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 草を引くと、強く根を張っているからだろう、ぶちぶちと中途で切れて、みっともなくなるばかりだった。傍らで黙々と父を真似る娘たちのほうがよほど手馴れていたし、彼女らもそれを知っていて、何度か「お父さま、お父さまはお水を汲んできて」と厄介払いをするように言った。
 幼い日には自分もこのようにして父や伯父とともに、従兄弟などとも一緒になって畑いじりをした気がする。子供の頃のことはそこにいた人々の多くと同じで、ひどく遠い。スキピオが水を汲んでくるでもなければ引きちぎった草をきちんと引き直すでもなく日陰に歩いて行くのを、娘たちはなんにも言わない。ふたりのコルネリアは母が戻りなさいと言うまで日差しの下で土をいじるのが常だった。
 土の入り込んだ爪や、土が乾いてかさついた関節を撫でて、それを厭う気持ちがどこにもないのを知った。何度目かの確認だったが、何度でも確かめておかないと、嫌なのではないかと疑わしくなる。
 若い頃から何かと忙しくしていて、国外にあることも多く、妻子を邸に置いて軍を引き回していたから、スキピオは畑仕事と縁遠かった。彼は裕福だったし、それに、暇を持て余すことを憶えていた。戦争が終わり平穏な時間を得てからも、人伝に手に入れた書籍を開くだとか、友人と話をするだとか、楽しいことがたくさんあるのを彼は知っていた。それをだらしがないと言う人は多かったが、そういう人々には、そういう人々が楽しむ時間があるのだろうと思っていた。自分が耕した畑を本当に愛している男を知っている。きらびやかでない何もかもを慈しみ、眩しさを欲しない人々を。それだってべつに嫌とは思わない。
 生まれ育った邸からとつぜん離れ、田舎に引っ込んだ父についてきた娘たちは、これから土を返していかなくてはいけない畑を前に笑ったのだ。嬉しそうに、父と母とを振り仰いだ。
「ねえ、お父さま、ごらんになって!」
 遅くに生まれた小さなコルネリアが駆け寄って手のひらを突き出すのを、もう慣れたから驚かないが顔を寄せるでもなくスキピオは頷いて迎えてやる。大きなミミズがいると父に見せに来るのは、母と姉に嫌がられるから、仕方なくだった。手の中でのたくるミミズは確かに大きいがそれでどうしてそんなに嬉しいのかはよく分からなくなってしまった。
「あんまり遊んでやるとかわいそうだろう」
「だから、少しだけよ。お父さまに見せてあげなくちゃいけなかったもの」
「ミミズは好きじゃないかなあ」
「じゃあお父さま、何ならお好き?」
 木陰に座り込むスキピオの膝にそれが当然というふうに座ってコルネリアは姉を呼ぶ。まじめに手ばかり動かしていた姉が歩いてくるとすぐにミミズをどこかに放り投げた。近頃はいろいろな習い事に忙しい姉が構ってくれるのが嬉しいから、コルネリアは姉にいたずらをけしかけたりはしない。
「お父さま、未だ少ししか作業が済んでいないわ。お疲れになったの?」
「少しね」
「無理をなさってはいけないのよ。最近はお元気そうだけれど、でも……無理をしちゃいけないんだっておっしゃっていたもの」
「それは、ナシカの倅がそう言ったのかい」
「みんなよ」
 顔を赤らめてそっぽを向く娘がもう埋まってしまっている膝をちらと見てから、自分は父のすぐとなりに腰を下ろす。
 土に汚れた手だというのに互いに構いもしないで、スキピオは娘の頭を撫でたし、娘たちはスキピオの腕に細い腕をからめた。もうじきに婚約者のもとに嫁していってしまう上の娘が、このごろになって父母に甘えることが多くなった。妹は姉がそばからいなくなることを分かっていないから平気そうにしているが、その時が来たらどんなふうに宥めればいいだろうと、アエミリアはいまから心配しきっている。
「僕は馬が好きだな」
 脈絡なく言った父に姉はきょとんとして、妹は眉を寄せた。
「お馬さん? でも、お父さまは乗れないのではないの」
「そんなはずないじゃない、コルネリア」
「わたし見たことないもの」
「大人の男ならみんな乗れるさ、ナシカもグラックスも乗れる。僕も得意だった」
 ずっと乗っていた馬は、老いて戦場では駆けられなくなって、本当に衰えるまえに子をつくって死んだ。寂しかったけれどもどこかに置いてくるようなことをせずに済んだからかわいそうとは思わない。
 それはそうだと頷いた妹がそれでも不思議そうにしているのを、どうにも気の毒そうな顔で姉は見ている。ふたりの兄とこの姉とは、末のコルネリアだけがなんにも知らないからいつも気が引けるということを言う。年長の子供たちは、父がどのような存在であるかを言葉ではなく目で見て知っていた。
 父の腕が痩せたことだとか、彼女らの婚約者たちと比べるとどうにも頼りない風情でふらふらしていることだとか、この田舎に住むことになったことだとか、幼いコルネリアは何も不思議がらなかった。なにせ彼女が生まれたのは、スキピオが自分の弟と親友とが執政官になったのを見届けた年のことだ。この子だけが父の戦車にともに乗っていないのだった。
「お父さまは凱旋式を挙げられたことがあるのよ。それはほんとうに素晴らしかった。お兄さまや、パウルスおじさま、ラエリウスさまにお話してって言ってみなさい。みんなたくさん教えてくれるわ」
「わたし、それ聞いたことあるのじゃないかな」
「あるでしょうね、おばかさん」
 誰よりも賢い妹をそう呼んで微笑む、少女の優しい顔は母親によく似ていた。
「わたしもお父さまの格好いいところ見てみたい」
 コルネリアがそう言って見上げた父は、うんともいやとも言わないで、彼女らに笑ってやった。それは半病人の力の籠らない、優しいだけの顔だ。そんなふうに惜しまれるようなことはなにもないのだと思っていたけれども、そんなこと、言ったところで仕方がない。スキピオは娘たちが天衣無縫な子供でいられる時間を、できるだけ長くとっておきたかった。
 家族みんなで世話しようと言った畑は結局、友人たちや奴隷たちの口出し手出しがなくてはどうにもならなかった。それでもよかったのだ。スキピオはどこに行ったところで、何ができないところで、彼以外のものにはなれないままだったから。

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