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面影の恋

 ルカヌスが私を目に留めたのは、当たり前ではあるが、一目見て私が役に立つとわかったからではない。私はアフリカからの少年奴隷のひとりでしかなく、ルカヌスが一度私の前を通りすぎてからまた戻ってきて、商人とやりとりをするのを、交わされる言葉のほんの一部だけ理解していたに過ぎなかったのだ。
 ルカヌスは想像できるかぎりの最良の主人だった。彼は私をまずアフェル、と呼んだ。それが単に私の生まれを指す言葉だと私が理解するようになるとプブリウスとも呼ぶようになったが、私はどう呼ばれても構わなかった。
 彼は、私に自分の秘書のような仕事を任せられるくらいの教育を与えることに、はじめから決めていたらしい。伸び放題で目を隠していた髪を切りそろえ、痩せぎすの身体を綻びのない衣服で包むと、ルカヌスは私をしげしげと見遣ったものだった。彼の細君や子供たちは浅黒い肌の子供が視線を浴びて黙りこくっているのをどう思っていただろう。
「おまえの声を聞かせておくれ」
 ゆっくりとそう乞われ、私は言った。……ドミネ。教えられるでもなく私はいくらかのラテン語を覚えていて、その中でも最も早くに身についたのがその言葉だった。私のドミヌスは、まず私が自分の言葉をきちんと解したことを喜んだ。それからずっと私は彼を喜ばせることができた。彼はやさしい主人であったし、よき家庭人であったし、元老院議員としても問題のない男であったので、アフリカの土を恋しがる私はそのかわりにルカヌスを慕うことに決めた。
 買われた時の齢を私は覚えている。いつ自分が生まれ、どうしてローマにいるのか、よく分かっていた。父母はいなくなった我が子を求めて泣いているだろうかと考えたのは船に揺られる間だけのこと、私は、奴隷となった自分が逃げる方法はまずないのだとも分かっていたのだ。だからよい奴隷になればよかった。ルカヌスが我が子にそうするように教えてくれることをみな飲み込み、ときにせっつくようにして知識への飢えを訴え、素直に笑い、堪えず泣けば、当面の間私はよい奴隷であった。
 他の奴隷たちとともに粥を啜っていると、その男はたしか東方の出身だったと思うが、気の毒そうに、「ひとりで外をうろつかないほうがいい」と私に言った。
「なぜ?」
「他人の奴隷をどうにかしようって輩はいないわけじゃない」
「どうにか……?」
 そう言われても、私はひとりで使い走りをすることなどなかったから、釈然としないまま器を見つめた。粥はほんの少ない量だったが、苦しいと思うほどの飢えをその家で感じたことはなかった。
 家内の雑用よりも大切なものとして私に課された仕事は、まず生きることだった。ルカヌスは私に投資をしていたのだ。文字の読み書き、それも貴族たちが操るようなうつくしい言葉を私に注ぎ込んだ。それはラテン語だけでなくギリシア語もそうだったし、ギリシアの文学を彼は私に読ませたがった。生きるうえでどうしても必要なものよりも、生きることをよりいっそう面白くするようなもの、それを彼は私に与えることで、きっと楽しんでいただろう。
「読んでみなさい、アフェル」
 そう言って手渡された悲劇を私はすっかり覚えてしまっていたので、パピルスをひとつも見ないでいちばん気に入っているところを諳んじてみせた。言葉を覚えることは私には容易く、ルカヌスの楽しみは私の楽しみともなっていた。
 その頃まだ高い声を出していた私はそうして、賢しらにも自分のできることを主人にひけらかしてみせることがあった。目を丸くしたルカヌスがすぐに顔を綻ばせて私を褒めるのを待っていたのだ。彼が手を挙げて止めと言うまで私は暗唱を続けることができたが、ふと、主人の顔が曇ってゆくのに気が付いて言われてもいないのに口を閉じた。ドミネ。私は呼び、居心地の悪さに素足を擦り合わせながら、ルカヌスを伺う。ぼくは間違えましたか? 彼は頭を振って、見事だったよと答えた。答えたが、彼が笑わないので、きっとおかしな言い間違いを自分はしたのだと感じた。
 じっと私の顔を、確かめていた。そう、ルカヌスは私の容貌というものを時折確かめることがあって、澄まし顔でそれを受ける私のほうは、まだ意味が分かっていなかった。
「おまえは背が伸びたね」
「はい」
「おまえを買ってもう一年になるのか、アフェル。たった一年でまるでおまえは私のほしいものみな備えてしまった」
「それは……ご主人さまがたくさん教えてくださるから」
「そうだね」
 私はルカヌスの隣に古い椅子を並べて座っていた。主人の椅子のほうが高いから、ただでさえ見上げなくてはいけない彼の顔は遠い。時刻は昼過ぎ、ルカヌスは一度元老院に向かって帰ってきた後だった。夏の盛りのいちばん過ごしづらい時間帯に、昼寝をすることもなく彼は私を部屋に入れていたのだった。
 伸ばされた手は、私にとっては怖くなかった。ルカヌスはまるで我が子にするようにして私を抱きしめてくれ、それが、私は好きだったのだ。私はルカヌスが好きだった。
「手放したくないんだ」
 まるで、手放さなくてはいけないというような口ぶりだった。ルカヌスの手は熱く、私はなにか飲んだほうがいいだろうと思った。老齢とは言わずとも、彼は若々しい男ではなかったのだし、おかしな発想ではなかっただろう。
 抱き寄せられるまま膝に乗ると、彼は私をぎゅうと腕に閉じ込めて、浅黒い、けれども傷のない肌に触れた。首筋がいくらか汗で湿っているのを自覚していた私が身を捩るとルカヌスは宥めるように頭を撫でる。私の髪は濡れたように黒かったが短く切ると癖が出て、私はその頃の髪型を気に入っていなかった。
 アフェル。呼ばれ、腕を回した。彼の首筋にも汗が伝っていた。ローマ人たちよりも長く伸びていくだろう私の手足、薄っぺらい胸に順繰りに触れていってから、ルカヌスは私にくちづけた。それは実を言えば、初めてのことではまったくなかった。
 彼は私を愛していたのだろう。それがどういった類の寵愛であろうと私にとっては同じことで、例えば彼が本当に私を自分の息子だと思って抱きしめても、実際に彼がそうしたように性愛の相手と思って抱きしめても、私は腕を回していた。抱きしめられると案外柔らかく感じられる彼の身体に触れていると安心できた。私は彼を呼ぶ。嬉しい、と言ったこともある。ルカヌスは彼の細君と褥を共にすることをやめたわけでなかったし、あるいは他にも美しい誰かを掌中に愛でていたかもしれない。だが、愛しさゆえに彼を苦しめるのは私だけだった。
 幼い子供なのか、瑞瑞しい少年なのか、見る人の目によって姿の変わる年頃、私はみずからの姿の実際を教えられた。ルカヌスの客人が私に目を留め、私はそれに、微笑んでみせる。主人の客人ならばよい顔をするべきだということで微笑んでいたが、ルカヌスが私をそばに呼び寄せてこの子はとても頭がいい、と彼の買い物を自慢してみせるとき、客人の目は私の頭を見てはいなかった。
 驚いてあげた悲鳴にその人は心底面食らっていた。私だって奴隷ではあるが、とつぜん物陰に引きずり込まれ顔を近付けられれば声くらい出る。私の声に駆けつけたルカヌスは何が起きたのかすぐに分かったようで、その客人は二度と邸に顔を見せなかった。
 愛想を売るのはいいことだけど、おまえの場合よくないことがあるよ、そう教えたのは私にひとりで出歩くなと言った奴隷だった。彼はじきに解放される手はずになっていて、その余裕が私に忠言を与えたのだろうと思う。剃り上げた頭を掻きながら困り顔で、客人に失礼をした罰を待っている私に、その心配はないだろうとも言った。
「おまえの顔がいけないんだよ」
「顔?」
「アフリカ人の奴隷なんてそう珍しくないが、だからって顔の造作の違いに慣れるのは難しいだろう」
「変な顔をしてるの、ぼくって」
「いい顔をしてるさ」
 要するに可愛らしいからにこにこしているといらぬ誤解があるという話で、私が納得するまで彼は私に付き合ってくれた。そうか。私は、合点がいって不安などすべて忘れた。
 私はただの奴隷ではなくて、とくべつ、顔立ちのよい奴隷だったのだ。美しい異国の少年というのは何やら蠱惑的な存在らしく、ローマ人も少年奴隷を抱くことには慣れていた。彼らは抱かれることは嫌悪したが私のような存在を欲することを大して躊躇わなかった。ルカヌスが私にくちづけてばかりいたのは、彼が私の同情を誘うほどに、善良な男だったからだ。
 彼を父と思っていた。私が戴く無上の主人。私を殺すことのできる男は、決して私を傷つけない。ルカヌスに与えられたものは数えきれず、また、言葉にしきれるものでもなかった。どうすれば敬愛せずにいられ、どうすれば、彼のために身を費やしたいと思わないでいられたか。私は知りたいとも思わない。生きているだけ、才能の許す限りを努力し、応えようとするだけで、ルカヌスは必ず私を守ってくれていた。
 ドミネ。呼べば、彼は応える。両手で顔を覆おうとする私に苦笑して、声を聞かせておくれと優しく命じる。彼に抱かれるとき私は苦しまなかった。その手で割り開かれていくことは私に悲鳴をあげさせなかった。
「ごしゅじんさま、ああ、わたしの」泣きながら私は笑む。「わたしの……」
 ルカヌスは私に触れ続けた。彼は言葉にしては何も示さなかったが、困り切った目で、まるで私に伺いを立てるように名を呼び腕を引き寄せる、その様だけで私にはよかった。声が低くなり、背の伸びるのが早かった私が早々に手脚を伸ばしきったとき、不安に思って尋ねたことがある。あなたの愛した可愛いアフェルはいなくなってしまったのでは? 彼は何も言わないで私にくちづけた。十四、五のとき、ローマの慣習通りに大人になっても、私は彼の子であり続けた。
 プブリウス・テレンティウス。アフェルと添えられることもある。ルカヌスは私に名をくれた。解放の手続きのために私を法廷に連れて行くとき、冴えない顔でいるのがおかしくて、私はルカヌスに触れたいのを堪えなくてはいけなかった。私があなたの持ち物でなくなったって、なにが変わるっていうんですか。尋ねることはしなかった、分かっていたから。私も、彼も、夜の更けた頃に交わることのなくなるとか、そういうのを残念に思ったわけではない。ルカヌスはまだ幼さを残す娘が家を出て婚約者の腕に抱かれたのを見届けるのと同じ顔をしていた。トガを身につけた私をいつかのようにまじまじと眺め、ようやっと彼は安堵したような笑みを零したのだ。
 劇を書きたいと言ったなら、彼は喜んで、まず最初に私に読み聞かせてくれと私の手を握った。読み聞かせてやれば感嘆してくれたし、それからやや考え込んだのち、私をいろいろな人に紹介するようになった。二十歳そこそこの解放奴隷を洗練された貴族の輪に放り込み、しかしルカヌスは何も心配をしていないらしかった。ルカヌスの可愛がっている男であるからなのか、元々彼らがそうした、礼儀正しく優しげな気風を尊んでいたのかは知らないが、貴族たちは少なくとも私をいじめたりはしなかった。
「その貴族のうちのひとりが君だ」
 つらつらと私が語るのに耳を傾けていた青年は、嬉しげに瞳をきらめかせた。彼の柔らかい髪が膝の上にちらばるのに私はどこか、懐かしさを覚えている。
「スキピオ、私の話を聞いたら分かったのじゃないか。こんなことしていると噂が立つよ」
「立たせていればいいじゃないか」
「……そうなの?」
「僕が君のことを好きだとみんなが思っていたら、遠慮する人もいるから」
 ちょうど同い年の友人は何でもないことのように言い、胸に乗せたクッションを猫を撫でるみたいに可愛がっている。寝椅子の上、寝そべるスキピオの頭を膝に乗せてやりながら、こちらも猫のようだと私は薄い色の髪を整えた。
 私のことを友と呼ぶ者は多かった。幸いなことに。まだ私は自分の喜劇を上演してみたことはないが、草稿を見せてみると彼らは私を友人にしてくれる。だから、私は友と呼ばれることを好いている。その点で言うとスキピオは初めから私を友人と思っていたかもしれないし、そうではなかったかもしれない。別荘に招かれたのは初めて挨拶を交わした日のことであったが、こうして実際に足を運ぶまでに半年近くかかっていた。
 ほんの少しの不安、懸念を胸に、私はその整った顔を眼差しでなぞった。愛らしいばかりの少年であった私は結局そのまま大人になった塩梅で、背丈は伸び盛りに伸びたきりで打ち止めになった。軍役も知らない、筆ばかり握る私の体躯といえば貧相なものだ。スキピオが眼差しにほとんど無条件に応えて微笑むから、私は間の抜けた顔のまま今度は彼の頬に手を添えた。額、眉から少し窪んだ先にあるまぶた、鼻梁をなぞり、血色の良い唇に触れたあたりで、誤解を招き寄せているのは自分かもしれないと思い直す。
 彼は美しい少年たちを愛でる趣味を持っていなかった。それだけでなくて、美しい女たちの秋波をまるきり無視してもっとも少年として美しい時を過ごしきって、いまもそう変わっていない。私は許されると分かっていて、彼に女を知っているのかと訊いたが、彼は知っているだけだと答えた。そこには感慨がない。その彼に、誰しも薄々勘付いているだろうが私自身は誰にもしたことのない話をした。
「君には好きな人はいないんだろうね」
「……君がルカヌス殿を思うように思う人は、そうだね、いないよ」
「ラエリウスは? ポリュビオス殿は」
「友人だもの、彼らは」
「私が友人たちとするようなことはしないんだね」
 自分を見上げる瞳に映る顔を見ていられなくて、私は目を逸らした。スキピオに、たとえそれが内心に押し留められるとしても軽蔑されたら、自分は傷つくのだろうと分かっていた。名門の当主はその肩書き以上にただ私に懐いてくれているというだけのことで、私にとって心地良かったのだ。彼は私が挙げた彼の友人たちにも膝を貸せと言うだろうか。何か面白い発見があると頬をぽかぽかさせて私に報告にくる、邪気のなさが好ましかった。
 スキピオだけでなくてラエリウスも、彼はいくらか私たちよりも年長のくせに同じようなふうに私に接する。その彼らに幻滅されるよりは、多少の侮蔑を含んでいても、私がどういう男であるか知っていてほしかった。
 いくらかの沈黙、そこに落とされた声は穏やかに響く。
「君はきっと、君が彼を愛したことは軽蔑されていいことじゃないと思ってる」
 そうだ。私の素性を知って、私の顔を見て、示されるのが嘲弄であることには、本当は一度も耐えられなかった。手を伸ばされて拒まなかったことがあったのは、その嘲弄を踏み躙ってやりたかったからだ。もう二度と私に触れられない、私が微笑みを向けない、それだけのことで歯噛みする男が幾人かいた。
「ルカヌス殿はなにも誹られるようなことを、君にしていない。僕は、テレンティウス、君が好きだよ」
 君が身体をどう扱っても構わない、奴隷だったんだから。そういう意味だろうなと見当をつけて私はスキピオに向き直った。過剰に清廉な彼のすべてに自分への好意を読み取り、くちづけてやろうかと思った。それが裏切りになるのかどうか確かめてみたいという思いもある。
 私はもうルカヌスに呼びかけない。ドミネ、そう呼んで彼を追わない。私がスキピオやラエリウスとの交流について話すと彼は自分のことのように誇らしげで、そこに疑いはなかった。彼は妬まない、私が、もはや彼の子ではないから。
「すこしさびしい」
 告白はひとつ済ませてしまうととめどなかった。
「ほんとうに幸せだったから」
 スキピオがまた、先程よりもずっと嬉しそうに笑うのを、私は遠くに見つめている。彼が懐かしかった、彼らはどうしようもなく懐かしかった。同じくらい幸せにしてあげると彼が言うのを、笑えない。愛し続けてさえいたならば、もしかするとそれが叶う日も来るかもしれなかった。

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