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 顔はまだ青白かったが、スキピオはラエリウスの姿を認めてすぐに微笑んだ。寝台に身を起こしている彼の手元にはいくつかの報告書が広げられ、まともな休養はやはり望めないものかと、ラエリウスはすこし心配にもなる。
「ここに来る途中に大勢に呼び止められたぜ、将軍が死んだんじゃないかって」
「ちゃんと生きてるって言っておいてくれたろうね」
「そりゃ、もちろん。でも遠方だといちいち言い含めてやれないんだよなあ」
 椅子を引っ張ってきて腰掛け、スキピオの膝の上から報告書をひとつ取り上げる。スクロに駐屯する軍内で上官への命令不履行が発生しており、これは反乱に発展するだろうということだった。
 スキピオはあまり深刻な風ではなくて、彼がとつぜん倒れたときには慌てふためいたラエリウスもその様子を見ていると然程の心配は必要ない気がしてくる。いや、生まれつきそう頑健とも言えないこの友人が重責と過労によるものか病を発して臥せったということが、いまや大きな意味を持つことのほうが大切なのだ。医者が死ぬかもしれないとラエリウスやスキピオの弟にだけ言ったことは、当人には伝えていなかった。峠を越えてしまえばそれもどうでもよいことだ。
「明日には動ける、すぐにスクロに向かわなくては」
「うん、そうだな……」
「なんだい、心配してくれてるって感じでもないのに、浮かない顔だ」
「心配くらいしてるさ」
 カルタゴ・ノワの宮殿は、バルカ家の女婿が建てさせたものである。スキピオが使っているこの部屋が本当は誰のものなのか、知っている者は探せばいるだろうが、探すほどのことではなかった。
「蛇が……」
 ラエリウスも疲れている。怒涛の勢いで時間が過ぎ去り物事が動き、スキピオが倒れるまで、立ち止まるときがいつなのか分からなかった。いまだって動けない司令官のかわりにあちこち走り回って、そんな身分なのかも怪しいくせにあれこれと命令を出しまくっている。
「さっき厩の近くに蛇がいて……それで、懐かしいなって」
「なんで蛇が懐かしいの」
 大切な用事があるわけでもないのに訪れた友人がただ気を安めにきたのだとスキピオは分かって、軽く首を傾ぐ。
「昔、お前の家に遊びに行くとお前の母上が悲鳴を上げるもんだから、びっくりして俺は寝室に入っちゃったんだよ」
「狼藉者だな」
「そしたらでっかい蛇が奥さまの足元でとぐろを巻いてて、ああこんなもんでびっくりするのか、貴族様だなあって思ってさ、掴んで外に放り投げたんだけど。奥さまが『また来た』って言うから」
 スキピオの母は疲れた、あるいはうんざりした顔で、息子の友人にささやかな愚痴を零したのだった。あの蛇は何度も何度もこの寝室に入り込んで、じっと動かない。同じ蛇だということを言っても誰も信じてくれないから自分ばかり心配している。……ラエリウスはなんとなく、その蛇が何度も闖入しているということを信じた。
 彼女はごくふつうの貴族の細君だったけれども、その長男はと言えば、どこか、いやどこもかしこも、浮世離れしておかしなことばかり言うしするのだ。蛇もその一端だという気がした。
「で、ああ、そうだ、俺は家に訪ねてきたところだったんだよ。すぐお前の部屋に行ったわけ」
「思い出した!」
 明るい声を出すから、ラエリウスはなんとなく笑みを浮かべてスキピオに先を継がせた。この場に彼の弟がいたら、そんな話は止してくれと言い出しそうなものだ。
「その蛇とは違う、もっと大きな蛇が僕に巻き付いていたんだろう? 今度は君が悲鳴を上げたから家中大騒ぎになったんだ」
「死んだと思ったから」
「まさか。あの蛇はただ僕に巻き付いただけで、締めたり噛んだりひとつもしなかったのに」
「そういう問題じゃないだろ。自分の背丈より大きな蛇が友達に巻き付いてて、当人のほうはキョトンとした顔でさ、母上に何かあったのって言うんだぜ」
 奴隷がすぐに駆けつけて蛇を殺してしまうと、スキピオが奴隷を詰るので何故かラエリウスとの喧嘩になった。そこは礼と言うところであって文句を言うところじゃない、と言えば、夜中にふらふら出歩いて神殿に詣でたりする子供は、それは僕が決めるのだと返した。
 そういう話には事欠かないというのに、スキピオにとってはそれは日常の一端で、こうして持ちだされなくては思い出しもしない出来事なのだろう。若草色の瞳は手元を見ていたが、どこか遠い景色を追うようにしてぼんやりとしている。「懐かしいな」と彼は、ひどく老成した言い方をした。
「僕は自分を神の落し胤だと信じているわけではないんだよ」
 信じてもらえないだろうけど、と続きそうだったから、ラエリウスは誰が信じるもんかと軽口を叩いた。ラエリウスは信じていない。あるいは予言を告げる神がスキピオのそばにいて、夜毎彼に神託を与えるのだとか、面白くったって信じられるものではない。
「海を渡ることができたのだって、あれはちゃんと調べたからさ。あそこは潮の満ち引きで歩けるようになる場所だって、地元の人間なら知ってる。兵は知らないけれどね」
「お前が神のお告げだって言ったんだろ」
「そう言ったほうが、わくわくするかと思って」
 わくわくしただろう。兵はもしや自分たちの将軍は本当に神の愛寵を受けている、それどころか海神の落し胤ではないかと噂して、ますます彼に傾倒していった。カルタゴ・ノワの陥落はもはや当然のことではないかと思われた、祖国が負う使命はまさしくこの若い将軍が体現するものであるとーーラエリウスだって、そこのあたりは少し信じたい気持ちがある。
「ラエリウス、そういう話を、いつか誰かにしてあげてよ」
 睫毛を伏せて、眠たいのだろうか、ふわふわした声で言った。いつかとはいつのことなのかと、ラエリウスは分かっているのに訝しむ。いつか。これが終わったら、英雄の昔話を自分は語る。
 彼にとってのいつかとはどういう風に訪れるものか、知っているような顔でスキピオは笑っていた。

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