第五話
小石か何かにタイヤが乗り上げて、車体ががくんと揺れた。その拍子に力の入っていない首から頭が落ちるようにして、大きく傾ぐ。ごつり、車窓に蟀谷あたりをぶつけ、そのまま力を抜いた。
「報告書、うまく書けそうかい」
かかった声に、ああ、うん、と腑抜けた返事をする。うまく書けなくてもいいのだという投げやりな気持ちだった。いつもより出来が悪いということがなければいいのだ。部長に褒めてもらえなくても。ぽかりと開きっぱなしだった口を閉じる。
疲れていた。機体がどうというのではなく億劫さがとてつもなくて、姿勢を正すことも放棄した。プラティ社への帰路、物静かな運転手の急ブレーキが玉に瑕のハンドル捌きに導かれ、白いシートに身を預けている。隣の正崎には疲れやうんざりした様子はなく、いつも通りだ。
安積ケヤの残留情報はきちんと回収したし、現場での調査員としての仕事に不備はない。
「これがあなたの仕事でなくてよかった……」
ほぼ口を閉じたまま言ったのに、正崎がふっと笑う気配がした。
安積がコドン社の顧客だったらひとつ問題がある。あの誘夢装置だ。あれがなかったとして、安積は昨夜死んだのかどうか、あるいはもっと早くに死んだのかどうか。プラティ社は死について原因を帰せられる可能性があった。
しかし調査員は大矢廉だし、これはプラティ社の顧客の問題である。自社の製品のせいで少々精神に不均衡を起こしていた機体が、メンテナンスを掻い潜り装置を使い続け、使用中に夢を要因として死んでも……釈然としないことではあるけれど、問題にならない。それもいまとなっては、詮ない安堵かもしれなかったが。
道路が混むまでにまだ余裕のある時間で、車は滞りなく進む。プラティ社に戻って報告して、それで今日は終わりだった。膝に置いた帽子を何度か叩く。空気が抜けて萎む、間抜けな音がした。
廉は本当のところ、この日の調査を少し無理を言って担当させてもらっていた。残りの調査は担当件数の少ない調査員に割り振ろうという空気だったのだ。しかし、それでは、数日前に正崎に語った通りになる。
これが最後でもいいけれど、あれが最後なのは嫌だ。馬鹿正直にそういうことを言うと、まあそうだろうねと部長は例の茫漠とした頷きを呉れ、彼の部下に仕事を与えた。
車が揺れるたびにがつがつと硝子にぶつける額を撫で、身を起こす。この気怠さはきっと一眠りすれば一掃される類のそれで、今夜は夢を見ることもあるまいと思う。
「夢に殺してもらうなんて」
ぽつりと落ちた声は独り言めいて、しかし彼は廉のほうを向いていた。灰色の瞳とばちりと視線がぶつかり、だらしなく解けていく。
「気持ちのいい死に方じゃないか?」
「殺してもらう……?」
引っ掛かりを覚えたので素直にそれを表す。殺されてしまった、ではなくて?
同じものを見たという事実を間に挟んで、何やら食い違いが生じている気配が濃い。廉はシートの上の手を捕まえようとにじり寄ったが、ひょいと逃げられた。いつも自分から差し出してくるくせに。
「同じものを見たよな?」
「ああ、君を通して見たんだから」
「いまさっきなんて言った?」
「二度も言わせる必要、わたしたちにはないだろう」
「報告書が出せなくなるだろ!」
「どうして」
目を丸くされた。きり、と白い模擬瞳孔が収縮したのを、おそらくは彼と同じ心地で見た。
車はいつの間にやらプラティ社に到着しており、正面ではなく裏手の車寄せに流れていく。運転手の操作で開いたドアからさっさと車を降りた正崎は案内を頼むでもなく正しく認証されて入り口を潜っていった。馴染んではいないが慣れきった様子で、やはり大股に歩くのだ。彼の背中を追った廉は、それを不可解に感じる。どうしてそんなに速く、そのくせゆったりと歩けるのかと。
まるで呼び出しを受けているみたいに通路を進んでいく二人組を、清掃員が何事かと見送った。エレベータに乗り込んで、数十秒の沈黙を予想する。しかしちらと廉を見上げ、正崎は心底不思議そうに言った。どうしてそんな顔をするんだい。
「君の報告書を出せばいい」
「合同調査のなかで、コドンとプラティの調査員、それぞれの見解が食い違った例は四つもあるんだ」
「知ってるが……」
「解釈の壁が厚すぎるんじゃ、正しく調べた気がしない」
自分の役割を果たしたという気さえしない。それに、不誠実のにおいがするではないか。調査員は何も真実を探り当てることを負うわけではないけれど、観測せねばならないはずだ。
廉の言い分に正崎はなるほどと答えた。それは正しい。なるほど立派だ。そういったニュアンスがある。要するに小馬鹿にされた。
「安積の死因、あなたは何て書いて出すつもりだった」
「そうだな、誘夢装置で見る夢は願望の反映だろう? その願望が水面下で変質し、あの言葉を求めたのだとでも書くかな。つまりは自殺」
「じ、自殺?」
軽やかな電子音とともに扉が開き、見知った光景が広がる。同僚の挨拶に応えながら部長のオフィスに向かうふたり分の足音は不揃いだった。正崎は、考えを改めろとは言わないし、考えを変えるとも言わず、現状に疑問を持っていない様子だ。廉の覚えるもどかしさを彼は正しく理解していないのだろう。仕方のないことだ、指先で触れているのでもない相手では。
相談すべき相手は彼じゃないのでは、とふと気付く。考えを共有して、議論を交わすべきは、どちらかと言えばコドンではなくプラティであるべきだ。これから報告に向かう部長であるとか、同僚の調査員であるとか、それに、カウンセラー、であるとか。
「なに喧嘩してるの?」
「うわっ」
背後から回された手に顎を引かれてひっくり返りそうになった。
よろめいた廉の首に腕を回したまま、朝顔がにこりと笑顔を作る。姿勢を正すと彼女のつま先が床から離れるので背中を屈めたおかしな体勢のまま、廉は弁明らしきものをした。別に喧嘩ではない。
「そう? いつもお話しながら歩いているじゃない?」
「いや、別にたまたま……」
「残念ね」
廉より少し先で立ち止まった正崎は読み取りづらい目つきをしてこちらを見ている。朝顔は丁寧な発音で彼の名前を呼び、挨拶をした。返ってくる挨拶もまた行儀のいいものだった。
「ね、梗ちゃん。お話しましょうよ」
「悪いがこれから報告に行くんだ」
「それが済んでからでいいわ」
「コドンに帰る」
「急ぐことないでしょ?」
目だけ動かして見比べた両者の最低限さえ動いていない表情に、廉は何が何やらという心地にされた。旧知の間柄のやり取りというより、競争相手との駆け引きといった空気である。
やんわりと腕を解き、姿勢を正した廉に、朝顔は正崎にしたのと同じ誘いをかけた。彼女のオプティックでは紫のなかにちらつく赤が滲んで消えていく。「この後、お話しましょう。いいでしょ、廉ちゃん」そのように話しかけられたことは数えきれないほどあって、いつも廉は快諾してきた。だから頷き、彼女の望みらしきものも汲み取って、正崎に向かって首をすくめる。
「少しだけだよ、いいだろ?」
「……君が、言うなら」
「あなた相変わらずなのね! それじゃあ、この階のラウンジで待ってる。忘れないでね」
音もなく現れたのに、高い足音を響かせながら朝顔は小走りに去って行った。そういえば今日の彼女はカフェオレの香りがした、初めてのことだった。
正崎は朝顔の後ろ姿が見えなくなると踵を返して歩き出し、隣に追いついた廉から顔を逸らすように自分のつま先を見つめていた。珍しい姿だったが、廉の方が顔をじっと見ていると観念してすぐにいつも通りしゃんとした歩き姿に戻る。
部長のオフィスが無人であるのを見て、廉は彼の居所を同僚たちに問いかける。次々に入ってきた返信によると遅い昼食に出た、ということで、正崎を自分のデスクに連れて行った。折よく席を外している同僚の椅子を拝借して。
午後のゆるりとした空気がフロア全体に漂っている。勝手に休憩しているもの、勤勉にデスクに向かうもの、変える準備をしているもの、ひとりひとりをなんとなく眺めてから椅子に落ち着いた。
「早食いだから十分もすれば戻ってくると思う。報告自体は、そんなに時間かからないだろうし」
「待ち遠しいかい」
「ん? や、別に……。待たせると怒られそうだから」
「さっき、喧嘩しているように見えたらしいな」
強化硝子の小鳥を手のひらで転がしながらそう言って、片眉を上げてみせる。君のせいだよ、言外の揶揄が聞こえた気がした。無声の会話が試みられたわけではないけれど。
「安積の案件で大切なことは、システム上の死の定義の広さだろう。誘夢装置でも、彼の精神状態でもないさ」
「だから報告書がてんでばらばらの中身でもいいわけ」
「よくはないが、よくはないから、そのまま出す必要もある。調査員を複数人で派遣するようになって現れた傾向だ、統合した後は調査方針自体も見直される。……不満気だな、いやに拘るじゃないか」
「あの夢が気持ち悪くて」
メモリの整理で消してしまおうかと検討する程度には。
夢の情報は、あるいは現実での経験の主観記憶以上に精密なのだった。何しろ内部で構成されているのだから、映像あり音声ありの妄想と同じで、追いかける側からすれば現実以上の現実とまで思える。安積の昂揚と怯えは肌に触れる布地と同じくらいすぐそばにあった。
「もしかしてあの最後の歌姫の言動、あれが理想と違ってて、それで死んじゃったのかとも思ったんだよな」
「記憶上の不死と、理想上の死?」
「だって、ただのファンだから。実際に彼女がどういう人間かは関係ないんだろう、あなたの言う死の定義も現実の彼女とは関わりがないとしても、突拍子はなくはない」
「そうだな。いいと思うよ、それも書いたら」
「……なんだか投げやりじゃないか?」
あなたにとっては面白い案件じゃなかったのか、そう千雅を真似てみると、首肯と言葉の上での否定。
「わたしも、あの夢は好きじゃない」
「ホラーだよな、あれ」
「それこそカウンセラーの分析にかかれば、明白な心理が見えるのかもしれないが」
「朝顔はちゃんとしたカウンセラーじゃないから、駄目じゃないか。ロボット心理の分野について専門的な知識なさそう。ああ、そうだ」
こつりとデスクに戻された小鳥は本当は番で売られていて、いつの間にか片割れがいなくなるまでは睦まじく廉の仕事場に暮らしていた。どこに行ったのだか分からない片割れの代わりを買ってやる気はどうしても起こらないのだった。
「おやゆび姫って何?」
指先で小鳥の羽を撫でる正崎の髪が額に落ちるのを、何の気なしに手を伸ばして戻してやった。整髪料の感触に、邪魔ならパーツを変えてしまえばいいのにと思う。
「君が朝顔と呼ぶロボットのことだよ」
「うん、それは知ってる」
「昔はそう呼ばれるのが普通だったんだ。小さかったから」
「へえ……乗り換えてたんだ」
機体をまるきり変えて、人格だけ移動させることを俗にそう言った。珍しいとも珍しくないとも断定しづらいことである。機体の大きな変化を嫌うロボットと、そうでないロボットの差が大きく、比較が容易でない。
昔とはいつのことで、小さかったとはどれくらいだったのか。詳しく知りたい気持ちは、部長のオフィスが在室表示になったのと同時に有耶無耶になる。連れ立って報告にやってきた廉と正崎に、部長は件の歌姫のファンだったという、然程意外でない過去を明かしてくれた。
公団所属機体であるので、誘夢装置について大きく問題にはできないと淡々とした調子で語られ、廉はそれに抗わなかった。尊厳死制度についても、公団は監視者気取りで、厄介なのだ。仕方がない。
「じゃあ、報告書は明日までに。今日が提出期限の書類は……ああ、廉は出してるのか。早いな。正崎くん、まだだね」
「どれのことでしょう」
「プラティ社での調査員待遇についての満足度アンケート」
「そんなものありましたね」
すぐに出しますと答えていながら、出さずじまいにするのではないかと思わせる程度に緩やかな声音だった。廉が九山に覚えたものを正崎は部長に覚えているのかもしれない。気安い人間とそうでない人間の差はあまりに歴然としていて、ロボットの対応も似たようなものになる。
アナログ時計の秒針の音が支配する硝子の囲いで、廉の上司はその音通りのリズムで生きていた。ゆっくりと、着実に。やや着崩したスーツの襟をいじる手の不格好さをいつも見つめてしまう。
「合同調査の残り件数、もうそんなにないから。君らにはもう頼まないかな……おそらく」
「今日だけで三件でしょう、それで残り……」
「十七件。合同調査に出なくてもしてもらうことは多いし、正崎くんに来てもらうこともあるだろうな。というか明日だ。で、規定数の調査が終われば制度見直しと、組織体系の見直しと、諸々ひっくるめて、今年中に統合できないっていうのが有力」
「ええ……?」
「技術提供も絡むからってコドンの上層部が駄々こねてるんだと、ん……これ失言か?」
「大丈夫です。わたしはただの調査員なので」
「よく言うなあ」
苦笑の意味するところを捉えかねる廉を放っておいて、部長は犬の子を散らすように二人をオフィスから追い出した。自分の十倍は多忙であろう人間なので曖昧な理由で手を塞ぐわけにいかない。
「正崎さん、部長とも顔見知りだったりする?」
「しないよ。……ラウンジ、ふたつあるな」
「小さい方にいるんじゃないか」
いつもそうだからと南館への通路のある方へ促す。設備充実の度合いから、たいてい混み合うのは広々としたラウンジだった。
廉がわざわざ作ったゆっくりとした歩調が乱されないまま、きっかり三十秒、廊下を進んだ。
「呼び出されて帰らなくちゃならなくなったって言っておこうか」
「君が怒られるんだろう?」
「小言くらいだから」
少し、追い越される。それに追いつく。その拍子にぶつかった肩をどちらも謝罪しないまま、常にブラインドの下げられて冷え冷えとしているラウンジを目指していた。
窓に打ち付ける雨粒が大きい。時折強い風に煽られてどん、と叩くような音をさせ、垂れ落ちていくのを、興味があるでもなく眺めている。昨日の報告書を送信したところだった。予報よりもいささか強い雨脚に、どうやって帰ろうかと思う。玄関先で傘を目に止めたのに手に取らなかったのには、それらしい理由は特になかった。
午後からの会議、発言する機会があるだろうかと、珍しくフロアに顔ぶれの揃った調査員に投げかけた。なくてもいいという意見がいくつか。千雅からは、なくてもねじこむと。彼女らしい。
「そもそも議題があやふやだし、どうしようもない会議になるね。賭けようか?」
「いいよ、賭けにならないだろ」
背後からの茶々に笑って返した。デスクで何やらパズルに勤しんでいる千雅の声は静かなフロアによく響く。調査員のデスクの集まった一帯は概して静かだ。雑談も仕事上のやり取りもほとんど無声で、人間ならばチャットでするようなことを、空気に流すみたいに行っている。
波形の暗号が退屈を訴える。休憩までは一時間ほどあり、彼女に割り当てられた仕事はいくらか残っている。しかし暇なものは暇。千雅の言うことは分からない。
フロアの端で雨空の機嫌を伺っている廉もそう変わらない態度かもしれなかった。つい先程まではコドンの誰かが作った会議資料のデータ破損で煩雑なやり取りがあり、結局書くのに難儀した報告書との取っ組み合いがあったのだが。
「千雅って、誰かと連動していたっけ」
「してないよ。利用申請はしてるけど。女神が現れないんだよね」
「九山さんは?」
「そういう、なんでも手近で済ませようとするスタイル、よくないぞ」
君だって利用申請さえしてないじゃないかと非難を和らげるように付け足されて、彼女が廉に同じ質問を昔したのを思い起こした。ばかばかしいよと廉は言った。およそ五年前のこと、廉はまだ尊厳死がひとつやふたつの姿しか持たないと思っていた。
千雅がせっかく八割ほど出来上がっていたパズルを滅茶苦茶に崩して机の端に寄せる。キャスターを転がして廉のすぐそばにやってきた同僚は硬質な指で小鳥を虐めた。
「雨の日にぼんやりする癖、消さないんだ?」
「消してほしいって言っても消してもらえない……」
正崎の歩き方も誰かの手で刻まれた癖ではないかと疑っている。製作者のお遊びか、人格の定着を促す目的か、ロボットも無意味な癖を持っている。予め定められたそれらは習得したものたちと違って、記憶を操作するようには消せない。
雨が降っていると呆ける。思考の散漫さが顕著だ。仕事ができないわけでも、したくなくなるわけでもない。だからいいじゃないかと言われて消してもらえないままじきに五年。
あとすこしすれば労働義務期間が終わるので髪の色を戻したいのだと、昨日廉は言った。朝顔が正崎に一方的に吹っかける話題が息継ぎのために途切れた一瞬に投げ込んだのだが、ふたりの反応がまるで違っていて、少し困らされた。正崎は以前にもいまの薄紅色は似合わないと言っていたが、朝顔は戻すなといやにはっきり、粘り強く主張した。
もしかして髪色を変えるように仕向けたのはあなたかと尋ねたのには否定が返ってきた。嘘かもしれないと思った。
新しく要請の入った調査はないかと情報を更新していると、端末ではなく廉に直接メッセージが届いた。正崎からのもので、開いてみればほんの短い文章。
『すまないが来てくれないか、朝顔のオフィスにいる』
もうプラティに来ていたのか、それで朝顔に捕まってしまったのか。そう考えながら席を立った。千雅に声をかけてから調査部門のオフィスを抜け、北館から南館へ。足元含め全面硝子張りの渡り廊下は雨に甚振られてなんとも憐れな様子だった。
不意に、自分しかそこに立っていないことに気付いて歩みが止まる。珍しいこともあるものだ、一階と最上階を除けばこの四階の渡り廊下以外から他館に渡ることはできず、静けささえ縁遠い場所だというのに。
ばたばたと雨粒が頭上を叩く。透明の硝子にもうひとつの膜を張って、雨は滑り落ち、また雫となって地上へ。すぐそばの硝子をゆっくりと流れゆく水に合わせ、廉もゆっくりと歩を進めた。重たさにとうに慣れた靴が堅固な床を叩く音は鈍い。
ごつ、ごつ、と五度、ほとんど変わりない音を響かせる。半ばまでやってきたとき、命じられたかのように頭上を見上げた。
「危ない!」
そして叫んだ。他の誰でもなく廉がーー頭上の危険を察知してすぐさま、意図するよりも早く。ここから離れなくてはならない。何故か? 落ちてくるからだ。
「……何が?」
濡れた硝子の向こうに、廉の精巧な目は落ちてくるものの姿を正確に捉えることができる。何階かの窓から滑り落ちたのだろうそれは、人の形をして、人間ではなく、ロボットであって、女性を模していた。硝子に叩きつける間際、輝く若草からヘーゼルへ、暗く落ちていくオプティック。
足元が揺らぐほどの衝撃があり、動かなかった廉の目元に硝子の破片がいくつも落ちてきた。細やかなそれらはアンドロイドの何を傷つけるでもなく床へ。衝撃を受けながらも割れることのない硝子はフィルムで加工されていて、どこかに小さく開いた隙間から雨粒をひとつ、落としただけだった。
廉はまだ動かないでいた。見上げたままの格好で、硝子も払わない。瞬きを忘れた目のなかで模擬瞳孔がきゅるりとそれだけ動く。数人がこちらへ向かってくる足音が聞こえた。距離からしてすぐにやってくるだろう。
「朝顔」
オプティックに光はなかった。彼女は既に機能を停止し、ただそこにある物として雨を受けていた。どのような呼びかけにも応えない存在だと同類である廉には分かってしまうのだが、わからず屋の人間と同じで、足が動くのと動かないのとは認める認めないによらないのだ。
駆けつけた社員たちが事態に気付いて騒ぎを広め、警備課とプラティ社所属機の管理部門とが呼びつけられた頃、彼はようやっと見上げるのをやめた。
警備課の人間に下がるよう言われふらつくように場を明け渡す。そうして振り返った先によく知る顔があり、廉を穴が空くのではというほど強く見据えている。正崎は、人間ならば卒倒するのではないかという真っ白な顔をして、朝顔ではなく廉の方を見ていた。間違いだと廉は思った。見るべきは自分じゃないはずだと。
「すまない」
騒然とし始めていたのに彼の声はよく聞こえた。のっぺりとして情緒のない声色だった。首を傾げた廉に、彼はますます、これ以上ないほどーー怯えて、もう口を閉ざしてしまった。
正崎は、朝顔とついさっきまで一緒にいたであろうアンドロイドである。それに気が付いた廉が近づいてくるのから彼は逃げず、手を取られて目を瞠った。
「何があった?」
「……」
「どうしたんだ、なんで……正崎さん、何が起こった?」
「死んだんだ」
「それは見れば分かるよ」
「そうだが、いや、そうでなくて、尊厳死だと思う」
しどろもどろになっている正崎の指先は光を灯さない。周囲が彼らに注目し始めていることを意に介さず、痛みを覚えるだろう強さで指を握った。籠められた力の強さによってではなく雨粒よりも彼女よりもずっと遅れてやってきた恐れにより、廉の手が震えを来す。
「どうして!」
応えのない手を放り、答えようとしない男の胸倉を掴んだ。いよいよこの場にある目という目が同じ一点に向けられてなお廉にそれを顧みる気は起こらなかった。どうでもいいのだ。どうやって回収するか相談が交わされている彼女の死体の他はみな、どうでもいい。
「知ってるんじゃないのか! 説明しろよ、朝顔はもう死なないはずだろ!」
がくがくと揺さぶっても正崎の両手が抗うことはなかった。灰色の両眼がおとなしい色であるばかりだ。誰かが廉の名を呼んでいて、それは宥める意図のある声だったが、無視していた。声の主は同じ調査員のひとりで、良好な関係にある、そんなことは、どうだって……。
答えろよ、そう怒鳴りつけた。そうでもしなくては怖気に負けて座り込んでしまいそうだったのだ。人間の死体や死を運ぶ夢と同じ耐え難い気配に涙が出そうだ。
「廉……」
彼は何か言おうとしていた。喘ぎ喘ぎ、澄み渡っているはずの思考を取っ散らかせているのが手に取るように分かる。だが、廉の肩に手が置かれぐっと引かれるのと、正崎の名を呼ぶ声がしたのと、示し合わせたようなそれらが二機の混迷を打ち壊した。
う、と呻き声が出た。泣き出しそうな音に聞こえたのだろう、廉を宥めようと手まで伸ばしてくれた同僚のアンドロイドが眉を下げている。甘い飴色の髪と瞳の幼い顔つきの機体にそういう顔をされてはもうしようがない。
正崎が廉の手が離れて少しふらつき、次いで、彼は目の前のアンドロイドたちや集まってきた社員の姿の向こうに自分を呼んだ声の主を見つけた。見れば宮瀬藤吾が彼の秘書らしいロボットとともに立っていて、会議の参加者に彼の名があったことはすぐに思い出された。
その宮瀬に忌々しげに睨みつけられた。それがまったく思い違いではなく、彼が廉を確かに厭わしく見做しているのはすぐに分かった。
「梗」と彼は正崎を呼んだのだった。「梗、また面倒事か」
彼が死体を指して、あるいは廉を指してそう言ったのか、正崎には察し得たらしい。はっとした顔をして両方を見比べていた。長い脚を使って南館から渡り廊下へとやって来た宮瀬は頭上の落下物を一瞥する。その鳶色が自分に向かうより先に正崎は口を開こうとした。先走った発言のように彼の声は響いたから。
「これは……その、すまない、藤吾」
「……まさか、おやゆびか?」
「そうだ、いまは朝顔と名乗っていて……名乗っていた」
「会議どころではなくなるのだろうな。あれが死んだというのでは」
「そう、だろうな」
宮瀬とともに会議室へ向かっていた面々が惨状に各々嘆息したり苦笑したりしているのを、やけに遠くに廉は見ていた。驚きが鎮まると現実的な懸念ばかりが波状に広がる。
弱まった雨脚と、やや明るくなった空とを疎ましく思う。淡々と言葉を交している正崎と宮瀬から目を離さない廉のそばから、いつの間にやらあの同僚の機体も立ち去っていた。社員は自分のデスクに戻るよう通達が出ているからだ。
警備課が硝子を割り落とすための器具を抱えてやって来、渡り廊下から離れてどちらかの館に入れと指示が出される。宮瀬が南館を指して正崎を促した。
「戻るぞ、ここにいても邪魔になる」
「藤吾、待ってくれ……」
「悪癖を出すな」
「そうじゃない。彼女、……わたしの前で死んだんだ。こういう場合、責任があるんだろう? ーー廉」
何かに対し躊躇ってから、正崎は北館の方向を指した。
「戻らなくてはならないだろう」
「……そうだけど……」
「彼女はコドンの顧客だ。そしてプラティの所属機だ、調査は……」宮瀬をちらを見て、やや眉を顰める。「合同で行えるだろう。だから、いまは戻れ」
食い下がる気にならなかった。無数の罅に弛んだ硝子が割られ、慎重に下ろされた朝顔の機体の損傷が晒されるのを廉は見ていられなかったのだ。
勢いこそ弱まりはしたが、雨は止むことがなかった。デスクに頬をつけて眺める先で雲はやや速く流れていく。ちらちらと寄越されている複数人の視線を知らぬふりで、廉は一度落ち着いたそこから一時間ほど動いていなかった。予定では既に始まっているはずだった会議は有耶無耶になっている。
何故か、プラティとコドン双方の上層部が浮き足立っているのだ。会議どころじゃないという空気。朝顔が死んだと言っても、彼女は役職の曖昧な相談役でしかなく、宮瀬藤吾が彼女のことを知っていたのも分からない。
雨ざらしになっている渡り廊下は通行禁止で、社員たちは不便を強いられていた。おそらく今夜か、明日にでも補修されるだろう、硝子を替えるだけだから。尊厳死制度調査部門は湿った沈黙と時折の物音に支配され……廉の思考はひどく散漫である。
「死んだのかあ」
唇をほとんど動かさないまま言って、打撃を受けた。メモリの整理をかけてしまいたくもなった。それができないこと、すれば後々面倒が起こることを廉は知っていて、大人しくしている。
どんな表情をしていたか、形容できないのだ。あの一瞬、廉の目と記憶のあり方からして一瞬とはじゅうぶんな時間だが、朝顔は生きていたのではないだろうか。オプティックは完全に落ちていなくて、その向こうのカメラアイがはっきりと見えた。少し開いていた唇、叫んではいなかったが、平静とは程遠い、あれはどういう顔だろう。
しかしなぜ今日なのか。今日でなければいいわけでも、今日がいけないわけでもないけれど、廉は恨めしく林立するビル群を見つめた。いつであってもこう思うのだ、よりによって今日でなくてもいいのに。
「廉、ねえ廉」
背中を細い指で叩かれ、緩慢な仕草で少しだけ顔を上げた。椅子に腰掛けたままこちらを覗き込む千雅の波形は、凪いでいる。理想的に理性的、穏やかだ。
「大丈夫かい」
「あんまり」
「ふん」鼻で笑うのではなく、犬がするみたいに千雅が頷いた。「君は彼女のことが好きだったものな」
あわれみ。本当に感情豊かな機体だった。千雅に可哀想がられるのには不愉快さがなく、廉は自分を憐れむ気持ちにさえなる。見当違いの感情の処理であって、不合理に生じる違和感に負けて醜悪な自愛はすぐに消え失せた。
「千雅は、あんまり朝顔のこと好きじゃなかったな」
「いや好きじゃないというか、普通。フツーだからさ、後からびっくりが追いかけてきそう」
「冷静じゃん」
「まあね」
彼女はよく知っている。廉がたびたび朝顔との対話に時間を費やし、ときに誘い、誘われて、ふたりで過ごす時間を収集していたのを。仲のいい同僚だから、時には彼女も混じえ三人で話すこともあった。あれはカウンセリングではなくてただの憩いだった。
人間なら、とまで考えかけて、やはり不合理に耐えられない。アンドロイド、ひいてはロボットの情緒と人間のそれとを比較し優劣をつけることの無意味さはジェイムズ・リトル以前から言われている。
廉のデスクに頬杖をついた千雅に間近に覗きこまれ、廉は思わずといった体で笑った。彼らの話し声を周囲はみな聞いているが、閉じ籠もるのは嫌だったし、その会話を皮切りにしてフロアに雑談がいくつか生まれると空気のめぐりが良くなっていく。
「これから困るな、カウンセリング、できなくなって」
「そうだね。懺悔室がなくなって」
「なんだそれ。……みんな、悲しむ」
かく、と直線的に千雅が首を傾けた。二の腕に頭を乗せて殆ど廉と同じ角度になる。
「あのさ、廉。誰も、君ほどは彼女のこと好きじゃなかったよ」
きょとんとした同僚に、千雅は微笑みをくれた。笑みがそこにあるわけではない。波形は優しく揺れ、まるで幼子を寝かしつける手のようだとそれを見たこともないのに思う。眠気はなかった。あってもよさそうなほどの動揺であるはずだのに。
「でも……」
「うん」
「でもさ、朝顔はここにいなきゃいけなかったんだよ」
「そうなのかもしれないね」
そうじゃないかもしれない。
廉はひどく心細い気持ちで、思い違いを認めることから逃げようとした。いつも、朝顔のオフィスには誰かがいた。ロボットの誰か。彼女と話すことで何かが得られる、得られずとも満足する誰か。廉はそれを知るたびに嬉しかったし、嫉妬はなかった。彼は朝顔という機体をほんとうに好きだったが、連動対象とすべきとは思ったことがない。そういう好意はありふれていて、それ自体が好ましい。
「嫌だ……」
部長からの呼び出しを受信していた。指定された部屋から要件も察し得たが、立ち上がるのがどうにも重く、苦しい。
正崎が言ったことはその場凌ぎではなく、確かにあり得る予想だった。朝顔がコドン社の尊厳死制度利用者ならば、コドン社の調査が行われ、機体は回収される。しかし死亡現場がプラティ社で、その様相が穏やかでないとなれば、合同調査として処理されてもおかしくはない……そのように促す意向が存在したとしても。
ぎしぎしと首が軋む。比喩だ。廉の機体は滑らかに動作し、彼の背中を起こし、つま先に床を押させ椅子を引かせた。千雅がどうしたんだと問うのに、呼び出しだと答える声もしっかりしていた。
調査員大矢廉が必要とされると思うと、立ち上がらないで彼女と気の冴えない会話をすることはできない。廉はいたって生真面目な勤務態度を五年弱保ち、評価を確保し、自らの願望を確かに持っているのだ。
「彼女によろしく」
背にかけられた声に手を振って返した。
ノックをし、声をかけ、入室を許されて扉がスライドし、真っ先に目が合ったのは宮瀬藤吾だった。思わず足を止めかけて不格好に入室してきた廉を部長が手招く。そこはメンテナンスルームのひとつだった。
いるのは部長に、宮瀬と、正崎。それにロボットの技師がふたり。この顔ぶれにあっては宮瀬の存在が異質だったが、どうしてその人がいるんですかと尋ねるには廉は世慣れし過ぎている。
処置台の上には、もはや必要とされないリペアの施されない傷ついた機体がひとつ。その傍らに立って部長が彼の部下に目配せする。
「合同調査だ。メインは正崎くん、君は補佐」
「はい、……」
「いつも通りだ」
「はい」
彼は、廉を安心させようとしている。白を基調とした病室じみた真四角の部屋には窓がなく、確かに廉の均衡を最も力強く保つのはこの上司の存在であったので、深く頷いた。
「状況については技師と正崎くんから話を聞くこと。それで……宮瀬さん、大丈夫ですよ。彼はあなたの調査員にもう食って掛かったりしません」
「それを心配してここまでついたきたわけではないんだがね」
「それじゃあ……、ああ、うん、なるほど。それでは私はこれで。この後については秘書の方に伝えてあります」
肩を竦めて、ややぞんざいな一礼ののちに部長はメンテナンスルームから去っていった。ついさっきやり過ごしきれなかった心細さに髪をつままれた感触がする。
宮瀬の背後に立つ正崎は俯いていて、表情が読めなかった。宮瀬は相手の視線が自分を素通りしているのに気付かないはずもないがそれを咎めず、一歩を詰める。二体でひとつとして作られた技師たちが沈黙に顔を見合わせている。やや見上げる相手に少し逸れていた顔をやっと向けると、睨めつけられていると分かった。
「大矢君」
「……はい?」
「君は無謬ではなく、それでいて潔白だ。だがそれが無知を許すわけではない」
「…………」
「これが言うように君に全く何一つ責任を求めないというのに、私は同意できない。……この話の意味が分かった日が来たらまた話そう。その時には嫌とは言うまい」
「何の話か分からないのに、頷かなくてはいけないんでしょうか」
「立場を弁えれば頷くのじゃないかね?」
たとえそれが誓約として機能する動作でなくとも、と、まるで寛容さを押し売られた気分だった。ただ頭を傾けるだけのことで屈服させられた獣のようになる。
宮瀬はそれから正崎に一言二言、ひどく素っ気なく、廉にしたよりも高圧的に何かーー聞こえなかったわけではないが意図して記憶しなかったーー言いつけてから出て行った。部屋の外に待っていた秘書がそれを追いかけていくのが、扉の閉まり際にちらと見えた。
またすぐに沈黙が舞い戻ろうとするのを、どうにかして追い払いたい。どうにかしてって、どうやるんだ。廉は宮瀬を見送った正崎が視線をこちらに寄越さないので何を言い出すべきでもないと言い渡された気分だった。
「あのう」「この機体の説明をしてもよろしいでしょうかね」
同時に挙げられ、ひらひらと振られた二組の手に廉も正崎も顔を向けた。それぞれ反対側の手を挙げ、同じ角度で左右対称にそれを揺らす。同一個体ではない彼らは、注目を得て交互に笑みを浮かべた。後頭部から覆いかぶさるように鼻先までを覆った暗色のバイザーの下でオプティックが明滅する。
「ひとつ最初に申し上げたいのですが」「彼女の残留情報はごく少ないようです」「予め消去が設定されていたか」「最後の操作がそれであったか、であると思います」
「機体がああいう風に壊れたからじゃなく?」
「大した衝撃じゃありませんでしたからね」「連動していなければ修復も可能だったでしょう」「死因は完全に尊厳死です」「それは間違いない」
「尊厳死は落下の最中だったんじゃないんですか」
「それは」「調べてもらわないと」「私共は機体の状態しか見れないんです」「中身に触るのは職務になくて」
技師たちが朝顔のそばに立ち、表層が砕け内部の露出した腕を軽く持ち上げる。破片が落ち、おそらく強く握ったり揺すったりすれば簡単に罅が増えるのだろう。
さあ、と言うように技師が廉と正崎それぞれに向けられた。これで揃って一方を見るのなら、どちらかはこの勤勉で率直な要求から逃れられたものを。
じりじりと首を回し、正崎を窺う。彼の目線は朝顔の足先のあたりに落ちていたがそこを見てる様子にはとても見えなかった。この部屋に入って一度も、彼と目が合わない。廉が彼を正しいやり方で見据えようとしないせいでもある。
「コドンの調査員が担当なさると」「先程説明があったと思いますが」
廉を見ていた機体までもが正崎に矛先を向け、白皙がこわばる。
「……廉」
「な、何」
「わたしは君をここに呼んでいないし、合同調査の要請もしなかったし、自分で調査をしたいとも言わなかった」
吐き捨てるような語調に廉が返す言葉を失う、それを横目に見届けて正崎はあれほど重たげに曲げていた首を真っ直ぐに立たせた。彼の襟元はすこし皺になっている。処置台に近づいたアンドロイドの指先には光があり、死体に触れる間際、針に刺されたように震えた。
朝顔は頭から落下し、顔を庇うこともなかったはずだが、フェイスパーツに大きな損傷はない。頭部の傷、手足に限らない機体全体の破損、ほとんど外れかけた肩からこぼれているケーブル類、綺麗に残された両手。
彼女のオプティックそのものは透明な硝子だった。暗く沈んだそれの最後の色を知るのは、それだけは廉である。しかしそれがどのような意味を持つかなど知る由もなく、報告書に記すべき情報かどうか、判断しかねるから書いておこうという程度だった。正崎は。
ほとんど瞼を下ろしきって、保存を厳命された遺言に触れている彼はどの目を最後に見ただろうか。
「ーー本当に短いな」
たったの十秒。それで正崎は身を引いた。
彼は恐れることも、痛ましさに打ち据えられることもなく、その最期を見たであろう死体を視界に許している。先程からずっと見つめるということができずに断片的な視覚情報をかき集めている廉とは対照的だ。
「死の状況、それに原因については、わたしが知っている。廉、聞き取り役をしてくれ」
「ああ……、必要かな、それ」
「君がしたくないなら、必要ないと答える」
どうしてそう答えられないのだと叱りつけられた、気がした。被害妄想に近いものだと分かっていても廉は萎縮して口籠り、簡単に差し出せるはずの答えを取り零してしまうのだが、正崎のほうには容赦がない。
かしゃんと軽すぎる音で、腹の上に戻されていた朝顔の右手が落ちた。破片が散り、その場の全員がそれを無視した。
「聞くよ、必要だと思う」
これが正式な仕事であるなら、報告書を提出する義務がある。いまの廉には参考人としての報告書ならともかく、調査員としての報告書はとても書けない。
正崎は浅く頷き、技師たちに断ってからメンテナンスルームを抜け出した。声をかけられなかった廉が追ってくることに疑問がないのか、振り返らず、顧みない足取りで、いま彼らのいる南館八階にある一室に向かう。つまり、朝顔のオフィスに。
部屋は無人だった。誰かが入った痕跡が開かれたままの扉として残されていたが、現場検証は行われた様子がない。事件として扱われないのだとそれではっきりする。
「藤吾と共にプラティにやって来たのが午前十一時三分のことだった」
閉ざされた窓のそばが雨で濡れている。窓は上下に動くタイプのもので、頻繁に開かれていたが、雨の日には当然閉ざされているはずだ。朝顔はここから落ちたのだ。ちょうど、その窓辺からは眼下に硝子製の渡り廊下が望める。水族館の展示のようだと初めてその硝子に対して特別な印象を持った。
ホログラムの表示されていない机、椅子が四脚、扉から見て左方に衝立があり、その向こうには朝顔のデスクとブラインドのかけられたステンレス製の棚がひとつ。そこに何があるか、教えてもらったことがある。
「案内される途中で彼女と出会した。話をしようと言うので、断った。食い下がる彼女を見て藤吾が行けばいいと答えた。わたしは彼に従った」
「彼に?」
「行けばいいと言うのに無視すれば、指示に従わなかったということになって心証が悪いんだよ」
そういう性格だから。窓辺には近づかず白い衝立のそばに立つ正崎が、窓の外を眺める廉に見えないよう苦笑する。見えてしまったのは窓の外の景色よりも、窓に映っている彼のほうに気をやっていたからだけれども、当の正崎が廉を見ていないのでそれには気付かれなかった。
「このオフィスに入ったのが十一時十七分」
想像する。正崎は不承不承、引きずられるようにしてこの部屋に招かれる。座りたくない椅子を勧められる。ラウンジでのやり取りからの推測はそう現実離れしていないに違いない。
「最初に君の話をした」
「どうして」
「共通の話題だからさ。君が好きなホログラムはどれで、好かない話題はどういうものか、聞いたよ。君がどんなに仕事熱心で、いい子なのか。仲良くしてくれているか……」
廉がヘーゼルのオプティックを見たのは、午前十一時五十五分のことだった。
「話は昔のことに移っていった。わたしは気乗りしない話だと言ったが、彼女はそれがしたくてわたしを呼んだんだ。君がいてはできない話だった。拗ねさせてしまうと言っていた」
「……いつの話?」
「二十年前のこと」
「それは、……分からないな」
コドン社とプラティ社が、いまの形になった頃のことだ。廉にとっては歴史であり、それが、彼にとっては思い出であるということ。拗ねるに決まっている、疎外感をうまくやり過ごし不満を表出させないでいるには廉はあまりに若すぎる。
正崎が髪に指を通し、整髪料か何かを使って流していたものをばらばらと額に落とした。何度か手櫛を使ってから、作られたままの形に戻され目に少しかかる髪に焦点を合わせている。彼がそうしているのを見るのは二度目だった。あのときには、単に身支度をしていないだけだったが。
彼はそれが済むとキャスター付きの衝立を動かし、棚のそばに立ち、ブラインドを上げる。そこには、人形があった。ある百貨店が毎年クリスマスに発売する小さな陶器の人形で、少女の姿のそれらは埃ひとつなく照明を弾く。
「二十五体の人形がある」
ひとつひとつ指差しながら、正崎が言った。最も古い人形は童話をモチーフにして十年にわたって制作されたシリーズのうちのひとつで、どの話なのだか、廉には一見してははっきりしない。
贈り物だ、と朝顔は言っていた。毎年、必ず彼女に贈ってくれるひとがいるのだと。
「ここから、ここまでは、大矢充が。この一体と、ここからここまでは宮瀬統が贈った。……最近のものはわたしが」
「でもずっと会ってなかったって……十三年、ぶりって」
それも朝顔が言っていたことである。窓辺を動かない廉の姿だけが廊下から見えるようで、時折通り過ぎる社員がなんとも言い難い顔つきで、このオフィスの前でだけ足を急かしていった。
「十三年、わたしが贈ってきたんだ。わたし以外に贈ることのできる者がいなくなったから、注文して、届け先をここにしていた。直接は会わずに十三年」
「これ、贈ってくれるのは好きなひとなんだって言ってた」
「朝顔の制作者は第一には大矢充だ。改良を加え、彼女を君の知る人格に育てる過程には宮瀬統がいた。好きだっただろうさ、親だから」
「いま、何か……嘘を吐かなかった?」
はたとこちらを向いた顔が少し幼く見える。瞠られた目、そこにある瞳のまるさを廉は見ていた。人間が見せるような嘘の兆候は彼には見られない。
廉が名を呼ぶと、正崎はたじろぐように身体を揺らしたが、踏み止まった。どうしたんだい。まるで別人のような言い方をする。正崎梗も、宮瀬統も、そんな風に尋ね返すことはしないだろうに、優しく。
「さっきは、ごめん。掴みかかったり怒鳴ったりして。怖いのをあなたに八つ当たりしたんだ」
「…………ああ……」
「正崎さん、いま、嘘を吐いただろう」
「……そうだな」
苦し紛れに口元が釣り上がり、すぐに糸が切られた。じっとそのパーツの動きを観察する廉の双眸を嫌がるようにまた目を逸らし首を反らせた彼の手が、いちばん新しい人形に触れる。ぎこちない指先に弾かれて人形は倒れ、余裕をもって空間の取られた棚の上を転がった。
「彼らの誰も、自分を親と、娘とは思っていなかった……」
彼の声には恐ろしい事実に触れてしまったという、罪悪感に似た驚愕があった。あの廊下で、そしてメンテナンスルームで彼を頑なにしていたものがまた、正崎の足元を固め始めているのだ。
瞬きを忘れた目は人形ばかり見つめている。小さいが精巧で、ひとつとして同じ顔のものはない。
「キスを」
陶器に描かれた紅い唇に対すれば、彼らのそれは色褪せている。色なんてどうにでもできるけれど、どうにもしないままでいる。
「キスをされて……ああ、わたしが、彼女に。それが三十八分」
廉から見て右方にいて壁際の棚に向かう正崎の横顔は、髪に隠されている。しかし幼い少女や少年が秘密を明かすような、年頃の者共が色めいて誇るような、心ある色合いは彼にはない。
「拒んだ」
「結局あなたは、好きじゃなかった?」
「べつに嫌いじゃあ、なかったつもりだ。嫌う理由がないはずだったんだ。だが耐え難さを覚えて肩を押し返した、彼女は……ーー廉」
「朝顔は、何?」
「廉、納谷の件のとき、君のことをコドンで調べた。処理負荷の重さの原因を調べたんだ、原因ははっきりしていた、負荷がかかることを度外視した設定がなされていた、君に」
施錠されていた窓ががちりと引っかかる。ロックを外せば、窓は軽い力で押し上げられた。指先が離れてからも勢いのままするりと開き、途端に、風とともに雨粒が部屋に殺到する。喧しくはなかった。むしろ静けさまでも、このじめついた風が運んできたようだった。
正崎がやっとこちらとまっすぐ向き合ったのに、いまはそれがどちらでもよかった。
「そのうえ君には、不正アクセスによるデータへの干渉が行われた痕跡がある。特定の条件を満たすメモリの消去、その想起の妨げ……」
「いつ」
「複数回、四年九ヶ月にわたって」
「じゃあ、ずっとだ。起動してからずっと」
「わたしは、それについて朝顔に」
「言うなよ」
首筋に冷たい水、背中に染み入るとそれがぬるくなって、機体の熱を孕んで背筋を落ちていく。かけもしない冷や汗のようだった。
窓を開いたのは、そんな言葉を予想したからではない。そんな恐ろしいことを聞くのが怖かったからではない。廉にだってその姿は分かりはしないが、何かもっと切迫して恐ろしい、逃れなくてはならない言葉が正崎により齎されるはずだった。
「……話の、続きだろ。朝顔はどうしたんだ」
「そこにいると濡れる」
いいんだ。そんなことはいい。廉は自分が笑顔らしきものを浮かべているのを知らなかった。頭を振って揺れる髪の派手な色、長さをずっと変えないでいたこと、いつも……。
「正崎さん」
「彼女、は……」
手が伸ばされる。手首を掴んだ両手に引かれて、廉は呆気なく窓辺を離れた。雨粒は彼を追いかけてはこなかった。
正崎は穴が空くほど執拗に繋いだその手を睨んでいた。青褪めた頬に髪が影を落としている。俄に強くなった風がその黒髪に雨を運び、ぽつりと落ちた水滴が力をなくして髪の束に消えていく。片手を引き抜き、廉がその髪に彼がしていたように指を通すと、はあ、と半ば声に出された吐息。
彼が目を伏せ、指先から指先へ、流し込まれるものがあった。正崎自身のメモリの一部だった、視覚情報に近い状態でそれがやってくると、廉は目を閉じた。
朝顔。
山吹色のオプティックがかちかちと何度も瞬いている。彼女の背後には窓があり、それは閉じていた。視線はこちらへ、正崎へと、真っ直ぐに。
ーーどうしたの、梗ちゃん。
ただ戸惑っているだけの声で彼女が言うのに、正崎は黙りこくっていた。彼の思考までは渡されていないのがそこで分かる。浮かべられた弱々しい笑みが彼女に不釣合いで、廉はそんな顔、思い浮かべたことさえなかった。
ーーみつるちゃんは、ふたりきりだとこうして、挨拶してくれたの。
「わたしは嫌だ」
ーーでも、あなたは……。
「知っている。言わないでくれ、言うな!」
薄い紫がすぐに白んでいった。怒号というには震えて力のない声なのに、朝顔はまるで手を上げられたという顔だった。恐怖。廉はその恐怖を知っている。名をつけられず、由来を知らぬのに、同じものだと確信した。
一歩、二歩。後退った朝顔の背に窓枠がぶつかる。彼女が後ろ手に窓に触れる。このときには施錠されていなかったらしい窓が軽く開き、激しい雨が部屋に突進してくる。朝顔が手をついた窓枠はすぐにコップをひっくり返したかのような有様になった。
ーーあなた、梗ちゃんよね。
ーーええ、あなたは、梗ちゃんだわ。見間違えようがないもの。
ーーみつるちゃんが、私のために……そうでしょ?
ーーみっちゃんのためにずっとここにいるのよ、約束を守ってる。
ーー廉ちゃんのことだって、止めていてあげてる。
ーーそうでしょう?
ーーねえ!
叫び声に視界が揺れる。正崎が身動いだということだった。彼は前にではなく後ろに、逃れる如く足を下げていた。違うの? 朝顔がまた、ついさっきよりずっと攻撃的な声を響かせた。
「違わない」
こちらへ伸ばされた朝顔の手を正崎は握らなかった。視界が定まらず、ようやっとまた朝顔を中心に据えたとき、正崎は言った。平坦なばかりの声だった。
「だがわたしは、みつるがどうやって君を愛していたのか知らない」
手がぱたりと落ちた。輝く青。曇り空でなければ空とまったく同じ色であったであろうオプティックがそのとき、色合いを定めて正崎に向かっていた。
ーーああ……。
遠くからでも、それを確かめようとせずとも分かるほどに震える肩を抱き、両手のひらで顔を覆い。朝顔の身体ががくりと力を失った。開かれた窓が彼女の傾ぐ側にあった。
真夏の青が最後に見えた。
流れこむ情報の性質ががらりと変わる。正崎の記憶ではなく、朝顔の遺言だと、調査員としての廉はすぐに悟った。石のように硬いたったひとつの言葉だ、本当に短く、そのために鋭い。
『あなたじゃなかった』
機能停止の寸前に作られた遺言だった。正崎は彼の責任から少しも逃れてはおらず、そのせいで死についての情報は精緻なものだった。彼女が本当に死んだのは青いオプティックであったときではない。緑のオプティック、あの深く暗い闇に滑り落ちかけた色のとき。
顔を上げると正崎がふいと目を逸らせた。彼は情報を寄越す間、一緒にそれを見直すことはせずにずっとこちらを見ていたのだと思った。
「わたしは……」
離れようとした手を握り、廉は彼の眼差しが帰ってくるのをじっと待っている。続く言葉を発することは彼にとってその灰の瞳を露わにすることと同義だった。彼らの指先は光を灯し、そこを行き交うのはただ互いの情緒の波だけで、会話にさえなってはいない。
「わたしは宮瀬統じゃない。だから彼女は死ぬしかなかった、連動システムは止まれと言って止まってくれるものではないから」
「でもあなたには記憶結晶があるんだろう」
「そうだよ。宮瀬統の記憶と、人格、そこから作られる彼そのものが……」
名の通り石の姿を取るその記録媒体は彼の胸のあたりにあるようだった。左手でそこを押さえている。
「しかしこれは、不完全だ。わたしは不完全なんだ。宮瀬統じゃない。彼によく似た、彼をよく知っているだけのアンドロイドさ。わたしは彼じゃない」
どうして?
廉は尋ねるべきか、ひどく逡巡した。記憶結晶の生成過程など専門性を持って知るわけではない、しかし美杜幹典がそうであったように、石を持つものは死者から連続するのだ。彼らは死者の位置を占める。あたかも死が一点で起こり解決された、小さな問題であったというふうに。
宮瀬統は、彼は鳶色の瞳をしていた。黒髪で、不健康そうな顔色をしていて、痩躯で、長身とは言えなかった。研究者だが大矢充のように白衣を着るということはなかった。経営者としての才覚があり、物事を、あらゆる人格を含め、動かす手腕があった。コドン社は未だ彼の敷いたレールを走るのだと囁かれ、それは確かなものだった。
そして傲慢だった、と。語ったのは朝顔ではなかったか。彼女は昔話をしてくれることもあったのだ。物知りで、おかしげにすべてを語った。
濡羽色の髪が風に煽られ、額が、瞳が覗く。正崎は穏やかなふうで笑ってみせた。背に打ち付ける雨がないことに廉は気が付き、ぬるい風ばかりが部屋を渦巻いていた。
「どうして」
「……彼が死ぬとき、異常、があった。完全な継承が行えなかったが、わたしは彼を死なせた」
「ロボットに人間は殺せないよ」
「いいや、殺せるさ。戦争をするように、いつだって例外と恩赦がある。わたしは宮瀬統を呼び戻し記憶結晶の生成をやり直すための数秒を捨てた。ーー彼女はそれを知らなかった」
「どうして、……そんなことを?」
知りたくて尋ねたのではない。尋ねるべきと考えたのでもなかった。言葉は口をついて出るばかりで意思が介在していないかのようだった。
いつの間にか窓辺に立った正崎が窓を閉ざす。ぴしゃりと強い音。風は入り口を失い硝子を叩いて流れていく。遠くの空に晴れ間があった。その向こうにはまだ暗い雲が漂っていた。
彼は渡り廊下を見下ろしていたが、飽いたようにすぐに止めた。
「宮瀬統と大矢充の反目はあの女のせいだ」
なぜって、愛していたから。
彼はおやゆび姫の誤解を守り死者を演じきる、猶予ある数秒を投げ捨てた。正崎には何だってできたのだ。あのときーー廉が彼に見せられた死に際に、言葉を選ぶことができたのは正崎だけだったのだ。
「廉、……廉、すまなかった」
「俺に謝る理由はないだろ」
「君は彼女が好きだったろう」
そう、そうだ。彼は廉を呼んでいたのだ。あれはどの時点のことだっただろう、キスされる前か、その後か、彼が言葉を選びとる前か、後か……。
傍らの机に手をつく。当惑しきったアンドロイドがそこに映り込んでいる。怒っているようには見えず、悲しんでいるのとも違っていた。困り果て、結論も何も手に入れられず、空っぽの手を差し伸べられずにいる。廉は、そこに映る自分に微笑みかけた。
「好きだったよ、何も知らなかったから。いまも好きだ。自分のことほどは、朝顔に幻滅していないんだ」
「……」
「正崎さん。訊いてもいい?」
「いいよ、廉」
頷く彼は傲慢ではなかった。冷たい男ではなかった。廉の知るかぎり、廉が見るかぎり、彼は情け深いと言ってもいいほどに優しかった。朝顔がこのうえない安らぎの運び手であったことと同じく。そしてそれはきっと、朝顔が正崎に犯していた無知と同じ罪状を持つ過信なのだ。
正崎梗は宮瀬統ではない。彼以外のすべてが望んだ存在ではない。そうして彼は、自分が誰ではなく、誰であるか、知っている。では、廉は?
様々なところに、自分の知らない自分がいた。乖離してあるのではなく、誰かが見ている自分がいた。陳腐な感覚はまるきり発達途上の人間の焦りに似てここにある。あなたは誰を見ている。閉じた窓を背にした正崎は何でも知っている。だから何だってできる。
「俺は誰なの」
問うべきではなかったと、すぐに分かった。白い手が胸元を押さえ、彼は寂しげに言うばかりだったのだ。君には知ってほしくない。