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 ああ苛々している。こんなにも苛ついている姿を見るのは、久々だった。自分の他に幕営に入っていく人間がいなかった理由はこれかと、マハルバルはやや呆れたような心地でその横顔を見る。若者、と言ってはもういけないのだろうがまだ若い将軍は眉間に深く皺を刻み、空を睨んでいた。しかし彼の目には余人の目に映らぬ像が結ばれているのだ。
 この都市を囲んでどれほどになるだろう。長い間じりじりとしていて、時間はゆっくりと流れている気がした。必ず落ちる。落とさなくてはならない。だから、不安はなかった。誰しもそうだろう。
 この男が爪さえ噛みそうな風情でいるのは実のところ、眼前に望む熟れた果実がいつまで経っても手に落ちてこないことのためではなかった。理由を知らない者のほうがまだ、多い。彼の弟たちは察しが付いているが何をしてやれるわけでもなく、抜け駆けをすることも遠慮してやはり遠巻きにし続けていた。
「男の子なんだろ」
「ああ」
 マハルバルをちらとも見なかったくせに、答えはすぐに返ってきた。簡素な椅子に腰掛けた男の脚はまだ傷が癒え切っておらず、本当のところその心配をしてやろうかと思っていたのだが、気が変わった。
「いちばん苛々してんのはイミルケ様じゃないのかな」軍議のための机に尻を乗せても別に叱られはしない。「あのひとのことだから、お前が帰ってくるまで出てくるなって腹に向かって念じてただろ」
 それはマハルバルよりも少しばかり年長の相手、それも上官に対する口の利き方ではない。意図しているのだと示さなくても相手はそれを分かって、初めて自身の古い友人を見た。
 昼も夜も頭を働かせ続けているが、それ自体に疲れを覚えないらしい顔に、焦慮らしきものがあった。こういう顔をするのだと驚かされるくらいのものだ。幼い頃から何かにつけ沈着冷静、いつもマハルバルは彼に手綱を締められてきたのだが、これではいまにも走り出しそうなのがどちらかわかったものではない。
「名前は?」
「ハミルカル」
「そりゃそうか……。もうちょっと早く生まれればよかったのになあ」
「ああ……」
「ハンニバル、お前の息子もマゴーネみたいに、父親の顔を覚えてないで育つんだろうな」
 頷きそのものには、大した動揺も、悲しげな色もない。彼がやや平静を崩しているのはそういう近くも遠くもある未来についての想像のためではなかった。マハルバルからすると、そういうことのほうがよほど大切である。自分には子供がいないし、これから短い間で作ってしまおうという気もない。悲しかろうと思うのだ。
「父は」とハンニバルは、不意に意思のこもった声を発した。「俺の生まれた時に本当に喜んだと聞いている」
「躍り上がったってな」
「それは知らん。弟たちが続いて生まれるほどに腑に落ちるようにして、あの方は決めるべきことを決めていったのだと」
 義兄に聞いたのだろう。ただ頷いたマハルバルは浮かせた足を揺らしながら、親しみはあったが自分とは違う存在だと信じていたハンニバルの父君を思い出した。この友人が長じるまでは、あの人こそが自分にとって天才であったし、主君だった。
 幕営の中も外も静かだった。市壁を突き崩す音も互いに罵り合う声も夜闇に喉を休めている。夜が明けるよりも先にまた金切り声を上げるはずだった。ハンニバルは「しかし」と、溜息をつくように言う。
「そこまでの存在ではないな」
「ひでえの」
 軽く吹き出した。この男の妻であることに烈しいまでの自負を燃やしているイミルケが聞けば卒倒する。
「また入れ替わってやろうか? お前の兜を俺が被ってさ、お前はこういう……暇のあるときにカルタゴ・ノウァに馬を走らせるんだ。喜ぶぜ、お前と息子の顔が見たくてたまらなくてっつったら。そんですぐ帰ってくればいい」
「種明かしをお前が大々的に行ったせいでその手はもう使えないわけだが」
「だからさ、かえって意表をつけるじゃん」
「それでまた、お前が矢鱈と張り切った跡を見て俺はお前を褒めてやればいいのか、マハルバル」
 それもいいな、と思った。が言わなかった。こういうことを言ってくるわりにこちらが子供っぽく振る舞うと叱ってくる理不尽さが彼にはいくらかある。
 あといくらかすれば終わりだ。季節が移ろうほどの期間をこうしてひとつの都市を前に過ごし、一度は反乱の兆しに対処すべくハンニバルはこの地を離れたが、それもすぐに済んだ。まだ腹の小さかった細君が夫の見守りを受けないままに長子を産んでしまうほどの時間、何度も何度もうんざりしたが、今となってはそれも思い出に近い。
 市壁を崩してしまって、町に雪崩れ込んでしまえば、仕舞いだ。兵士は喜ぶだろう。まさか掠奪だとか憂さ晴らしの殺しだとかを彼らの将軍が禁ずるはずもない。自分の配下の騎兵たちだって睨み続けた都市のなかを好きに蹄で踏みつけられれば喜ぶ。
「帰りたくて苛ついているのか、早く出立したくて苛ついているのか、どちらだろうな」
 ふいと立ち上がって、やや崩れた軍装を正すハンニバルの背にまわってそれを助けてやる。彼がすこしだけ、そうと分からないほどの笑みを浮かべているから、マハルバルは気が楽になった。
「帰ってハミルカルを振り回してイミルケ様を抱き締めるくらいの時間はあるだろ、まあ、忙しいだろうけどさ……」
 実際に彼がそんなことをしたら何人が卒倒するだろう。自分なら腹が捩れるくらい笑う。
 ハンニバルはマハルバルが手渡した彼の兜を脇に抱えたままで幕営から出た。矢鱈と張り切ってマハルバルがこの都市を攻めたよりもよほど苛烈に、燃やすごとく痛めつけてやるつもりのはずだ。そうして自分たちと同じくらいの時間を怯えと飢えと望みの絶たれる心地のなかで過ごした者たちを捕らえる。
 そして、何よりも自分たちが望むものがすぐそこに見えている。我が子の生まれたのを喜び、その顔見たさに臍を曲げる若い父の顔を、その子供に覚えさせてやるよりもずっと大切なことが。高揚は未だ遠くにあったが、マハルバルにとってすれば幼いときからずっと眼差しの先に見えていた。
 彼は嘘を吐かなかった。それを喜ぶのが幾度目かも知れぬのに、マハルバルはやはりそれだけのことでばかみたいに機嫌を良くして、一度は見送った背を追い、幕営から出て行った。

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