top of page

「だってあいつ嘘つきなんだよ」
 ひとりがそう言う。するとみんなして頷いて、あいつはでたらめばかり言うんだ、とどうしてか羨むような口ぶりをした。ガイウスだけはどうしてそんなことを言うのか知らないから首を傾げていると、次々にその証拠を言い立てようとする。どれも同じようなことだった。
 神様の声を聞いているだとか大人は言うけれどそんなはずはないとか。ぜんぜん知らない言葉で話すときがあるのだとか。賢いと言われているしそんな顔でいるけれどもぼんやりしているばかりじゃないかとか。嘘つきというにはなにか違わないかと言っても、誰もそうかもしれないとは言わなかった。
「じゃあ、いじわるなのかよ、あいつ」
「そうじゃないけど」
「でも貴族だから」
「そう、長男だし」
「そもそもあんまり遊ぶんじゃないって言われてる」
「怪我させたら、ってさ」
 なんてくだらない。
 子供たちが寄り集まって小難しい顔で話し込んでいるのを大人たちは軽く目を向けるだけで素通りしていく。道端に座り込むのなんて日常茶飯事だし、彼らはよくいたずらをしてお叱りを受けるが、数日前に市場でこっぴどく絞られたばかりだからおとなしくするつもりだった。石蹴りだとか影踏みだとかいろいろと遊びようはあるけれどもなんだか飽きがきて、だらだらと話すうちにひとりのことについて話題が流れていったのだ。
 ガイウスは、その子のことをそう詳しくは知らない。ごくふつうのラテン市民、フォルムで演台に上がる者を見上げて好き勝手言う側の人々のうちに生まれたから、演壇に上がる側である貴族の子供と縁はない。
 友人たちだってそうだ。ほんとうに一緒に遊んだとか、嘘をつかれたとか、気に入らないことをされたとか、そんなことはひとつもない。だが大人たちはみんなその子のことを知っていた。きれいな子だ、俗っぽいところがない、ほんとうにきれいな子だと。
「夜になると神殿に行くんだって」
 そう言った痩せぎすの男の子は素直に気味が悪いという顔をして、眉を寄せたままのガイウスに顔を向ける。
「それで、みんな神様とお話ししてると思うらしいんだ。本当はどうだか分からないんだけど」
「確かめてきてやろうか」
「ええ?」
「だからさ、そいつに話しかけて、何やってるんだって聞いてきてやるよ」
 それで済むだろう、とガイウスは思う。なぜ一様に戸惑われるのかよく分からない。
 やめておけと言われたかもしれないがガイウスはひとりで勝手に決めてしまった。その晩、息子はいつもの時間に寝静まったとばかり思って寝台を覗きもしない両親の目を盗んで、ガイウスは家を抜けだした。件の男の子はユピテルの元へ行くのだと言う。
 月が出ていた。雲はなかった。星々も爛々と輝き、この夜更けまで宴会をするような者は少なかった。浮浪者だとか呑んだくれだとかに遭遇するかもしれないという心配は杞憂に終わりそうだと、丘の上の神殿を大きな影として見つけてガイウスはひとりごちる。彼はいない、まだなのだろうかーーなぜだか忍び足になっていたことに気が付く。大人に見つかればどうなるかという心配はあまりしていなかったのに、息遣いさえうるさいという気になっていた。
「ねえ」
 わっと声を上げずに済んだのもそういう心持ちだったからだろうか。しかし心臓は止まりそうになったしぞっと総毛立った、どこから声をかけられたのだか咄嗟には分からなかった。
「ねえ、きみ、なにしてるの」
「……おまえに、言われたくない……」
 月明かりのもとで柔らかな金髪が光っているように見えた。明るい色の目をじっとガイウスに注いでいる子供は確かに、きれいな子だった。泥だの汗だのに塗れて走り回る平民の子供とは違う。
 スキピオ家の跡取り息子は、こいつはばかなんだろうかとガイウスが思うほどの間きょとんとしていたが、ふいに笑った。短衣と首に下げるブッラだけの姿はどちらも同じだった。
「神殿に行くんだ」
「知ってる」
「そうなんだ?」
「……何しに行くんだ」
「知ってるんでしょ?」
 足音を忍ばせるでもなく、子供は……プブリウスはガイウスを追い越して歩いて行く。ガイウスはこの子の名前を知っていた。父親に連れられて歩く姿を見たことがあり、昼間のように他人の口伝いに噂を聞いた。
 プブリウスは子供たちが決して近づこうとしない獰猛な犬の前を躊躇いもなく、その鼻息が足にかかりそうな距離で通り過ぎて行く。犬は吠えなかったし、ましてやプブリウスに襲いかかったりしなかった。瞼さえおろしたまま。ガイウスは躊躇い、立っている。「きみは何をしてるの」とプブリウスが少し遠くから聞いたので、答える代わりに思い切って背を追ったーー犬はけたたましく吠え立てた。
 目を丸くするプブリウスの手を引いてさっさと犬の紐の伸びきる距離まで走る。プブリウスが歩くぶんには獣は彼を見逃すし、道は、しんとしている。誰の話し声もなく、どんな物音もなく。
「きみ、名前はなあに」
「ガイウス。ガイウス・ラエリウス」
「僕の名前を知ってる?」
「……知らない」
「プブリウスっていうんだ。プブリウス・コルネリウス・スキピオ」
 父上と同じ名前だよと笑う。衒いなく笑う。意味がひとつもない嘘をついたガイウスは笑い返せなかった。握ったままのプブリウスの手は女の子のようだった、鍬を握らないのだろうか。
「弟がね」
「え? ……うん」
「弟のルキウスがね、ずっと熱を出していて、父上も母上も心配していて。僕も心配なんだ。ルキウスは生まれた時から病気ばかりしているから。僕もあんまり、丈夫じゃないけど、大人になったらうんと丈夫になるだろうってお医者様は言うよ」
 神殿は、大きい。閉ざされた扉の前に子供たちは立ち尽くしていた。ガイウスにはユピテルに用件がなく、けれどもプブリウスはさっさと階段を上っていって、扉の前に膝をつく。それを追ったのはなぜだったか、プブリウスのうなじばかり見ていて、ガイウスは扉さえ見ていなかった。
「丈夫にするならルキウスを丈夫にしてくださいって」
「お願いしてるのか」
「僕をお守りくださるのなら、僕の弟も守ってくださいって、お願いする」
 こんなことじゃないか。ガイウスは、たしかにきれいな子が驚くほどきれいに笑って、けれども眉を少し下げているのを見て、馬鹿らしくなった。大人も子供もなんにも知らないで好き勝手言って、挙句ガイウスなどおかしな好奇心を働かせて見物に来ている。プブリウスが跪いたままで目を閉じると、ガイウスも揃って目を閉じた。
 しばらくして目を開けると、プブリウスのほうが先にそうしていたらしい。大きな目がガイウスを見上げて、やっぱり笑った。ありがとうとその子は言った。それだけのことだった。

bottom of page