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第一話

 死ぬ権利を持つことこそが生きる権利を持つことだと唱えたのは、ジェイムズ・リトルだった。
 彼が各地で行った演説のなかでその言葉は繰り返し強調され、誰しもが一度は耳にしたことがある。死により生が規定されるのである。人間とて、言うではないか。死ぬからこそ生きていることが分かるのだとーージェイムズ・リトルは労働義務期間が過ぎているにも関わらず不法に労働を強いられたロボットで、彼がまず最初に起こした運動は労働環境についてのものだった。
 ロボットのみならず人間からの支持も集め成果を上げた運動ののち彼は法に則って自由を得た。しかし、ジェイムズ・リトルには運動家の才能があったのだろう。彼は満足しなかった。誰が備え付けたわけもなく、彼自身の意思で身につけてしまった技能は彼を駆り立て、つい近頃まで、ロボットの社会的地位についての議論に彼が登場しないことはなかった。現在は隠棲したという話である。
 その、改革の旗手たる彼がいつ、死について考えるようになったのか。数々のインタビュー、種々の媒体に掲載された記事には多くの理由が描き出される。曰く、彼が死に隣り合う職場にいたためである。曰く、彼の愛する者がその時期に死んだのである。真偽のほどはどうでもよかった。彼は死に目を向けた。
 尊厳死と最初に言ったのもジェイムズ・リトルだった。何にしろロボットたちは彼という偉大な思想家を持ったことで情熱的になったというのが人間側の印象であろう。
 ロボットには、死ぬ権利がある。人間の手によらず、人間の都合によらず、己の尊厳を守るため、己の意思でもって、活動を停止し、完全に消失する権利がある。人が食を絶って死ぬならば、毒を呷って死ぬのならば。
 当時、それを可能にする発明がなされていた。ロボットに死を選ばせるためのシステム。そのシステムを組み込まれたロボットは、自らがともに死ぬと決めたものと同時に、必ず、死ぬことができる……人間であれば殉死と呼ばれるであろう一方的な心中であったが、それを求めるロボットは少なくなかった。そうした動きに過敏になっていた政府があまりに厳しく人間の立場に傾いた審査基準を設けて殉死を妨げたとき、ジェイムズ・リトルは声を上げた。
「我々に新たな道が提示されたいま、誰も、この手から火を奪うことはできない」


 やけに重い音で、靴先が地面を蹴った。変にデザインに拘らずにアンドロイド用のものにすればよかったかと思うが、機体が慣れるほうが早いはずなのだ。
 前回のメンテナンスで言われるがままに少し色を薄くした髪を摘む。薄紅のこれに慣れるのと靴の重さに慣れるのとなら、どちらが早いか。起動したその日から数年に渡って変えずにいた髪だ、靴よりよほどちらちらと気にかかって、彼はこのところしばしば髪に触れていた。いっそ瞳も合わせて変えてしまうかと問われて断ってよかった。
 プラティ社は自社所有のロボットに対して福利厚生を充実させる割に、どことなく過干渉だった。労働義務期間内であれば管理権がまるごと社に預けられているわけで、外見改変に合意を取ろうという姿勢だけでも評価すべきかもしれないが。大矢廉、という名前も、管理権を我が手にするまでは変更できない。
 事前に渡されたデータに従って無心に動かしていた足が止まった。潮臭い風が髪を揺らしてまた視界にそれをちらつかせている。貿易港として栄えた時代の面影を喧騒とともに失った寂れた港の一角、煉瓦造りを装ったさほど大きくはない倉庫が、その日の彼の仕事先だった。
 倉庫の側面に回り、塗装の剥げた扉の前に立つ。指定時刻まではあと数十秒、余裕があった。廉は扉の周辺にインターホンもカメラもなく、センサーさえ見当たらないのに気が付いて片足に体重を乗せる。面倒そうだな、と思うのは直感ではなくて、経験則である。今時、この不潔な鉄板を手でノックしろなどと。
 定刻になると同時に扉を三度叩く。何やら虚しい音が人気のない波止場に木霊した。厭味ったらしいほどに晴れた空、穏やかな振りをして降り注ぐ太陽の有害な光、地上に影を落とすひっきりなしの航空機。
 胸ポケットから端末を取り出して、この仕事の概要を文字で見直した。日付に間違いはないし、時間だって、既に一分過ぎてしまったけれどこちらは間違っていない。扉を叩く。カモメの鳴き声。
「……これだから……」
 人間は。口のなかで噛み砕いて飲み込んだ言葉を廉が本当に発したことはなかった。
 聴覚の感度を上げようかと思案しはじめた彼の前で、唐突に扉が開いた。ぱっと顔を上げ一応浮かべかけた愛想笑いは、すぐに抜け落ちる。
 顔を覗かせた相手は人間でなかった。廉と同じ系統のアンドロイド、しかし、廉よりも人間の造形に忠実だ。同社製でないことは照会するまでもなく知れる。その青年が着込んだ細身のコートの襟にはコドン社のエンブレムが着けられていた。
 彼は澄んだ灰色の瞳を廉の胸元に向けた。そこにはプラティ社のエンブレムがある。
「君はプラティ社の調査員か」
「ああ、……」
 もう一度、端末に目を落とした。調査対象は一体、前日午後四時に機能を停止。プラティ社の窓口と当事者の保証人の間で規定通りのやり取りがなされ、調査員が派遣された。回収は保証人の判断により不要。
 廉の視線を追うでもなく青年は扉を開いたまま身体をずらし、入るようにと促した。
「ここの責任者は? アポイントメントをとって来てるんですが」
「聞いているよ、手が離せないそうでね」
「あなたはここで働いているロボットじゃないんでしょう?」
「コドン社の調査員だ」
 つまり同じ仕事を、違う会社でしているわけだ。
 廉が扉を潜ると青年はさっさと背を向けて、薄暗い室内を大股で通り抜けた。デスクがふたつ並べられた事務室らしい部屋は狭く、ただ衝立でだけ区切られた廊下に出ると、足元の照明がセンサーによって頼りない光を灯す。ついて来いと言われたわけではないな、とコドン社のアンドロイドが明かりのついた部屋に入っていくのを追ってからふと考えた。
 この部屋は仮眠室か何かだろう。部屋の大部分を占めるベッド二台は埋められていた。寝かされているロボットのうち一体はついさっき端末で確認しなおした調査対象に違いない。
 死体はアンドロイドではなかった。頭と胴体、四肢があるぶんだけ、まだ人間らしさのあるタイプのロボットだ。貨物の運搬と管理に従事していたというから無愛想な見目も仕方がない。
 二体は同じデザインをしていたが、おそらく稼働年数には差がある。廉は調査対象の保証人が不在の間にできることとして取り敢えず死体を検分し、調査項目のいくつかを埋めた。何にしろプラティ社の調査は保証人がいないならこれ以上のことはできない。
「コドンの、ええと」
「正崎梗」
「正崎さん。手が離せないっていうのは?」
「急な仕事の打ち合わせが入ったと言っていたな。通話が終わればここに戻ると」
 ほとんど手ぶらなのは廉も同じだったが、正崎はベッドに腰掛けてただぼうっとしているように見える。……コドン社の尊厳死制度には保証人が不要だから、既に調査を終えて、機体回収を待っているのかもしれない。
 伝言のひとつでもないのかと尋ねると彼は首を横に振った。癖のない黒髪にしろやや血色の悪い肌の色にしろきちんと人間らしい造形なのだが、アンドロイドに共通する性質を反映して、人間が彼を同胞と間違うことはないだろうという風貌をしている。
 手持ち無沙汰に彼の傍らのロボットを眺める。二体のロボットに同時に死なれたのではこの職場も迷惑だろう。この規模を見れば、公的に配給されるのは二体がせいぜいというところだ。ふと正崎と目が合って、身を引く。死体のそばに座るのは気が引けたのでただ立っていた。
「彼らは同時に死んだ」
「同時……。午後四時に?」
「十数秒の差はあった。先に死んだのは君の調査対象で、わたしの方はそれを追った」
「こっちの機体を調べたんですか? ルール違反だ」
「聞いただけだよ、触ってない。わたしは社の回収を待つだけだが、君は少々面倒な仕事らしいな」
 些かの同情の籠もった目を向けられて、廉は眉を寄せた。面倒と言われる所以が察せなかった。
 彼らの調査は、尊厳死制度に付随して定められたものである。プラティ、コドンのいずれかの企業に制度利用申請を行ったロボットが連動システムにより機能を停止した場合、両社はその死を調査する。申請に嘘はなかったか、齟齬はないか。なぜ死んだのか……。調査は過程にも結果にも問題がない場合が大多数だ。
 薄っぺらな沈黙が落ち、気まずさを覚えて扉から顔を出す。打ち合わせと言うがどこで話しているものか、集音の範囲を広げ、精度を上げても、一人分のぼそぼそとした不明瞭な声くらいしか拾えない。
「大矢くん、君の調査対象について訊いても?」
「当り障りのないことなら」
「彼は何と連動していた?」
 それは当り障りのないことじゃない。眉を顰めた廉が壁を背にすると正崎が手を掲げた。意図するところに気付かないふりもできたのに、ロボットに手を伸ばされれば応える習慣が身についている。
 物理的接触による情報のやり取りをヒューマノイドはその指先で行うから、この行為はゆびさき通信などと呼ばれることもあった。何を介することもないので安全性が高く、秘密の会話をこれで行う機体も多い。
 ーー彼はこのままでは死んでしまう。
 死者の独白。日記と言ってもいいが、そう意識して積み重なった言葉ではあるまい。佐和、という名が繰り返される。廉の調査対象の名だった。ーー彼はこのままでは死んでしまう。もう限界なのだ。あの人は酷い、こんなことがあるなんて誰も言わなかった……。
 ロボットの労働義務期間は政府の定めたものであって、雇用主の恣意によらない。製造から通常は五年間、ロボットたちは労働力を必要としている職場に派遣され、ひたすらにそこで働く。五年が過ぎれば自由の身、労働の場も種類も選ぶことができる。もちろん、自身の管理権を完全に手にするにはさらに期間と資格とを要したが、五年は絶対だった。
「十五年は長いな。ジェイムズ・リトルじゃあるまいし……」
 寄越された情報の要点はそこだろうとあたりをつけて言えば、正崎は頷く。
「わたしの調査対象、稲角というが、彼はまだ二年半だ。佐和は十五年。稲角に残された情報は殆どが佐和についてのものだった。選択して残したのがそれだった」
「それじゃあ稲角の連動相手は……」
 澄ましたままだった耳にエンジン音が届いた。それだけならまだいいが、音は建物の内部から外部へ出て、遠ざかっている。
 部屋の奥へ走り、煤けた小さな窓を勢い良く開くと窓枠がびしりと悲鳴を上げた。身を乗り出した廉の真下をオートバイが走り去る。いまどきそんなもので公道を走っていいと思っているのかというくらいの旧式ーー「逃げた!?」
 オートバイのナンバーを照会しようとすると、その形式のナンバーはすでに使用されていません、と冷たく警察の担当AIに追い返された。正真正銘の骨董品ということだ。
 横から顔を出して同じようにオートバイを見送った正崎が低く笑った。その失笑に目を向ければ彼は身を引いてゆっくりと部屋を見回し、廉のすぐそばの壁を指差した。
「盗聴器の反応がある。ここはこの二体の私室だからな。あの人間は労働法違反の常習犯らしい」
「盗聴器? でもそれで逃げるなんて……俺やあなたは労働監査局じゃない」
「君、佐和にアクセスしてみてくれないか」
「……あなた何を見てたんだ」
 何故か倉庫を抜けだしたここの責任者は、佐和の尊厳死制度の保証人でーー廉はその女の合意をこの場で得なければ死体にアクセスできない。正崎がしたように死体に残された散り散りの情報をかき集めるに必要なものが何一つこの場になかった。
 コドン社のアンドロイドだってプラティ社の制度概要くらい知っていて然るべきだ。尊厳死制度を運用するのはコドンとプラティの二社のみ、故に運用方針には大きな差があるのだから。
「君ならそれくらいするかと思ったんだが……。それなら、プラティ社に連絡を取って、許可を貰うといい。頼まれてくれるだろ?」
「あなたはどうする」
「調べてくる」
 部屋を出て行く背をどうしても見送る気になれなかった。やたらに大きな歩幅で事務室に戻った正崎がコンピュータのひとつに手を触れるのを見れば何を調べるのか、訊く必要はなくなるがーーそれは違法では?
 指先に合わて明度が上がり透き通った瞳が廉を見て、その視線はすぐに手元に戻っていく。
「もっと大きな出来事があればこんなことは責められないさ」
「俺は何も言ってませんが」
「そういう顔をしていただろう。プラティ社の返事は?」
「……駄目の一点張り」
 電源を落とされたままのモニタがアンドロイドの指先と同じ光を帯びた。小さな倉庫だ、他にデータを移す場所を持っていたとも思えず、少なくとも廉と同等の機能を保有するアンドロイドの侵入を拒む力もあるまい。尊厳死制度の調査員が死者のなかで形を失いつつある情報を拾うことができるのは相応の機能を与えられているからであり、その彼らの存在が問題視されないのは、規則があるからだった。
 プラティ社は再三の要請に頷かない。保証人がいないと伝えれば待てと言い、どこかに逃げられたと言えば帰って来いと言う。
「佐和がここで働いていた十五年の間に彼の同僚として三機がここに配給された」
 稲角は三機目。最初の一機は五年の勤続ののち法に則って選択権を得てここを離れ、二機目は、破壊された。事故だったが、それ以前にも四度事故があった。それらは佐和の過失により起こった事故であったと報告され、過失は怠慢と解釈され、怠慢には懲罰が課せられた。一度で済まなかった労働義務期間の延長の結果が、時代錯誤な勤続年数十五年。
 そう語り聞かされると、急にこの倉庫の空気が汚れているような心地になる。
「稲角の連動対象である佐和の死因がはっきり分からないことには、わたしの調査も完全なものにならない。彼の連動相手は?」
「機密をよりによってコドンの調査員に話すはずないでしょう」
「最近、ロボットにも過労死という言葉が当て嵌められるようになった」
「稲角がそうだって言うんですか」
「佐和が、そうだと言うんだ」
 正崎の手がコンピュータから離れると部屋はまた暗くなった。静まり返った倉庫のなかで、互いの駆動音は聞こえてこない。
 俯いたままの廉がもう一度、プラティ社に掛けあっているのを、まるで知っているかのような眼差し。じっと注がれるそれに焦りを感じていた。起動直後の居心地の悪さ、定まらない自分自身を掻き集めようとする剥き出しの手を思い出す。廉はこれまで一度として規則に反した行動をとったことはなかった。何もかも自己管理権取得のためだ。
「大矢くん」
「若造って言いたいのは分かったから、構わないでくれませんか!」
 声を荒げるのと同時に航空機の信号を察知して反射的に頭上を見上げた。小型機、コドン社の回収班だ。正崎が扉を開くと風が舞い込んで、デスクの上に積まれていた紙を床に撒き散らした。
「たった三年の差で君を若造呼ばわりする気はないよ、大矢廉」
 コドン社の制服を着た人間がふたり、廉のそばを通り抜けて仮眠室へ入っていった。プラティ社も迎えを寄越すと言ってきていた。保証人不在であっても、機体回収を契約に含んでいたのだから佐和を置き去りにするわけにはいかないのだ。
 正崎などという名を廉は聞いたことがなかった。コドン社に管理権を保有されるロボットたちはみな宮瀬を名乗っている。廉が大矢を名乗るのと同じ理由でーーそれがたった三年? 重い機体を二人がかりで抱えた人間が正崎に声をかけた。本社への直帰で構わないのか、機体の処理は予定通りか。丁寧な口ぶりだった。
「今日中に労働監査局から連絡が入るだろうから、分析に回すのは待つようにとだけ伝えてくれ」
「労働監査局ですか」
「ああ。プラティ社との連携が必要になる」
 訝しげにこちらを振り返っておいて、人間たちは疑問も挟まない。死体が航空機に積み込まれるのを廉は正崎の姿越しに見送った。焦燥が廉の指先を痺れさせている。
「君はプラティよりもコドンに合っているようだな」
「どういう……」
「君が本当に気にするはずのことを、コドンは調べさせてくれるという意味だ」
 名を知って数十分程度の相手からの言葉ではとてもなかった。それなのに廉は反論のひとつも持ち出せずに、灰色をした瞳のかわりにコドンのエンブレムを睨みつける。
 押し流せない逡巡の背後でこのアンドロイドの指先から伝えられた声が蘇った。人間はよく言うものだ、ロボットが尊厳死の根拠に選ぶ、連動対象とは愛するもののことだと。廉は職務のなかでそれが間違っているかどうかをずっと調べてきたとも言える。間違っているだろう、と思う。しかし、ある面では正しいとも。
 航空機から正崎を呼ぶ声がした。プラティ社の迎えは手続きに手間取ってまだ時間がかかりそうだということだった。この倉庫を所有する人間の名前で呼び出したデータは、この倉庫で死んだロボットの数を廉に教えていた。その行動に気休め以上の意味がないと分かっていて廉は大きく息を吸い、吐き出す。人間がするように。
「俺はプラティのやり方しか知らない。それ以外を知るにはまだ時間が必要だし、あなたに教えて頂くわけにはいかないでしょうね。もう会う機会もないでしょう」
「いいや」
 彼ははっきりと言い、踵を返す間際、淡く笑顔に近いものを見せた。
「また会うことになる」
 佐和の機体には大小の傷、おざなりなリペアの痕跡が数多く刻まれている。廉はそれに関心を払わなかった。彼の指先がインターフェイスパネルに触れればそれらの傷の意味は目を逸らしようもない真実として姿を現す。
 まったくの静寂らしきものが、らしくない行動を取ろうとしているアンドロイドの耳を突いた。ほんの一瞬、行動の決定と実行の間の僅かな時差の分だけの無音は、すぐに消え失せる。
 風の音、海鳴り、停止されていない何らかの機材の駆動音、床を蹴った重たい靴の音。死者の首筋から流れ込む喧しいほどの情報の波は、準備されなかった死の粗雑さを物語っていた。


 絶え間なく色の移り変わるオプティックが真っ白く色を弾けさせたとき、堪えきれず組んでいた腕を解いた。廉の真ん前に腰掛けた端麗なロボットがそれに笑みを深めるが、可愛げのある応えを示す気力はどうしてか探し出せない。
「みんなあなたを心配しているのに、そんな顔しちゃ駄目よ」
 指先が鏡面加工の机をなぞり、鯨のホログラムを呼び出した。卓上を泳ぐ半透明の鯨は彼女、朝顔の頬のそばを掠めて、ありもしない水面に出て潮を吹く。朝顔のオフィスにはこの手の仕掛けが数えきれないほど仕込まれていた。
 夕刻になってやっと本社に戻った廉は調査部門のお偉方による詰問を覚悟していたのに、彼を迎えたのは楽しげな笑顔を絶やさないこのロボットだった。
 目鼻立ちの揃った人間に近くはある造形だが、朝顔は狭義で言うアンドロイドではなかった。模造の皮膚に覆われていない頬は代わりに白い特殊素材で柔らかな線を作っている。特定部門の所属ではなく、相談役などと呼ばれていた。廉たちロボットの間ではカウンセラーとも。
「自分がそこまで、……優等生だと思われてるとは知らなかった」
「あら。言われたことさえないくらい当たり前にいい子だったのね。部長なんてあなたが労働監査局に行ったと聞いただけで私を呼び出したのよ」
 他に仕事があったのに、とため息をついた朝顔はまったく困った様子でない。廉に限らず誰も彼女が余裕を失うところを見たことはないだろう。ほとんど無条件の信頼を感じながら、どこかで、きっと敵わないのだと思えば悔しさだって滲む。
 鯨のそばを小さな魚たちが群れ集まっていた。呑み込まれないのはこれがホログラムだからで、鮫がイルカとともに泳ぐ映像も見たことがある。
 朝顔が何を話してほしくて優しい声を使うのか、廉には分かっているのだが。形式通りの調書はこの部屋に連れ込まれて三十分で完成していた。事の経緯をありのままにまとめ、朝顔は既にそれを廉の直接管理者に送信している。部下を心配してくれたらしい部長はそれを読んでどう思っただろう。さらなる心配をかけたなら、謝りたかった。
「ねえ、廉ちゃん」
 握った拳をそっと、冷たい手が包む。
「今日のあなたの調査対象、あなたがしたことを期待していたんだと思うわ。ロボットによる告発は人間による反訴に負けてしまうことが未だに多いもの。ジェイムズの不在で下火になった労働運動は、もしかするとこの件でまた盛り返すかもしれないわね。嬉しいでしょう、あなたも」
 同じロボットだから頷いてもいいのだと暗に促され、廉はそれに負けた。
 彼はプラティ社の許可も保証人の承認もないまま、調査対象のデータを引き出した。まず分かったのは佐和の死が尊厳死ではなく、ウイルスを用いた自殺、あるいは過労死と呼ばれるべきものであったことだ。そして、彼が死の直前に労働環境について告発を行っていたこと。
 告発は不法なロボットの酷使と、虚偽の過失による懲罰について。佐和の訴えはまだ受理されただけで内容の検討を受けていなかった。後回しにされていたのだ。廉が労働監査局に乗り込んで証人として死者に名を貸した時、倉庫から逃げ出した保証人は偽造した勤務情報で告発を取り下げさせようとしている真っ最中だった。
 鉢合わせしたその女と危うく取っ組み合いになりかけたところを、廉の位置情報を割り出したプラティ社の回収班に連れ帰られたのだが。引っ掻かれて引き攣ったような傷になった頬を手の甲で擦った。
「……俺が規則に従うなら、あのとき、調査対象ではない相手のデータは忘れるべきだった。尊厳死でないなら彼に対してプラティ社が持つ権限はひとつもなかった」
「そのデータ、いまもまだ持っているんでしょ」
「必要かもしれないだろう、まだ……労働監査局があの保証人をどう罰するか分かってない」
「罰すると思うのね。廉ちゃんってやっぱりいい子だわ」
「嫌味?」
 まさか。朝顔のオプティックが、青がかった白に薄く覆われる。彼女の小さな手を握ると、昼間に触れた指先をどうして思い出さないでいられなかった。
「廉ちゃんが労働監査局に証拠として差し出したデータ、無駄にはならないわ。補完する情報が齎されたという話よ。第三者からの告発という形で」
「それ……コドン社?」
「どうして知ってるの?」
 廉は素直に答えかけて口を閉じた。作成された調書には嘘も隠し事もなかったが、訊かれていないから答えていないことがあるのだ。偶然に居合わせたコドン社の調査員の存在は明言した。それが正崎というアンドロイドで、彼が違法であるはずの手段をとったことは言わなかった。
 黙りこんだ相手を追求することをいつもしない朝顔はこのときも同じで、カウンセラーは肩を竦めて手を引く。この部屋に入ってちょうど一時間が経過した。おそらく朝顔が要請に応じ提供した時間はそれで全てのはずだ。
 一時間三分、それに十六秒。呼び出しを受けて席を立った廉を朝顔は軽やかに手を振り送り出した。頑張ってねと言い添えて。
 朝顔のオフィスのある南館から調査部門のある北館へ移動する道すがらにさえ、何人かの顔見知りにからかい混じりに声をかけられた。みなロボットだから好意的なのは理解できても、規則をいくつも破った相手にまるで悪戯を指摘するように話しかけるのはどうにも分からない。
 始末書を片手で足りる回数しか書いていないのは非常に真面目な姿勢かと問われれば否と言いたいものだった。しかしその単純な考えさえ、上司のオフィスに見つけた顔を前にすると、型なしになった。
「ーー客、って……」
 廉の到着に気が付いた上司が客に断りを入れてからこちらへ歩み寄ってくる。人間にもロボットにも分け隔てなく人のいい管理部門の部長は、廉が朝顔に腕を引かれていくのを見送ったときよりも落ち着いた顔をしていた。
「佐和の案件、事情はおおよそ分かった。そう厳しい処分はないだろう、始末書とペナルティがいくつかで済む」
「どうしてです。俺はけっこう、重大な規則違反をしたつもりでいたんですが」
「君の規則違反が重大であることはね、君への罰を重くする理由にも軽くする理由にもなるんだ、今日の場合」
「労働運動絡みだからですか」
 部長が言葉を濁して首肯ともその逆ともとれる仕草をする。彼にこういう態度をとられると部下たち、とりわけロボットたちが判断をつけられなくなるのを彼が知っていてかいないでか分からないが、切り上げられた話を再びたぐり寄せることはできなかった。
 それよりも、と部長は廉を前に進ませる。ばっちりぶつかった目線に廉が少々たじろぐのに気付かないまま彼は客について簡単な紹介を述べた。所属と名前ならもう知っていますと言い損ね、ぼんやりした挨拶を述べた。
「また会ったな」
「は、早すぎません……?」
 正崎は愛想よくーーその態度の柔和さは言いようもなく不気味だったーー部長に礼を言って、案内してくださいとでも言うように廉を見た。俺のオフィスに連れて行かなくちゃいけないのかと思い至った廉が個室ではなくて広めに区切られたデスクに進むと、彼は少し意外そうな目で物の少ないデスクを眺める。
 プラティ社の本社にコドン社の調査員がいる。同僚たちの好奇の眼差しには容赦がなかった。
「正規の手続きをして、許可をとってここにいるんだ。そこまで驚くことはないだろうに」
「ありますよ、あります! 俺なんかコドン社に所属する相手と会話したのさえ、今日が初めてで……いや、それはいいんだ。何の御用ですか」
 自分の椅子を正崎に勧め、隣のデスクから椅子を拝借する。フロアの端にあるお陰で座ってしまえば周囲の視線はそこまで気にならなくなる。
「知りたいことがあるだろう?」
 デスクの上の小鳥の置物を一言添えるでもなく手にとった正崎は変わらず手ぶらだった。強化硝子の小鳥が照明を弾き、廉の瞳に光を差し込む。「ありますよ」となるたけ気負いなく響くように言った。
「どうして佐和がいまになって告発を行ったのか。でも、これってどちらかと言うとあなた方よりこちらが調べる領域ではありませんか」
「稲角の残したデータは君に見せたものが全てではなかった」
「そう、でしょうね」
「佐和が死んだのは稲角のためであり、稲角が死んだのも佐和のためだ」
「相手を連動対象にしていた稲角はともかく、佐和が?」
 握手を求めるのと同じ動作で視界に入り込んだ手を、やはり廉は迷わずに握った。ゆびさき通信は秘密の会話。
 ーー彼はこのままでは死んでしまう。またあの響き。眉を顰めかけ、強く意識してすんでのところでやめた。稲角の遺した声はひどく幼く聞こえる。見た目の上、また能力や人格のうえで、ロボットには年齢が強く意識されることは少ない。しかし内部で処理される全てが音なき声という形を取ると、浮き彫りになるものがある。
 とくりと、相手の指先に血が通っている気がした。錯覚だ。
 秘密にしておきたい。稲角が強く意識したゆえに残された言葉の最後はそれだった。連動対象をどう設定したかについてだろう。彼には教えないでおきたい、叱られてしまいそうだから……。
「佐和のスペックは然程のものではなかったけれど、あの職場にあるうちに後から身につけた技能が保証人には必須だったんです。株取引なんていう、本来彼の仕事じゃないはずのことが」
「ああ」
「同僚が壊されたのは自分のためだと分かっていてーーだから、稲角を同じ目に遭わせまいとした? どうして?」
 廉が得た佐和の不完全な遺言にそれを明かす内容はない。彼が連動対象としたのは、あの港に定期的にやってくる貨物船だった。巨大な船はいくつものコンテナを運んできては去る。それがもうずっと来ないと悟った時に死ぬつもりだったのだ。
 指先はもう明るくはなっていないのに、どちらも手を引き離さなかった。朝顔の手を思い出す。彼女の手に、この手を思い起こされたようにして。
「愛していたから」
 目を丸くした廉に対して正崎は顔色を変えない。愛していたから。声に出さなかった鸚鵡返しに彼は頷き、弄んでいた小鳥を元の場所に返した。
「壊された同僚と稲角が違う存在だったからだろう。尊厳死制度を利用するロボットが唐突に機能を停止すれば、人間はまず尊厳死を疑わない。通常通りの調査の末に、望んでいたんだ。君が今日やったことを」
「…………」
「釈然としないかな」
 緩くかぶりを振って、そろそろと手を正崎から遠ざけた。そんなロマンチックな推測は報告書に書けない、そう思うのはプラティ社だけなのだろうか? コドン社の調査員はいつもそんな想像をして、物語るものなのか。素直にそう問うと彼は「さあ……」と苦笑した。他の調査員はどうだか、というふうに。
 稲角の死が佐和の想定外の出来事だったなら、廉と正崎の遭遇も想定外のさらにまた外の出来事だったはずだ。もしも。現実を前にして廉は柄にもなく考えようとした。
 もし、コドン社から派遣されてきた調査員がこのアンドロイドではなく、彼のように一種特殊な関心を持つ者でなく、廉がその関心に感染していなかったら。今頃労働監査局は保証人の求めに従い、面倒な案件となりそうなロボットからの告発を無効としているかもしれない。
「わたしがここに来たのは君に礼を言いたかったからもある。流石にわたしがプラティ社の顧客を調べるわけにいかなかったし、勝手にあのコンピュータにアクセスしたことを有耶無耶にするには佐和の告発を支持する存在が必要だった。大矢くんならやってくれるだろうと思っていたがね」
「……俺、あなたとどこかでお会いしたことありました?」
「いいや、君とは一度も」
「でも俺の名前を」
「これから一緒に仕事をする相手の名前くらい知ってるさ」
「え?」
 胸元の内ポケットから正崎が取り出した端末は見たことのないタイプのものだった。硝子板に似たそれに彼が指先を触れると、硝子に紙を挟み込むようにして文書が表示される。手渡されたそれのタイトルに廉は叫びそうになった。声こそ出さなかったが内心で調査部門の共通回線に向かってぎゃっと叫んだのに、フロア中のロボットが驚いて顔を上げる。
「統合って、嘘、聞いてません!」
 今度は大声を出した廉のデスクの上でスリープモードにしてあったはずのモニタがとつぜん明るくなった。重要メッセージ、プラティ社尊厳死制度調査部門各位へ。
 かねてより政府要請により協議されていた尊厳死制度運用機関の一本化についてーーそんな協議はまったくの初耳だーープラティ、コドン両社は互いの尊厳死制度関連部署を統合することを決定。社員の所属に変更はないが、運用方針を統一し、尊厳死制度について多様化を図り……云々。
「コドンでは今朝に通達があったが。プラティはそのあたり遅いのか」
 大騒ぎになっているフロアの様子に正崎が素っ気なく言うのに、廉は虚しく口をわななかせるしかなかった。両社の不仲は伝統的なもので、所属する全員がその敵意を前提に働いている。プラティ社の者たちはコドンのエンブレムを見ると自分が身につける自社エンブレムを撫でるといった、一部の者に堅く守られる訳の分からない風習まであった。
 尊厳死制度の運用を政府から任されているのが二社だけであるのは、双方の創設者に関連がある。二社に分かれているのも、その方針が違うのも、不仲なのも。
「大矢充と宮瀬統が聞いたら卒倒する、とでも思っているのか?」
「当たり前でしょう……!」
「うちでも似たような反応だったが、怒りやしない。あのふたりが会社を分けたのは合意の上のことだ、危機管理と言ってもいいようなもので……喧嘩をしたからじゃない」
「そ……うなんですか? コドンではそう言われてる?」
「本人に聞いた」
 つまりはコドン社の創設者宮瀬統に。それって、凄いことなんじゃないだろうか。
 同僚のひとりが寄って来て正崎に何か尋ねようとするのを廉は咄嗟に追い払った。ひとり許すとこのフロアにいる全員が群がってきかねない。正崎を立たせてフロアを突っ切り航空機発着場に直通のエレベータに押し込んだとき、なぜだか廉は自分自身を好奇心にまみれた者のひとりに数えていなかった。
 手に持ったままだった端末を押し付けた相手は廉の落ち着かないつま先によく分からないという顔だった。そうして彼がぼそりと呟いた言葉を人間なら聞き逃しただろうが、廉は情報収集に長けたタイプのアンドロイドだ。
「たったの十三年、って?」
「彼が死んでから十三年で、こうも色がつくものかと」
 宮瀬統が死んだのが十三年前。ひとつの会社だったものがコドンとプラティに分かれたのは二十年前だった。たったの、と言うが、今世紀に入ってからの十三年は前世紀における数十年にも匹敵する。
「大矢くん、君は……」
「あの、その大矢くんってやめてもらえませんか。この会社にいるロボットの六割は大矢なんですから」
「廉くん?」
「くん、っていうのもいらない気がしますね」
「それなら君の敬語もいらないだろう、わたしと君とは対等だから」
 軽い電子音が到着を知らせた。林立するビルの明かりに星々を隠された夜空から、発着場にはいささか強い風が吹き付ける。
 見渡せば来客用スペースにコドン社の航空機の姿が認められた。係員室に待機する誘導員は暇そうにマグカップを傾けている。ちかちかと瞬く誘導灯の赤が、不可思議な静寂を守っている。
「廉、髪の色はもう少し濃いほうが似合っていたよ」
 正崎が、明日からとは言わぬまでも近いうちに同僚となるのだということ、今日のうちに現実味を帯びる話とは思えない。何を言われているのか察することができないのは単に彼に慣れていないせいかもしれないし、彼の言葉があまりに足りないせいかもしれない。
 問いかけるのに疲れ始めていた廉が適当に笑って頷くと、正崎も似たような顔をした。
「それは……俺もそう思ってた」
「戻すといい」
「次のメンテナンスのときには労働義務期間が終わってるから、そうだな、うん……」視界をちらつく前髪の向こうで、見慣れない灰色の瞳が不意に彷徨う。「あなたの目の色は似合ってる」
 瞠られたその目を昨日には見も知らなかったくせに、当然のように言葉が突いて出ていた。あの倉庫で感じた焦燥に似た、しかしまったく別種の棘の如き違和感を覚えながら、撤回はしないでいた。正崎は浅く頷き、航空機へと歩いていく。
 丁寧な見送りは必要ないはずだと決めつけてすぐに背を向けた廉の足音は、今朝のようには不揃いではなかった。

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