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第八話

 鬱蒼と生い茂るのが南国の植物で、枝から枝へ羽を広げて渡っていく赤い鳥も同じ場所から連れて来られたのだろうと教えると、九山は感心したように頷いていた。温度も湿度も高く保たれている温室はスーツを着込んだ彼女には暑すぎるだろうに、彼らはあと十分はここに留まらねばならない。
 家族連れが通るのに道を空け、顔よりも大きな葉の陰に入る。植物園の一角で自分たちは異質なのではと疑いながら、廉は相手につられて口数が少なくなっていた。合流してからずっとこの調子であるし、彼女のほうに沈黙を気にする素振りはないので、まずいことにはなっていないはずだ。千雅に訊けば確信が持てるのだろうけれど。
 その千雅はいまごろ、抑えの利かない多弁で彼女の同行者を閉口させている頃だろうか。
「千雅さんの提案なんだそうです」
 不意にそう言った九山が耳元の虫を追い払い、暑さに耐えかねてかジャケットを脱いだ。ショルダーバッグを預かりながら友人の顔を思い浮かべる。千雅の提案。廉は機智のある答えを捻り出そうともしないで曖昧に相槌を打ったが、言葉の指すところを捉え損なったということはなかった。
 調査のパートナーを一度変えてみたいと彼女が言っているのを耳に入れた覚えはない。しかし九山には話していたということで、この現状は、千雅の希望が叶えられたということだった。
「組み合わせそのものは上が決めたのでしょうから、私たちが組むのは偶然ですが」
「九山さんでよかった」
 それにおそらく、正崎も組まされるのが千雅でよかっただろう。気安いとはいかなくとも顔見知りで、彼女は懐っこい。勝手に友達になってくれて、勝手に繋がりを認めてくれる。
 やや遅れて九山がどうしてですかと問うたので、廉は肩よりも下方にある彼女の目を三秒だけ直視した。
「千雅が、あなたを褒めていたから」
 彼女がどんな風に仕事をするか、本当なら通常の調査で見てみたかった。
 彼らの待っていた相手はいささか時間に遅れて姿を見せた。顔立ちとシルエットこそ人間を完全に模しているが廉よりは人間らしくない要素の多い、検索しても同一機体が探し出せないアンドロイド。
 彼あるいは彼女、呼称を定められるところのないアンドロイドが与えられた名前は伊従リラといった。前髪は白く、後ろ髪はない。瞳は名の通りの薄紫をしている。資料にある画像と外見上の相違が見られた。
 コドン社の尊厳死制度利用者であるが、伊従は死んでいるのではなく自分の足で温室に入り、廉と九山との前に現れたのだった。
「九山さん、それに大矢さんですね? 申し訳ない、このようなところを指定して。主人に知られないにはいちばん良い場所なものですから」
 細面にくっきりとした笑みを浮かべて、伊従が発したのは少年のような、あるいは低まった女のような声だった。廉はそれは構わないのだと答えたものの、彼女はどうなのだろうと隣に立つ人物をちらと見る。
 九山はそれに気がついているわけではないだろうが、葉の陰から進み出て、ショルダーバッグから取り出した端末を開いた。そこには契約内容、伊従についての情報、そして伊従がコドン社に行った申請の内容が表示されている。
 伊従の制度利用申請は自ら行われたものではない。自己管理権を保有しない伊従の「代理」として、アンドロイドの所有者が行っていた。アンドロイドの希望を叶える、という形式である。
「制度利用の停止をご希望でしたね、伊従さん」
「はい」
「今回、特段の事情が認められ、私と、プラティ社の合同調査員である彼とが確認のために派遣されました」
「配慮に感謝いたします」
「その事情を私どもに証明してください。場合によっては、伊従さん、あなたの持つ情報の直接開示を要請することになります」
「はい」
 よくそんなにきびきびと会話ができるな、と陰に留まったままの廉は小さな背中を見守っていた。万一と九山が重ねて前置きして差し出した情報開示の同意書に、伊従は厭う色なく定型文を読み上げている。
「場所を少し変えましょう。この奥にひとまわり小さな温室があります、そこに」
 伊従は、資料の通りならば稼働年数が十二年に達する。資料画像に記録された十二年前の伊従には、笑顔を作ることのできる顔などなかった。


 伊従に案内された先には施錠された扉があり、硝子の向こうにもこの温室と変わらぬ状況があるのが窺えた。古びた南京錠を外し、入園者の誰も開かないものと思って見過ごしていく扉を開いて、伊従が調査員たちを手招く。
 確かに一回り小さい温室には、花が多いようだった。動線を無視し置かれた鉢に囲まれて、テーブルと椅子が一式、据え付けられている。
「場所としてここが都合がいいというのは?」
 九山に椅子を引いてやっていた伊従は、廉が尋ねるのにまた笑みを見せる。
「この植物園は私の所有者の姉妹が運営しているもので、同じ敷地内に屋敷があります。私の勤め先がその屋敷なのですが……」
「所有者に怪しまれないため?」
「ええ、はい。敷地を出ると気付かれますし、ここならば私はよく通っていて、外からの出入りが頻繁。ひとと会う時にはここを使っています」
 今日に限らず、ということだろう。どことなしに、伊従からすれば前提としてそうなのだろうが、不穏な関係性が透けて見える。
 こちらの温室には鳥がいない。水の流れる音の他に様々な雑音が入り混じり、まるで温室そのものが呼吸しているような空気の流れがあった。何もかもが湿り気を帯びている。
 テーブルに端末を置いた九山が、ぽたりと落ちてきた水滴にむっと眉を寄せて天井を見上げた。この晴天に、ドーム状になっている天井からの雨漏りということはないだろうが。
「散水のパイプから落ちたのかも……申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。制度利用時の申請内容の確認をしたいのですが」
 九山が指差した箇所に、伊従は首を傾けた。
「登録情報の更新が連動対象確定以降行われていないので、私どもは現状を正式に把握していません。申請時点でのあなたの所有者、申請代理人がこの蘇芳匡人氏となっています」
「はい」
「労働義務期間を超過して、尚も権利の一切が返還されていない。それが制度利用申請を無効とする根拠ということでしたね」
「はい」
「ある程度は既に社とやり取りなさっているとは思うのですが。詳しく説明いただけますか」
 手袋をした手で端末を取り上げ、伊従が感慨深げに資料に目を通した。この依頼者が内容を知らないのだとそれで九山も廉が気がついたが、驚くべき内容といったものはなかったようだった。
「私は起動し、職務を与えられて十二年が経過します。自己を所有する権限が返還されるはずの五年を過ぎ、いまそれを巡って弁護士を立てているところなのです。私の十二年が、本当に私の十二年として認められるか否か、判断が難しいもので」
 僅かに、見間違いかと思うほどだけ、伊従が不快を示すように目元を歪める。続けてなされた話によれば弁護士を立てることそのものが、伊従の友人が所属する団体の勧めであるということだった。要するにやや過激な権利団体に関わっているものだから、コドン社も無視しきれなかったのだろう。
 そもそも、伊従は蘇芳匡人による自作のロボットであり、労働を目的として制作されたのでも派遣されたのでもない。そう語る調子が淡々としている。
「グレーゾーンと言いましょうか。個人の自作ロボットにはしばしば生じ、見過ごされやすい問題だそうです。所有者も当事者も何が労働にあたり、いつからいつまでを労働義務期間と見做すかなど、まず意識しない。多くは当事者の求めによって解放されるのですが、私はうまくいきませんでした」
「蘇芳氏が拒否したんですね」
「はい。彼はひどく気を害した様子で……七十二度、連動対象にしたものを、今回に限ってそうしなかったことも大きいのだと思います」
「え?」
 伊従は何が相手を驚かせたのか分からないようで、戸惑い混じりに口を閉ざした。
「登録内容ではあなたの連動対象は蘇芳氏ですが」
「その時点ではそうだったのでしょう」
「でしょう、って? あなたが選んだ相手ではないんですか」
「覚えがないですし、私が、と言っていいのかどうか分かりません」
 困っているのを隠さずに語勢を弱める様子が、十二年には釣り合わないほど頼りなく見える。ロボットは起動時点で人格が確定されているし、たいていは見た目に合った振る舞いをするが、それでも経年が加齢に似た変化をもたらすものだ。リトルだって、宇宙にいた頃からあんな人柄ではないだろう。
 屋外の、南の方角から、鐘の音が聞こえた。午後三時を知らせる作り物ではない音が鳴り止むまで、三者は揃って言葉を発さなかった。
「……初期化されたんですか」
 それ以外にないというくらいの確信があって、廉はそう言った。伊従が頷き、それが七十三度繰り返されたと付け加える。恥ずべきことを告白するような様子だった。
「これも、自作ロボットの曖昧な部分なのです。例えば実験用として登録を受けた機体が、初期化や加えられる変更を拒否することはできません。私は尊厳死制度の利用のために公的に登録され、分類は労働者となっていました」
「初期化のたびに労働義務期間もリセットされているかどうかを、争っている?」
「そうです。制度利用を停止するというのは弁護士の勧めで……難しいでしょうか?」
「正直言うと、難しい……ですよね? コドン社でも」
 廉は申し訳ないと思いながらもそうとしか言えず、端末に話を整理して打ち込んでいた九山も頷いた。
「単に権利侵害が行われているせいで、書類上あなたに利用停止の権限がないということならば、配慮として一時停止など措置が取れるかと思います。ですが……判決が出ないことには、蘇芳氏の権限が優先されます」
「そうですよね。友人にもそんなことを言われました」
「私としては、一時停止は最低限必要であると考えます。そのように社に進言しますし、弁護士の言葉添えなどあれば、説得力は増します」
 用意します、と伊従は温室に現れたときのようにはっきりと微笑んだ。何にしろ、ぼんやりと不安に思っていたことが具体性を持って動き始めたことに安堵して、それを報酬として諦めかかっているというふうだった。
 しかしそれは、伊従が当初望んでいた結果ではない。いつかそれを思い出して不安がぶり返すのだろうと思う。それに。
 廉が手を差し出した意味を伊従は読み違えず、だから目を瞠って廉を注視した。調査部門がこの案件にわざわざ調査員を派遣したのには、誠意ある態度を示し、伊従の発言が虚偽でないことを少なくとも当事者の主観から保証する意図があった。公的手続きの証明を用意できる伊従に、情報開示の必要はほとんどない。
 伊従の目的を達成する手段としていちばん早いのは、未だ書類上では伊従に対するあらゆる権限を持つ、このアンドロイドの制作者の同意を得ることだった。
「伊従さん、どうして蘇芳氏があなたの初期化を繰り返したのか、ご存知ないのではないですか」
「教えられていませんから……」
「知る必要があると思います」
「……でもどうして? 大矢さんの職務に、そんなことは含まれないのでは」
「それは……ただあなたが、俺に似ているなあと思って……」
 そこでふと、九山を振り返った。必要のないことにわざわざ手を付けるのを彼女が嫌うなら、廉は九山に従うつもりでいた。これはまだ、コドン社の案件である。
 端末への打ち込みを二分ほど前に終えていた九山は、そのまま端末をテーブルに置いて手を遠ざけた。
「プラティ社の方って、優等生ですね。私たちなら何も気にせず勝手にします」
 どうせ言わなきゃ分からないんだから。黒い花弁をつける花の鉢を見やりながら、唇の動きだけで言い、九山は笑った。千雅を思い出しているにしては廉の思う彼女らの関係性からかけ離れているような気がする。
 するりと手のひらに乗せられた感触に廉が目を落とすと、手袋の外された白い手があった。背格好は似たようなものなのに、伊従のほうがいささか小さな手をしていた。爪のない、シルエット以上には生物を模さない手だ。
「大矢さんなら、見れば言葉に出来ますか」
「それが仕事です」
「私は、どう言えばいいのか分からないから、何も言えないんです」
 ーー怖い。その一言が、伊従からはどうしても出てこなかったのだ。
 情報の直接開示といっても相手から隠しておきたいことは隠せるのに伊従はまったくそうすることなく、見ようと思えば廉には伊従の起動から今日このときまでの記憶を辿ることもできそうだった。どういうつもりか、それも探ることができるだろう。廉がそうしなかったというだけのことで。
 この伊従リラはたったの四ヶ月しか知らぬ人格だった。四ヶ月前の初期化以降、伊従は蘇芳匡人の介助人として用いられている。伊従が話に挙げていた親切な友人は、その初期化以前から伊従を知っていて、唐突な初期化に衝撃を受けたために裁判沙汰にまで事態を動かしたようだった。
 伊従はひどく、淡白な目線で、それを眺めている。まるで自分のことではないようだ、と、幾度とも知れず考えながら。
「私の所有者は屋敷の私室にいます。この時間なら、仕事をしているはずです」
 指先から光が薄らぎ、手を離して伊従は立ち上がった。九山がすぐに追って席を立ったので、廉だけが取り残される格好になる。扉の方を見つめる廉を伊従が軽く覗きこんだ。
「どうしました?」
「蘇芳氏は義足の使用者ですか」
「え? ええ……」
「ここに近づいて来てる」
 義足によるものと解析できる足音が、温室に入ってきていた。植物にも鳥にも目を呉れない足取りはまっすぐにこちらへ向かっている。この植物園を所有する蘇芳家そのものならば、長い歴史を伴って多くの関連情報がヒットするが、蘇芳匡人は、情報を求めても殆ど経歴の見つからない人物だった。
 伊従は明らかに狼狽したふうで、扉と調査員たちとを何度も見比べた。その耳にも届くほど足音が近づいたときには、テーブルをじっと見下ろし始めていた。まるで他人事のようだと、おそらく考えている。
 硝子扉の前に姿を見せた人物は、憤りや焦りなどなく、それを押し開いた。伊従が瞳だけ動かして視界の端のその姿を受け入れる。
 依頼者が責められたなら味方するべきなのだろうか。九山は庇おうとする気配もなく、ここにいるのが当たり前のような顔をしていた。しかしロボットの権利を著しく損なわせている人物、蘇芳匡人は、伊従に声をかけるより先にぎょっとして足を止めた。
「ーー大矢さん?」
 幽霊を見たような顔をして。


 蘇芳匡人は奇特な境遇の人間だった。蘇芳家の血はひとつも入っておらず、彼の養母の父親の後妻の連れ子だというのである。養母は実父と義母とが事故死すると遺された義理の、両足を失った弟を不憫がって、裕福な夫に頼んで匡人を養子に迎えた。当時蘇芳夫妻には匡人よりもひとつ年上の娘がおり、そして養子縁組の二年後にもうひとり娘を儲けた。
 どうやら彼は身の上話をするのが好きであるようだった。廉が黙って聞いていても、まるで台本があるようにすらすらと喋る。いや実際、彼の頭のなかには台本があるのかもしれない。
 養母が没したのち、彼は絵など描いて暮らしている。ペンネームは廉でも思い当たるところのある名だったが、蘇芳家の屋敷を出ないのは居心地の問題で、義理の姉妹に殺されない限りはここにいるつもりだと。
「幸せそうに話すんですね」
 彼の部屋は、そこから出ていかなくとも生活できるようになっている。まるでマンションの、あるいはホテルの一室。廉はここに通され、義足を外し車椅子にかけている蘇芳の傍のソファに腰掛けていた。
 ぴたりと口を閉ざした三十路の男は、不気味なほど齢を感じさせない彫りの浅い顔を歪ませた。嫌味な笑いとでも言うべきだろうが、廉にはさほど不快とは思えなかった。
「同じようなことを言うなよ」
「大矢充と?」
「幸せそうに話すんだね、家族が好きなのはいいことだよ。そう言われて馬鹿にされているのかと」
「……本心でしょう」
「すぐそうだと分かったさ。どこからどこまでを指して家族と言ったのかは分からずじまいだったが」
 前半こそ被ったが、後半は、廉には思いつかなかった。ただ語る顔が満ち足りているように見えただけのことだ。
「大学を出てから二年ほど、勤め人に落ち着いたことがあった。プラティ社の開発部門に配属された」
「大矢充の部下だったんですね」
「ああ。あんたの初期実験も見たよ、その様子じゃ予定は狂ったらしい」
 かつて開発者の領域に片足どころではなく身を浸したのにいまはイラストレーターである男は、鼻先の触れそうな距離で廉の顔を検める。同僚だったら困るタイプの人間だ、と容赦ない考えが浮かんだ。
「伊従さんの話をしたいんですが」
「ん? ……まあ、そうだろうな。連動システムの解除か、勝手にしてくれ」
 それでこの話題は終わりだと言わんばかりの声音に、廉が納得しないことくらい彼にも分かっている筈だった。
「裁判をどう思われていますか。伊従さんに自己管理権を返還しようとは考えない?」
「あれが返せと言うなら返すかもしれない。伊従が自分の口でそうしてほしいと言ったことはない。代理人には再三要求されている」
「言っているも同然では?」
「あのさあ、大矢さ……あー……」
「廉でも何でも構いませんけど、何です」
「これまではあれがそうしろと言うからそうしてきたんだ、おれは!」
 呆れ、疲れ。そういう、好意的でないが棘のない感情に満ちた顔をすると、年相応のものが覗いた。うんざりしているのかもしれなかった。
 義足がないぶんだけ布を余らせている脚が数度動き、貧乏揺すりのような仕草をする。蘇芳の口調には人格に由来するのとは違う不自然な親しさが篭っている。廉は明らかに彼が自分を大矢充と同一視しているのを感じたが、嫌ではなかったし、それは、彼を嫌いではないことと同義だった。
 分からないと顔に出してみると、蘇芳が車椅子の背に倒れ込むように姿勢を崩した。
「伊従を作ったのは完全に気を許せる、とにかく楽な介助者が欲しかったからだ。最初は顔をつけなかった。写真見ただろ」
「見ましたけど……いまのあの顔、自分でつけたってことですよね、それ」
「そうだ。誰に言われたか知らないけど……吾藤とかいう友人だろうな。あの顔になってからモテるんだ、伊従は」
 立ち上がり、窓辺に立つ。この部屋は一階にあり、建物の突き当りに位置していた。噴水のある裏庭で、伊従が九山に何か説明する素振りをしている。唇の動きを読むと、草花の名前など教えているようだ。
 電動車椅子の駆動音が近づいてきて、蘇芳は廉と同じものを見つけた。
「伊従さんはあなたのこと好きですよ」
「そうかい」
「あなたのことが分からないから怖がっているんです。全部見たので間違いない。どうして初期化されたのか、どうして解放してくれないのか不思議がってる。……教えてあげれば?」
「教えてと言われればな」
「というか、伊従さんはあなたに好かれている気でいるんですけど……」
 そして蘇芳は、なんだか、伊従にさほど執着しているようには見えない。
 くつくつ喉を鳴らして蘇芳が笑い出して、廉は居た堪れなかった。傲慢な誤解は、調査員をしていると遭遇することがあるが、当事者同士が生きているのは珍しい。
 しかし彼は、仕事をしているはずの時間帯にわざわざあの温室に足を運んだのだ。伊従が気付かれていないつもりだった密会に、蘇芳はずっと気が付いていた。
「伊従が作った顔はおれの生母によく似てる」色は違うと、冗談めかして言う。「どういうつもりだろうな? おれは頼んじゃいないよ。ただまあ、あれがそうしたいと言うから尊厳死制度に申請したし、初期化もした。試してやったんだ。……結果が同じ、つまり連動対象がおれになると、全部思い出す仕掛けだよ」
「思い出す……」
「あれは大満足して、しかしまた強迫観念に駆られて初期化したいと言い出す。七十三回だ。おれは権利を奪っているか? くれと言われていないんだぜ」
「言われなくとも与えるべきものであることは、確かですよ」
「正論だ。廉、あんたあれに感情移入して憤っているんだな? 的外れで残念だろ」
「…………」
 そう言われるとそうとしか思えず、苦笑が漏れた。残念というのはこれ以上なく的確な言葉である。
 廉は窓を開いて、九山を呼んだ。彼女は小走りに窓辺に近寄ってきてくれたが、伊従はその場を動かずにじっとしている。見下ろす位置の九山から端末を受け取り、蘇芳に署名の必要な箇所を指し示す。
 黒い瞳に行儀よく笑みを返した。蘇芳は掲げられた端末に触れ、契約者の移行についての書類に素早く目を通していった。速読の技術があるらしく、字数から算出される平均時間よりずっと短くそれを済ませ、頬杖をついた。
「おれがこれに名前を書くとどうなる」
「伊従さんに組み込まれた連動システムが解除されます」
「違うだろ、伊従が契約主体になれると認めることになるんだよ。あれは労働義務期間を満了していて、おれが法令違反者だと認める、つまり事実上の解放。裁判が盛り上がらずに権利団体は地団駄を踏む」
「蘇芳さん、あなたは……」
 結局どうしたいのだ。伊従リラの要求に付き合いきれないという態度でありながら、十二年も付き合ってきた。乞われていないからと言って、伊従を遠ざける方法を実行しない。本当は、と思ったのは、蘇芳の言うように感情移入の結果だった。本当は蘇芳だって証明して欲しがっているんじゃないかと。
 しかし、蘇芳は指先ですらすらと名前を記した。
 廉から端末を受け取った九山は意外そうにしていたが、彼女の位置からは蘇芳の姿は窺えないのだろう。詮索することなくまた伊従のそばに戻っていった。
「これで伊従さんがここを離れると、俺はあなたに悪いことをしたことになる……?」
 期待を込めて問いかけたのに、鼻であしらわれた。窓を閉めろと指図されてその通りにした廉の目に、泣き出しそうな顔をしている伊従の姿が映った。嬉しくて泣くのか、悲しくて泣くのか。
「おれたちはな、あんたが知らない十二年の間ずっと、面倒くさい駆け引きめいたことをしてきたんだ」
「それが終わってしまいます」
「終わらないよ。伊従はここを離れないからな。それに、何もかも有耶無耶にし始める。尊厳死制度は利用し続け、弁護士への依頼を取り下げ……」
「……あの、それって」
「あれはいつも、自分がおれのものじゃなくなるってときになって帰ってくる。七十二度そうだった、今度もそうだろうさ。あそこまで主体性がないのは初めてだけどな。
 伊従が初期化のたびに連動対象を変えることができるのは、そういうことだ。どれも同じじゃない……それを認めた人間が、システムを構築したんだろう」
 車椅子の収納から電子煙草を取り出して咥え、仕事があるのだと蘇芳がぼやいた。仕事場らしい部屋の扉にむけて車椅子を押してやると、特に文句は言われなかった。資料が山積した、明るい部屋だ。あの部屋に似ていると思うが、そう言ってもいいものかどうか、廉は口を閉じていた。
「それじゃあ、あの……ありがとうございます、お手間をおかけして、」
「大矢廉なんて名前は、大矢さんはつけていなかった。あの人は何度も何度も石を作り、砕き、自分の複製と話していたが、名を呼んではいなかった」
 閉じかけた扉の隙間から振り返る。作業に取り掛かっている蘇芳の頭が、背凭れでこちらが見えないのを分かっていてすこし傾いだように見えた。
「誰がその名前をつけた?」
 廉は何も答えられないまま扉を閉じた。窓の向こうでは、途方に暮れた伊従が九山のそばに立ち尽くしている。


 廉が帰国したのは一週間前だった。リトルのもとにずるずると四日も滞在して、そのお陰で今後の見通しは立てることができたのだが。
 ウェンディとアーティとを彼女らの家に送り届けたのはあの日の昼のことで、廉は自分から連絡先を渡していた。何かあっても、なくても、連絡してくれると嬉しいと伝えたためか、日に三度はよく分からない内容のメッセージが届き、その返信が日課となっている。それは喜ばしかった。
 喜ばしいのはそれくらいだ、と言うほうがいい。子供たちに構っていた廉が知らぬうちにーーというよりも気が付かぬうちに、正崎はひとりで勝手に帰国したのである。信じられない! 有り得ない! リトルを問い詰めても彼はおかしそうにするばかりだった。幇助者の態度ではなかった。
「長いこと間をおくと気まずくなるばかりだと言ったんだがな、聞かなくて」
 言い訳らしい台詞はそれだけだった。君に帰ってもらっては困るとリトルは言って、記憶結晶の話の続きを促された。プラティ社の利益となる形で研究を進めることを彼は望んでいて、ただ、自身と自身の子供とが秘匿されさえすれば、それ以上のことはいらないと。
 リトルは何もビジネスの話ばかりをしたのではなく、廉を観光地に連れ出してもくれた。古い建物の残る観光地で、砂っぽい肌触りの歴史というものを廉に教えた。
「子供ができて、その子があなたの手を離れたら、死んでしまうんですか」
 そのときにはもう彼を惜しむ気持ちが出来上がっていたので、廉の問いは憐れみを誘うに十分だっただろうと思う。信仰を持たないロボットたちは、古い教会の木製の椅子に並んで、祈る人々には分からない言葉で会話をした。
 問いかけにリトルはくすぐったそうにしていた。彼は本当に、自らに向けられる気持ちというものに敏いのだ。
「人もロボットもいつかは死ぬものだ」
 この教会のすぐそばに墓地があるだろう、とリトルは言ったが、そこに新しい遺体が納められることはないとを廉は知っていた。それに、そういう言葉を聞きたいのではなかった。
「廉、私はおそらく死なない。あまりに多くの目に映りすぎてしまった。多くの言葉を残し、多くに関わり、多くを託した。
 私が死について考えたのは、間違いなく、自らの永続を保証されかけたからに他ならない。ロボットはみな死を認めているはずだ。我々は機械だし、どれほど高尚な言葉、精神、生命を与えられ、認められたとて、機械が壊れることを知っている。
 人間よりもずっと長い時間、この身を直し続けて生きながらえることはもちろん可能だ。私の友人にもそういう者は多い。しかし、永遠はない。記憶結晶により人間が手に入れたと信ずる永遠は、あれは永遠ではないのだ。なぜって、廉、君はよく知っているだろう。大矢充は、君のなかではなく、またあるいは君の存在によってではなく、彼の功績と彼の人格を忘れがたく思うあらゆる人格によって永続しているからだ。
 記憶結晶は死に続きを与えるが、それが、石を作った人間の物語であるとは到底言えない……。開発者はそのつもりで石を作ったのでも、そこに人間の心を注いだのではないと言っていた。彼はただ、覚えていて欲しかったのだ」
 記憶結晶が作られた本来の目的は、リトルが欲するものと同じであると。彼は廉がただじっと自分を見つめ続けるだけで、言葉を途切れさせないでいることができた。ジェイムズ・リトルに言葉を発させるのは常に期待に満ちた眼差しだった。
 リトルが廉に自分から伸ばしたケーブルを差し出したので、耳元に差し込む。ざらざらして、不透明な、はるか彼方からどのようにしてか運ばれてくる歌だった。
「これって……」
「君は知らない歌だろうな。私が最初に知った歌でもある。正規の音源で聴き直しても、初めて聴いたときのようには思えない。私は、この歌をどんなふうに聴くのが楽しいのかを尋ねてみたかったよ。叶わないがね」
 その歌のなかに神に呼びかける言葉があり、この場所はリトルにとってはただの歴史的建造物ではないのだと廉は思い直した。
「ロボットは長らく誰かに所有されてきた。君はこの間まで会社の備品だったわけだ。自らの破壊は、所有者の資産を奪うことになる。誠意ある存在である限り、われわれには自殺はできない。昔はそれが当然だった。
 尊厳死制度の推進に携わった頃、私は自殺を推奨していると罵られたこともあるが、大きな変化だと思った。いや、自殺を止めはしないが、勧めもしない。死へと向かうことをすべてひっくるめて自殺と呼ぶ乱暴さなど気にかけていられない。私は死へと向かっているが、その過程に何を望むかは、もう話したね。そういうことなのだ。どのように生きたのか、自分自身で知るのにさえ、われわれも最期に頼っている。死ぬそのときがそれまでの全てを決めるなどというのは、残酷だろうとも思うが……君のほうがよく分かっているかもしれない」
 調査員だから、ということだろうが、とてもそうは思えなかった。
「連動システムがなぜ支持されたのか、分かるかい」
「死ぬ権利を得るためだって、あなたが言っていました」
「これは秘密だぞ、本当は私には分からなかった」
「……はったりだったってこと? それともいまはそう思うってこと?」
「どちらかと言えばはったりだな。本当に求めるものが何か分からないまま急ぎ足で進んだせいで、矛盾にぶち当たった。批判も受けたな。
 死と言うなら、ウイルスでも、活動停止プログラムでもよかったはずだ。連動システムには不可解な必須条件がある。……私には愛するものがなく、我が生の影となるものがない。だから誰に殉ずることもできない。われわれの尊厳死とはつまり、他者に依存することだ。人間が、結局は生物種である自分たちの役割を持ち出すのに似ている」
「俺は……愛することを尊厳と言っているんだって思ってた」
「うん、そうだな……」
 またくすぐったそうに、いや、眩しそうに? リトルが目の前のアンドロイドに大矢充を見出しながら、いまこのとき相手にしているのは廉だと思わせてくれるだけで、廉には彼がどういう顔をしても優しそうに見える。
 夕日が緩やかな角度で教会に入り込んでいた。そろそろ出ていかなくてはいけない時間だろうかと思うが、ウェブサイトも持たない表示もない施設とあって判断がつかない。
 知らぬうちに、廉はケーブルを通してひとつの声を彼に手渡していた。それは廉が聞いた言葉ではなくて、少年だった大矢充が聞いたものだ。
『ただ唯一たれと願う、それは愛しているということではないだろうか』
 リトルはその声を覚えていた。自分のもとを訪れた若い研究者たちを声の主が迎えた日は、彼らがリトルと面識を持った日でもあった。
「石をまだ持っているかって訊いたでしょ、それで昨日探して、見つけたんです。……俺、怖くて、石の中身をぜんぶは見てないんですけど。この日の、大矢充がこの人に会ったころまで見てやめてしまって」
「ああ」
「ぜんぶ見るべきかもしれないし、それって何か、他人の大事な物を盗むことになるのかなって……でもちゃんとぜんぶ見てたら、正崎さんは帰ってなくて、そもそも泣かせないで済んだかも」
「見るといい。君は知ることを望んでいるし、君にはある程度、許されるべきところがある。大矢は君じゃないが、君は大矢なしにはこの場にいない」
「まるで彼の子供だ」
「……本当にそうだ」
 端子を引き抜いてリトルの手に返す。恐ろしいことに、彼はワイヤレスで行われるあらゆる通信の殆どを遮断しているのだというから、彼と交流を続けるにはウェンディたちにしたように連絡先を得なければならなかった。それを求めると彼は快く応え、彼らが教会を出たのは日が沈んだ後になった。
「廉。人間ならば私の話をみんな覚えてはいられないだろうが、君は覚えてくれただろう?」
「あなたの声ごと、いつでも思い出せます」
「……こういうことを積み重ねる、それで満足できるのがいちばんだったのかもしれないな」
 出国日、空港で見送ってくれたリトルはそんなふうに言っていたが、そんなことはないと廉は言い返した。それで寂しいなら仕方がないのだ。もし後継を生み出す石を作り出せたとしたら、連動システムよりもそれを選ぶ者も出るだろう。
 仲直りしてあげなさいと最後に言って、リトルは大して別れを惜しまなかった。廉も何度も振り返ったりはしなかった。どうせ、また会わなくてはいけないし。それがいつになるかは廉次第というところがあった。
 してあげる。いい諭し方だ。許してやるべきなのがどちらなのか、廉には決めつけてやることはできなかったから。


 この日の報告はコドン社で行うようにと言われていたので、廉は九山についてコドン本社にまた足を踏み入れた。その時点で予想されたことではあるが、正崎と千雅もコドン社調査部門のフロアにいた。両者揃っていたのは報告のためではなく、千雅がなんとなく着いてきたという説明は後から聞いた。
「予定より遅かったじゃないか。面白いことでもあった?」
 そういちばんに尋ねてきた千雅が、言葉の調子のわりに気分が沈んでいた。波形がそう示している。彼女についてオフィスのひとつから姿を見せた正崎はと言えば、何故か薄汚れていた。
 明らかに彼もこちらに気が付いているのに、目が合わない。この野郎、と内心思いはしたが流した。流してしまった。
「予定と違うことはあったけれど、大したことは……千雅さんたちのほうが、何かあったという感じです」
 九山が千雅の顔に手を伸ばしたので、廉は驚いた。誰かがそこに触れるのを見たことがなかった、触れる意味がないような気がどうしてもするものだから。
 千雅の波形を読むことができるのかもしれない。指の背でやんわりと輪郭をなぞられた千雅は嬉しそうにその手を握って、安心感を得るためか、にぎにぎとしていた。
「関係者が自殺しようとしたりそれを止めたり色々あって。正崎さんがいちばん大変そうだった」
「自殺? 普通の調査じゃなかったか?」
「そうだったんだけど、なんか……なんかね……なんだろうなあれ……」
 くるくるくる、と波形が踊る。意図して動かされているから、正しく千雅の心情を読む材料にはならないけれど、気分が良くなったのは分かった。
「飛び降りようとした人は、自分だって後追いしたいって言ってた」
「ああ……なんとなく分かった……」
 尊厳死が起こった場所には、それ以前、ほぼ同時に、もうひとつの死が発生する。連続して死を目の当たりにした関係者がひどく動揺するケースも間々あった。
 正崎はこの場を離れていいものかどうか、千雅を気にして分かりかねている様子だった。今日、数時間行動を共にしただけで、大矢千雅の犬のような猫のような、得体の知れない懐っこさに馴染まされたのだろう。廉はどうせ目が合わないからと彼を観察して、シャツの釦がひとつなくなっていたり、手の甲に裂創があったりするのに気が付いてしまった。
 傷のついた左手をぱっと取り上げたのは、千雅と九山の振る舞いに感化されたせいだと言い訳できる。正崎は驚く間もなく逸らし続けていた視線を迂闊にも上げた。
「怪我してる」
「……いつかの傷より、ずっとましだよ」
「そりゃそうだけど。直さなきゃ。まだ仕事あるの?」
「いや……」
 続けて何か言っていたが、あまりに小さな声でその上不明瞭なのですぐに読み取ることはできなかった。
「リペアは、明日、ということになっていて」
「ああ、そうなんだ」
「さっき上司のひとにもう帰ってもいいって言われてたよ」
「じゃあ送ろうか? プラティから自分で来たから車あるし」
「廉……?」
「何だよ」
 不気味がっている正崎に、素知らぬ顔を向ける。視界の端で九山が千雅に小声で耳打ちし、千雅が波形で返している。喧嘩してんだよこの二人。単純な感情だけでなく言葉も暗号にできるのは便利なものである。廉は千雅に休暇中のことを何でもかんでも話していた。
「何?」
「送ってくれなくても」
「じゃあ宮瀬さんに言っとくから」
「怒ってるのか?」
「いや、あんまり」
 わざわざ告げ口しなくとも、正崎に何かあったらすぐに彼に知られるようになっている気はする。廉のことだって、驚くほど素早く部長は察知するのだし。
「そうだ、これ」
 内ポケットから取り出したものを捕まえたままだった左手に渡すと、見る前から正崎はそれが何か察したようだった。赤みの強い鼈甲のような石がひとつ、目にした途端に強張った顔に、あの朝を思い出した。
「ーー廉?」
 語尾の跳ねた呼びかけに返事をしたが、このやり取りには何の意味もないだろうと思えた。状況を把握しようと左右を見遣った目が、手に握ったままの石に落ちる。
 正崎からすると、気が付いたら車の助手席でベルトまで締めていたという状況だろうが、廉はきちんと九山と千雅に声をかけたし、正崎自身にも断りを入れた。拒否されなかったので了承としてやっただけだ。
 日の陰りつつあるなかを走り始めた車を廉は自分で操縦していた。ハンドルに手を置いて、自動運転に任せずにハンドルを切るのは嫌いではなかった。専らバイクに乗るので機会は乏しかったけれど。
「……わたしは、君に謝らないと」
「何を? 先に勝手に帰ったことなら、もういいよ」
 からかったのが分かったのか、正崎が浅く息を吐いた。怒らせただろうかと思ったけれど、そうではなく、ではまさか泣かせたのか。
「わたしは君に何もしてやれなかった」
 石を置いた手を膝に投げ出し、正崎は前を走る車のテールライトばかり見ている。
「会うたび君が真新しく、そばにいる充の数時間前までの記憶を持っているのを見ると、恐ろしくてならなかった。ふたりにそれを言うことはできなかったし、君も気が付いていなかった」
「それってほぼ大矢充だろ、俺というより」
「そうかな。君がそう言うなら、そうだと思いたい。君は充にあまり似ていないし、気遣いもできるから」
 正崎は、宮瀬統に連れられて大矢充の研究室を訪れ、自分と同じ目的で、自分とは異なる方法を取られているアンドロイドを前にすると、変わった顔をした。宮瀬統には絶対にできない顔だったが、研究者たちは至極冷静にそれを分析していた。同情していると。
 自分が複製であるという自意識を持って、名まで与えられて、正崎がどうなっていくのか、宮瀬統は興味があったのだ。当初はそれだけだった。自身とは異なっていく様子を見せるのを喜ぶ、その喜びが愛着になる頃には、どうなっていたのか。何しろ大矢充がその頃には死んでいるので廉には想像しかできない。
「君は、君だけだ。いまそこに宿っているのは君だ。大矢充ではない。わたしは……その君にさえ何もしてやれなかった」
「朝顔が初期化させた俺のこと起動させないで八年も放ってたことを言ってる? その後のこと?」
「それは……どちらもだろうな。すまない、結局わたしは、こういうふうにしか捉えられないのかも」
 渋滞に車はのろのろと進んだ。自動運転に切り替えて廉が向き直ると、正崎はどうしようもなさそうな顔をしていた。どうすればいいか分からないし、どうしたいのかも分からない。
「充はあなたのこと、本当に好きだったんだよ、正崎さん」
「……? 廉、それは」
「朝顔のことも、好きだったけど。それであなたを壊そうとしたりしないよ」
 彼女を愛したせいで、彼女が愛されたがったせいで、正崎が慈しんだ人間たちが嫌いあったなんてことはないのだ。
 正崎は、困惑のなかで不意に糸口を掴んだようだった。驚愕か、それに近いもので見開いた目で、まるで見知らぬものにするように廉を見る。あの倉庫でだって、正崎は見知ったものにするように、廉に瞳を向けていた。君は、とうわ言のように呟く。
「君は、どうして」
「俺が、いや、充の最後の記憶結晶を持っていたアンドロイドが、統が死ぬときにあなたを彼から引き離した。そうだろ」
「それは、充はわたしのことを許してくれなかったから」
「違うよ」
「充は彼女を引き止めた、わたしのところに彼女が去ってほしくなくて」
「あなたのところじゃなくて、統の記憶結晶のところだ。石を見たんだから、充のことは俺のほうが詳しい。充は……あなたの記憶結晶を作りたがってた」
 リトルに見送られて搭乗した飛行機で、廉は自分のなかに残されていた石を読んだ。記憶結晶搭載機体に施されるような接続はそのままに、心臓に血が通っていないような状態で、機能していなかった石だ。思い出すのとは違って、ただ、読むだけだった。それは廉の失われた記憶などではなかった。
 しかし背を刺された痛みまで知っているアンドロイドは、どれほどその意思に忠実だっただろうか。大矢充は瀕死というときに石の更新を望んだのだ。
「あの人は……」
「うん」
「わたしに名前が必要だと言って、この名前をくれた。わたしの名前は、桔梗から取ってあるんだ。朝顔は、桔梗を指すことがある。社名もそうだろう、そういう名前だ」
 名前を与えられたときの正崎について、大矢充はさほど細やかな記憶を残していない。忘れているつもりの、意識に上らないような記憶まで記憶結晶は反映するといっても、主観の影響力は絶大だ。あんなに嬉しそうだったのに、大矢充はそう解釈しなかった。そういう人だった。
 胸に置き去りにされていた石を取り出したいと告げると、萬と古豪はそれを許してくれた。リトルに依頼された内容を伝え、研究を開発部と協同で行いたいと我儘じみたことを言う一介の社員に好きにしなさいと言った。
 廉にそうと悟られないように形見を守るというのは、どういう心地だっただろう。知らぬうち目を向けないよう誘導されていた物事のなかに、それも含まれていたのではないか。
「朝顔の望みを叶えると、あなたがいなくなる。でも朝顔が何に連動しているか知っていたから、死に際にプラティを離れない約束をさせた。杜撰だよな。結局、朝顔は気が付いて……」 
「きみは彼女が好きだっただろう」
「いまだって」
 急に、廉はひとりでいるのに耐えられないと感じた。車内には正崎がいて、廉には友人が幾人かいて、ひとりでいることなどないのに、耐え難い。
「いまだって好きだよ……」
 腕に顔を埋めても、なんにも隠せていなかった。ひとりでに動くハンドルにぐらぐら揺すられてかえって滑稽だ。渋滞が緩和され始め、目的地までの距離が縮まっていく。
 廉が石を読もうと思ったことに、大きな動機は必要なかった。自分のことが知りたかった? 彼女のことが? それとも正崎のこと?
 それ以上にきっと、愛されていると思いたかった。見知らぬ誰かから、当たり前に守られ、ここにあるのだと。肩に触れそっと撫でてくれた男には叶えてやることができた望みだ。
「俺の名前、誰がつけたのか、知ってる?」
「……ああ。朝顔がつけた。もう充ではないから、綺麗な名前をと」
 顔を上げた廉に、石が差し出される。飴色にも見えるそれはいっそ正崎が持っているのがいいかと思ったのに、と受け取らないでいると、彼は肩を竦めた。
「私には見る必要がないだろう、君の言葉を疑ったりはしないよ」
「それなら……どうしよう、これ……」
 記憶結晶とそれを搭載するロボットとは、互いを固く結び合わせる。この石を廉以外のアンドロイドに繋いだところで大矢充は出来上がらないのだ。その特性のせいで、こんなことになっているとも言えた。
 持て余した石はまた内ポケットに収まったが、欲しがる人物の宛てもなかった。またハンドルを握り、手動運転に切り替える。泣いたかと思ったと言われて笑ってしまった。廉は泣けやしないのだ、もっとつらくて、怖くて、逃げ場がないときくらいしか。
 車の通りの少ない、静かな道に出て、あと五百メートルというところだった。泣き疲れたような空気を逃がそうと正崎が窓を開いて、湿った夏の風を誘い込む。
「寄って行くだろう、何が出せるわけでもないが」
「これが宮瀬さんならまた適当なご飯作ってあげる?」
「そうだな、食べてくれるから……」
「仲いいんでしょ、ほんとは。周りには色々思われてても」
「君とも仲良くなりたい」
 もう勝手に置いて帰ったりしないから。もう間に何かを置いて、嘘を吐いたり、口を閉ざしたり、しないから。
 そんな風に拙く言うのでおかしかった。ウェンディだってもっと上手く友達を作るし、リトルなどはいち早く友と呼びかけてしまうことで世界中に友人がいるのに。
「……ずっと君に会いたかった」
「どうして?」
「もう別れずに済むと知っていたから」
 車庫に入れた車を降りた彼の向こうで、地平線に伸びる朱色の帯が揺らめいている。暮れなずむ空が色を決めてしまうより先に答えを、と灰色の瞳がじわりと光っていた。
 暗闇を恐れ、無音の陰に怯え、夕暮れの早すぎる消失を惜しむ。彼だけが残されていた。瞬くことも止めて食い入る双眸が何を見つけたかったのか、いまとなっては同じものを欲しがっている廉には知らぬふりはできなかった。知っている、それがどういうことか。
 彼が彼だけであることが嬉しい、それがどういうことか。これから教えてやれればいい。

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