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第九話

 銀杏を踏まないようにおかしなステップを踏んでいる廉の後ろを、正崎は真っ直ぐに進む。踏み潰された実が嫌われる臭気を漂わせているが、彼にはさほど不快と思われなかった。
 人に懐かしさを想起させる古びた並木道では、古い時代にそうであったと信じられる緩やかさで人が動いている。彼らを追い抜かし、彼らとすれ違いながら、アンドロイドである彼らはただ目的地へと向かっている。
 薄手のコート、羊毛のショール、それらを染める暖かみのある色、銀杏の光るような葉の揺らめきを、正崎は視界に押し留めた。秋の色と言えなくもない濃紅の髪とともに。
「明日の調査、どう思う?」
 振り返らずに廉が尋ね、自分はどうにも不安なのだと漏らした。
「人間の死体に出会すような案件じゃないだろう、怖がることないさ」
「そうじゃなくて……」
「海は苦手じゃないだろう?」
「そうじゃなくて!」
 癇癪を起こしたのではなく笑い混じりの声に、正崎は首を傾げ、遅れて合点した。彼がこちらを観ていなくてよかった。
「嫌な映像だったから、仕方ないさ」
 呼び起こしかけて取り消した映像を説明するのは、正崎には難しいとも容易いとも言えない。
 北方の冷たく暗い、閉ざされた海。数十体のロボットがその海と連動し、その半数以上がつい先ごろ相次いで死んだ。その海、と言うが、海はひとつしかない。彼らが連動対象としたある場所から見た景色について、死者は示し合わせていたわけではなく、その地方に暮らす者だけが死んだのでもなかった。死者は毎日数件ずつ増えている。
 怪死だと言うので公的機関まで調査に乗り出しており、カンパーナ社も全面的に協力しないわけに行かない。彼らだけでなく、調査員の殆どが、明日から同じ調査に関わることになっていた。
「自分が担当から外されてるからって勢登の奴、なんて言ったと思う?」
「あてられて気が狂わないようにしろ、とかかな」
「いまのうちに制度利用申請しとけって。冗談じゃない」
 だからあいつのことは好きじゃない。廉が彼にしてはきっぱりと言った相手が元コドン社所属の同僚なので、正崎は賛同もその逆もしないで足元を通り過ぎた白い犬を見送った。
 部門統合は誰かの予想の通り子会社の設立という形で落ち着き、籍を移した正崎や廉、九山や千雅は、新設されたカンパーナ社で以前と同様に働いていた。
 その際、調査を二人組で行うことは当然のように正式化された。殆ど誰もが慣れた相手と仕事をしている。正崎は廉と、九山は千雅と。
 長期の仕事になるかもしれないなどと続けて話していた廉が突然小さく声を上げて足を止め、正崎に手を差し出した。その指先に触れると正崎の指四本を掴み彼はまた歩き始める。何かと思えば指先から伝えられてきたのは、あの異国の姉弟からの近況報告だった。
 ウェンディから送られてくるのは、髪を切ったとか、朝に何を食べたとか、伝えるべきこととは思えないようなほんの些細なメッセージばかりである。廉がその一切合切をクラウドに保存してあることは知っていた。こまめに返事をしているから、途切れずに続くやり取りだということも。
 伝え終わって手の力が緩み、指先が帯びていた光もぼやけた。
「リトルからはもっとちゃんとした近況報告があった。来月こっちに来るって」
「……少し早いんじゃないか」
「石以外にも用事があるみたいだ。友達の多いひとだから」
 並木道は一直線に、この先も百メートルは続く。彼らはそれを踏破する予定ではなかった。
 リトルから依頼された研究はプラティで行っており、廉はそれに少なからず関わっているために、以前に増して忙しないようだった。充の代わりができるわけではもちろんないし、実質的に研究開発を進めるのはプラティの研究員たちだが、そもそも廉という人格の成り立ちを追えば、ひとつの例として彼は有用なのだった。
 ごとり、と廉の靴先が重たく石畳を打つ。不揃いではあったが淡々としていた歩調の、乱れというよりも鈍化。気分や思考の移り変わりが葉の色のように分かりやすい機体だ。
 五十歩も歩かないうちに目的地だというところで覗いたのは、まるで黒黒とした海を目指すような横顔だった。明日もこんなふうに彼と歩くのだろうか、他の調査員がいるなら、取り繕うことをするのだろうか。
「なんでいいよって言っちゃったんだろうなあ……」
 そうぼやきながら彼が見上げた邸宅は、正崎には見慣れた場所であり、廉自身には馴染みが生まれかけている場所だった。
 充が暮らしていた家には、現在は彼の養父である古豪がひとりで暮らす。垣根と鉄の門扉、その向こうには小さな庭に植えられたイロハモミジが紅葉し、街路まで葉を散らしていた。
 正崎の暮らす家とは違って、近代的という印象はまったくない家だ。充の希望で建てられたのではなく彼の実父の遺産だったものだとか、一度は手放されただとか、やや複雑な所以を背負っている。デタッチド・ハウスと呼ぶのがいいような風貌だった。
 赤茶の壁をしみじみと眺めるばかり、廉は一向に門扉に手を伸ばそうとしない。
「……まだ引っ越していないなら、約束の取り消しだって効くんじゃないか」
「いや、そこまでしたいわけじゃないんだ」
「はっきりしないな」
「だってさ、想像してみろよ。ここにひとりで住むところ」
 言ってから失言すれすれだと察して、半ばで諦められたような笑みを浮かべる。古豪がこの家を廉に譲りたいと言い出したのは二週間前だったが、それは古豪の健康状態が思わしくないことに起因していた。そもそも彼らは見舞いのために銀杏のにおいに巻かれ歩いていたのだ。
 あの老人は記憶などに混乱が見られていて、廉を彼の息子かと思い違うことさえある。ふた月前に倒れてからのことで、正崎も名を呼び間違えられた。日に日にそれは深刻になり、身体よりも先に心が、この世界から足を浮かせているように思われた。
 その古豪の感傷や、理性では御しきれない愛着を、廉は無碍にできない。夏には関わりのない相手だった老人を、秋にはまるで恩人のように扱う。
「彼が死んだら、売ればいい。それが嫌ならプラティの資産にしてもらって、君はいまの部屋にと住み続けるか、もっと落ち着く部屋を借りる」
 統の家にずっと暮らしている正崎の言うことでは、ないかもしれなかった。
 酷薄な言葉を投げつけられたという顔でこちらを振り向く廉に肩を竦めてみせても、彼の受ける印象を深めることにしかならないのは、分かっていた。
「一緒に住む人もいないのに、空の部屋がいくつもある家で暮らすのって、空しい気がする」
「…………」
「あ、いや、正崎さんがどうっていうんじゃない、ごめん」
「空しいのは確かだが、わたしはいいんだ。しかし廉、君は、思い入れなんかないだろう」
「正崎さんは?」
 虚を突かれた正崎を廉は不思議そうにして、「あなたはどうなの」と追い打ちがかかる。
 訪問すると予告した時間まで十三分もあるからか、廉は少なくとも時間ぎりぎりまで、あるいは答えを聞けるまでは突っ立っているつもりらしかった。
 どう、と訊かれ、はっきりと答えられるものが、正崎には欠けている。破損した記憶の伝える曖昧模糊とした感触は彼のものではなく、正崎の得た感慨はいっそう頼りない。
 ただ記憶にある限り、ここで嫌な思いをしたことはなかった。統がそうであり、正崎がそうだった。おやゆび姫が生まれた場所だと教えたとして、廉はどう思うだろうと、気がかりはそれくらいだ。
「ーー良い家だとは、思うが」
 頷いた廉が、やっと門扉に手を伸ばしたように見えたが、彼はただ指差しただけだった。意図が分からずにいる正崎に、開いてみろと言う。登録された者のほかには押し開くことのできない門扉をである。
 しかし、これで察することができないほど、正崎は鈍い作りをしていなかった。ーーかつて統は充が自分の家に自由に出入りできるようにしたが、充は自分もそうするのが当然だとは気が付かなかった。
 手をかければ、門扉は苦もなく開いた。許されたものには鍵があることさえ気付かせないシステムがこの家を守っている。
「ひとりで過ごすの、嫌だから。勝手に来て」
「ああ、分かった」
「正崎さん、嬉しい?」
 肯定もされていないのに声を立てずに笑った顔が、喜ばしげにも得意げにも見える。
 玄関に入ってスリッパに履き替え、古豪のいる二階へと向かう背中を追わず、玄関とそこから見える範囲の家の様子を確かめた。
 飾られた複製画や、蔓の文様が描かれた壁紙だけでなく、あらゆる調度品の位置は正崎が記憶している状態とさほど変化していない。あまりにも変わっていないと言ってもよかった。それがどうしてか、気まずいほど理解できる。
 頭上から急かされて、階段に足をかけた。踊り場の飾り窓から落ちる光が、磨かれた床にふたつ、見知った影を描いている。
 寒空よりも澄んだ青い瞳が正崎を認め、階段の上から手摺に凭れた廉が手招く。同じようにして呼び寄せた人がいた。階段を上りきるのをじっと待っていて、相手の肩を軽く叩いて、それでこちらがついて来るものと思ってさっさと歩いていってしまう。もういいだろう、と言うように。
「正崎さん?」
 困惑気味に呼びかけられて背けていた目を向けると、嫌なら待っているかと尋ねられた。
「嫌、って?」
「気が進まないなら」
「平気だよ」
 ひとりなら絶対に嫌だけれども。そう付け加えるのを、本当はとても迷った。
 廉は、階段を上りきった正崎の肩を叩かなかったし、背を向けて足早に進んでいかなかった。扉の前に立った彼は念押しのように友人を振り返って、促しがなくては扉を叩かない。気遣わしげな、優しい顔は、すぐに芯の通った朗らかさを纏った。
 本当はそれが、そのすべて、これまでのすべてが嬉しかった。ただ嬉しいかと尋ねられ、頷くのでは、思い知ることも思い知らせることもできはしないというほどーー胸で熱を持つのが誰の心か、もう分からなくても構わないほどに。

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