父親とまったく同じ色をした瞳が、父親が浮かべないおずおずとした様子で揺れていた。陽の光に輝くさらさらとした髪にしろ、幼いながらに整ったその顔立ちにしろ、見事に父親に似たその子は、自分を前に押し出そうとする母親の裾に縋って離れない。
不在の間に生まれた次男を抱くより先に、およそ三年ぶりに再会した長男を腕に抱くつもりだったスキピオは、哀れにもその子と目が合わない時点で察していた。彼の後方でその様子を見ていたラエリウスも、ああこれはと分かってしまった。いまこういう親子があちこちにいるのだろうが、これほど周囲の注目を浴びながらこの事態に直面する父親は、腕を広げかけた中途半端な格好で固まったスキピオくらいのものだろう。
ヒスパニアからローマに帰還したこの男の周囲には追い払っても追い払いきれない市民が集まり、彼を出迎えに屋敷からマルスの野に出た妻子も似たような状態だった。
そうして視線を集めること自体には慣れているらしい男の子が、母と乳母を見上げ、叔父までも見上げ、最後にやっとスキピオを見た。その子は既に子供用のトガを身につける齢になっていた。
「だれ……?」
周囲を囲むスキピオの友人や部下たち、親類、あるいはなんの縁もない野次馬たちが、笑い混じりに嘆きの声を上げる。芝居めいた空気に戸惑う子供の前にスキピオが膝をついた。
「プブリウス、この方があなたのお父様ですよ」
ようやっと夫に助け舟を出したアエミリアの顔にはまったく憐れみや気まずさがない。笑っているようにさえ見えた。彼女の弟も似たような表情を浮かべ、ラエリウスからは見えないスキピオの顔を見下ろしている。
「お父様?」
スキピオが頷く。
「……ほんとに?」
「君にこんなに似てるのは僕以外いない筈だからね、プブリウス」
「…………」
プブリウスが思案する間に、乳母の手を振り解いたルキウスが彼らのそばに進み出た。どちらかと言えば母親に似た次男は父親によって大地から抱き上げられてさえいない。
「兄さま、お父さまなんでしょ?」
「ん、うん……」
「お父さまなら、だっこは?」
してくれないの、と幼くふわふわした発音で言って、ルキウスは父と兄を見比べた。父親の不在の間に、この兄弟が一体どんなやり取りをして過ごしたものか、それで僅かに分かった。
ラエリウスと、笑いを堪えるアエミリアには、その言葉でスキピオの肩が揺れるのがはっきり見えた。この子たちを抱きしめたくて堪らず、しかしその強引さが決定的な溝を刻むことを恐れて、誰も見たことのない臆病さで待っている──彼の従者はスキピオが妻子のために用意した土産を抱えてその様子を見守っていた。
「お父様」意を決してプブリウスが父の腕に触れる。「おかえりなさい」
「──うん、ただいま。プブリウス、ルキウス」
今度こそ広げた腕に迎え入れた子供たちを、スキピオは二人まとめて抱き上げた。ルキウスはきゃあと歓声を上げ、抱かれた腕か何かに思い出すものがあったのか、プブリウスはもう訝しむことなく父の首に腕を回した。
その様子に涙ぐむ者までいたが、ラエリウスはその時点でこの親子がまたすぐに別れるのを知っていたし、次はルキウスが忘れる番ではないかと思った。たくさんの者たちに囲まれたまま市内に入ったスキピオがそんなこと思いもよらないという顔で子供たちに接するのを、こいつは誰に対してもこうなのだとも。
「で、これだけはないなと思った」
その光景は二十年も前にあったことだが鮮やかに思い出せる。口を挟まずに話を聞いていたスキピオが、一拍おいて背凭れから背を浮かした。
「何? 感動的な思い出話じゃなかったのか、今の」
「子供に顔を忘れられてベソかくのだけはナシだろ。俺はそういう父親にはなりたくないと思ったね」
「ぎりぎり泣いてなかった」
「アエミリアは泣いてたって言ってた」
「涙目になるのを泣くとは言わない」
大体目が潤んだのは子供たちの成長した姿に感極まったからだし、などとぶつくさ言ったスキピオが、ころりと表情を変えて手を振る。その視線の先には中庭で戯れるスキピオの娘たちがいた。
あの戦中に生まれた息子たちと違い、ふたりのコルネリアはスキピオの凱旋式の後に生まれた。それでもその幼い時分には父親が不在のことが多く、よちよち歩きで姉の後を追いかけている末のコルネリアはスキピオがアシアに出向いている間に生まれたのだ。
まあ珍しいことではない、と似たような親子の例を思い出そうとスキピオが腕を組む。
「パウルスだってクィントゥスが生まれるのにぎりぎりだったじゃないか」
「ぎりぎりなのはいいだろ、間に合ってるんだから」
「結局君は自分が子供のそばを離れないで済んでるのを自慢してるわけだな」
運のいい奴めと笑ったスキピオがまたふいと視線を移した。回廊の右方に姿を見せたルキウス、というよりも彼が腕に抱えているものに気を取られたらしかった。ラエリウスも気がつくと同時に手にしていた杯を卓に置く。
ルキウスは時折腕を揺らしながらゆっくり回廊を歩いて、父とその友人のそばに立った。思い出の中の姿と比べるとしみじみしてしまうほど成長した青年はラエリウスにおくるみを差し出す。
「おじさん、ほら」
受け取った赤子はすやすや眠っていた。抱く腕が変わっても起きないのにスキピオは感心していたが、別に父親に慣れているというのではなく家中の誰が抱いても泣かない子なのだ。
乳母はどうした、と訊くつもりで顔を上げると、ルキウスが目を眇めてみせる。
「たまにはそうしてたら。慣れないと危なっかしくてそのうち抱かせてもらえなくなるよ」
途中からルキウスが父親の方を見たのでラエリウスは大人しく従うことにし、先月生まれた息子の顔を覗き込む。そもそもこの日スキピオを訪ねたのはアエミリアに招かれたからで、アエミリアは客人を迎えるなりさっさと妻を連れて行ってしまった。気晴らしをさせてやれということだろう。
奴隷が椅子をひとつ増やしたのでルキウスはそこに落ち着く。
「ルキウスはスキピオが帰ってきた時覚えてたか? この顔」
「さあ、顔は覚えてなかっただろうけど。兄上に似てるから分かったんじゃないかな」
「そうだったの?」
少しばかり傷ついた様子の父親に、大体それどころではなかったのだとルキウスは続けた。カルタゴに勝利し帰国した父親は華々しく凱旋式を挙行し、成人していなかったプブリウスとルキウスは凱旋将軍の戦車に同乗した。
「あの時俺は熱出してて、でも寝かせとくわけにいかないからって戦車に乗せられただろ。転がり落ちたら最悪だからって兄上は母上に弟を見てろって言われて……」
「そうだったっけ……?」
「兄上の顔ばっかり見えて父上のことはあんまり印象にない」
「そうなの?」
お前が傷ついた顔をしている場合か──そう言いかけたのを止して、ふにゃふにゃと身動ぐ赤子を抱え直した。起き抜けに泣くのではと身構えた父の不安なぞ知らず、ガイウスは両手をおくるみから出してやはりふにゃふにゃしている。その小さな手に指を差し出すとしっかり握った。
「可愛いだろ?」
当たり前に可愛いので揶揄う声音などまったく気にならない。やや遅くに妻を得て、その妻がすぐに与えてくれたのが息子だった。それで自分に抱かれるのを嫌がらないのだから可愛いに決まっていた。
「長生きしなくちゃね」
他人事のように、あるいは心底他人事としてそんなことを言う。ルキウスと目を見合わせたラエリウスは赤子の頬に触れるスキピオの頭を押し退け、中庭の方を向かせた。ちょうどコルネリア・ミノルがこちらを見ていたところ、摘んだ花を手にしたまま駆け寄ってくる。
駆ける勢いのまま父の膝にしがみつき、よじのぼる末娘は、こうして自分のそばにいる父親しか知らなかった。妹を追いかけてきたコルネリアも、帰らないのではと不安を抱えて待つ不在を知らない。
痩せた腕をそういうものとしか思わない娘にスキピオは昔の話をしなかった。もっと格好よかった頃などという格好のつかない話を聞かせないまま、ずっとこうして過ごすのだと信じさせている。自分を忘れていた子供をやっと抱けた時のように、スキピオはずっと小さな頭に頬を寄せていた。