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陽炎の木陰

 緋色の外套。その鮮やかな色をプブリウスは知っていた。それは彼にとってはまず父が纏う色であったが、父以外の人間が纏ってはいけない色ということはなかった。プブリウスはその緋色が、風もないのにたなびくのをじっと見ている。外套の裾から伸びるはずの軍靴に包まれた足はなかった。
 視線を上げる、嫌がって下りかける眼差しをむりやり上げ続け、はたとそれが止まったとき、プブリウスは手にしていた椀を落とした。
 隣にいた兄がぎょっとして、控えていた奴隷に拭くものを持ってくるよう言うのを、プブリウスは見ていなかった。当然そうするだろうから、後から場面を想像するときに付け加えた情景である。
「見えないふりをして」
 彼、はそう言った。あまりに見事な、うつくしい微笑み、くっきりと描かれた曲線。プブリウスが何も分からないまま頷き、膝にこぼした粥に気が付いた、そのときには彼はいなかった。
 プブリウスはその美貌を知っていた。いやしかし、あれほどにきらきらしいとは知らなかったが。彼が知っているのは死に顔にも等しい像と、鮮やかに彩られた像、そればかりだったのだ。本物というのはやはり、写したものとは違うのだった。良きにしろ悪しきにしろ。
 スキピオ・アフリカヌスは美しい男だった。それは、言葉の中でもそうであり、事実そうであり、夢としてそうだった。彼にとって英雄は夢の住人であったので、プブリウスはその晩、慣れきったはずの独り寝に耐え切れなくなって兄の寝台の側で眠った。流石に布団に入れてくれと言うのは憚られたがゆえに床を選んだのだが、目覚めた時の兄の顔と言ったら、あれは裏切られたというような顔だった。


「僕のこと、知ってるだろ?」
 緋色が踊っている。プブリウスの視界を覆い尽くすその色が太陽の色を溶かしてもいないのに輝いているのが、現実味のなさを上塗りしていた。最近仲良くなった猫を膝に抱いて屋敷の裏手にいたプブリウスはきょろりと周囲を見渡し、誰も居ないのを確かめてから、彼の名前を口にする。
「アフリカヌス」
「そう。君の伯母さんの旦那さんだよ。パウルスの義理の兄」
「知ってる……」
 彼はふわふわしていた。金色の髪とか淡い色の瞳とか、笑みの質がというのではなくて、浮いていた。足がないのか外套のなかに仕舞い込んでいるのか、胸元までしかしっかりと見ることが出来ないので分からない。
 猫は何にも気付かないで子どもの膝で眠っている。ひくひくと震える耳を撫でつけて、プブリウスは考えていた。おばけだ。これはおばけに違いない。ーー彼はまだ幻覚などというものを知らなかったので、自分を疑うことはしなかった。
「おばけは怖い?」
 ふんわりと外套が風を包んで、そのままアフリカヌスはプブリウスの鼻先に自分のそれを近づけた。近すぎると思って顔を背け、怖くない、と答える。プブリウスが怖いのは、大人が子供で遊ぼうとするときに口にする嘘ではなかった。
「僕はアフリカヌスのおばけ」
「アフリカヌスなのに、おばけになるの」
「アフリカヌスくらいになるとおばけにもなっちゃうんだよね」
 彼が伸ばした手は、驚いたことにプブリウスをすり抜けたりしなかった。けれど感触はなく、目は触れられていることを知っているのにその実感がない。鼻を抓まれてうっと顔を顰めると、アフリカヌスのおばけが子供のような声で笑った。パウルスに似ている、と彼はおかしがった。
 その日、プブリウスにはこれと言って予定がなかった。家庭教師たちみんなが休みをもらう決まりになっている日だったし、兄は父に連れられて出かけていた。継母は自分の子供達を連れて彼女の生家に遊びに行っている。そしてプブリウスはひとりで猫と遊んでいる。泥で固まった毛束を割き、撫でてやりながら。
「小さなプブリウス。僕を見て感想は?」
 返される言葉が自分を喜ばせるはずだという鮮やかな表情だった。プブリウスは何が彼を喜ばせるか当然ながら知らず、猫を撫でる。日の差す方向に何も透かしていない男がいるのに、彼らに注ぐ日の暖かさに変わりはなかった。
「あなたは、きれいだね」
 その髪がそっくりそのまま子供たちに受け継がれているということを、プブリウスはその目で知ることなどないはずだ。それなのに知ってしまった、そしてやはり、美しいものだとも。
 アフリカヌスのおばけはうんと頷いただけだった。彼にとっては聞き慣れた、ありきたりな言葉のひとつに過ぎなかったらしい。褒めてほしかったわけじゃないとは彼も言わなかったが、プブリウスは釈然としないまま猫の毛に指を埋める。この猫はおばけではない。
 プブリウス少年と彼と縁浅からぬ英雄との出会いはそういう風だった。出会いそのものはアフリカヌスがおばけになる前、足が地面についていて彼の姿が影を作っていた頃に果たしていたが、プブリウスは赤子のようなものだったので覚えていないのだ。
「おはよう、プブリウス。きみ寝相が悪いね」
「こんにちは、プブリウス。そこ、計算が間違ってるよ」
「こんばんは、プブリウス。夜更かしをすると明日に響くよ」
「やあおはよう、プブリウス」
 彼の姿はプブリウスの他には誰も見えていないようだった。屋敷のなかをプブリウスの斜め上に浮かんで徘徊しても、食卓の上に漂っていても誰も驚いたりしないのだ。それだからアフリカヌスはプブリウスによく話しかけた。思わず返事をしては家族に首を傾げられ、彼は努力してこの英雄を無視する技術を得た。難しいことである。
 視線を呉れてやるくらいならば構わない。まったく知らないふりをするのは、やはり心苦しいところでもあったので、プブリウスは話しかけられるたびちらと彼を見て、頷くとか頭を振るとかしていた。
 その頃、プブリウスの家はひとつのことで持ちきりだった。まだ赤子の弟や妹が泣いたり喚いたりするだけでも喧しいのにそれが増えるというのだ。大きなおなかをした継母の姿ばかり見ている気がする。ともかく父の子供はプブリウスの弟であり妹であるので、喜ばない筋合いはなかった。近頃兄たちに懐き始めた上の弟が、続け様に生まれた弟妹に母を取られているのに寂しそうにしない、そちらのほうがいくらか重要ではあったけれど。
「パピリアはいい女性だったのになあ」
 アフリカヌスはそう言って、プブリウスの頭に両腕を乗せていた。気分として重く感じ、しかしどいてほしいとは言えない。彼はアフリカヌスである。プブリウスは彼のことを、尊敬すべき人々の口から教えこまれている。
「離縁するとは思わなかったな。いいこととは言えないし」
「りえん」
「まだ知らない? じゃあこの話はやめよう。パウルスは怒ると怖いんだよ」
 庭先にいる彼らの視線の先には、父と継母の姿があった。子供が男であれ女であれ抱き上げると彼は妻に約束しているのだ。プブリウスが彼なりに考えて静かにしているのに、アフリカヌスはといえばよく喋る。
 アフリカヌスはプブリウスにいま彼が遺していったものはどうしているか、などとは尋ねない。何もかも知っているからだ。
「ガイウス・ラエリウスとお友達なんだろう?」
 ぽつぽつと降り始めた雨を避けて屋敷に入ろうとしたところで、プブリウスはなぜだかその言葉に引き止められる。振り仰げばアフリカヌスが、どう言えばいいのだろう、少々の邪気を含めて笑っていた。
「僕もそうなんだ。ガイウスのこともすこし知ってる」
「親友だったって」
「そうとも! 僕とラエリウスはちょうどいまの君くらいのときに友達になった。それから死ぬまで絶交しなかったよ、すごいよね。彼は何度も絶交だって言ったけど」
「ガイウスはそんなこと言わないよ」
「分かるのかい、君の生きている時間の半分しかあの子の友達として過ごしていないのに?」
 小さな雨粒が腕を弾き、それを合図にしていつの間にか暗くなった空からひっきりなしに降り始めた。雨なんて珍しい。アフリカヌスはきっと濡れないのだろうけれど、プブリウスはそうもいかない。
 ねえ、とアフリカヌスが声を上げる。また足止めを食らった。
「ラエリウスに会いに行こうよ」
 素敵な思いつきだと言いたげだったが、彼には天気が分からないのだろうか。訴えるつもりで空を見上げたプブリウスには構わずアフリカヌスは子供の手を取る動きをした。プブリウスが合わせて腕を上げなければどうしようもないことで、おばけの手に握られたつもりで心持ち腕を上げてしまうのはあくまで、彼が大人だからに過ぎない。
 アフリカヌスが現れて半月も経っていないうちだったからプブリウスはまだ、ぜんぜん、彼に馴染んでいなかった。人懐っこさに人の姿を与えたような明るいひとだけれど一緒になって笑う気にはならないでいた。
「彼の家は知ってるだろ」
「でも、雨が降ってるよ。約束もしていないもの。お父さまに言わないといけないし」
「雨なんてすぐに止むさ。子供がそんな大人の作法を気にすることはないよ、パウルスは忙しそうだし」
「でも……」
「僕が小さいころなんてしょっちゅうだったけれど、いたずらをしても世界が終わってしまったりしなかった。つまり大丈夫さ。さあ行こう」
 彼は万事その調子だった。
 雨のなか辿り着いた先で親友の不在を知らされ、拍子抜けしたプブリウスが恨みを込めて睨んでも楽しげにしていた。彼は彼の親友の顔を見たいというだけの目的で、プブリウスはそれに付き合わされたに過ぎなかったのだ。
 ラエリウスはいささか老けたと彼は言った。それが嬉しいようだった。アフリカヌスが死んでそれほど長い時間が流れたわけでもないのにそう大きな変化があるだろうかと思うものの、大人の感じることだ。プブリウスには分からないものなのだった。
 アフリカヌスはまったく姿を見せない日もあった。けれどその間どこか別の場所をうろついていたわけではない、とは彼自身に確かめていた。ただどこにもいなかっただけで、浮気じゃない、と彼は冗談めかして説明した。うわきとはなんだろうかと首を傾げた幼子にそれを教えてやることはせずに。
 彼はおばけなのだ。死者だから、プブリウスの思うような時間の過ごし方をしないのだ。だって、長いこと病みついていた人の風貌ではなかったし、彼は時折ほんの少年のような顔をして笑う。
 その目に映るローマはプブリウスが見るよりも彩りが豊かなようだった。たくさんのことを知っているから、多くの人を知っているから。「あそこの店のお爺さんには小さいころたくさん叱られた」だとか「あの路地は決まって秘密の相談をするのに使ったんだ」だとか、教えてくれることはプブリウスには何の役にも立たないのに、彼は楽しそうだった。プブリウスももしかしたら楽しんでいた。
 けれど、プブリウスが広場を通り過ぎかけたときに急に声を上げて「卵でも投げつけてしまえ」と指差した先にいたのがカトーであったことにはなんだかひやりとした。絶対にできないと拒んだ幼子の顔色で、彼はそのとき機嫌を損ねた。
「怖がっているのかい。あの男を? あのね、プブリウス、そんなんじゃだめだよ。怖くなんてないさ、僕がそう言っているのだから君だってそう思うべきだ」
 滅茶苦茶を言うなとプブリウスのほうも怒り始めていた。カトーに卵を投げつけたらどうなるかなど、火を見るより明らかではないか。それが彼らが初めて起こした諍いだったかもしれない。結局プブリウスは卵を手にしなかったし、アフリカヌスは好きなだけ悪口を言って、それで胸をすかせたようだった。
 アフリカヌスはプブリウスが他所の家に招かれた時にもついてきたが、ひとつだけ入ろうとしない屋敷があった。スキピオの屋敷である。
「君は知らないかもしれないけど、僕はね、アエミリアに二度とローマに帰りたくないって言って死んじゃったんだよ。恥ずかしくて入れるわけないじゃない」
「はずかしいの?」
「あんなに怒っていたのは臍を曲げていただけかって、彼女が呆れて笑うのが目に浮かぶようだ」
 父と共にその屋敷を訪ねることがその頃多くなっていた。訳を知らされないまま、嫌いな家というわけではなかったからプブリウスは疑いなく父についていって、アトリウムに入るなり掻き消えてしまうアフリカヌスのおばけに触れられたなら、その手を引いてやれるのにと必ず思った。
 アフリカヌスが話題に上げたアエミリアはプブリウスからすれば伯母にあたる女性で、父の姉であるので、父が彼女を前にするといつもとは違う態度になるのは面白い。同じことをコルネリアは母に対して思っていると言った。
「私たちに言うみたいにいろいろ注意なさるけど、なんだか違うの。遠慮がないんだと思う」
 連れてこられるだけ連れてこられて特に用向きのないプブリウスはたいていこのスキピオ家の末娘と遊んでいた。人形遊びだのままごと遊びだのに付き合わされるばかりかと思いきやとつぜん木登りをしようと言い出すのがこの少女だった。
「ねえ、コルネリア……」
「お姉ちゃん」
「……お姉ちゃん、アフリカヌスって、アエミリアさまのこと怖がってたの?」
「どうして?」
 太い枝を選びながら器用に高いところに登っていくのを、プブリウスは追いかけるでもなく見上げている。どうしてと言われればアフリカヌスの様子がそのようだから、としか言えなかった。
 コルネリアが一番高いところまで登り終えたところで、彼女を呼ぶいささか甲高い声が響いた。揃って振り向いた子供たちのほうへ小走りに近づいてきたアエミリアは、令嬢らしからぬ娘の振る舞いにきつく眉を寄せて目を吊り上げる。
「そんな遊びは卒業したはずじゃないの、コルネリア?」
「プブリウスが木登りができないから、お手本を見せていたのよ。そうでしょプブリウス」
 素直に首を横に振ったプブリウスにコルネリアはおかしげに笑い声を立てた。
 するすると危なげなく下りてきたコルネリアに小言を言いながら、アエミリアはふたりに家の中に入るよう言った。プブリウスはごく自然に引かれる手と、背筋の伸びた貴婦人を見上げる。食堂を兼ねた広間には軽食の用意された卓が並び、プブリウスの父と、コルネリアの兄とが待っていた。
「アエミリアさま、アエミリアさまはむかしから変わらないでおきれいなんですね」
 その大人たちが目を丸くするのに、なにかおかしなことを言ったかしらとプブリウスは首を竦めた。ぽかんとして常日頃の厳しさが薄らいだアエミリアはなんだか若々しくさえ見えた。
 緩やかに手を引かれ彼女のすぐそばに座らされてしまうと、何もかも白状しなくてはいけない気になる。
「……そう、言ってたんです、アフリカヌスが」
「スキピオが?」
「ちょっと心配だって……なにが心配なのか、僕はあんまり、分からないんですけど」
 つい先日、スキピオ邸から出てきたプブリウスの前に姿を見せたアフリカヌスが、見送りに出たアエミリアを見てそう言ったのだった。なぜ彼女にはあのひとのことが見えないのだろう、父やラエリウス、従兄妹たちにも見えない。プブリウスは居心地の悪さが何を意味するのか、おかしそうに、けれどどこか寂しげに笑んだアエミリアを見て分かった気がした。横取りをした、そんな気がしている。
「ふふ、子供相手になんて話をしているのかしら」
「プブリウスはそんな昔のこと、よく憶えていたね」
「むかし……?」
「きみが父に会ったのはまだこんな、小さな頃だけだもの」
 僕は彼に、会ったことがあったのだ。そんなことさえ知らなかったのに、プブリウスは有耶無耶にするつもりで頷いた。


 それからプブリウスは悪知恵としてひとつのことを覚えた。アフリカヌスの名を挙げると、彼の周囲の大人たちはなんだか力の抜けたような顔をしておしゃべりになる、ということだった。
 りえんとは何だうわきとは何だ、果てによこれんぼとは何だと、やかましく尋ねるようになったプブリウスに、父は困り果てている様子だった。それらがいちいち子供には似合わないようでいて、プブリウスの年頃を思えば邪気なく興味を持ち始めてもおかしくない言葉ばかりだったからだ。
「ラエリウスはあの飲み屋の娘が好きだったんだ。あの子には親が決めた相手がいたというのにね、熱心だったよ。でも口説こうとしないんだもの、僕は言われたとおり大人しく見てるだけだった」
 アフリカヌスが町中で言い出すことといえばそういう内容ばかりで、プブリウスは着実に、物覚えよく、彼の豊かな思い出と自分の乏しい思い出とが合わさった街を見るようになった。そして意味の分からない言葉も日毎に増え、それをいちいち父に尋ねていると、大人の話していることが分かることが多くなる。それは楽しいことと言えた。
 おばけは何もプブリウスに頼み事をしない。何もお願いがあるとは言わない。どうしてここにいるのかと尋ねても、未練がましいだろうと言って笑うばかりで、プブリウスはいつも彼を待つだけだった。
「それは宿題? ああ、いいね、懐かしいな。ここはこういうふうに書くといいよ」
「でも、まえに言われたとおりにしたら、叱られたよ」
「そんなことまで教えていないって言うんだろう? いいのさ、それくらい。君は僕が教えることみんなちゃんと分かっているもの」
 家族も家庭教師も、プブリウスが誰にも頼らないで色々なことをするようになったと思っているらしかった。ひとりで町中をうろうろしたり、宿題を手早く済ませて誰にもなんにも言わないで友人と遊びに出かけたり、ときにガイウスを連れて市外に出たこともあった。
 ガイウスだけは、なんだか不思議そうな顔をして、プブリウスの斜め後ろを眺めることがあった。アフリカヌスが気ままに何か話しているとき、ガイウスは何かを思いつくものの、プブリウスを振り返ってはそんなはずはないと思い直しているらしい。
「プブリウス、最近きみ、いたずら好きになったって言われてる」
 話しかけるうちに顔馴染みになった立ち飲み屋の店主にもらったパンを分けあいながら、ふたりは神殿のそばに座り込んでいた。こんなところに子供がいると悪さをするのかを警戒を見せる大人たちも、ふたりが大人しくしていると目を向けなくなっていく。
「いたずらは、あんまりしてないと思うのだけれど」
「いたずらっぽいことをしてるじゃないか? きみを探して子守奴隷が血相を変えて走っているの、昨日も見かけたよ」
「……だってあそこにもどこにも行っちゃだめって言うんだもの」
 そうやって大人の手や目を掻い潜るのがいたずらなら、プブリウスはとんだいたずら小僧になっている。父の目を盗んで書斎に入り込んだり、子守が他の仕事をしているときには家を抜け出して、気付かれないうちに帰ってきたりする。
 アフリカヌスはこういうことをしてもいいって言ったもの、と叱られそうになるとプブリウスは言うのだった。たいていのことはいまも彼のそばにいるおばけに唆されてやったことだ。唆されてしまうほうがいけないといえば、そのとおりである。たいていプブリウスのしていることに気が付くのは兄で、兄には、アフリカヌスがどうとか言っても効き目がなかった。
「あのね、もしもだけど、もし、アフリカヌスのおばけがここにいたら、ガイウスはどう思う?」
「質問の仕方がへたくそすぎるよプブリウス」
 アフリカヌスは後ろから腕を回してプブリウスを揺らすようにゆらゆらと風に身を任せている。それにつられて動きそうになる身体をどうにか押し留めて、ガイウスが目をぱちりと瞬かせるのを見守った。
「かわいそうだと思う」
 彼は自分たちの座り込む階段の先にある神殿を見上げる。向き直ると目元だけで笑って、プブリウスの頬を指先で軽く払った。
「アフリカヌスは僕らくらいのころ、この神殿によく詣でていらっしゃったんだって。何をお願いしているのかは父上しか聞いたことがなかった。父上はアフリカヌスのひみつをいろいろ知っていて、僕には教えない」
「言いふらしてるかと思ってたのに」
「父上は、アフリカヌスがちゃんと……きちんと、亡くなってなくちゃきっと悲しまれるもの」
 プブリウスも、彼にのしかかっているおばけも、黙りこくってガイウスを見つめていた。
 いまやこのおばけはかわいそうなおばけになってしまった。プブリウスは何を気の毒がればいいかわからないが無性に気の毒になって、かわいそう、と小さく呟く。なぜここにいるの。何度尋ねても教えてくれないアフリカヌスは、気が付かれもしないのにガイウスの頭を頻りに撫でていた。
 実はね、と彼が言い出したのはガイウスと別れてパウルス邸に戻る道すがらだった。
「実はね、プブリウス。僕がきちんと死んでいないのは未練があるからなんだよ」
 それを聞いて人気のない路地に入ったプブリウスを、おばけは風に流されるようにして追った。
「未練って?」
「思い残したこと」
「それをなんとかして、満足したら、アフリカヌスはちゃんと死ねるの」
 不穏な発言だなとアフリカヌスはにこにこする。彼の笑顔は様々な種類があって、けれどもプブリウスにきちんと見分けるのは難しいものだった。そのときの笑顔は特に意味のないものに思われた。
 ガイウスの憐れみ、悲しさを、プブリウスは正しく受け取っていた。親友の悲しみは彼の悲しみだった。父や親類、知人に渡るまで、あらゆる大人が褒めそやすこの英雄について、プブリウスはとうに幻想を崩された気がしておきながら、まだ宝箱にしまいこんでいる欠片があるようだった。かわいそう、とは、思わなかった。楽しそうだから、好きでここにいるものと疑わなかったから。
「ちゃんと死んでほしい?」
「そのほうがいいんでしょ、ガイウスだって、そういうふうに言ってたもの」
「まあ、そうだね。そう思うだろうね。あれも優しい子だな、僕は優しい子供が好きだよ」
「アフリカヌス」
「眠れない夜、早く目覚めすぎた朝、嵐の昼間に、僕がいなくても平気?」
 プブリウスはぐっと言葉に詰まり、日の照らさない物陰にいるのに変わらず明るい姿を見上げる。彼が上げた恐ろしい一瞬一瞬、ひとりきりでは耐えられない不安に、周囲の人々はプブリウスは打ち勝ち始めたと考えているだろう。そうではなかった。ただ単に、おばけなどという不可解が寄り添ってくれる安堵が加わったに過ぎなかった。
 今更、兄に縋れるだろうか。朝方起きだして弟がひとりで目を覚ましているのに気が付くと驚きながらも深く笑んで、すこしおとなになったのだねと言ってくれる兄に?
「僕が教えてあげるから読むことができる本にも、しばらくは触れられないかもしれないね。大人はあんまり、子供が先々進んでいってしまうのが好きではないから。プブリウス、僕といて楽しくなかった?」
「楽しかったけど、でも……」
 アフリカヌスを愛する人は驚くほど多く、その愛情はみな、プブリウスの手では測れないほど深い。誰もが捧げる愛情のなかでプブリウスは育ってきた。憧れは遥か遠くで歓呼を受ける英雄に向けて育まれたのではなかった。
「僕、あなたが好きだもの。してあげられることがあるから、僕にだけあなたが見えるんでしょう」
 けぶるような睫の影で瞳がきらきらしく潤んでいるのを美しいとプブリウスは思った。それだから好きなのだと言ってもよかった。アフリカヌスの白い手、その指先で、まるい爪がゆるやかに光を弾いている。
 立ち尽くし自分を一心に見つめている子供の頭を、本当は触れられない手のひらで撫で、彼はほろりと崩れるみたいにして破顔した。それじゃあ、と彼が言う。
「カトーに卵を投げつけてくれる?」
 ぽかんと、目だけ瞠ってプブリウスはその笑顔の意味をひとつ知った。なぜか言葉の意味を悟るより先に立ち上ったのは何だっただろう。
 かっとなって彼の手を振り払おうとしたが、プブリウスの手は当然ながらすり抜けていった。
「もう知らない!」
 背を向けて路地を出たプブリウスを、おばけは先ほどまでと同じ風情で追ってくる。走りだしこそしないだけで精一杯の勢いで街路を通り抜けるプブリウスはいくら名前を呼ばれても返事をしなかった。
 彼は自分の怒りにも様々な形があるのだと、それを知っておかなくてはいけないのだとぐらぐら煮えている頭の奥で考え始めていた。おとなしい気性で怒るよりも当惑してしまうことが多い子供だったが、彼にしてみればやるせなさも憤りも、悔しさも屈辱も一緒くたにして怒りだった。
 帰ってきたプブリウスが口も利かないので家族はガイウスと喧嘩をしたのだと思ったらしいけれど、訂正のしようがない。その晩の食事も着替えも何もかもいつもよりも早く済ませてしまったのは、父や兄とさえ言葉を交わさなかったからだった。
「そんなに怒るほど僕が好きだった?」
 寝台で丸くなったプブリウスの前に、おばけはそれでもほほ笑みを湛えて現れるのだ。
「…………」
「案外強情だったんだね、プブリウス」
 なぜ嬉しそうに笑うの、と問いたかった。本当はどうして僕の前にいるの、どうして僕が困っていたら助けてくれるのに、それよりずっとひどく僕を困らせるときがあるの。
 答えはひとつも返ってこなかったけれど、子供が寝入ってしまうまで、おばけはそこにいたようだった。


 慣れ親しんだ屋敷から出たプブリウスは、自分の手を引く父のそばをどうにかこうにか離れないでいるのでやっとだった。見送りに出たこの家の主人は、プブリウスが顔を上げないのをどう思っただろう。何も彼は、儚い風情の従兄を嫌ってはいなかったのだけれど。
「知っていたの?」
 だって見てもいないはずのことまであなたはよく知っているじゃないか。小さな呟き、見上げた先でほほ笑んでいる人への恨み言は、父には不明瞭な独り言にしか聞こえなかったようだった。
 この話は昔から進んでいたのだろうとプブリウスは気が付いていた。想像の範疇を軽く飛び越えていたから、予想なんてできなくて当然だった。養子なんて言葉は、よく知らなかったのだし。
「知っていたけど、それでどうして、怒っているんだい。小さなプブリウス」
 そんなこと分かっていたら、もっとわあわあ喚いて、父を驚かせることができただろう。
 ついさっきまでこのおばけは他所の家の人だった。何はともあれそういうものの捉え方をプブリウスはしていた。スキピオ・アフリカヌスは、パウルス家の子供からすれば、血の繋がりもないし面識も薄いし、思い出にはいないし、おばけとして自分の前だけに現れることは不可解だった。問いに答えはなかった。きっと、それは秘密だったから。
 アフリカヌスは困ったような、呆れたような、けれどいっとう優しい顔で、目を細めていた。綺麗な人だから、いつでも笑っている。透き通った若草色のなかに自分が映り込まないことにプブリウスは早々に気が付いていたのに、今日ばかりはそれが、本当は彼の目に入っていないことだと思われて仕方がなかった。
「最初から知っていたかどうか知りたいなら、知っていたって、答えるけれど。ねえプブリウス、僕はそりゃあ本当を言えばね、自分の血を真っ直ぐ受け継いだ孫がいたほうが嬉しいさ。それが僕のプブリウスの幸福だもの」
「スキピオさまはかわいそうなの?」
 はっきりと、高い声は響いてしまった。
 父が立ち止まって、自分を見下ろすのに、プブリウスは言い逃れしようのない恐怖を感じたが、言葉を取り消すすべは知らない。目をいっとき離しただけだったのにその間にアフリカヌスの姿はまたどこにもなくなっていた。
 背の高い父が屈まないで自分を見ているときは、怒っているとか、思うところがあるとか、不穏な気配を漂わせているときだ。そう決まりきっている。だんだん青ざめてきた息子の顔に彼は何を思っているだろう? プブリウスは父をこの上なく信頼していたが、怖がらずにいるのは不可能に近いことだった。
「かわいそう?」
「ほーーほんとうは、僕じゃないほうが、だって……僕、あの家の子じゃなくて、だって、アフリカヌスの血なんて」
「おまえはあのスキピオとは従兄弟にあたるのだよ。じゅうぶんに深いつながりだ」
「自分の血をひいているかより、父上、ご自分のお父上の血をひいているかのほうが、ほんとうは大切なのじゃありませんか」
 自分がどういう考えを持って何を口走ったのか、その場で思い返してもプブリウスには理解が及ばなかった。本当はそういうことを考えながら生きてきたのだろうか、まさか。
 父は少し眉を上げて、繋いでいた手を離した。竦んでいる彼の次子を軽々と持ち上げた、このしっかりとした腕を、プブリウスは父という存在への感触としていた。
「クィントゥスはファビウス家に養子に出すんだ」
「え、……えっ? なんで?」
「そのほうが、おまえたちにとって幸せだろうと思うからだよ。うちはさほど余裕がある家じゃない、スキピオや、ファビウスに比べると。だからおまえたちの為なんだ。特におまえはね」
 それで納得しろというのは酷な話だと、もう少し長じていれば思ったかもしれない。それに、プブリウスが口を噤んだのを納得したとは、父は受け取らなかったようだった。
 家に帰ってすぐに裏庭に駆けていったプブリウスを放っておいて、父はおそらく兄と話をしに行った。そちらのほうが深刻だろうとプブリウスには嫌でも分かっていた。日向で温もった草に埋もれて丸くなっている猫を見つけてすぐに抱き上げて、生け垣の奥に押し入っていく。
 猫は一声、不満気に鳴いたが、身を捩って逃げるまではしなかった。木々のはざま、子供が身をかがめるのがやっとという空間にしゃがみ込んで、ほかほかした毛並みを撫でる。
「それだから僕のところに来てくださったの?」
 アフリカヌスがそこにいるかどうかを、いつの間にか、姿を見なくても分かるようになった。
「僕があなたの名前を継ぐから?」
「いいや、プブリウス。もっと大切な理由があって君を守っていたんだよ」
 どうしてか、恐ろしくもないのに震えが止まらなかった。微睡んでいた猫が目をぱっちり開いて、プブリウスの指先を舐める。ざりざりと柔らかく削られるような、ぬるい舌に、暑い季節だというのに自分が冷えているのを知った。
「大切な理由って、なあに。訊いても教えてくださらないんでしょう、僕、気が付かなかったもの」
「どうしてそんな改まった話し方をするんだい」
「だってーー」
「優しい子だね、プブリウス。ねえ君は、ひとつ、とても正しいことを言ったよ。君は僕の跡継ぎなのだということ」
 葉の隙間を縫うように差し込む陽の光からプブリウスは目をそらした。その色をいまは見たくなかったのだ。
「今日までの日のことを君が憶えていれば、なにも、恐ろしく思うことなどないよ」


 その緋色を前にして、彼はあまり驚かなかった。けれど手に器の類を持っていなくてよかったとは思った、ひどく気が抜けて、訳もなく笑えてしまったから。
 いまここに現れるのはあまりに、出来過ぎてはいないだろうか。狂騒のなかで彼らの佇む場所だけに静けさが生き残っているようだった。すべてを見渡せる高台で、もう立ち上がれないと思われるほどの疲弊に纏わりつかれながら、座り込んだまま蛇のようにのたうつ炎を見下ろしている。
「あなたがもっと早く、はっきり言ってくださったら、僕はもう少しましな気分でここまで来れたのに」
 魅入られたように炎を辿っていた若草色の双眸が、苦笑をこぼした男を見やる。
「すべて言ってしまってはつまらないし、かえって、幼い君が誤りそうだったもの」
「信用がないな」
「そんなことはないさ、プブリウス。僕は知っていたから」
 プブリウスと呼ばれて、目を細める。そうやって自分を呼ぶのは兄や義母くらいになってしまったのに、このおばけが言うと変わらずずっとそう呼ばれてきたようだった。
 この数日眠りを忘れて駆けずり回って、それ以前から労苦を感じる身体を置き去りにしてかかりきりになってきた、その仕事の総仕上げ、といったところだった。膝の上に肘をついて、ただ眺めている。目を焼くような炎の中に、あるいはこの英雄が愛しさえした都市の灰が踊っていた。
「アフリカヌス。知っていたのは、僕がこの国を死に至らしめることですか」
「君が僕を継ぐということさ。いちばん大切なこと」
「僕がこうまでもそれを望むようになることまで?」
「うん、知っていたよ」
 アフリカヌスの見せた笑みは、涙と隣り合った、苦いものだった。プブリウスはそれに驚きも傷つきもしないでいたが、あえて何故と問いたかった。彼がこの国に少なくとも数十年に渡り生き存えるのを許してきたのだ。時が流れた、人が移り変わった、ならばアフリカヌスと呼ばれる男の携える武器も変わる。それを、厭うのだろうか。
 輝かしいものがあった、と英雄はひくめた声でかつて幼子だった男に教える。ここには輝かしいものがあった、混じり気のない黄金があった。
「僕も君も純粋な黄金ではない」
 声は炎に揺らめくことなく凛と、鋭く響く。
 気が付くとプブリウスは立ち上がれまいと思った足で立ち尽くしていた。その傍らにある姿が誰の目にもとまらず、この声が誰の耳にも届かないこと、惜しまなくてはならない。
「僕がそれに気付かされたとき、この国にももう輝くものはなかった。去ってしまったのだから、仕方がない。自分がある意味では紛い物だと知って、それだから僕も去ったんだ。けれど我が祖国は、そういうふうにいなくなった僕が帰るのは簡単な場所だった。こことは違う」
「あなたでさえ紛い物だと仰るなら、なにが純粋なものなのですか」
「ある時ある居場所で、ただそのようにあるだけだ。いまの君のように」
 そうしてふたりが揃って浮かべた笑みはよく似ていた。
「次はいつ会いに来てくださるんです?」
「そうだな、君が死ぬときにでも迎えに来てあげよう。小さなプブリウス」
 風が吹く間もなく掻き消えた姿を、プブリウスはどこにも探さなかった。そこにいるか、いないか、分かってしまう。もう彼はどこにもおらず、呼ばわったとてそれが幼子の泣く声でないと知っていれば、現れまい。
 名を呼ばれ踵を返した。その背を覆う緋色が、彼の知る英雄の姿だった。
 あなたはきれいだと言った、あの言葉は真実を射抜いていた。少なくともあの日、プブリウスの前にあって、彼ほどに純なるものはなかったのだ。

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