瓊枝に接ぐ
夢を見よと育てられた。
それは彼のみでなく、同じように貴族の子弟に生まれたほとんどの少年たちにかけられる縛めだった。祖父の、父の姿を仰ぎ見、その功績に倣うばかりでない。アトリウムに並ぶ父祖の像を見上げながら語り聞かせられる物語は、祖国の歴史に編みこまれる、少年らがその手で継ぎ足さねばならない糸だった。
先人に恥じぬ人間であること、名誉を求めきざはしを上り詰めること、国家の敵をより多く打ち倒すこと、あるいは父祖を超えてゆくこと。
それを、戒める縄だなどと。少年たちは思わない。憧れ、自負を持ち、瑞々しい野心を育むうちは、浴びせかけられる言葉は涼やかな水なのだ。
ーールキウス、そう名を呼ぶ声は優しい。思い返すだに、その声が本当に優しくなかったことは一度もなかった。父は彼の次子を呼び寄せるときいつも微笑んでいた。口煩く咎め、叱るのは母の役目であって、ほんの幼い頃の記憶には姿のない父は、物心ついてからの子供らにとって全く恐ろしげでない存在だった。
「ほら、ご覧」
そうして彼が示したのはルキウスの祖父の像であった。ルキウスが生まれた時にはすでに亡かった祖父の武勇を、徳を、父はいつも語りたがった。
それはたしかに、素晴らしい教えだったが、父とて分かっていたはずだ。彼の子供は、その父親以上に輝かしい人間を知らない。ルキウスは父がアフリカから戻って挙げた凱旋式を覚えていた。ローマ人の誰も、あの行列以上に壮麗なものを見たことがなかった。誰も、あの勝利よりも喜ばしいものを味わったことがなかった。
赤子の頃から虚弱で生き延びられないかとさえ思われていた長子が、軍務にはとても耐えられぬだろうと見做された頃、兄よりは健康に恵まれたルキウスがその役目を引き受けねばならぬと明らかになった頃、父の呼び寄せる声は頻りにルキウスへ向かった。
父は自らの全てを受け継がせる子らに何をしてやれるかを、ずっと考えていたものだ。赤子をただ大地から抱き上げるだけではなく、娘たちに世の女たちみなが羨むような婿を与え、弱々しい長子にそれでも選りすぐった教師をつけた。
ルキウスは、そうして与えられるすべて、手渡されるすべてを、何倍にもして返さねばならない子供だった。示される父祖の像はルキウスの行く末そのものだった。健やかな子らは何も疑わない、その足を階梯にかけられると信じる。
彼が信じることができたのは、父にできたことだったからだ。同じように、ずっと素晴らしいことを。
なんて幸せな子供だっただろう。
「俺のときと同じことしてるんだよな」
腕に抱いた赤子を見つめていた兄が、顔を上げないまま何のことだと尋ねた。二十四にもなってそうして妹を抱くのはどういう心地だろう。
「戦争に出る前に仕込んどいて、いない間に産ませとくっていう……」
「……よさないか」
「だってそういうことだろ」
長椅子に寝そべって眺めていると、親子に見える。末の妹は見たところ父によく似ており、兄も同じくであれば、誰が見てもそう思うだろう。
ルキウスはついこの間まで、執政官としてアンティオコスに対する戦争に派遣された叔父の下にいた。そこで勝利を得てローマに戻り凱旋式を許された叔父には、彼の兄、ルキウスらの父がずっと付き添っていた。父は妻の懐妊も知らずにローマを出て、四人目の子供が生まれたのを戦地で知ったのである。
家長の不在の間、残された母たちをあれこれ助けてくれたのは母方の叔父にあたるパウルスで、父は戦後処理の任務を受けた義弟と入れ替わりにこの家に帰ってきた形になる。それが、まだ幼い上の妹にはどうにも嫌だったらしい。父は久方ぶりに再会した娘に冷たくされてひどく傷ついているようだった。いまもご機嫌取りに忙しい。
父が娘の生まれたのを手紙で知って大層喜んでいたこととか、妻アエミリアへの土産に大げさなほど気を遣っていたこととか、ルキウスは見て知っている。しかし妹が聞こうともしないので父の面目を守ってやることはできなかった。それが産後の肥立ちが悪く生まれたばかりの娘を抱くのもままならなかった母を思ってのこととあっては、あまり熱心に庇う気にもならなかったが。
「母上もだいぶ持ち直されて、医者も安心していいと言ってくれた。コルネリアも母上にきちんと会えれば落ち着くだろう」
赤子をあやす仕草が堂に入っている兄は、可愛くて仕方がないという目で妹を見つめていた。この兄は兄で、父の不在の間は気を張っていたものが、父と弟の帰国で糸が切れたように寝込んだのだから、屋敷の落ち着かなさといったらなかった。
「ミノルは丈夫な子に育ちそうだ。よく乳を飲むし、ごらん、この目の明るいこと」
「父上と母上のいいとこ取りだ」
「下にいくにつれてだんだん丈夫になっていく感じだね、僕ら兄弟は……」
「だったら最初に娘を産んでくれればいいのにな」
兄は少し微笑って、先程のようにはルキウスを窘めなかった。腕が疲れたと言うので起き上がって、おくるみの中で微睡む妹を受け取る。
上のコルネリアだって彼らが長じてから生まれたのだから、抱き方は知っていた。姉妹の乳母が部屋の隅から心配そうにこちらを見守るのに、どうだと尋ねるように示してやる。
ルキウスが生まれたときも、父はローマにいなかった。カルタゴとの戦争のさなか、ヒスパニアでの指揮権を得て夫が出征したときの母の不安は、今回の比ではなかっただろう。彼らの父親たちのようにもう帰ってこないかもしれず、体の弱い長子だけでは残していくのに頼りなかった。
「ーーああ、ミノルはお昼寝中だったんだね」
ひょいと部屋を覗いた父が、腕に抱いたコルネリアに教えるように言った。どうやら一応の和解を得たらしい。
「いま寝付いたところですよ。コルネリア、可愛いリボンをつけてるね」
細かな刺繍の施された髪飾りで髪をひとつに結って、コルネリアは照れくさそうに兄に頷いた。父に結んでもらったのがなんだか言い出しづらい、あんなに怒っていたのに、と顔に書いてある。
先程までルキウスのいた長椅子に腰を下ろして、父は穏やかな顔で彼の子供たちを見守っていた。
「父上、代わってみる? 今日は機嫌がいいから泣かないかも」
「泣いたらかわいそうだろう」
「そんなこと言ってたらずっと抱けないよ。ほら」
コルネリアが察しよく膝を下りてしまったので、父は腕を伸ばさないわけにいかなくなった。ルキウスがそっとその腕に乗せると、異変に気付いて赤子が目を開く。兄の褒めたきらきらした瞳が父を見上げて、ゆっくり揺すられるうち、また眠りに引き込まれていった。
それをじっと見届けてから、父がコルネリアに笑顔を向ける。妹が泣かなかったのも、コルネリアの心を解したらしい。娘に笑い返されて父はいっそう嬉しそうに相好を崩した。
「ちゃんと親子に見えるな」
思わず漏れた呟きに兄がルキウスの手の甲を抓った。父に首を傾げられ「兄と妹が親子のようだったから」と正直に返した答えは、抓られるほどのものではないだろうに。
「確かにそっくりだ。それに、コルネリアと同じように美人に育つだろうね」
そう言った父にこそ似て、長じれば美貌を得るだろうという予想だった。若い頃にはその容貌をぞんぶんに活かして人々の心を動かした男は、いまもってなお目を引く姿でいる。
しかし一方で、兄とルキウスの生まれつきの病弱は、母よりも父に似てしまったところだった。父はこの頃には既に体調を崩しがちになって、伏せることも多くなっていた。だから妹たちは、兄たちの知るような父の姿を知らない。
そして結局、知らないままになった。父がローマを離れると家族に告げたのは、コルネリア・ミノルが五歳になった頃だった。
政敵からの攻撃が盛んになり、元老院で苦しい立場に追い込まれることがあっても、父は家庭にその苦渋を持ち込まなかったのだ。もはや子供などではない兄とルキウスはともかく、妹たちは不穏さを肌で感じながらも、父が笑うのを信じていた。
冗談めかしてリテルヌムでの暮らしについて計画を立てる父と妹らから、兄は距離を置いていた。母はずっと黙っていた。夫の向かう先へ、そこが戦地でないならばどこであれ従うと彼女は決めているようだった。
「私はローマに残ろうと思っている」
「……リテルヌムは静養地だから、兄さんにも合ってるんじゃないか?」
「まあね。でもこの屋敷のこともあるし、私達を頼るクリエンスのこともある。父上にはもう伝えたよ、おまえは好きにするといい」
昼間だというのに雲が厚くやけに暗い日だった。兄の部屋は屋敷でいちばん日当たりのよい、過ごしやすい位置にあったがそれでも寒く、しかし兄の顔が青褪めているのはそのせいばかりではなかった。
父が、多くの人々を伴ってカピトリウムでユピテルを詣でた、あの日にはぞっとするほどの青空が広がっていた。彼らは父を弾劾する民会に参加し、彼らの父が、子らに畏れを抱かせるほどの威光を市民たちへ示すのを見た。
だが父は、ローマを出ると言う。比肩する者が未だ現れない英雄は祖国を離れて、海辺で静かに暮らすのだと、まるで遊びに出かける予定を告げるように語った。
「……どちらがましか、よく分からない」
どちらがいっそう惨めだか、ルキウスには分からない。ローマに残ったとて、親族や父の友人たちが彼を助けてくれるだろう。選挙に名乗りを上げるにはまだ年若い彼には、そうした支援が必要だった。
「ましかどうかなんて、子供のような決め方をするものじゃない。おまえにはおまえの人生がある、そのためにできることを選びなさい」
「それが分からないんだよ、兄さんみたいに簡単じゃない」
兄は軍靴を履いたことさえない。剣を振らない腕は細く、市民服に押し潰されそうに見えることだってあった。彼は私人として暮らすほかない人間だった、そのくせ、その生き方の道筋をもう見出していた。
彼は悲しげに弟を見つめ、それでも、自分で選ぶしかないのだと言った。父のぶんまで励めとも母を助けてやれとも言わなかった。
ぱん、と手のひらを打つ音に目を開く。頭上に小さな両手があり、それが引っ込む代わりに妹が兄の顔を覗き込んだ。
「お兄さま、お暇なら苗を植えるのを手伝って」
そう言って、コルネリア・ミノルは兄が起きるのも待たずに裏庭へ駆け出していった。暇ではなく昼寝で、お前も寝ているはずの時間じゃないのか、そんなふうに返す間もない。
寝入りばなにおかしな起こされ方をして、頭はまったく冴えなかった。それでも無視するとうるさいので出て行った裏庭にはミノル以外にも子供がいて、奴隷に手伝われながら畑で土に塗れている。
そのなかに上の妹を見つけ、ルキウスは呆れ半分で彼女を呼んだ。膝を丸出しにして土で汚していい齢ではない、ということは、コルネリアも承知の上だったらしい。大人しく軒下にやってきた妹は少しばかり赤い顔をしていた。
「ミノルが手伝ってって言うんだもの……あの子も困っていたし……」
そう土を払いながら見た先では、ミノルよりも幼い男の子が種を埋める場所が変だとか何とか言われていた。従弟のクィントゥスはかわいそうに既に上下関係を教え込まれたらしく、文句も言わないで埋め直している。
「グラックスがあれ見たらどんな顔をするだろうな」
幼児のくせに婚約者の前で猫を被る妹は、せっかく愛らしく生まれた顔に傷をつける勢いで腕白な遊びをするものだから、母は幾度も肝を冷やしていた。
「……グラックス様は、ご存知のような気も……」
「ナシカは? お前、ナシカの前に鼻に土つけて出ていけないだろ」
言いながら鼻先を払ってやるとむっとして押し返される。季節が変わる頃に婚礼を控えた妹は、それに触れられることにひどく神経質になっていた。
コルネリアが何か言いかけて、ふと視線を下げる。庭先にいる子供たちより幼い男の子が、自分よりさらに幼い子供の手を引いて屋敷から出てきた。
ぽてぽてと庭に下りかけて、立っている大人に気付いて振り返る。子供はきょとんとルキウスとコルネリアを見つめ、「こんにちは」とお辞儀をした。頭がそのまま落ちてしまいそうな一礼に、思わず笑ってしまいながら頷く。
「ガイウス、ラエリウス殿はどうした?」
「寝ちゃいました」
「なんで子供だけ起きてるんだ?」
乳母や子守はどうした、と言ってみても、子供たちは目をぱちぱちさせるだけだ。ガイウスと手を繋いだ子供が、むずがるようにその手を揺らした。
「プブリウスがお兄さまといっしょがいいんだって」
そう言って畑にいるクィントゥスのそばに行こうとするので、押し留めてルキウスが呼んでやる。クィントゥスは弟に驚いてこちらに駆け出そうとし、転んだ。そうなると思ったからガイウスたちを行かせなかったのだが。
奴隷に助け起こされて今度はまっすぐ走り寄ってくる。髪にまでついた土をコルネリアが払ってやり、怪我はないかと確かめると、意外と気丈に頷いた。プブリウスがコルネリアを真似て兄のトゥニカから土を払い始めるのを、奴隷たちも微笑ましく見守っていた。
「また三人で遊んでる」
しかしこの妹は、微笑ましさを覚えるにはまだ幼いらしい。いつの間にかルキウスの隣にいたミノルは拗ねたのを隠さない顔で男の子たちを見つめた。ほとんど睨んでいた。
「女の子に慣れてないんだろ、姉妹がいないから」
「クィントゥスもプブリウスも、わたしのいとこなのに、ガイウスのほうが好きって言う」
「それほんとに言ったか?」
「……言ってないけど!」
言っているようなものだ、とご立腹の妹が姉の腰に抱きついた。せっかく遊び相手が、それもこの末っ子からすれば待ちに待った弟分がやってきたのに、思うようにならなくて悔しいらしい。慰めるように妹の髪を撫でたコルネリアが、おやつにしようと言って子供たちを屋敷の中へ導いた。
子供たちの手足を清めさせている間に、女奴隷をひとり捕まえて子供部屋の準備を頼む。その子供部屋で他の仕事をしていたらしい三家それぞれの乳母たちが、そそくさと頭を下げながらルキウスの脇を通り過ぎていった。
自分は昼寝に戻ろうかと柱廊で思案していると、玄関のほうから叔父が姿を見せた。パウルスは屋敷の奥から聞こえるいとけない声と、子供部屋に運び込まれるテーブルなどを見て、一切を了解したらしい。
「ルキウス、子供たちの相手をしてくれていたのか」
「相手ってほどのことは何も。どこか行かれてたんですか」
「パピリアがローマに戻ると言うから」
見送ったということらしい。……なぜ夫と子を残してひとりで戻ってしまうのか、聞かないほうがいいだろう。
「ルキウスはいつローマに戻るつもりだ?」
すぐに答えない甥に、パウルスは鷹揚な笑みを浮かべてそれもいいだろうとだけ言った。結局、どちらに定まるともなくローマとリテルヌムを行き来するルキウスに、誰も咎めるようなことは言わなかった。
父がいなくなったからといって、ローマが変わることはなかった。不在を悲しむ声は時折ルキウスの耳にも入ったが、だからどうということもない。国事は変わらず動き、父がいないまま、時が進んでいく。
「ここにいると夢を見ているような気分になる」
思わずそう言ってしまったのはパウルス相手だからかもしれなかった。
「だからここにいてはいけないとも思うし、ここにいたいとも思う。……兄が訪ねてきてもすぐにローマに戻るのも同じ理由じゃないかな」
「それはおまえの父の望みだろう。ほんの短い夢だ、おまえには短すぎるほど」
幼子が柱廊に入り、父親に気付いてぱっと顔を輝かせた。パウルスは、彼が子を得るまで誰が予想していたよりずっと優しい、慈しみ深い横顔をしていた。
父に走り寄ろうとしたプブリウスが半ばも進まないところで躓いて転んだ。何が起こったか分からず目を丸くして、父親と目が合うなり、火のついたように泣き始める。
慌てるでもなく我が子を迎えにルキウスの隣を離れたパウルスは、若者の肩をひとつ、軽く叩いた。
「おまえはおまえのしたいようにすればいい」
それが、本当に言葉通りの意味でないことくらい、きっと彼にも分かっていた。
抱き上げられたプブリウスが泣きじゃくって父親にしがみつく。騒ぎに顔を出したほかの子供らが取り囲みあれこれと慰めてやっても、幼子は父に甘えて泣き止まなかった。
勝手にそばを離れていったぬくもりが戻ってきたので、目を開かないまま腕を伸ばして引き寄せた。女の柔な身体は一度は腕に収まったのに、ぐねぐねと暴れてルキウスの肩を叩く。
「ねえ、お客様よ、起きてちょうだい」
「追い返せよ、いつもどおりに……」
「そうもいかないのよ、だって」
女は言葉を切って、そのめいいっぱいの力を使ってまた腕から抜け出す。仕方なしに目を開いたルキウスは、既に明るい部屋に寝過ごしたのを知ったが、それよりも嫌なものを認めて顔をしかめた。
勝手に上がり込んだらしいグラックスが、戸口に立ってこちらを眺めていた。怒っているでも呆れているでもない、感情の読めない顔つきで、寝台の上に体を起こしたルキウスの顔色に首を傾げる。
「二日酔いか? ひどい顔だ」
そのうえあんたの顔を見たんじゃしょうがないだろうーーそう返すのも億劫で、痛む頭を抱えた。同じく寝台に乗ったままの娼婦は、彼女の客になることはなくともグラックスを知っているらしい。薄衣を肩にかけただけの姿を恥じる様子さえあった。凱旋式を見たのかもしれないし、あるいは単に美丈夫を前に惚けているのかもしれない。
妹の婚約者はしばらく黙っていたが、ルキウスが動こうとしないので女の方に矛先を向けた。
「君、身支度を手伝ってやってくれ。少なくともこの顔色は何とかしなくては」
飛び上がった女が顔を洗う用意をしに部屋を出る。どうあってもこの男の思う通りになるらしいと観念しながらも、女が戻るのを待つ気くらいにしかならない。頭が痛むだけならまだしも胸がむかついて、気休めは窓からの涼しい風だけだった。
女が水盆を掲げて戻り、ルキウスに顔を洗わせた。一緒に探してきたらしいトゥニカを着るよう促されてやっと寝台を下りる。
靴を履かせかけたところで、トガも必要かと女が尋ねた。いらないと答えかけたルキウスを遮ってグラックスがもちろんだと言う。
「いらないだろ、身内の集まりに」
「お母上の心証を考えたほうがいいな。寝癖がついてる。……あれか?」
部屋の隅に丸められた布を目に留め、グラックスが嘆息した。脱ぎ捨ててそのままにされたトガを拾い上げ、「まあ着れないことはないだろう」と勝手に頷いた。
そのまま女に渡すと思われたが、グラックスはルキウスをそばに立たせて布を広げる。端を女に持たせ、もう一端を自分が持って着せかけ始めたので、今度はルキウスがため息を落とした。いやにてきぱきとトガを巻きつけながら、ところでと呟く。
「婚約を破棄したと聞いた、それも兄君に相談なく。どういうつもりだ?」
「さあ。相手を喜ばせてやろうと思って」
「喜んでいたかい」
手紙を書き使いに持たせただけなので、知らない。相手方との面倒なあれこれは兄が肩代わりしたのだろうが、しばらく会っていないのでどうなったのか聞いていなかった。
やけに細かく襞の形を気にしていたグラックスが、納得がいったらしく一歩離れた。彼は行儀の良い格好で通しているふうで気安く流行りに乗るところがあり、トガの着こなしもやや型から外れている。そう見えないのは雰囲気のおかげだ。
「吐きそうなら先に吐いておいてくれ。道端で介抱したくない」
吐くものは胃に入っておらず、ルキウスはうんざりと首を振った。
家を出ると門の外にグラックスの従者が控えていて、何やら荷物を抱えたまま主人に従った。それ自体が高く購われたのだろう布に包まれているのは、母や妹への手土産に違いない。昨年の凱旋式の後、凱旋将軍の正装のままで妹を訪ねたこの男が、その手の気遣いを忘れるはずもなかった。
人通りのある街路へ出れば、知り合いかどうかも怪しい連中までもがグラックスに挨拶を寄越した。ローマ中が彼に挨拶をくれそうな様子では、執政官選挙の当選は疑うべくもない。法務官として凱旋式を挙げ、ヒスパニアに平和を齎した男を拒む理由は、市民にはないだろう。
にこやかに挨拶を返していたグラックスが、ルキウスを振り返って言う。
「按察官に立候補するつもりだろう? もう少し明るい顔をしないか」
「いいんだよ、みんなあんたに会ったことしか覚えてないんだから」
「そこを何とかするのが……おや」
行く手に何かを見つけたグラックスが足を早め、ルキウスはわざと取り残された。ルキウスの方に合わせることにしたらしい従者とできるだけゆっくり歩くが、向こうが立ち止まってしまったので大して時間稼ぎにはならなかった。
グラックスが指し示した方を見たパウルスがにこりと笑う。彼に伴われたプブリウスも振り向き、子供用のトガを苦労して支えながら一礼した。プブリウスも今年で七つか八つ、トガの重苦しさを思い知る頃だ。
「今日は出てこないかと思ったが、迎えに行ってくれたんだな。ルキウス、なんだか痩せたか?」
ルキウスはただ肩を竦めた。
生家では、早々に到着していたナシカとヒスパルスとが彼らを出迎えた。奥から泣き喚く赤子の声が聞こえてくる。ナシカはそれを振り返る仕草をして、困った顔を作った。
「せっかくだから息子を連れてきたんだが、癇癪を起こしていて。ヒスパヌスまでつられて泣いてしまってこの騒ぎだ」
「いいじゃないか、賑やかで」
グラックスは軽やかに言ってさっさと屋敷に入っていく。赤ん坊が心配なのだろう、ヒスパルスもそれについていった。いつもならば静かすぎるほどに静かな屋敷は忙しなく働く奴隷たちの気配もあいまって、昔のような賑やかさだった。
「プブリウス、今日はあの子らの相手はしてくれなくていいぞ」
パウルスの影に隠れるようにして立っていたプブリウスが弾かれたように顔を上げる。ナシカを上目遣いに見上げてやたらにか細い声ではいと返事をした。ナシカは子供の緊張しきった態度にちらとその父親を窺い、ふたりして苦笑した。
そういう大人たちの様子がいっそう、プブリウスを不安にさせているようだった。パウルスはそれを知らぬふりで、手を引いてやるでもなくアトリウムの奥へ入っていく。プブリウスはそのそばにひっついていた。
「今度からはアエミリアヌスと呼ぶのがいいのかな」
同じ名前ばかりになるから、とナシカが言った。
まっすぐ広間へ向かう気になれなかったルキウスは以前のままにされている自分の部屋を覗いた。兄の結婚を機にこの家を出て以来、数えるほども使っていないのに、埃が払われていますぐにでも使える状態が保たれている。
ひときわ甲高い幼子の喚声と、大人たちの笑い声が広間から響く。
今日この屋敷には、大伯父の家系の者たちに加えて、まだ成人して間もないアシアティクスまで呼び出されている。ルキウスは昨日まで呼び出しに応じないつもりだった。兄から再三手紙を寄越され使いを寄越され、一度は直接訪ねられて会わなかったのだから、諦めてくれただろうと思っていた。
寝台に腰を下ろして息をつくと、頭痛は引くどころか酷くなる。こういうときは寝ているのがいちばんいいのだが、ルキウスがいっそそうしようかと考えたのを察したように足音が近付いていた。
「ルキウス、着いたなら母上に挨拶くらいしないか」
開口一番の小言はさほど険のあるものではなかった。兄は自分を見返した弟の顔色には眉をひそめ、しかし触れないでいることにしたらしい。
「もう客人は揃っているから、広間にーー」
「義姉さんは説得できたのか?」
ぴたりと口を閉じ、兄は背後を気にした。細君でなくともその侍女などがいればどう伝わるか分かったものではない。
「もちろん、納得してくれたとも。おまえは気にかけてくれなくていい」
「だって心配だろ、仲良くやってたのにこんなことで逃げられたんじゃ笑えない。あいつとは気が合いそうか? 父親も母親も次々と顔ぶれが変わって可哀想にな」
「……あの子の前でそんな物言いをしてごらん、許しておかないから」
「叔父上に殴られるのは嫌だな……」
「私が、許さないと言うんだ。ルキウス、母上をお部屋に迎えに行ってくれ。一緒に広間に入っていなさい」
母を持ち出されると彼ら兄妹は弱い。ルキウスが不承不承立ち上がって部屋を出るのを、兄は彼にしては乱暴に背中を押しやった。
部屋の前にいた侍女が、ルキウスの姿を認めて主人に声をかける。かつては夫婦の寝室、いまは母がひとりで使う部屋には、いまでもなんとなく立ち入りづらかった。
「裾が汚れているわね」
母は息子の顔を見るより先にそう言って、にこりともしない。それでもルキウスがにっこり笑って差し出した手を取った。着飾ると言うには控えめに、しかし彼女の立場に相応しく整えられた衣裳のなかで、耳に揺れる石には見覚えがある。父の贈り物だ。
広間には饗宴の形で席が整えられていたが、横臥する者はない。アエミリアは晩餐ではやはり横臥しない女だけの席に移るし、いまは子供たちまで居並んでいたから当然だった。どうにか機嫌を直したらしいセラピオは、コルネリアの膝の上で木製の人形を齧っている。
アエミリアを席に送り届けて、ルキウスはナシカの隣に落ち着いた。
こうして一族が雁首揃えて何をするかと言えば、プブリウスを迎え入れるかどうかを決定するのだ。形だけは兄が養子を得るのに許しを求めるというものだが、誰も彼もとうに話を通されているのだから、実際には顔合わせだった。だから単に祖母に会わせたいという理由で、落ち着いていられない齢の子供まで連れて来ている。
当のプブリウスはパウルスのそばでまったく動かなかった。俯いていると叱られるのか、目線だけが泳ぎ続けている。ふと、その目線がルキウスに向けられる。従兄が自分をじっと見ているのに気付いて、すぐに目は逸らされた。
兄がやってきてひととおりの挨拶を述べても、堅苦しいことは何ら起こらなかった。法務官に届け出て売却と解放の手続きを執るのもいますぐのことではない。けれど客人たちは満足げに、親子になるふたりを祝福した。
「プブリウス、自分の新しい名前を言えるかい」
グラックスが硬いまま一向に緊張の解けない子供に問うと、プブリウスは頷き、躊躇いがちに口を開いた。
「プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス」
ゆっくり、ひとつずつ確かめるように言って、父親を見上げた。
正確には成人した後に名乗る三つの名前だが、子弟は幼いうちから覚えさせられるものだ。アエミリアヌスと添えることが彼ら父子に繋がりを残す。パウルスは褒めるように深く頷き、小さな頭を撫でた。
和やかな空気が漂ったとき、唐突に、セラピオが母の膝から飛び降りた。べちゃっと音を立てて床に転がったと思うと跳ね起きてプブリウスのそばに走っていく。目を丸くしているプブリウスの手を引っ張って、一緒に来いとせがんだ。
戸惑って大人たちを窺ったプブリウスに、兄が遊んでおいでと笑う。アトリウムでナシカの言ったとおりには、やはりならないらしかった。
子供たちを追いかけようとしたコルネリアを制して、ルキウスは立ち上がった。兄の物言いたげな眼差しに背を向け広間を出ると、トガに足を取られたらしいプブリウスが床に伸びて、セラピオに伸し掛かられている。
今日一番の楽しげな笑い声を上げるセラピオを脇に抱えて、ルキウスは中庭に出た。振り返って見ると、数年前ならばともに抜け出しただろうミノルは婚約者の隣に静かに座っている。
すでに草臥れた有様のプブリウスが小走りにルキウスに追いついた。
「あの、ありがとうございます」
「もうそれ脱いでいいよ、邪魔だろ」
落ちかかっているトガを指すと、プブリウスはそれを畳んで抱えた。真新しい布で仕立てられた市民服は、きっと兄のおさがりでさえない。
「クィントゥスは元気か?」
広場で父に連れられているのを見かけることはあったが、長いこと話していない。プブリウスはなぜか口籠り、元気だと思うと曖昧に答えた。
魚のように暴れ続けるセラピオを下ろし、中庭を走り回るのを好きにさせた。乳母がすぐに捕まえられる位置を保ち続けて既に息を上げているのを気の毒には思ったが。プブリウスは貯水槽の縁に座ったルキウスのそばに立って、たったよっつ離れているだけの相手を見知らぬ動物を観察するような目で見ている。
「また弟か妹が生まれるんだって?」
「はい……母上はたぶん妹だって。お腹のなかですごく元気だって言ってました」
「そりゃいいな。パピリア様はどうしてる」
「え? あ……あの、知らないです」
「なんだ、薄情だな。いや薄情なのは叔父上のほうか? まあ、子供がそれだけ多くなればそうなるか……」
子煩悩で世間にまで知られ、呆れるほど多くの教師を集めて子供を教えさせているうえに、子供の数まで五人にも六人にも増やしたのでは、流石に余裕はないだろう。養子の話は何も兄にとってばかりでなく、パウルスにとっても都合が良かったはずだ。
プブリウスはルキウスの言葉をひとつひとつ噛み砕いているようだった。そんな風だから、セラピオが投げつけた人形をまともに顔で受けてしまった。
「坊ちゃま! いけません!」
乳母の悲鳴をものともせずに、セラピオは拾った人形でプブリウスの足を殴った。どういう育て方をしているのか後で妹に聞こう、とルキウスはそれを傍観していたが、乳母が追いつくより先にプブリウスが人形を取り上げる。
「やだぁ、かえして!」
プブリウスが高く掲げてしまうとセラピオが跳ねても届かない。セラピオが癇癪を起こしかけたところで、プブリウスは大きく腕を振りかぶって、人形を放り投げた。
わっとそれを追ったセラピオが、もう一度投げろとプブリウスに手渡す。まるきり子犬の相手をする要領だった。人形だぞ、そういう遊び方をするもんじゃないだろう、と乳母とルキウスは同じ気持ちで顔を見合わせた。
セラピオはそれから何度も強情を張り我儘を言ったが、プブリウスは機嫌を損ねもしないで相手をしていた。父親たちが様子を見に来たときには、石で床に絵を描くと言うのを乳母とともに思い留まらせようと苦心しているところだった。
「何をどうしたらそんなに汚れるんだ、新しい服なのに……」
ナシカが呆れながら抱き上げた息子は、地面を転がりまわったなら当たり前の汚れ方をしていた。まさか本当にごろごろ転がったとは思わないのか慣れっこなのか、子供がにこにこしているので問い詰めないことにしたらしい。
昼寝をさせると言ってセラピオが連れて行かれると、プブリウスが分かりやすく肩の力を抜いた。パウルスが笑って、労うようにその背中を叩く。
「あの子はうちのガイウスより元気だな。コルネリアが相手をしてくれて助かったと言っていたよ」
「うん……」
「なんだ、今日は頑張れるんじゃなかったのか?」
父親の背中に額をくっつけて、プブリウスはもごもごと何か言う。ルキウスにはまったく聞き取れなかったが、パウルスには分かったらしい。裾を掴んだ息子の背を撫でて、しゃんとしろとは言わなかった。
ルキウスが拾っておいたトガを渡して初めて、プブリウスがそれを脱ぎ捨てているのに気付いたらしい。それでもやはり叱らないでルキウスに礼を言った。
「いつもそんな風なのか?」
ルキウスの不明瞭な問いを、パウルスは自分に向けたものと受け取った。教師のもとで学んでいる齢で、その扱いはどうなのかと。
「いつもというわけじゃないが、今日は特別だからな。クィントゥスも抜きで畏まった場に連れて行かれるのは初めてなんだ、プブリウスは」
「元老院の見学なんかしたら泣かない? 言い合いにびっくりして」
「まさか。プブリウスは弁論を聞くのが好きなくらいだよ」
「へえ……じゃあ兄さんも教えてやれることがあるんだな。よかった、結局はぜんぶ叔父上任せになるのかと思ってた」
おおらかな顔のまま、パウルスは甥の浮かべた笑みを見ていた。
「勿論、おまえからも学ばせてやってほしい。この場に来てくれたんだ、それくらいの頼み事はさせてくれるということだろう? ナシカやグラックスは当然だが、これからこの子が見るのはおまえの背中だ、手本になってやってくれ」
兄は、とそのとき思った。今日この日に不和をその気配さえ持ち込まないためにグラックスに頼った兄は、この叔父にも同じように頼んだだろうか。
日が暮れたのちには、当たり前に宴席が設けられた。昼と違い女たちが子供と共に別室で食事をとるとあって、行儀がいいながらも話題は彼女らに向かないものに流れる、そういうありきたりな宴だ。
適当なーー本当に適当でいい加減な言い訳でそれを抜け出してきたルキウスは、帰るのも面倒になって自分の部屋に向かった。とにかく早く眠りたかったのだが、部屋には灯りが点されていた。
「……母上?」
今頃は久しぶりに顔を揃えた娘たちと夕食の時間を過ごしているはずの母が、窓辺に立っている。
「やっぱり抜け出してきたわね。そうするだろうと思った」
「これは……久々のお説教?」
「そうしてほしければそうするけれど。あなた、こうでもしないと話もできないんだもの。夜の明けないうちに勝手に帰ってしまうつもりだったのでしょう」
その通りだったので、ルキウスは何も言い返さなかった。机の側から椅子を持ってきて勧めるとアエミリアはすとんと、なんだか力の抜けた風にそこに腰掛ける。
昼間には寸分の隙もなく背筋を伸ばして、義理の娘だの甥だのにいらぬ緊張を強いていたとは思えない。齢を取ったな、と不意に思った。ランプのか弱い明かりの作る影がそう見せているのかもしれなかった。
「先方はさほどお怒りでなかった。新しい縁談をまとめるのに良い伝手があったのでしょうね。あのお嬢さんもまだ十六だから」
脈絡なくそう言われ、なんのことだかすっとぼけたくなる。座りづらくてそばに立っているのが説教を受ける子供のようだった。
「はあ、それは……よかった。まあ良い娘だったし、本当にすぐ決まりそうだ」
「どうか考え直してくれと、追い縋られてくれなくては困るわ」
「グラックスに逃げられたとしたらそうするだろうってくらいに?」
「そうなったらあなたが彼のところに殴り込みをかけるのよ」
「絶対こてんぱんにされる……」
それどころか相手にされずになんだかうまい具合にやり込められて、市井の笑い話にされてしまう。同じ想像をした母が口許だけで笑った。なんの疑いもなく冗談で済む話だから。
グラックスを婿に決めたとき、父がどれほど喜んだか、母がどれほど安堵したか。コルネリアをナシカと娶せると決めるのには、一族にちょうどよい年頃のふたりがいたというだけのことで、迷いはなかっただろう。しかし父は、幼いミノルを案ずることなく死にたかったのだ。
弟とともに名誉を守られた恩だけが理由ではない。このような息子があればと、そう望んで選んだ。だからアエミリアはグラックスを信じている。あるいはグラックスの夫への尊慕を。
「母上、今日ずっと機嫌が悪かっただろ」
パウルスは知らぬ顔でいたが、他の者たちはそうもいかない。
「義姉さんがかわいそうだったよ」
「あの子は特別気が弱いの、いつもああなのよ」
「プブリウスだって気が付いてた」
視線を泳がせていたとき、あの子供は伯母にだけはその目を向けなかった。親類が集まれば、なんだか恐ろしげで苦手に感じる大人が一人二人いるのは、子供には普通だ。だが記憶にある限りでプブリウスがそういう素振りをアエミリアに見せたことはなかった。それが今日に限って。
「あの子も同じね、優しすぎる」
それが不機嫌の原因だと、アエミリアは息子に隠さなかった。
「なら他の子にしてもらえばよかったのに。あと三人もいるんだから」
「クィントゥスはファビウス家に取られてしまったのよ」
つまり、叔父は先妻からの子をどちらも手放すことに決めたのだ。後妻から得た子供だけを手許に残し、後継とすることにした。こちらに誰を貰い受けるか、選ぶ余地はなかった。
「頭はいいようだけれど、パウルスに似てないわ。……子供のころのパウルスには似ているかもしれない、けれど当の父親があの調子じゃ、大した変化は望めないわね」
結局、アエミリアが誰と比べてそう言うのか、名を挙げられずとも分かってしまう。
ルキウスは自分がとうの昔に母に失望されているのを知っていた。兄も彼も、母が産み育てるはずだった息子の姿に似ていなかった。だがそれでも見捨てず、愛しんだのは、やはり子供だからだ。他に選べなかったから。
「ルキウス、いつまでもひとりで気儘にとはいかないのよ。お兄様とよく話し合いなさい。分かっているでしょう?」
秋だというのにひどい底冷えのする日だった。強く吹き付ける風が砂をさらい目を庇わねば歩いていられない有様で、昼時だというのに街路を遊び場にする子供の姿も見えない。
ルキウスが家に帰り着くと、見知らぬ少年が彼を出迎えた。「おかえりなさい」と愛想よく言った、大きな目ばかりが記憶に残る顔立ちに、見知らぬ訳ではないと思い直す。
「……ポンペイウスのところの?」
「えっ、ご存知でした?」
「いや……もうそんな年頃か。兄さんについてきたんだな」
成人を機に田舎からローマに出て、庇護者の元で行儀見習いを兼ねて学ぶ、そういう少年たちのひとりだった。兄がそれを引き受けたという話は特に聞いていなかったが、よく似た顔の父親には覚えがある。
ポンペイウスは兄のところにルキウスの帰宅を知らせにいくと思われたが、砂埃を落としに自室に向かったルキウスに従った。部屋には兄と彼の乳母である年嵩の女が準備をして待っていた。
従者のように外套を受け取った少年は、何が面白いのか小さな家を見回している。衣服をあらため靴まで履き替えさせた乳母は彼の言いたいことに頷きたい様子だった。静かと言えばいいが寂れた家だと。
こんな風の日に出歩かずともいいだろうに、約束は約束だと言って時間通りに訪ねてきた兄は、姿を見せた弟にため息をついた。
「ポンペイウスを迎えに行かせようかと思った」
「ちゃんと急いで帰ってきたんだよ、暇してるより嬉しいだろ? キケレイウス、久しぶりだ。変わりないか?」
立ち上がっていた壮年の男は、ルキウスを見てどこか戸惑った風だった。キケレイウスは若い頃には、ちょうどポンペイウスのように父について秘書の仕事をしていた。
落ち着いた間を見計らって出していた飲み物を下げ、新しい器を並べたのが自分の乳母だと気付いて、兄が腰を浮かした。
「何もおまえがしなくても、他に誰かいるだろうに」
「兄さんの顔がちょっとでも見たくてしてるんだよ、鈍感だな。なあアマラ、今日こそ兄さんについて帰る気になったか?」
「ルキウス様が奥様をお迎えになったら、そうですねえ、お役御免かと思っておりますけれど」
重い水差しをポンペイウスに返して、兄にだけは湯冷しを出す。当たり前のように給仕の真似事をしている少年にも兄は何か言おうとして、諦めた。
「ポンペイウス、君は休んでおいで。アマラ、私たちよりもこの子の方を頼むよ」
優しい主人の顔で言われふたりが揃って出ていくと、兄がまた息をついた。
「私の手紙もきちんと読んでいないのだろうね、その様子では」
「読んだよ。俺がグラックスに適当に言ったことを聞いてわざわざ書いて送ってきたんだろ」
「適当って……」
今度は執政官として二度目の凱旋式を挙げた婿殿に、法務官となれば同じ栄誉を目指したいものだと言った、気がする。酔っていたので確かではないが兄に伝わっているので言ったのだろう。それで兄はまずいなと思ったのだ。選挙に向けた根回しを他の者のために始めていたから。
ルキウスとキケレイウスとは格で言えばともに按察官を務め終え、次に目指すのは法務官という、対等な立場だった。
「まあ、手を取り合って同じ数だけ票をくれと言うわけにもいかないからな。兄さんたちの心配も尤もだけど、別に怒るようなことじゃない」
「おまえを心配する必要がないならこうも気を揉まないんだよ。キケレイウスに久しぶりだと声をかけることからしておかしいだろう」
「風邪引いてたから」
「議事が持ち上がると風邪を引くのか、おまえは」
「不思議だよなあ……」
ルキウスがこのところ元老院や民会どころか、人前に出てもいないのを、兄はやはりあちこちから聞き及んでいた。対してキケレイウスは堅実で、悪い噂もない。相当手強い競争相手が立つことでもなければ順当に顕職を手にするだろう。
「ルキウス、市民だっておまえの態度をちゃんと見ている。法務官の職務はそんな振る舞いで許されるものではーー」
ガシャン、と響いた音に三者は顔を見合わせた。次いでふたりぶんの女の悲鳴、なぜかそれに続いた笑い声はポンペイウスのものに違いなかった。音の方角を見遣り、ああ、と合点する。
「使用人部屋が雨漏りがするって言ってたな」
「私が見てくる」
言って出て行った兄を、楽しげな声が出迎えた。乳母も女中も、この家で仕えていてああも楽しげな声を出すことはないのだが。
ぼんやりと声の方を眺める横顔に、キケレイウスが慎重に口を開いた。
「失礼ながら、ルキウス様、どこか悪くなさっておいでですか」
向き直り、ルキウスは膝の腕に手を組んだ。我ながら冷たい指がよそよそしく触れ合う。
「絶好調ってことはないさ、特にこんな風に冷えたんじゃ堪らない。父もそうだっただろう。アシアでも寝込んで……請け負った通りの仕事はできなかった」
「それでもあの方は医者の助言には従っておいででしたよ。兄君もそうなさっているからこそ、ああして……」
「うん、近頃は調子がいいみたいだ。自分の子でなくても子供が近くにいると張り合いが出るのかもしれない」
「またそのような物言いをなさる」
笑って言った男は、ルキウスにじっと見られて口を噤む。
キケレイウスがまだ若く、父のもとについた頃、ルキウスはまだ子供だった。かの英雄のもとで研鑽を積むとあって気負っていた青年は、何事も厭わず懸命に働いたために、子供の世話まで任せられることがあった。
「謝っておくべきだと思うようになったんだ」
また戸惑って、なんのことかと問う。
まだ成人しない頃にはルキウスもしばしば寝込んだものだ。兄は不調がない時の方が珍しかったが、その貴重な時に限ってルキウスが調子を崩した。
「キケレイウス、おまえが父のかわりに屋敷に戻って、寝込む俺のためにあれこれ世話を焼いてくれた時、俺は本当に憎たらしいだけの子供だっただろう。嫌なことをたくさん言ったし、したと思う。でもあの頃は、ただ父上に帰ってきてほしかったんだ、それでおまえに八つ当たりをして、甘えていた。すまなかった、おまえもただ、父に忠実だっただけなのに」
伸ばした手を取った、この手に何度も励まされた。彼の大きな両手の中にあって、ルキウスの手は貧相なほど頼りない。
「おまえが法務官にまでなったと知ったら、父は喜ぶよ。父上はおまえに期待していたもの。ーーおまえはおまえのことだけ考えていればいい。こうして訪ねてくれて、俺を思い出してくれて、嬉しかった」
そうしてルキウスの浮かべた笑みに、キケレイウスは言葉を失っていた。懐かしさは、それを疎んじるべき時でさえ、人の心を捕らえてしまう。
一度であれ、忘れまいと刻んだことならば、尚更。
彼に白いトガを脱ぎ捨てさせたのはルキウスではなかった。候補者の立つ演台を下り、自分のものでない名に票をと乞うたのは、思い出のためだ。彼を彼たらしめる思い出、その道を照らす光輝に、いつまでも眩耀して醒めることがないから。
驚きからキケレイウスを見つめていた選挙民の目がぞろぞろとルキウスに向かった。それを見下ろすルキウスが笑みさえ浮かべないのに、その目の群れは色を変えた。
こういう話は彼らの好むところだろう、と投げやりな考えが浮かぶ。キケレイウスを裏切ってやらないでいるために、諸ケントゥリアが彼にしてやれることはひとつだけだ。投票はそれから滞りなく進められた。
結果を見届け、振り返ったキケレイウスにだけ、ルキウスは目を細めた。それをどう捉えられたとて構わなかった。ああ、こんなものかと、彼自身はそれしか思わなかった。
耳鳴りがする。
いつまでも耳の中で何かが騒いでいる。ごうごうと渦巻くものが耳を塞いで頭まで満たして、気分が悪いのに、振り払う気になれない。
はたと手元を見て、自分が何をしていたか思い出すのにいくらかかかった。
きり、と鉄筆が引っかかる。書き損じになる前に手放したそれが机の上を転がっていった。一度咳をすると喉は言うことを聞かない。
空咳を繰り返すうちに、書きかけの書面にばたばたと染みができて、舌打ちをしたい気分でパピルスを裂いた。なおも喉を迫り上がってくるものを手近にあった布で押さえても、胸を掻き毟りたくなる心地が酷くなるばかりでどうにもならない。
「ルキウスさま?」
高く、揺れた、か弱い声。
肩越しに振り返った先にあった子供の目が、ルキウスの手元に向かう。赤く汚れた布と相手の様子とで、プブリウスは理解できてしまった。
踵を返しかけた子供の腕を捕らえ、込められた力に怯んだプブリウスの胸倉を掴んで引き寄せる。つま先で床を掻いた子供の目を覗き込んだ。
「誰にも言うな」
「でも」
「胃が荒れただけだ、騒ぐようなことじゃない」
「でも、それだけなら、医者に診てもらえば」
必死に言い募ろうとした口がそれ以上動かず、母親に似た目が揺れる。相手を見返すのに耐えきれなかったプブリウスが俯くとルキウスは手を離した。耳を澄ませてみると玄関から話し声が聞こえてくる。女中が使いに出て、取り次ぎのできる者がいなかったのだろう、乳母を生家に返していくらか経っていた。
「……ひとりじゃないんだろう。誰と来た」
言ってみたところで数は限られる。この子供を連れて来たのが誰であろうといまよりましな気分になることはないだろう。
口元を拭って布を捨てる。無理矢理水を飲み下して、顔を洗えればよかったがそこまでする暇はなかった。部屋に置き去りにされかけたプブリウスがはっとしてルキウスを追った。
「ルキウスさま、待って」
柔らかな手がルキウスの指を握る。怖気のするほど温かい手が。
「今日は、アエミリアさまのお誕生日のお祝いをどうするか、相談に来たんです、ルキウスさまに絶対に来てほしいってみんな……」
「うるさい」
「スキピオさまがーー養父上がとても心配なさってるんです、いつもルキウスさまはどうしてるか気になさっています。お願いだから」
「うるさい!」
がつ、と手に伝わった衝撃は軽いものだった。
壁に背を打ちつけた子供が、何が起こったのか分からないと言うように殴りつけられた目元を押さえた。へたり込んだままルキウスを見上げた、幼い顔から血の気が引く。
「構うなと言うのが分からないのか」
震え始めた子供に手を上げる者など、この世にひとりとしていなかったはずだ。
瞠られた両目に涙が浮かぶ。それが痛みによるのか恐怖によるのか、いずれにしろルキウスをいっそう苛立たせた。この子供が義理の甥となって三年、まともに関わってこなかったことが全て無駄になった。
「ーープブリウス?」
兄が愕然として立ち尽くしていた。弟とプブリウスとを見比べて事態を察した彼の後ろから、ポンペイウスが子供に駆け寄る。プブリウスを立たせた少年は物言いたげに庇護者を見たが、賢明にも口を開かなかった。
しかし部屋から連れ出されかけたプブリウスが、養父の外套を握る。
「僕が、……僕が失礼なこと、だから」
「……ありがとう、いいんだよ」
その手を下ろさせた兄は彼の養子を見なかった。見れば怖がらせると分かっていたからだ。ルキウスを真っ直ぐに見た、若草色の瞳は、彼が彼の父の子である証だった。
「許さない、と……言ったはずだ。忘れていないだろう」
窓を閉め切って部屋は暗く、踏み入った兄の姿は一瞬、ただの影のように映った。
「ルキウス、叔父上でも母上でもない、私が許さないと言った。理由は聞かない、どうせ聞いたところで許せるものではないだろうから」
「大袈裟だな。手加減はしたし、あいつが自分で言ってただろう」
「あの子が殴られなくてはならないようなことをするはずがない。ましておまえに対して」
「そんな度胸のある奴じゃないって?」
弟を睨み上げた顔を、ルキウス以外の誰も知らないだろう。風が吹けば飛ばされてしまいそうな風情の優しい兄が指先まで怒りを満たすのは、自制を捨てられる相手の前だけだ。
それでも、怒鳴るような真似はできずに彼は深々と息を吐いた。
「私は、もうおまえに声をかけずともいいと思っていた。母上の心労を増やすだけ、場を乱すだけなら、手紙を寄越してくれればそれでいいと。けれどプブリウスが……」
一丁前に嘘をついて引き留めようとしたのか、とルキウスは鼻白む。それを見て取って兄は眉を顰めた。
「なぜそうもあの子を嫌う? あの子の幼い頃には遊んでやっていただろう、プブリウスはおまえに贈られた玩具の剣を弟にやらずに今も持っている、今もおまえを」
「あいつは俺たちの代わりをするんだ!」
足のふらつきを堪え、嫌な鼓動を繰り返す胸を抑える。兄からもこちらの顔色までは見えていない。
ーーその祖父の特徴を継いだと言われ、母親に似た面差しの、あの子供を見るたびに、灰が降り積もる。何が焼かれているのか、何が焼くのか、分からないふりができたうちはよかった。
「俺は、あいつがパウルスの次男なら大丈夫だと思うさ。だがスキピオの長男じゃあ、だめだ。あの子供に負いきれやしない」
まだ幼く、知らずにいるうちはいい。自分を見る誰も彼も、自分の名を聞いた者たちが、どんなふうにその態度を変え、眼差しを変えるか。囃し、笑い、期待を寄せて、似ていると言い、似ていないと言う。優っていると言い、劣っていると言う。
届くはずがないと信じながら、足掻き続けろと。
それにあの子供が耐えられてしまったら。
「ーーおまえの代わりではない、私を継ぐ子だ」
兄の声は冷ややかで、軽蔑に沈んでいた。
「おまえは逃げているだけだ。逃げることにも徹せられず、立ち向かうこともできずに甘えている。父上の威光を恐れ、人々の愛敬を恐れ、おのれの無能を恐れて背を向けているだけの男が、私の息子に手を触れるな」
ルキウスに背を向け、兄は振り返らなかった。子供らを連れて家を出る物音が聞こえなくなってから、ルキウスは机の前に戻った。新しいパピルスを机上に広げる。もう受け取っても開いてももらえないかもしれないが、いま書かなくては、何も書けなくなってしまいそうだった。
眼前で繰り広げられる修羅場を、他人事として眺めていた。ともに昼過ぎまで微睡んでいた女が闖入者の頬を強かに打ったのを皮切りに、聞き取れないほどの罵詈雑言、相手の男が手を上げかけると女の手が出る。
ルキウスの前では淑やかなふうでいたのだが、兵士も逃げ出しかねない威勢だった。対して男は恩知らずだの間男だの……間男? 旦那どころか決まった相手もいないという話だったが。そういうことにされてしまったのか。
女に勝てないとなって、男がこちらを見る。部屋の外にこの家の使用人が集まってきているのかなんだか騒がしかった。
怒鳴り声が頭に響く。何を言っているのだか入ってこず、ぼんやり見返すだけのルキウスに男が首まで紅潮させて振り上げた腕が、不自然に止まった。止めようとしていた女がぽかんとして腕を捻り上げた人物を見上げる。
グラックスはルキウスを一瞥し、女にだけ礼儀正しく非礼を詫びた。
「彼と話がある、いいだろうか」
怖気付いた男がそそくさと部屋を出るのを、そのまま帰れと女が追い立てていく。グラックスはそれを見送り、やっと静かになった部屋でルキウスを見下ろした。いつかもこんなことがあった。
「ずいぶん彼女に貢いだらしいが、相手を間違えたな」
「だって可愛かったんだよ、騙されてやりたくなったんだ」
それに、我儘を聞いてやるといくらでもここにいさせてくれた。さして売れない女優には様々に社交が必要だろうに、ただ居座っているだけのルキウスに優しかった。
こんなところに、グラックスは場違いだった。彼個人の楽しみで訪れていたら、別に悪いことではないが妹はどう思うだろう。十六歳になったミノルは、婚約から今日までの間に長い時間が横たわる意味を考えられるようになった。
「もうここに来るのは止した方がいい、次は殺されるぞ」
「どうかな、それも悪くはないけど」
「ルキウス、冗談で言っているのではない」
「さっきの奴、怒ってたものな……そんなに好きならもっと構ってやればいいのに。あんなに素直な女そういないよ」
「ルキウス」
「あんたもこんなとこまで、兄さん、じゃないな……ミノルの頼みか? こんなのに婚礼に並ばれたんじゃ、あいつも……」
「いい加減にしろ!」
肩を掴んだ手が、ルキウスに顔を上げさせる。怒気を露わにしたグラックスは、ルキウスが呆けたようにただ見上げるので顔を歪めた。
「彼女は何も言わない。言うべきではないと心に定めておまえを待っている。一体どれだけの者が今もおまえを待っていると思う。立ち戻るべき場所があるうちに心を入れ替えろ、これ以上誰かの恥となるな」
「誰か」
それは目の前の相手か、妹のことか。ルキウスに法務官職を与えてしまったキケレイウスか、彼のために票を投げた市民か。会わずに避け続けている母か、同じ名を持つ者たちか、あの子供か、それとも、
「ルキウスーー」
グラックスが顔色を変えた。
喉を迫り上がったものを吐き出す。ごぼごぼと溺れているような咳が続けて出て、口元と手に温かいものが広がる。手に受けきれなかった血が毛布に落ち、その上にまた雫が落ちた。
酒浸りで胃や喉が荒れているのだという雑な嘘をあの女は信じていた、素直で、愚かだから。だから好きだったし、どうでもよかった。
しっかりとした腕が傾ぐ体を支え、汚れるのも厭わずに頬に触れた。覗き込んでくる緑がかった暗い色の眼が幾重にも重なって見える。
「ルキウス、しっかりしろ、ルキウス!」
大したことではない、休めばましになるのだ、そう言うのよりも目蓋が落ちる方が早かった。誰かを呼ばわる声、ルキウスに呼びかける声を聞いたが、おそらく応えることはできなかった。
手が幾度も彼に触れた。
熱や痛みに不安になって泣く幼子を乳母はいつも腕に抱いて、眠るまで下ろさなかった。母が兄の看病にかかりきりになって次子に構えない時には、子守がついて慰めに物語を聞かせた。兄は自分が起きられる時に弟が寝込んでいると、止せと言いつけられているのに顔を覗きにやってきた。
母がいくつも貰い歩いたお守り、歩き始めたばかりのコルネリアが摘んだ花、叔父が持ち帰った遠方からの土産、ナシカが見舞いのかわりに書いて寄越す手紙、自分に似てしまったのだと嘆く父が、子の手を捧げ持ち祈るように繰り返した名前。
「ルキウス……!」
眩しくて、それが誰だか分からなかった。
ぬるい雫が頬に落ちる。眼が壊れてしまったのかというほど涙を零して兄がルキウスを覗き込んでいた。
瞳だけを動かして彼を見た弟に、彼は握った手を額に当てた。兄の手にはルキウスの熱が移って、痛いほどの力が込められていた。
「……もう……目を開かないかと……」
三日も眠っていたのだ、と震えてままならない声で言う。
明るい部屋には見覚えがなかった。鈍った頭が、新しい屋敷だと答えを見つける。兄は父から継いだ屋敷を処分して、新しく屋敷を建てていた。そこにルキウスの部屋はないから、ここは客間だろう。
様子に気がついた女中が医者を呼び、兄はそばを離れた。どうしてこうなるまで放って、そのうえ不養生を続けたのかと、長い付き合いの医者にまで叱られる。
きつい臭いのする湿布を胸に貼られ苦い薬を飲まされて、ひと心地ついたルキウスの枕元にまた兄が座った。赤い目をして、彼の方が倒れてしまいそうだった。
何を言うべきか、思いつかないでいるうちに兄が先に口を開く。
「プブリウスが黙っていたことを謝っていた」
「……殴って、黙らせたんだよ、俺が」
「そうだね。それでも私に話すべきだったと泣いていたよ」
優しい、いい子だ。噛んで含めるように言うのに浅く頷いた。殴られた腹いせにあることないこと言い立ててもよかったのだから。
「アマラはたとえ疎まれてもそばにいればよかったと……」
「腰を痛めて、もう働けないのに? 兄さんなら、老いた乳母を見捨てたりしないだろ」
吐息まじりに掠れた声は、休み休みでないと続かない。浅くしか吸えない息が重苦しく、胸に痛みがあった。もう少し、長く放っておかれていれば、あの女のところで死んでいただろう。半ばそれを望んでいたから、ルキウスの様子に兄が喉を詰まらせるのが不憫だった。
「いまも怒っているんだろ」
兄の目にはまだ涙が浮かんでいる。優しさを、その雅量を褒められて、穏やかでいることで体を労ってきた彼に、そんな涙は重荷だった。
「怒っているのが私だけだと思わない方がいい」
「……グラックス?」
「彼も怒っていたけれどね。彼ばかりではない、皆……」
暫しの瞑目は、痛みを堪えるためだろうか。目を開き、背筋を伸ばした、彼の顔は家長のものになっていた。
「おまえは職務を蔑ろにし、その誉れにあたわぬと自ら示した。そして……もはや務め上げることのできる状態ではない、そう皆で話し合った。ーールキウス、左手を出しなさい」
そこに嵌められた金の指輪、掘り込まれた印章の図像を、ルキウスは久しぶりに見つめた。父の横顔は記憶されているままにそこにある。
持ち上げた左手を兄が取る。痩せた指から簡単に抜き取られた指輪を彼も見つめ、手のひらに握った。
軽くなったと思った。漣ひとつ胸のうちに起こらず、それどころかずっとざわめいていたものが静かになったと。兄も同じように思ってか、目の合った弟が笑うのを彼は訝しまなかった。
「兄さん、俺も、ローマで死ぬのは嫌だな……」
ならばどこでとは問わず、兄は頷く。
「けれど帰ってきてくれなくては困るよ。父上もいらっしゃらないのに、ひとりであそこに入るのは寂しいもの」
「……兄さんが、それでいいなら……」
許してくれるのならば、戻りたくないとは言わない。
話し疲れて目蓋が重く落ち掛かる。明るすぎる光から目を覆った手が、眠るまでずっとそこにあった。
窓からそっと下ろした足が、湿った感触の土につく。振り返った部屋では子守が椅子に座ったまま船を漕いでいて、庭に出る彼を見咎める者はいなかった。
冬の空気が頬を冷ますのが心地いい。この夜更けだ、みな眠っているに決まっている、そう思ったのだが、果樹のそばの人影が彼を振り返った。思わず立ち竦んだ彼が短衣一枚でいるのを見て目を丸くする。
「ルキウス、おいで」
潜められた声に彼は迷わず駆け寄った。父が広げた外套の中に包まれて、そのまま抱き上げられる。子供が裸足でいるので父はどんなふうに抜け出してきたかも分かったらしい。けれど叱らず、小さな体を温めるように支えた。
昼間ずっと眠っていて眼が冴えてしまったとも言わなくていいようだった。月が父の瞳の色も判別できるほど明るく彼らを照らし、だからルキウスにも分かってしまった。
父の目元に触れる。少し赤くなった目で父は微笑った。
「夜ふかししてたの?」
「お母様には内緒だよ」
庭園の奥に建てられた東屋に入り腰を下ろすと、父がぺたぺたとルキウスの頬や首に触れる。
「熱は下がったようだね、よかった」
「ぜんぜん元気なんだよ、母さまがまだだめっていうから寝てたんだ」
「なのに抜け出してきたのかい」
「だって……」
うまい言い訳は思いつかず、父に寄り掛かる。父の手が小さな背中をほんの少しの力で叩いた。そのままルキウスを眠らせようというつもりだったかもしれない。
彼らが抜け出してきた屋敷には、何室かだけ灯りが点いていた。兄の部屋とその隣の部屋にはもうずっと、どんな小さく淡いものでも灯りが絶えないでいる。何が起こってもいいように母や子守がつきっきりだった。
九歳になったルキウスにも、その何かが意味するところくらいは分かっていた。
「昨日、父さまの真似して夜に神殿に行こうとしたら怒られた。昼ならいいかって言ったらそれもだめって。でも兄さまはまだ元気にならないし……」
父がどんな子供だったかは、父の友人たちが面白おかしく語り聞かせてくれる話題のひとつだった。不思議な子だったというのが総評ではあるのだが、ルキウスにとってすれば目の前にいる父親の思い出でしかない。
本当は今晩も見つからなければ敷地を抜け出すつもりだった。そう白状した息子に父は声を立てずに笑う。
「それならあそこに立っていて正解だった。……どうして僕が神殿に通っていたか、誰かに聞いた?」
「ううん、でも叔父さまのためでしょ。叔父さまも小さい頃はなんかいろいろ大変だったって。俺がいっぱい通っていっぱいお願いしたら、兄さまも大人になる頃には元気かも」
「そうだね……」
「元気になったら勉強も訓練も一緒にしてくれるって言ったんだよ、だからお祈りしに行きたい」
兄弟はそれぞれ教師について教わっていたが、父が教えてくれることもあった。体を動かすことすべて、走ることも泳ぐことも控えなくてはいけない兄は、そのせいで父と過ごす時間が減る。父を独り占めできるのは、最初こそ嬉しかったが、本当に最初だけだった。
兄はいつもほんとうに静かで、何がしたいとも言わない。よっつ年下の弟が屋敷の中を駆けて叱られるのを眩しいものを見るように遠くから眺めている。
つんとルキウスの頬をつついて、父が笑みを深める。
「それじゃあ、明日、アエミリアのお許しがもらえたら僕と一緒に行こう。ひとりで行くと言わなければ止められないよ」
「父さまがお祈りしたらちゃんと聞いてもらえるんだよね? ちゃんと元気になるよね?」
「それは……僕らの決められることではないんだ。あんまり欲張るとひとつも聞いてもらえないかもしれない」
「欲張りじゃないよ、みんなできてることだもの」
「ルキウス……」
「みんなできるんだから、できなきゃヘンだって、みんな……」
ルキウスは足が遅いし、体力がなくてすぐばててしまうし、重い剣だって長く持ち上げていられない。胸が苦しくなって立ち止まると同い年の子供たちがルキウスを追い抜かして、女の子みたいだと笑う。睨んだって怖くないと。
それじゃあ兄は何なのだ。兄が教師が舌を巻いてしまうほど優秀なのを屋敷の者はみんな知っている。ルキウスは兄が諳んじてくれる詩を頼りにギリシア語の音を覚えている。兄がルキウスくらいの頃、いまルキウスが習っているようなことはしていなかった。それでも兄は家から出られない。
「ルキウス、顔をお上げ」
ふわふわと優しい声がかかるが、ルキウスはかぶりを振った。泣いてしまったときのからかわれ方はほんとうに酷くて、ついてきていた従僕が拳を振り上げて子供らを追い払った。
それでも目に押し付けた手のひらは濡れて、息は苦しい。母も兄も声もあげずに隠れて泣くのでそうしたかったが、やり方が分からない。ひとりでは泣けなかった。ふと気付いたのは、父が泣くところなどその気配さえ知らないということだった。
「……父さま、泣いてたの?」
父の手がルキウスの手を取る。見上げた顔は屋根で影になってもうよく見えなかったけれど、父の目元は擦ったように赤かった。
「どうして? 兄さまのこと?」
「うん……どんな大人になったって、この世でいちばん大切なものさえ思うように守れないのだとね、情けなくなってしまった。ルキウスにまでそんな顔をさせて」
よく、分からない。我が子の惑いに父は頷いた。いまはただ聞いてくれればいいと言うように。
「心配いらないよ、おまえもプブリウスも。そのまま大きくなってくれればいいんだ。悩むのはなりたい姿を知っている証拠だ、それを目指すおまえたちを誇りに思うよ」
ルキウスを抱いたまま父が立ち上がり、東屋を出る。庭の向こうに見える影は母のものに違いなく、ルキウスは外套にしがみついて眠っている振りをした。
母の手が先程の父のようにルキウスの熱を確かめる。子供の拙い演技に気付いていたのに母はただ細い髪を撫でて、夫への小言も収めた。
両親が小さな声で交わした言葉はよく聞こえなかったのに、寝台に入れられる間際、夜風に紛れてしまいそうな父の囁きは、いつまでも彼のそばにあった。
「夢を見ていてごらん。その夢を忘れないでいれば、大丈夫」