第三話
割合に仲のいい同僚が連れ歩いているのがコドンのエンブレムを背負った人間であることに、なぜか驚いた。自分もいままさに同じような状況であるのにである。
名前を呼ぶと、廉の先を歩いていた同僚はすぐにこちらに方向転換する。銀のプレートのつるりとした顔に表示される波形はつい先程までやや高揚していて、廉の顔を見るなり落ち着いたようだった。小さな手を挙げてみせた大矢千雅に案内されていた人物は、廉でなくて隣の正崎の方を最初に目に留めた。
「なんだか久しぶりに会う気がするな。調査帰り?」
「そうだよ、これで彼女と一緒なのは二件目。今日は私の仕事だったの」
君のほうが少し先輩だ、と続けられて廉はやや肩を落としそうになる。調査部門のフロアにコドン社所属の人間なりロボットなりが姿を見せることに皆がようやく慣れて、共同調査を命じられた数人の調査員もうだうだと文句を言わなくなっていた。
千雅が慣れた相手にだけ読める波形の暗号で言うには、彼女はパートナーを気に入っていて、今日も楽しかったと。
「九山さん、だっけ」
「九山紗利さん。君のパートナーは正崎さんだよね?」
名前を調べると合同調査にあたっている者の名簿が最初にヒットした。人間女性、三十一歳、調査員歴は四年。経歴は平々凡々、特に問題もないが、特筆すべき業績があるわけでもない。黒目がちで、セミロングの髪、やや小柄、目を引く容姿ではない。
しかし挨拶を交わしてみると、九山にはいい印象を持てると断言する千雅の気持ちが少し分かった。きっと人間のなかでも接しやすくて、気が楽なタイプなのだ。初対面でそう思えるのだからともに行動すれば好感も深められるだろう。
千雅は同僚とパートナーとが握手を交わすのをなぜかそわそわと見守っていた。彼女を彼女と呼称するのは声のイメージからの慣例であって大矢千雅に性別は設定されておらず、ーーもしかして。
廉の眼差しから何に勘付いたのか「そういえば」と千雅が大きな声を出した。
「廉と正崎さんも調査だったんだよね? 面白かった?」
「お前、その聞き方やめとけって言ってるのに」
「つまんなかった?」
「だから……」
「面白かったといえば面白かったよ、変わり種の案件だった」
正崎をややきつく睨めつけても彼はそれをさらりと流してしまう。この日の調査は機体回収を含めて三時間を予定していたのに一時間で帰って来た理由、千雅相手に全て話すと長くなりそうだった。
「ハムスターと連動してたんだよ。可愛くて仕方なくなっちゃったって……」
「面白いじゃん」
「仕事内容を面白い面白くないで判断するなって、部長に叱られただろ? 九山さん、こいつこんなだから、あんまり振り回されないようにして下さいね」
辛うじてそうと分かる笑みを浮かべて九山は小さく首を振る。否定するのでなくて、悪意のないやんわりとした肯定。もう既に彼女を存分に振り回したらしい千雅は同じ調子で正崎相手にまくし立てている。
「最近物騒な話が多くて面白いけど、コドンではどう言われてるの? ホラ、今になって尊厳死制度を廃止したがってる団体がいるって」
「まだ署名も集まっていないようだし静観としか」
「制度自体は政府からの委託だしさあ、うちに言われても困るんだよね!」
九山はふたりのやり取りがどうにも気になるようだった。経歴を鑑みれば彼女は正崎の後輩ということになるのだろうか。そういえば廉は正崎について、彼の口から聞く以上の情報をネットワークに求めたことがない。先ほど閲覧した名簿を開けば簡潔な経歴は調査員としてのものしか含んでいなかった。
「あの人と仲悪い?」
先に報告を済ませたいからと部長のオフィスに入っていったふたりに目を遣りながら尋ねる。調査員全員のなかでも九山は珍しい存在なのではないかと思う。プラティ社の調査部門にはロボットも人間も入り混じっているが、尊厳死を専門とする調査員はロボットに限られていた。合理性への配慮である。
「さあ……」
「嫌われてる?」
「そうかもしれないな。訊いたことがない」
「訊いたらそれこそ嫌われそうだ」
棘のある態度ではなかったし、不穏さもなかった。ただ九山は正崎を見る目に多少の驚きが浮かべているように見え、正崎は九山に一度も声をかけなかった。
硝子戸越しにオフィスを覗いてみると、端末を取り出して何やら画像を触っている正崎との順番待ちは、いくらか時間がかかりそうな様子である。千雅の話はあっちへ脱線こっちへ脱線、果てに事故を起こしてやり直し、という有様になることがある。
「そういえば、どうしていつもプラティ社で報告をするんだろう」
「コドン社は居心地が悪いだろう?」
「知らないからどうとも言えないし、一回くらい行ってみたいんだけどな」
窓際、カフェマシンや茶菓子などが積まれたテーブルのそばに突っ立っている廉と正崎を強いて気にする者はもうほとんどいない。コドン社ではそうもいかないだろうが、このままならずっと変わりないはずである。しかし廉も彼の同僚も、コドン社の調査に同行した後にコドン社に連れて行かれたことはなかった。
食べられもしないチョコレートを手にした廉の鼻先に、正崎が端末を翳した。ハムスターが延々と回し車を走る動画。
「……仕事で得た情報の取り扱いは……」
「心配するな、別にこの端末に移したわけじゃない。これはわたし以外と繋がっていないよ」
「入力だけ?」
「そう、これ自体に出力機能はないんだ」
「いやそれにしたって、あの機体に残ってたハムスターの動画ぜんぶ保存したのか……」
好きなのか。食い入るようにハムスターを見つめる相手にそれを揶揄する言葉をかけるほど廉は勇敢ではない。調査対象はこのジャンガリアンハムスターを好きになり過ぎて、恐ろしいことに殉死したわけで、二十年近い稼働期間の締めくくりがそれであったのだ。
尊厳死制度を利用していない者からすると開いた口が塞がらないような死は数多い。廉だって五年弱を調査員として過ごしているのだからもう驚かないつもりだったけれども、今日の調査対象は連動対象の小ささに対してあまりに愛が深かった。
滑車のカラカラという軽い音がいまは可愛くない。動画が切り換わり、餌を頬袋に詰めるハムスターが映る。真っ黒な瞳が飛び出しやしないかと思わざるをえない。そういえばこのハムスターも死者だった。
「なあに、可愛いもの見ちゃって」
「ーー朝顔」
硝子にフィルムを挟んだようにして再生されていた動画を裏側から覗き込んで、朝顔はくすりと笑った。声をかけられるまで気が付かなかったから、廉も一緒になって小動物に夢中になっていると思われたのだろう。
ふつりと映像が消え、端末はただの硝子板になった。内ポケットにそれを仕舞った正崎に朝顔を紹介しようとした廉の口元に、当の彼女の指が押し当てられる。
「十三年ぶりね、梗ちゃん。瞳を変えたのね?」
「……おやゆび姫におかれては恙無いご様子で」
「どこからどう見たってもうおやゆびじゃないでしょ!」
ころころと笑い声を立てた朝顔が背伸びして、正崎の頬にくちづけた。対して屈みもキスを返しもしないで顔を背けようとした正崎と目が合う。なぜ彼の方が驚いた顔をするのだ。
「知り合い……?」
「ふるーい、お友達よ。ね?」
「知り合いだよ。君は……彼女と親しいのか、廉」
「俺は、ここの社員としては普通に」
「普通に?」
睨まれた気がしてたじろぐと、正崎が朝顔を引き剥がして距離を取った。廉からすれば近づかれてますますたじろぐ羽目になる。
「ふ、普通に、カウンセラーにはお世話になってる」
廉が彼女と特別親しいという事実はなかった。そうであるならプラティ所属のロボットはみな朝顔と特別親しいことになるだろう。そのうえで普通に好きだよと答えなくてよかったと、すぐに覆りそうな薄い納得を見せた正崎に思う。
朝顔が廉の手からチョコレートを取り上げ、包み紙を剥がして口に放り込む。彼女が飲食できるタイプだと廉はそれで初めて知った。
当たり前のように廉の腕に腕を絡ませるのも、そのままで気ままに話すのも朝顔のいつもの態度である。けれどチョコレートの甘い匂いがするのには馴染みがなかった。尋ねてみたいことがいくつか突然生まれたというのにこれではとても、興味があるだけという理由で口を開ける様子ではない。
「廉」
「え、ああ、何」
「彼女らの報告は済んだようだから、行こう」
言い終える前にもう歩き出した正崎を追おうとして、背後から腕をぐっと引かれた。冴えた緑のオプティック。
「またお話しましょうね、廉ちゃん」
カウンセリングの予約を取れという言外の要求だった。特に不調も、そうと思われる行動も取った覚えはないのに、廉は頷く。彼女が言うなら話すことが必要なのだという当然の理解がある。
腕を解かれて正崎に追いついたときには彼はもう部長のオフィスの扉に手をかけていた。古いお友達、あるいは知り合い、もしかすると親しい相手に言葉もなく。らしくないとはどうしてか、思わなかった。
合同調査はコドンとプラティ、それぞれの仕事を交互に行う。誰がはっきりそう決めたわけでもなく組まされた調査員の仕事を順序どおりこなすと何故か自然とそうなっていた。全ての調査を合同で行っているのではでなく、廉も正崎と顔を合わせるのは二週に一度といったところである。
その二週に一度が訪れ、今度は正崎の調査に廉が同行する番だった。前回は廉が担当したハムスターの件で、正崎の報告書は規定最低文字数ぎりぎりという有様だったが。
「調査というより後処理の仕事だな。コドン社が回収した利用者の返還を再三求められて、とうとうわたしが出向くことになってしまった」
昼時で多くの通行人の行き交うオフィス街を徒歩で進みながら、正崎は事前資料にあるようで少し足りていない情報を廉に与える。いつかのように直前になって資料を読み込んだわけでないから余裕を持ってその話も聞けた。
「正崎さんが調査したんじゃないって書いてたけど」
「九山が担当だったはずだ。しかし彼女だと舐められるからわたしが派遣されたんだろう。半年前に回収した機体で……返すも何もないんだよ」
「バラしてるよな。その説明はしたんだろ、なんでわざわざ直接」
「さあ……。こちらが足を運ぶことで下がる溜飲があるのかもしれない」
高層ビルの合間に見える空は曇り、空気は重く、予報では雨にはならないらしいがかえってすっきりしない。この天候に似た様相の仕事だ。資料によれば利用機体の返還を求めているのもロボットだった。だから、人間である九山ではないほうがいいのか。それとも彼女が女性だから? そのあたりの感覚は廉には掴めない。
自動歩道に乗らずに足を動かしている者はロボットが多く、上背のある者、膝下くらいの背丈の者、はたまた廉と同じくらいの目線の者、誰も誰かにぶつかることなくするすると歩き続けている。廉も正崎も周囲と挨拶を交わすように存在を知らせあって回避し続けていた。
あと十分といったところだろうか。コドン社の社屋からそう遠くない場所に目的地はあった。振り返ってもコドン社が見えるわけではないが、今日はそこで正崎と合流したのだ。相変わらず中に入れてもらえないのはどうにも気に入らないけれど彼の意思でもないので、愚痴る相手がいない。
ああそうだ、と少し歩みを乱した廉に口を開かないまま正崎が相槌を打つ。
「その調査についての資料はある? さっき俺が貰ったぶんだと、クレームの経過しか分からないんだ」
「社外秘だろうが……まあいいだろう、手」
を、くらいつけてもいいだろう。それにまあよくはない。
調査部門での情報共有はそれぞれが許した領域に限られていてまだ統合だって準備段階なのに。会うたびにゆびさき通信をするのは実はよくないことなのだ。廉は他の調査員と仕事中にこんな風に話さない。
「運動家かあ……」
それもジェイムズ・リトルの系統である。半年前に死んだのは主にロボットの恋愛の権利について運動を展開していた機体で、公団製であるのになかなか過激だったらしい。また恋だの愛だのといった話題なのかとも辟易するが、クレーマーの方はその運動には携わった形跡がない。
「恋愛運動はまだ進んでるほうだよな」
「人間にも支持者がいるし、普遍的だから。興味があるのかい」
「俺は別に。……千雅なんかは署名したこともあるって言っていたかな。婚姻制度をどうこうするところまで進んでるんだったろ、尊厳死なんか選ばなきゃもっといい目を見たかもしれないのに」
「廉、その物言いはなんだか矛盾している」
「そうか?」
正崎の歩調にともすれば遅れそうになることは少なくなった。揃って足を止め、見なくたって分かるのに信号機を見上げた。あと十五秒。渋滞気味の車の列が数珠繋ぎのように通り過ぎていく。この横断歩道を渡り、大通りを逸れて角をふたつ左に曲がれば目的地である。
クレーマーだか顧客だかに話し合いの席として指定されたのはレストランだった。こちらは客として成り立たないから肩身の狭い思いをするというのに。そう言ってみると正崎は違いないと言って肩を竦める。
高層ビルが立ち並ぶ街区から一歩出た途端に、そこにあるのは飲食店やブランドショップ、緑豊かな公園などとなる。人波から溢れ出すようにして木陰に入ると流れこむ情報量がぐっと少なくなった。異国風に整備された町並みのなかで、そのレストランは三階建のビルの地下にあるということだったがーー正崎が半歩ほど右に詰めたのでそれに合わせて塀に寄った。背後からボックスタイプの自動車が通り抜ける。
「ちょうどあの車が停まったところだよな、待ち合わせ場所……」
「あの盗難車か」
「……本当だ、それも届け出が今日じゃないか」
自然と止まった足は歩き続ける正崎につられてまたすぐに動き始めた。警察に通報しておこう、と位置情報に画像データを添えて送信する。このご時世、ロボットの溢れる町中で盗難車を乗り回すなんて、危機感がないのか自信家なのか。ビルの真ん前に乗り付けた車は捕まるよりも違反切符を切られるほうが早いかもしれない。
凶悪犯がうろついている情報はなかったので特に気負いもなく素知らぬふりで車のそばを通り過ぎ、かけた。がらりとドアがスライドする。まるで待ち構えていたようにーー廉はやはり自然とそちらを向いた。
ぎらりと光った物に呆気にとられる。悪意は真っ直ぐに廉ではなく、正崎へ向けられた。ゴーグルをした中背の人間が身を乗り出して構えた腕をひとつ揺する。その壮年の男は帰還兵のような格好をしていた。
「コドンの正崎だな?」
「さあ……。おたくはどちらさまかな」
「分かる筈だ」
しゃがれた、加工された声。暗い車内にはこの人間の他にひとり、それは運転手のロボットらしい。もしかしなくともこれは自分に用があるわけじゃないと察しがついたが、動きづらいことこの上なかった。
「ついて来てもらおうか」
突きつけられた銃は人間の腕と同化している。これは、生体改造だーーそれも凶悪な!
違法でないはずがない。これが風体通りの帰還兵で、その銃器が能力を喪失しているなら別だったが。こういうアブノーマルな、危うげな存在は自分と縁がないはずだとそればかりで、情報処理特化のアンドロイドはかえって生々しい危機感を抱けなかった。
廉はそっと正崎を窺ったが、彼は白けたような顔で相手を見据えていた。知り合いなのかと声なく問うても答えはなく、無言が続く。焦れったくなった誰かの身動ぐ気配、車体が僅かに傾ぎ、身体に衝撃。
「はっ? うわ、ちょっと!」
男の背後から伸びてきた手に腕を掴まれ、咄嗟に踏ん張ろうとした足が容易く地面を引き摺られる。ほとんど投げ込まれた車内で強かに額を打った。痛いと呻くと赤いライトふたつが目の位置についた、つるりとしたヘッドパーツのロボットは手に籠める力を緩めたが、離してくれるわけではないらしい。
顔を上げた廉の目に、物凄く、途轍もなく嫌そうな顔をした正崎が映る。その表情を動かさないまま、引き摺り込まれるでもなく自分から車に乗り込んできた正崎を廉もなるたけ顔色を変えないで見ていたが、憤りに近い困惑は通じているだろうと思う。
ドアが閉められ、二人組が運転席と助手席に落ち着くと車が走り出した。待ち合わせ場所を離れて、街区を移ったあたりで位置情報を掴めなくなったことに気が付く。位置情報だけでなく、送受信を含んだ外部とのやり取りがみんな不全状態だ。妨害装置が働いているらしいが……この上ない心細さを覚えた。スモークガラスからうっすらと伺える外の様子以外に何を判断する材料もない。
腕を組んで俯いている正崎の袖を引くと彼はすこし眉を下げた。頭を傾けてくるので小声を意識するけれど、ロボットがいるのにこんなの大した意味はないだろう。
「正崎さん、これ何なんだ」
「誘拐事件」
「あなたの?」
「そうだな……君じゃないだろうな。すまない」
「あなたが悪いわけじゃないけどさ」
空き巣だって何だってやる方が悪いに決まっているが、こんなのは仕事の範疇ではとてもないし、廉のようなアンドロイドの経験すべき領域でだってない。
「じゃあ目的は」
「ああ、それだ。あんた、目的は何なんだ」
大方のところは推測できるが、と正崎はつっけんどんに言った。脅されてこの車に乗っているとは思えない態度である。
助手席からも運転席からも返答はなく、黙っていろとも言われなかった。通信そのものが駄目になっていてこの距離でも無声の会話は叶わず、ゆびさき通信はと言えば指先が光って目立ち怪しまれかねないし、まるで人間のように話さなくてはいけない。人間というものはどうして、こんなあり方で安心していられるのだろう。
「正崎さんって身代金のネタになるくらい偉かったっけ?」
「いや、まったく」
「検討はついてないのか?」
「身代金のネタにはならないが、一種の交渉材料にはなると踏んでるんだろう」
「……同じだろ、それ。運動関係ならロボットの方がいいかもしれないけど」
「彼は運動関係者じゃないよ」
「え? じゃあ何か、これって今日の調査とは関係ないのか! クレーマー放ったらかしじゃないか、評価に響くぞ!」
「廉、君、随分と余裕じゃないか」
それはあなたがそうだからだと言うのは癪だった。企業への脅迫を行うとき、所属員からロボットを選んで誘拐するならばロボットの権利運動に絡んでのこと、つまりロボットだからどう扱われてもいいと杜撰な対処をするわけにいかない事情を作るため、と廉は考えたのだが。
企業への脅迫でさえないとしたらどうだろう。取り留めのない思考を補強する情報がひとつも手に入らないので手遊びのようになってしまう。
車は大通りに入ったかと思うとすぐに逸れ、細い道を何度も折れながら進んだ。コドン社とは逆方向だが、大まかにはプラティ社の方向とも言える。何度か社に連絡をつけようとして、やはり強い妨害に遮られた。たったそれだけのことで八方塞がりである。
運転席のロボットがハンドルを手で回しているのを観察するというには思考なく眺める。車内のものが無差別に通信妨害を受けるにしても、有線で接続して自動制御するほうが楽だろうに。
助手席の男が半ば怒鳴るように「おい」と声を上げた。
「私のことを思い出せたか?」
「知り合いに生体改造者の心当たりはないんでね、残念ながら」
「薄情だな、こっちは忘れようもないっていうのに」
「人違いじゃないか」
肩を竦め、口元を歪めるようにして笑う。嫌味な、あるいは攻撃的な表情だった。抑えろという意味合いでまた袖を引くが、正崎は口を閉じない。
「要求を聞かせてくれよ。そうしたら何か思い出すかもしれない。わたしに用事があるんじゃないんだろ、あんた、わたしのことを知っているみたいだから」
ゴーグルの奥でぎゅるりと、絞る音がした。あれはただの装身具ではなくこの男は視覚まで改造してしまっているらしい。
じゃあ今のはこっちを睨んだ音じゃあないのか……廉が頬を引き攣らせたところで会話の主たちはどこ吹く風である。廉は窓の外を見た。この車に乗せられた場所から数ブロック離れた居住エリア、低所得層が済むような集合住宅が集まっている。車はそのひとつの地下駐車場に入り、奥まったスペースに場を占めた。
「私の記憶を返してくれ」
言葉尻が震えた。男が銃器にはなっていない、しかし改造を施された右手を掲げる。骨の代わりに特殊素材の骨格、ほとんど義手に近いそれは、死人のような土気色の肌をしていた。
「記憶……」
「この改造を施すときに言っただろう、記憶を預かると! 再三請求してもそんなものはないの一点張りだ、でたらめばかりだ」
「そう言ったかもしれないがわたしじゃない」
「宮瀬藤吾に要求を通せ」
コドン社CEOの名を出されて、正崎は心底驚いたという顔をした。馬鹿を言うなと返した声音はいっそ呆気にとられたような色合いで、場違いに力が抜けている。
「彼がわたしの言うことを聞くはずないだろう。嫌われてるんだ」
「御託はいい」
男の左手が姿を見せ、その銃口とばっちり目が合った気がして廉はやや身を引いた。気がしただけではなくそれは確実に廉に照準を合わせ、人間の手では考えられない精密な静止を示していた。車に乗り込む前に反射的に照合した結果によれば軍事用の銃器で、カスタムなしでも拳銃程度の威力はある。
しかし、銃弾以外のものがそこに潜んでいるならばより恐れなくてはならなかった。ロボットを機能停止に追い込む類の機能を持つ銃器とて、多く流通しているのだから。
「……納谷栄正の抹消された記憶を復元するよう要請すればいいんだな」
「正崎さん?」
「いまさっき思い出したんだが、納谷栄正だろう? 十五年前にコドンの旧軍事部門の顧客になった傭兵。……それで、どうやって話をつけろと言うんだ。妨害装置を解除してくれるのか」
まさかそんな筈ないだろう。廉の内心を読み上げるごとく男、納谷は吐き捨てた。
ーードアが閉まるのを廉はただただ、途方に暮れて見送った。ひとりきりになった後部座席で大人しくしているアンドロイドに、銃口は飽きもせず恫喝を続けている。
こんなときに眠気を感じて、廉はぐっと眉根を寄せる。機能の是正か情報の整理か、何を求めての休息への誘いかはっきりしないこの感覚にこのところたびたび襲われている。
一時間でこの車に戻るようにと指示された正崎が運転手とともに車を降りて二十分が経過していた。車の稼働音の他には時折利用者が駐車場を出入りする物音くらいしか聞こえず、気まずいというのでは足りない空気が車内に満ちている。記憶を返せと言った男のじっとりとした沈黙が空恐ろしいものに思え始めていた。
正崎が警察に駆け込んでくれていればいいのにと思う反面、それはないだろうと推測してしまう。成り行きで人質扱いの廉は待ちぼうけるだけでいいが、彼は見張り役と一緒に地下駐車場から然程離れない場所で本社に連絡させられている。端末を使わず通報を図るのも、あのロボットが察知しないとも限らなかった。
コドン社が生体改造を含む軍事部門を有していたのはごく短い期間のことで、いまあの会社はそうした軍事的な分野から手を引いていた。具体的に言えば、部門が存在したのはコドン社の創設からの五年間だけである。
ちょうどその頃にいくつかの紛争が勃発していたのだ。廉からすれば歴史の物語だった。生体改造そのものは違法でないし、傭兵とて……いやどうだっただろう。常ならば必要な情報を収集しながら思考するものを、ただ自分が持っている情報だけで何かを考えるというのはやはり不確かでいけない。
「納谷さん、腕は疲れないんですか」
そんなものを向けられていなくとも逃げようなんて考えません、とシートに深く座り込んで示そうとしても通じそうにない。納谷は目をこちらに向けているのかいないのか、答えないまま、動かないままだ。
「記憶と言っていましたが」ゆっくりと瞬きし、膝に両手を投げ出す。「施術前の記憶ですか。珍しいですね、記憶操作を受けたがるのは大抵、戦地から戻った人々だと聞くのに」
自らそれを稼業と選んで、義務でもないのにわざわざ戦争に行く人間やロボットは、少なくはない。精神に外傷を負って戻ってくるだけの価値があればこそだが、廉は軍事に関心を持って来なかったからいま彼の頭には一般的な知識以上のものはなかった。プラティ社は軍事に関わったことがないし、これから自己決定が可能になっても廉はその方面に足を向けない。
二十五分。まだ半分も過ぎていない。
「戻ってこられたのが最近だった?」
答えがないように、口を閉じろとも言われず、廉は少し訝しむ気持ちになる。
「記憶操作にも種類があって、消し去る場合と封じ込める場合とがあるそうですが、消してしまったわけじゃ、ないんでしょうね。預かるということはコドンがキーワードを持っているのでしょう、それは正規に請求すれば唱えてもらえる呪文のはず。請求にしかるべき応答がないと言うが、あなた本当に……納谷さん?」
少し身を乗り出し、ゴーグルを覗き込んだ。黒の硝子の奥でちかちかと点滅していた赤が、先程から消えたままだ。呼気はあったがささやかなもので、試しに廉が身体を横にずらしても銃口はそれを追いかけない。
「……?」
まるで眠っているみたいだ。眠っていても腕を上げ続けることが生体改造によって可能になるのだろうか。居眠りするなんてあり得ない状況で、少なくともこの人間の意識がどこか他に行ってしまっているのは確実なのだった。
車を降りてしまう踏ん切りはつかないが、脱力してまたシートに凭れ掛かった。トランクにあるらしい妨害装置をどうにかするくらいはできそうじゃないか、いや、危険な賭けに乗り出すことはしないけれども。
眠いと廉は口のなかで呟いた。目の前の銃口に意思が宿っていないのに気が付くと止めどない程に眠い。額を抑えて処理を拒絶し続けているのに、要求の多さの方が勝っていた。
四十分が経過。顧客の記憶を開く呪文を明かしてもらうくらい、この状況を鑑みれば簡単なように思われるが正崎は戻ってこない。まさか逃げたのかと冗談めかして考えた。冗談めかして……いつの間に彼を信頼したのだか分からないのに。
「くそッ」
毒づく声を最初自分のものかと思った。ウィンドウの開閉スイッチをじっと見つめていた廉が顔を上げるより先、破裂音、シートに衝撃。
撃ち抜かれた合成革の焦げた臭いを蟀谷の真横に感知する。要するにそこはついさっきまで廉の頭のあったところで、動かないでいたら焦げるのは廉の鼻筋のどこかだった。点滅する赤が加速してゆく。
「納谷さ、」
「こんなものの筈があるか!」
「…………」
「こんなーー嘘だ、こんなのは……」
納谷が呻き、両手で頭を掻き回した。情緒を安定させることが容易であるはずの改造体が均衡を欠く様が廉の目にはありありと映される。こうまでも動揺する要因の推測が、もっと難しい方がよかった。
だが車内にいる納谷にどうやって呪文が伝えられたというのだ。廉の存在など眼中にない様子の納谷は同じ言葉ばかり繰り返し、不意に静かになった。顔を上げた男の横顔には老いの影があるのだと、何故かいまになって廉は気が付く。
こんな筈はない、そんな筈はない。つい最近にもどこかで聞いた。納谷が助手席から運転席に移るのにはっとしてドアを開こうとした廉は踏み込まれたアクセルにバランスを崩した。また額を強かに打ち付ける。
「いっ、……」
法定速度など忘れ去った車両は地上へ出て、車道に乗り込む。どこへ向かうのだと問うたところで廉の声など聞こえていそうになかった、それならば降ろしてくれてもいいだろう!
どうせ無視されているなら、とシートからトランクを覗き込み、灰色の箱を見つけた。テープで雑に固定されたそれを引き剥がし、指先から直接内部に入り込む。流通するものよりはいくらか複雑な設定が可能な物のようだが、単に機能を停止させるのに苦はなかった。
通信妨害が消え去ると、新鮮な空気が入ってきたような開放感がある。足元に装置を放り出した廉にすぐさま、というよりもやっと行き先が見つかった、という様子の声がかかった。
『無事か?』
「なーー何をしてくれたんだよあなたは!」
怒鳴ってから口を覆い、同じことを回線に叩き込んだ。
『廉、無事か』
『穴が空くところだったし、車は暴走してるけど、無傷だ』
『ああ……コドン社に来るだろうから、そのままじっとしていてくれ』
『じっと?』
激しく鳴り響くクラクションと、この車ではない車両がぶつかり合う音、けたたましく踏み込まれるブレーキ、交通局の警告ーーじっと? 殆どずり落ちた格好でシートにしがみつく廉の姿を見ていればそんな警告しなかっただろう。
正崎はコドン社にいるらしい。探知できる位置情報にも扉を開けば際限なく流れこんでくる情報にもひどく安心させられた。もう家に帰っていいと言われたかのような安堵だ。この車の走行ルートから目的地を予測することだってできる。正崎の言った通り、納谷は一目散にコドン社に向かっている。
そういえばあなたは無事なのかと廉ははっきり声を作らずに問いかけた。手書きのメモを渡すのに似た感触、思考の端を千切って投げたような茫漠が広がる。
『一応は無事だ、ありがとう』
『……何をした?』
『記憶を返したのさ』
それは分かっている。廉が訊きたいのはどうやって、であり、どうして、である。正崎はそれを察しているのか小さく溜息をつくような気配を漂わせた。
この速度ならあと一分ほどでコドン社に到着するだろう。嘘だ、嫌だ、こんなのは違う、納谷の呻きに涙が混じり始めていた。否応なく誘われる憐憫と軽薄な軽蔑が廉の気を重たくした。ぐずぐずと涙も出ないのに泣きながら、今度は本当の記憶があるはずだと言おうとしているはずのこの人間、この兵士だか兵器だか曖昧な存在、憐れむほかにどうしてやれるのか。
『その男に君の情を浪費しないでくれ』
音声として捉えなかったその言葉は、制止を振り切り正面エントランスに突っ込んだ車が柱のひとつと激突する、暴力的な轟音と振動にも掻き消されなかった。空回りするタイヤが動きを止める頃、張り詰めそうな静寂が落ちる。
悲鳴がひとつも聞こえない。警報さえ鳴っていない。ざっと見たところ人間らしき反応は遠くに集まっていた。
「宮瀬……!」
納谷が喘ぐように呼んだ相手がどこにいるか蹲ったままの廉には見えない。衝撃で歪んだドアを恐るべき脚力で蹴破った男が車から転がり出る。一歩踏み出すたび、がしゃがしゃと歪んだ機器の立てるのに似た響きが伴った。
「宮瀬、あんただろう、あんたが私の記憶をこんな、おかしくしたんだ」
「おかしくなどない」
身を起こしかけた廉はぱちりと目を瞬く。この声は、正崎のものだ。
柱は助手席の側にめり込んでいて、後部座席の下にいた廉は危うく押し潰されるところだった。それは免れたが前後から挟み込まれ這い出るのに難儀して、助けを待とうかとも思うのに、ドアに向かって脚を突っ張っる努力を止められなかった。「宮瀬」とまた呼ぶ。宮瀬。ぐ、と唸り声が出る。
「こんなのは俺の記憶じゃない!」
よくよく検めると右腕を傷めている。痛みは感じないのはかえって重傷の証拠だし、力を込めようとするとばちんと嫌な音がした。
「あんたの記憶だよ、納谷栄正。この名前が馴染むようになっただろう」
無理に身体を引くうち、どこかに引っ掛かったらしい上着が引き裂かれて悲鳴を上げた。それにも構わず、上に出るのは諦めて後方へと動く。
孤独な努力の末にやっと抜け出すことができ、廉はすぐそばのドアを動かそうとしたがこれも歪んでいてどうにもならない。宮瀬。また呼んでいる。うるせえなと毒づいた自分の荒っぽさにひとつも興味を惹かれないで、運転席へと身を滑り込ませた。
「都合がよすぎると思わないか。消してくれと言われて消してやったし、戻してくれと言われて戻してやって、これだ。あんたの性根というものがよく見える」
「戻してくれていないじゃないか! 私の本当の記憶はどこだ、返してくれ、預かってるんだろう!」
正崎の足元に膝をついた納谷がアンドロイドの上着に取り縋っていた。異様だと正直に感じ、廉は眉を顰める。
灰色の瞳がぼんやりと、明るいエントランスでは注意を向けなければ分からない程度の光を宿していた。彼は確かに納谷の頭のあたりを見ているのだが、その視線は通りすぎて、床に向かっている。
「人殺しが図々しい」
冷ややかとか侮蔑的とか、そんな、生ぬるい声ではなかった。正崎は上着から男の手を払い除け、低く舌を打つ。ぞっとさせられるのが廉だったくらいに彼からは情が感じられなかった。コドン社の社員も誰も、視界に入る範囲にはいないのが不自然で、まるで、床も天井も柱も白大理石で覆われたこのエントランスが彼の部屋のようだ。
いっとき、納谷が言葉を失ったせいでまた静かになる。ひゅうひゅうと繰り返される呼吸の粗雑さ、それはこの場を支配する音としてあることを認められていなかった。
「わたしがあんたの記憶を預かってやったのが誰のためだと思ってる。あんたじゃない。あんたに殺された人間があんたに浪費されないためだ」
「み、宮瀬、お願いだから」
ふっと正崎が廉に目を向けた。伏せられていた冷眼がとつぜん、親しみとそこから引き出された色合いに染まる。僅かに身を竦めた廉の様子に気が付いてかいないでか、目の前の人間のことなど忘れたような足取りで正崎は廉のもとに歩み寄ってきた。
「その腕、破損の程度は酷いのか」
「……いや……そんなに」
「不具合は? 内部損傷は」
「ない、今のところ、……正崎さん、あの人」
「放っておいていい」
あんな目でこちらを見ている人間を、放っておいていいと言うのだ。自身の手が凶器であることさえ忘れ、蘇った自分自身から逃げ出せないでいるあの目を、無視しろと。無理だ。
眼前に差し伸べられた手を廉は馬鹿みたいにぼうっと見つめた。一応は無事だと言っていた正崎の差し伸べられたのと反対の手、その指が数本あらぬ方向に曲がっている。
どこからか姿を見せ始めたコドン社の社員たちがエントランスの惨状に顔を見合わせたりどこかに連絡を取ったりしていた。へたり込んで動かない納谷に近づく者はなく、警察の車両が近づいているとこの場にいるロボットはみな知っていた。
白い手がかすかな戸惑いに揺れる。
「廉?」
「眠い……」
呟きに同じくして視界がブラックアウトしかける。一度、二度、結ばれるべき像は復活したが、耐え切ることは叶わなかった。ぐらりと身体が揺らぐのは感じられたがそれきり、それきりで廉の意識は途切れた。
「ーーやりようってものがあっただろう」
「エントランスをあんな風にしたのは悪かった」
「はぐらかすのが下手だな」
「心配してくれているのかい」
「お前をじゃない、彼をだ」
「ああ、そうだな……彼を思うと悪手だった」
誰の声だろう。視覚情報よりも先に音声が流れ込んでくるのは珍しく、寝惚けて鈍間になっている機能を叱咤する手もうまく上がらなかった。
目を開こうとするが億劫で、古ぼけたコンピュータのように機能の一つ一つが恐る恐る起き上がっている。廉がようやっと開いた目は薄いオレンジの光を落とす古めかしい照明を捉え、見知らぬ模様の薄緑の天井、それと異なる装飾の濃緑の壁紙と、それらに相応しくない壁際の機材を捉えた。
リクライニングチェアに寝かされている。プラティ社でメンテナンスを受けるときに使うものと似ていたがあれよりもふかふかしていた。
「……どこだ、ここ」
試しにと喉を使えば、思ったよりもしっかりとした声が出た。同時に起き上がることもでき、首を巡らせる。後方に上体を捻り背凭れの向こうを覗くとこの空間で唯一馴染みのある存在がいた。
コンソールのそばで誰かと話していた正崎が廉に気が付き、大股に歩み寄った。いつもの重たげな上着を脱いでいる彼の左手は正しい形をしていて、廉を見下ろした瞳は明かりを反射するばかりの灰色である。
「気分はどうだ」
「普通……」
「そうか、よかった。腕は、すまないがコドンでは直してやれない。プラティに連絡しているから戻ればすぐリペアを受けられるだろう」
「ここ、コドンの……メンテナンスルーム? 変わった内装だ」
まるでサロンのようで機能に釣り合っていない、そう軽口を叩いた廉に正崎はやや曖昧な相槌を打った。勝手に着替えさせられたらしく自分が趣味に合わないシャツを着ているのに気付き、胸元から足先まで、機体を確かめた。こんなところで寝かされるまでの経緯を思い返してしまうと、軽口は止めたほうがよかったとも思う。
片眉を上げるだけでその心持を示せば正崎も追及を免れるとは思っていないようだった。彼は手を出すだろうと予想したが、しかし、正崎はそうせずに背後に目をやる。
先程までの会話の相手か。四十代か、五十代のはじめか、それくらいの年齢に見える男性。身体的には標準的だ、ある程度機械的なものが入っていて、ある程度自然のまま。鋭い鳶色の目や短い黒髪の様子に何か既視感があった。
いやそうではない。既視感がないはずないのだ。各種媒体で何度も目にしてきた宮瀬藤吾は、無言で驚きを表した廉のことを、自分がされているように観察していた。彼は表情を変化させないまま口を開いた。
「すまないな、うちの調査員のせいでとんだ目に遭わせてしまった」
「いえ……えっと」
「会うのは初めてだったか?」
「そうだと思います」
自社のCEOに会うことだって殆どないのだから当然そうだ。宮瀬の値が張りそうなスーツをぼんやりと眺めていた廉は思い至って、気難しげな爪をした男を見上げた。
「納谷さん、どうなりました?」
「さんをつけるのかね」
そう言われると、大きな意味はないのだがと何となく萎縮してしまう。初めてメンテナンスを受けた日に、自分自身の機体の扱いについて説き聞かされた、あのときに似ていた。
「警察に引き渡した。君やプラティに遺恨が残るというようなことはない」
「あの人の記憶ってどういう……」
「それは機密にあたる」
「じゃあ、十五年前の経緯も?」
「察しが良いな、大矢君。プラティ社所属の君に教えられるのは、君はもうこの件に関り合いにならずに済むということだけだ」
不満かと問われたが、偽りなく首を横に振った。どうせ、という気持ちがある。どうせ正崎はいま廉が問うたことへの答えを持っているし、指先から分け与えてくれるのだろうから。
宮瀬はそれから、まじまじと、廉の顔を見下ろしていた。先ほどと同じように。何か読まれているのかと勘繰りたくなるのは彼のことをよく知らないから、意図を掴めないためだ。そう分かっていても居心地がいいものではない。ちらと窺った正崎は後ろ手に突っ立って、明後日を見ていた。
青褪めたような顔色が似ている。無言に耐えかねた廉が口を開きかけると宮瀬が硬い靴音ともに一歩引いた。
「プラティ社からの迎えがじきに到着する、できればそれまで、ここを動かないように」
「秘密主義なんですね?」
「秘密を共有するために、相応しい時がある。それまでは線引をしておくべきということだよ」
それは分かる。調査においてするように愛想よく返事をした廉に宮瀬は片目を僅かに、見逃してやったほうがいいくらい少しだけひくつかせた。それでは、と短く言って扉へ向かう人間の自然な足音が、この部屋では不思議とよく響く。
「先ほど伝えた通りに。指示は守れよ」
声をかけられてはたと顔を上げた正崎は頷きも返事もしない。扉がスライドするタイミングで彼は少し肩を落とした、入れっぱなしだった力を抜くようにして。
「すまなかった、藤吾」
言葉が空気に溶けると同時に物言いたげな空白が流れこむ。それは結局放置され、扉は閉まった。正崎がどこかから引いてきたキャスター付きの椅子に腰を下ろし、彼にはあまり似合わないやり方で片脚をもう片方の膝に乗せる。
廉は気負いもなしに彼に向けて手を伸ばした。破損していない側の手だったが、よく見れば擦り傷のようなものがついている。カーテンで遮られた窓の外は薄闇だろうか、どうやら廉は三時間もここで眠っていたようだ。「正崎さん」言いすがら、手をもう少し前に出す。
彼の両手は膝に乗せた脚を支えるように押さえていた。動く様子がなく、しかし眼差しとともに正崎の鼻先は傾く。両者の目元に苦笑が滲んだ。
「宮瀬さんの指示?」
「そういうわけじゃないんだが」
「腕、痛かったんだけど」
嘘だ。嘘だが、効果のある嘘だった。正崎が口の端をもぞりとさせて、上目遣いにーーあるいは半ば睨むみたいに、廉を一瞥した。
「口頭で」
廉が手を肘置きに戻すまで正崎はそれ以上何も言わなかった。
「いいよ、それで。質問した方が?」
「いや、順を追って話そう。まずは、そうだな、納谷と一緒だったロボット。あれは納谷が直接操作していた機体で、自律行動はほぼしていなかった。五感をほとんど共有していたらしい」
ポケットを探って取り出した端末、何かを映すのかと思ったのに正崎はただ手慰みに持ち替えている。
「納谷の意識がよそにいってたのは、その機体に集中したからか」
「そうだろうな。記憶に関する呪文は知っていたんだ。あの機体に対処できる場所まで出て唱えたらああなった。君が駐車場か路上で車から脱出できていればいいとも思ったが」
「無理言うなよ。パスワード、どうして知ってたんだ」
「当事者から聞いた。日付、時間、地名、それにある人物の名前、これを八秒で。……自殺するかと思って、記憶を戻してやったのに、思ったよりも愚かだった」端末に光が灯り、消える。それを何度も繰り返す。「証拠がなく逮捕されなかった殺人犯だよ。納谷は十五年前より以前から傭兵として仕事をしていた男だ。理由は知らないが自分の子供を三人殺し、行方不明ということにしていた。……怖くなってそれまでの記憶すべてを巻き込んですべて忘れた」
「なんでそんな男の依頼を受けた」
「コドンは受けていない。受けたのは宮瀬統個人で、彼は……」
口籠り、また瞬きの合間に視線が寄越される。先程とは違って弱いもので、顔色を窺われたのだと気が付かないでいられなかった。灰色の瞳に影が落ちている。
「宮瀬統は、戦地で疲弊した納谷が過去について夢想して、期待を膨らませた頃に記憶を返してやるのが一番いいはずだと」
「悪趣味」
「わたしもそう思う」
正崎は端末に目を落としていたが、逡巡を吹っ切ってか、それを廉の膝に放った。雑に扱うなよと苦言を呈した相手がそれを手に取るのを待ってから、ファイルをひとつ表示させる。
納谷栄正の顧客情報。嘘とも真ともつかぬ後味の悪い話を聞かされた廉はあまり関心をそそられなかったが、読めと言われたようなものなので目を通した。元々傭兵として各地を転々としていたが、より高額の報酬を見込める生体改造に関心を持ってコドン社へ。コドンと彼の間の事実はたったそれだけのことだ。
「実際は罪悪感から逃げたくて記憶を消してもらいにきて、ついでに改造?」
「罪悪感じゃない」
「でもさっき、怖くなってって……」
罪悪感に苛まれた記憶が蘇って、こんな筈はない、そう叫ぶ? それはもう解釈の世界で、意味がなかった。
しかし、と廉は端末をなぞった。コドン社が仕事として請け負ったこと以外を、宮瀬統が秘密裏に行ったということなら。生前の宮瀬統は納谷に「記憶を預かる」と告げ、施術後にはコドン社がパスワードを管理すると、嘘を吐いたのだ。
硝子は当然だが特殊素材で、多少指に力を入れても砕けることはない。いま伝えられた以上のことを知っていたとしても正崎はもうそれを開示しないだろう、一応の物語が始まって終わっていた。手に受けたはずの水がみんな落ちていってしまったような虚しさを紛らわせたくて、話題の転換を図る。
「正崎さんって宮瀬統に似てる」
「……さあ、そうかな」
「だから納谷が錯乱してあなたを宮瀬だと思ったのかな。さっきの宮瀬さんも、まああの人は、血縁があるから当然なのか。コドンのアンドロイドってそういう趣旨で作られてるわけじゃないのに、……どうかした?」
「いいや……」
カラカラと軽やかな音が手元からして、廉は目を丸くした。ハムスターが回し車を走る。カラカラカラカラ、小さな足で。
「今日、あなたが相手するはずだったクレーマー。怒ったんじゃないか」
正崎が失敗や独断でどれだけの叱責を受ける立場かなど知らないが、約束をすっぽかして放置すれば怒られても仕方がない。正崎はどうだろうと短く言って、本当に把握していない様子だった。
ハムスターがこの映像の視点になっている者の手に乗せられて、餅がとろりと落ちるみたいにこぼれ落ちては反対の手で掬われていた。何度も何度もそれを繰り返す。単調な動画が多いらしいが、楽しいものなのだと理解もできた。飼いたいとは思わない。
やや重たい音でブザーが鳴ると正崎がすぐに立ち上がり、扉の脇のパネルを操作する。椅子を下りて彼に続いた。
「九山さん」
扉の前に立っていた顔見知りの女性に、どうしたんですかと廉は正崎より先に尋ねた。九山はまたあの、やんわりとした笑い方をした。
「正崎さんにお任せしていた案件、おふたりが時間になっても到着なさらないということで、私が向かいました。こんな……その、大変なことになっているとは存じあげなくて」
「そうなんですか、申し訳ない。怒られませんでした?」
「ええ、思ったよりも穏便に済みました。それで、廉さん、千雅さんがお迎えにいらしてます」
彼女の目が廉の腕に向かったので、へらりと笑ってみせた。大矢と呼ばないというだけで千雅はこのひとを好きになったのだろう、当事者からすれば重要な事なのだ。
航空機発着場へと案内すると言う九山についていきかけた廉は背後を振り返り、首を傾げる。正崎がついてくるものと思ったのに、彼はメンテナンスルームを出さえしないでいた。
「あのさ、今日の処理とか、こっちに回ってこないんだろうけど、何かあれば言ってほしい」
「ああ、ありがとう。…………」
「何?」
部屋から出ず、パネルから手を離さないでいるから、いまの正崎の態度は半端だ。すぐ隣で九山が彼から目を逸らしていた。メンテナンスルームに面した通路にはほかに誰もおらず、急かされることもないけれど、時間が有限だと強調されてもいる。
「次会うときに、何か埋め合わせをするよ。今日はすまなかった」
やたら多くの扉を潜っていると思っていたが、どうやら九山はできるだけ他の社員に鉢合わせないルートを選んでいるらしい。細く清潔なばかりの通路は時折連結部に出て、枝分かれし、途中には殆ど扉がない。
先をゆく彼女の足音は微かなものだった。軽やかなスニーカーの明るい赤に、おとなしげな人物の一面が現れている。発着場直通のエレベータに乗り込むと、九山は細く、抑えた息を吐いた。
「九山さん、訊いてもいいですか」
「何でしょう?」
「正崎さんってコドンでどういう立場にあるんですか」
標準的な人間ならば五人が限度のエレベータの狭苦しい空間では、彼女の瞳の動きまで見えてしまった。返答に困り、よりよい言葉の見つからないまごついた態度ののち、九山は髪ごと首筋を撫でた。
「特殊な立場だと思います。私だけでなくて、他の社員もきちんとは知りません。上層部は把握していて、何かに基づいた待遇を与えているというような……」
「何か……宮瀬さんと関係ありますかね」
「あの人は正崎さんにあたりが厳しいので、どうだか分かりません。でも廉さんも、同じようなものでしょう?」
「俺が? そんなことありませんけど」
発着場に到着したエレベータから、千雅が待っている所までまた先導されながら歩く。
「今日のことをプラティに連絡したとき、恐ろしい剣幕で凄まれたと聞きましたよ」
つまりは廉の身を案じて。しかし、それと正崎の言葉の端々から見え隠れする彼とコドンの関係のありようとは、性質が異なっているのではないだろうか。
釈然としないままの廉に九山もそれ以上はっきりと断定するようなことは言わなかった。プラティ社の航空機が視界に現れ、中から顔を出した千雅がこちらに手を振る。
「正崎さんが口籠るのを、初めて見ました。軽口を仰るのも」
「……そう、ですか」
「とても優秀な調査員だという他に、私はあの方のこと、きちんと知らないんです。……廉さん、どうかお大事に」
ありがとうと返せば九山は目を細めて、廉が航空機に乗り込むぎりぎりまで顔を出していた千雅に向けて手を振った。こいつが迎えに寄越されたのはこのためではないかと勘繰っても仕方ないというくらい、千雅の波形ははしゃいでいた。
「今日は面白いことになったね、廉」
シートに落ち着くなりそう言い、操縦士に合図する千雅に、説教じみたことを言う気力はあまりなかった。面白くは全然ない、なんたって爽快感がない。
「その腕、大したことなさそうでよかった。部長が心配して心配して……禿げちゃいそうだったんだぞ」
「あれもう禿げてるじゃんか」
「酷いこと言う奴だなあ! あれ、それは?」
「それ? ……あ、持って来ちゃった」
正崎の端末。持っていることさえ忘れていた。
叩いてみても指先からアクセスしようとしてみても、硝子は硝子のままだ。本当に正崎からの入力にしか反応しない。納谷とあのロボットもこういう構造だったのか。
千雅が物珍しげに触ろうとするのから遠ざけ、ポケットに入れる。正崎に返し忘れた旨を伝えると、彼は次会うときに渡してくれればそれで、と答えた。次会うときに。そう先のことではあるまい。
「次会うときがあるかなあ」
ぽかんとした響きの呟きに廉は同僚の波形を見る。特に意味をなしていない。
「あるに決まってるだろ、お前の言うところのパートナーなんだから」
「正崎さんがトラブルを引き連れてくるタイプだったら、廉はパートナーを外されるんじゃない? 危ないから」
「そんなことあるわけない」
確かに、これまでプラティ社にいて扱うことのなかった案件もあれば、今日のようなこともあるが、だからといって。不機嫌気味に言い返す廉に千雅はくらくらと首を揺すった。そんなことあるわけない、と彼女の波形が揶揄するように嘯いている。