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薄ら日

 役に立たなさそうだと思った。
 中庭の木陰、御当主の隣に立たされた少年は表面上にこやかに、行儀よく挨拶をしたけれども、ポンペイウスの目には彼が恐れているのが分かってしまった。それは無愛想に自分を値踏みする年長の少年が乱暴者ではないかという恐れであり、養父となる人物により引き合わされた相手に気に入られないことへの恐れでもあった。
 そんなものを恐れるなんて貴族らしくない。乱暴者であれば叱責し、躾ければよい。気に入られなければ心酔させる努力なり何なりすればよい。そういう技術を幼いころから身につけているのが貴族の子だと、パトリキの生まれでスキピオ家を継ぐ子供についてイタリアの一地主の子は柔和な手を握りながら考えた。
 だからこの子供は、たぶん自分の役に立たない。
「ポンペイウスはローマに来て日が浅い。プブリウス、色々と教えてあげておくれ」
 風が吹けば倒れそうな御当主がそう言うと、彼の養子は頷かないでいられないようだった。そこは俺と同じらしいとポンペイウスは従兄弟同士だというふたりを見ていた。彼らの細かな事情は彼の知るところではなく、二人きりにされてさてどうするか、とため息。
 プブリウスは、今年で八歳になるらしい。成人を間近に控えたポンペイウスからすると、幼児の面影を残した年少者は同じ子供と言っても違う種族だったし、それはおそらくプブリウスも同じだっただろう。
 木の根元に座り込むと、尻が冷たい。屋敷にはこの家の人々だけでなく、いろいろな付き合いを持ついろいろな人々が、彼らの入り込める場所にうろついていた。
 どの部屋にでも入ることのできる子供らは彼らの関心を少し惹いているようだった。だけど彼らがちらりと盗み見るのはプブリウスのほうで、ポンペイウスのほうではない。
「あー……坊っちゃんはここに住んでないんだっけ、まだ?」
「……うん、でも、たまに泊まるよ」
「じゃあ一緒になることもあるんだ」
 えっ、という顔をした。素直な子供ならそんなの嫌だなあと続けそうなところ、プブリウスは誤魔化すようにはにかむ。
「そう……」
「たまには自分ちに帰るけど、行儀見習が終わったら書生扱いになって、まあローマにはずっといる。顔合わせられる日は多いでしょうね」
「…………」
 あまりにあっけなく作り笑いが力を失う。ポンペイウスはもちろん嫌がらせのつもりで言ったが、反撃がないのでは何も面白くなかった。
 両親が自分をローマにやったのは、息子がこういう子供と一緒に学び育ち、人脈を作りのし上がっていくのを望んだからだ。ポンペイウスの家に執政官になった者などひとりもいない。しかしポンペイウス家を庇護するこのスキピオ家には、執政官どころか監察官、凱旋式挙行者、英雄までもが、揃っていた。
 ポンペイウスは実のところローマにやってきてまだ五日ほどで、そろそろここに慣れただろうとプブリウスに紹介された。たった五日でこんな喧しい都市に慣れてたまるかと思う。曲がりなりにもぼっちゃまだの若様だのと呼ばれ育った子供が、こんな、柔弱そうな子供に傅くことにそうそう慣れるものか。
 言葉を探してか目を泳がせていたプブリウスがふいに顔を上げ、ポンペイウスをじっと見つめた。青い瞳には薄情そうな自分が映り込んでいる。
「口笛、上手なんだね」
「? 吹いてた?」
「うん……癖なんだね。僕は吹けないの」
「ああ、まあね、こりゃ父親譲りで」
 どうせ通じやしないと思い言えば、プブリウスはやはりまったく棘に気付かず笑った。コツがあるのだと言って吹いてやると真似をして、本当に下手くそなのでポンペイウスも笑ってしまった。馬鹿にして笑ったのだが、プブリウスはそうやって笑われることを知らないらしい。
「教えてあげますよ、友達の誼みで」
「友達?」
「そうでしょ? 違います?」
「ん、ううん。違わない」
 嫌味を言われることも、嘲笑われることも、偽られることも。この御曹司はそのとき知らなかった。それなのに彼が萎縮して見えたのはなぜか、ポンペイウスは関心を持たなかったので、知らない。


 スキピオ家の現当主は聡明かつ博識、良識ある善良な男だったが、惜しむらくはその健康が絶無であることだった。生白い顔をして、細い手足はやっとのこと動いているというふうに見え、たびたび体調を崩した。自分の体のことをよく理解しているらしく、こじらせるということはない。それがかえって本当に貧弱な者の生き方を表していた。
 彼は優しい。ポンペイウスなどにも高圧的な物言いをしないし、ものを教えるときのやり方には気遣いが満ちていた。ポンペイウスが分からない分からないと半ばふざけて言うのに、何が分からないのかを分からなくてはねと微笑む。
 亡き英雄の長子としてまったく不足していた彼は、おそらくは他者の不足に寛容になったのだ。弟の不行跡をきつく咎められず、妹たちに口で勝つことができず、しかし愛される兄として生きていた。
 厳しいのは彼の母親のほうである。アエミリアは子供たちに厳しく奴隷たちに厳しく、ポンペイウスにももれなく厳しかった。
「プブリウスが怪我をしていたわね」
 行く手に彼女が立っているのを見て頭をひとつ下げて通り過ぎようとした庇護民の子をその一言で止め、居直らせる。女盛りはとうに過ぎていたがもともとがよいのでアエミリアは美しいと言えた。なので、夕闇のなかで恐ろしげな顔をすると迫力がある。
「あなたと付き合わせるようになってからあの子に生傷が増えたわ」
「そうですか? 子供の遊びをしてれば普通じゃないかな」
「あの子にはあまり普通ではないのよ」
「はあ……」
 そりゃ不活発だという意味になるんじゃない? ポンペイウスの内心は如実に顔に出ていたらしく、アエミリアは自分とほとんど目線を同じくする少年の耳を抓った。
「痛い痛い、痛いですよ」
「昨日は足を捻挫して。大きな傷をさせると弟が怒るわ」
「弟って、ええと」
「パウルスよ。あなたくらいなら片手で放り投げてしまうでしょうね。プブリウスに子供らしい遊びを教えるなら、正しい遊び方を一緒に教えなさい。あなたに合わせようとさせないで」
「見てきたみたいだなあ、さすが……痛いって! 分かりました、擦り傷くらいにします、ほんと!」
 聞きましたからね、と言ってアエミリアはあっさり部屋に下がっていった。それ以降ポンペイウスがプブリウスを連れて遊びに出るたび念を押すように睨めつけられることになったが。
 ひりひり痛む耳を押さえるポンペイウスを、洗濯物を抱えた女奴隷たちがくすくす笑っている。馬鹿にされているとポンペイウスにはよく分かった。召使のうち特に女たちは、なんだかポンペイウスを下に見ていた。
 それが、馴染みのない女にいちいち興味を示すませた少年がおかしくて笑っているのだと知ったのは、女のひとりがそう言ったからだった。ベッドの中で。
 別にポンペイウスが女奴隷を無理に部屋に引っ張り込んだのではない。誓って言うが、主人の持ち物に傷をつけるようなことはしない。ただポンペイウスの部屋の掃除などをしていた女が、それらしい仕草をして、それらしいことを言うので、じゃあそういうことだと結論づけただけだ。
「ガキくさい目でジロジロ見るのが可愛くって、つい笑っちゃうの」
「馬鹿にして?」
「それもあるけど、嫌いなら笑いかけないでしょ」
 灯りのない狭い部屋で、闇に慣れた眼はあられもない女の肢体をよく捉えた。ポンペイウスよりもむっつ年上だと言った女は、交わりの余韻も薄く他愛なく微笑む。ポンペイウスはその顔を見てふと、この女がプブリウスによく果物をやっている奴隷だと思い出した。
 内緒ですよと言って、客に出すには見目の悪いものを渡している。見目こそ悪くてもそれらは甘いらしく、プブリウスはいつもきちんと礼を言っていた。そういうことを話してみると、女はまた笑う。
「面白いから。旦那様も大奥様もあの子をまだ自分の子だと思えてないし、あの子も他所の家にいる顔でここにいるじゃない。わたしが優しくすると、ほっとした顔をする。面白いの」
「なんだあ、優しいんだと思ってたのになあ」
「あなたに言われたくないわ……危ないことばかりさせて」
「……ふうん」
 ポンペイウスは、プブリウスがスキピオ家からどこかに行くときによく付いて歩いた。護衛には頼りないのでもうひとり、これはパウルス家の奴隷が彼らの後ろを歩くのが常だったが、自然と少年らは共に遊ぶことになる。
 その度、プブリウスはどこかしらに傷を作った。鎖に繋がれていない犬にいたずらをしてどこまで怒らせないでいられるか試したときには噛みつかれかけて泣いたし、ポンペイウスが泣くなよと言うとそれからは痛い目にあってもあまり泣かなくなったが、ポンペイウスがけしかける遊びを拒めなくなった。弱虫と言われたくないらしい。
 飛び込みとか、木登りとか、木に登っていちばん高いところから飛び降りるとか、ポンペイウスは自分がもう少し幼い頃にやった遊びの他は当然知らないのでそれを教えている。ポンペイウス自身怪我の絶えない子供ではあった。しかしあの御曹司ときたら、まさしく遊び方を知らない。
 いつも何をしているのか。訊けば家で弟妹の相手、おはじき、さいころ、簡単な工作、そういうことばかりだと。あるいは彼のいちばんの友達だというラエリウス家の一人息子と、ただただ喋る。喋るだけで一日が終わる。
 女は、仰向けに足を伸ばして寝そべったまま、不思議とおとなしく話を聞いていた。「だから正しい子供の遊びってやつを教えてるんだろ」とポンペイウスが締めくくると、はあ、と大げさにため息。
「可愛いじゃない、そのままでいいのに」
「女の子みたいじゃん」
「どうせ、大きくなったら戦争の勉強をするんだわ。それで十七になって戦争に行く。だったらいまくらい」
「嫌がる坊っちゃんを引きずり回してるわけじゃないぜ。やりたいかいちいち訊いてる」
「……性格悪いのねえ……」
 しかし嫌悪の見えない顔で、女が起き上がって床に投げ出した衣服を身につける。そういえば初めてだったと声をかけると、そうでなければ誘わないと。性格が悪いのはどちらだろう。
 その女は、もうあんたは可愛くないと言わんばかりに、それきりポンペイウスに構わなかった。白い肌をした、色の薄い女で、割合に好みだったのだけれど。
 ところで、ポンペイウスはローマでプブリウスとだけ関わっているわけではもちろんない。彼は友人を作るのが得意だったから、御当主の荷物持ちをするときには出会う人出会う人に顔を覚えてもらおうとしたし、同年代の友人もできた。
 すると自然と、プブリウスを彼らに会わせることになり、またこれも自然と、プブリウスに質の悪い遊び仲間ができてしまったのである。
 それまでのプブリウスの友人といえば、ラエリウスを筆頭にお行儀のよい子供たちが揃っていた。親を通じて知り合った貴族の子弟や、彼らと共に育った奴隷の子。無邪気にふれあい、遊び、幼い時代をともに穏やかに消費する仲間。ーー刺激がないのだ。
「こんな時間に、何をしてる」
 こりゃ怖いぞ、とポンペイウスが首を竦め見上げた男は、驚いた顔をして子供らを見下ろしていた。ポンペイウスから順繰りに、ひとりひとりの顔を確かめ、最後に、彼の次男を。
 ポンペイウスに手を引かれていたプブリウスは、何故かほっとした顔で父親を見上げていた。他の子供達はいまにも逃げ出しそうに足踏みをしているのにだ。
 彼の父親、パウルスは、プブリウスを招き寄せてもう幼児ではないというのに軽々と抱き上げた。こんな時間、と彼が言ったように、既に日は陰っている。
 既に成人している十四、五の者からプブリウスくらいの年頃までが混ざった集団は、年長者の友人の家に向かっていた。両親の亡いその青年の家で、悪い遊びをしようと。
 しかしパウルスにそのように言うわけもなく、ポンペイウスはいちばん家の近い者を指差し、「彼を送る途中だった、遊びに夢中になっていて夕方になっているのに気付かず、危ないので一人ずつ家に帰してていくつもりだった」と出任せを述べる。
「なるほど、スキピオ邸は最後になるな?」
「あー、そういえば」
「従僕はどうした、この子と一緒に家を出た筈だが」
「さあ……はぐれちゃって」
 いまごろプブリウスを探し回って死にそうな顔をしているかも。
 パウルスは子供から言葉を引き出すには笑っていたほうがいいのを分かっているらしく、顔だけ見れば怒っているようには見えなかった。彼らの立つ街路をまっすぐ行けばパウルス邸にたどり着くので、何かの用事を終えたパウルスが彼の息子を見つけたのは偶然だが、確率の高い偶然だった。
 プブリウスは父とポンペイウスの顔を見比べる。おい、庇えよ、とポンペイウスもその他の友人も思ったが、彼は黙り込んだままだった。
「スキピオが、ポンペイウスはプブリウスにとっていい刺激になるだろうと言ったが。刺激は刺激でも、よくないものだな。遊び仲間が父親の頭を悩ませている聞かん坊揃いとは……」
「あのう、もう夜になっちゃう……」
「私がいて、従僕もいて、危ないことはないさ。だがそうさな、一人ずつ家に送ってやろう」
 子供らの嘆息が一緒くたになって響いたのを、パウルスはさもおかしげに笑って流した。この人が尊敬されていて、自分たちの親が彼の説明をーーそれがいかに優しくともーー疑わず息子をこっぴどく叱るだろうと、全員が予想しての嘆息だった。
 言葉の通りひとりひとりを家に送り届け、それぞれの親に顛末を説明し、まあ叱ってやらないでくれと言いながらも自分の息子を大切そうに抱いたままだったパウルスは、最後にひとり残ったポンペイウスを読めない目で見下ろした。彼らを先導する奴隷の持つ灯りより、この凱旋将軍のほうが夜の不気味を追い払っているかのようだ。
「スキピオにも話したら、お前はこの子とは遊ばなくなるかい」
「いや、それはしませんけど……俺のことぶん投げないんですか?」
「どうして」
「アエミリア様が……」
「ああ、そうだな、息子が取り返しのつかない目にあったら川にでも投げ込むだろうが。今日は未遂だから」
 眠っているのかと疑われるほど静かなプブリウスはしっかり目を開いて、ポンペイウスを見ないでいる努力をしていた。
「悪い仲間を紹介するのはやめてほしい」
「悪い悪いって言いますけど……坊っちゃんには必要ですよ、俺が思うに」
「ほう?」
「坊っちゃんはそりゃいいお友達をお持ちで、まー大人になってもああいう感じで付き合うんでしょうけど、フォルムに坊っちゃんが懐くような人間が何人います? この人と友達になりたい人間なんかその半分は性悪だし、でも、そういう性悪だって役に立つでしょ。要するに、悪い仲間も持ってですね、いい仲間も持って、使いこなさなきゃ。こいつほんとは嫌なやつだな、でもいまは仲良くしとこう、これができなきゃ困るのは坊っちゃんだもん」
「よく回る口だなあ、弁論家になれそうだ」
「よく言われますね」
「しかし危険に晒していいという結論にはならないな。ポンペイウス、お前だって前途ある身で、安い関係を持っておかしなものをもらったのでは後悔する」
 ナンノコッチャ、と思ったのは一瞬で、合点してポンペイウスはけらけら笑った。ポンペイウスなんかが買える娼婦が性病を持っていない訳ない。きょとんとしているプブリウスの関心を逸らすためにパウルスはひとつ腕を揺すり、諭すように言った。
「プブリウス、お前もまずいと思ったらきちんと言わなくては」
「……」
「行きたくなかったろう、周りはよく知らない子ばかりだし、もう夜になりかけていた」
「……うん」
「そう強く言いなさい。あの場で、お前が嫌だと言うことを無理強いできる者はひとりもいなかったんだ」
「はい、父上」
 このポンペイウスにだって、お前が遠慮して縮こまる必要、ひとつもないんだ……とは続かず、彼らはスキピオ邸の門の前にいた。奴隷が門番に声をかけるとすぐに御当主とその奥方が姿を見せ、安堵した、と分かる顔をする。
 パウルスは彼らにポンペイウスがした嘘の説明をした。それに内心驚いているポンペイウスを甥が疑うことはあるまいと知っているような振る舞いだった。
 奥方がプブリウスを、子を産めなかった彼女の不足を埋めるための子供をそっと覗き込み、髪を撫でる。
「今日はもう、おうちに帰ったほうが安心ね」
「でも、あの……」
「いいの、なんだか大変な日だったみたいね。お父様のお側が、安心するでしょう? ……」
 明後日までプブリウスはスキピオ邸に泊まる予定だったのだ。奥方は頷いたプブリウスの髪をもう一度、ただなぞるように撫で、家に入るようポンペイウスを促す。
 旦那様はパウルス様と少し話すだろうから、と。そう言われては従わないわけにいかず、ポンペイウスは門をくぐってから一度だけプブリウスを振り返った。子供は俯いて、父親のトガを握りしめるばかりだった。


 目があってにこりと笑みを浮かべた彼にやあ、と声をかけられ、ポンペイウスは気持ちの籠もらない挨拶を返した。スキピオの周囲にいた市民だの非市民だのはポンペイウスを見てなぜか仲間を見る顔をしたが、お前らとは違うからなと言葉にせず念を押す。
 朝のフォルムにそれなりの集団を見つけたとき、それがこのスキピオを中心としたものであることが、このところ多い。正式に養子に入り家督を継いでからは彼を坊っちゃんなどと呼ばず家名で呼ぶポンペイウスが、それをどう思っているのだかスキピオは気に留めていないのだった。
「ポンペイウス、どうかした?」
「いえね、姿が見えたもんだから……挨拶しないで素通りしたらアンタ怒るでしょ」
「君だって嫌そうな顔をするじゃないか」
 そうだろうか。そうかも。坊っちゃんのくせにと思う顔が、拗ねた顔として受け止められている可能性が多分にある。
 スキピオを囲む者たちのなかには、ポンペイウスが見覚えのない顔も混じっていた。つまりスキピオも初対面で、そのくせその男がスキピオと言葉を話す態度はまるで、馴染みある相手にするそれなのだ。その気にさせているのは間違いなくスキピオなので、馴れ馴れしいと思うのは酷だった。
 そこに、身分ある者はいない。スキピオが屋敷から連れている随行者が騎士階級なのでまだまし、という程度で、あとは有象無象である。しかし声が大きく、騒ぎを大きくするのが巧い者もいた。
「そうだ、ポンペイウス。このあと時間あるかな」
「このあと……夜にはありますよ。なんです、夕飯食べさせてくれるとか?」
「まあいいよ、それで。適当な時間にうちに来て」
 快諾し、スキピオと別れフォルムを離れてから、しまったと思った。いまスキピオ邸にはあのギリシア人がいるではないか。ーースキピオにフォルムでひろく友人を作ることを教え、ひとりでも新しい友人ができるまでは帰ってくるなと、聞きようによっては母親じみたことを言ったあの家庭教師。
 どうしようもなく苦手な相手だった。荷物持ちの従僕に百面相していると指摘されても顔を作り直せないくらいには。マケドニアでの初陣から戻ったスキピオが何を持ち帰ってくるかと思えば、見透かすような目で人をじっと見るギリシア人を連れ帰ってきた。
 正確にはスキピオの意思ではないが、そばに置いているのははっきりとスキピオの望みだ。その慕いようは拾われた子犬もかくやという有様だった。
 約束をしたからには、訪ねない訳にはいかない。ポンペイウスがスキピオ邸で生活したのはほんの数年のことで、主が変わって空気が入れ替わったあの屋敷は、既に馴染みが薄かった。
 夜の帳が下りる頃に足を運び、勝手知ったるとばかりにアトリウムを抜けたポンペイウスを、奴隷が食堂へと案内する。いくらか奴隷も顔が入れ替わっていて、あの女奴隷はどこかに売られたか嫁に出されたかしたようだった。
 書面に目を落としていたスキピオがこちらに気が付く。
「やあ、来ないかと思った」
「約束したんだから来ますって。……あれ、先生は?」
「ラエリウスのところ。もうすぐ一緒に来るよ」
 食堂はもう用意ができていて、客を待つばかりといった様子だった。主宰の下座に落ち着いているスキピオとその他の席を見比べ、あのギリシア人を上座に置くのはいいとして自分とラエリウスはどう扱われるだろうかと思案する。ラエリウスの性情や日頃の振る舞いを見るに、年長者を立てそうなものだが。
 なんとなく面倒になりアエミリアに挨拶をすると言って一度食堂を出た。彼女は晩餐の席に混ざることはせず、横臥せず椅子に腰掛けて食事をすることを徹底しているし、夜が早いのだ。
 アエミリアは自分の部屋にいた。ポンペイウスが声をかけると部屋を出て、裏庭に並べられた椅子へ向かう。
「本当はファビウスが来る予定だったのよ」
 抜け目ない奴隷から膝掛けを受け取り、アエミリアが言うので、立ったままのポンペイウスは首を傾げる。
「それで俺って、珍しいですね? あの解放奴隷の作家じゃないんだ」
「たまには仲間に入れておこうということでしょうね。あなたは退屈なのではない?」
「退屈じゃないけど、まあ、口に気をつけなきゃなあ」
 下品な冗談に笑ってくれないし、人の悪口も外すと叱られるし。ともすれば哲学だの法学だのの話に深入りしていく面子なので、予習をさせてくれといつも思う。
 ふと、アエミリアの機嫌が悪いと悟って、ポンペイウスはますます首を傾げた。原因に思い当たる節はなく、まさか自分のせいではないだろう。
「……スキピオはさいきん、調子がいいみたいで」
「そうね」
「あの先生の影響でしょうかね」
「自信がつくみたいだわ、あの人と話すと……それが上辺だけでなくなればいいわね」
「はあ」
 上辺、とは。ポンペイウスがへらへらしているのを横目にして、アエミリアがふっと笑う。
「あなた、昔はあの子を操縦するのが上手だったじゃない。今はどう?」
「うまいこと乗せるのはできるでしょうけど、ラエリウスやあの先生には負けるかな。それに、アエミリア様のお叱りに比べると俺のおべっかなんてそよ風ですよ」
 アエミリアに部屋に来るよう言いつけられるたび、幼いスキピオは肩を落としていた。長い長いお説教ののち解放されると途方に暮れて、僕はあの方をがっかりさせてばかりだと呟いたものだ。
 養父が優しい分だけ養祖母が厳しくしていた。ポンペイウスからすれば親切な振る舞いだったが、当人は切実だった。大丈夫大丈夫とポンペイウスが適当に声をかけたところで、気休めにもならず。
「あの子に不安だと言ってしまったの」
 その吐露がいまここでなされるのは、ポンペイウスが信を置かれているからではないだろうと思う。ポンペイウスは相手が若い女ならしただろう振る舞いを慎んで耳を傾ける姿勢を取り続けていた。
「あの子は可愛いわ、甥ですもの。けれどこの家を……夫の後を継ぐ子供にはたくさんのことを求めたかった。いくらそう言っても私の前では頼りない男の子のままで、なのに……ただ私を嫌っているのかと思うと、憎たらしくて」
「……嫌ってます? そうは見えないけど」
「嫌がっていると言ったら、どう? ごめんなさいね、こんなこと、まさか弟に話すわけにもいかないから」
「俺、忘れっぽいから。この後酒も頂ける筈だし」
 そうね、と痛みが軽くなったような風情を漂わせるアエミリアが、ひとつ手を振る。追い払う仕草に簡単な挨拶をして、また食堂に戻る庇護民に、彼女は命ずるかどうか迷った筈だった。いま言ったことをスキピオには漏らさぬよう……本当は漏らしてほしいのかもしれない。
 食堂に入ったポンペイウスを、いつの間にやら揃っていた客人が迎える。ラエリウスはポンペイウスに上座を譲る位置を占め、遅れたことを詫びた。
 人数が少ないので臥台はふたつだけで、ポリュビオスとポンペイウス、ラエリウスとスキピオがそれぞれに横たわるかたちになる。
「ねえポンペイウス。アエミリア様、どんなご様子だった?」
「いつも通り。どうして」
「……僕が君にこう訊くときって、決まりきってるだろ?」
 怒られたあと、ポンペイウスに様子見をしてきてくれと頼むのが、説教からの一連の流れだった。分からぬふりで笑うポンペイウスにスキピオはそれ以上尋ねず、杯を掲げて短く挨拶を述べる。
 自分の席にファビウスがいたなら、これはまったく気心の知れた連中だけの夕食だったわけだ。
「彼女、機嫌が悪かったのではありませんか」
 ポリュビオスの声は、騒がしくもない食堂でどういうわけかポンペイウスにしか聞こえなかった。
「悪かったっちゃあ、悪かったです」
「私と相性がよろしくないようで」
「へえ……あの人も同じようなこと思ってそうでしたよ」
「そうでしょうね」
 自分が負けているわけではない、と言っているように聞こえる。
 勝手に想像していたよりもよく食べるらしいポリュビオスは、鹿肉に手を伸ばしながらポンペイウスの故郷に話題を移した。どのような土地か、産物はどうか、気候は……そんなこと住んでいる者は気にしないということまで聞き出した後、いつか訪ねましょうと。
「訪ねられるんですか? ローマを離れて?」
「今すぐは難しいでしょうが、スキピオが手配してくだされば叶います」
「スキピオ、先生こんなこと言ってるけど」
 慌ててスープを飲み下したスキピオは目をぱちくりさせて、「手配って……」とまごつく。それでもすぐ気を取り直し、もちろんですと宣言した。十八にしかならないくせに。
「ポリュビオスが足を運びたいところには、僕が連れて行って差し上げます」
 さも嬉しげに、誇らしそうに言う。このごろこういう顔をするようになったスキピオを見ると、ポンペイウスは明るい気分になるのだ。
 これなら、寄りかかっていても共倒れにはならないだろう。これなら、しっかりとした階梯を造ってくれるだろう。ポンペイウスは誰かひとりに望みをかけるやり方をせず、自分を最も信じているが、役立つものを見過ごす男でもなかった。
「仲良いなあ、羨ましいくらい」
 彼のつぶやきを特に気に留める者はなく、彼が笑う理由を尋ねる者もなかった。


 腰掛けた椅子がぎしりと嫌な音させたので少し腰を浮かしたポンペイウスに、音だけだからとスキピオが言って、自分は執務机につく。
 監察官殿はポンペイウスが落ち着くのを待って、うちに呼び出した用件はわかっていると思う、と出し抜けに言った。分かっていないふりをしようかと思ったがやめ、「執政官選挙のことでしょ」と返す。
「そう。君、今年は立候補するつもりだろう」
「資格に達したんで……」
「もうひとり資格に達した男がいるんだよ」
「あー……そうっすね」
 しらばっくれるのも馬鹿らしい。胸中には面白くなさとかすかなむかつきが満ちていて、ポンペイウスの返答は胡乱だった。スキピオはそれをどう受け取ったものか、困ったように笑い、怒らないでほしい、そう囁く。
「ラエリウスに先にこの話をすると君に譲りかねないから、君と先に話してるんだ」
「譲らないでしょ、普通」
「そうと言い切れないよ。……君たちのどちらかが、平民でなければいちばんよかったのだけど。パトリキではグナエウス・カエピオが当選させられそうなんだ」
「じゃあどっちでもいいんですね、俺とラエリウス。いやいやそんな顔しないで。分かってますって」
 正規の選挙を経ずに執政官となり、カルタゴを下し、凱旋式を挙げて、監察官を務めている男は、机の上に組んだ手を何度か動かして、目を伏せる。
「来年は、きっと君を推そう」
「ええ、当てにしてます」
 申し訳ないというより、気まずい、という思いでこんな顔をするのだ。
 おや、ポンペイウスも立候補できるのだな、と気が付いたとき、悩む間もなくこうして譲歩を求めると決めたのだろうに、悩ましげに。大人になったなあと、場違いな感慨がポンペイウスに口を開かせた。
「俺は来年に機会を待ちますよ。今年は、ラエリウスをあちこち連れ回して当選できるようにします。頼もしいでしょ」
「ああ、とても。……すまない」
「いいんですよ、友達だから」
 くすりと笑いをこぼして、スキピオは頷く。
 嫌味を言われることも、嘲笑われることも、偽られることも。とうに慣れて、その気配に聡くなったはずなのに、スキピオはほっとして目元を和らげる。ポンペイウスは彼に何度も友達だと言ってきたが、スキピオは一度もこの顔をしないことはなかった。
 何度か不興を買ったことがあっても、彼の態度から角を取ってしまうのもポンペイウスは得意だった。それは何もスキピオに対してだけでなく、ポンペイウスの持つひとつの特技だ。おかしな人だな、そう言って、スキピオは下等な友人を許してきた。
「そうだ、君に紹介したい依頼人がいるんだ。土地についての係争で……」
 文箱を探って目当ての書状が見つからないのか席を立ったスキピオが、棚から別の文箱を取り出しかけて、ポンペイウスを振り返った。
「口笛……」
「え? また吹いてた?」
「うん。君、教えてくれると言ったのにいつも自分が吹くばかりで、コツを言ってくれなかったね」
「そうだっけ……いやそれはさ、多分アンタがあんまり下手で諦めたんだよな……」
「じゃあ諦めが早すぎるよ、容赦ないんだから」
 元老院で暇だと思ってこの癖が出たことがあり、よくないと思っていたところだった。
「君はいろいろと器用で、羨ましいときがあるんだ……」
 そんなことを言いながらスキピオは、ポンペイウスを法務官にまで上らせてやったのは自分だと思っている。ポンペイウスが持つ人脈や人心を掻っ攫う術などは自分の手の内にあるもので、それは結局、ポンペイウスがスキピオに捧げる剣のようなものだと。
 そのまま言えば否定するだろう。そんな風に思わないでくれと、真摯に友情が示されるだろう。スキピオはそういうとき嘘をつかないから、素直な人間なら疑って申し訳ないという気持ちになる。なってしまう。ポンペイウスは可愛げがない男なので、この野郎と思うばかりだ。
 この野郎、自分の助けがなけりゃ俺は執政官になれないとでも思ってるのか。出会って間もないとき、監察官にだってなるつもりだと言ったポンペイウスに、頑張らなくてはねと幼い驚きを見せた頃からなんにも変わっていない。
「それって何かの歌なのかい」
「さあ……親父の真似なんで、俺は知らないんですよ」
「そう、お父上の」
 しかし昔は気が付かなかった棘に気が付いて、スキピオは書状をポンペイウスに手渡しながら、「よいところが似たのだね」と。
 ポンペイウスが彼の機嫌を損ねたとき、スキピオは友人たちに、あの男は口笛が巧いのだと言ったという。フルート吹きの子だから、楽器を持っていなくとも何か吹いていないと気がすまないのだ。法螺吹きという当てこすりだっただろうが、とどのつまり、スキピオはそういう人間だった。
「この件はお引き受けしますよ。ーーああ、ラエリウスに話しておいてくださいね、力をお貸ししますって」
「うん。きっと彼も喜んでくれるだろう」
 夕食はとついでのように訊かれ、約束があると嘘を吐いた。門まで見送りに出たスキピオはいつも、相手の姿が見えなくなる前に屋敷に入る。
 振り返ってみたのは気まぐれだった。意味などあるはずもなく、だからスキピオと目が合ったのに意外だというくらいしか感想がなかった。
 彼は道行く人々に紛れ込みかけている彼の友人に、不思議そうに首を傾げて、ゆるゆると手を振った。あんまり立ち止まったままでいると忘れ物かと近づかれそうで、ポンペイウスは早足にその場を離れる。またね、と別れの言葉を交わしたらあっさり背を向けるのだろうと思っていたのに、単に行き違っていただけだったらしい。
 いらぬことに気が付いた。そんなことは知らないままでよかったのだ。

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