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 長い髪だった。彼の民族が持つ文化のひとつとして伸ばされ、三つ編みにされた髪は半ばからさらしか何かで縛られ、細長く、背のあたりを泳いでいる。
 ローマにも長髪は珍しくないし、これからはスキピオのせいで、あるいはおかげで減るのだろうが髭を蓄える者もいることはいる。だがこうまでも長く伸ばすのは女性のすることのようにどうしても思われた。髪を伸ばすのは何も彼ら、ヌミディア人だけでなく、ガリア人などもそうである。それを物珍しく思うのはこちらの勝手でしかないが。
「……何だ」
 はっしと髪を掴まれて、スキピオの前を通り過ぎようとしていたマシニッサが怪訝そうなのを隠さないで相手を見た。椅子に腰掛けたスキピオは彼を見上げる形になるが、「長いよね」と見てわかることを言ったきり髪に触れている。
 意図が分からないから、驚いたから、されるがままにされているのではない。マシニッサはこのローマの将軍が時折意味のない行動に出て周囲を戸惑わせたり、和ませたりすることをもう知っていて、諦めていた。ローマ人の特質ではないことは彼の友であり副官であるラエリウスに話を聞いたことでもある。スキピオは変わっている、良くも悪くも。それが少年の頃からの友人の評だとスキピオは知らない。
「小さなころからこうやって伸ばしているの」
「ああ。……それがどうした」
「面倒じゃない?」
「特にそうは思わない。そなたらの市民服に比べれば煩わしくはなかろう」
「はは、言えてる」
 トガは正装として重んじられる衣装ではあるが、動きづらいし、着るのも人手を要して、あれを好む市民などいないとみんな思っていた。
 ヌミディアの王となった年頃の近い男の、やや険のある視線を受けながら、スキピオは好き勝手に髪を弄っている。彼を王にしたのは実質的にはスキピオであり、ヌミディアは少なくともこの王のいる間、そしてその記憶の続く間、ローマと友好的であり続ける。ならばマシニッサはスキピオに臣下の礼をとるべきところをそうしていないのは、あくまでも友人だというスキピオの言い分によった。勝手なものだ、勝手ばかりだ。
 相手がそのように、自分を前にしたときには考えずにはいられないことを頭のなかで掻き回しているのをスキピオは察していたが。それよりもいまは髪が気になる。
 軍団の陣地のなか、スキピオの幕営は中心に据えられ、当然ながら司令官の居所であるので他の兵士たちの幕営よりも居心地はいい。暇があるとそこに籠っている将軍について神秘的な何かしらが行われていると純朴に信じる兵士も多いというのに、実際のところ、ただ単につまらなそうな顔を他者に見せないためでしかないことのほうが多かった。カルタゴとの講和について考えることは山積し、本当にこの講和が叶うのか、心配事は絶えないはずなのにつまらなそうな顔ばかりすることについて、マシニッサは戦いたいのだろうと思っている。きっとその推測は間違っていない。この男が本当にこの戦争を終わらせるためにしたいことは、ヌミディアの王のひとりを捕らえることなどではないだろうと。
「解いてみてもいいかな」
「は?」
「いい? だめなら我慢するよ」
「……構わない、が」
 スキピオにやや背を向けたまま、おかしな体勢でいつづけるのがさすがにつらくなってきた。そのマシニッサの顔を見てスキピオは一度髪から手を離し、手近な椅子を持って来てマシニッサを座らせる。
 こういう光景をいつか、見たことがある、とどちらも思った。何故か抵抗する気が失せてされるがままのマシニッサの髪を縛る布を器用に外していくスキピオは何やら適当なことを喋っていたが、はっきりと発音されず速すぎるラテン語は聞き取れなかった。
「わあ、癖がついてる。元々は真っ直ぐだよね? 前髪とか、巻き毛じゃないし」
「ああ……」
 三つ編みまで崩されて、これを元通りにするのはマシニッサではなく彼の従者であることだとか、そういうことはスキピオは気にかけなかった。髪に指を通して何が楽しいのか、見てもいないのにこのつくりばかりは美しい男の顔が笑んでいるのだろうと思ってやりきれない。
 こういう光景を。いつか見たのではなかった。同じことをされたことがずっと前にあったのだ。それを思い出してマシニッサは苦々しささえ思い出した。こうして髪に触れたがったのはかつて、幼い少女の手であり、同じように編んだ髪を解いて、同じように、癖がついていると言って笑った。そのときにはこんなふうに戸惑ってはいなかっただろう。嬉しかったのではないか。
「ソフォニスバが」
 スキピオが手を止める。息まで止まったかと思われたが、「彼女が?」とスキピオは続けた。
「ちょうど同じように、俺の髪に触れたことがあった」
「へえ」
「カルタゴで様々な国の者を見ているのではないかと言ったが、屋敷から出ることが少ないから、ヌミディア人は初めてなのだと」
「そうなんだ」
 彼女の笑顔は貴族の娘のそれとしては、おおらかで、はっきりとしたものだったように思う。最期にも笑っていたと言った甥は泣いていた。スキピオが不意に髪を強く引き、首を反らせたマシニッサが振り返ろうとすると力を抜く。
 意外と綺麗な髪だ、と彼は言った。声も快いのだと初めて言葉をかわしたときから感じている、この男の持つものはみな好ましいのだが、結局のところこの男を好きにはなれそうにないとマシニッサは悟っていて、それを隠す努力をしなかった。スキピオも似たようなものだからだ。
 スキピオはいくらかの間、少し波打つ髪を見つめていた。そのとき未だ青年と言ってもいいこの将軍が唇を噛み締めたことだとか、それが自分が死に追いやった人間への哀悼ではなく目の前の男との間にある隔絶に対するもどかしさにあることを余人が知ることはない。スキピオとて上手くそれを把握しているとは言えない。
「編み直すよ、ごめんね」
「何を謝っている」
「これを女性に対してやっていたら、告発されかねないと思って」
 マシニッサの失笑は大した刺もなく、受け流されて、それからスキピオは公的な彼として口にすべきことばかりを話した。王、と彼が呼びかける、その声の親しさは、マシニッサが彼に王とされたときから何も変わっていなかった。

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