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翼下の洞

 羽撃きを聞く。彼らは飛び立っていった影を見上げ、暫くして、互いに顔を見合わせた。無言が続いており、それはまた引き伸ばされたが、彼らのどちらも息の詰まるような思いはしていない。
 鳥卜官の集まりへ向かう途中だった。ラエリウスは前回の鳥占いの練習に出ていなかったが、その日には誰より早く到着しておこうというつもりで屋敷を出たのだ。生憎、同じ道を歩く同僚に出会したので自分がいささかゆったりしすぎていたと思い直すことになったが。
 隣を歩くメテルスがいくらか歩調を緩やかにして歩いているらしいことをラエリウスは察し始めていた。元老院などで見かければいつも肩で風を切るようにして歩いていて、その印象ばかりが強い。それでも誰かを伴っていればそれに合わせて歩くことくらい、彼にだってできるのだと、思い出すようにして思う。幼い子息を連れていた頃にはもっと気を遣って歩いていたに違いなかった。
「……お礼を言っていない」
 フォルムに差し掛かれば行き交う人は多くなり、喧噪はその大きさを増した。ラエリウスの声はそれに霞んでしまいそうなものだった。メテルスが立ち止まりかけたので、苦笑して先を促す。
「ご子息にはお伝えしたが、あなたには、お礼を申し上げていないと思って」
「なぜ貴公が礼など」
「それは、やはり嬉しかったからでしょうね」
 あの夜、ラエリウスは孤独を覚えなかった。親友を喪ったにしては揺らぎない自分の足、眼差し、冴えた指先は、彼の努力によってだけ手に入ったものではない。多くの人が歩くなかで、多くの人が嘆いてくれるなかで。
 この人の姿を見つけたとき嬉しかったのは、彼とラエリウスの親友との断絶を知っていたからだ。十年ほど前になるだろうか、法廷での論争を最後に彼らは公の場で連れ立つことがなくなってしまった。もちろん、公の場でなければ友人と認めていたかもしれないけれど、たったそれだけの友人にどれほどの意味を見いだせるか。
 日差しに眩しさを覚え始める季節に、メテルスは気疲れしないのだろう。彼はラエリウスよりも年長だったし、ラエリウスよりもずっと多くの栄誉をその手で得てきたひとだったが、その気概はよくも悪くもなく青年の時分と変わらなかった。
「彼の話をしたい?」
 その問いかけに、ラエリウスは少し逡巡した。当惑したのかもしれない。見上げた双眸が同僚をちらと見てからまた真っ直ぐ行く手へと延ばされる。
 それで、ひとしきり彼の心をざわめかせた緊張が、力を失って腕を落とした。行き交う人々の中に見知った顔があれば挨拶を交わしながら、ラエリウスはどうだろうと曖昧に笑った。
「私に彼の話を求めてくれたのは、はっきりとは、ファンニウスとスカエウォラだけだった。私はなんだかそれで満足していたのだけれど、……あなたにそう訊かれると自信がない」
「もっと多くの若者が貴公を訪ねてもおかしくはないのに」
「そうですね、望んでいた者は多いのかも。でも、私にだって望む望まないというものがある。トゥベロとは少し話しましたし、出会う人とは言葉を交わすけれど、違いだってある。そうでしょう」
「それでは、私では聞き手には不足があるのかな」
「いいえ。完璧ですよ。私のほうこそが、なんだか、あなたと話すのには……」
 ラエリウスが言葉を切り、また自分を見上げるのに、メテルスは眉ひとつ動かさないでいた。
「彼の話をしたいのですか」
 彼は答えなかった。ラエリウスは自分が正しく察し、そしてしくじりを犯したのを知りつつ、それを口に出さないでいた。おそらくそこまで述べたら、法のように厳しい誇り高さを持つこの男は肩を並べて歩くのをやめてしまうだろう。
 しばらく言葉なく歩き、マルスの野が視界に入った頃、ラエリウスは自分でも驚くほど素直な気持ちになった。それではつい今しがたまでの私は閉塞してでもいたのかと、目が覚めるような心地で何処であれ無言を恐れない男を呼ぶ。
「あなたのお宅に伺ってもよろしいですか」
 かつて親友とともに訪れたことがあったのを思い出さずにいられない。けれどそれはそれであって、いまこのとき、何を遮るでもなかった。
 メテルスは軽く頷き、歓迎すると付け加えた。


 ガイウス・ラエリウスの生まれた場所、彼が生来持ち合わせたものは決して、特別なものではなかった。彼の父は確かに、執政官という顕職を経験し、フォルムにおいて一定以上の立場を持つ男だった。けれどもガイウスの暮らす家は、広間に先祖の像など並んでいなかったし、あくまでこじんまりとして、父と母、その一人息子であるガイウスとが、最低限の奴隷と暮らすのに十分な広さがあるというだけだったのだ。
 そう、ガイウス・ラエリウスという名が示すように、彼と同じ名を持つ父は平民だった。それも、先祖を辿ろうにも祖父や曽祖父のことを思い出話として語ることができるといった程度の家、つまり、ごく平凡な生まれであった。
 そうした生まれでありながら元老院に席を占める者たちは新人と呼ばれる。取り立てて珍しい存在ではなく、ラエリウス家の他にも当主の他には官職経験者を持たない家というのはいくらかあった。そしてその子として生まれたならば、それは単なる平民ではない。
 父は自らの生まれを恥じず、かつて舐めた辛酸も貧しさも、遠く過去に押し込めようとはしない男である。それでこそガイウスは父と、父がいつも自分には出来過ぎていると言ってやさしく接する母から、ありのままを聞かされてきたのだった。
 彼は彼の友の話を好んで子に聞かせた。その友こそが彼の立身のひとつの要因であったからであろうし、その友こそが、彼の人生における星であったからであろう。英雄の様々な逸話はガイウスのすぐそばにあった。彼の生家は平民に添うものとしてあるというよりは、貴族の側にあり、スキピオ家とのつながりはおよそすべての前提としてガイウスにとり存在した。
 そのスキピオ家が暮らすリテルヌムを訪れたのは、ガイウスが四歳になって間もない頃だった。父は以前から頻繁に足を運んでいて、息子を連れて行く気になったのは単に当人が興味を示したからだった。ローマを離れた田舎、海にほど近い静かな場所、そこが英雄の最期の地である。
「すごい、歩いてる!」
 それがガイウスを見ての、スキピオの第一声だった。面食らって母に縋っていたガイウスはしゃがみこんで目線を合わせてきたその男がスキピオだと、言われないでも分かっていたのに、彼は子供の当惑は名乗っていないせいだと思ったらしかった。
「憶えてなくて当然だね」と目を細め、名を述べて、人懐っこい子犬がするみたいに光を湛えた瞳でじっと待っているーーそれを見ると、ガイウスは父の言葉を全て信じぬわけにいかない。父の語るスキピオ・アフリカヌスは炎よりも明るく人を照らす奇跡であり、赤子よりも人を困らせ人に愛される天性の人たらしだった。
「ぼく、ガイウスです。はじめまして……?」
 ではないのか、と父を見上げスキピオを見返すガイウスは、ふと視線を感じ玄関広間を見回した。スキピオはすぐにその関心の揺れに気が付き、目線を追う。
 柱の影でこちらを窺う小さな影がふたつ、隠れているつもりで隠れきれないでいた。ガイウスと目が合った少女が早々に姿を見せ近づいてくると、彼女が驚くほど可愛らしい顔をしているのが分かる。その少女に手を引かれて、彼女より少し背の低い男の子もやってきた。
「ごきげんよう、ラエリウスおじさま。……この子がガイウス?」
「ああ。ガイウス、こちらがスキピオの娘さんのコルネリア。おまえよりふたつ年長だ」
「それでこの子がクィントゥス」
 スキピオはやや不安げにしていた男の子を引き寄せて娘の手からやんわりと遠ざけてやり、ガイウスの方へ向き直らせた。
「パウルスは知ってる?」
「……はい」
「彼の長男だよ。今日この家には三家族が揃ってるからね、仲良くしなさい」
「仲良くしましょう」
 家を案内するからとコルネリアに広間から奥へと連れて行かれるガイウスとクィントゥスを見送る大人たちの、囁き声のような会話が耳に入る。……今日は顔色がいいな。子供に囲まれるとつられてしまうんだよ……。
「ここがお姉さまと私の部屋。お兄さまたちの部屋はまた別にあるの」
 屋敷は広々としていて、ガイウスの暮らす家よりも昼の明るさをめいいっぱい吸い込んでいるようだった。コルネリアの両手にそれぞれ引かれながら、クィントゥスとガイウスは口を開かないまま娘たちの部屋を眺めた。
 おもちゃがたくさんある、と思い、けれど女の子のおもちゃなのでよく知らないものばかりでそれだけだった。人形がいくつも重ね置かれているそばに彼らは座り込んで、戸口のあたりに彼らの子守奴隷がそれぞれ控えた。さて、とコルネリアがもったいぶった風に呟く。彼女の父親と同じきれいな瞳が眉を下げている男の子たちを順繰りに見つめた。
「ガイウスとクィントゥスは初めて会ったの?」
「はい」
「せっかくなのだからお友だちになるといいわ。男の子はやっぱりたくさんお友だちになっておくといいみたいなの。お父さまたちも小さな頃からのお友だちなんですって」
「……クィントゥスのお父さまは……」
 知っていると言ったものの顔がなんとなく思い浮かぶだけだったガイウスに、クィントゥスが首を傾げる。
「……あの、どういう……」
「僕の父上はスキピオさまの奥さまの弟なんだ」
「そうなの……じゃあ、コルネリアとクィントゥスは家族なんだ」
「いとこね」
「いとこ?」
「私のお母さまとクィントゥスのお父さまがきょうだいだから私とクィントゥスはいとこ、ってお兄さまが言ってた」
 ガイウスは自分だけがよその子供なのだと知ると口が重たくなったように感じた。コルネリアとクィントゥスが彼らの家族について話し始めて、なんのことだか分からないので黙っている、というのは、面白くはない。
 スキピオに会ってみたくて父について行きたいと言ったのに。会えたからもういいだろうということではなく、もっと話してみるとか、そばにいてみるとか、期待したのとこれは違う。ただ行儀よくしているのは得意だったので膝を抱えてふたりをただ視界に入れていた。
 クィントゥスがこちらに何か話しかけようとしたときだった。ふいに、彼は戸口の方を振り返った。コルネリアもガイウスも何を見ているのかと思ったが違って、遅れて彼らの耳にも泣き声が届いた。赤ん坊が泣いているのだ。
「プブリウスだわ」
 コルネリアがそう言ったのとクィントゥスが立ち上がったのとはほとんど同時で、ガイウスはコルネリアにまた手を握られてクィントゥスを追った。
 海側にある庭先に椅子が出されていて、そこに子供らの親たちと、コルネリアの兄姉、それにガイウスよりずっと幼い子供がいた。その子はガイウスの知らない女性に抱かれ、如何ともし難く苦しそうに泣いているのだった。
 子供らが寄って来たのにガイウスの父が振り返って苦笑するが、誰もそのけたたましい泣き声を嫌がっていないのはガイウスにもすぐに分かる。クィントゥスが近づいていって、赤ん坊の頭に触れて何か小さく話しかけた。泣き声が小さくなって、けれど気が済んだのではないと言うみたいにぐずっている。コルネリアはそわそわとそれを遠巻きにしていた。
「ガイウス」クィントゥスが手招きしてくれて、赤ん坊の顔の見えるところに立った。「この子は僕の弟の、プブリウス」
「……どうして泣いてるの?」
「さあ……じぶんでも分からないのに泣くことがあるんだって」
 膝下で子供たちが囁き声で話すのに少し笑み、プブリウスを抱いていた女性が抱き方を変えてガイウスとプブリウスとを向き合わせる。青い目がぱっちりと開いて、初めて見る相手の顔を見た。
「クィントゥス、すこし抱いていてあげて」
 そう言ってクィントゥスに弟を抱かせたのが彼らの母親だとガイウスはずいぶん遅れて気づいた。子守奴隷がすぐに手助けして、地べたに布を敷いてくれた上にクィントゥスとガイウスとは座った。兄のまだ小さな体にへばりつくようにして抱かれたプブリウスは、涙で濡れた目でじいっとガイウスを見つめ続けている。ガイウスが首を傾けるとプブリウスも傾き、元に戻るとそれをまた真似する。
 こんな小さな子供を見るのは初めてだった。と言うよりもガイウスは自分より幼い存在にきちんと出会ったのはこれが初めてで、ついさっきまでの身の置き場のなさなんてどこかに吹き飛んでいた。
 少し手を伸ばして、ふにゃんとした髪を撫でる。一生懸命泣いたせいか汗ばんでいて、体温が高かった。プブリウスは嫌がらずにガイウスに触れられるまま、いつの間にか泣き止んでいる。
「プブリウスはガイウスさんを気に入ったみたいね」
「ほんとう?」
「ええ。だって……」
 知らぬうち笑顔になったガイウスと、彼女の長兄の膝に収まっているコルネリアとを、プブリウスの母親は見比べてくすくす笑う。コルネリアは少しばかり臍を曲げた様子で、腕を組んでこちらから顔を背けていた。
「どうしたの?」
「コルネリアさんが触るとね、泣いちゃうの。クィントゥスがいるとすぐ泣き止んで機嫌を直すのだけれど……ガイウスさんのことも好きなのね。ねえプブリウス?」
 母に鼻先をつつかれて身を捩りながら、プブリウスは嫌がっているのでなくて嬉しがっているようだった。くたくた動く弟を捕まえるクィントゥスが母に頷き、口元を和らげてガイウスに言った。
「プブリウスのお友だちにもなってくれる?」
 予想だにしないほど強い力でプブリウスに指を握られながらの言葉だったので、ガイウスはただ何度も頷いた。クィントゥスがプブリウスのかわりに頷き返し、弟にまた小さな声で何か囁きかける。
 兄弟は互いの目を覗き込んで、ガイウスには意味の取りづらいやりとりをしたが、要するにプブリウスにガイウスの方へ行くかと尋ねていたらしい。自分では動かないのかと思われたプブリウスが兄の膝を下りて数歩をこちらへよろめき歩いてきたので、ガイウスは慌てて膝立ちになってそれを抱きしめた。
 体を丸ごと預けてきたプブリウスはあたたかいし、重たい。それになんだか甘いにおいがする。
「プブリウス」
 名を呼ぶと、応えらしきものがあった。まだ父母と兄を呼んだり、周囲を真似して言葉を発したりするくらいしかできないのだと、クィントゥスが教えてくれる。
 ぺたりと座り込んだガイウスは、思わず父を振り返った。父はパウルスと話していて息子の目線を拾えなかったけれど、スキピオがこちらを見ていて、うんうんと頷く。何かしらの同意が得られてガイウスは嬉しかった。おとなしい性向で、はしゃぎまわるということをしないのに、いまばかりは歓声をあげて転がってもいいというくらいいい気分になっている。
 ーー僕はこの子に会うためにここに来たのじゃないかしら。
「君たちに囲まれてるのが落ち着くようだね」
 子供たちが自分たちに落ちた影に顔を上げると、スキピオがおかしそうに笑っていた。彼はクィントゥスを胡座をかいた膝に軽々と乗せて、驚きに身を竦めた少年の身体に腕を回した。
「クィントゥスとプブリウスは、お祖父様に似ているみたいだ。ガイウスは父親似かな、それにしては品があるけど」
「おじいさま?」
「パウルスの父上は、君たちと同じ色の髪をしていたよ。瞳は……ちょっと違う。それはマソ家の血が出たのかもしれない」
「スキピオさまは、僕らのおじいさまのこと、よく知ってるの」
 どうしてか声を小さくして尋ねたクィントゥスに、スキピオは頷き、子供の髪に頬を寄せる。そうして瞼を閉じた彼の顔は、ガイウスの父に比べると窶れて、痩せているのだった。
 彼は美しいひとだった。ガイウスはそれを知ったのが今日初めてではなかったのに、驚きを持ってスキピオを見上げた。身体を反転させたプブリウスをクィントゥスがされているように腕におさめ、小さな体にはまだ大きく思えるブッラを握る。
「とても正しい方だった。すこし気難しいところがおありだったけれど、優しかったよ」
「好きだった……?」
「うん、とても」
 それを聞いたクィントゥスがとても嬉しそうに顔色を明るくしたので、彼にとっては何か大切なことだったのだろう。
「ガイウス、この間お誕生日だったんだってね」
「うん……よっつになりました」
「そうかあ。僕と君のお父さんが友達になったのもそのくらいの歳だったよ」
「スキピオ、もっと上だっただろ。子供に適当言うなよ」
「そうだっけ? 何しろ昔のことだからさ」
 父とスキピオのやり取りの軽さがいかにも彼らの親しさを表しているようで、聞いているのが楽しかった。奴は誰にでも好かれるのだと父に聞かされていたがそれはまったく本当のことなのだと確信めいて考えもする。
 そのうち船を漕ぎ始めたプブリウスにつられて欠伸が出て、瞼が重くなり始めたガイウスを支えたのはたぶん、父だっただろう。ふたりをまとめて抱え上げた腕に揺られて大人たちが笑い声を混じえて話していたのを、ガイウスはその日のことを殆ど思い出せなくなっても憶えていた。


「頻りに、幼い頃を思い出します。いままで思い返そうとしなかったような些細な思い出が、どうしてか浮かんで」
 それは嫌ではないけれど、いささか苦しいことではあった。人生の隅々にあって、いつもその気配を感じさせていてくれたものが、もうない。それなのに気配ばかりが濃くなっている気がして、息をするのが苦しかった。
 薄めた葡萄酒で喉を潤しても、硬い石が落ちていくような気がするのだ。心配して父を訪ねてきた娘たちに、食が細くなっていないかと何度も確かめられた。窶れてはおらず、病んでもおらず、ただただ、何もかもが自分に馴染んでくれないという、それは錯覚に違いない。
 メテルスは言葉少なに相槌を打ちながら、ラエリウスから言葉を引き出していった。夜の帳が下り、彼の邸は静かなものだった。六人の子がいた時分には夜更けにならねば沈黙を聞けないという様子だったが。
「我が身を哀れんで、彼に呆れられたくはありません……」
 ファンニウスとスカエウォラに乞われるまま語ったとき、幸福さえ感じたのはひとえに彼らがいてくれたからなのだと、夜毎思い知らされる。
 月のない夜、部屋は人の手が灯した火を頼りにしていた。客人のために饗されたささやかな、宴とも呼べぬ夕餉のあと、ただ横たわったまま緩々と杯を重ねた。
 この人と親しくしてこなかったわけではないのに、このようにして過ごすのは初めてだった。ぼんやりとして言葉をなくす瞬間が幾度も訪れ、最初のうちはそれを気にしていたラエリウスは、ただ口を閉じていることを苦と感じなくなっていた。
 彼は静かな男だ。朗々としてよく響く声や、厳然と聳える姿、彼の姿に気が付かずに目を素通りさせるということがいつも難しい、それが静寂とは逆の印象を植え付けていたのかもしれない。
 酒で濡れた唇を拭って、メテルスが奴隷に杯を預ける。
「怒りはないのか」
「……怒り、」
「貴公は悲しむのを自らを哀れむというが、怒り狂う方が余程、それに近いのではないかな」
「私は……ただ、怒るのが苦手なんです。それこそ幼い頃から……」
 苦しまぎれに笑ってみせても、メテルスはつられて笑うなんてことがないから、頬はすぐに力を失った。怒り。その言葉が、深く刺すように染み渡っていった。
「あなたは、お怒りになったのですか」
「少しばかりは」
「怖そうですね、あなたが、怒ると……」
 杯を置くと、すぐに葡萄酒が継ぎ足される。どちらも手が伸びないので盛られたままのチーズなどは、いつの間にやら別のものにすり替わっていた。
「あの男はよく怒っていたものだが」
 メテルスが頬杖をついてそう言うものだから、ラエリウスは腕を崩してクッションに頭を押し付けた。
「手がつけられないときが私にもありました」
「そのうえ怒りを怒りのまま、火を絶やさずにいられるのだから。執念深いと言うべきか」
「でも、おとなになってからでしたよ。子供のうちは怒るのが下手だった……怒る理由がはっきりしていたでしょう、あの子ははっきり決めた何かに触れられると怒っていたんです」
「貴公もその何かのひとつだな?」
「ええ……ふふ、本当に手がつけられなかった」
 ラエリウスは自分が裏切られたとき激するのがいつも友人であったので、それが悲しくなって、怒れなかった。メテルスは怒気を横取りされていたのだと評し、それは正しいと思えた。
「あれが奪われたと言うなら、貴公の手から奪われたと言うべきだろう」
 それなのに怒らないのかと、言外に問われている。奪われたときに怒るべきなのだろうか、侵されたとき、傷を負わされたとき、何にしろ望みを裏切られたときにーーああ、ならば、やはり自分は悲しむばかりだ。
 何も抱かぬ腕が寂しく、温もりを戴かぬ手が空しい。ラエリウスはあるべき暖かさ、重みを、はっきりと捕まえられないのに、思い出している。微睡みの間際、眠りへと落ちていく目だけがその姿を見る。腕に抱いていたと思うのは、驕りだった。庇護を求めない魂を真綿に包んでおこうとするのは罪深い過ちであり、それを望むのは執着と言うべきものである。
 メテルスが身を起こす気配がして、ラエリウスが身を預ける長椅子が軋んだ。すぐそばに浅く腰を下ろした男の眼差しは容赦がない。快楽めいた同調を彼は口にしたことがない。それなのに、と思う。それだから、とも。
「御身を自愛せよと、言わなければ思っていないことになってしまうのか」
「……いいえ」
「賢人よ、貴公も難しい男だな。偽りも装いもなく貴公が信じるものは、重たかろう」
「重いのが、ちょうどよかったのかもしれない。私にはそれが……私は、自分という人間に満足しきることはできないけれど、いくらか誇ることもできるのです。彼にも同じ心地でいさせてやれたと思う」
「そのように見えた」
 ぬるく蟀谷へ伝い落ちたのが何であったか、ラエリウスは強いて言葉にせずにそれを拭った。自分の指先に違和を覚えるのはいつもこうして拭う指が決まっていたからだった。
 深い夜に襲いかかる悪意が身を裂き、命を奪っていく。ラエリウスが夢を見たわけでもなくぎくりとして目覚める夜、いつもそれを恐れていた。いま、どこかでーーあの子を傷つけた悪意は息をしている。
「私はあなたを嫌いだとか憎らしいだとか、そういうふうに思えたことはありませんでした」
 ああ、と返事がある。この男を慕い、彼に憧れてまでいた眼差しは痛みなく思い出される。打ち捨てられた愛情の輝きは振り返るのがつらいものなのに、彼らの友情は果てたというのに、それは慰めとなる追憶だった。
「それはきっと、あなたもあの子を、愛してくださっているからだと……」
 愛している。そう伝え切れなかったはずはない。幼い声で他愛なく撫であい、その安らぎをいつまでも紡いでいた。愛している。そう告げることは、本当はわけもなくただ心地よく、その言葉を見つけただけだった頃から同じように優しい。
 ただ望むべくもなく望み続けたのは、彼が愛されることだった。失望に足掻き理想を掻き抱く背中が望むものを、幼い日には口にできたものを、ーーただ自らを愛する腕が欲しいということを、彼が忘れてしまってもラエリウスは憶えていたから。

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