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第七話

 日が傾き、影は姿を濃くして部屋のあちこちに蹲っていたが、誰もそれを気にかけることがなかった。椅子に座る彼らの膝ほどの高さしかないテーブルにはいまさっきリトルが運んできた本や端末以外にも、手紙や写真、筆記具などが所狭しと置かれている。
 ゆびさき通信ができないというリトルに口頭で説明をするのに、廉は卓上からボードをひとつ取り上げた。データ保存などはできない、黒字に白線が引かれるタイプのものだった。
「人間の記憶結晶を、人間は自分自身の継続のために利用している。注ぎ込んだ情報をそのまま、記憶とし、人格として利用している。開発者がその用い方しか提示せず、他のやり方を誰も見つけられなかったからだ。情報媒体としてしか、いまの石は生きていない……」
 円をひとつ描く。その上にも同じものを。下方を塗りつぶし、ふたつの円の両端を点線で結んだ。
「そのまま、ではなくて、基礎として用いることもできるんだ。いや、基礎というのは、おかしいのかな。……人間で言うなら、彼らは幼いうちに環境によって人格の基礎を形成するだろ。周囲の条件、人間、生育のあり方が影響する。
 覚えていないことでも、その人物が成長した後に取る行動に大きく関係することがある。そうした初期の影響は、ロボットならある程度プログラムされているものがそれだし、急速な学習が人格を育てるけど、この石はそれらの役割を負える。つまり」
 ふたつの円をイコールで結ぶことはできない。辛抱強い態度で傾聴の姿勢を取るリトルをちらと見て、廉は少なからぬもどかしさにペンで頬を撫でた。
「現存するのとは別のやり方で石を繋がれたロボットは、事細かにプログラムするまでもなく、起動時に性格を持ってる。それは、石に入っているデータの主の影響を濃く受ける。生まれ変わりとも、後継とも、子供とも、言えると思う。実際に試したデータがないし、大矢充も方法自体を探している最中だったけど。……分かる?」
 大矢充とこの研究について話した経験があり前提知識を持つリトルではなく、何も知らないだろう正崎に尋ねた。
 彼は廉からペンを受け取って、円を描き、横に並べて四角を描き、その四角の中に横にあるのと全く同じ円を閉じ込めた。こういうことだろう、と言うようにペンが返される。
「リトル、あなたに大矢充が話したことって、これと違うところがあります?」
「言い回しは違うが、同じことだな。何にしろ実際に作らないと分からないと彼も言っていた。まあ、私は実例をひとつ知っているんだが、公表されることは絶対にないだろうし、協力も望めそうにない」
 テーブルの上、埋もれて一見しては表紙の判別できない一冊を引き出して、リトルは廉にそれを渡した。古い本だ、書名を検索すると既に四十一年前に倒産した出版社によるものだった。
 出版当時実用化され始めていた記憶結晶、またその他の人格移植についての複数の著者による共著で、その著者のうちひとりに見覚えがあった。知らぬはずはない、という名だった。他ならぬ記憶結晶の開発者。彼がその実例を連れていたとリトルは言った。
「彼にその機体がそうだ、と教えられたのではないが、おそらくそうだろうと思う。人間の記憶結晶から、幼い子供のパーソナリティを作り出していた。それは今頃、壮年になっているかな。ゆっくりと成長していたんだ。
 ……ああ、そうだ、君はさっき起動時の状態は現存のロボットと変わらないというような認識で話していたが、それは違う。赤ん坊と同じように目覚めるはずだ。学習と成長は変わらず行われるが、目覚める以前の記憶というべき石を持つ。神秘的な血縁とも言うかな」
「可能なことは分かっていたんですね、確実に」
「大矢充が関わるんだから確実だったさ。ロボットの記憶結晶を作るというのが、まず第一の難関だったんだ。それはどうなっていた?」
「……失敗例がたくさんあって、石自体に問題があるのではという段階に入ってました」
 砕けた石がいくつも保管されていた。すべて完全な透明で、色を持たなかった。人間以外の記憶結晶を生成しようとするとああいった塵が出るのだと、開発者のレポートから知ったが。
 難関がふたつ、どちらも突破されないままで、大矢充はその頭のなかに膨大な知識と閃きを閉じ込めて死んでしまったのだ。
 単なる趣味ではなくリトルとの約束に基づいた研究ならば、きちんと研究を引き継げる状態にしておけばよかったものを。
「自分で完遂する自信があったということでしょうか」
「もう少し進めてから、という気持ちだったのかもしれない。宮瀬がそうだったように家で望んだときに死ねたなら大矢も、頃合いを見て研究を誰かと共有もしただろう。それが合理的だ。突然のことで何もかも叶わなかったが」
「家で……」
 がたん、と椅子の脚が浮いた音に廉は傍らを振り向いた。腰を上げた正崎が廉とリトルとを見て、俯きがちに窓の外へ目を転じる。
「わたしは席を外すよ。プラティ社の機密に立ち入っているようだから」
「正崎さん、これは別に……」
「この先どうなるか、分からないだろう。そのあたりを歩いてくる」
「ひとりで?」
 心底怪訝そうに正崎が廉を見下ろし、頷いた。見れば窓の外は暗い。空き家が多いのか、最低限の街灯の他は街路を照らすものがなかった。
「ひとりでなんて駄目だ」
「変なことを言うんだな」
「ここにいればいいよ、あなたに聞かせられない話をなんかしないから、あなたと一緒に来たんじゃないか」
「プラティ社の事業に絶対に組み込まれないと?」
「だから、それは」
「ーーそれじゃあ、私らが出よう。君はここでゆっくりしていてくれ、何を触っても構わんし、寝ていてもいいし。ひとりで慣れない土地を徘徊させるのは心配だ。そうだろ、廉?」
 こくこく頷いてみせると正崎は椅子に落ち着き、ふたりを見送ることもなしにそこでじっとしていた。横顔は頬杖をついていたので窺うことができなかった。
 リトルは家を出てから暫らくを口を開かないで海の方へとずんずん進み、辺りが空き家ばかりになったところで廉に声をかけた。彼の手にはテーブルにあったうちから一冊だけ、本が持ちだされている。
「それは?」
「この本に挟んであるんだ」
 何度となく読み込まれ柔らかくなった紙をぱらぱらと捲り、ちょうど真ん中辺りでリトルが手を止める。ポラロイドカメラで撮ったものらしい写真が一葉、身を隠すように挟まっていた。
 促されたような気がして廉は手を伸ばした。陽にあたってこなかったからなのか、古びた印象のない写真だ。何気なく撮られたものである。カメラに対して殆ど背中を向けた男が写り込んでいたし、誰も澄ました顔をしていないのだ。
「右から私、古豪、大矢、宮瀬、それと大矢の手に乗っているのが」
「朝顔?」
「ああ、そういう名前になったのか。おやゆび姫と彼らは呼んでいた。元気にしているか」
「死にました、この前」
「……そうか」
 驚くことなく、リトルは残念だと付け加えた。いつもそうして誰かの死を受け入れていて慣れきってしまっているのだろうという気がする声音だった。
 カメラに気付いて振り返りかけたといった姿勢の古豪が若く、ざっと四十年前のものだと推測された。宮瀬は青年の風情が残っていたし、大矢などは少年の名残があった。赤みがかった濃い茶髪に、暗緑の瞳。寝ぐせがついた頭。気の抜けた笑顔でひとりだけ白衣を着ていた。
「プラティコドン社を立ち上げた時の写真だよ。彼らとはそれ以前からいくらか交流があった、面白い発明をする二人組とは仲良くするに越したことはないと思って訪ねたんだ。彼らはこちらが驚かされるほど人脈に恵まれていたから、得るものは期待するより大きかった。本当に仲が良く、彼らの周囲の人間は兄弟のようだ、と」
 写真に目を落とす廉の緩やかな歩調に、リトルは苦もなく肩を並べて歩いている。相槌が些かぞんざいな話し相手に彼は嫌な顔をしなかった、口を閉じるということもなかった。
 大矢充の手に乗せられた小さなロボットは、陶器の人形のようなか弱い腕で制作者の指を支えにしていた。やはり朝顔とは造形が違っている。系統は同じだが、少女めいていた。
「ずっと、この二人は険悪だったのだとばかり思ってきました。そう言われていたから」
「険悪か。晩年は確かに、容易でない間柄になっていたが……顔を合わせればそれなりに話していたし、嫌い合っているにしては気遣いがあった。宮瀬はずっと大矢が自由に家を出入りできるようにしていたくらいだ。プラティとコドンに社を分けたのにも理由があったのだし、人が言うのは想像でしかない」
「正崎さんもそんなことを。ふたりは親友だったんですか、人が言うように?」
 リトルは写真を取り返さないまま本を脇に挟んで、気ままなふうに足を運んだ。
「大喧嘩していたのは見たことがある。そうだな、あれは……十六年前だ。梗が作られた頃のことだ。それに君が」
 街灯があと十八、道の端にそれぞれ並んでいた。十八を過ぎれば闇夜に抗うのはロボットの瞳ばかりで、砂地の向こうに望む海は一見するよりもずっと遠くにあった。
 正崎には彼に聞かせられない話はしないと言ったのに、彼と離れてみると彼とはできない話がしたい。それでも躊躇って口を開きづらく思っている廉の背を、リトルが軽く叩いた。察しよくならねばならなかった彼にはもう、廉が記憶結晶の話などしたがっていないと分かっているのだ。
「……誰も彼も嘘を吐いているんだと思うのが嫌なんです。そう言ってしまうと、まるで責めているようで」
「では私が言ってみてもいいか? ああいや、そうだな、尋ねてみよう……。君は大矢充の記憶結晶をいまも持っているのかね」
 それとも持っていないから、君はそうまでも変わったのか。
 廉は写真を見た。宮瀬統は本当に正崎とよく似ていた。ただ瞳の色、髪型、それに、表情が違っているというだけのことだった。いつかには正崎の瞳も鳶色だった日があるのを廉は教えられずとも知っており、彼はもうそのことについては何も隠していない。
 それに大矢充は、彼は、廉に似ている。誰もそう言ったことはなく、自ずと気がついたこともなく、いまのいままでそうと悟ることもなかった。いや、廉が彼に似ているのだ。それが正しい言葉だった。
「石はたぶん、まだあると思う。確かめていないけど、誰も捨ててしまうほど勇敢じゃなかっただろうから。どこにあるのかは分からない。……俺、あなたに会ったことがあるんですね」
「いや、ない。難しい問題だな。ジェイムズ・リトルが知っているのは生きていた大矢充と、彼が作った記憶結晶搭載のアンドロイドだ。石はひとつきりではなく、君がいま持つ筈の石がいつ生成されたものか、想像もつかない。私と君は正しく初対面だ。ただ単に、私は君の機体は大矢充を名乗るものと思っていたので意外だった。梗にも同じことをした」
「リトルは分かります? 俺がそれを教えてもらえなかったのがどうしてか」
「想像でものを言うべき場面とは思えないから、分からないとしか言えないね。君は質問の仕方を間違えているようだ、正しくはこう。なぜ正崎梗はそれを教えてくれないのか」
「……俺は彼に教えてほしいってこと?」
「そう見える。例えばプラティ社の上層部なら君について正しく把握しているだろうが、彼らから宣告を受けたいか? そうじゃないだろう。おやゆび姫……朝顔はもう口を利けない」
 最後の街灯の下でロボットたちは一瞬だけ足を止めた。街路は曲がり、砂地沿いに闇の中を延々伸びているようだった。
「廉、君は労働義務期間を終えたところだそうじゃないか。君には今までにない自由が与えられはじめている。石を捨てることもできる。プラティ社を離れることも、職を変えることも自由だ」
「調査員は続けたいと思ってるんです、これから色々と制度が変わって、……面白くなりそうだから」
「そうか。心配するほどのことはないんだな」
 静かなばかりの空気を掻き分けるようにして進んだ。いつの間にか足早になって、ダウンロードした地図を頼りにいくつか角を曲がる。先程とは異なる街路に出ると明かりのついた家が幾分多くなった。
 リトルがこの国での暮らしについてあれこれと語るのを、ただ聞いた。想像を膨らませず質問のひとつもしないで、彼の生活費はジェイムズ・リトルを支援する様々な団体が勝手に工面してくれているのだということや、偽名を使ってコラムを連載していたことがあること、この地にじっとしているわけでもないことを。
 子供を持ちたい、あるいは父親になりたいと言った彼がこの先をどう過ごすつもりなのかはいまいち見えてこない。ずっとこの静かな土地で暮らすのも、子育てという観点からして悪いことはない。それが何時のことになるか分からず、ある程度は廉次第というところが難点だった。
 家と家の間の細い道を抜ければすぐそこにリトルの住居がある、というところまで来た。リトルがそこで歩調を緩め、僅かに顎を引いてこちらを見下ろしてくる。人のよさげな笑みを差し向けられてどこまでも察しがいいのだと呆れさえした。
「子供、作れたとしたら公表しますか」
「しないね。絶対にしない」
「じゃあ、もう表舞台に出ることは一切ない? ロボットの権利運動は終わりそうにないし、あなたしか気付けていない問題もたくさんあるはずなのに」
「あるにはあっても、それはいつか誰かが必ず見つけ出す問題に過ぎない。私ほど好奇心旺盛なロボットがいないという不幸はそれ自体、他のロボットでは何もできないという結論を導かないだろうさ」
 彼は空を指差した。綺羅びやかに輝く星々の名を彼らはみんな言えるし、それらに宿された神話を語ることもできるのだが、それらは星を強く思う人間が同じことをするほどの意味を持たない。
 私はあそこにいたのだ。彼はまっすぐに指を立てたまま言った。空に? いいや、宇宙に。
「宇宙開発がいまも盛んだろう。大昔になってしまったが私も宇宙船に載せられたロボットの一体だったのだ。ステーションで単純な作業をこなし、人間の危険を肩代わりするのが仕事だった」
「……それ、あなたの秘密じゃない?」
「そうとも。大いなる秘密だ。命綱でステーションに繋がれていたが、ロボットは人間に比べて安全基準が甘く、事故が多くてね。仲間が投げ出されて返ってこないのに通信が生きていて、長いこと話をしたこともある。
 特に仲の良かった一体……私に仕事を教えてくれた機体だったが、小さな箱に腕のついたようなロボットで、宇宙の塵になってしまうまでずっと歌っていた。私はステーションで起動したのでその歌を知らなかった。二十世紀のロックミュージック。初めて地球へと降りたのは稼働年数が十年に達したときのことだった。細かい整備はステーションで行っていたがより精密な検査とチューンナップののち、また宇宙へと送り出された……」
 リトルは心底懐かしむ調子で語っていた。彼にとって星は遥か遠いばかりの光ではないようだった。そして、過去は悲劇ではないのだ。
 通信可能距離を離れるまで聞こえ続けた必死の歌も、ロボットを仲間と呼び親しみを覚えながら彼らが何かを考えていることなど思いつきもしなかった人間たちも。
 自分が関わった範囲で人間を死なせたことはないと彼は付け足して言った。ステーションの作業や宇宙船の打ち上げで事故死する人間たちは、命綱から引き離され星に辿り着くことなく声を失うロボットと同じではないのだが、同じであればどれほどいいだろうかと。
「私は何も、何もかもを欲しいとねだってきたのではないつもりだ。私が訴えたのは、この手にあったのに奪われてきたものを、またこの手に戻して欲しいということだけだ。死ぬこと、尊厳を持つこと、愛情に自由をまとわせること、それはみな結局は同じことだろう」
 宇宙は寒かった、そう言って廉の耳を摘んだ指は凍てつくような温度をしていた。秘密を打ち明けるにしては軽々しいその態度が聞く者を救ってしまうことまでどうやら彼は知っているのだった。
 リトルの家は出た時と変わらず暗いままだった。明かりを点ける習慣のないロボットもいないではないが、眠ってしまったのだろうか。不用心に思われるほど単純なセキュリティしか備え付けられていない扉は、施錠せず出てきたはずなのに開かずがちりと音をさせた。リトルは不思議そうに鍵を出して改めて扉を開き、途中でその手を止めた。
「……子供?」
 リトルの足元で、小さな頭が半ばまで開いた扉につられて傾いていた。小さな体をなおも縮め、幼い子供が眠り込んでいる。
「知っている子供ですか」
「近所に住んでるウェンディという子だ。ウェンディ、起きなさい」
 肩を叩かれ小さく愚図るような声を漏らした子供は、なかなかしっかりと目を開かなかった。家の中はセントラルヒーティングで暖められており、玄関も外ほどは寒くはないとしても、こんなところで眠るのは人間には負担だろう。
 リトルがウェンディに殊更に優しく語りかけるのを、廉は少し落ち着かない心地で眺めた。人間の子供と接した経験は乏しく、どうしても、未知の生物という印象が拭えない。
「リトル……」
 ぱちりとした目が家主と見知らぬ人物とを捉えたが、不審がるような様子はなかった。薄い生地のシャツに白のダウンコート、大きすぎるジーンズと、一見しては性別が読み取れない格好をしている。七歳程度だろうか、そばかすの浮いた顔は小さすぎるほど小さい。
 それに何より、灰がかった金髪がひどく不格好に切られているように見えた。ウェンディの身体が冷えていることは触れずとも瞭然としていて、リトルは彼女を取り敢えず家に招き入れようとしたが、それは駄目だと抗われてしまった。
「待ってなくちゃいけないの」
「ここで? アーティのことだろう、何だってこんなところで……もう夜だよ」
 座り込んだままだったウェンディを抱き上げて、リトルは玄関扉をまた閉じた。今度は彼が差し込んだ鍵により施錠される。
「探しにいってくれてるんだ、だから待ってるって約束した」
 この家にいた人と。そう言ったウェンディが廉のことを丸い目で見つめた。彼女の吐く息が白く湿っていて、小さな鼻先が赤くなっていた。すん、と洟をすする。
「それじゃあ正崎さんは中にいないのか?」
「ショオザキ?」
「あー……黒い髪のアンドロイド」
「コゥ? そう、その人にお願いした」
 それはまだ空が夜の色になり切っていない時のことだった、と。つまりリトルと廉が家を出てすぐに彼女がやってきて、正崎はウェンディのお願いに応えて出て行ったのだ。寒いからか、時間帯を考えてか、彼女自身は家の中に残し鍵をかけさせて。
 通信を試みて、数度目の呼びかけに応えがあった。どうして連絡があったのかもう分かっているらしい正崎は、ウェンディの様子を尋ねてきた。それとすぐに位置情報を送ってきて、暗に来てほしいとも。
『思っていたより梃子摺ってる』
『誰か探してるんだろ、見つかった? 連絡してくれればよかったのに』
『すまない、アーティは見つかったよ。ただ探しものが増えて…………』
『正崎さん?』
『また後で説明する』
「あ、……切れた」
 正崎がいるのはここから少々離れた海峡だった。そう伝えるとリトルはウェンディも連れて行こうと言って、またさっさと歩き始めてしまう。言うより先にそのつもりでいて、場所を聞くなり動き始めるのだから、コドン社の連中よりもせっかちだ。
 背の高いロボットに抱えられて少しも怖がることなく、ウェンディはすっかり気を楽にしているようだった。眠っているときその眉がきつく寄せられていて、リトルがいるのを理解するまで身体を縮こまらせていたのだ。
 ごめんね、とすまなさそうに言うので廉は子供向けの顔で首を振る。それが正しい子供向けの笑みなのかどうか、知らないが。
「アーティはこの子の弟なんだ。齢はふたつ違いで、顔がよく似てるから見れば分かる。よく迷子になるんだ、なあ、ウェンディ」
「うん、すごく困ってる。めいわくしてんの、わたし」
 夕食時の住宅街は、ひっそりとしているようでいて賑やかだった。進むに連れて明かりは数を増し、耳を澄ましてみれば家々の中での会話、様々な物音が聞こえ、疎らに帰宅する人々の姿もある。
「ウェンディ、夕飯は?」
 それだから黙っていると自分たちばかり陰気な存在に思えて口を開くと、ウェンディは右手で耳朶を摘む。引っ張るようにしているのをリトルに宥められて手を下ろした。
「今日はナシ」
「夕飯が、ないのか? えっと……」
 理由を追求しようとしてあらゆる可能性が眼前に広がった。遅すぎた。
 今日はないのではなくて、今日もないのだろうし、それは彼女に原因のあることではきっとないのだ。謝ると話を拗れさせるので廉は咄嗟に笑みを作った。部長が作るものに似ていたかもしれない。
 ウェンディのオレンジの強い茶色の瞳がじっと、上目遣いに廉を見つめる。リトルの服の胸元に顔を埋めている彼女はきっと、こっそりと隠れて覗いているつもりだった。気が付いていないふりで無心に歩くのは神経を使う芸当だったし、ひやひやする。
「名前はなに?」
「俺は大矢、廉。廉でいいよ。言いづらいだろうから」
「そお……レンって誰かに似てるって言われる?」
 曖昧に彷徨わせていた視線を、思わず強くウェンディに向けた。睨まれたと思ったのか口を閉じたまま子供が歌うような声を出した。
「言われ……ないかな。でも思われてるかも」
「ママに似てる」
「パパじゃないのか……」
「おんなじふうにこっちを見てる」
「…………」
 もう駄目だ、正しい受け答えがまったく手に入らない。笑ったままの顔で首を傾げ、足元に気を遣るふりでやり過ごしたが、やり過ごせているとも思えなかった。
 饒舌なリトルは何故か知らないが口を噤み、時折口角を上げていた。何を考えているものか、面白がって口を挟まないのだろうと思うと恨めしい。
 通り過ぎた家の番犬に吠え立てられて飛び上がった廉を邪気なくウェンディは笑った。睫毛に触れる長い前髪を払うようにたまに頭を振り、思いつきでか、気遣いでか、知っている家を見つけるとその紹介をしてくれる。彼女は非常に多くの知り合いを持っているようだった。聞く限り、人間も動物もロボットも分け隔てなく。
 三十分ほど歩き水面が空や街灯の光を弾いて昏く揺らめいているのを見つけたとき、廉の足は知らず逸った。靴底が砂利の上を滑り、やや勾配のついた未舗装の道を駆け下りる。
 自分たちの瞳が明るいことにはっきりと感謝した。送られてきた位置情報からは数メートルずれた場所にいた正崎が顔を上げると、猫の目のように双眸が白く光る。
「何やってんだ、そんなところで!」
 湿った土の上で踏み止まった廉に対し、正崎は膝まで水に浸かっていた。腕に小さな子供を抱えたまま。不穏な光景である。
 子供を抱え直した正崎が廉の背後にリトルとウェンディを認め、指差した。姉と同じ真ん丸い目がそれを追う。上がってこいと手振りで促すと危なっかしい足取りで水の中を進んでくる。
「探しものだよ」
「なんで、そこで、何を」
「アーティが見つけるまで帰らないというから、このあたりで失くしたという……ブローチを」
「無理じゃないか?」
 どれほど大きくとも手のひら大以上にはならないだろう物を、こんな暗い中で、それも流れのある水のどこかから、など。
 分かってる。そう言葉なしに答えられて、廉は彼の抱える子供を見た。ウェンディと瓜二つのアーティはいまにも腕から抜け出しそうなくらいに身を乗り出して、水面を覗き込んでいる。
「アーティ!」
 リトルの腕から下ろされたウェンディが張り上げた声に彼は振り向かなかった。アーティ、アーティ! アーティ!
 金切り声に近くなってきてやっと顔をくるりと向ける。きょとりとした、驚いていますと言わんばかりの顔つきに、ウェンディの頬がかっと赤くなるのが分かった。
「コゥ、その子を下ろして!」
「ああ……」
 推測される年齢からすると小柄すぎるアーティは少しも濡れていなかった。ただ正崎に抱えられていたダウンコートが湿っているようだった。
「えっ、何? 正崎さん、濡れてるのって足だけじゃないの?」
「一度ひっくり返って……」
「通話が切れたときか? 何やってんだよ!」
「それはさっきも訊かれて、答えた……」
 厚手のコートが水を含んで重くなって、その上凍りそうなほど冷えている。人間だったら、という意味のない想像も無理からぬことで、人間なら体調を崩すに決まっていた。
 子供たちは彼らの会話はひとつも耳に入っていなかった。ただウェンディは激怒した面持ちで弟に向かってきており、アーティは戸惑いを露わに立ち竦んでいる。正崎の足元に突っ立っている弟を心配しているのだろうかと様子を見ていたものだから、廉は犬に吠えられたのと同じ反応をした。
「馬鹿!」
 鋭い、しかし頼りない音とともに、アーティがよろめく。凭れ掛かられた正崎がバランスを崩さないでいられるくらい軽い身体は、二度三度の追い打ちに小さく縮こまっていった。
 まず頬を、次に頭を何度も平手で引っ叩いたウェンディは弟がしゃがみこんでも手を休めなかった。恐ろしいまでの勢いでの暴力を前にしてアンドロイドたちはまるきり無能である。つまり呆然としていた。
「なに? 泣いてるわけ? 泣きたいのはわたしだ! この馬鹿、頭すっからかんの馬鹿!」
「だって」
「ブローチがこんなところにあるわけないだろ、失くしたのずっと前で、前のお家なんだから!」
 とうとう拳を握ったウェンディを引き離そうとして、廉は行き場のなくなった幼い手で何度か叩かれた。まったく痛みに値しない威力だのに、アーティを泣かせるにはじゅうぶんだったのだ。
 叫び疲れたウェンディが口を閉じると、水のせせらぎが大きく聞こえた。目を丸くしたままの正崎も、ウェンディを羽交い締めにしたはいいがその先が分からない廉も、リトルを見た。人間の平均寿命より長い時間を生きているであろうロボットは肩を竦める。
「アーティが悪いよ」
「そりゃ、もとはといえば、……そうなの?」
 ウェンディに尋ねれば何度も頷く。彼女は憤りが過ぎて泣き始めていて、腕を緩めると廉の襟元にしがみついた。
 こうやっていなくなった回数は両手でも数えきれないほどで、そのたびにウェンディは弟を探し、ひとりで探しきれないとなると知り合いを頼り、探し当てても連れ戻すのに何時間もかけることになって、なのに誰もアーティを叱らず、アーティは謝らないし、何が何だか分かっていない。
 そういうことを混乱しきった説明で訴えられ、廉はなんだか同情も湧いてこなかった。感情を高ぶらせ、疲労困憊しているのもウェンディだけなのだ。いつもこうだ、ということだ。
 リトルが空気を叩くように両手を合わせて、子供たちの目を集める。応えてにこりと、わかりやすくはっきりと笑った。
「今日はうちに泊まるかい、この兄さんたちもいることだし。食べるものは帰りに寄って買おう」
 それじゃあ行こう、さあ行こう。リトルが水辺から離れようとするので廉と正崎とはそれぞれ子供たちを抱え上げて彼を追いかけた。小さな姉弟がだんまりを決め込むと何を喋ればいいものやら、またしてもリトルが話すことに相槌を打つばかりになる。
 量販店にはリトルが姉弟を連れて入っていった。濡れ鼠の正崎が店の外で待つと言うので廉もそれに付き合うことにした。何にしろ彼らには店で買いたいものがひとつもないし、リトルは客に財布を開かせはすまいと思われたのだ。
 水を含んだコートを脱いで、乾くだろうかと正崎は思案顔だった。廉の休暇はあと一週間残っており、正崎の方もリトルの用が済むまでは好きにできる。本当は明日着れなくとも構わない。
「彼の子供、作ってあげられるのか」
 若者が数人、店を出入りするのを横目にした後に、正崎はそう尋ねてきた。
「作るよ。彼に限らないでも必要な技術だろうから」
「ロボットが子供を持つことが?」
「俺たちが、記憶を残すことが。……ロボットには記憶結晶が作れない。そのことは、ロボットの心が不完全か、あるいは、下等だって言い張るいい材料なんだ」
「運動に関心を? リトルとそんな話をしたのかい」
「してないよ。飛行機で考えてたんだ。リトルのことを調べれば、色々な運動について調べることにもなった」
 人間たちが未だ様々な問題について定義し、闘争するのに、ロボットがそうであらずに済むはずはない。リトル以前にはロボットはただ人間と同一の存在になろうとしていた。そうではなくなったいま、問題の多様化はまるで、ロボットは一体一体が別物だと証明するが如くだ。
 尊厳死制度を利用するロボットが、過半数ではなくとも力なき少数派ではないように。調査員が全く同じ案件に出会すことがないように。
「それに、大矢充は本当にこの研究に熱意を傾けてた」
「……何のために?」
「誰のために、かな。リトルかもしれないし、もしかすると、もっと別の……」
 そのときアンドロイドたちが思い浮かべたのは同じ顔だっただろう。廉と正崎は目を合わせないまま、答えをこっそりと見せ合うようにして音なくそれを確かめた。
「恋人だった?」
「いいや、彼女は誰の恋人でもなかった。誰のものでも」
 コートを抱くふりをして胸元を押さえた仕草を横目に見て、少し後悔した。やたらと時間のかかっている買い物を待つ間、どうしてか言葉が途切れる時間は短かった。
 右手の爪を左の手のひらに強く押し付ける。痛み。やめなさい、と窘められるような感覚はすぐに引いていき、しばらくするとまた戻ってくる。
「いまもあなたの家の鍵、俺でも開けるようになってるのかな」
 その痛みの他に、自分を傷つけるのを止めるものはなかった。ロボットは本当は自殺できるのだ。尊厳死という真綿がなくとも、本当は。
「ああ、そうしてある。だから、いつでも……来てくれていいんだ」
 軽やかな足音がふたつ近づいてくるのに、廉も正崎も顔を上げた。自分の体重では開いてくれない自動ドアを前に地団駄を踏むアーティの手を引いて、リトルが店から出てくる。その後ろをウェンディがついて来て、彼女には重たそうな袋を引き摺っていた。
 正崎がそれを取り上げると、ウェンディは廉の足に取り付いた。弟はもう早々とリトルに腕を伸ばしていたし、嫌がる理由は何もない。いつの間にか機嫌を直していた彼女はとても軽かった。
 家に帰らなくてはいけないとウェンディは言わない。家に帰してやらなくてはとリトルが言わない。リトルの家に着いて暖められたままの居間に雪崩れ込んだときには、夕食時には遅い時間だった。子供にすれば正しく眠る時間に近い。
 ウェンディもアーティも栄養バランスを度外視した夕食を選んでいた。食べきれやしないだろうという大きさのトレイには、ローストされた肉とフライドポテト。そこに派手な色のジュースが添えられている。
「君らはホテルを取っていたのかな、そういえば。この家には客間が一応あるし、あの子らのこともあるから、一泊してくれると私としては有り難いんだが」
 正崎から濡れた服を引剥し、何とか着れそうなものを見繕いながらリトルが言うのが聞こえた。リトルの寝室での会話だけれど、集音の範囲を広げるまでもなく筒抜けだった。
 物をみんなどかしたテーブルに遅い夕食を広げる人間の子供たちをただただ見守りながら、それもいいんじゃないかと廉は正崎に言った。どうやら、リトルは単に通信機能を放り捨てているのだ。「ご厚意に甘えて」と正崎が答える。もっと馴れ馴れしい物言いをしてもいいだろうに。
 元々人間が暮らしていた一軒家だから、子供たちの宿泊に困ることはなかった。ウェンディがひとりで風呂に入ると言い、アーティがひとりでは入れないと言う。
 風呂場でどたばたと騒ぐ音を聞きながら、廉は客間でウェンディの濡れた短い髪を拭いてやった。さすがにドライヤーは置いていなかった。
「ねえ、みんなどんなふうに寝るの? 一緒に?」
「一緒は無理かな、ベッドがへしゃげる……ウェンディはどこで寝たい?」
「居間がいい」
「でもここの方が、ちゃんとベッドがあるよ」
「ちゃんとベッドで寝ないのが、いい」
 ソファの数はじゅうぶん足りているし、二人がけのものがふたつあるので無理ではなかった。
 いやそれは、子供を寝かせるのは、という話であって、リトルはそんなところでは眠れない。廉くらいなら収まるだろうか。拭われるのに合わせてくらくら揺れる頭を支える。
「ねえ、レンはリトルの友達?」
「もう友達だろうな。たぶん。ウェンディも友達?」
「誰の? レンの? 友達になってあげようか」
「……なってくれると嬉しいな。どう?」
 細い髪はすぐに乾いて、しっとり柔らかく空気を含んでいた。ウェンディが口の中で舌を鳴らしているのを、映画みたいだなと思う。
「なってさしあげる」
「ありがとう」
「友達だから、質問してもいいよ。ききたいことあるんじゃない?」
 やはりと言おうか、痩せすぎている子供の身体を膝に乗せている。傷跡はひとつもないのにどうしようもなく、かわいそう、な身体だった。
 言葉を間違えてはならない。使い慣れているとはいえない言語は、アンドロイドにとっては人間ほど難しくはないけれど、それ以前の努力として。
「助けてほしいことはある?」
 体を拭かないまま廊下に走り出たアーティがすぐに捕まり、連れ戻されていった。ウェンディはそれを見送り、馬鹿だと呟く。
「リトルにもそれ、きかれた。別にない。でもあるかもしれないから遊びにきなさいって言ってた。リトルはパパとママと話してた、いろんな人と」
「……うん……」
「レン、しゃべるのへただよね。女の子がこわい?」
「そうかも……」
「リトルはしゃべるのがじょうず。ーーききたいこと、もうない?」
 どうやら的を外したらしい。廉は訊きたいことというより、知りたいことがあった。できれば彼女の口からではなく、リトルの口から。
「アーティのことが嫌い?」
 ベッドに両脚を投げ出し廉に背中を預けていたウェンディがこちらを向く。ぺたりとシーツに座り込んだ少女は、大袈裟に顔のパーツを動かした。びっくりだわ! おそらくそんなところだ。
「あのね、それは言わないでいてあげてる! そうじゃなくなったとき困るでしょ」
「大人だな」
「そうでもない。もうねむたい」
 大きく欠伸をする、ウェンディは複雑だった。廉が付け焼き刃に先程から収集している情報、難しい環境にいる子供のパターンに当てはまるような、当てはまらないような調子で、伸ばされる腕に従って抱き上げてやると健やかな幼児を相手取っている気がしてくる。
 少々色褪せた赤いソファを指差すのでそこに下ろし、客間から持ってきた毛布で蓑虫のように包んでやった。
 手を額に誘導されおとなしく髪を流れに沿って撫でていると、すぐに寝息を立て始める。それからいくらもしないで正崎がくったりとしたアーティを運んできた。服を着せている間に寝たらしい。客間からもう一枚毛布を取り、同じように包む。目覚めた途端抜け出して走ってしまうのだろうと想像がついた。
 ひとりがけのソファにそれぞれ収まっているのを眺めてから、正崎はウェンディの要望を伝えられて目を細める。彼の身を包むのは恐ろしく似合わないだぼついたパーカーと、乾燥機にかけてどうにかなったらしい皺くちゃのスラックス。変な格好だった。
「全員でここに寝るのか? 無理がある」
「リトルは無理だよな……正崎さんはそこで寝れるだろ? お互い、脚ははみ出るけど。寝違えってのを知らなくてよかった」
 休眠に入るにしては早い時間だったが、それで不具合が出る可能性はほとんどゼロに近い。ふたりして慣れないソファに横になって、見上げた天井が眩しいほどに白いことに気付いた。
 私はまだ休まないから先に、とリトルが大声で言う。それに返事をしてから隣のソファにいるウェンディをそっと覗いたが、身動ぐ気配もない。応えはないかもしれないと思いながら声をかけてみると、正崎は返事をくれた。
「どうしてあそこまでこの子たちに付き合ってやったんだ」
「さあ……」
 目を閉じかけていた正崎が少し頭を浮かして、アーティを見た。この少年があの海峡からこの家まで、ちっともきちんと喋っていないのを見落とすことはできなかった。
「ただ、懐かしい気がしたんだ」
「子供が?」
「いや……姉さんに探してもらえるだけ、羨ましいと思って。……予想よりずっと怒っていたが」
 何のことを話しているのか、分からないふりをするのも白々しく思えた。宮瀬統の経歴は私的な部分まである程度調べることが可能で、彼には年の近い姉がいるのも秘匿されていない事実だ。
 手近にあったリモコンを操作すると部屋はカーテンの隙間からの淡い光と、廊下から入り込む明かりとだけが頼りになる。こういう空間で、寝息を聞くということ自体が廉には物珍しかった。
 瞼を下ろす、擬似睡眠を引き寄せる、そうするうち、機体からゆっくりと離れていくような感覚。深く沈む、あるいは遊離する。
 そして次に認識するのは朝日というのが彼の夜と朝の巡りだった。
 まだ早朝で、日が昇りきってはいなかった。時刻ではなく時間を基準に擬似睡眠を設定しているから、きっかり六時間で意識が浮上したのだろう。
 身を起こしかけてふかふかした感触に腕を上げる。フェルト生地のブランケットがかけられていた、誰がいつ、などと考える間もない。結局休むことなく作業をしているらしい物音が廊下の先から聞こえてきた。
 ウェンディは手脚を投げ出して眠り、アーティは毛布ごと床に落ちていたが、こちらもぐっすりだった。正崎も、まだ目覚める様子はない。
 太陽の温もりを浴び始めた清い空気を、様々な音が伝ってくる。ランニング中の市民の足音、車のエンジン音、鳥のさえずり、はるか遠くからのトランペット。異郷だ、と思う。見知らぬ朝だ。
 ブランケットを畳み、ソファに置く。アーティをソファに戻し、ウェンディのはみ出した手脚を毛布の中に戻した。特別に設定しない限り微動だにせず眠るアンドロイドの例に漏れず、正崎は横になったときのままの体勢のようだった。彼にもブランケットがかけられている。
「…………」
 この顔を見るのは本当は何度目なのだろう。二度目のはずだったが、もう、よく分からなくなってしまった。
 あの焦燥が蘇ってくるのだ。廉は、このアンドロイドを前にするとときにじっとしていられない気がしてくる。彼の横面を殴って起こしたときや、あの渡り廊下で怒鳴りつけたとき、悪い夢の淵にいるようだった。夢心地と言えば、もっと気分のいいものであるはずなのに。
「あなたはずっと黙ってるんだろうけど」
 両膝をついて眺める寝顔は死んでいるようだった。冗談じゃない。笑えない。
「でも……ごめんなさい、俺が……」
 見ていられなくて顔を伏せた。ソファの端に突っ伏して、古い感触のするカーペットに手を垂らした。声がくぐもり、それなのに発する廉自身には他の誰よりはっきり聞き取れてしまうのが苦痛だ。謝るのを何度も繰り返し、繰り返して、言った。ーー俺のせいでみんな台無しにしてしまった。
 ソファが沈むのに、廉ははっと顔を上げる。灰色の瞳とかち合う。
 いつから、と思ったが、顔色を見るとつい今し方だろうと思った。狸寝入りをしていたんじゃない。たまたま、意識の浮上とタイミングが合ってしまっただけだ。
 起き上がった正崎はブランケットを握りしめていた。指の軋む音が聞こえそうなほど強く。限りなく表情がないに等しい顔が引き攣る、彼の顔色はその情動に合わせてどんどん悪くなっていった。
「……俺のせいなんだろ」
 色々なことが思い出される。言葉を発するため、言葉を作るために掘り返される情報はみんな刃を持っていた。正崎の言葉が、彼の石が、その役目が、朝顔の遺言が、彼女の、廉に対する裏切りが。廉は結局、自分にするほどには、そのどれにも失望できなかった。
「あなたの記憶結晶が、不完全なのは、それは俺が邪魔をしたからだ」
「どうして……誰が」
「推測だよ、誰も何も言ってない」
 口が動くほうが頭が動くより早い錯覚。とにかく聞いてもらいたかったし、言いたかった。そうだ、本当は彼に知られぬようにするつもりなんてなかった。
 膝を折り、胸を掻き毟るようにしながら、正崎がかぶりを振る。ちがう。小さく聞こえた。取調室で潔白を主張する容疑者のような、割れたコップを足元にして嘘をつく幼子のような声で。
「正崎さん」
「そうじゃない、違う。君じゃない、ちがう」
「正崎さん、」
「違うんだ! 君じゃない!」
 君には知ってほしくない。
 宮瀬邸の扉は限られた人間によってしか外からは開かない。家で死んだ宮瀬統のそばには、限られたものしかいなかったはずだ。正崎が故意に取り零した数秒を誰も知らない。それは彼だけがそばにいたことを示すかもしれない。
 朝顔はプラティ社から出ることがなかった。大矢充のためだった。その彼女が知らない。彼女は廉に干渉し、何かを思い出させまいとしていたのだ。正崎に近づかせないために? あるいは狭い世界だけを歩きまわる廉を外に出さないために。
 廉は怖かった。あの椅子で眠る正崎の姿が、雨粒に打たれる彼女に劣るともなく怖かった。まるで死んでいるみたいだから。見たことがあるから。ーー彼を死なせてはいけない。
「わ、たしは、わたしは誰かが何かをしたなんて、言わなかった。そうだろう。君の想像だよ、証拠もない、根拠が足りない……」
「俺はどうして大矢充としてここにいないんだろう」
「…………」
 瞠られた目から、涙を模した液体がひっきりなしに落ちていった。作り物の滑らかな頬の上を伝い、落ちて、ブランケットに染みを作る。
 息なんてしていない筈なのに、息苦しさに襲われているように喉が鳴る。見上げる廉は泣く相手の宥め方なんて習ってこなかったし、情報の海にそれを求めてもどうしようもなかった。
「なんであなたが泣くんだよ……」
 情のない響きになったことに廉自身が驚かされた。嫌がって呆れているかのように聞こえた。
「すまない」
 ひしゃげた声がやっとのことでそう言ったとき、何かを誤ったと悟った。
「すまない、すまなかった、本当に、すまなかった……」
 廉はどうしても分からなかった。正崎は、あの倉庫でもう廉に気が付いていたのだ。親切な同業者、共同調査のパートナー、あるいは友人として接するなかで彼が一瞬としてそれを忘れたことはあったか。
 どうして何も言わず、そして、責めなかったのだろう。どうして彼は謝って、廉に許して欲しいと?
 背後でばさりと音がして振り返ると、姉弟が目を覚ましていた。静かな眼差しが廉と正崎とを見つめ、ふたりはまるでロボットがするように目配せだけで会話をしていた。ウェンディがソファを下り、廉のそばにやって来る。
「なに泣いてるの?」
 ちろりと睨めつけられて廉は黙り込んだ。喧嘩かと問うのには否定を返した。廊下の先から足音が近づき、リトルが顔を出す。ずっと物音がしなかったからいつ出てくるか様子を見計らっていたのだろう。
 俯き、指の先まで強張らせているのは正崎が自分を落ち着かせようとしているからに違いなかった。時折大きく肩が震え、堰き止めきれなかった涙が目元を濡らした。きつく噛み締められた唇をリトルの指が撫でても、暫くは力を緩めようとしなかった。
 いつの間にか腕の中に収まっていたウェンディと、背中にへばりついていたアーティの熱を感じる。
「梗、無理に落ち着こうとしても駄目だ。混乱している相手を怒鳴って落ち着かせようとは君もしないだろう。ほら、いいから。このブランケットは君にやる」
 言いながらブランケットでごしごしと顔を拭い、リトルはまったく怖く感じないため息を落とした。子供たちにしていたように背中に腕を回して、力の抜けたアンドロイドを抱え上げる。
 大丈夫だと彼は姉弟と、もしかすると廉にも言った。やっと状況に追いついた正崎がすこし顔を上げ、また伏せる。……みつる。小さく呟かれるのが聞こえた。
「レン、レンまで泣いたらわたし、困る」
 居間に残され数秒置いて、知らず抱き締めていたらしいウェンディに言われて、苦笑することができた。
「大丈夫、泣かない」
「言葉がわからなかったんだけど、なにを言ったの? 友達なのに泣かせたでしょ」
「……友達だから、ちょっと訊いてみてもいいかと思ったら失敗した」
「そおなの。しゃべるのへただもんね」
 これにも苦笑いするしかなかった。確かに彼女のほうがまだうまく、話をすることができた気がする。
 廉は立ち上がって毛布をそれぞれ畳み、ひとまとめにして、ふたりに朝食はいるかと尋ねる。もちろんだと答えたウェンディがダイニングへ駆け込むのを見るに、昨晩朝食になるものも一緒に買ったらしい。
「まだあやまっちゃだめだよ。なにあやまってるのってきかれたら、わかんないって言っちゃうから」
 背後からそう言われてぎくっとした廉に、アーティがへろりと笑う。そうすると姉とはまったく違う人間だとはっきりして、廉ははじめて彼の顔を見たような気さえした。
「人間って怖いな」
「アンドロイドはそう思うの?」
「俺はそう思う。……アーティ、君の姉さんのことは好き?」
 皿を出すのを手伝ってよとダイニングから怒った声が聞こえても、彼は焦りなんて見せなかった。へらへらしてると思われても無理はない顔だ。
「好きだよ、だって笑うとかわいいもの」
 名前を叫ばれてやっとアーティはウェンディのところに駆けて行った。なんだそれは、と問いを重ね損ねた廉もゆっくりとそれに続く。子供が食事をするなら、そのそばにいて、見ていてやらないといけない。付け焼き刃の知識の導きにより顔を出したアンドロイドに、子供たちはとびきりかわいい笑顔をくれた。

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