを探した。ベッドの下に入り込んでいたのを差し出してやればまた礼を言って、階段を下りかけたところで振り向く。どうかしたのかと声をかけられて、自分を待ってくれているのだと気が付くと小さくはない衝撃があった。
 嫌われているに違いない。理由は知らない。しかし、いま廉を待っている男は穏やかで、気後れを覚えさせなかった。
「まだあなたの話の意味は分かっていないんです。でも訊きたいことがあって」
「何だね」
「……質問していいんですか?」
「気が変わらないうちにな」
 壁に肩を預け、重心を片足に乗せて。多少の長期戦にも耐えうるような姿勢を取られてしまっては、幼稚な理由でやはりいいと撤回するのは難しかった。
 ちょうど二週間前は雨だった。からりとした空の下バイクを走らせてここに来るまでに廉は幾度となくあの雨音を思い返した。
「朝顔の機体、どうなりましたか」
 コドン社の顧客は例外なく機体回収を受ける。プラティ社からあの日のうちに運びだされた機体の行方は、調べたとて知れることではなかった。予想はつくのだ。プラティでの処理過程とそう変わらぬものがコドンにもあるはずだ。
 宮瀬は機密のことを思っているのか、腕を組み窓の方に視線を遠ざけた。
「梗に尋ねればいいだろうに」
「流石に、それはちょっと」
「そうか? 彼女の機体は通常通りの処理を行った。再利用可能部品を取り除き、再利用に適さない部分は廃棄。データは物理的に消去された。公団の干渉もなく、平穏無事に」
 何も特別なことはなく、何も特別に遺されることもなく。
「訊きたいことはそれだけかな」
「じゃあ、もうひとつだけ」
 戻るのが遅いことをそろそろ不審がられてもおかしくない頃合いだった。梗がわざわざ廉をこの部屋に踏み入らせた理由、分からないわけではない。
「どうして正崎さんはこの部屋で眠らないんですか」
 宮瀬のすぐそばの壁紙には、大きな傷があった。重いものをぶつけられて壁材がへこんだのをそのままに、薄いグレーの壁紙がそこだけ、白くその裏側を覗かせている。
 廉の視線につられてそれを一瞥し、宮瀬は少しだけ眉を緩めた。刻み込まれて薄らぎもしない眉間の皺と、その傷とは同じものだった。
「この部屋で眠ることができなかったからだろう」
「いつ……」
「三つ目の質問か、それは?」
「あ、いえ……すみません。引き止めました」
 関心を見せずに宮瀬は頷き、部屋に背を向けた。階段を叩くスリッパの軽い音が遠ざからないうちに、廉も一階に戻った。
 眠ることができなかった。ありふれたことで、おかしさなどなく、疑問を挟む余地などないように思われた。しかし廉は実際として、眠れなかったことがない。機能に不具合がある、状況がふさわしくないというのならば、ともかく。アンドロイドの眠りが人間のそれのように、情緒に妨げを受けることはないのだ。
 リビングに比べるとやや狭く感じるダイニングに宮瀬に続いて入ると、対面式キッチンに正崎がいた。大きな鍋を前に真面目くさった顔をしている。鍋の中では湯が沸騰し、手にはトング。
「正崎さん、料理するの」
「しない。麺を茹でて出来合いのソースを開けるだけ」
 当たり前の様子で椅子に腰掛けて端末を開いた宮瀬は、キッチンの様子を気にしていなかった。たぶん、彼も料理をしない。推測と呼ぶのも躊躇う決め付けである。
 案外手際よく皿に茹でた麺を盛りクリーム系のソースをかけて、未開封だったミネラルウォーターまでグラスに注いで、正崎が宮瀬の手前にそれらを並べる。それにありがとうとも言わないでちらと見ただけの態度、端末からテーブル上に照射されたキーボードから離れない手、キッチンを片付けに戻る正崎の無関心が、日常を思わせた。
 突っ立っていてもダイニングを出てもすることがないので宮瀬の斜向かいに腰掛ける。四人がけのテーブルはやや広めの作りで、四人が席を占めても微妙な距離感が生まれそうだった。四人。誰だろう。
 腿のあたりに違和感があり、触れてみると、ポケットが膨らんでいる。丸く、小さなもの。
 隣に正崎が座ったので両手をテーブルの上に出した。並んだ十本の指を意味もなく左端から少し持ち上げては下ろす。一頻りぱたぱたと柔らかい響きを聞いた。
「藤吾、味は?」
「いつも通り」
「不味いのか。……レビューはあまり信用できないな」
 背凭れに体重をかけて木材を軋ませてみるが、頑丈な造りで壊れそうな気配はなかった。
 宮瀬は端末に向き合ったままフォークを使ったが食器が触れ合う音は殆どなく、ダイニングは廉が子供っぽく響かせる雑多な音が支配しかかっていた。メールのチェックだろうか、宮瀬の真っ直ぐに整った指の、規則的な動き。
「おい」
 下から睨み上げるようにして交互に目を向けられ、廉と正崎は揃って目を丸くする。
「二人がかりで観察するな。味が分からなくなる」
「繊細だな……」
「誰もお前ほどはがさつじゃない」
「残すかどうか心配なだけさ」
「私が食事を残したことがあるか?」
「うん、ない」
 やはりこれは、よくあることなのだ。彼らの日常のなかで、宮瀬藤吾がこの家を訪れ、無為に時間を消費し、食事をする、ということは。
 三分の一ほどになったグラスに水を注いでやる正崎は満足気だった。ハムスターの動画を再生しているときと似たような顔とも言えた。馬鹿正直にそんな風に言うほど廉は愚直ではないけれど、彼の目線は未だ観察者のそれだと思われただろう。
 九山の言っていたことは間違いだろうかと思う。一面的には正しく、他面においては誤りという、現実の常であるとも考えられる。廉は彼らの関係を知っているから解釈のしようがあって、その優越がこの疑問を生み出している。結局また自分を眺める体勢に戻った二対のアンドロイドの目に宮瀬は眉間の皺を深くしていた。
 空になった皿は宮瀬が自分で下げ、食洗機に入れた。肩越しにそれを見ていた廉は彼と視線が合ったのに今度こそ叱られるかと身構えたが、また肩透かしを食らった。
「大矢君、休暇はいつまでだ?」
「え、ええと、来週いっぱいは休みです。予定も明日以外は特には」
 濡れた指が示した端末を引き寄せると、やはりメールをチェックしていたようだった。開かれたメッセージ以外に目を向けないようにしながら、ざっと目を通す。そのメールの差出人を見て、廉は思わず正崎の肩を叩いた。彼はおや、と控えめな驚きを見せただけだったが。
「私に対して送られてきたが、君への依頼だろう。頼まれてくれないかね」
 ジェイムズ・リトル。差出人欄にはそうあった。


「ただいま」
 足元で錠の回る作り物の音がする。同時にスライドした扉を通り入った部屋は最初に見たときとは違って埃もなく、整頓されていた。応接のためのテーブルとソファには白い布がかけられ、執務机の上にあった端末や書類、ペン類などは片付けられている。
 扉から見て手前の半分はそうして、社長室としての体裁を保っていたが、向こう半分は社長室というよりも研究室だった。朝顔ははっきりとここを研究室と呼んだし、十四年前の大矢充の急死までは確かにその名に見合った用途を持っていたのだ。
 キャスター付きの、それ自体がコンピュータとなっている大きなテーブル、周囲に置かれた数脚のスツール。壁を埋め尽くすディスプレイ、コンソール、いまでは用いられていない大型の記憶結晶読み取り機器。それに手のひらほどの大きさの素体が、ごく小さなフィールドの上に置き去りにされている。
 廉がそれを手に取ると、三つの大型ディスプレイが一斉に起動した。旧式であるうえに長いこと放置されてきたというのに、まるで最後の使用が昨日のことのように滑らかな動作を見せている。
 しかし素体のほうは関節部が軋み、無理に動かせば儚く折れてしまいそうだった。これは何に用いていたのか、ここで何が研究され、どのような開発がなされたのか、知るのは容易い。扉ひとつ向こうの社史閲覧室で、この部屋での殆どは歴史に組み込まれているのだから。
「朝顔もお前くらいの大きさだったのかな」
 マネキンのようなつるりとした顔を撫で、想像もつかないかつての彼女の姿を夢想しようとした。廉の知る朝顔を縮小した姿では、ないだろう。知らないものは思い出しようがない。
 ディスプレイの一角に表示された記号を見て、廉は扉を振り返った。磨り硝子の向こうに人間の姿。
「どうぞ」
 声をかければ、扉はすんなりと開く。前回もそうだったのだ。廉がここを開いたことに気が付いて駆けつけたのも、彼女だった。
 青いハイヒールが床を叩く音は、それ自体が与える印象ほど、彼女を厳しく見せなかった。赤毛は染めて作ったものではなく、白い肌と同じ由来なのだと、人伝に聞いたことがある。
 萬安良は真っ直ぐにテーブルの前まで歩いてきて、廉の手にあるものに目を留めた。くすりと笑い、眉を緩く寄せた顔は呆れか、懐かしさか、なんにせよ柔らかい。
「その素体は遠隔操作システムの実験のために作られたものなの」
「いま、実用化されていますよね」
「ええ。途中で中断された研究を引き継いだチームの苦労の甲斐あってね」
 長身の彼女と廉とは視線を下げることも上げることもなしに話すことができる。そう知ったのもこの部屋に入ってからのことだった。
 横顔に落ちる髪を耳にかけ、スツールのひとつに腰掛け、萬は所在なく立つばかりの廉にもそうしてはどうかと目で示した。固辞したのは彼女とそんな風に話せる自信がまるでなかったからだ。オーダーメイドで仕立てたのだろうパンツスーツにしたって、耳に光る人工石にしたって、彼女を余すことなく表現していた。
「ここに何をしに来たのかしら」
「調べものを、頼まれているので……」
 しかし廉はコンソールに直接触れてさえいなかった。あまりに強い躊躇いがあるから、日が暮れるまでここにいたかもしれない。
 萬は、何をしに来たのだろう。廉がいなければ入ることができない部屋にやって来たのは、解錠を通知されたからだろうか。自社の調査員がプラティにとっての文化財とも言える部屋で粗相をするのではないかと案じたのか。そうではないことは、萬がすぐに教えてくれた。
「もう少しここにいてもらえる?」
「何かあるんですか」
「古豪さんを呼びたいのよ。彼、前にあなたがこの部屋を開いたときには来られなかったでしょう」
「ええ……構いません」
 老齢の社長はその日には遠方に出ていた。大矢充の親代わりは、この部屋を見たがるだろう。廉を呼び出してまでその要望を叶えようとはしなかった理由は知れない。
 素体をフィールドに戻し、ディスプレイに触れた。直接操作が可能なそれが指先に反応し経験則に従って情報を示してゆくのを、体感操作のためのホログラムが展開されるのを、忙しなく追う。大矢充にとって最良の環境として整えられた彼の第一の研究室は、宮瀬統の設計によるものだと聞いた。
「萬さんは、大矢充のことをよくご存知なんですよね」
「プラティ社の立ち上げの頃から。手を煩わされたわ……」
 彼女の経歴は詳細に知ることができる。二十五歳当時に大矢充の秘書としてプラティ社に入り、変遷を経て大矢の死後にCEOに選任された。今日この日までプラティ社を牽引してきた人材と言ってよく、古豪ではなく彼女をCEOとしたのには首脳部の相談の結果があるというが。
 つまり二十年前だ。コドン社からプラティ社が離脱した当時から、彼女はここを知っているのだ。
「どんな人でしたか」
 ハイヒールのつま先が揺れている。組んだ脚の上に腕を投げ出したまま、萬は思い出を重ねようとしてか一心に瞳を動かさないでいた。そうね、と呟く。何度もされてきた質問だけれど、難しいわね。
「優しかったわ。ひとりじゃ生きていけない人だったし、社長なんてできっこないってみんな分かっていたけど、結局彼にこの部屋を与えてしまった……当時はうちもコドン社から引き抜いた役員で固めていたけれど、みんな、出し惜しみさえできなかった。なんでもあげたいと思ったのね」
「それで会社をあげちゃったんですか」
「そうなのよね。宮瀬さんは、きっと無理だから開発部の責任者にしておけって言っていたわね。彼のほうがよほど冷静だった」
「……朝顔が、いなかったら、ふたりは仲良くいられた?」
「ええ、確実に」
「そうですか。すみません、変なことを訊いて」
 鷹揚な態度で萬は微笑んでさえみせた。
「あなた、ここに何をしに来たの?」
 扉を開いたその日には、踏み入ることもできずに逃げ出したのに。
 指先の触れたコンソールは、求めればコンピュータ内の情報へ道を繋いでくれるだろう。調査員の接触を拒む設計にはなっておらず、ほんの浅い接触には手応えがある。だが思い切ることができないままだ。
「大矢さんなら、何を見たって怒らないわ。産業スパイに研究を盗まれたときさえ、他人の手が入ってもっと面白くなるといいって言っていたもの」
「あなたはどうですか。古豪さんは」
「言ったでしょう。何でもあげたくなってしまうんだもの、怒れっこないのよ」
 そこで、あら、と萬が声を上げた。たったいま初めて廉の顔を見たというような顔で。
「髪の色を変えたの?」
「変えたというより戻したんです。労働義務期間、満了したので」
 視界を横切る毛先は少し茶に近くも見える濃い紅色で、つい昨日までの明るさは消えた。メンテナンスついでに戻したいと伝えたとき、廉を担当する技師は意外そうにしていたが、ずっとそのつもりだったのだ。
 このほうが似合っていると言ってくれる者、そうでない者は半々といったところだった。千雅は似合うと言ってくれた。萬は、どこか面白げに廉を頭の先から爪先まで眺めてから、よく似合うと言って目を細めた。けれど服装との統一感に欠けているわね。そう、言葉尻を震わせていた。


 気温が低い。飛行機に乗り込む前には真夏だったのに、降り立ってみれば冬である。
 まさか十一時間かけて南半球まで行かされるとは思わなかった。とはいえ気温は十度前後で、凍てつくような、とまではいかない。現地人らしい人間は重装備ではなかったし、廉も、電話をかけている正崎も、軽装だ。わざわざ真冬らしい服を持つと荷物が多くてかなわない。
 ボストンバッグひとつ抱えて、人の流れの忙しない場所を離れ、今時使う者は少ない電話ボックスのそばにいた。なぜ直接連絡しないのかと尋ねると正崎は相手に原因があると言っていたが、ロボット同士の連絡にわざわざ電話など使う理由は見当もつかない。ジェイムズ・リトルが相当の変わり者で、人間と同じく自己を閉鎖しているというなら、まだ分かる。
 通話を終えた正崎が端末に地図を表示させ、ひとつの街を指差した。この空港のある都市に比べれば、規模の小さい場所のようだった。
「タクシーを拾おう。二十分程度でつくようだ」
「また座りっぱなしか……」
 預かっていた正崎の荷物を渡し、手慰みにしていた帽子を被った。彼の確信的な足取りにおとなしくついていく。やや厚手のコート以外、正崎の服装は出国前と変わらなかった。廉は上着を軽く済ませたくてセーターなど着込んでいるのだが。
 出国の諸手続きはもっと時間がかかるものかと予想していたのに、宮瀬にあのメールを見せられてからわずか四日で異国の土を踏んでいる。尊厳死制度利用者は国内に集中するとはいえ移住するものがないでもなく、調査員の海外渡航はありうる事態である。部長によれば、パスポート申請などの諸々は社が勝手に行っていたらしい。万一に備えて。
 また、これは仕事ではなかったが、渡航費や滞在費は丸ごとコドン社が受け持つことになっていた。宮瀬がそうするようにと言い、この正崎をつけて廉を飛行機に乗せてしまったから仕方がない。自己管理権はまだ取得できておらず、彼のような立場からの指示は命令と同程度の力を持っていた。
「正崎さんはジェイムズ・リトルと会ったことがあるんだろ」
 タクシーに揺られながら異国の町並みを眺めていた正崎は気のない返事をし、重ねて尋ねられる前に付け足した。
「藤吾から聞かされたろう。彼は宮瀬と大矢の友人だった」
「そうだけど……あなたが、だよ。ジェイムズ・リトルが表舞台に出なくなったのは四年前のことだから、会ったことあっても不思議じゃないじゃないか」
「そうだな、話したこともある。ほとんど聞き役に回った覚えしかないがね」
 それからまた車内は静かになったが、彼らはフライトの最中から似たような有様だった。話しかければ答えるものの、それ以外は必要な事項以外に口を開こうとしない。正崎の関心はこの場になく、もしかするとジェイムズ・リトルに置かれていた。
 彼からのメールを読んだとき、正崎もまたひどく驚いた様子を見せたのだ。それは単に差出人がロボットならば名を知らぬもののない革命家のものだと知ったときではなく、内容が、何かしら彼にとってよくないものだと知ったときだろう。ーージェイムズ・リトルは死を考えている。
 ジェイムズ・リトルは尊厳死制度の利用者ではない。コドン社もプラティ社も、顧客としての彼と契約を結んでいなかった。両社と彼の間にあるのは創始者ふたりとの交際、それに伴って結ばれた、言葉の上にも紙の上にもない信義上の互恵条約。それに基づき、宮瀬藤吾に助言を与えてきたロボットはひとつの相談を持ちかけたのである。
 相談の詳細は大矢廉の到着を待って、彼に知らせたい。そう認めてあった。メールでは彼はただ、前置きと近況として、死を思う気持ちを宮瀬に伝えたに過ぎない。
 二十分足らず走ったところで正崎は車を停めさせ、廉に降りるように促した。広い庭を持った家が並ぶ、この国では標準的な住宅街。教えられた住所からは少し距離があるが、わざとそうしたようだった。
「彼は身を隠してる?」
「彼を探している者たちからは、積極的に。そうではない者たちからは、隠れるというほどのことは何も」
 枯れ葉を踏み、人の疎らな道を歩く。よくよく見ていると空き家が多く、昼過ぎならば子供がいないのは不思議ではないが、老人さえ少なく思えた。人口減少はどこでも同じなのだ。
 黙々と歩いていた正崎がふと、廉の頭を見て帽子を取り上げる。自分の頭に乗せて収まりのいいところを見つけてから「その方が似合っている」と言った。
「髪のこと? 帽子が似合わないってこと?」
「両方」
「まあ、俺もそう思う……その帽子、あなたの頭のほうがぴったりだものな」
「宮瀬統の帽子だよ、これは」
「……道理で……」
 緩やかな坂からは海が望めた。見知らぬ色をしている。廉は起動してこの方、海外に出たことはなく、本社から一定距離以上離れたこともなかった。旅行というものを知らない。興味を持って来なかった。
 坂を下りきり、住人のいる家がほとんどなくなってしまったところで、オレンジ色の平屋を正崎が指差した。ひとりで暮らすには持て余しそうな、家族の営みが似合う姿をした家だった。芝生を敷かれた庭から障害物なく見通せるガレージが開いている。
 車を二台入れられるのだろうスペースにはサイドカーつきのバイクが一台あり、その隣で、輪に並べたパイプ椅子に座り込んだ数体のロボットが一体を囲んでいた。一体だけ立っている機体は何か講釈しているのか、時に手振り身振りを混じえながら数体の相手を順繰りに見つめていた。
 ジェイムズ・リトルは、その名のような小柄なロボットではなかった。彼は『知的な』労働のために製造された機体ではなく、一説では戦場が彼の最初の仕事場だったとも言われる。少なくとも、安全が完璧に保障されるような居場所はなかった。
 アンドロイドではないが、有機的な印象を受ける機体である。ボディラインは兵士のようだが細やかな造形は無骨さと縁遠い。顔面には人間よりも草食動物に似た目があり、彫りはごく浅く、ヘッドパーツは帽子を模している。彼が機体に似合う衣服を着こむのを好むことは、写真や映像で彼を何度か目に入れればすぐに理解できる……。
 廉と正崎とは、その家から車道を挟んだ街路樹の下で、声をかけもせずそれを眺めた。耳を澄ましてみればジェイムズ・リトルが自身の著作について話していることが分かった。熱心に耳を傾ける生徒たちが質問をすれば答え、なければ掘り下げ……隠棲したのではなかったのか?
「死にたがってるロボットには見えない」
 同意を求めた呟きではなかったし、まさか、それがジェイムズ・リトルに聞こえるなどとは思わなかったので、勢いよくこちらを向いた彼に廉はたじろいだ。
 生徒たちに断ってから、比率として胴よりずっと長い脚でこちらにやってきたジェイムズ・リトルは、笑顔だった。この顔も彼を特集した番組で見たことがある。
 ばしん、と肩に手を置かれて廉はよろめいた。同じ衝撃を受けた正崎はどうにか姿勢を保っていた。
「やあ、すまない! 気が付かなかった、せっかく来てくれたというのに失礼だったな。彼らとの約束の時間はもう過ぎていてね、気を遣ってくれなくても大丈夫だ。会えて嬉しい」
「……ああ、久しぶり、リトル」
「は、はじめまして……」
「はじめまして?」
 ぐっと覗き込まれて仰け反る。廉が助けを求めて横目に見た正崎は、ジェイムズ・リトルの腕を叩いて小さく首を横に振った。
 首を左右に傾げていたジェイムズ・リトルはすっくと背筋を伸ばした。やはり大きい。アンドロイドのなかでは上背のある廉も、ロボット全般のなかでは小さい部類なのだった。
「まあ、細かいことはいい。君らが来てくれたことが僥倖だ。上がってくれ、話したいことがたくさんありすぎて困ってる」
 言いながら彼はもう背を向けて道路を渡ってしまっていた。ぽかんとする廉に正崎はやけに気の毒そうに、しかし愉快そうでもある顔で、慣れるしかないと助言をくれた。聞き役に回らなくちゃならないのには理由があるのだ、と暗に含めて。
 客人が珍しいのかこちらを注視していた生徒たちはジェイムズ・リトルに授業は終わりだと告げられると各々の方向に帰っていった。日がな一日何もすることがない自分のところに、仕事の合間を見つけて来てくれるのだとジェイムズ・リトルは説明し、それが嬉しいと付け足す。ガレージを閉めておくのが閉校のサインだそうだ。
 ひっきりなしに喋り続ける彼にほとんど背中を押されながら玄関に入り、リビングに通される。
 そこには暖炉があり、デザインがばらばらのソファが何脚も並べられていて、窓際の床は本で埋め尽くされていた。適当に座れと言うので正崎が椅子を選ぶのを待ち、その隣に落ち着く。香を焚くことがあるのか、嗅いだことのない匂いがした。
「君らは何も飲まないんだったな? 一応コーヒーだの紅茶だのはあるんだ、人間を相手にすると何か出さないといけないだろ。私も昔は何も口にしなかったんだが、相手がそれを知らずに出したものに手を付けないでいると気を悪くされることが多くて、飲み下すことはできるようにした」
「ああ、お気遣いなく」
 落ち着いて座りもしないであちこち歩き回り、何やら独り言を言いながら戸棚を物色している。ジェイムズ・リトルは結局、彼の著作と端末をいくつか抱えてきてやっと客に向かい合うソファに落ち着いた。
「ジェイムズさん、それで……」
「リトルと呼んでくれ。ただのリトル。ジェイムズは私だけの名前じゃないんでね、友人には呼んでほしくない」
「それじゃあリトル。本題に入っても?」
 宮瀬藤吾に彼がメールを送ることには何の不自然もない。それが死の気配を纏ったものであっても、曖昧な用件についてのものであっても。ここに正崎がいることも。
 それではリトルがわざわざ、コドン社に属さない廉を名指した理由は何なのか。そもそも彼はどうして、大矢廉というアンドロイドを知っている?
 リトルはまるでインタビューを受けるときのように堂々とした振る舞いを見せた。大きく頷き、客人の目を長すぎない時間だけ見つめ、頻りに手振りを混じえる。
「相談というのはつまり、君に頼みたいことがある。古い約束の確認と言ってもいい。大矢くんがそれを忘れていなかったことは知っているが、彼が死んだ後にどうなったかは、私には知りようもなかった」
「俺なら調べられるとどうして知っていたんです」
「……廉、本題に入るんだろう。リトルも、まず質問に答えてから話してくれ」
 何か他のことを言いかけていたのに、リトルは正崎に従ってそれを飲み込んだ。彼には狭そうに見える椅子に深く座り直し、きっかり五度、肘置きを左手の一本一本の指で叩く。
「そうだな、すまない。気が抜けるとどうにも悪い癖が出る。頼みごとはひとつだ。ーー私は子供を持ちたいと考えている」
 人間の養子を取ることではなく、幼く造形されたロボットを得ることではなく。そう断って、リトルは太く笑った。自信よりも信頼に満ちた、他者を導くことを恐れない者の作る顔だ。
「父親になりたいと言い換えてもいい。この考えは他ならない君らを見て抱くようになった。私はいつもこういう言い方をするのだが、これは、ロボットとしての子、父親、親子であって、人間と全く同じことをしたいというのではない。大矢くんは叶えうると言っていた、彼が不幸にも殺されてしまう一年前のことだ」
「それは、……記憶結晶を使って、複製ではなく後継を創る研究だ」
「廉?」
「大矢充の最後の研究は、そうか、あなたのためだったんだ。俺は後継だと思ったけれど、あなたや大矢充にとっては子供と言うべきだった」
「廉、何を……」
 あの部屋には。あの研究室には、大矢充がやり残したすべてが残っていた。情報を他と共有していた研究、共同研究者がいた研究については死後完遂されたり破棄されたりしたが、大矢充が事業計画に組み込むこともなくあの部屋でひとり取り組んでいたその研究は、誰に知られることもなく、これまで眠っていた。
 大矢充の最後の研究を明らかにしてほしいとも、リトルはメールに書いていた。それが必要なのだと。可能ならばという但し書きつきで、宮瀬も正崎も不可能なものとあの場で完結していたけれど、廉はそれに押されて扉を二度開くことを決めた。
 ロボットの記憶結晶は生成できない。記憶結晶は人間のもののみが生成可能で、その他のいかなる生物も、機械も、石を満たすものを持たない。記憶結晶開発者の結論はそのようなものだった。
 正崎が名を呼ばわるのに、廉ははっきりと眉を顰めた。
「君、まさか、あの部屋を開いたのか」
「正崎さんがそうしろって言ったんだろう。開いたよ。残されていたデータも見た」
「そんなこと一言も」
「そこまで言えとは言わなかったろ」
 しかし正崎の顔を見てすぐ、失敗したと思った。苛立ってもいないのに、まるで疎んじるような言い方をしたのだ。別に彼に怒ってもいなかったのに。
 廉は正崎ではなく、目の前のリトルに向かって言った。
「俺は、俺なら。あなたの石を作ることができる」

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